町田 千春 著 |
染色師 その4 TOP 急いで人目を避けてレナミルは王宮に戻って来ていた。運良く周りには自分の不在はばれていなかったようだし、タツルスはまだあの女と数日キヌグスで過ごした後に他の西の領地も回ってから都に戻って来るのでおそらく戻りは明日ぐらいだろう。
しかしどう王妃様に願い出ようか。西を味方につける為に。いいや。それならば南に一番近いクチトトを取り込む方が先決だと言われるだろう。逆になぜキヌグスなのだと詮索されて、万が一今回の事が王妃様に知れてしまったら王室の体面を汚すような軽率な振る舞いをしたと厳しく叱責されてしまう。
そうだ!アソニジがいる。タツルスの従兄でレナミルの従兄でもある叔母の長男のアソニジはその間柄で王子共気軽に接することのできる数少ない人間だ。彼から上手くタツルス様を諌めてもらい、二度とあの女と会えないように上手く説得してもらおう。口止めの件も大臣であり、また策略家のアソニジならきっと良い方法を考えてくれる。レナミルは急いでアソニジに自分の館に来るよう使いを出した。
レナミルの呼び出しにアソニジは慌てて参上した。レナミルは事の次第をアソニジに切々と訴えた。もちろん自分の目で見た事は言えない。タツルス付きの侍従から聞いた話だと前置きして伝えた。
お兄様、タツルス様は身分の賤しい女と会っているのです。何とかお諌めしてください。しかしアソニジは、タツルス様もたまには羽目を外したいのさ。いいじゃないか。タツルス様も馬鹿ではない。その辺りのことは弁えていらっしゃるだろう。その女が妃になることはないだろうし、まして王妃様にはなれんよ。それに北や西の貴族の娘をご寵愛される方がこちらにとっては都合が悪い。身分の賤しい女で遊んで頂いた方がいいのさ。それに話を聞いた限りではタツルス様の好みの女ではないな。たまに狩りに行った時に野外で食べる野趣溢れる食事もたまにはいいものさ。毎日は食べたくないが。男にとってはそんなものさ。と呑気に笑ってまともに話に取り合おうとしない。
あのタツルス様の眼差しは遊びなんかじゃない。いつも淡々としているタツルス様があの女に会った時、熱のこもった眼差しであの女を見つめて、いとおしそうに女の頬を優しく撫でた後にまるで飢えた獣が獲物を貪るように激しく口づけを交わし、あの女の乳房にむしゃぶりついていた。まぐわっている二人の姿が脳裏に浮かんできた。女の乳房の頂きをいとおしそうに撫でた後に赤子のように頂きを口に咥えた。女の方も吐息ともため息ともつかない声を洩らしながら、いとおしそうに指がタツルス様の髪を鋤いている。そして。
急いで頭を振って、二人の姿を脳裏から追い払ったが、心には黒い鉛のようなものが埋まったままであった。それだけではない。タツルスはあの女に心を許して信頼しているのだろう。自分には話さないような政治に関する話もしていた。何より本当に愛しているのだろう。熱っぽく見つめて優しく頬や髪をいとおしそうに撫でていた。時分の膝の上に抱き上げるなんて、レナミルはタツルスに嫁いでからの四年間。たった一度もそんなことはされた事がなかった。
そんなレナミルにアソニジは真剣な顔になってこう伝えた。それよりそれどころではないぞ。レナミル。アソニジは一見遊び人の貴族の息子で伯母である王妃の縁だけで引き立てられて大臣になれた風を装っているが、伯母である王妃に似て策略家だ。軽薄な笑顔の裏で計略を巡らせている。レナミル。どうやら王様は北とマルメルと強く結び付こうとお考えのようだ。王様のダサルの別邸に最近頻繁に人が出入りしている。王様やタツルス様自身はいらしていないがお二人の侍従らしき者と商人を装った北のメクアナの領主の使いらしき者が何度も会っていた。これは私の手の者を使って調べさせたので確かだ。
そして王様はメクアナの領主の娘をタツルス様に嫁がせようとお考えのようだ。お前も知っていると思うが、メクアナの領主の娘のリサナミはまだ14歳と幼いが、なかなか美しいと評判だ。その言葉にレナミルは弾かれたように顔をあげた。アソニジは無言で頷き、自分が知っている情報をレナミルに話し始めた。北は今の王様にもタツルス様にも二代続けて妃を上げれていないので何としても北から妃を上げて世継ぎの王子をと願っている。元々王様はタツルス様に北のバルスエの領主の娘を迎えてゆくゆくは王妃様にとお考えだったようだが、あの娘は亡くなってくれたので、その話も消えてなくなった。でも北の奴らは虎視眈々と機会を狙っていたのだ。
