町田 千春 著

染色師 その3     TOP

 

ジユもサアンゾの手厚い気遣いのおかげですっかり元気を取り戻していた。ジユの好物ばかりの食事や高価な茶、身体に良いので薬草を浮かべた湯にも浸からせてくれ、湯上がりには侍女が背中やら腕やら足まで揉んでくれたぐらいだ。

まったくあたしは王妃様かお妃様みたいな扱いだよ。こんなことされて逆にばちが当たらないか?とすら思ってしまった。昨日サアンゾがジユの所に来て、ちょうど王様の息子のサジカル様がパルハハに視察に向かうので、事情を伝えて一行にジユも加えてもらいパルハハまで送り届けるからと伝えた。また気疲れしてしまうと顔をしかめてしまったジユにサアンゾは笑いながら、サジカルは王様でも世継ぎの王子様でもないし、サジカルの妻はそなたの母と同じカリヌルの貴族の出なので大丈夫だと伝えた。後五日もすればこのこのキヌグスに一行は着くだろうと。

ジユも連日領主の館にある客人用の部屋でのんびりと過ごしていたが、今日は先ほどから急に侍従も侍女も慌ただしく走り回っている。いったい何があったのだろうか?昨日と違う様子にさすがにジユも気になり顔見知りの侍女に声を掛けた。

ああ、そうなの。王宮から使いの者がおみえになって王子様がお越しになるのではなくて、世継ぎの王子様が来ることになったのよ。だから護衛やお付きの侍従の数も増えたのよ。その人達の部屋や食事も増えるから急いで調えないといけないし、世継ぎの王子様とそうでない普通の王子様では宴や献上の品だって違うわ。こんな急に言われても迎える方の準備ってものがあるでしょ?だから領主様始め皆大慌てよと忙しさで早口になりながら話していた。

そのことばにジユも驚いた。もう二度と合わないと思っていた、あの世継ぎの王子とまた会うのか。その瞬間しばし二人でただ黙って互いの瞳の奥を見つめ合ってしまった瞬間が甦ってきた。

タツルス一行はキヌグスに到着し、タツルスは長旅の疲れを癒すべくキヌグスの領主の館にある別棟の庭園にある東屋で茶を飲みながら寛いでいた。キヌグスは気候も温暖で過ごしやすい。頬に当たる風も心地良いし、庭園では暖かい春の日差しを受けて春の花が咲き誇っている。目的のパルハハまでちょうど半分来たか。タツルスはぼんやりとパルハハにいるであろうあの女の姿を思い描いていた。

 長い黒髪を一つに縛り、着物の袖を捲り上げて真剣な表情で紫の染液の中に布を浸して、一息ついて額の汗を手の甲で拭う。まるで目の前でジユが実際に作業をしているのを見ているようにその様子がありありと自分の脳裏に浮かんで来る。それだけなく行ったこともないのに、工房の中の湯の湯気や染料の煮立った匂い、怒鳴るような声で作業を進める男達の声まで聞こえてくるようだ。

そんな風にぼんやりと物思いに耽っているタツルスに侍従の一人が声を掛けた。おくつろぎの時に大変申し訳ございませんが、キヌグスの領主の息子の妻のサアンゾという者からタツルス様に願いがあると申しております。タツルスは訝しく思ったが、ともかく願いの内容を聞こうと侍従に話を続けさせた。今回のパルハハまでのタツルスの一行にジユというパルハハの染師の娘を加えて頂けないか。パルハハの領主と共に王様からお召しがありパルハハから出てきたが帰路の途中で旅の疲れが出て、このキヌグスで休んでいた。元気になったので一行に加えてもらってパルハハまで帰したいと。もちろん扱いはタツルスに仕える侍従の一人としてでいいし、元々来る予定だったサジカルには承諾を得ていたので、同じようにタツルスにも認めてもらいたいと。

あのジユがここにキヌグスにいる?タツルスにとってにとっては思いがけない知らせであった。すぐにここにジユを連れて来るよう命じた。

タツルスがジユを呼ぶよう命じた時、ジユはキヌグスの領主の館から出掛けていた。元気になり、無事パルハハへ戻れる算段もついた。もうキヌグスに来ることも一生なさそうだし、せっかくなので、前にキヌグスから祖父のグジの元に修行に来ていた男の工房に染めを見に行く事にした。

 キヌグスの領主の館では世継ぎの王子の歓迎の宴やら茶会やら開かれているようだが、居候のジユはもちろんそんな席に招かれる身分でもないから、侍女に自分は外出すると断って館を出たが、忙しそうな彼女は空返事であった。居候の身なので馬車を出してもらうでもなく、とりあえず歩いてキヌグスの町の広場まで行き、そこから馬車を拾って工房まで向かった。

 久しぶりに会う兄弟子だったイサはジユを歓迎してくれた。とりあえず何か飲もうという彼を遮って、すぐ工房を見せて欲しいと言ったジユに苦笑した。湯を飲むより先に染めかい?と。

工房に入るとゾルハの自分の家の工房と全く同じような湯気や染料の煮立った匂いや物音がしている。もう一月も工房から離れていると、この音や匂いや空気が無性に恋しい。ジユは深く息をしてこの感触を久々に味わった。他人が作業をしているのを見ていると自分も染めたくなってソワソワしてきてしまった。そんなジユに気がついて、イサはやってみるか?と木綿の生糸を手渡した。

 生糸が用意してあったという事はジユが染めたがるのは、とっくに見越していたのだろう。ジユはいつもと同じように作業を始めた。やはりイサから話は聞いていただろうが、女の染師が染めの作業をするのを工房の他の者は興味津々な顔でジユの手元や動きを見つめていた。集中して作業が終わるとジユの作業を固唾を飲んで見ていた工房の者達から次々質問が来た。

場所を工房からイサの家に移して、答えているうちにいつの間にか昼間だと言うのに車座になって小さな宴のようになっていた。ジユは酒は飲めないので飲まなかったが、イサや数名の者は酒を飲み、イサの嫁が素朴だが温かい手料理でもてなしてくれる。やっぱりあたしはこういう雰囲気の方が合うんだね。領主様の館のもてなしはあたしには合わないね。まあそれも後数日で終わるし、世継ぎの王子様が来たから、あたしの事は後回しだしね。と笑った。

サアンゾの話ではタツルス様の侍従に伝えておくので、出発の日に一行の列の最後の方について行くようにと。出発までの数日は邪魔にならないように館の自分の部屋にいるか、もしキヌグスの領内で行きたい所があれば出掛けてもかまわないと伝えられた。

イサの家での小さな宴も盛り上がって、すっかり日も暮れてしまった。イサとイサの嫁はしきりに泊まっていけと勧めてくれたが、いちお領主の館に居候の身だ。誰も待ってはいないが、とりあえず帰らないといけない。染めの作業で着物は汚れてしまったので自分の着物を貸すと言ってくれたイサの嫁にも礼を言って断った。何とか日が暮れても走ってくれるという馬車を探して、ジユがキヌグスの領主の館にたどり着いたのは、とっくに夜もふけた頃だった。

ジユは領主の館の門番に門を開けて入れてもらおうとした時、遠目に男が息を切らしてジユに向かって走って来た。いったい誰だろう?近づいて来た男は身なりからして世継ぎの王子様の侍従らしい。侍従の男はジユの姿を認めると、この馬鹿者!今までどこにおったのだ!と猛烈な勢いでジユに怒鳴り付けた。

は?、ジユはいきなり知らない男に怒鳴られ怒られ事態が飲み込めずに呆然と門の前に突っ立ってしまった。そんなジユの腕を侍従の男は強く引くと、早口でタツルス様がお前をお召しだ。早く行け!と声を掛けた。

 あたしを世継ぎの王子様がお召し?いったい何でだ?午後にタツルス様がお前に用があるから呼んで参れと命令があったのでこの館の侍女に聞いたら、どこか出掛けたが場所も戻る時間も聞いていないと言うではないか。タツルス様にお伝えしたら、ともかく戻ったすぐに呼ぶようにとのご命令だったのに、こんな夜更けに戻って来るとわ。夜の宴の最中にも何度もあの娘はもう戻ったのかと尋ねられた。まったく。こんなにお待たせして。夜遅くなっても必ず呼べとのご命令でまだ眠らずにお前を待っておいでだぞ。

