町田 千春 著 |
染色師 その2 TOP セルシャの国の王宮の執務室で世継ぎの王子のタツルスが王宮に仕える事師から各領地からの税の徴収の報告を受けていた時、執務室に父王に仕える侍従がやって来て、王様がパルハハの染師に関心を持たれ、王宮に招いております。是非タツルス様にもご臨席をとのご命令でございますと伝えた。パルハハの領主と染師か。父上も上手い事を考えた訳だ。 世間で父である王は南出身の王妃に政治を牛耳られ、書物や芝居や舞の芸能、織りや染めや飾り物などの工芸にしか興味を示さなくなったと囁かれているが本当は違う。水面下で政治の駆け引きを行っている。それも自分は表に出ず、専ら息子で世継ぎの王子である自分を使っている。その方が王妃が喜んで、こう囁く事を見越してだろう。王様は政務に向いていらっしゃらないが、我が息子のタツルスは賢くていずれ賢き王となるだろう。と。 本来世継ぎの王子を他の国からの使節でもない染師ごときの謁見に同席させるのも、そういう意図があるのだろう。お前も見極めてみよと。 数人のお付きの侍女を引き連れて、妃の一人のレナミルが執務室に朝の挨拶にやって来た。昨晩は別の妃の館に泊まったので、顔を合わせるのは昨日の朝振りだ。正直、最近はどの妃と共寝をしても気分はまったく変わらなかった。皆一様に慎ましく足を開くだけだ。ましてレナミルとの共寝は、母や母の父である祖父が王子を、世継ぎをと念じているのが分かっているだけに億劫だ。しかしレナミルの館に泊まらないと周りがいろいろ言い出すのが煩わしくて、四人の妃の館に公平に泊まるようにしている。 東にあるザルハスの領主の娘のグリソルとレナミルが嫁いで来て、その後実家や、周りの思惑が付きまとう貴族の娘には疲れたので、手近にいる侍女に手を付けた。二人共それぞれに愛らしいとは思うが、愛しているかと問われれば、そうでもない。 敢えてにこやかにレナミルを迎えた。ああ、レナミル。使いの者が参ったと思うが、父上の気まぐれに付き合ってパルハハの染師と謁見することになったので、午後はそなたの館に寄れぬ。済まぬなと敢えて残念そうな顔をしてみせた。続けてこう言ってみせた。 レナミルも慎ましやかな態度で、はい。私のことは気になさらずお務めを果たして下さい。明日の夜は私の館においでくださるのでしょう?と聞いて来た。 冷えきった父と母の、そしてそこに政治の利権の絡む姿を見て育ってしまったからだろうか。自分は一生誰かを真剣に愛するという事はないだろうと思う。妃たちを迎える前に既に貴族の手慣れた奥方達から手ほどきを受けて女を知ったし、貴族の娘たちを妃たちに迎えてからもごくたまに昔馴染みの奥方達と一夜を楽しみ、好みの侍女たちに手を付け妃にした。特別好色でもなく、まあ普通の男並だろうと自分は思う。きっと世継ぎを儲ける為に妃を抱き、気晴らしに手慣れた貴族の女を抱く。 レナミルの話題はオクルスやマルメルの衣になっている。その話を聞いていて、ふっとある男の事が記憶に浮かんで来た。大臣の息子で賢く視野も広く将来を期待されていたのに、急に家を飛び出し噂では布商人になったと聞く。男の自分でも驚くくらいの男振りだったので、飛び出してもきっとどこかの女が喜んで世話をするのだろう。 ここはなんて豪華で、そして、そして色鮮やかな檻なんだろう。 王宮には数えきれないほど沢山の人がいて、パルハハの祭りの人混みですら人酔いしてしまうジユには苦痛であった。子供の頃に兄がせがむので修行に来ていた者がヌクとジユを祭りに連れて行ってくれたのだが、人混みと騒音にすっかり酔って気分が悪くなり、それ以来兄と違って祭りには行かなくなった。中にはジユと同じ年くらいの侍女達もいた。 謁見の間にグジ達一行を案内した侍従から王宮での挨拶の作法など説明される。まあ今回は祖父のグジに質問が行くから、自分は黙って傍らで行儀良く黙って立っていればいいだろう。そうジユは思っていた。 王様はさて、今回そなたを王宮に招いたのはその見事な染めの腕前に感心したからだ。黄色は特に染めるのに難しい色だが、鮮やかに染める極意はあるのか?と祖父のグジに問うてきた。 とても王様の問いに対しての答えになっていないし、何て答えだ。ジユはちらりと横目で隣に立っているパルハハの領主を盗み見たが、顔面が蒼白になっている。 その時、王様が傍に控えているのはそなたの孫娘のようだが、どうして息子ではなく孫娘を連れて来たのだ。王宮に使えたいのか?と問うてきた。 今回王宮にジユを連れて来たのは、まばゆい王宮を見せて頂ければ、一層美しい色が染められるようになるかと思い、連れて参りましたと続けた。見事な嘘だ。孫息子の素行が心配だと言わずもっともらしく良い話に仕立てあげている。ジユは心の中でため息をついた。妙な方向に話が流れてしまっている。 王様はジユにも関心を持ったようで、染めの仕事は女には大変な仕事だが、なぜそなたは大変な道に自分から進んだのか?と至極まっとうな問いかけをする。王様でなくとも誰もが同じように思うだろう。ジユ自身も改めて何故と問われると答えられない。