いつまで経ってもタツルス様に世継ぎが産まれないのはレナミル様もグリソル様も子を産めぬ身体ではないのかと。二人はだんだん年を重ねてますます子が授かりにくくなる。このままでは貴族の母を持つ世継ぎの王子が産まれなくなってしまうので若い貴族の妃をタツルス様に迎えてはいかがかと王様に働きかけていて、どうやら王様も同じお考えらしい。
しかしそんな幼い娘をタツルス様の妃にと王様は本気でお考えなのかとレナミルはいぶかしがった。そんなレナミルにアソニジは10才くらいの差などどうでもない。王女様も15歳年上のオクルスの王に嫁いでいる。その証拠にリサナミは年回り、そして領地間の関係からしてもマトバス様に嫁ぐのではと囁かれていたが、王様はマトバス様の嫁に西のモリオズの領主の、それも遠縁の娘に決めたのだ。リサナミをタツルス様に嫁がせる為にマトバス様には他の娘を嫁に決めたのだ。と言い切った。
アソニジは道理でマトバス様の婚約の発表の時、おかしいと思っていたのだが、よもやそんな裏があるとは思わなかったと言いながら爪を噛んだ。アソニジが苛立っている時の癖だ。
しかしタツルス様がそんな幼い娘が嫁いで来ても相手にするだろうか。それに何よりタツルスは今あのジユという女に夢中だ。お兄様、仮にリサナミが嫁いで来たとしてもタツルス様がお心を寄せるとはとても思えません。それよりあのジユという女を何とかしてください!タツルス様のお心を奪ってしまったのです!思わずレナミルはかっとなって大きな声で叫んでしまった。
そんなレナミルにアソニジは冷たい視線を向けレナミル、前にも言ったはずだ。タツルス様がお前を愛することはないだろうと。王族の婚姻に愛だの恋だのといった話は所詮夢物語だ。いいか?いい加減に目を覚まして現実を見ろ!リサナミが嫁いで来て仮に世継ぎの王子様を産んでみろ。次の王妃の座にはリサナミが就いてしまう。そうしたら我々南は政権の座から追い払われてしまうんだぞ!分かっているのか!
レナミルは今まで頼りになると信頼していたアソニジが自分の役に全く立たないと怒りを感じていた。何が南だ!王妃の座だ!いったいそれが何だと言うのだ!タツルス様のお心があの女に奪われてしまっているという大変な時なのに。自分が大臣の座を追われるのがそんなに惜しいのか!怒りのこもった視線を思わずアソニジに向けてしまったが、アソニジはお前は今自分がどんな状況に置かれているのか全く理解していないな。今回急にグリソルを王宮から療養という名目で追放したのは王様だけでなくタツルス様も北とそして西と繋がりを密にしようというお考えなのだ。
元々南と東は比較的良好な関係を築いており、また北と西は密接な関係を築いている。なのでグリソルも南出身の王妃の推挙でタツルスの妃の一人に決まり、逆に西出身のサアンゾを難癖をつけて退けた。
グリソル様は王女様を死産されてから確かに気落ちされていたが、特に気鬱になって館に籠りきりになったり気が触れたという話は聞いていない。私も宴などでお会いしたが至ってまともだ。それが今になって療養で王宮の外に出すというのはおかしいではないか?王女様を死産された直後なら分かるが、あれから三年も経った今にだぞ。つまりこれは手始めに我ら南の味方の東を王宮から排除して、その代わりに西を据えるという事だ。サジカル様だけでなくマトバス様の妃も西出身の者に決めたのはそういう理由だろう。最終的には政権の座を南から北にとのお考えなのだ。そうなれば俺もお前も今の座には残れまい。
アソニジは、また爪を噛みながらこう呟いた。まったく。こんな時にカジグルがいてくれれば。あいつはいったい何をしているのか。王宮ではこんな大変な事が起こっているのに。
