染色師 その1 TOP
ここはなんて豪華で、そして色鮮やかな檻なんだろう。
人々は王宮の人々を憧れと羨望。そしてやっかみを込めて籠の中の鳥と影で比喩するけれど、自由に空を飛べない鳥なんかじゃない。生まれた時から持っている野生の本能と、鋭い牙や爪を隠して獣が閉じ込められている檻だ。生まれて始めて王宮に上がったジユは、色鮮やかな衣や豪華な飾り物で着飾った王宮の人々を見て、そんな想いが浮かんできた。
ジユは都から遠く離れた西のパルハハの山間の小さなゾルハの村で暮らしている。セルシャの国の西の地方は昔から綿の栽培や、養蚕が盛んな土地で、それに伴い織物や染色といった産業で栄えていった。ジユの家は代々染師の家系で、その中でも祖父のグジの腕は王様に献上されたり、王宮に納入する絹織物を織るので、絹糸を染めて欲しいとの話を頻繁に持ち込まれたり、美しく染められた糸なら祖父の言い値で買うという商人もいるほどで、祖父の元にはその技を学びたいと、他の西の地域の染師の跡取り息子が弟子入りして修行に来たり、最近では遠い南の染師まで弟子入りしたいと遠くから願い出てくることもある。
比較的染めやすい赤や青と違い、黄色は土色になりやすく、それだけに染師の腕が如実に問われる。そんな難しい黄色の染めでもパルハハの黄色は美しい色で高値で取引される。そのパルハハの糸の中でも祖父の染めた黄色は黄色と言うより輝く黄金のようだ。染めの仕事は熱いたくさんの湯を扱ったり、付きっきりで火の番をしたり、その湯の中から糸や布を引き上げたり、力のいる仕事だ。なのでこの国では染めの仕事は男の仕事とされていた。ジユの父も兄も弟も家業を継いでいるが、一際美しい色を染められる才能は祖父からジユに伝わっていた。なのでジユは女ながら父や兄、弟や祖父の弟子に認められた男達と一緒に染めを行っていた。
そんなジユが一生縁がないと思っていた王宮に招かれるという夢のような出来事が起こったのだ。事のきっかけは王様は黄色の衣を好んでお召しになるそうで、ある日王宮の仕立室の侍女長との会話の中で祖父の話を耳にして、祖父に関心を持ち、王宮からお召しの知らせがパルハハの領主の元に届いたのだ。
北や南に比べて西は劣っているなど世間で言われて常日頃から悔しい思いをしている。パルハハの領主はこの招きに狂喜乱舞した。やっと王族と近しくなれる。パルハハの領主はほくそ笑んだ。数年前、世継ぎの王子に美人の誉れ高い自分の姪を嫁がせようと目論んでいたのだ。あの子ならきっとご寵愛を受けて、王子を産んでくれる。しかし世継ぎの王子の母で南の出身の王妃が昔かかった熱病が元で子を望めない身体なのではないかなどと難癖をつけて退けたのだ。結局、同じ西のキヌグスの領主の跡継ぎの元に嫁いで行ったのだが、すぐに子宝に恵まれ元気な男の子を産んだのだ。それに引き換え世継ぎの王子の元に嫁いだ東のザルハスの領主の娘も、南の王妃の親類の娘も王子どころか王女さえも産んでいない。あの子が嫁いでいればと、何度悔しく思った事か。やっとわたしも王族と近しくなれる。
パルハハの領主と同じくらい、この夢のような知らせに歓喜したのはジユの兄のヌクだった。憧れの都に行ける!しかも選りすぐりの美女達のいる王宮に行けるのだ!このパルハハではめったに拝めない高貴な美女達に会える!上手くすれば王様から自分も何か高価な褒美を貰えるかも知れない。
祖父は高齢なので一人では心配なので家族の誰かが共に都に上がることになる。もちろん領主やその侍従達も一緒に行くが、その方たちに祖父の身の回りの世話など願う事はできない。本来ならばジユやヌクの父のキドが着いて行くべきなのだが、ちょうど王様からお召しの日は前々から東のタスカナの商人頭のクルがわざわざ遠いタスカナから、パルハハまでやって来て、まとまった取引をする事になっていた。今からタスカナに使いを出しても、もうクル達一行は準備してタスカナを発ってしまっているだし、日頃から金や染め上がった糸の管理はキドがしていた。祖父のグジは染めに関しては天才的な才を持つが、金や荷の管理などにはからっきし向いていなかった。
父さんが着いていけないのならば長男の俺が着いて行ける!とヌクは一人舞い上がっていたが、キドと母のナリはまたヌクの悪い病が出やしないかと心配した。
そう美しい女に目がないという病だ。ヌクには嫁のカクがいる。二人が出会った頃は美しい娘であったが、嫁に来て家族の世話だけでなく、一緒に生活している何人もの弟子の男達の食事や洗濯、身の回りの世話もしなくてはいけない。姑のナリと忙しくしているうちに、自分の事は二の次にして身なりにすっかり構わなくなっていた。そしてヌクは今年の春のパルハハの祭りでついに悪さを起こしたのだ。
祭りで若い美しい娘に、まだ自分は染めばかりやっていて嫁がいないなどと嘘をついて言い寄っていたのだ。娘もすっかり騙されて二人寄り添っていたのを、ちょうど祭りに以前同じ西の領地のセズトロから祖父の元に修行に来ていた男も来ていて、偶然それを見てしまった。修行中にカクには本当にいろいろ世話になった。慌ててキドとナリにこっそり知らせに飛んで来たのだ。知らせもなくいきなりわざわざセズトロから、ゾルハの村に急に来たのだ。キドとナリだけでなく、ジユも弟のナド、そしてカクもびっくりした。男は挨拶もそこそこにキドとナリに話があると言って、家の奥に入って行ったのだ。
話を聞いて父も母も慌てた。カクはいつも本当に大変なこの家に嫁に来てくれて、不満も言わずに良くやってくれている出来た嫁だ。そんなカクに申し訳ない。それに騙された娘やその親にも申し訳ない。夜になって酒に酔って上機嫌でやっと家に帰って来たヌクに父と母は詰め寄った。すっかり酔いが覚めて、平謝りのヌクに父は激怒し、事実を知ってしまったカクは大泣きして子供達を連れて里に戻ると言い出し、母は泣きながらそんなカクに謝りと、家族は大騒ぎになったのだ。ジユも義姉のカクに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もちろん兄のしでかした事も申し訳ないが、本来染師の家の娘に生まれた娘ならば、母と同じように染師の元に嫁ぐか、婿を迎えて夫の染めの仕事を影で支えるのが常である。
母のナリも同じ西の領地の1つのカリヌルの代々染師の家の娘で、染師の夫を影で支える母を見て育ち、この家に嫁にやって来た。しかしジユは母や祖母、そして顔は知らないが曾祖母やその母。代々の女達と同じような道を歩かず、自分は染めをやっている。その代わりを義姉のカクがその役を担ってくれている。元々カクは染師の娘でなく、祭りで兄と知り合った馬車屋の娘である。父と母はある妙案を思い付いて、祖父のグジに伝えた。これならヌクも反論できまい。カクが泣いて怒ってこの家を出て行ってしまったらグジも困る。母一人ではとてもこの家のことをやっていけない。グジもこの案を受け入れた。
都にはジユを連れて行く事にする。そうグジは父やジユや兄、弟のナド、そして弟子の男達のいる作業場で皆の前で伝えた。慌てたのはヌクである。夢の王宮に自分が行けると思っていたのに、ジユを連れて行くなんて!慌てて直ぐ様、反論した。父が行けないのであれば、その跡継ぎの長男の自分が着いていくのが筋ではないかと。しかしグジは、王様がお召しなのは染師なのだ。
そもそも今回わしにお召しがあったのは、わしの染めに関心を持たれたからだ。本来わし一人で参上するべきだが、老いぼれなので特別にもう一人連れて行かせて頂くのだ。目下の者が呼ばれてもいない者をぞろぞろ引き連れて行く訳に行かないだろう。それならわたしでいいじゃないですか!ヌクは慌てて言い募った。そのことばにグジはこう続けた。
王様は染師を召したという事は、王様の御前で染めについて、いろいろ聞かれるのだぞ。御前で染めの技を披露しろなど命があったらどうする?そこで王様のご満足する色が出ない失敗でもおかしてみろ。王様の御前で領主様の面目を潰したとなったら領主様は烈火のごとくお怒りになる。いいや、それだけでは済まないのかも知れない。王様の命に背いたと、どんな罰を受けるのかも知れない。