その時、ふっと自然にジユの口からこう言葉が出てきていた。 そんなジユの言葉を聞き、タツルスは目の前の女をじっと見つめた。 あたしは自分で望んではいませんでしたが、どうやら染めの才を与えられてしまったようです。どう足掻いてもそれが定めと。だったら染めと生きていくしかないでしょう。 このジユという女。そう言っているが自分の人生を諦めて受け入れて生きている者の目をしていない。そうまるで自分でその生き方を誇りに思い、選び取った者の強い瞳だ。 妃の一人の東のザルハスの領主の娘のグリソルは、口には出さないが互いに想い合っていた男がいたのは気がついていた。それが妃に上がることが決まっていた北の領地のバルスエの領主の娘が急な病でこの世を去ると一日も早く息子の世継ぎの王子に妃をという母の王妃の意向で急に代わりに急いで嫁いで来させられ、慣れない王宮での暮らしに新しい妃も王宮に上がり、しかもその妃は王妃の身内で身贔屓される。その心労からだろう。やっと身籠った王女を死産してしまい、それが元でもう子は望めない身体になってしまった。薬師や周りに使える者達に厳重に口止めしたが、このまま一生王宮を出られず生きていかなければならない。いつもグリソルは口元には笑みを湛えているが瞳は虚ろだ。人生を諦めて生きている。 自分も幼い頃、もし自分が世継ぎの王子でなかったらと何度も思った事があった。王子でなく船乗りの息子で、大きくなったら自由に広い海を渡りたい。だがそれは叶わない夢であった。そう王子でも世継ぎの王子ではなく、異母弟達のようにただの王子であればとも願った事も何度もあり、弟達が羨ましかった。そして今でも時折そう思う事がある。しかし自分は年長で、しかも王妃の息子で、異母弟達の母は元侍女だ。身分的にも自分が世継ぎの王子と誰もが認めた。 タツルスはこの女に問うてみたかった。何故お前はその様に生きているのだと。タツルスは目の前のジユという女に俄然興味が湧いてきた。 さっきから急に自分を見つめている王子の視線にジユは落ち着かなくなってきた。紫の衣を着こなすのは難しい。そもそも紫は燃える炎のような赤と冷たい水のような青という相反する物を含んだ色だ。それが似合うとは。何となく一筋縄ではいかない男なのかも知れない。それと燃えるような情熱と冷静な知性を持っている男なのかと。まあ高貴な人の色と言われているから王子なので似合うのだろう。 王宮の男はどうしてみんな背は高くていい男なのかね。そんな男にじっと見られていると落ち着かなくて気分が悪いよ。何だかそわそわするよ。あのトクも顔立ちはいい男だったけど、そわそわしなかったのはやっぱり王宮みたいな所で出会ってないし、そもそも本物の王子様と偽物の王子は違うからかも知れないね。でも一体何であたしをあんなにじっと見ているんだろう。そんなに女の染師が珍しいのかね。まあ、そうだろう。目の前に伝説のカナジュの鳥がいるようなものだからね。やっぱり食べてる物が違うし、毎日ご馳走を食べてるから背が高いのか。顔立ちが整っているのは、パルハハの領主が残念がっていたように美しい貴族の娘が妃として送り込まれるか、目当ての男を射止めようと着飾った侍女の中から特に美しい者がご寵愛を受けて妃になって子を生めば、そりゃ顔立ちも美しいはずだ。 そんな事を思ってついちらりと玉座の横に控えている、誰にも選ばれずこの年まで王宮に使えることになったと思われる厳つい顔の中年の侍女を見て、ジユは思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。王様が祖父のグジとジユに向かって、今回の褒美を与えたいが望みの物があるなら言ってみよと言い出した。ジユはちらっと横目で祖父を見た。グジは染めの腕は天才だが、金や物に対しての欲がない。あるのはそう美しい女だけだ。何を言い出すのか?ジユには想像が付かない。 そんな王様にグジは、恐れながらこの王宮に参りましてカナジュの伝説と同じようにおとぎ話と思っていた世にも美しい侍女様達を先ほどから見ていて、是非一度更にお美しいお妃様から貴重な茶の一杯でも頂ければ、あっしの寿命も伸びるかとと言い出した。 王様、めったに来れない王宮にお招き頂いたのであたしは貴重な王宮の過去の染め物の衣など見せて頂ければと思います。それを自分の染めに生かしたいのです。まったくじいさんに負けず劣らずあたしも嘘つきだね。染めの才だけじゃなくて嘘の才も引き継いだのかねと心の中で苦笑した。まあ飾り物はパルハハの領主様に願おう。きっと今回の王様のお喜びに気を良くして、飾り物の1つや2つ願えばすぐ与えてくれるだろう。王様は真に受けて、それは感心だ。よもやこのセルシャの国に女の染師がいて志もここまで高いとは。もちろんだと言うと、やはり玉座の横に控えていた侍従に事師に伝えて王宮の書庫に通せ。必要ならば仕立侍女長にこの者に案内させよと命じた。 ご機嫌な様子で何人もの侍従や侍女を連れ、王様は退室された。それに続いて王子様も同じように侍従や侍女を連れて下がっていった。思わずジユは深い息を吐いた。