その言葉でレナミルはふいにも従兄であるアソニジに良く似た男の事を思い出した。東のザルドド出身の大臣の跡継ぎの息子で賢く視野も広く、また野心家で政局を見極める力もあり、そして祖母は王妃の産んだ王女だった縁もあり王様も特に目を掛けて将来を嘱望していたカジグルだ。なのに数年前に急に家を飛び出して市井の人になったのだ。伯母である王妃もカジグルを味方にしようと画策して、レナミルの従妹であるクスハルと婚約させていたのだが、カジグルが家を飛び出してしまったので結局クスハルはカジグルの代わりに跡継ぎとなるカジグルの弟と結婚したのだ。カジグルが家を飛び出して婚約が破棄された時、誰もが振り返るような容姿をしていたのでそんなカジグルの妻になれると喜んでいたクスハルは大層気落ちして連日泣きはらしていて、レナミルも慰めたのを今も覚えている。
不毛な会話が続きレナミルはアソニジを退出させると一気にどっと疲れが出て長椅子に倒れ込むように座った。アソニジとの会話中、別室に控えていた侍女が慌てて駆け寄って来た。レナミル様大丈夫でございますか?薬師をすぐに呼びましょうか?と聞いてきたが、大丈夫よ。少し疲れているだけだからと下がらせた。
今年の夏は暑いせいか最近やたらに疲れるしだるい。タツルス様が不審な様子で理由が分からなかったり、王妃様とタツルス様の諍いがあったり、グリソルが王宮を去ったり、王室の妃として秋にあるマトバスの婚儀の準備に駆り出されたりと何かと気が休まらなかったせいだろう。そろそろくるはずの月のものが来ていない。ふとレナミルは気がついた。確かと前回はと記憶を遡ろうとした時、侍女の声がした。
レナミル様、タツルス様が地方からの視察からお戻りでレナミル様にご挨拶にいらっしゃると知らせがありました。お召し替えはされますか?髪も結い直しましょうか?その声にレナミルは慌てて立ち上がった。きっと今自分はアソニジから聞きたくない話を聞かされどっと疲れた酷い顔をしているだろう。そんな顔でタツルスには会えない。急いで薄紫の衣を持ってきて頂戴。髪も美しく結って。それに顔色が良く見えるように白粉と紅も持ってきて。タツルスがレナミルの館にやって来たのは夕食の少し前であった。
あまり食欲はないがタツルスが来て共に夕食を囲むのならば少し無理をしても何か口に入れよう。何かさっぱりとした物なら食べられるだろう。そう思って鏡の前に立った。薄紫の衣に赤い刺繍の帯に手先の器用な侍女に美しく結ってもらった髪。化粧も自然に美しく見えるよう施してもらった。これなら大丈夫だ。レナミルは自分がタツルスに会ったらどんな顔をしていいのか、何か妙な事を口走ってしまわないか。それが心配だった。何もなかったように振る舞わなくてわ。
数日振りに会うタツルスはあのジユという女と過ごしたからだろうか。表情は晴れやかで目は輝き、精気がみなぎっている。夜目にも鮮やかな青の絹の衣を纏っていて、レナミルも一瞬全てを忘れてタツルスに見とれてしまった。
そんなレナミルにタツルスは母上や侍従達から私が不在の間、そなたが病で臥せっていたと聞いたがもう大丈夫なのか?薬師は何と言っていたのだ?と眉をひそめた。レナミルは無理に笑顔を作り、もう大丈夫でございます。今年の夏は暑く、またマトバス様の婚儀の準備で何かと忙しかったので少し疲れただけでございます。薬師も問題ないと言っておりましたと嘘をついた。
そんなレナミルにタツルスは、そうか。グリソルが王宮を離れているのでそなた一人に負担が掛かってしまったのか。済まぬな。私から母上にカトハルとマスルクにも手伝わせるよう頼んでおこう。二人にも私から話しておくからと言いながらレナミルに笑顔を向けた。そんな優しい笑顔を向けてくれているがタツルスの心はここにない。タツルスと出会ってから十二年。タツルスの妃になることだけを望みに辛い妃修行にも耐えてきた。そして王宮に上がってから四年。タツルスに愛されたい。いつかきっと自分を愛してくれる日が来るかも知れない。そう一縷の望みだけを希望にこの広い王宮でたった一人生きてきた。レナミルは急に途方もない孤独な気持ちに苛まれた。
私だけを見て。
私だけを愛して。
そんなレナミルの表情を見てタツルスは、どうした。レナミル?やはりまだ具合が悪いのか?今晩はそなたと夕食を共にしようとここに参ったのだが、やはりそなたはゆっくり休んだ方が良さそうだ。私は下がるのでゆっくり休むが良い。後で薬師にもう一度良く見るよう命じておこう。そう言うと、ではゆっくり休むのだぞとレナミルに笑顔を向けてそう言うとタツルスは部屋から出て行こうとした。