ジユは怒った侍従に引っ立てられるようにタツルスの待つ部屋に連行された。ジユは侍従に引っ立てられて、タツルスの泊まっているセズトロの領主の館の別棟の豪華な部屋に連れて行かれた。扉を叩くとタツルス様、質問致します。お召しのジユという娘を連れて参りました。と声を掛ける。

 中から入れとあの王宮の図書室と同じ低く滑らかな声がした。ジユは急に呼び出されて釈然としないが、ともかく相手が相手だ。とりあえず従って扉を開けた。あの時と同じように紫の絹織物の衣を羽織り、トクミの青刺繍だろうか。手の込んだ刺繍の帯を絞めていて、ただ宴の後に自室で寛いでいたのか少し帯が弛めてあり、襟も弛まり、首筋から胸元が少し見えていて、長椅子に座って卓の上には茶器が一つ置いてあった。

ジユの姿を認めるとぱっと椅子から立ち上がると大股でジユの元に近づくと、がしっと力強くジユの肩を掴んで、今までどこに行っておったのだ?と先程の侍従と同じくらい大きな声で詰問された。

いったいあたしに何だって言うんだい。あたしはあんたの子供でもないんだけどね。ジユはそう心の中でため息をついたが、とりあえず申し訳ございません。知り合いの染師の工房に行っており、戻りが遅くなりました。と頭を下げた。そんなジユを見てタツルスは心配したぞ。と続けた。

急にいなくなったと聞いた。それになぜ同じセズトロの館にいたのなら宴や茶会の席にいなかったのだと問うて来た。

ジユは思わずその問いに苦笑してしまった。急にいなくなったと言っても侍女には伝えたし、あっちもあたしもまさか世継ぎの王子様に呼び出されるなんて思ってもみなかったし、宴や茶会に呼ばれるご身分でもないんだけどね。

苦笑したジユの表情に気がついてタツルスは何がおかしいのだ。本当に心配したのだぞ。言うといきなりジユを強く抱き締めた。

突然の事にジユは自分に何が起こったのか分からなかった。世継ぎの王子様があたしを抱き締めている。ジユは我に返って慌てた。抱き締められている事もだが、自分の着物はさっき染めの作業で染料が跳ねて汚れている。そんな着物で抱き締められたらタツルスの着ている高価な絹織物の衣を汚してしまう。

 ジユは恐る恐る、離して頂けますかと軽くタツルスをの胸を押した。その時ジユの手のひらがタツルスのはだけた襟元から滑ってちょうど鼓動している胸の上に乗ってしまった。タツルスの胸の鼓動と肌の熱さを直接感じてしまった時、ジユの心の中にタツルスの思いが流れ込んで来た。この人は豪華で、そして色鮮やかな檻に閉じ込められた獣だと思ったけれど生きているし、そこから飛び出したいと願っているんだ。あたしと同じように自由に野山を駆け回りたいのだ。あたしと同じだ。

はっと驚いて視線を上げると、そこには自分をじっと真剣な眼差しで見つめるタツルスがいた。その瞬間しばし二人はただ黙って互いの瞳の奥を見つめ合ってしまった。そうあの王宮の図書室でのように。そう瞳の奥で赤い糸と青い糸がゆっくり絡み合って1つの糸をこよるように。

気がつくと二人はお互い何も言わずにどちらともなく唇を重ね合っていた。そしてゆっくりと舌と舌を二本の糸をこよるように絡め合っていく。お互いの唾液が絡まり糸を引く。

 ジユはタツルスの襟元から手のひらを胸に滑らせいとおしそうタツルスを撫でた。タツルスはジユの慣れた手つきに驚いた。そなた、生娘ではないのか?ジユはいともあっさりと、ああと答えた。さっきのように取り繕ったことば使いなんて必要ない。あたしたちは同じだ。

もしや染めだけでは日々の糧を得ることができないので、身を売って稼いでいるのか?タツルスはそんな風に想って、ついジユに憐れみのこもった視線を向けてしまった。

タツルスの考えていることが読めたのだろう。別に春なんて売ってないさ。

では何で婿も迎えていないジユが生娘ではないのか。

昔惚れた男がいて、その男と寝たのさ。ジユはごく淡々と、まるでいとも当たり前のことを言うようにそう言った。

 セルシャの国では婚姻前に男と寝るような娘は騙されたり、家族に売られて春を売る商売をしている者だ。驚いた顔をしているタツルスに生娘を捧げるなんて言うけれど、それは違うね。何も女だけが供物のように男に捧げられているなんてことはないんだよ。まあ売られた娘や家の為に何人も妃のいる王様の所に上がった貴族の娘はそうだろうけど。女の方だって好きな男に抱かれれば悦んで身体の奥の泉から泉の水が溢れてくるし、獣みたいな悦びの声を上げるさ。

え?今まで女の本当の悦びの声を聞いたことがないのかい?お妃様がいるんだから生男って訳じゃないだろう。貴い人は寝屋でも身も心も全て脱ぎ去ってお互いの本当の姿を見せ合わないんだね。哀れだね。あんな豪華な檻に閉じ籠められて。なぜ人は夜にまぐわうのかって。それは人の姿から獣の姿に変わってしまうから、夜の暗がりの中で抱き合って、お互いの本当の姿を見せ合うのさ。

タツルスもジユの着物の襟元から手のひらを滑り込ませジユの素肌に触れた。毎日のように念入りに肌の手入れをしている妃たちの肌と違って、すべすべとなめらかなな肌ではない。しかしその肌の下には、熱く脈打つ血潮が通っている。温室で育てられた果実のようではなく、自然の中で激しい雨に打たれ、雪の寒さも、そして夏の暑さも全て受け取って育った果実のようだ。

 タツルスは我を忘れて、荒々しくジユの着物を脱がして、その乳房にむしゃぶりついた。ジユの固く凝った胸の頂きを舌先でくるむように舐め上げた。もう片方の胸の頂きもまるで木の実を握り潰すようにしてやると、ジユの息は一気に艶めいてきた。そんなジユの姿にタツルスは自分の中の熱も上がって来ているのがはっきり分かった。ジユの女の身体の奥の泉の水が溢れてきた。その水の甘さを味見するように、泉の入口に舌を差し入れる。チロチロと舌を使い、丹念にその甘さを堪能する。タツルスは自分がジユとの交わりに堕ちていくのを感じていたが、止められない。

ジユの方もタツルスの施す愛撫に身を委ね、また自分からも快楽を貪ろうと積極的に振る舞っている。レナミル始め妃の誰もそんなことはしない。

また割りきった王宮の手慣れた貴族の奥方達との駆け引きと技巧に溢れた交わりとも違う。そうお互いの本能の赴くままにお互いを貪り合う。そして一つになっていく。そんな交わりを一度も自分は体験したことがなかった。どこまでが自分で、何処までが相手なのか分からなくなるような不思議な一体感が自分達を襲う。その夜、二人は身も心も一つに溶け合った。

二人が結ばれたあの夜以降、パルハハへの道中、ジユとタツルスは連日連夜愛を交わし合った。もちろん侍従や警護の衛兵は二人の関係に気づいていたが何も言えないし、タツルスは王宮での窮屈な生活から解き放たれた非日常の旅で羽目を外してしまったのだろう。皆そう思っていた。

ジユはパルハハまでの道中お戯れの相手を勤めて、パルハハに着いたらその礼として大金と必要ならば誰か程よい相手を婿に宛がうようパルハハの領主に命令があるのだろうと。生娘ではないが旅の間お慰めした娘ならば周りも何も言えまい。

しかしタツルスはジユを旅の間の仮初めの相手とは思っていなかった。ジユもあまりにも身分の違うタツルスとはきっとパルハハまでの間だけのつかの間の恋だと分かっていてもタツルスを恋しいと思う気持ちは止められなかった。