さすがにヌクは事態の大きさに慌てた。褒美どころか厳罰が下ったら。さすがに青ざめた。グジはきっぱりと、そこでジユを王宮に連れて行くことにした。と皆の前で言った。
ジユの染めの才はここにいる誰もが認めている。兄のヌクもその事は嫌というほど分かっている。いくら自分がどれだけ努力しても、妹のジユの腕を越える日は永遠に来ないことも。妹の染めの才に秘かに何度悔しい思いや嫉妬したことか。幼い頃からの苦い記憶が甦る。ただ妹は、神様から染めの天与の才は与えられたが、それとは引き換えに普通の娘のような女としての幸せは与えられない運命なのかとも、薄々気がついていたし、口には出さないがそれが不憫でもあった。
普通の女の幸せと引き換えに、染めの才を与えられた。自分の妹ながら、どうしてジユにはそんな運命が与えられてしまったのか。ヌクはグジの話を憮然とした顔で聞いている妹のジユの横顔をそっと見つめた。
降って沸いたような突然の話にジユは憮然としていた。兄のヌクの染めの腕も決して悪くはない。25歳と染師の中では若いのにパルハハの染師の中でも10本の指には入るであろう。なのになぜ女の自分を連れて行くのか。不思議に思い、ふと祖父の横にいる父のキドの顔を盗み見た。
急に降って沸いたような突然の話が出たのに、父は驚いていないようだ。そういう事か。今回の決定は父と母の差し金で決まったに違いない。ジユは二人の真意に気がついた。兄のヌクを都に行かせない為のこじつけだ。親や嫁の目の届かない美しく女のいる都になんて行ったら、今度は嘘をついて娘に言い寄る処でなく、もっと大きな悪さをしでかすかも知れない。兄は染めの才はあるのだが、どうも美しい女に弱いという悪い病がある。そしてそれはきっと祖父のグジから血を受け継いでしまったのだろう。そう、祖父のグジも美しい女にはからっきし弱かったのだ。ジユは秘かにため息をついた。
そんな二人を一緒に都には行かせられない。ジユは特別都に行きたいとか、まして自分とは縁のない遠い世界の王宮になど関心がなかった。しかし今回は自分が行くと言わないと、また家族の中で一悶着起きそうだ。特に義姉のカクには常日頃から引け目を感じているので、カクの為にも自分が行かなければ。それにきっと王宮にお召しなのでパルハハの領主から、いくらかの支度金が渡されるであろう。その金でいつもの罪滅ぼしに、都でパルハハでは売っていないような美しい珍しい飾り物など買って、義姉に贈ろう。それで娘時代の時のようにまた美しい姿になったら兄も少しは心を入れ替えるかも知れない。
ジユは皆の前でこう、はっきり言った。あたしを王宮に連れて行ってください。祖父のグジとジユは急いで旅支度を整え、領主様のいるパルハハに向かった。今回の旅支度もほとんど母のナリと義姉のカクが整えてくれたのだが。祖父の薬を一つ一つどの順番に飲ませるのか、すぐに分かるように、薬の包みの色をわざわざ替えて包んでくれていた義姉の優しさに、ジユは胸が痛かった。
パルハハに着いてすぐ領主の館に向かった。今回の栄誉に気を良くしたパルハハの領主は満面の笑みで二人を迎えてグジとジユを手厚くもてなしてくれた。宿ではなくそれぞれ館の一室に泊めてくれたのだが、慣れない豪華な館のふかふかでそれでいて厚い寝屋でジユは落ち着かず、パルハハまでの馬車の旅で疲れていたのに、かえって寝付けなかった。盛大な歓迎の宴の翌日に、領主の侍従がグジとジユに今回の都までの旅の日程とその準備に着いて説明してくれた。パルハハから都へは都への街道を使い、領主の馬車三台で向かうことになった。
パルハハからまず母のナリの生まれ故郷でもあるカリヌルの領都まで行き、そこからセズトロ、キヌグスとそれぞれの領地を通り、それぞれの領都で泊まり、最後に西の領地で一番都に近いトラエグに着いて都に入る。馬を休ませ、またそれぞれの領地に着いたら領主がそれぞれの地を治めている領主と会い、歓迎の宴などにも参加するので、普通ならパルハハから都へは8日で着くが、倍以上の20日も掛かるそうだ。それでグジとジユにやたら一日でも早くパルハハに来いと使いの者が言っていたのか。王様にお目にかかる日はまだ一月の半分もあるのにと家族は首を傾げていたのだが合点がいった。
ジユは領主様や貴族様というのは、つくづく面倒な生き物だなと思ってしまった。同じ西の領地とは言え、やはり場所によって取れる物や気候は違ってくる。文化や風習も領地によって異なっている部分もあった。
良く母が隣の領地であるカリヌル領の村からパルハハ領のゾルハに嫁いで来た時に、些細な風習の違いにびっくりした笑い話をするが、お互いの領地に対する対抗意識や、同じ西の領主同士でも実は表面上は仲良くやっているが、本当気に食わない相手だっているのだろう。それを隠して宴会などでは、さも仲の良いように振る舞うのか。馬鹿らしい。口には出せないがジユは昨日の夜の宴で浮かれているパルハハの領主の姿を思い出し、心の中で悪態をついた。
昨日は疲れているのに宴に引っ張り出されて、舞だの芝居だの披露されたがジユにとっては何も嬉しくも楽しくもなかった。美しく妖艶な舞師が目の前で舞っていて、祖父はご満悦だったが。まあ料理は豪華で美味しかったが、酒を飲まないジユにとっては宴席は退屈であった。しかも昨晩は良く眠れなかったので不機嫌だが、さすがに相手が相手だけに口には出せず、むっつりと黙って侍従の話を聞いていた。
そもそもジユは望んで今回の旅に出たのではない。家族と義姉の為だ。上の空で話を聞いていたジユに侍従が声を掛けてきたので、慌ててジユは意識を目の前に戻した。
そなたの衣はどのような物がいいか、望みがあったら言ってみよ。ちょうどキヌグスの領主の跡継ぎのクメルア様の元に領主様の姪のサアンゾ様が嫁いでおられるのでキヌグスには数日留まる事になる。そこで王宮に上がる際の衣を用意するが、先に使いの者を送って準備しておけと領主様のご命令だ。好みの色や刺繍の柄の希望はあるのか?なければこちらで手配するので、衣の大きさが分かるよう、キヌグスでそれは返すので、今持って来ているお前の衣を一つを渡して欲しい。
キヌグスの領主の跡継ぎに嫁いだ姪の話は昨日の宴の席で、ジユの耳にも入ってきていた。どうやらかなりの美女らしく、夫のキヌグスの領主の跡継ぎは美しい嫁にすっかり夢中だそうだ。嫁いですぐに子宝に恵まれたのも、さぞや夫は喜んで毎夜毎夜美しい嫁にむしゃぶりついたのであろう。ジユの脳裏には、ある男の姿が浮かんできた。
引き締まったすらりとした背中。逞しい腕に、大きな肉厚のかさついた手のひら。いつも染料で染まった爪。見かけよりずっと柔らかい黒い髪に、染料と汗の混じった匂い。ジユがはじめて知った男のトワであった。
西の領地で都に一番近いトラエグ領のザウワの町の大きな染師の家の跡継ぎであったトワが祖父の元に修行に来たのは三年前の時、そうジユが十六歳のときだった。
同じ西でもトラエグの染めはパルハハの染めよりかなり劣っていると言われていたが、何分都に一番近いのですぐ手に入ると重宝されていた。各地方の領地から都に急いで出仕してすぐにでも新しい着物がいる者、都に来たのだから記念に何か新しい着物でも仕立てる者。またマルメルやオクラメの使節に同行した者や商人達。都では常に一見の客で新しい着物を欲しがる者は山ほどいる。このセルシャの国で何も染められていない着物を着るのは親や子や夫や妻が亡くなった葬儀の時だけだ。平時に色のない着物を着るのは非常識であった。
トワの家の工房でも、色の美しさや仕上がりより、ともかく素早く大量の染めを行い、それで工房は十二人もの染職人を抱えられていた。しかしトワはそんな状況に歯痒さを感じていた。トラエグの染めをもっと良くしたい。パルハハの染めと何が違うのだろうか?気候や地形が違うとは言え、同じ西だ。遠い北や南、東なら分かるが、きっと手掛かりがある筈だ。それにはパルハハ一の染師のグジの元で学びたい。グジの染めたとされる糸を見て、そう思っていた。