行かないで!とっさにレナミルは部屋から出て行こうと自分に背を向けて扉の方へと歩き出したタツルスの背中にぎゅっと取りすがるように抱きついた。そしてタツルスの広い背中に顔を埋めてまるで聞き分けのない子供のようにぎゅっと抱きついたまま頭を振った。いや、行かないで。私を置いて行かないで。
八歳のあの時から自分に課してきた禁を破り、ついにレナミルはこう口にしてしまった。行かないでください。タツルス様。他の人の所には行かないでください。お願いですから私を一人にしないで。
レナミル?いったいどうしたのだ?そなたらしくもない。
タツルスもいつもとあまりにも違うレナミルの態度にどう応えたらいいのか分からないといった風に動揺の滲んだ声をしていた。
いけない!咄嗟にレナミルの中で警笛が鳴った。アソニジから言われていた。タツルス様にすがったり、懇願するな。愛されなくなると。タツルスの動揺の混じった声にレナミルは我に返った。急いで、申し訳ございません。ご心配させてしまうので嘘をついておりましたが実は体調が優れず気持ちも不安定になっておりました。もう今晩はこのまま休ませて頂きます。と取り繕った。
そんなレナミルにタツルスも動揺を引きずったような困惑した顔を見せていたが、ああ。それではゆっくり休むがいい。またいずれ参ると答えると足早に逃げるように部屋から出て行った。パタンと扉が閉じれた音を聞いた瞬間、レナミルは堰を切ったように泣き出した。ついに自分はいつかタツルスが自分を愛してくれる日が来るかも知れないという最後の一縷の望みも立ち消えてしまった。この広い王宮にたくさんの侍女や侍従に囲まれていても私はここにたった一人、愛されずにここにいる。いったい自分は何の為にここにいるのか。権力の道具としての王妃になるために、自分を愛してくれないタツルスの子を宿すためだけににここにいるのか。タツルスの愛が得られるのならば王妃の座も世継ぎの王子もいらない。ただタツルスが愛してくれれば。
レナミルはどれだけ泣いたのだろう。しばらくして遠慮がちに扉を叩く音がした。レナミル様、薬師のムツ様が参りました。そうレナミル付の侍女長の声がした。誰も通すな。一人にしてくれ。レナミルはそう答えたが、侍女長はレナミル様、ムツ様はタツルス様の命で参りました。どうかお通しくださいと続けた。
王宮には数人の薬師が仕えているがムツはレナミル付の薬師だ。今回秘かに王宮を出てキヌグスに向かった際もムツにも協力してもらい、レナミルは具合が悪く臥せっていることにしてもらい、周りに不自然に思われない様、朝夕レナミルの部屋に回診に来て具合を診て、その後薬湯を処方して部屋に運ばせるという演技をしてくれていた。もちろん薬湯は替え玉役の侍女が秘かに処分してくれていたが。
ムツには借りがある。ここでタツルスの命を受けたムツを部屋に通さないとムツの立場が悪くなる。レナミルは慌てて泣きはらした顔をさっと整えるとムツの入室を許可した。タツルス様からレナミル様のご様子がいつもと違うので入念に診るのだとのご命令でございます。つきましてはレナミル様のお身体を診させて頂きます。と恭しく礼をするとレナミルに近寄って来た。レナミルは煩わしと思ったが仕方ない。一通り診させれば良いだろうとムツに促されるまま脈やら熱を計らせたり、いろいろ体調について質問された。一通り診察が終わった後にムツは
レナミル様。最後に月のものが来たのはいつでしょうか?と遠慮がちに聞いてきた。月のものが来たのは?レナミルは部屋の片隅に控えている侍女長に視線を向けた。侍女長はそんな二人に最後にレナミル様の月のものが来たのはクリの日でございます。と伝えた。
それを聞くとムツは恭しく礼をすると、レナミル様おめでとうございます。どうやらお子を身籠られたようです。今は二月目でしょうとレナミルに笑い掛けた。
身籠った?私の腹の中にはタツルス様との子が宿っている?にわかに信じがたかったが、ムツはレナミルの泣きはらした赤い目をじっと見つめ、子を宿したばかりの時期は心が乱れてお気持ちが不安定になります。それ以外もレナミル様からお伺いした話ではおそらく身籠られたかとと続けた。レナミルはとっさにムツに、タツルス様にこの話をするのは少し待って頂戴。もし違ったりしたらタツルス様も王妃様もがっかりさせてしまうから。もう少し様子を見てからにしましょうと口にしていた。