 トワとの恋に破れ、もう自分は誰も愛さないと思っていたのに、こんな気持ちにまた自分がなるなんて不思議な気分だった。昔トワとの交わりは、元々同じ者同士で二つに別れてしまっていた者が一つに戻る。そんな想いがしたが、タツルスとの交わりは全く異なる異質な者同士が交わって、自分が変わっていく、変えられていく。そうそれはまるで違う色の染料と染料を混ぜて染めてみたら、思いもよらない新しい色の染めが生まれてくる。そんな感覚であった。タツルスは道中、気分が優れないと理由をつけて各領主との宴や茶会を欠席してジユとの貴重な時間を楽しんだ。

昼日中から明るい部屋でお互いの肌を重ね、二人で抱き合った後の気だるく、そして心地よい時間。タツルスはジユを自分の胸の中に抱き締めながら、いろいろな話をしてくれた。本当は酒が嫌いだが、立場上飲まない訳にいかず、嫌々宴の席では、さも旨そうに装って飲んでいる事。子供の頃、従兄弟と一緒に図書室の書庫に忍び込んだが、誰もいないと思った事師が鍵を掛けてしまい出られなくなって、タツルスの姿が見えなくなって王宮中が大騒ぎになって見つかってから父王にこっぴどく叱られ、罰として一晩中寝ずに代々王家に伝わる難しい古文書の写本をさせられた事。幼い頃の話や誰にも明かしていない秘密の話もしてくれた。

そして深い胸の内も明かしてくれた時もあった。幼い頃、もし自分が世継ぎの王子でなかったらと何度も思った事があったそうだ。王子でなく船乗りの息子で、大きくなったら自由に広い海を渡りたい。でもそれは叶わない夢であった。そう王子でも世継ぎの王子でなく、異母弟達のようにただの王子であればとも願った事も何度もあり、弟達が羨ましかったと。そして今でも時折そう思う事があると、少し寂しそうな目をしてそう呟いた。

その姿を見てジユも胸が痛くなった。この人は本当に美しい檻に閉じ込められているのだ。他の誰にも明かしていない二人だけの秘密。それをジユにだけ明かしてくれるのは、何ともくすぐったいような誇らしい気分だった。時には今まで誰にも打ち明けられず、一人ずっと苦しい思いをしていたのだと思わせる言葉もあった。

それはジユの知らない外交や政治についての話でもあった。今の王妃の意向で南のオクルスに傾き過ぎている外交を、北のマルメルと均衡が取れるようにしないといけないと秘かに考えていて、秘密裏に北に使者を送っている。交渉がまとまれば友好の証しとして、誰か王女を妃にという北からの条件を飲んで、恐らく15歳になる異母妹を嫁がせる事になる。数年前にもう一人の異母妹の王女が16歳で15歳も年上のオクルスの王に嫁いで行かされた時、それを決めた母の王妃を冷たい女だと心の中で罵った。

それなのに結局自分も同じように国の為に妹を嫁がせようとしている自分は冷たい男なのだと自嘲気味に呟いた事もあった。お前をこの腕に抱いて、他の女の話をするなんて不謹慎極まりないがと前置きをした上でこう辛そうにこう話した事もあった。妃の一人の東のザルハスの領主の娘のグリソルは、口には出さないがお互いに想い合っていた男がいたようだ。それが母の王妃の意向で急に嫁いで来させられた。慣れない王宮での暮らしに新しい妃も王宮に上がり、しかもその妃は王妃の身内で身贔屓される。その心労からだろう。やっと身籠った王女を死産してしまい、それが元でもう子は望めない身体になってしまった。薬師や周りに使える者達に厳重に口止めしたが、このまま一生王宮を出られず生きていかなければならないので哀れだと。

もしもっと早くジユと出会っていたら、二人の侍女も妃にはしていなかっただろうと言った時、ついジユは照れ臭さから、そんな事言って周りに並みいる美しい侍女達や男女の営みに手慣れた貴族の奥方がいるじゃないか。いつまた新しい妃や気に入りの女ができてもおかしくないじゃないかな。男のそんな言葉は信用ならないねと鼻で笑うと、こやつ、そのように言うのかと可笑しそうに声を上げて笑い、ジユの鼻をぎゅっと摘まんだ。

 そしてその指が鼻から唇に滑り下ろされると、優しく、そうまるで羽が触れるかのように優しくジユの唇をいとおしげに触れた。唇の輪郭をなぞるように優しく触れた後に、じっとジユを見つめて、お前以上に愛せる女はいない。お前がいれば充分だと熱っぽく囁くと、ジユの唇に自分の唇を重ねてきた。

最初はただ触れ合うような口づけから、お前の中に入らせてくれとせがむように、タツルスの舌がジユの唇を割って入ってきた。ジユもそっと目を閉じて、タツルスの与えてくれる口づけの甘さに浸った。タツルスは今までの人生でこんなに何かを、誰かを激しく欲したことは二十五年間の人生で一度もなかった。

 妃たちを迎える前に既に貴族の手慣れた奥方達から手ほどきを受けて女を知ったし、貴族の娘たちを妃たちに迎えてからもたまに昔馴染みの奥方達と一夜を共にしたこともあるし、好みの侍女達を妃に迎えてそれなりに寝屋を楽しんだ。だがジユは、ジユとの関係は他に比べようのないものであった。

 正直ジユは女の好みで言うとタツルスの好みではない。そう、もっと豊かな乳房と愛らしい顔の女の方が好みだ。

 自分に悪い遊びも教えてくれた従兄のアソニジがタツルスが手を付けた二人の元侍女の妃を見て、にやりと笑いながらこう言った時があった。男の女の好みは幼少期に決まってしまうそうですぞ。母が厳しくて愛情を与えられなかった男は乳房の豊かな女を好むとか。たくさんの子を産み育てる女は愛情深いと言いますから。愛らしい顔がお好みなのは我らの母達は気が強く何かとやかましかったですからね。ですからタツルス様と私は女の好みは一緒ですなと笑っていた。

 そうアソニジも名家の跡継ぎの息子だけあって親の決めたやはり南の名家の貴族の娘を嫁に迎えているが、陰でこっそりと貴族の奥方や娘達と関係を持っている事はタツルスも知っていた。キヌグス出身の貴族の奥方であるセルカイもタツルスの馴染みの一人だが、恐らくアソニジとも関係があったのだろう。でも特に構わなかった。

でもジユは違う。いったいどんな男にジユは生娘を捧げたのか。どこで二人はどんな風に知り合って、なぜその男と夫婦にならなかったのか。そしてこの後、自分とジユはどうなっていくのか。ジユに他の男が声を掛けたり、誘ったりしないか。この視察が終わると自分は王宮に戻らないといけない。都の王宮とパルハハのゾルハの村。遠く離れた所にいるだけに心配でならない。このままいっそ、ジユをどこかに閉じ込めて他の男の目につかない場所に連れ去りたい。自分だけを見つめてくれて、そして自分もジユだけを見つめていたい。

 自分の立場なら裏で手を回してジユを妃として王宮に上げることくらいは簡単にできる。ジユをパルハハの領主の親戚の娘ということにして、妃の一人にして寵愛すればいい。元は自分の姪を妃にと望んでいたくらいなので、パルハハの領主も喜んで協力するだろう。まあ母の王妃は横からいろいろ言うだろうが、旅の間に出来心で手をつけてしまって金で解決しなかったので体面と口封じの為に妃にする。所詮王妃になれる身分の娘でないなどと言えば、しぶしぶだが承諾するだろう。

しかし何より自分の人生を思うままに生きているジユを、自分は狭い檻のような王宮に閉じ込めるのか。ジユが檻のような王宮に閉じ込められて、最初は牙や爪を立てて抵抗した獣がみるみるうちに弱っていくように、精気がなくなっていく。そう妃の一人のグリソルのように虚ろな微笑みを浮かべて生きていくのか。たとえどれだけ自分が愛して大切にしてもジユは王宮では生きられない。タツルスは二人の未来を思い、やりきれなさを感じていた。