染めにはまず糸を染めてから布を織る先染めと、織った布を後から染める後染めがあるが、糸から染める先染めの布の方が倍以上の値がついたのだ。パルハハの先染めの美しさをこのトラエグにも伝えて、後染めばかりのトラエグの染めも変えていきたい。
トワの父もトラエグの染めの現状と息子の染めに掛ける情熱には気がついていて応援したいとも思っていたが、ここ数年長年の染めの作業で痛めていた腰の痛みが酷くなり、おまけに最近風邪を引きやすくなった。早くトワに嫁を取らせ、家を任せたいと強く思っていた。そんなトワが修行を願い出てグジに送った染めの布が認められ、弟子入りを許された。あの厳しいグジが認めてくれたのだ。光栄なことだと父を何とか説得して、しぶしぶ一年間だけ修行に出ることを認めさせた。
トワの両親は一日も早く、トワの許嫁のマフと所帯を持って後を継いで欲しいと思っていたのだ。マフはトワの母と同じセズトロの織師の家の娘だ。染師の娘ではないが、織師の父を見て育っているから、染師の嫁としてもやっていけると思うし、控えめだが芯はしっかりしたいい娘だ。何より姑とは同郷だ。そもそも今回マフとの縁組の話を持ってきたのは妻の里だ。マフを気に入っている。トワも見栄えは悪くないのだが、染めばかりに熱中していて、心配した両親がマフを嫁に決めたのだ。
修行に妻は連れて行けないので、結婚は修行が終わってトラエグに戻ってからと約束してグジの元にやって来たのだ。一年間という短い期間で学ばなくてはいけない。トワはどの弟子たちよりも必死で学ぼうとした。けれどはじめて染めを学ぶ者ではなく、トワも一人前の染師だ。今すら染めの技で教えることはなかった。そう、ここからはその染め師の感覚のみが頼りの世界だったのだ。自分の経験と感覚。そして神から与えられた天与の才のみが染めの色を決める世界だったのだ。
グジの弟子や息子や孫の中でも、女のジユにグジの才能は引き継がれているのは明らかだった。時にはグジの染めの才より、ジユの才の方が優れていると思った時もあったし、グジも一度だけ、あれの染めの才はわしを越えていると言った。ジユの才に近づきたい。その才の感覚を教えてもらいたい。その感覚を分けてもらいたい。そう思ううちにトワはジユにどんどん惹かれていった。
ジユの方も最初は特に何とも思っていなかったのだが、トワの染めへの熱い思い、そして自分への熱い思いに気づいてしまった。そしていつしか自分も同じようにトワの染めへの情熱を一緒に感じたいと思うようになっていた。
そんなある秋の日に二人は新しい配合の染料作りの為に谷にグスリリの実を取りに来ていた。グスリリの実は色鮮やかな紫の実で、このパルハハの山合でしか取れなかったのだ。
高価で貴重な紫の染料は一族の染師の間での秘密で他の地域から来た弟子達にも明かしていなかった。ジユは、それでもどうしてもトワにだけはこの秘密に教えたくて祖父や父にも嘘をついて二人別々に出かけて落ち合って、グスリリの実のなる人影のない谷まで出掛けたのだ。
いつも常に周りに人のいる大所帯から急に二人きりになり、お互いの気持ちに歯止めが効かなくなっていた。関を切ったように二人はお互いを求め合ったのだ。もちろん16歳のジユは生娘であった。嫁入り前にそんなことする娘は嫁に行けないだの、春を売る者だと世間では言われているが、そんなことは頭からすっかりなくなっていた。
ただ目の前に愛する男がいて、相手も自分を愛している。余裕のない表情でいつもに増して熱い視線を自分に向けてくるトワに、ジユは自分から口づけていた。それがジユの自分の視線への答えだと気がついたトワは、激しく舌を絡めてきた。最初はどう応えたらいいのかジユは分からなかったが、それでも自分も同じようにトワの求めに応じて激しく舌を絡めてみた。口の中でお互いの舌と舌が激しく絡み合い、お互いの唾液が混じり合う。
生まれて初めて味わう不思議な感覚だった。トワはジユの着物の帯を解き、秋の二重に重ねて着ている着物も荒々しく剥いでいった。染めや織りを生業としている者達は、普通なら一枚の着物を作るのにどれだけの労力が掛かっているのか知っているだけに、決して着物を雑に扱わない。そんなトワが余裕のない様子で自分の着物を脱がしていくのを、何とも言えない気分で見つめた。
きっと他の誰もが知らない、そうセズトロにいるであろうトワの許嫁のマフも、こんな余裕のない表情で、愛する人を抱きしめようとしているトワの姿を見たことはないだろう。そんな姿をあたしだけが知ってる。そう思うと、それほど豊かでもないジユの胸の頂きが固くしこってきた。今まで体感したことのない不思議なむず痒さにジユはどきどきして、落ち着かないように視線をさ迷わせた。
そんなジユにトワは嬉しそうに女が胸の頂きを尖らせるのは、相手のことを想って気持ちいいと感じたからさ。染めの感覚は誰よりも分かっているお前でもこれははじめてなんだなと言い、肉厚の大きな手のひらでジユのその固くしこってきた胸の頂きを優しく、そう触れるか触れないか分からないくらいの手つきでくすぐるように撫でてきた。染めの仕事は冷たい水に糸を漬けたり、熱い湯に潜らせたりするので、染め師の指は皆荒れて、かさかさしている。
トワもかさついた大きな手のひらをジユの肌の上で滑らせていく。そのくすぐったさにジユが身をくねらせると、更にトワはその胸の頂きを染料でいつも染まっている爪で軽くつねったり、引っ張ったりしてから、まるで乳をねだる子のようにジユの胸の頂きを口に含んで、激しく吸い付き始めた。まるで大きな赤子のようなトワの姿に、誰から教えられた訳ではないのに自然とジユの指もトワの頭を優しく撫でていた。
トワの見かけより柔らかい黒髪が毎日の染めの仕事でトワと同じようにかさついているジユの指に絡まる。トワのかさついた指が胸だけでなく、ジユの腹や腕まで優しくなぞって行く。そして最後にジユの手のひらを優しく撫でてから、自分の手にジユの手を包んで、ぎゅっと強く握り締めた。その途端にジユの誰にも見せたことも、そして自分でも見たことのない身体の奥の泉から泉の水がどわっと一気に溢れてきているのを感じた。尿意とも違う、不思議な身体の奥からの感覚にジユは、もじもじと足を擦り合わせた。そんなジユに更に嬉しそうに、そしていとおしそうに視線を送ったトワがいきなりジユの手に、自分の男の剣を握らせた。
何も言わずに視線だけで、一つになっていいのかと問うてきている。ジユも何も言わずに、ただこくんとトワの瞳をじっと見つめ返して頷いた。トワはジユの股の間に自分の引き締まった身体を入れると性急にジユの足を思い切り左右に開き、そしてジユの泉の中に自分の剣を収めていった。もちろん泉の奥はひりつくような痛みもあったし、こんなに足を開かれて足の付け根も痛い。それでもトワと一つになれた喜びと、身体の奥底に眠っていた不思議な悦びが一緒に沸き上がって来た。
トワがジユの腰に手を回し、余裕のない、そうまるで暴れ馬のように何度も激しく突き上げてくる。次第にジユの口からは声とも吐息ともつかないような甘い、そうまるで盛りのついた猫のような音が漏れてきていた。まるであたしたち、獣みたいだわ。そうジユは薄れていく思考の中で思った。きっとあたしたち、本当は人じゃなく獣なのかも知れない。トワの引き締まった背中にジユは腕を回して掴まっていないと、どこか遠くに飛ばされてしまう。そんな気がするくらいだった。
トワの背中につうーっと汗が流れ出ている。トワの酸っぱい汗の匂いと染料の甘い香りが混じった嗅いだことのない不思議な香りがジユの鼻孔を刺激してくる。二人の鼓動の速さも、体温の熱さも、漏れてくる声も、身体の奥に伝わってくる悦びの波の大きさも、一緒になっていく。すべてがぴったり一つになった。そうジユがおぼろ気な記憶の波の中に漂い、ただ身体と心の波に心地良く身を委ねている時に、本能的にそう感じた瞬間、ジユの泉の奥に熱い濁流が一気に渦を巻いて激しく押し寄せてなだれ込んできた。その瞬間、ジユの意識はふっと遠くの、今まで行ったことのない世界に吹き飛ばされた。お互いの想いを認め合い、身も心も一つにしてしまった二人はもう歯止めが効かなかった。