一瞬ムツもレナミルの答えに驚いた顔を見せたが、分かりました。本日のところはタツルス様に何もなく大丈夫であったとお伝え致しますが、くれぐれもお身体に気をつけてお過ごし頂かないと。と続けた。そしてレナミル付の侍女長に、レナミル様のお食事やこれから注意する点を伝えるのでと言うと、ムツと侍女長はレナミルに一礼すると部屋から下がって行った。
子を宿したのは二月前。その時はタツルスはあのジユという女をもう愛していた。自分を抱きながら、心はあのジユという女に向いていた。レナミルは音もなく震えながら泣いていた。頬には熱い涙が幾筋にもなって伝わってきていた。タツルスはレナミルの館を辞したが、他の二人の妃達の館に行く気にもなれず、結局自分の館で一人過ごしていた。
いったいレナミルはどうしたのだ?急にあんな事を口走るなんて。レナミルが自分の元に嫁いで来て四年。いつも毅然として優雅な姿しか自分は見たことがなかった。交わりの時ですらタツルスが愛撫を施した時でも控えめな吐息を漏らすだけであった。そんなレナミルとの交わりでは自分は男として求められているのではなく、世継ぎの王子を儲ける為の義務で求められている気がしていた。そんなレナミルなのでタツルスが侍女であったカトハルとマスルクを妃に迎えると伝えた時もおめでとうございます。二人が一日も早くタツルス様の妃としてふさわしい者となれるよう私もお手伝いさせて頂きますと自分から申し出て、妃としての降る舞い方や礼儀作法や王宮のしきたりや妃にふさわしい衣装を整えたりしていた。
それがいったい急にどうしたのか?それとも今まで口にしなかったが本当は他の妃を迎えて欲しくなかったのか?それは他の者が世継ぎを産む事を恐れて?それともレナミルは本当は自分を好いているという事なのか?タツルスは自分の記憶を遡ってみた。レナミルと始めて出会ったのは十二年前、母の静養に連れられ南のホルトアに始めて行った時であった。静養という名目だが実際は将来自分の妃となる予定のドリメルという娘の様子を見に行くつもりだとタツルスも母の魂胆に気づいていた。
タツルスもその前に1回ドリメルと王宮で会っていた。名目は忘れたが叔母がドリメルを連れて母の王妃に会いに参上していてその場にタツルスも臨席させられていた。お互い十歳そこらの年で少し挨拶程度の話はしたと思うが、特に何を話したのか記憶に全く残っていない。おぼろげに覚えている顔もまあ美しかった気がするがその程度の記憶にしか残らない娘だった。また従兄であるアソニジからも特にドリメルの話を聞いた覚えもない。逆にアソニジと仲の良かったレナミルの話題は聞いていた。お転婆で気が強いレナミルのしでかしたいくつかの出来事の話は面白かった。アソニジの話からレナミルは面白そうな子だなとは思っていた。しかし将来の自分の妃にとは思ってもみなかった。王族と貴族の娘の婚姻など親が決めた相手とするもので、本当に愛する者は誰か侍女の中から選ぶ者なのだと父親とサジカルの母であるクミハルを見て幼い頃からぼんやり自分の未来の姿を思い描いていた。
父王には母の王妃の他にもう一人東のタスカナ出身の領主の娘のクノスクがいるが、父と母のように険悪ではないが特に愛し合っている訳でもなく、お互いに自分達の立場を弁えて淡々と夫婦を続けている風に見えていた。母のように政治的野心を持たない普通の貴族出身の妃とはこうなのだろうと、タツルスは将来の自分と妃になる者達の姿を重ね合わせていた。
ある日自分の元にレナミルが嫁いで来るとタツルスが知ったのは、自分とレナミルの婚姻が母から伝えられた婚礼の半年前、そう祖母である前王妃の一年におよぶ喪が明けた直後だった。母の王妃はレナミルが十五歳になったらすぐにでもタツルスの妃にと計画していたようだが、前王妃の死去によりその計画が延期になり、喪中に婚姻について口にするのは不謹慎ということで水面下で準備が進められていたようだ。タツルスも自分を可愛がってくれた祖母の死去に悲しんでいたが、いきなり喪が明けた途端に母の王妃は待っていましたとばかりにレナミルとの婚儀の話を持ち出した。