今回のパルハハへの視察も終わり、明日の朝には都への帰路に発つ。パルハハに到着したがジユを故郷のゾルハの村に返さず、一緒にパルハハの領主の館に泊めていたがついに明日にはジユと別れないといけない。タツルスは何か良い案がないか思案し始めた。そうこれからもどうしたらジユと会えるのかを。いよいよ二人の最後の夜となった。

ジユも叶うのならば、ずっと自分の側にいて欲しい、離れたくないと思っても所詮それは叶わぬ夢だと分かっていた。それに自分があの王宮で暮らすなんて想像もできなかった。ジユという名前を捨てて貴族の名前を名乗り、絹の衣を着て髪を結い上げ金の飾り物をつけて、穏やかな笑みを浮かべて、侍女を従えて王宮内をしずしずと歩く。想像するだけで茶番劇もいい所だ。

 それにもし自分がそんな姿になったらタツルスは今のように自分を愛してくれるのか。いいや、きっと違うだろう。兎の皮を被った虎ほど滑稽な物はない。きっと彼の中で自分は色褪せていくだろう。タツルスに愛されなくなって、あんな美しい檻に閉じ込められているのはどれだけ苦痛だろうか。自分は本気で愛し合った男と所詮結ばれない運命なのだろう。そうジユは唇を噛み締めた。

それでも今日は二人の最後の夜だ。せめて思い出に残るような。そうトワとの別れはただ悲しいだけだったので、タツルスとの別れは何か幸せな思い出の一つでも残せるように大切に過ごそう。そう心に決めた。広い寝台の中でタツルスは自分の胸にジユを抱きジユの長い黒髪に指を絡めていとおしそうにその髪にも口づけしていた。

ジユも自分ではこの流れるような黒髪は気に入っていた。女としては冷たいように見える愛らしさの欠片もないスッとした一重の瞳に唇も小さくて薄い。身体だって毎日の染めの重労働で細くてしなやかな筋肉がついているし、胸の膨らみも尻も豊かでない。けれどこの黒髪だけは自分でも気に入っていた。染めの作業をするので短く切った方が便利だが、切らずに一つに括っていたが、今まで切らずにいたのはこうやってタツルスが愛でてくれる為にだったのだろうかとすら思った。またトワはこうやってあたしの髪は愛でてくれなかったなとおぼろげな昔の記憶を思い出していた。

何か言いたげなタツルスの視線を感じた。きっと自分にどう別れのことばを掛けたらいいのか躊躇しているのだろう。自分の方から声を掛けた方が良さそうだ。ジユはそう思い口を開いた。今日で最後だけどあたしは幸せだったよ。もう二度と誰も愛さない、誰にも愛されない。そう思ってた。でもあんたに出会えてこうやって本気で人を愛せた。幸せだったよ。そう口にした。

 思わず涙が溢れそうになり慌ててジユは、世継ぎの王子様に出会えるなんて夢のような事があったんだから、この後何かバチが当たるかも知れないね。馬車に轢かれるとか金をすられるとかと、冗談を口にして無理に明るく振る舞った。

そんなジユにタツルスはじっと熱い真剣な眼差しを向け、いいや。ジユ。俺達は今日が最後じゃない。これからも俺はお前に会いに来る。そう言うとジユをぎゅっと抱きしめジユの唇に自分の唇を重ねてきた。タツルスは一系を案じた。ジユと王宮の外で会えるようにしたらいいのだ。

元々父王が若い時には各領地に頻繁に視察に行っていた。各領地からの報告はあるがやはり今回の視察に赴いてみて、自分の目で確かめ、民の声を聞いて肌で感じた事は王宮にいては知り得なかったと実感した。ただ最近は父も年齢の為か、それともこちらの方が大きいのだろう。父王が南以外の領主と、また南でも自分より王になびかないようにと母が王宮の事師に手を回しているのだろう。地方への視察はぐっと減った。

今回どの西の領主も本当に嬉しい。自分の領地を、そして民の暮らしを直接タツルス様に知って貰えた。本当はもっと来て欲しいが今まで何度も王宮側から願いを退けられていたと自分が知らない事実を伝えてくれた。

 各領主と二人きりで会談できたのも収穫が大きかった。地方への視察を増やせばいい。今回はパルハハだが西にはまだ六つの領地がある。その途中で落ち合えばいいのだ。

 それ以外に狩りだと遠乗りだと名目をつけて王宮の外で会えばいい。普通の馬車なら都からパルハハへは8日、キヌグスへは3日だが、王宮の選りすぐりの駿馬を使って急ぎ走らせればキヌグスへは1日半、パルハハでも3日半で着くだろう。小さい頃から王族の男の嗜みとして乗馬はこの国一の師に習っているし、王宮には自分の愛馬も数頭いる。

そうと決まったらタツルスはすぐ秘かに手を回して入念に準備した。まずジユと落ち合う場所の確保と協力者だ。自分の右腕である世継ぎの王子付の侍従長と数いる侍従の中で特に信頼が置け、秘密の守れる優秀な二人を選んで準備に当たらせた。北のマルメルと水面下での交渉にも携わった優秀な者達なのでタツルスの意を受けてすぐに手筈を整えてくれた。

パルハハの領主とキヌグスの領主を抱き込み、タツルスとジユが落ち合う場所はそれぞれの領主が持っている領内にある別邸にした。もちろん二人を知るサアンゾも協力することになった。そしてもう一人協力者がいた。タツルスの馴染みの夜を共にするセルカイだ。奇しくも彼女はキヌグスの貴族出身だし彼女の夫は狩りの名手だ。また乗馬の腕も素晴らしい。セルカイ夫婦と狩りや遠乗りという名目で出掛けよう。

 今回のジユとの事はセルカイには正直に打ち明けた。彼女は口が堅いし、なので今まで誰と関係を持っていたのか明かされたことはなかったし、タツルスにとっては年上の世慣れた姉のような彼女を慕っている部分も多かった。王宮の殺伐とした中でも人間の心の機微に敏かった。

一度情事の後の気だるい寝台の中でセルカイは、タツルス様は本当に人を愛する事を知らない可哀想な方ね。哀れむような慈しむような不思議な笑顔でそう言った事があった。その時タツルスは君を俺なりに愛しているよと嘯いたが、セルカイはそんなタツルスの答えに黙って笑っていた。

 ジユとの話を聞くと弟に恋人ができた姉のように喜んでくれた。ただ冗談めかして、あなたに本当の愛を教えられるのが私じゃなくて残念だったわと妖艶な笑みと流し目もくれたが。また警護の衛兵も身元を入念に確かめさせ、そう母の息の掛かっていない西の出身で口の硬い者を厳選させた。

こうして二人はパルハハやキヌグスで何度も落ち合い、愛を確かめ合った。タツルスはジユと、ジユの愛を得て自分が本当に生きている実感を得られる充実した日々を送っていた。

 ジユと会う為の口実であった各領地への視察も行ってみると自分はどれだけ民の暮らしを分かっていなかったかを思い知ったし、普通の民として暮らしているジユのことばで気づかされたこともたくさんあった。

 その一つにこんなこともあった。なぜこの国では女の染色師がいないのか。ジユがある商人に聞いた話ではオクルスの国で他の国の女の染師に会ったそうだ。確かに体力的には厳しい仕事だが自分もやっているし、本当は染師になりたかったが諦めて染師の嫁になった者も知っている。

 表には出していないが家業の染めを手伝っている女だってたくさんいるはずだ。昔は学舎の教師に女がなるなんてと言われたが、少しずつ女の教師も出てきている。染師だって、また薬師や語師に女がいてもいいじゃないかと。また自分が西の視察ばかり行っては母の王妃が訝しむので異母弟のサジカルとマトバスも北や東の視察に行けるように父王に願い出て承諾を得た。弟達も国の為、また父王と世継ぎの兄の為に働けると喜んで精力的に各地に赴いてくれた。

ただ一人異論を唱えた者がいたが。そう母の王妃である。ある日タツルスを自分の館に呼び出すと最近そなただけでなくサジカルとマトバスも急に地方へ視察に行くようになったが、王様は何をお考えなのかとタツルスに探りを入れてきたのだ。