ジユもトワもマフには本当に申し訳ないことをしてしまったと分かってはいたが、お互いへの想いは止められない。
何も知らないマフから一人生まれ故郷のトラエグを離れて遠いパルハハの修行先で頑張っていると思っているトワに体調を崩してはいないか、食べ物は口に合うのかなどトワを気遣う文と新しい暖かい織りの着物や、風邪に良く効く薬などが送られてきていた。文の最後には、あなたが尊敬する師匠の元で修行して、今以上の素晴らしい染師になってトラエグに戻って来るのを待っています。と書き添えてあった。
マフの痛いほどの優しさを感じてトワの胸は痛んだが、それでもジユへの想いは止められない。表向きは何事もなかったのように装おって振る舞っていた二人であったが、愛するジユと同じ染めの道を一緒に歩んでいる。その喜びからか、トワの染めの色が今までにない美しい色を染め上げ、またジユの染めも今まで以上に、そう美しいだけでなく艶めいた鮮やかな色を何色も染め挙げた。
二人の染めの変化に周りは気がつかない訳がない。父のキドも母のナルももちろん気がついていた。トワは染めに情熱を持っているいい染師だし、何よりジユの染めの才能を誰よりも認めてくれている。トワの許嫁には申し訳ないが、ジユとトワが一緒になってくれるのを二人は秘かに願っていた。
もしその許嫁に今回の破談の詫び金を払う必要があるのならば、いくらでも金を借りてでも払うつもりでいたし、その娘が望むならばトワの代わりとなる素晴らしい婿のいる嫁入り先を付き合いのある王宮の代々お抱えの絹織物屋の伝で探してもらうことも本気で考えていた。トワもマフには誠意を込めて、できるだけのことをするので結婚の約束はなかったことにしてもらい、ジユを自分の実家のあるトラエグに連れて行き、二人で一緒に染めの道を歩いて行こうと考えていた。
染師の父とやはりセズトロの染師の家の出の母ならば、きっと分かってくれて、ジユを喜んで嫁に迎えるだろう。何と言ってもジユはセルシャの国一の染師のグジの孫で、その才を誰よりも継いでいる。そう想ってトワはトラエグの父の元に思いの丈をつづった文を送った。
もうすぐ約束の修行期間が終わり、トワがトラエグの実家に戻る事になる数日前に、トワは師匠である祖父のグジ、そしてジユの父と母であるキドとナルに、ジユを嫁にもらいたいと願い出てきた。両親はその願いに嬉しさを隠せなかった。
トワは何とかマフとその両親に詫びて、今回の話はなかったことにしてもらう。その事で自分がどれだけ周りから悪く言われてもいい。ジユを大切にすると言ってくれた。トワの本気の想いに両親はジユの嫁入りを認めた。
ただ祖父のグジだけが一言、正式に嫁に連れて行くと決める前に一度だけトラエグにジユを連れて行って、そこで一回染めをさせて欲しいとだけ言った。大切にして欲しいや幸せにして欲しいでもなく、一回染めをさせて欲しい。これから一生二人で一緒に染めをやっていくつもりのトワは、師匠でもあるグジのことばの意味が分からなかった。
トワの父からの返事にも、最近お前が染めたという糸を見たが、その嫁になるジユという娘のおかげなのか。今までに見たことのない素晴らしい色の染めだ。さすがセルシャの国一の染師の孫だ。マフには申し訳ないが、その娘を嫁に迎えるのはわたしは大賛成だと綴られていた。グジからの願いもあり、トワは一度一緒にトラエグのトワの生まれ育った家へジユを連れて行くことにした。
トラエグまでの旅の数日間、二人は夫婦だと偽って宿の同じ部屋に泊まり、夜は寝屋の中で愛し合った。トワとの交わりは、元々同じ者同士で何故か二つに別れてしまっていた者が一つに戻る。そんな想いがした。トワの広い腕の中に包まれ自分の耳をトワの胸に当て鼓動の音を聞いていると、なぜかまるで母の腕の中に抱かれた子供のように、ほっとして落ち着く。これから一生二人で一緒に染めをしながら生きていく。そんな希望に胸を膨らませて二人はトラエグのトワの実家に着いた。
トワの実家は、トワの父の他に12人もの染職人を抱える大きな店であった。祖父の元にも弟子の男達はいるが、祖父の厳しい御眼鏡に適った者だけしか弟子として認めないので、今は5人だけが一緒に生活していた。5人の世話でも大変なのに、12人もの職人の世話をしている。これならばトワの両親は一日も早く嫁を貰って店を支えて欲しいと思うだろう。そうジユは思った。
トワの両親はジユを歓迎してくれた。特にトワの父は国一の染師の孫娘が嫁に来てくれれば、うちの店の染めの技が良くなるし、何より評判が良くなると喜んでいた。自分の里で選んだ許嫁がいるにも関わらず、いきなり息子が嫁にしたいと言い出して連れて来た女なのに、トワに良く似た顔をしたトワの母はジユを温かく迎えてくれた。温かくもてなしてくれた翌日、ジユは早速トワの家の立派な作業場で染めをやってみることにした。
まず比較的染めやすい赤と青の染料で染めを行ってみた。トワも手伝い、いつものように進めてみる。
違う。染め上がった布を見てジユは愕然とした。自分が思い描いた色はこんなじゃない。もっと赤は燃えるように赤くねぼけた赤でないし、青は青でくすんで藍に近いではないか。
染料は自分がいつも使っているのを持ってきたし、手順もここで湯から上げる、水にさらすと閃いた瞬間で進めたし、道具もパルハハの作業場で使っている物とほとんど同じだ。なのにこんな色に染まってしまっている。水が違うのか。空気が違うのか。ジユは愕然としているのに、その染め上がった布を見て、トワの父や職人達は美しい色だ。さすがパルハハ一の染師の孫だと喜んで騒いでいる。
ここではあたしの染めはできない。その浮かれて騒いでいる皆の傍らで無言で立ち竦むトワと、そんな二人を困惑した顔で少し遠くから黙って見つめているトワの母の姿があった。呆然と立ち竦む二人にトワの母が遠慮がちに声を掛けた。まだ長旅の疲れが残っているだろう。ここじゃ人も多くて騒がしいだろうから、隣のトメスの町に行ってみたらどうだい?あそこなら静かで、ちょうど今トメスの丘はサラシュの花が咲き始めてきれいだよ。二人でゆっくりしておいでよ。馬車を呼ぼうか?そう気遣ってくれた。
トワもどうジユに声を掛けたらいいのか分からなかったので、とりあえずここから少し離れた方がいいと思いジユを促した。浮かれている父には母が上手く言ってくれるだろう。
馬車を呼ぼうとするトワを遮り、ジユは少し歩きたいと伝えた。トメスへの道を二人は無言のまま歩いた。馬車でなく歩いたのでトメスに着いたのはもう日が傾きかけた頃だった。トメスの丘にはもう日が傾きかけているので、周りにはあまり人影もない。二人は並んで座り、黙ってサラシュの花を見つめていた。
ようやくトワがジユに声を掛けた。その土地の水によって染料も変わってしまうから、もう一度ジユがパルハハから持ってきた染料ではなく、このトラエグの染料を使って試してみないかと。ジユも黙って頷いてみた。
でも、もし次の染めも。もし次の染めも。もし次の染めも。不安な気持ちは水に染料を入れた時のように直ぐ様拡がっていく。そうまるで心に黒い染料を間違って落とし入れてしまったように。
一刻も早くお互いの体温を感じて、この得体のない不安から逃れたかった。お互いにそう感じていたのだろう。何も言わずに二人はとりあえず目についた宿屋に入った。
あまり流行っていない、寂れた宿屋だ。くすんだ壁に固そうな寝床がぽつんと一つあるだけの狭い部屋だ。直ぐ様お互いの熱を感じて包まれて、何も不安はない。
ただ二人がいるべき場所がパルハハの、そうゾルハの村の染めの工房から、トラエグのトワの実家の工房に移っただけだ。そう思いたかった。ジユは性急に自分からトワの唇に自分の唇を押し付けるように口づけながら、そして布越しでなく一刻も早くトワの熱を直に感じたいとばかりに、まるで着物を剥ぐようにトワの背から着物を落とすと、するりと自分から自分の着物の帯を解くと、肩から羽織っていた着物も脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となり、トワの背中に力いっぱい抱きついた。