やはり慣れない場所と相手で緊張していたらしい。結局何でずっとあたしを見ていたのか聞けなかったし、そもそも結局王子は謁見中ずっと黙って座っていて、何一つ声を発していなかった。まあ謎だが仕方ない。もう二度と会うこともあるまい。侍従がグジとパルハハの領主に、ではこちらにと声をかけ二人は従って歩き始めた。 やっと一人きりになり、ジユは思わず自分の着ている着物の帯を少し緩めた。ふー、やれやれ。そう言って固まっていた肩や首を回した。まあ貴重な染めでも見せて頂くか。そう言うと椅子に座り、分厚い本を開いた。嘘から出たことばだが、やはり過去のセルシャの国の一であっただろう染師の美しい染めや、遠いマルメルやオクルスの国の物であろう珍しい染めなど見ていると心が騒いでくる。すっかり夢中になって染めの世界に没頭してしまい、周りに気づかなかった。 ふっと誰かがこの書庫に入ってきた気配でジユは我に帰った。仕立侍女長様とやらがおいでになったようだ。しかしそのコツコツという足音は女の物とは思えない。王宮に来てすれ違った侍女達は皆足音を立てないよう静かに歩いていた。またここにジユを案内した侍従も同じように足音を立てないように歩いていた。訝しげなジユの目の前に、そう紫のグスリリ独特の光沢のある鮮やかな紫の絹の衣に深い青や藍、所々に赤といった見事な刺繍の帯を絞めた王子が立っていた。 何故、あの人がここに?不思議に思ったが、そもそも自分がここにいる方が不思議で王子が書庫にいる方が当たり前か。そうジユは考えた。そんなジユに王子が声を掛けた。 ジユと申したな。そなたの話が聞きたい。低く滑らかな声がジユの耳に飛び込んできた。 あたしごときにいったい何を聞きたいんだ?そう心の中で呟いたジユに王子は、王宮に来てみてどう思ったのか、正直に申してみよと命じた。ご命令ならば仕方ない。正直に言うか。 ジユは顔をすっと上げて、目の前の王子を正面から見据えてあたしにはここは色鮮やかで華やかな豪華な檻に見えます。ずっとここに閉じ込められている王子様は幸せなのでしょうか?そう呟いて王子の瞳の奥をじっと見つめてしまった。しばし二人はただ黙って互いの瞳の奥を見つめ合っていた。そう瞳の奥で赤い糸と青い糸がゆっくり絡み合って1つの糸をこよるように。二本の異なる色の糸は誰も知らない所でゆっくり絡み合い始めていた。 タツルスはここ数日、訳もなく心が乱されていた。執務をしていても人と会っていても、妃たちと夜を共にしても心ここにあらずだった。いいや、違う。理由は分かっていた。あのジユという女の呟いた言葉だ。あたしにはここは色鮮やかで華やかな豪華な檻に見えます。ずっとここに閉じ込められている王子様は幸せなのでしょうか? その時、あちらから声がした。兄上、ご機嫌はいかがでしょうか?異母弟のサジカルである。タツルスには二人の異母弟と三人の異母妹がいる。タツルスのすぐ下の妹は王妃の意向で16歳で15も年上のオクルスの王に嫁いで行った。もうすぐ15歳と13歳になる妹達もいずれ政治の駆け引きの道具としてどこかに嫁がされて行くのだろう。 弟達の母はそれぞれ侍女出身の妃なので、母親の身分から世継ぎの王子とは見られていないし、本人達も自分の立場を充分に弁えている。幼い頃から王妃の息子で世継ぎである異母兄に対して臣下のように礼儀正しく接していた。それでもタツルスにとっては可愛い弟達であった。幼い頃、母の王妃の妹の子で2つ年上の従兄のアソニジに弟が産まれ、自分も弟が欲しいと母にねだった事があったが、その時にはもう父と母の関係はすっかり冷えきっていて、母の元を訪ねていなかったのだろう。 恭しく礼をするサジカルに、執務室でなく自分の自室に来るよう促し、侍従に茶の用意を申し付けた。 今朝義姉上にお会いしましたら、最近タツルス様は政務でお疲れではないのか、何かご心配なことでもおありになるのかと大層心配されておられました。サジカル殿にタツルス様を支えてあげて欲しいともおっしゃておりました。オクルスやマルメルとの外交で何か難しいことや、それとも地方間で何か問題でも起こったのでしょうか?と心配した表情でこちらを伺ってきた。 いや、何でもない。 レナミルはいつも何かと心配し過ぎなのだと弟を安心させるように微笑んで見せた。 レナミルは焦っている。最近王子の従姉で、レナミルの従姉でもあるエルムラが3人目の子を産んだのだが、つい先日昨年嫁いだばかりの従妹のクスハルも子を授かったとアソニジから聞いた。二人と姉妹のように一緒に育ったレナミルは余計に不安になり、焦っているのであろう。 話題を変えるべく明るい声で、今日は何用で王宮に参ったのだ?と聞いてみた。サジカルは婚姻を機に王宮を出て、今は都にある離宮に移っている。はい、父上の命で西のパルハハに視察に行くことになりました。最近パルハハは交易で儲けて潤沢な税を納めています。その理由を見極めて来いとの仰せでした。パルハハ。あのジユという女のいる所だ。その途端に脳裏にあの女の姿が浮かんで来た。それと共にどこからともなく、あの時の染料の香りが漂ってきた気がした。パルハハ、あのジユがいる。