 タツルスは今回の視察は父王の命ではなく、いずれ王となる自分の御代に国が上手く纏まるように自分が父王に願い出た。サジカルの妻もマトバスの母も西の出身なので公平に判断できるよう自分が西に、北はサジカルを、東はマトバスを行かせている。今回の件には母上は口を出さないで頂きたいときっぱりと言い切ると王妃は怒りで顔を赤くした。

まさか息子に正面切ってこのように言われるとは夢にも思っていなかったからだろう。しかしタツルスは母の干渉から自由になれた気がして晴れ晴れした気分であった。そうなるとタツルスは更に思い切った行動に出た。妃の一人であるグリソルを王宮の慣例に逆らい産まれ故郷のザルハスで静養が必要なので王宮からしばらく出すと命令したのだ。

 この決定に二度と故郷には帰れないと諦めていたグリソルは涙した。タツルスはグリソルに自分はそなたが想い合っていた者がいた事を知っていた。それなのにこの王宮に閉じ込めてしまって済まなかったと詫びると、グリソルは他の者を心に住まわせながらタツルス様のお側にいた不実な私をお許し下さいと泣き崩れた。

 しかしタツルスも今なら分かる。本当に愛する者が現れてしまったら誰の心も、もうその人をずっと心に住まわせてしまうのだ。自分もグリソルも。今まで辛い想いをさせてしまった詫びの気持ちもあり、グリソルの静養には出来る限りの事をしてあげた。

そうジユとの恋はタツルスを大きく変えていったのだ。最近タツルスは頻繁に地方に視察と旅に出るようになり、しかも旅から戻って来ると幸せそうな表情をしているし、旅から戻って数日経つと何やら急に寂しそうな顔をしている時もある。明らかに何かある。レナミルは不審に思った。

 レナミルは内密に王子の動向を探らせた。王子の侍従の一人に秘かに大金を渡し調べた所この三月の間、西のキヌグスやパルハハに何度も頻繁に行っていて、しかも元は王様が王子の異母弟のサジルカに命じた視察に自分から願い出て赴いた事も分かった。

 キヌグスとパルハハで誰に会っているのだろうか。同じ西とは言え別々の領地だ。その二つに通じている人物とは。レナミルは妃になる為に教え込まれた各領地の領主などの人物を思い出そうとした。キヌグスとパルハハと言えば、パルハハの領主の姪がキヌグスの領主の跡継ぎ息子に嫁いでいるはずだ。確かサアンゾという名であった気がする。記憶の糸を辿って行くと更に記憶が甦る。

サアンゾという女と逢い引きをしているのか!レナミルは王子の不審な行動の原因を突き止めた。サアンゾという女は元々パルハハの領主が王子の元に嫁がせようしていた娘だ。大層美人と評判で、警戒した王妃様が昔かかった熱病が元で子を望めない身体なのではないかと理由をつけて退けてくれて、結局同じ西のキヌグスの領主の跡継ぎの元に嫁いだ。

 嫁いですぐに身籠って、今では息子がいるらしい。子をすぐに宿せる美女。レナミルは愕然とした。それだから王子はその女に心奪われたのか。その女は元は自分の妃に上がる話も出ていた女だ。自分の女となるはずだったから、関心を持ったのか。王子の夜の相手を勤めて、今も時折会っているらしいセルカイという女も西の、そうキヌグスの貴族の出身だ。あのセルカイという女が手引きしたのか!

昨年嫁いだばかりの従妹のクスハルも自分より先に身ごもった。なのに自分は嫁いでもう4年。懐妊の兆しすらない。レナミル様は子を望めない身体なのではと影でささやかれていることは、レナミルも知っている。そればかりか3年前に妃の一人のグリソルが王女を死産してしまった時も、また昨年侍女から妃になったカトハルが流産してしまった時も、レナミル様が実家の南を通じて、オクルスから秘密の薬を取り寄せて産めない様にしたらしいと事実無根の噂が流れ、その噂を耳にした時はあまりの屈辱で怒りに震えてしまった。

パルハハの領主の姪なら妃にするのに身分は問題ないので、夫と別れさせて王宮に上げることを王子はもう秘かに考えているのかも知れない。もしそのサアンゾという女がご寵愛を受けて身ごもってしまったら。レナミルの脳裏には、見知らぬ美女が王子の横に幸せそうに寄り添い、その腕の中には丸々と太った元気な赤ん坊が抱かれている。その二人を優しい瞳で満足そうに見つめている笑顔の王子の姿が浮かんできた。

いや!レナミルは激しく頭を降った。あの方は、王子様はずっと昔から私のものだったのよ。私は8歳からずっとあの方だけをお慕いしてるのよ。レナミルは日々猜疑心に苛まれて行った。最初は旅から戻ると幸せそうな顔や時より寂しそうな顔をしているぐらいだったタツルスが正面切って王妃様に反論したと聞いた時は自分の耳を疑った。サアンゾを妃として認めなかった事を根に持っているのか。それだけではない。ついにはグリソルを静養という名目で王宮から追放したのだ。

今回の命令を聞いた時にレナミルはタツルスが着々とサアンゾという女を迎える準備を進めていると感じた。もしや今回グリソルを追い出したのも、そのサアンゾの差し金かも知れない。領主の娘と姪なら娘の方が身分的には王妃に近いし、前回は死産してしまったが、王宮にいればまたいつグリソルに子が出来るか分からない。王妃様という大きな後ろ楯のないグリソルなら簡単に追い出せるだろう。

レナミルは確認する為にサアンゾを王宮に呼び出す事にした。ただ普通に彼女だけ呼び出すと警戒するだろうし、タツルスがどう出るか分からない。そこでレナミルは普段は願い出ない王様に最近タツルスが各領地に視察に赴いて親交を深めている。そこで自分も自分と同じ立場の各領主の世継ぎの妻達を集め親睦の茶会を催したい。ついては王様にお許しを得たい。またこの茶会はサジカルの妻とマトバスの婚約者にも協力してもらいたいと、いかにも内助の功を発揮したい妻を装い、認めさせた。これならタツルスも退けられまい。

急いで各領地に使いを送った。各領地から返事が届いたが、その中にサアンゾからの返事もあった。早速文を見てみると、文にはせっかくのお招き大変光栄で嬉しいが、あいにく今自分は身重で体調が優れない。薬師も馬車の旅はお腹の子に障ると言っているので今回は自分は欠席して代わりに義母である今のキヌグスの領主の妻か義弟の嫁を出席させたいと書いてあったのだ。

身重の身!もしやその腹の子の父親はタツルス様なのか!だからタツルス様が頻繁に西に視察や旅と言って出掛けて、そして今になって邪魔になったグリソルを追放した!レナミルはついに確信した。

 ちょうど数か月前、自分は王妃様の五十の誕生の祝賀の宴の準備で何かと忙しかった。それでタツルスの些細な変化にも気づかなかったのだろう。きっと何かのきっかけでサアンゾに興味を持ち、セルカイという女が手引きしたのだろう。普段からタツルスや従兄のアソニジとも関係を持っていると噂されている妖艶な女に嫌悪感を覚えていたレナミルは一気に憎悪を感じた。タツルス様を奪われてなるものか。ついにレナミルは思い切った行動に出た。

サアンゾが王宮に来れないというのなら、自分の方から確かめに行ってやる。レナミルは王宮の事師に金を渡し、三枚の身分証を得た。王宮の下働きの女の身分証だ。これなら簡単に王宮を出入りできる。レナミルは一度も着たことのない質素な綿の着物と帯を絞めて、自分と同様に身分を隠した自分の侍女二人を伴って王宮を出た。今タツルスは西のセズトロにいるので自分の館には泊まりに来ないし、周りには自分は具合が悪いと言って部屋に入らないよう命じて、念の為自分と背格好の似た侍女に替え玉をさせている。レナミルは急いでキヌグスへと向かった。

 

そんな事になっているとも露知らず、ジユはキヌグスに向かう馬車の中にいた。タツルスとの出会いから4ヶ月。この春から夏にかけての4ヶ月の間、タツルスは忙しく大変な世継ぎの身でありながら、ジユと会う為に時間を作ってくれた。会えない時には頻繁に熱い想いのこもった文をくれる。自分を本当に愛してくれているとジユはしみじみとタツルスの愛情の深さを噛み締めていた。それにはもちろん自分達が会うのを助けてくれている人達がいるからだ。