朝になって二人揃って帰って来たのにトワの両親は何も言わなかった。結婚するとは決めているが婚姻前だ。恥知らずな軽はずみなことをしたと言われても仕方がないが何もかも分かっているようだった。そう、二人が男と女として、とっくに結ばれていることを。ジユはさすがにトワの両親の前でばつが悪かったが、トワは親に知れてもまったく気にしていない様子だ。
ジユとトワはトワの提案どおりにジユがパルハハから持ってきた染料ではなく、このトラエグの染料で染めてみることにした。
昨日の染めの感覚と比べる為に同じ赤と青の二色の染めをやってみることにした。湯を沸かし、温度で染料の量を加減する。もう何百回もやってきて、身体が自然と感覚で覚えている。それなのにジユはひどく慎重になって何度も染料の湯の色を確かめてしまった。いつも自分がこれだと思う感覚でぱっと一瞬にして糸や布を浸すジユとは思えない。いつもの数百倍も慎重に作業を進めて、赤と青の二枚の布が染め上がった。確かに赤は昨日のようにくすんでいないし、青も藍ではなく青だ。その染め上がりにトワがほっとしているのにジユは気づいた。
やはりトラエグの水とパルハハの染料が合わなかっただけで、トラエグの染料を使えば問題はなかった。きっとそう思っているのだろう。しかしジユはどこか、そう。何かはっきりとは言えないが、心の中にざらりとしたごくごく小さな違和感があった。まるでぱっと見分からないが、小さく糸がつれている布のようだ。そんなジユに子供のように嬉しそうな笑顔を向けたトワの父はジユにこう言った。
本当はトワがお前さんを連れてトラエグに戻って来たいと文を寄越して来た時は、いくらこの国一の染師の才能を継いでいるとは言え、女の染師なんて聞いたことがない。ましてトワには許嫁のマフもいる。
そんな娘を嫁にして一緒に染めをやっていきたいなんてトワは正気なのかと思ったさ。でもトワが一緒に送ってくれた染めを見て、この娘ならばうちの工房の、いいや。トラエグの染めも変えてくれるとすぐに分かったさ。
俺も修行中に親父が急に亡くなって、修行半ばで修行先から帰って来て家を継いでしまった。なのでうちの工房の若い職人は本当の染師と言えるほどの技術と、何より大切な染師の心を持った者はいなくてな。俺がそう育てられなかったからだ。悔やんでいるさ。ただそれでもみんなが食うに困らない様に、路頭に迷わないように、他の染師が引き受けない単純な染めの仕事でも引き受けて来たさ。
それでトラエグの染めは早かろう悪かろうと言われている事も分かっている。でもお前さんとトワが変えてくれる。そう思ったら涙が出るくらい嬉しいさ。ジユ、お前さんはセルシャの国一の嫁さ。
そうしみじみ幸せそうに語るトワの父を見てジユは何も言えなくなってしまい、無理にでも笑顔で応えようとしていた。
そんなジユにトワの母がジユに声を掛けた。二人で話したい事があると。トワもトワの父も何事かという顔をしたが、そんな二人に、結婚の宴で何を着るのか、どんな料理を出すのかも決めないとね。それに遠い所から親元を離れて嫁いで来るんだ。女にはそういう心構えってものがあるんだよ。まったくあんた達はそういう所に疎いんだから、やれやれ。と大袈裟にため息をついて、まったく女心に疎いんだからと愚痴をこぼし始めた。
急に旗色が悪くなったのに気がついたトワの父は、すまねえ、すまねえ、つい浮かれちまって。トワにこんないい染師の嫁が来てくれて、これでうちの、いいやトラエグの染めだってパルハハに負けないくらいの物になると思ったら、つい浮かれちまったよと照れ臭そうに頭を掻いた。子供のように無邪気に喜ぶ父とジユを嫁として迎えようという母にトワもほっとした安堵の表情を見せた。
さあさあ、あたしの部屋で女同士の話をしようじゃないかと、トワの母はジユを家の奥の小部屋に招き入れた。棚には何色もの衣がきちんと畳んで並べられ、その横には櫛や髪用の油の壺が置かれた台や大きな鏡などが置いてある。小さな物書机の椅子に掛けるようジユを促し、飲み物を取ってくるから、ちょっと待っていておくれと言うと部屋から姿を消した。
しばらくして甘いクチャの花の茶の匂いが漂い、温かい湯気の立った器を二つ盆の上に乗せトワの母が戻って来た。クチャの花を乾燥させた茶は、このセルシャでは子供がぐずって寝付かない時などに飲ませる茶でこのセルシャの国の子を持つ家になら必ずある。もちろんジユも子供の頃にはクチャの茶を飲んだがもうそんな年ではないので、クチャの茶を飲むのはどれくらい久しぶりだろうか。このトラエグでは人と話す時にクチャの茶を飲む習慣でもあるのだろうか。
ささ、と笑顔で茶を勧める顔はトワそっくりだ。ジユも勧められるままに茶を口に含んだ。懐かしいほのかな甘さと、微かな草の匂いが口の中に拡がる。温かい茶を飲んで知らずに強ばっていたジユの顔がほっと弛んだ。そんなジユの姿をまるで自分の娘を見るようにトワの母は黙って優しく微笑みながら見ていた。
茶を飲み終わる頃にトワの母はこうジユに言った。お前さんはあの染めに何か違う。ここでは自分の染めができないと思ったね。隠しても無駄さ。と優しく微笑みながらジユの瞳をじっと見つめた。そしてこう続けたのだ。お前さんの考えていることはあたしにも手に取るように分かるよ。だってここに嫁いできた時のあたしと一緒だからね。思わずジユはトワの母をじっと見つめ返してしまった。
トワの母のセシもセズトロの代々続く染師の娘だった。特にセシの祖父は染師というより商人のように商いが上手くセシが子供の頃家はたいそう豊かだった。しかしセシの父親は職人気質の変わり者で自分の納得した色が染まらないと例え注文の品でも相手に渡さなかった。そんな父だがセシは父も父の染めも大好きだった。
セシも小さい頃から染めが大好きで父の工房に入っては父の真似をして染め、そんなセシの染めを見ては父は何度もお前が男だったらなと残念そうに呟いていた。この話をしながら、あたしは女が染師になれるなんて考えてもみなかったからねと悲しそうにトワの母は呟いた。
いつしか胸も膨らみ、そう少女から娘になった頃から工房に入る事も、染めをすることもしなくなった。代わりにいつか染師の元に嫁いだ時の為の裁縫やら料理やらを母から厳しく仕込まれていった。そんな父だからいつしか染めの注文も減り、また先払いで受け取った金の件で商人と揉め、家は急に貧しくなり始めていた。そんな一家を見かねて、父の知り合いの染師がセシに縁談を持ってきたのだ。
相手はトラエグの染師の家でたくさんの職人を抱えていたが、急に主人の染師が死んでしまい、まだ若い息子が急いで修行先から戻って来て跡を継いだのだが、まだ嫁もいない。この家のことを切り盛りできる染師の娘はいないかと。縁談を持ってきた染師は大きな工房なので金はある。そこに嫁いだ方がセシも家族皆も幸せになると強く勧めた。自分が染めをできなくても染師の婿に自分の望む色を染めてもらおう。そう心に決め嫁ぐことにした。
セズトロからトラエグの工房に嫁ぐ事が決まり初めて夫となる人の染めた布を見て、セシは愕然とした。これはあたしが思い描いてた色じゃない。頑固で自分の思い描く色を追い求めていた父の染めのような、そう色に何と言うか色の息吹をまったく感じられなかった。
しかしセシにはもう嫁ぐ以外の道はなかった。女が、自分が染師になれるとは夢にも思っていなかったし、既に嫁ぎ先からは今の実家の状況だと満足な嫁入り仕度もできないだろうと心配して、いくらかのまとまった金を贈ってもらっていた。また心配して縁談をまとめてくれた染師の顔を潰すことにもなる。違和感を断じていたが、セシは諦めて嫁ぐ事にした。
嫁いだ夫は夫としてはいい人だった。嫁いでもずっとセシは子宝に恵まれなくて跡継ぎを残せない事に負い目を感じていたが、そんなセシに夫はもし、このまま子に恵まれなくても自分の子供でなく誰か抱えている職人の子で跡を継ぎたい者がいれば、その子に託してもいいと言ってくれていた。