レナミルと言うと一度ホルトアで出会った自分の妃候補のドリメルの妹ではないか。なぜドリメルではなく妹のレナミルなのか?タツルスは母の思惑が読めず不審に思い、従兄のアソニジを狩りに誘った。今回のことを上手く聞き出す為だ。息苦しい王宮を離れて気ままな野外で気分も緩んだのだろう。アソニジは酒を片手に今回の婚礼に纏わるいろいろなからくりを伝えてくれた。
なぜドリメルではなくレナミルに決まったのか?年齢からするとドリメルの方が自分と近いのになぜだと尋ねると、そう問うたタツルスにアソニジは笑いながらレナミルの方が王宮でもやっていける性格だと判断して母と王妃様が決めたのさ。そして七年間から王妃にふさわしい娘として都で教育させていたと明かした。タツルスはその事実を知って驚いた。アソニジの告白はそれだけでは終わらなかった。王室での喪に倣って貴族も婚姻を控えていたが、自分も婚姻が決まった。相手は南の領地のサナクチの領主の姪のミルムネだ。しかも王妃様はもしレナミルに何かあった際はミルムネをタツルス様の妃に上げようと考えて、秘かにミルムネにも妃教育を施していたそうだ。結局レナミルは無事にタツルス様の妃となることが決まり、私にミルムネが回って来たのだと。
その話を聞いてタツルスは自分の意思でなく道具として嫁いでこさせられるレナミルや代用として扱われているミルムネがかわいそうに思えた。アソニジにそう漏らすとアソニジは笑いながら、大丈夫ですよ。レナミルは姉ではなく自分が王妃になりたいと王妃様と母に願い出て志願した娘なので問題ないし、ミルムネも将来の王妃になるより将来の大臣になる私の妻になる方がずっと気楽ですから。あの娘はレナミルほど気が強く野心家ではありませんからねとさも何でもない事のように言っていた。
そしてレナミルとの盛大な婚姻の宴の後、始めて二人きりになった夜。自分の目の前には自分の記憶している七年前のお転婆で自分に思った事を正直に質問してくるレナミルの姿はなかった。美しく優雅な身のこなしのただ控えめな女がいたのだ。タツルスは困惑した。自分が覚えているレナミルの成長した姿ではないし、アソニジは気が強くて野心家と言っていたが全くそんな風にも見えない。
レナミルは王妃になる野心の為に本当の自分を偽って自分の目の前に現れて、これからも自分を、そしてレナミル自身も欺いて生きていくのか。それはまるでサラシュの花がミクジの花に無理になろうとしているようなものだ。タツルスは目の前のレナミルに愛情ではなく、憐れみと軽い軽蔑を抱いた。そしてそんなレナミルをタツルスは抱いた。王宮という美しく色鮮やかな檻に閉じ込められた者の義務と定めとして。それから四年間控えめな良き妃をレナミルは演じ続けていた。実際母の王妃だけでなく王宮に仕える者や重臣の大臣達も皆、年長のグリソルよりレナミルの方が将来の王妃にふさわしいと評価していた。
特に自分に愛情を求める訳でもなくも王妃に嫁いだ貴族の娘としての常で夫と妻を演じていると思っていた。侍女から自分の妃となったマスルクは本心か演技なのか分からないが良くタツルス様がいらしてくれないと私は寂しくて死んでしまいますだの、タツルス様は私とカトハル様のどちらの方が大切なのですか?などと甘えてくるが、レナミルからはそのような素振りを見せたことは一度もなかった。
それが今になって急にどうして?物思いに耽っているタツルスは扉を叩く音で急に我に返った。
タツルス様、薬師のムツが参りました。そう侍従が声を掛けた。
今日も視察から戻るや否や母の王妃が自分の館にやって来て、そなたが不在の間レナミルが病で臥せっていた。薬師の話では夏の熱病に掛かったとの事で私も王妃様に移しては一大事なのでと薬師に止められていてレナミルの館に寄れなかった。もう治ったそうなので今夜はそなたが顔を見せてあげなさいと命じた。母の命令は煩わしいがそれなら自分も夫としての義務で様子を見に行かなければならない。場合によっては今晩はレナミルの館に泊まるか。
ジユに無事王宮に戻ったとの文を書こうと思っていたがそれは後回しかと重い腰を上げてレナミルの館に向かった。数日振りに再会したレナミルはいつも通り美しく装っていたが、どこかいつもと違う雰囲気を漂わせていた。化粧で美しく整えた顔の下にはどこか不安そうな。そう親とはぐれた幼子のようなと言うのだろうか。