その瞬間タツルスは思わずこう口にしていた。 いいや、パルハハには私が行こう。父上には私から話をしておこう。そう、パルハハにはあのジユがいる。 まさか自分が去った後の王宮でタツルスがそんなことを口に出しているとは知らないジユはパルハハの領主一行と故郷のパルハハへの帰路の途中であった。帰りも行きと同じようにまたそれぞれの領地に着いたらパルハハの領主がそれぞれの地を治めている領主と会い、今度はまた返礼の宴やら茶会やらを開くようでこれまた帰るのに二十日も掛かるそうだ。 ジユを薬師に見せた所、悪い病でなく気疲れからくる病だろう。しばらく休ませて元気になってからからパルハハに戻した方が良いとキヌグスの領主のお抱え薬師はパルハハの領主に伝えた。 ジユも気だるい床の中から祖父のグジに心配しないでくれ、キヌグスの領主様お抱えの名医の薬師が診てくれるし、サアンゾ付きの侍女達が面倒を見てくれるから。先にパルハハに戻ってくれと伝えた。祖父はパルハハの領主とサアンゾからも同じように説得され、しぶしぶパルハハの領主一行と先に戻る事になった。もしかしたらグジはジユの心配よりも噂どおりの絶世の美女のサアンゾともっと長くいたいだけであったのかも知れないが。行きの宴の際は気分が優れないと欠席していたサアンゾは二人目の子を身籠っていた。 帰路の馬車の中でもジユとグジはパルハハの領主から王宮についてのいろいろな話を聞いた。それはジユもグジも知らないことばかりだった。 そればかりか3年前にグリソル様が王女を死産してしまった時も、また昨年侍女からタツルスの妃の一人になったカトハル様が流産してしまった時も、レナミル様が実家の南を通じて、オクルスから秘密の薬を取り寄せて産めない様にしたらしいという噂があるほどだ。 ジユは話を聞きながら、つくづく王宮とは怖い、不気味な檻だね。本能を隠して閉じ込められるだけじゃなくて、いろいろな罠まであるのか。嫌だね。まったくと聞いているだけで、口から反吐が出そうな位であった。 私だけを見て。 私だけを愛して。 レナミルは自分との交わりの後で、用は終わったとばかりに気だるげにさっと身体を自分から離して、広い寝台の中で自分に背を向けて眠ろうとしているタツルスの背中を涙が溢れそうな瞳で見つめていた。泣いてはいけない。取り乱してはいけない。レナミルは必死に自分の感情と溢れそうな涙と声に出したくても出せない想いを堪えた。 タツルス様は私を愛してはいない。自分を抱くタツルスは決して乱暴には扱わずに丁寧に扱ってくれる。けれど愛してくれていると感じられたことは16歳で嫁いできてから、もう何百回も抱かれたけれど一度もなかった。 数年前タツルスが各領地から嫁いでこさせられた貴族の娘でなく、自分の意思で王宮に仕える侍女の一人であるカトハルを妃に迎えると皆に伝えた時レナミルはその場で泣き叫んでしまいたいぐらいだった。 しかしアソニジは、カトハルは侍女出身で所詮王妃にはなれない。逆に今は王妃様や自分が抑えているが、西や北の領主達がまだタツルス様に世継ぎの王子が産まれていないので、ぜひ自分の身内から新しい妃をと王様に願い出ている。侍女出身の妃を迎えてもらった方がこちらにとっては好都合だ。お前もそれくらいは分かるだろうと取り合っては貰えなかった。 二人は王妃の自室を下がり、レナミルの自室に引き上げた。二人きりになったその部屋でレナミルにアソニジはこう伝えたのだ。レナミル、諦めろ。タツルス様がお前を愛することはないだろう。タツルス様は王様と王妃様の冷えきった関係を見て育ってしまった。あの方が誰かを本気で愛することは永遠にないだろう。あのカトハルという侍女もまあ好みの娘だが、本気で愛されるということはないだろう。なのでタツルス様にすがったり、懇願するな。そうすれば益々お前はタツルス様に愛されなくなる。逆に疎ましいとさえ思われてしまう。 薄々気がついていたことを目の前に突き付けられてレナミルは人目も憚らずに号泣してしまいたいぐらいだった。そんなレナミルの肩をがしっとアソニジは掴み、レナミルの瞳をじっとアソニジは正面から見据えて王妃様と同じ轍は踏むな。タツルス様が自分から聞いて来た時以外は政治の話に口を出すな。他の妃を可愛がっていても黙って受け入れろ。それがお前がタツルス様に気に入られる唯一の方法だとレナミルを諭した。 レナミルが妃の一人として王宮に上がったのは16歳の時である。5歳年上の王子の元には既に王子と同じ歳の東のザルハスの領主の娘のグリソルが妃として上がっていた。 当初叔母と王妃はレナミルの3歳年上の姉を妃にと考えていたようだ。王子とは2つしか違わず、一日でも早く少女から娘になったら嫁がせ、早く世継ぎを儲けて欲しいと考えていたのだろう。 それはレナミルにとって大変な道のりで途中何度も逃げ出したり、泣き叫びたくもなった。けれどあの方が、タツルス様の妃になれる。その一心で苦しい学びの日々も何とか耐えてこられた。タツルスとレナミルが出会ったのは、レナミルが八歳。タツルスが十三歳の暖かい春の日だった。 