嫁いでから10年が経ち、やっと子宝に恵まれた時は夫はまるで子供のように喜んでくれた。本当は自分の血を分けた子が欲しかったようだ。無事にトワが生まれて、成長するにつれ、セシはこれで良かったのだと自分に言い聞かせる事ができた。優しい夫に可愛い子供。自分の望むような染師ではなかったけれど、これでいいじゃないかと。夫も本当は自分は染師を名乗れる腕ではないと自覚しているが、家と工房の職人の毎日の生活の糧を得る為、そしてともかく染めた着物が必要な人の為にやってくれている。美しい染めを追及する染師だけでなく、そんな人も必要だと自分に言い聞かせた。
トワの母はじっとジユを見つめて、あたしはそうやって自分と折り合いをつけて生きていけた。でもお前さんは、あたしのように納得しない染めを見て、自分の人生を受け入れて、ここで普通の染師の嫁になんかなれないね。それにはお前さんの染めの才能は豊か過ぎるからね。と少し哀しそうに言った。あたしはお前さんを気に入ってるし、うちの人もお前さんを嫁に迎えられることに喜んでる。何よりトワはお前さんを愛している。あたしとしてはお前さんが普通の染師の嫁として、トワとここで一生一緒に生きていってくれればと思うんだけどね。それもきっとお前さんには難しいね。と続けた。自分の違和感を自分で騙してここで生きていけるのか。いいや、きっと自分は生きていけない。でもそれは自分を本当に愛してくれているトワを手放して生きていくことになる。ジユは激しく嗚咽した。そんなジユをトワの母はただ黙って自分の胸に抱き、背をさすってくれた。
ジユは激しく泣きじゃくっていた。そうまるで大きな子供のように。どれくらい泣いただろうか。ジユは自分とトワは一緒に歩いていけないと気づいてしまった以上、ここにはいられない。心を偽って喜んでいるトワとトワの父の前に立てない。
そんなジユの気持ちに気づいていたトワの母はこのままここを発つかい?とジユに問うてきた。ジユがこくりと頷くと、今から急げば隣の領地のキヌグスへ行く馬車になら乗れるだろう。トワの母はお前さんの荷物は今あたしがこっそり取ってくるからねと急いで部屋を後にした。ジユは泣きはらした顔を何とか直して、部屋を出てジユの小さい荷物の包みを手にしたトワの母と並んで家を音もなく去った。
去り際に視線の先に工房が目に入り、トワが染料の入った湯を棒でかき混ぜているのがちらっと見えた。広場の馬車乗り場に着くまでの間、ジユは逃げるように去る事に居たたまれない気分だった。そんなジユにトワの母は、うちの人にはあたしから上手く言っておくから何も心配しなくていいさ。そりゃ、うちの人もがっかりはするだろうけど、いつかはきっと分かってくれるさ。なんだかんだ言ってもあの人も染師だからね。トワは。そのことばを聞いただけでジユは息苦しくなって胸が張り裂けそうだった。
トワはお前さんの事を本気で愛しているから何も言わなくてもお前さんの気持ちは分かってくれるはずだよ。とまるで我が子を見つめる母のような優しい顔でジユにそう伝えた。
二人が広場に着いた時にはキヌグス行きの馬車は皆を乗せ、ちょうど立とうとしていて馭者に早く馬車に乗れと急かされた。馬車に乗り込もうとしたジユの腕を掴み、トワの母は早口で、もう二度とお前さんに会うことはないだろうが、あたしはお前さんが幸せになってくれるよう、いつも祈ってるよ。と伝えた。
ジユが何かことばを発しようとした時、しびれを切らしたように馭者の男は、もう発つぞ。これ以上遅くなったら日が暮れる前にキヌグスに着かなくなっちまう。もう行くぞ。と馬の手綱を引き、馬車は動き出した。ジユの視線の先には泣きながらジユの乗った馬車が遠ざかるのをずっと立って見ているトワの母の姿があった。
そんな姿を見て、さっきあんなに泣いて、もう涙は枯れ果てたと思っていたジユの目からまた大粒の涙が溢れてきていた。
まるで魂が抜けてしまったようなジユが一人でゾルハの村に帰ってきたので家族皆一同驚いたが、あまりにも憔悴した姿に何があったのか皆聞けずにいて困惑していた。
ただ一人、祖父のグジだけはジユとトワの未来が見えていたのだろう。戻ってきたジユの肩を何も言わずにぽんぽんと軽く叩いた。そう、何も言わなくても分かっていると。トワもジユの本当の気持ちが、心が分かっていたのだろう。ジユを追いかけて説得しにゾルハの村に来ることはなかった。逆にまた会いに来て説得すれば余計ジユが苦しむことが分かっていたのであろう。
トワの心を深く傷つけてしまったことは、ジユにとっては何よりも辛かった。でもトワにはマフがいる。会ったことはないが優しく心暖かい女なのだろう。傷ついたトワの心をきっとマフが癒してくれるだろう。寒い冬に暖かい毛布が人をくるんで暖めてくれるように、暖かい湯が冷えた身体を暖めてくれるように。トワとの愛を断ち切り、ジユが故郷のゾルハ村に戻ってからの三年間、ジユはただ染めだけが自分の生きる支えとなっていた。
来る日も来る日もいろいろな色を染めた。ただトワとの甘く、そして苦しい愛の記憶が痛みとして残っているジユは紫だけは染める気になれず、高価に売れると分かっていても祖父のグジも父のキドもどんなに馴染みの商人に頼まれても、紫の染めの頼みには首を縦に振らなかった。家族や周りの者達は口には出さないが、きっと二人の本当の関係に気がついていたのだろう。もちろんグスリリの実を取りに行ったあの谷には寄りつきもできなかった。
一度だけ母のナリがジユと二人きりの時にこんな話をした事があった。お前がその気ならスガが故郷のクチトトの実家に戻らず、ここでお前と夫婦になってこのままここで一生染めを続けてもいいと言ってくれている。
しばしナリは口ごもった後に、スガはお前とトワの事は知っているが、ジユさえ良ければと言ってくれている。スガのような優しい男とならばきっとお前も幸せになれるさと続けた。スガはジユの、そしてトワの兄弟子でもある。厳しい祖父の目に叶って弟子入りが認められただけあって染めの腕は確かだし、穏和で面倒見の良い人柄がそのまま染めにも現れて、スガの染める色は穏やかで優しい。
その優しい色合いは貴族の娘や時には王女様たっての希望でスガに染めてもらった糸で衣を作りたいと言われ、染めたことすらある。実家は同じ西の、一番南と近いクチトト領の染師の家の次男で、兄が家を継いでいるが腕のいいスガの帰りを故郷の両親や兄は心待ちにしているだろうが、そう言ってくれていた。
もちろんジユも兄弟子としては尊敬していた。自分にはない、あの優しい美しい色の染めは素晴らしいと思う。けれどスガと一緒になることはできない。そんなジユの気持ちを分かっているのかスガの口からその話は出た事がなかったが、トワと一番親しかったスガからトワについての消息が一切ジユに伝えられなかったのは、きっと二人の、そう二人はただ想い合っていただけではないと気がついていて黙ってくれていたのだろう。
それどころか他の弟子達からも皆口を揃えたように、一切トワの話題は出てこなかった。ジユはナリにスガのように優しい人には自分のような女でなく、スガと同じように優しい女が合うはずだと断った。母のナリはそれ以上何も言わなかった。
ジユがトワの元を去って二年が過ぎた冬には来年の秋に弟のナドが嫁をもらうことが決まった。母のナリは年下のナドが先に夫婦になるので少し難色を示したが、ジユはこんないい話はないから自分のことは気にせず進めてくれと伝えた。
相手はセズトロの染師の娘ので、父も兄も祖父のグジの元に修行に来ていた。なのでこの家の事は良く分かっていて嫁いで来ても姑のナリや義姉になるカクとも仲良くやってくれるだろう。クリは垢抜けない娘だがそれ故に誠実そうで、大人しいが芯はしっかりしている弟のナドとは似合いの夫婦になるだろう。
そして偶然トワの消息について知った。父と兄に連れられ結婚の挨拶に来たクリは、期待と喜びで頬を紅潮させながら、父や兄にお前はこの国一の染師の家に嫁げる。しっかり婿を支えて家を守るんだぞと言われている。自分も一日も早くそうなれるようにすると決めていると恥ずかしそうにつっかえながらも話していた。