タツルス様失礼致します。薬師のムツが参りました。タツルスから返事がなかったので侍従が再度声を掛けた。その声に慌ててタツルスは入れと命じた。いつもとあまりにも様子の異なるレナミルにタツルスは薬師のムツにすぐ再度レナミルを診るようにと侍従を通して命令した。ムツが恭しく礼をして部屋に入って来た。レナミルの具合はいかがであった?そう尋ねるとムツは、実はと声を潜めて話し始めた。
私の見立てではレナミル様はご懐妊なされております。おそらく身籠られて二月かと。タツルスはその話にはっと顔を上げた。レナミルが私の子を身籠った?ただレナミル様はもし違ったりしたらタツルス様も王妃様もがっかりさせてしまうからもう少し様子を見てからにしましょうと仰っておりました。恐らくグリソル様のお子とカトハル様のお子の事があって、タツルス様をがっかりさせたくないというレナミル様のタツルス様への強いお心遣いがあるのでしょう。レナミル様の侍女長には日々の暮らしでの注意点は伝えましたが、まだいろいろと安定しない時期ですのでくれぐれもお気をつけになってお過ごし頂きたいと思います。つきましてはタツルス様もレナミル様のお気持ちを汲んで差し上げてしばらくは暖かく見守って差し上げて下さいませんか?私がこの事をお伝えした事もレナミル様には内密にお願いいたします。そうムツは伝えた。
レナミルが私の子を身籠った。タツルスはとりあえず分かった。レナミルから正式に話があるまで母上や皆に内密にするようにと伝えるとムツを下がらせた。レナミルの様子がいつもと違っていたのはこれだったのか。世継ぎの王子となる男の子なのか、それとも王女なのか分からないが、タツルスにとっては無事産まれてきてくれれば始めての子となる。セルシャの国の民が待ちわびていた直系の王族の子だ。しかしタツルスは我が子ができたというより、いつもとあまりにも違うレナミルの様子に困惑していた。
レナミルは王妃になりたくて自分の妃になったのか?それとも本当は自分を愛しているのか?
でもタツルスは口に出しては聞けない。自分の心の中にはジユがいる。もしそれを聞いてしまったら。
やたら暑かった夏も終わり、ようやくこのパルハハにも秋の気配が漂ってきていた。
ジユは祖父の工房でいつものように染めの作業をしていた。数年間染める気になれなかった紫の染めを久しぶりに染めたくなっていたのだ。紫の染めは赤や青、緑に比べると難しい。久々なので昔の勘を取り戻せるかと思いながら作業を進めたが、染め上がった紫の綿布を見て満足そうに微笑んだ。
もう少し経ったらあの谷のグスリリの実も熟してくる頃だろう。そうしたら実を採りに行って絹糸から染めてみようか。染めた糸を知り合いの商人の伝で誰か一流の腕を持つ織師に頼んで絹織物にしてもらってそれをタツルスに献上しようか。タツルスが紫の衣を纏い王座に座る姿を思い描くと、ジユの口元から自然と笑みがこぼれた。タツルスはなぜ自分が紫の衣を好んで着るのかジユに打ち明けてくれた事があった。それは赤と青、南と北を上手く共存させて国を良くしていきたい願いなのだと。
他の女に目もくれないでせっせと公務に励んでいるんだろうね。そうしてもらわないと困るけどね。そうジユは心の中のタツルスに話し掛けた。今年の秋はタツルスの異母弟であるマトバスの婚儀があり、また水面下で交渉しているマルメルとの交渉も大詰めになっていよいよ事師や侍従ではなくタツルスとマルメルの王の弟が直接対面して交渉することになったそうだ。マルメルの国との交渉が纏まれば塩の安定供給が約束されるし、東の領地から採れるマルハル油や木材、西の領地から作られる綿布や絹織物の輸出も増え東や西も豊かになる。その為にも何としてもこの交渉を上手くまとめたいとタツルスは熱く語っていた。それなのでしばらく会えないが、できるだけ文を書くし、もし時間が取れたら会いに来ると約束してくれたし、ジユもタツルスを信じている。
ジユの方も弟のナドの結婚が控えている。王族の婚姻に比べたら何でもないだろうが、それでもジユ達一家にとっては一大事だ。母のナリと義姉のカクは準備で何かと慌ただしくしていた。
ジユがぼんやりと染め上がった布を干した庭の隅でぼんやり石の上に座り眺めていた。