こんな賎しい身分の自分との関係を疎ましく思っているに違いないとジユは感じていた侍従長と何気ない話をした時にタツルス様が大変嬉しそうなので私も嬉しい。どうかこれからもタツルス様のお心をほぐしてあげて欲しいと言われてびっくりしたし、ただ迷惑を掛けていると思っていた自分の存在が認められたようで嬉しかった。

利害の絡む領主はともかく自分も妃になるはずであったサアンゾも本当に良く二人を助けてくれる。一度ジユはサアンゾに尋ねたことがある。妃になれなくて悔しくはないのかと。サアンゾは笑いながらタツルス様は素敵だけど、私は王宮のような複雑な駆け引きや女同士の争いがある所で生きていけない。このキヌグスで旦那様と子供達と穏やかに暮らしたいの。ただこのセルシャの国の貴族としてタツルス様を陰で支えたいので、タツルス様がお幸せになれるなら何でも協力したいのよと言っていた。

 それを聞いて領主の姪のサアンゾですらそう思うのだから自分なんて王宮で暮らせないし、そんな所で普段生活しているタツルスと自分が愛し合っているのも不思議な話だ。

伝説のカナジュの話よりあり得ない話で、もし誰かが聞いても本気にしないだろうとジユは苦笑いしてしまった。今回の旅にはサアンゾの為にジユが染めた彼女が好きだという淡い赤の染めの掛布を持ってきていた。せめてものいつもの礼に渡そうと思っていた。これから夏が終わり秋になり寒い冬になる。穏やかな気候のキヌグスでも身重の身には辛いだろう。淡い色の染めの得意な兄弟子のスガに極意を教わり、サアンゾの為に染めた。こうしてジユは今まで鮮やかな色を得意としていたが染めの幅が広がって行った。

 

ジユが頻繁にパルハハの領主に呼ばれてどこかに泊まりに行ったり、パルハハの領主の使いから頻繁に文が届いているのに周りも何が起こったのかと思っていた。ただやはり周りも相手が相手だけにジユに聞けないでいた。

 一度だけ母のナリは二人だけの時に何があったのか聞いてきた。ジユは都からの帰りにパルハハの領主様の侍従と恋仲になったと嘘をついた。そんなジユの嘘に母のナリは口に出せなかったが、これからずっとお前が一人で孤独に生きていくのかと思って、一人泣いた夜もあったよ。

 なぜジユが染めをやりたいと言った時に止めなかったのか、そもそもどうしてこんな染めの才を持った娘を産んでしまったのかと。普通の娘のように産んであげれなくて、あたしはこの子に申し訳ないとすら思っていたんだよ。でも今度の人はお前とトワの事は知っていて、それでもいいと思ってくれているんだろう?と問うてきた。もちろんタツルスは過去に何があったかは話していないが、恋をして生娘でない事はとっくに知っている。ジユは黙ってこくりと頷いた。ナリは心底ほっとした顔をしたのを見て、さすがのジユも胸が痛んだ。

その人はお前に本気なのだろう。しきりに文が来るし、お前を迎えにわざわざ馬車まで差し向けてくれる。領主様の侍従とはそんなに偉くて扱いがいいのかい?と聞いてきた時にジユは慌てて上手く言い逃れをしたが、そういった事に疎い母はそうなのかい。とジユの嘘を信じてくれて、ほっと胸を撫で下ろした。

 

最近ここにあの男が来てなくて良かったよ。何かの弾みで母がトクに領主の侍従について聞いたら嘘がばれてしまう。それに勘のいいトクの事だ。あたしが恋してるって気づくだろうし、家を出たとは言え、まだ王宮や貴族とは繋がりがありそうだから迂闊に何かするとばれてしまう恐れもある。やれやれ、商人が忙しい時期で良かったよ。そうジユは苦笑いしていた。春になったらまた会いに来るとトクは言っていたが、本当にもう一度ゾルハの村のジユの家に訪ねて来たそうだ。ちょうどその時ジユは王宮に行っていて不在だった。

ジユの不在の理由を尋ねられて兄のヌクが祖父のグジの染めに関心を持たれた王様のお召しに一番染めの才があるジユが選ばれ付いて行ったと伝えるとトクは嬉しそうに破顔して、さすが俺が見込んだ女だけある。ついには王様にも認められたかと言ったそうだ。その顔にまた義姉のカクは頬を染めてぽーっと見とれていたそうで、ヌクは王様に認められたのは祖父のグジだ!と言い返していたとその場にいた後母のナリから後で聞いたし、ジユはジユで都から自分の家に着くやいなや、あの男がお前のいない時にまた工房にやって来た。俺はあの男は信用ならない。お前も騙されるなと言われた。

それからは忙しいのだろう。トクはゾルハの村を訪ねて来なかった。セルシャの国と北のマルメルの国の間の海は冬は荒れて船が出せない日も多い。逆に春から秋にかけてはセルシャの国から吹く風が良く、波も穏やかで航海には絶好の時期で商人達が行き交う時期だ。またセルシャの国と南のオクルスとの間に聳える山脈の雪も溶け、オクルスと行き交いも活発になる。きっとトクも一年に一度の稼ぎ時にわざわざ辺鄙な山間のゾルハの村には来れないようだ。

 

 

サアンゾは夫のキヌグスの領主の跡継ぎであるクメルアと幼い息子と午後の茶を楽しんでいた。その時コツコツと幾分早めに戸を叩く音がした。いったい何があったのだろう。クメルアが訝しげに扉を開けた。困惑した顔の侍従が、実は然さる王宮のお方だと名乗る若い女性が供の者を連れてサアンゾ様にお会いしたいと申しておりますがいかが致しましょうかと二人に尋ねてきた。

然る王宮の女性?タツルスがこのキヌグスに来る事はあっても王宮の外に出られない王族の女や侍女がこんな所に現れる訳がない。王宮の女性を騙って何かサアンゾに売りつけようという質の悪い商人一味の女かも知れない。すぐに追い返すのだ。クメルアがそう侍従に伝えると、そうは言うが本当に王宮の人のように何か風格のある女で自分では太刀打ちできないと尚も困惑している。仕方ない。自分が会って追い払ってやるか。侍従と護衛の者を数人連れて女がいる門の前まで赴いた。

クメルアはそこに立つ女を見て驚愕した。一際美しい燃えるような赤い絹織物の衣を纏った女が二人の侍女らしき女を従えて悠然と門の前に立っていた。父と共に参列した王宮での宴で会ったことのあるタツルスの妃の一人のレナミルが艶然と微笑んでいたのだ。

知らせもなく急に尋ねて来て済まぬ。そなたの妻に火急の用があるのだが、身重の身で王宮まで来れぬというのでこちらから赴いてやったのだ。こちらもあまり長くは王宮を離れていられないのですぐに会わせてもらおうではないかと言い放った。クメルアもその勢いに呑まれてしまい、レナミルを部屋に通してしまった。二人きりで話したいので下がるようにと、まるで自分の侍従を下げるような不遜な態度でクメルアを下がらせレナミルはサアンゾと向き合った。

この女か。噂には聞いていたが確かに美しい女だ。小さな顔に滑らかな肌をしていて、そこにくっきりと弧を描く長い睫毛に縁取られた瞳、すっと通った鼻筋、豊かな頬、そして何より印象的なふっくらとまるで熟した果実のような官能的な唇に、服の上からでもはっきりと分かる柔らかな曲線を描く身体。いかにも男達が騒ぐのが分かる。そしてこの女にタツルス様は心を奪われたのだ。そして腹は少し丸みを帯びて膨らんでいる。それがレナミルにとっては、この女がタツルスに愛されている証の勲章のようで、憎しみのこもった目で腹をねめつけた。

王宮での茶会に身重で来れぬという知らせをもらった。腹の子は元気に育っているのか?そう口元に笑みを浮かべて問いかけたが、瞳はじっとサアンゾを睨み付けている。

サアンゾはレナミルから発せられる憎悪の気配に震えた。いったい何があったのだ。まさかタツルス様とジユの事でお怒りに?どうしてそれを知っているのか?秘密が漏れないよう細心の注意を払っているはずだし、そもそも世継ぎの王子なら何人も妃がいるのは当たり前なのだからジユに手を付けたくらいでレナミルもここまで騒がないだろう。そして何より今回の件で場所の貸して便宜を図っている叔父のパルハハの領主でも舅のキヌグスの領主でもなく自分に会いに来るのは何故だろう?