そんなクリの話す姿を家族と一緒に微笑ましく見ていたジユの耳に、突然トワのことが飛び込んで来た。あたしと同じ学舎にいた友達の姉さんのマフという織師の娘がいて、トラエグのザウワの町の大きな染師の家の嫁になったんです。12人も職人がいるのに家のことや赤ん坊の世話までやっているので、それに比べたらここの弟子の数なんて何でもありません。あたしもマフみたいに、この家のことを支えていきたいんです。
と目を輝かせて言った。その話を聞いた瞬間、ジユはやはりそうだったのかと思った。もちろんクリやその兄や父はジユとトワのことは知らない。マフとクリが同郷なのもジユもすっかり忘れていたくらいだった。何も知らないクリには罪はない。薄々きっと自分が去り、トワはマフを嫁に迎えたんだろうなとは頭の隅でぼんやり考えてはいたが、それをはっきりと聞くと、やはり胸の奥が痛い。
ジユは早くなった自分の心臓を包むようにそっと胸の上に手を置いた。自分は自分のことを本気で愛してくれたトワを捨て去り、自分とトワのことを知りつつも受け入れてくれようとしたスガの手も振り払った。きっとこれからもう一生、人を愛する事もなく、ここで染めと生きていくんだろうなと一人、自分の運命を噛み締めていた。しかし次の春、そうジユの運命が大きく変わる出来事が待っていたのだ。
春ももうすぐという時に突然ある男が工房にふらっとやって来たのだ。トクという商人を名乗る30を少し越えるぐらいだろうか。背が高く良く引き締まった身体をして、何より整った甘い顔をしている。
兄のヌクも染めに失敗した時など周りから冗談で、お前の顔は整っているから染師を辞めて芝居師にでもなったらどうだ?とからかわれて、満更でもない表情でにやけているのを見たことがあるが、この男が芝居に出ていたら女達はさぞ色めいて騒ぐだろう。それにどこか垢抜けて洒落た雰囲気と、何やら不遜な自信を漂わせている。ジユの周りにはいない雰囲気の男だ。
トクはこのパルハハに女の染師がいて、それも素晴らしい色を染めると聞いて、ぜひ見てみたい。気に入ったらそちらの言い値で買っていいと言って、いきなり大金の入った袋を懐から出して見せた。
女の染師が染めたなど聞いたら色物に見られて安く買い叩かれるので、ジユが染めた物もこの工房で染めた物として扱っている。だが中には東のタスカナの商人頭のクルのように付き合いが長くジユの染めの才を高く認めてくれる者も数人はいたが、皆一様物は素晴らしいが女が染めたと分かったら高く売れないと残念がっていた。
突然現れた不審な男に父と母、弟や工房の男達は皆どうしていいのか分からないといった表情で困惑して黙って話を聞いていて、兄は突然現れた自分より数十倍も男前な男に憮然とした表情を向けていたが、義姉のカクは見とれて、まるで生娘のように頬を赤く染めている。
もちろんジユも不審な得体の知れない男にうろんげな眼差しを向けたが、トクの方はジユのその視線に気づいても飄々としている。じっと黙って目を瞑り、トクの話を聞いていた祖父のグジは目を開けると、トクをじっと見つめ、いかにも。このジユが染めている。ジユは一人前の染師だ。まず本当かどうかお前さんの目で確かめてもらおうじゃないかと言い、次にジユに視線を向けて、お前の染めがどれだけの物か見せてやるのだ。お前がこの人にお前の染めを売っていいと言うのならば売ることにしようと言い切った。
そして周りの者達にジユが一人でも出来る事を見せる為に他の者は終わるまで作業場に入るなと指示した。
祖父の指示に納得できないが、染めに関しては祖父は師匠で、師匠の命令は絶対だ。他の者も従わない訳にはいかない。しぶしぶジユはトクを従えて作業場に入った。作業場に入ると、急にそこまで言うのならば、こっちも見せてやろうじゃないかという気になってくる。そして長い黒髪を一つにきゅっと縛ると、いつものように染めの作業を始めた。
普段は先染めの糸を染める事が多いが、布地を染める後染めもやっていて、とりあえずすぐ仕上がりがわかる赤の染めをやってみせることにした。湯を沸かし、温度で染料の量を加減する。その日の天気や空気の感触でも加減する。微妙な感覚と己の経験と知識だけが頼りだ。
今だ!と思う瞬間に布を染料の液につけて、優しく棒を回し、色がちょうど良く染まったと思った瞬間に一気に湯から引き上げ、水にさらす。そして手早く洗い、日に当てて乾かすのだ。ジユは染めの最中は集中していて、傍らにいた男の存在をすっかり忘れて作業に没頭していたし、トクもそんなジユを一言も発せず、黙ってじっと見つめていた。染めが終わり、やっと一息ついて額の汗を拭ったジユを見つめてトクは、にやっと笑いかけた。
へたな男がそんな顔をすると見ていられないのだが、甘く整った顔のトクがそんな表情をすると芝居を見ているようだ。もっともジユは芝居をやっている祭りにも芝居にも興味はないが。何よりこのうろんげな男にも興味はない。このセルシャの国にも本物の女の染師がいたんだなと感嘆したようにトクは呟いた。
セルシャの国にも?男の言葉にひっかかりを感じたジユは、あんた今セルシャの国にもって言ってたけれど、他の国には女の染師がいるのかい?そう聞いていた。
ああ、そうさ。トクは面白そうにそう答えた。オクルスの国の向こうにはもっと別の国がたくさんあるのをお前は知っているか?ジユは頭を振った。いちおジユも学舎には通ったが、授業の間も染めの事ばかり考えていて、他の国の事はおろか同じセルシャの国の他の領地の事もろくに覚えていない。
オクルスの国に行った時にちょうどオクルスの王宮に他の国の使節も来ていて、その中に女の染師もいて見せてもらったのさと自慢気に話し始めた。オクルスの国の王宮?あんた商人じゃなくて通師か語師なのかい?普通そんな所にいけるのは貴族の大臣か、外交の任を任されている通師や二つの国の言葉を操り訳す語師。そういった職にある者だけだ。
その言葉にいたずらそうに目を輝かせて、急にジユの顔に自分の顔を近づけてきた。ふっと独特の甘く苦い香りが漂ってくる。そしてこうジユの耳に囁いた。
お前だけに俺の秘密を話してやろうか。実は俺はこの国の王子なのさ。事もあろうか、この男。王様の息子の王子だと?冗談にも程がある。王子がパルハハの領都ならいざ知らず、こんな辺鄙な田舎の村に一人で急にふらっと供も着けずに来るはずもない。
この男大嘘つきと言うより、大馬鹿者だ。ジユは思わず声を出して笑ってしまった。そんなジユを見てトクは、ああ、やっぱりお前は笑った方がいいなと目を細めた。あんたが王子様なら、あたしは神様だよ。そうジユは目の前の男を鼻で笑うように言って返すと、トクは急に真顔になり、ああ、そうかもな。神様というより女神様だな。
マルメルの国では海は美しい女の神様が治めていると言われているのさ。普段は海の恵みをたくさん与えてくれる優しい女だが、一度怒らせてしまうと嵐や津波を起こしてしまう冷たい女に変わってしまう。今のお前は冷たい女になってしまっているが、本当のお前は炎のように熱い女なのさ。ジユの目を見てそう言い切った。その瞬間ジユはこの男に全てを見透かされた気がした。そう三年前に終わってしまった初めての愛。
ジユは急に居心地が悪くなり何とか話題を替えようとして、へえ、あんたはオクルスの事だけじゃなくてマルメルの事まで詳しいんだね。商人だか通師だか知らないが、何でこんな辺鄙な田舎の村に来たんだい?そう尋ねてみた。
俺の本当の名前はカジグルだ。このセルシャでは普通の民は自分の生まれた日の暦の名前をつけるのでジユやヌクのような名前だが、貴族や王族は良い意味を持つ長い名前をしている。どうやら貴族の息子らしい。俺の父親はこの国の大臣さ。俺の婆さんは本当の王女様だったから、俺が王子というのもあながち冗談じゃない。
着道楽の母親が金に糸目をつけずに買い漁るんで子供の頃から家には都だけでなく、北や西、南や東からも商人がやって来てはたくさんの衣や布を持って来て、おかげで布を見る目は養われたのさ。なぜ布に惹かれるのか?って。そりゃ作り手の想いがすぐ伝わってくるのがいいのさ。どんな奴がどんな想いで作っているのか見れば、すぐ分かるね。この国じゃ珍しい女の染師がどんな女で何を想って染めているのか知りたくて自分の目で確かめにきたんだ。