王妃が息子のタツルスを伴って実家のある南に静養にやって来たのだ。通常王宮に妃として一度上がると自分の親の葬儀でも王宮を出られないはずだが、既に裏で権力を握っていた王妃は王宮の薬師を使い、静養が必要だということにさせたし、それに誰も異を唱える者もいなかった。静養には都からはレナミルの母の兄の妻で王妃様の妹でもあるクリグルと、その子供たちで息子のアソニジとキタビル、娘のエルムラ、クスハラも一緒に連れて来ていた。 従兄妹達とは年に一回は会っており、お転婆で気が強いレナミルと好奇心旺盛でいたずら好きのアソニジは気が合い、特に仲が良かった。兄のように慕い、仲良しのアソニジがわざわざ遠い都から来ているのにレナミルは気が晴れなかった。 私だけを見て。 私だけを愛して。 いつしかレナミルの心には、そのことばが心の奥底に刻まれてしまっていた。今回の王妃の静養も本来の目的は、ドリメルがどれだけ将来の王妃に相応しい娘に育っているのか自分の目で見極めて、またドリメルの周りにいる教育係の者達がどれだけの知識や技量の者達なのか、必要ならば王妃自らが選んだ者をドリメルに遣わして更に将来の王妃に相応しい娘に育て上げることであった。ドリメルだけ見極めたいなら、ドリメルだけ王宮に呼び出せば済むことだ。 王妃様一行の訪問にレナミルの両親や家の侍従や侍女、教育係まで右往左往の大騒ぎであった。家の者の関心はドリメルだけに注がれていた。兄は地方領地の貴族の子弟の常として、都にある学舎に通う為に既に家を離れていた。レナミルだけぽつんと広い家に一人で取り残されている気分だった。 レナミルは一人慌ただしい家の中を抜け出し、半時ほど歩くと着くクナズの川岸に着いた。クナズの川はセルシャの国の南に連なる山脈からの雨水や雪解け水がクナズの川に流れ込み、セルシャの国の南北を流れて最後は北の海に注いでいるが大河ではなく細いが流れが急な川だ。これがもしもっと穏やかな大河であったら、きっと水運でセルシャの国の南北はもっと密に交流していただろう。レナミルは心が晴れない時、この川岸に座って流れる川を眺めているのが好きだった。いつものようにお気に入りの少し小高い土手に向かった。今はセルシャの国に春に咲くサラシュの花がちょうど咲き終わる頃だった。 幼い頃からレナミルには不思議だった。この国の民はサラシュの花、サラシュの花としきりに言うが、春に咲く花ならばミクジの花の方が大輪で幾重にも重なった花弁が華やかで、更に匂いも甘い。それに引き換えサラシュの花は愛らしいとは言われているが赤い五弁の花びらの小さな花で匂いもなく、そしてこの国ではどこにでも咲くような花であった。しかもミクジの花のように香り水の原料になるのでもなく、クチャの花のように乾燥させて薬のようにぐずる子供に飲ませるように役にも立たない。それなのになぜセルシャの国の民はサラシュの花をあんなに愛するのだろうか。 ぼんやりそんな事を考えていたら、土手に一人の少年が同じようにぽつんと佇んでクナズの川をじっと見つめていた。領主の娘ではないが、レナミルもこの地域で暮らす人々の顔なら覚えているし、まして自分と年の近い者ならば尚更だが目の前にいる少年には覚えがない。赤い染めの綿の衣に青の織りの帯を絞めていて、ぱっと見ると普通の少年に見えるが、何やら他の少年にはない不思議な、そう何と言ったらいいのだろうか。彼の背中から大きな光と影が放たれているようだ。そして何より端整な整った顔をしていて、その眼差しはとても賢そうだった。思わずレナミルは誰?と目の前の少年に声を掛けてしまった。少年はびっくりしたようにレナミルをじっと見つめ返して来た。こんな人気ない土手になぜ自分と同じように少女がいるのか。整った顔の見知らぬ少年に見つめられてレナミルはどきどきしてきてしまった。 君こそ誰だい?こんな所で何をしているの?着ている衣が良い物だから川に魚を捕りに来たって訳じゃないね。そう少年はレナミルに問うて来た。まさか川に身を投げてとか馬鹿なことを考えていないよね?と更に厳しい視線で問うてくる。 違うわ。レナミルはそう答えた。その答えに少年は少しほっとしたように視線を緩めた。でも、レナミルは何故だかつい心の奥底に隠している想いを洩らしてしまっていた。姉さんは必要とされているから、お父様とお母様に愛されているけれど、私は何の役にも立たないから愛されないの。私がもし間違って川に落ちて突然消えてしまってもお父様もお母様もさほど悲しまないと思うわ。そんなレナミルの顔を何も言わずにじっと少年は見つめた。レナミルははっと自分の口にしてしまったことに気づいて慌てて話題を変えようとあなたこそ誰なの?ここで何をしているの?と聞いてみた。 少年はああ、と笑いながら、自分はカイと言う北の船乗りの息子で今は王宮に衛兵見習いとして仕えている。今回は王妃様の一行に着いて来ていて今は休憩中なので川辺まで遊びに来ている。自分は海の側で育ったから水辺だと心が安らぐからと言った。 嘘ばっかり。思わずレナミルは少年に言い返してしまった。王宮に侍女見習いはいるけれど、衛兵見習いなんていないわ。