レナミルはそしてこう口にした。くれぐれもそなたには身体を大事にしてもらわねばならぬな。セルシャの国の民も、王様も、そして何より世継ぎの誕生を心待ちにされている王妃様の為にもな。と。

そのことばにサアンゾは驚いてレナミルの顔をじっ見つめてしまった。そして狼狽した。レナミル様は私とタツルス様が結ばれたと誤解なさっているのか!サアンゾは焦ってレナミルに伝えた。滅相もございません。腹の子の父親は我が夫のクメルアに相違ございません。私は一度もタツルス様のお心を頂いた事はございません。なのでこの子の父親は間違いなく我が夫です。

その言葉にレナミルは鋭い視線でサアンゾをねめつけると、私が何も知らないとでも思っていたか!セルカイという女に手引きさせてタツルス様と落ち合っていたのだな!タツルス様の子を身籠ったのでそれを機に妃に、王妃になろうという魂胆だな!そしてグリソルを王宮から追い出したように、次は私を追い出す気だな!そうはさせまい!そう叫んだ。

サアンゾは何とかレナミルの誤解を解きたかったが、しかしタツルスとジユの事は口が裂けても言えない。どうしたら良いのだろう。サアンゾは何も言えずに黙りこくってしまったが、それをレナミルは肯定の印と受け取ったようだ。

レナミルはこう冷淡な声で続けた。タツルス様の子を身籠ってくれたそなたには礼をせねばならぬな。世間に腹の子の父親は夫のキヌグスの領主の息子ではなく、別の男の子だと知らしめてやらねば。そなたの腹の子の父親は誰か分からぬと。そなたは毎夜違う男を寝所に引き入れている淫婦で夫のクメルアは酒に酔うと豹変してそなたを殴るのでそなたは館の侍従やら護衛やらと関係を持つようになったと。そなたの美貌ならあり得る話で皆信じるであろう。これが王様のお耳にでも入ったら、そなたの夫はキヌグスの世継ぎの座から引きずり下ろされるだろう。いいや、それだけでは済まぬかも知れないな。息子の不始末の咎でキヌグスの領主も領地を没収になって、この地は他の者が治める事になるやも知れぬな。

 サアンゾはついに脅しに屈して、レナミルにこう伝えてしまった。

タツルス様が愛しておられるのは私ではございません。パルハハの染師の娘をお気に召して、このキヌグスやパルハハで落ち合っているのです。

パルハハの染師の女だと?一瞬レナミルはサアンゾが何を言っているのか理解できなかった。あまりの事で咄嗟に嘘をついたが、急過ぎて思わずあり得ない事を口走ったのか。そう思った。尚も不信な顔をしているレナミルにサアンゾは自分の知っている事を全て打ち明けた。その娘はジユというパルハハの染師の娘で四ヶ月ほど前に祖父の染師に関心を持った王様に召されて王宮に上がった事、おそらくそこでタツルスとジユが出会ったらしい。その時タツルス様はジユに関心を持たれたようだ。その後ジユがパルハハに戻る際に体調が悪くなり、このキヌグスで休んでいたが、ちょうどその時タツルス様がパルハハに視察に赴く途中にキヌグスにも逗留していて、ここにジユがいる事を知ってお召しになった。それ以来ジユはタツルス様にご寵愛を頂いているようだと。

話を聞いてレナミルは自分の記憶を思い出してみる。確かに四ヶ月ほど前の春になった頃、そうサラシュの花が咲く時期に王様がパルハハの染師を召してタツルス様もお呼びになった事があった。自分がタツルスに乞われて染めや衣について話したのをレナミルを覚えていた。その時に二人は出会ったのか。でも謁見の場で二人は話す事はないだろうし、周りには王様や侍従達、パルハハの領主もいたはずだ。どうやって二人で会っては親しくなったのか。タツルスが異母弟のサジカルが行く予定であったパルハハへの視察に行くと決めたのはそのジユという女がパルハハにいたからなのか。偶然パルハハではなく、キヌグスで再会したようだが。それともジユという女とタツルスは最初からここで落ち合う約束をしていてその女は仮病でキヌグスに留まったのか。

段々辻褄の合ってきた話にレナミルはサアンゾへの疑いを晴らしていった。

そのジユという女。そんなにタツルス様を夢中にさせるようなこのサアンゾを凌ぐ絶世の美女なのか?そのジユとやら言う女はタツルス様のお心を夢中にさせるとは、そなたを凌ぐほどの美女なのか?

レナミルの問いかけにサアンゾは返答に困ってしまった。その問いかけでは自らが美しいと自分から認めているようにも取れるし、そもそも人にはそれぞれ好みがある。タツルスがジユのどこに惹かれたのか自分には分からない。ただ何度かこのキヌグスで会ったジユは自分の人生を選び取った者だけが持つ気高さと、しっかり地に足をつけて生きている本能的な強さという物を感じた。タツルス様はそれに惹かれたのだろうか。それぞれ殿方にはお好みがあるので私には分かりませんがと前置きをしてサアンゾは自分の知っているジユの姿についてレナミルに伝えた。その話を聞いたレナミルは驚いた。サアンゾの伝えたジユの容姿は自分が知っているタツルスの好みと全く異なっていた。

あまたいる侍女の中からタツルスが好みで選んで妃にしたカトハルとマスルクのように愛らしい顔に豊満な胸を持った女と全くかけ離れた姿をしている。またタツルスの夜の相手を勤めているであろうセルカイも十五か十六の息子を頭に三人もの大きな息子がいるとは思えないような若々しさを保っていたし、それでいて成熟した女の色気も漂わせている。全く違うではないか。

にわかに信じられなくなって他にジユを知る者としてサアンゾの数名の侍女も呼び出し聞いてみたが、皆一様にサアンゾと同じような姿を口にした。サアンゾの話の辻褄は合うが、そのジユという女が本当にタツルスの寵愛を受けているのかが信じられなかった。こうなったら自分の目で確かめないと。タツルス様のお心を奪ったのはどんな女なのか。

タツルスは今回セズトロに向かったので、このキヌグスにも立ち寄るはずだ。レナミルはサアンゾにこう告げた。そなたの言葉が真なのか証拠を見せてもらおう。さすればそなたへの疑いは晴れる。もちろん腹の子の父親はそなたの夫だ。私の言っている意味は分かるな?次にタツルス様とその女が会うのはいつだ?

サアンゾは震える声でレナミルにこう伝えた。明日の予定でございます。このキヌグスにある領主の別邸で二人は会う予定と聞いております。サアンゾは自分と愛する家族を守る為に悪魔のようなレナミルの脅しに屈服してしまった。

レナミルはサアンゾにいくつかの命令をすると静かに部屋を出て行った。サアンゾは罪の意識に苛まれてその場で泣き崩れてしまった。お許し下さい、タツルス様。ごめんなさい、ジユ。そう心の中でずっとこの言葉を繰り返し呟いていた。

あれ?