父親は俺に跡を継がせようとして、小さい頃から家には教師が住み込んで、オクルスやマルメルの言葉まで叩き込まれた。まあ俺は賢いからすぐにどちらの国の言葉も自由に操れるようになったさ。
十八の時にオクルスへの使節として山を越え、二十歳の時に使節として海を渡りマルメルの国に行って、この世界は広いんだと実感した。そうしたら家や王宮に縛られて暮らすのが、まっぴら御免になって家を飛び出したのさ。最初は知り合いの布商人に声を掛けて一緒に商売を始めたら、面白いように上手くいったんだ。
まあ俺はこの国以外の言葉ができるから、オクルスやマルメルの商人達と直接話ができて、いい布を安く仕入れて、しかも顔馴染みの金持ちの貴族の奥方やら娘にちょっと高く売った。ああ、俺が選んだ布は物は確かだし、何より俺に会いたいって女は山ほどいるからな。ついで布だけじゃなくて俺を欲しいって女もたくさんいて、まあ俺も気に入った女には俺を与えてやった時もあるさとにやりと笑った。
そんなお偉い貴族ならあんたには奥方がいるんだろ?そんな事していていいのか?とジユの問いかけにトクはにやにやして、心配するな。親の決めた許嫁がいたが、俺にとっては大人しいだけの退屈な女だったから理由をつけて断ったから安心しろ。
弟に跡継ぎの座と一緒に渡したからな。俺は美しいだけの退屈な女は嫌いなのさ。ああ、それに俺に簡単になびくような女も好みじゃないな。お前みたいな自分のやりたいことを追いかけている女が好みなのさとほざいている。もし俺が貴族の息子に生まれていなければトクの日に生まれたからトクになってた。なので普段はトクと名乗っていると。
にやりと笑い、必要な時は絹の着物を着て、カジグルと名乗るさ。その方が商売がやり易い時もあるからな。この国では貴族の名前だけで事が片付く時もあると。だから使い分けていると。なるほど。その辺りの計算高さも持っているという事か。
ジユを見つめてトクは何かジユが聞いたことのない言葉を呟いた。今なんて言ったのさ?ジユが尋ねるとトクは笑いながら、最初はオクルスの言葉でこんないい女がいるとは夢にも思わなかった。次がマルメルの言葉できっと俺の女になる運命だと言ったのさと嘯いた。全く調子のいい男だ。きっと方々でこの手口で女を口説いてその気にさせているのだろうが、あたしには通じない。ジユはそう思った。
おあいにく様。あたしはあんたに惚れないし、あんたの女になる気は更々ないね。御免だよ。そうジユは嘯く男に言ってやるとトクは、おかしいな。俺の感は当たるのさ。それで今まで何度も救われてきたし、ここまで一人でも上手くやってこれた。外れる訳はないさと呑気な顔をしている。
ふっと独特の甘く苦い香りが漂ってくる。何の香りなのさ?ああこれか?オクルスの薬草とマルメルの果実から作った香り水さ。これを塗っておくと山道を歩いていても虫に刺されないのさ。急にトクはジユの肩をぎゅっと掴んでジユの耳元に自分の顔を近づけてこう囁いた。寝屋で俺の汗の香りと混ざると、この上なくいい香りになって女はみんな獣みたいになるのさ。突如ジユの脳裏にトワと自分が激しく愛し合った姿が浮かんで、そこにないはずのトワの酸っぱい汗の匂いと染料の甘い香りが混ざった香りすら漂ってくるようだ。思わずジユは目を閉じた。そんなジユの表情を見てトクはお前生娘じゃないな。男に抱かれる悦びを知っているな。そう呟いた。
この男には全て見透かされてしまう。へたな嘘をついてもばれてしまうし、そもそもジユはトワに抱かれた事を恥じてはいない。正直にああ、昔愛した男がいてその人と抱き合ったよ。あたしが生娘じゃないからがっかりしたかい?とぞんざいな口調で聞いてみた。
そんなジユにトクは別に構いやしないさ。散々男と寝たのに生娘と偽って嫁に行く都や貴族のドラ娘もいるし、俺だっていい女がいれば愛し合ってきた。お前が過去に誰と寝てても気にしないさ。俺以上にお前を悦ばせられる男はいないからなと、さもどうでもない事のように言った。
ジユはこれ以上この男との話は無用とばかり、あたしじゃなくて染めは気に入ったかい?こっちは春を売ってるんじゃないんで、肝心の染めはどうなのかの方が気になるねと言ってやった。トクは真面目な顔をして、まあ悪くない。思っていた以上だと続けた。
ジユも条件次第で売ってやってもいいかもと思った。だがそんなジユに、悪くはないが今の色じゃないな。本当のお前の色はこんなじゃなくてもっと艶やかに鮮やかに染められるはずだ。きっともうすぐお前の染めが変わる出来事が起きると言った。また次に、そうだな。春になった頃にまた来るとトクは告げた。
あたしの染めが変わる出来事?訝しげな顔をしたジユにトクは、言っただろ。俺の勘は当たるんだ。と笑いかけた。まともにこの男の話を聞くだけ無駄なようだ。そうかい。とジユは軽く受け流した。トクはにやりと笑い、今日俺と出会い、きっと俺に恋焦がれてお前はこれから変わっていくさ。と続けた。
どこまでも調子のいい、この男の言うことは真に受ける方が馬鹿だ。そうジユは思った。しかしその数日後トクの預言どおり、ジユの染めが変わる大きな出来事が起こった。王様が祖父のグジの染めに興味を持って王宮にお召しとのパルハハの領主からの使いが、このゾルハの村にやって来たのだ。もちろんその時ジユはこの後自分の身に何が起こるのか知る由もなかった。
侍従は王様にお目にかかる時の礼の仕方などの王宮での作法や広い王宮で迷わないよう王宮の建物についての説明をしていたが、ジユはつい過去を振り返ってしまっていたので、ぼーっとして侍従の話を上の空で聞いていた。
そんなジユの様子に気づいた侍従は、具合が悪いのか?熱はないか?すぐ薬師に診てもらうようにしよう。王様にお目にかかる時に具合が悪くてはいけないし、何より王様にご病気を移してしまったら、それこそ一大事だ。ジユは慌てて昨日は歓迎の宴まで開いてもらって気が高ぶってしまい、おまけに慣れない豪華な館のふかふかでそれでいて厚い寝屋で落ち着かずに、長い揺れる馬車旅で身体は疲れているのに寝付けなかった。
おまけに自分は都どころかパルハハにもめったに出てこない田舎者で今まで旅をしたのは、たった一度だけなので緊張していると伝えた。まあ嘘はついていないだろう。
もっともらしいジユの説明に侍従は、もし具合が悪くなったらすぐに自分に言うようにと命じた。もっともらしくジユはとりあえず頭を下げて礼を言った。あたしも自分では気がついていないけれど、やっぱり王宮に上がるんで相当気が高ぶってんだろうね。あんな昔話を思い出すなんてね。
とジユは心の中で自嘲した。それにあの時と同じようにパルハハからカリヌル、セズトロを通り、そしてトラエグにも寄るからだろう。泣きながらトラエグからカリヌル行きの馬車に乗った事も思い出してしまったからだろう。もうすっかり忘れたと思っていたのにねと、ジユは自分で自分を嘲笑った。王宮に行くんで、あの偽物王子の事を思い出すならまだしもね。思わずジユはくすりと笑ってしまった。
まさかあの男、あたしが王宮に行っているなんて夢にも思っていないだろうね。それを知った時のあの男の驚いた顔を想像すると自然と笑えてくる。急に笑い出したジユを侍従が怪訝そうな顔で見た。
今の王様には三人の王子様がいることくらいは王宮にさほど関心のないジユでもさすがに知っている。確か王妃の産んだ世継ぎの王子と妃達が産んだ王子が二人だったな。あれ二人の王子の母は同じ妃だったか、それとも別の妃だったか?ジユにとってはその程度の関心であった。お目にかかるのは王様だけだろう。まさか本物の王子様にはお目にかからないね。あたしが一生で会えるのは偽物王子だけだね。まあ、あの偽物王子だって本来はめったに会えない大臣様の息子なのにね。世の中何が起こるか、誰と会えるか分かったもんじゃないね。ジユは心の中で苦笑していた。
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