それに王妃様一行の警護にあなたのような子供は選ばれない。そもそも王妃様が王宮の外に出られるなんて普通はない出来事よ。今回も特別に静養という事で王宮の薬師や事師を使って話を作り上げて王宮を抜け出して、この南に来ているんだから。警護の者は腕利き揃いで、しかも今回王妃様がいらしている事は王宮の一部の人しか知らないはずよ。しまった!つい今回の知っていることを全て始めて見る少年に話してしまった。レナミルは慌てて口を押さえてしまった。そんなレナミルをじっと見つめていた少年は小さく笑い、君がレナミルか。噂どおり気が強いね。と呟いた。 逆にレナミルの方がびっくりしてしまった。彼は間接的に自分を知っているようだ。そんなレナミルに少年はいたずらっぽい笑顔を向けて君だけに僕の秘密を話してあげよう。僕はこの国の王子だよ。そう答えたのだ。それがレナミルとタツルスとの出会いであった。 ミクジの花はお姉様で、あたしはサラシュの花。急に押し黙ってしまったレナミルにタツルスはどうしたの?君は気が強くて物怖じしないお転婆娘とアソニジに聞いているよと二人の従兄の名前を告げた。レナミルは顔を上げて、タツルス様に一つ聞いてみて宜しいでしょうか?と声を掛けてみた。タツルスはいいよと親しげな笑顔で答えてくれた。セルシャの民は何故サラシュの花を愛しているのはでしょうか?春に咲く花ならばミクジの花の方が大輪で幾重にも重なった花弁が華やかで、更に匂いも甘く素晴らしいですし、クチャの花のように乾燥させて薬のようにも使えません。何の役にも立たないサラシュの花が何故民に愛されているのでしょうか?カナジュの鳥の伝説があるからでしょうか?そもそもその伝説だっておとぎ話なのに。 そんなレナミルの問いに、しばらくタツルスは何か考えていたようだが、今まで誰もそんな質問をしてきた者はいなかったから、深く考えてみたことがなかったね。やはりレナミル、君はおもしろい子だね。世継ぎの王子にそんな質問をした子は君以外いないよと笑い掛けて、僕はこう思ったよ。と続けた。 僕は今カナジュの鳥とはこの国の王を指していると思ったよ。この世の高いところからこの世の全てを見ている。そう良いことも悪いこともね。つまり王座という高い位置で全てを知っていて、正しい判断をしろという事なのかもね。サラシュの花はこの国の民なのかな。民のいない王国なんてないし、サラシュの花はこの国のどこにでも咲く。民は南だけでなく北や東、西にもいる。レナミル、君は知っているかい?ミクジの花はこの南にしか咲かないんだよ?北や東や西に株を分けて植えても育っていかないのさ。常にこの国の民と王は一緒に生きていく、いいや。王は民に生かされているから、カナジュの鳥はサラシュの花の朝露だけで生きているんだろうね。つまり民は自分達はサラシュの花だと思って、自分を愛するようにサラシュの花も愛しているんだと僕は思うよ。僕はミクジの花よりサラシュの花の方が好きだよ。その答えにレナミルは驚いてしまった。誰もが大輪で華やかで甘い香りのするミクジの花の方が好きだと思っていた。 まるでお姉様より私の方が好きだよと言ってくれているみたいだわ。急にレナミルは頬が赤くなってしまっているのに自分でも気がついた。私ったら何を勘違いしているのかしら。タツルス様は花のことを言っているのに。それでもレナミルの胸の鼓動は知らず知らずに早くなっている。それを誤魔化す為にレナミルはどうしてタツルス様はミクジの花よりサラシュの花がお好きなのですか?と聞いてしまった。まるでどうしてお姉様より私の方が好きなですか?と聞いてしまっているみたいだ。そんなレナミルにタツルスは笑いながら、さっき一つ聞いてみてもいいですかと言ったのに、もう一つかい?しかも僕になぜか考えさせるような難しい面白い質問ばかり君はしてくるんだねと笑った。そしてレナミルをじっと見つめると僕の周りには君みたいな子はいないよ。面白くて何を言い出すか目が話せないねと笑い掛けた。その瞬間レナミルの心の奥底に今までずっと刻み込まれていた何かが弾けた。 私だけを見て。 私だけを愛して。 レナミルは目の前のタツルスが驚かないように思わず溢れそうになる涙を必死で堪えた。翌日レナミルは両親と姉のドリメルと、ドリメルの教育を任されている教師達と一緒に王妃様一行の滞在しているホルトワの領主の館の広い庭園に招かれた。名目はミクジの花を眺めながら茶を楽しみながら親交を深めるであったが、実際はドリメルの品定めだ。十一才だがドリメルはまるでもっと年上の娘のように凝った髪型に結い上げて、うっすら化粧まで施されて迷いに迷って決めた紫の衣の上に赤の絹の衣を着ていた。 レナミルは昨日一緒に過ごしたタツルスともっと一緒にいたかったし、話したいし、姿も見たかったが席は離れていてそれも叶わない。まさか目下のレナミルが呼ばれてもいないのに自分からタツルスの近くに行くなど許されていないし、さすがにお転婆なレナミルでもそれはできなかった。近くにいるのにそれが叶わない。何とも辛かった。その内、大人達がタツルスとドリメルを連れて館の中に入って行ってしまった。