いつものようにジユは侍従に案内されキヌグスの領主の別邸に入った時にすれ違った若い侍女を見てジユは不思議に思った。あんな侍女がここにいたのか。タツルスとジユがいつも落ち合う別邸は領主の館とは少し離れた場所にあるこじんまりとしているが美しい館だ。タツルスの話では王家やどの地域の領主もこういった別邸を持っていて人目を忍んでの他の領主や使節との交渉の密談の際などに使うらしい。王様も都の少し南にあるダサルの町に別邸を持っていて、ここでマルメルの使節と秘密裏に今回の交渉を進めているそうだ。それだけに別邸に仕える者は秘密を守れるよう最低限の人数にして、しかも機密が守れるよう口が堅く、また物事を弁えている年輩の者が多いらしい。

タツルスとジユは館の中にいても寝室に籠っているので侍女や侍従を呼ぶような手を煩わす事はしていない。それでもジユも何度かこの館に来た時に会った数人の侍従や侍女の顔はおぼろ気だが覚えていたが、先ほどの侍女は今まで見たことがない気がした。先ほどすれ違った侍女は、ほんの数秒すれ違った時に見た程度なのではっきりとは言えないが、他の侍女と同じ着物を纏っているが、何やらこんなキヌグスの領主の館に仕える侍女のようではなく、前に王宮で見た王宮の侍女というよりはもっと風格が漂い、まるでサアンゾのような何やら高貴な人のような気配を漂わせていた。自分と同じ年くらいだっただろうか。

美しい娘だった。へえ、ここにあんな侍女が仕えていたんだね。まるであの娘がこの館の主人のような風格だったね。しかも美人だし。よっぽどあたしよりあの娘の方があの人にはお似合いだと思うんだけどねとジユは心の中で苦笑した。警備はしっかりしている領主の別邸だ。不審な者はいないはずだし、仕えている者の身元は確かだろう。自分の知らない侍女が仕えていても不思議はない。

そんな風に物思いに耽っていたジユに侍従が恭しく声を掛けた。タツルス様からの使者の知らせがあり、セズトロでの視察が長引いているので少し到着が遅くなるそうですので、それまでごゆっくりお過ごし下さい。後で部屋に茶を運ばせますと伝えて、ジユを部屋に案内した。応接の間とそれに続く広い寝室のある部屋だ。いつもながら部屋は美しく整えられていて二人の為に夏に咲く薄紫のグカラの花が美しく飾られていた。さっきの侍女が活けたのだろうか。ジユは広い部屋でぼんやり考え事をしながらタツルスの訪れを待った。タツルスは視察に行くと自分の知らない事や気がついて気になった所があると領主やその村の村頭から詳しく話を聞いて何か手だてはないかなど考え込んでしまうらしい。前回も崩れた橋の修復の件でずいぶん白熱してしまって大分予定から遅れた夜更けに到着した事もあった。

ジユはあたしよりどうやら橋の方がお好みなんだねと軽口を言ってやったが、内心はタツルスがそうやって民の為に動いてくれて、またタツルスがいきいきとしている姿を見るのが嬉しかった。ジユの脳裏に王位に就いた時のタツルスの姿が浮かんできた。紫の衣を纏い金の王冠を被り、この国の民に慕われる聖君として堂々たる威厳のある姿で王座に座っている。そうだ。この秋には久しぶりにグスリリの実でもあの谷に採りに行って、タツルスの為に染めてみようか。そんなことを思いながら、ジユはぼんやりとタツルスの訪れを待っていた。

 

大分約束の時間を過ぎてしまった。再会した時のジユの姿を思い描きながら、タツルスは急ぎ馬を走らせた。どうやらあたしより橋の方がお好みなんだねと口を尖らせて軽口を叩いているが、その目は満足そうに輝いている。ジユが自分が民の為に動いてくれているのを心底喜んでくれているのをタツルスは気づいていた。

長く続く母の政治への介入で南に比べると西や東の領地は栄えていない。税収も南に比べると少なく、それだけに民の生活も南に比べると貧しい。村々にある学舎の数や薬師の数も圧倒的に少ない。また生活に必要な橋や都への道の整備も遅れている。南はオクルス、北はマルメルという大国の後ろ楯があるので栄えているが、海に面した東と低い山脈で隣には国を持たない遊牧の民がいる西は立ち後れている。王宮にいて事師から聞いただけでは分からなかった事が、実際に自分の目で見てみるとそれが良く分かる。母の王妃は事師を巻き込んで自分達南に都合の良い事を報告させていて、それ故に父王や自分の視察を恐れていたのかとすら思った。

何とか約束の時間より大分遅れて夜更け近くにタツルスはキヌグスの領主の別邸に到着した。まず視察の一行は一旦キヌグスの領主の館に入り、ほとんどの者はそこに残して、一人の侍従と四人の警護の衛兵を伴って、少し離れた場所にある別邸へと急ぐのだ。ほとんどの供の者達はタツルスが領主の館で休んでいると思っている。ようやく別邸に到着するやいなや顔見知りのキヌグスの領主の侍従が恭しくタツルスを出迎えた。

お部屋でジユ様がお待ちでございます。と伝えタツルスを部屋に案内する。何か軽い食事でもお持ちしましょうかと訪ねられたので、大丈夫だと答えると黙って侍従は頭を下げた。扉の前までタツルスを案内すると、それでは私共は下の間に控えておりますので、御用の際はお呼びくださいと伝えると静かに下がって行った。

戸を叩いて扉を開けるとそこにはジユが笑顔で自分を待っていた。タツルスは喜びのあまり駆け寄ってぎゅっとジユを抱き締めた。懐かしいジユの匂いが鼻孔を突き抜ける。そしてジユのぬくもりもこの手にしっかりと感じられる。

タツルスはいとおしいジユの頬を優しく撫でた。そして会えなかった時間を惜しむように、まるで飢えた獣が獲物を貪るように激しくジユの唇を奪うとジユもそれに応えるように自分にぎゅっとしがみつくように抱きついて舌を絡ませ合った。その勢いのままタツルスは立ったままでジユの着物の襟元から着物をはだけさせるとジユの胸にむしゃぶりついた。

ちょっと待っておくれよ。会って早々これかい?ジユはそういたずらっぽい目でタツルスを睨むと軽くタツルスの胸を押し退けた。こっちはいつあんたが来るのかと待ちくたびれてたのさ。あたしをこんなに待たせたセズトロへの視察はどうだったのか聞かせもらおうじゃないかと言った。

ジユはタツルスの視察での話を楽しみにしている。ああ、済まぬな。待たせたことをそんな怒っているのか?とタツルスも面白そうに笑い返してジユの鼻を軽く摘まんで声を立てて笑った。ジユを伴い長椅子に座ると自分の膝の上にジユを抱き上げて、今回の視察の話を始めた。話している間にもジユの髪やら頬やら背中を優しく撫でながら面白おかしく話を進めていく。

中にはセズトロの領主との内密の話も含まれていたがジユにならば伝えても構わない。むしろその事についてのジユの意見を聞きたかった。王宮や領地間の利害関係や背後にある者を知らないジユ故に率直な意見や感想もあり、自分では気づかなかった視点がある。ある意味狭い王宮という世界で育ちそこしか知らない自分に新しいことを教えてくれる師匠のようでもある。

今回もジユの意見を聞いて閃いたことがあった。さすがだな。我が師匠殿。俺にはそういった考え浮かばなかったよ。今度秘かに人を遣わし調べてみようとタツルスがジユに笑いかけると、ジユはふふんと鼻で笑う振りをして、当たり前だろ。あたしは染師なんだよ?つまり染めの師匠ってことさ。それぐらいの事は簡単に思い付くさ。これから王様になろうって身なんだから、しっかり学んでもらわないと困るねと笑いながら言い返してやった。

そんなジユにタツルスは、では我が師匠殿に更に教えを乞わなくならぬな。今夜はじっくりと教えてもらわないとと言うとジユの唇に軽く口付けた。そしてジユの頬を優しく撫でじっと熱い目でジユを見つめて、俺に本当の愛を教えてくれたのはお前だと囁くとジユを抱き上げて寝室に向かった。ジユはそれならちゃんと礼をたっぷりしてもらわないと困るね。あたしの愛は貴重なんだよ。と冗談で応えている。それがジユの照れ隠しである事はタツルスはとっくに気づいている。

そっとジユを優しく寝室に横たえるとタツルスはジユの着物を脱がすと乳房の頂きをいとおしそうに撫でた後に赤子のように頂きを口に咥えた。それに応えるようにジユも吐息ともため息ともつかない声を洩らしながら、いとおしそうにタツルスの髪を鋤いていた。

二人だけの世界に没頭しているジユとタツルスは扉の陰でそんな二人をじっと暗い瞳で見つめている人影がある事には気づいていなかった。


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