その去って行く後ろ姿を見た時、レナミルは思わず泣きそうになってしまったが、アソニジや従姉妹達も同席しているので何とか泣くのを堪えた。 私、昨日から泣くのを我慢してばかりいるわ。レナミルはそんなことを考えていたその時、レナミル様。侍女の声がした。急いで意識を向けるとそこには十本ほどだろうか。赤いサラシュの花を白い紐で括った小さな素朴な花束を持った侍女が立っていた。いったいどうしたのだろうか。そんなレナミルに侍女はタツルス様から、もう咲き終わりだからあまり咲いてはいないが、もしまだサラシュの花で咲いている花があったら数本でいい。レナミルに渡してやってくれ。ああ、紐は普通の綿の紐でいい。絹の布など使わないでくれ。サラシュの花は誰だかレナミルは分かっているからね。と仰っていたので私がサラシュの花を探して作りましたと言って、その小さなサラシュの花束を手渡してくれた。 その日の夜、レナミルは興奮して床に横になっても眠れなかった。タツルス様が自分にサラシュの花束をくれた。昨日なぜミクジの花よりサラシュの花の方が好きなのかと問うてみたら、ミクジの花は本当はもっと地味な花だったのを交配させて花弁を増やしたり、匂いを強くさせた花なのさ。もうすっかり原種のミクジではないんだよ。サラシュの花は元々のままで自然だし、それで充分じゃないかと答えたのだ。 王妃と王妃の妹であるクリグルは今回滞在している南のホルトワの領主の館の一室で茶を楽しんでいた。 ねえ、お姉様。あのドリメルだけど美しく礼儀正しく育っているけれど、あの性格では王宮でやっていけるのかしら?おっとりとしていて神経も細そうだから、もし王宮での生活に耐えられなくなって気鬱になって、万が一自ら命を絶ったりすれば私達南の、そして何よりもお姉様とタツルス様の名前に傷が付くわ。 表沙汰にはされていないが、王宮での孤独な生活に耐えられなくなり、しかし一度妃として王宮に上がった以上、一生そこで生きていくしかなく、気鬱になり最後には自ら命を絶った妃達が過去にも何名もいた。もちろん王宮の体面を保つ為に急な病で世を去ったとされているが、王宮に仕えている者達は皆気づいていているだろう。現に前の王様の妃の一人も自ら命を絶ってしまったのだ。 王妃は妹のクリグルの意見にしばし考え込んだ。自分でもドリメルは美しく礼儀正しいが少々神経が細そうに思っていたが、やはりそう見えるのか。しかしそうなると誰が相応しいのか。 お姉様、いっそドリメルの妹のレナミルはどう?あの子なら気が強いし、従兄妹の中でアソニジと一番仲が良いから将来王宮に入ってもうまくやっていける気がするの。まあお転婆だけど九歳だから今から急いで王妃に相応しい教育を施せば間に合うでしょう。それにねと更にクリグルはいたずらっぽくこう続けた。侍女に聞いたらタツルス様がレナミルにサラシュの花で花束を作って贈るように命じたそうよ。タツルス様はドリメルよりレナミルの方がお好きなのではないかしら?まあタツルス様はうちのアソニジと仲が良いから、アソニジからレナミルの話を聞いて関心をお持ちになったのかもね。 タツルスもレナミルに花束を贈ったということは姉のドリメルよりもレナミルの方が気に入っているという事か。なぜ華やかで甘い香りのミクジの花でなくサラシュの花にしたのかは謎だが。これはいい。気が強くて王宮での生活でもやっていけそうでタツルスも好意を持っている。お転婆で健康そうだし、これなら世継ぎの誕生も期待できる。 そんなレナミルに王妃は、そなた。タツルスからサラシュの花束をもらったというのは本当か?と問うてきた。レナミルは恥ずかしくも誇らしげにはい。頂きましたと答えた。なぜミクジの花ではなくサラシュの花であるのか理由は聞いたのか?と王妃は続けた。息子がなぜそんな地味な花を選んだのか理解できないようだ。 レナミルは一昨日聞いたカナジュの鳥の話を伝えた。カナジュの鳥とはこの国の王を指しているとタツルス様は仰っていた。この世の高いところからこの世の全てを見ている。つまりそれは王座を指すと。王として正しい判断をせよと。そんなカナジュの鳥はサラシュの花の朝露だけを飲んで生きていると。レナミルは王妃に聞かせない方が良いと思った点は伝えなかった。 そんなレナミルの話に王妃は満足そうに微笑んだ。タツルスは本当に賢い。王様がああだから、もう将来の王としての心構えが充分にできている。自分がカナジュの鳥で、そなたがサラシュの花か。これはいい。フフフ。そう声に出して笑うとレナミルの両親に向かって、姉のドリメルをタツルスの妃にと考えていたが、どうやらタツルスはこのレナミルを気に入っているようだ。ついてはレナミルを将来タツルスの妃としたいのだがどうだ?と尋ねた。尋ねてはいるが、無論反対などさせないだろうし、両親ももちろん異論はない。そんなレナミルに向かって王妃は、レナミル。そなた将来の王妃に、世継ぎの母になりたいか?そう問うてきた。はい。迷わずにレナミルはそう答えていた。 私があの方の、タツルス様の妃になれる。手に入らないと思っていた幸福が自分の手のひらに急に落ちてきた。思わずレナミルは喜びのあまり泣き出してしまった。そんなレナミルに王妃はこう伝えたのだ。いつ何があっても将来の王妃に相応しいよう、人前で泣いたり取り乱したりしてはいけませんよ。 その後レナミルは妃になるのに相応しい教育を急いで受ける為に一人故郷のホルトワを離れて都にある王妃の妹でレナミルの叔母でもあるクリグルの館に身を寄せて、十六才でタツルスの元へ嫁ぐ日までの日々をそこで過ごした。 明日から向かうパルハハへの準備でタツルスの護衛の衛兵やお付きの侍従達は慌ただしく過ごしていたが、タツルスは今晩はどの妃の館にも泊まらず自分の館でゆっくりしたかった。一人静かにあのジユという女の事を思い出したかった。夕食を妃の一人のマスルクの元で済ませると自分の館に引き上げて行った。侍従に誰も通すなと伝えると一人自室の長椅子に座り、ぼんやりとあの女の事を思い出す。 そんな時だ。侍従が扉を叩く音がした。誰も通すなと命令しておいたはずだ。仕方なく入れと声を掛けた。侍従が申し訳なさそうに扉を開けると、その後ろには母の王妃が立っていた。母上?タツルスはこんな夜の母の訪れに驚いた。それに母がこんな風に夜に自分の館を訪ねて来る時はろくなことがない。思わず心の中で嘆息した。そんな息子に王妃は、単刀直入にこう命令した。 タツルス。今晩はレナミルの館で過ごしなさい。薬師の話では今晩レナミルは身籠りやすいそうですから。エルムラとクスハルも身籠ったのですから、次はレナミルの番です。お行きなさい。 タツルスは思わず目を閉じて天を仰いだ。母にここでどう反論しても無駄だ。はい。母上。そう致します。そう声を掛けて椅子から立ち上がった。そんな息子を満足そうに微笑んで見た王妃は自分を案内した侍従に向かって、今からタツルスはレナミルの館に向かうので仕度を。レナミルの所にもすぐに使いを。きっといつ来るのかと待ちわびているでしょうからと、まるでこの館の主であるかのように命令した。 レナミルは世継ぎの王子が欲しい為に今晩自分を呼んだのだ。何とも言えない虚しさと馬鹿馬鹿しさを感じる。仕方ない。とりあえず一回抱いてやろう。それで気が済むだろう。タツルスは夜もすっかりふけた王宮の自分の館からレナミルの住む館に向かって供の者を付けて歩き出した。 レナミルは何か不思議な胸騒ぎがしてそわそわと落ち着かなかった。どうしても今晩はタツルスと会いたかった。そしてタツルスをなぜか自分に繋ぎ止めなくてはいけない。そんな気すらした。 まあタツルス本人がレナミルに伝えても問題ないと思う事はタツルスの方から口にしているのだろう。あの時も自分からパルハハの染師と言っていたから今回の視察もただの視察なのかも知れない。気の回し過ぎかしら?やはり従姉妹達の懐妊で自分は気が立っていて、今も不思議な胸騒ぎでもしているのかしら?レナミルは思いを振り払おうと頭を振った。 冬のトクの日に産まれた子は勘が鋭いから船の船頭か山の先導にするといいよ。危険を察知してくれるからね。それか賭博師だね。トクの日に産まれた娘を嫁をもらう男は気をつけないと。浮気したらすぐにばれちまう。そうセルシャの民は秘かに暦で人の性格を占っているらしい。まあこれもカナジュの鳥と同じ迷信だろうが。そしてレナミルも冬のトクの日に産まれた。 レナミルはしばし考えて王妃様の元に自分の侍女を遣わせた。こう伝える為だ。薬師の見立てで今晩はレナミル様は身籠りやすい日なので、今晩はぜひタツルス様にレナミル様の館にお泊まり頂きたい。ついては王妃様からタツルス様にぜひお口添えをして頂きたい。これなら王妃様はタツルスに今晩はレナミルの館に泊まるよう言うし、タツルスも母のことばに従うだろう。 やはりレナミルの思惑どおり夜遅くになってタツルスはレナミルの館にやって来た。レナミルは既にいつもは結い上げている髪も降ろし、衣も夜衣に着替えていた。自分が胸騒ぎがしていると同様にタツルスはここ数日上手く装おっていたが何やら心が乱れている様子だった。でもいったい何があったのだろうか?確かパルハハの染師と謁見した日からだ。タツルス様のお心を乱す何かがパルハハにあるのか?誰かいるのか?染師と謁見したが身分が低いのでパルハハの領主も臨席していたはずだ。パルハハの領主?その縁のある者か? まるでさあ役目を果たそう。その為に自分はここに来たのだからという思いが手に取るように透けて見える。レナミルも黙って従ってそっと寝台の縁に座った。それを合図のようにタツルスはレナミルの夜衣の帯を解くと肩から衣を滑り落とした。そして静かに優しくレナミルの身体を寝台に横たえると、自分の衣も脱ぎ捨ててレナミルの身体に覆い被さってきた。 キヌグスの領主とその跡継ぎの息子のクメルアは自分達の耳を疑った。今王宮からの使者は何と言ったのかと。世継ぎの王子のタツルス様がパルハハに視察に行くので道中のキヌグスでのもてなしや一行の宿の手配や警護など抜かりないように急いで準備を整えるように。それと今回の視察はあまり公にされていないので目立たぬように、それでいて世継ぎの王子なのでくれぐれも失礼のないようにと。 |