とその時、いい色に染まったじゃないか。聞き覚えのある声が背後からした。振り返るとそこには深い緑の綿の着物に土色の織りの帯を絞めて不遜な笑顔の長身の男が立っていた。誰もが普通に着ているような着物なのになぜかこの男が着ると洒落て見える。
ああ、あんたかい。顔を見せないんですっかりあたしのことなんて忘れてると思ってたよ。とジユは男に言ってやった。そんなジユにトクは笑いながら近づいて来て、俺に会えなくて寂しかったんだろ?済まなかったな。これからは落ち着いたんでお前の側にいてやれるから安心しなと、また勝手なことをほざいている。
ジユは呆れながらも、あたしは忙しくて忙しくてあんたを待ってなんかいる暇もなかったよ。そっちはそんなに商売が忙しかったのかい?と聞いてやった。
そんなジユにトクはああ、商売の他に家族に泣きつかれていろいろ面倒だったさ。父親だけでなく母親や弟まで使いを送って泣きついて来た。全く自分達で判断しろって。仕方なく久々に家に戻っていたから夏の間に一度くらいお前に会いに来ようと思っていたが叶わなかったと渋い顔をしていた。何かよっぽど大きな問題でも起こったのだろう。
王様の逆鱗に触れるような事でもしちまったのかい?一度王様にお会いしたが、怒るような人にも見えなかったけれどね。と言ってやった。
そんなジユにああ、お前は春に一度王様に会ったんだよな?どうだった?と笑いながら聞いて来た。ジユは素っ気なく別に。うちのじいさんは褒美に美しいお妃様や侍女様達と貴重な茶を囲んでご満悦だったけど、あたしは特に何もなかったさ。期待してた飾り物も貰えなくて、結局後でパルハハの領主様から貰ったさと首をすくめて見せた。
おお、お前が飾り物か?俺に言ってくれればお前の為にこの国一の職人に作らせたのに。今からでもいいか?どんなのがいい?言ってみろ?と目を輝かせて聞いてくる。ジユはあたしのじゃないよ。義姉さんのカクの為だよ。いつも家の事で迷惑をかけっぱなしだからねと伝えると、なんだとトクは心底がっかりした顔をして見せた。認めたくはないがやはりどんな顔をして見せてもこの男は様になる。
ジユはあたしじゃなくて義姉のカクかこの秋に弟のナドが嫁を迎えるから、その嫁のクリに渡してやりな。きっとあんたから貰ったら泣いて喜ぶよと言ってやった。
ああ、お前の弟もこの秋に婚姻かとトクは呟いた。お前の弟もって言ってたけど、あんたの弟もこの秋にあんたが押し付けたあんたの婚約者と結婚かい?と聞いてみた。
トクはいいや。もう俺の弟はとっくに結婚して子もできた。この秋に婚姻されるのは王様の末の王子のマトバス様さ。そのおかげで俺の実家は大騒ぎだったのさと今度はトクが肩を竦めた。
なぜタツルスの弟の結婚でトクの実家が大騒ぎするのだ?確か相手は西のモリオズの領主の遠縁の娘だとジユはタツルスから聞いていた。タツルスは母がそれぞれ違うが二人の異母弟達を可愛がっていた。今回のマトバスの婚姻もタツルスのおかげで纏まったのだ。
マトバスは数年前に会った母の故郷でもあるモリオズの領主の遠縁の貴族の娘のカタホナを秘かに気に入っていた。母の所にモリオズの領主が挨拶に来た時に同席していて二人は知り合った。カタホナの方もマトバスに好意を持ったようでお互いに想いあったが世継ぎではないが王子であるマトバスとカタログは貴族の娘ではあるが領主の娘や姪ではない。マトバスもいずれ父王の決めた相手と婚姻するのだとカタホナとの事は諦めていた。
世間では年齢的にも各領地の関係からもタツルスには南出身のレナミルと東出身のグリソルが嫁いでいて、異母兄のサジカルは西のカリヌルの領主の姪のホクアタと結婚した。自分は年回り的にも北のメクアナの領主の娘のリサナミを妻に迎えるのだろうと周りの話で理解していた。
しかしマトバスはやはりカタホナを忘れられなかった。カタホナもマトバスを想っていて縁談を断っていると知ってマトバスは苦悩した。ある日偶然弟の恋心に気がついてしまったタツルスは父王にマトバスとカタホナの婚姻を願い出たのだ。どうかマトバスを自分の望む娘と結婚させて欲しいと。
タツルスも父王に反対されるかと思っていたが、想像に反して父王はあっさり快諾して今回の婚姻が決まったのだ。
その話を聞いた時、ジユは偉く親切な兄さんだね。あたしの兄貴のヌクにも見習ってもらいたいよと冗談を言うと、王族と貴族の婚姻は不幸な場合がほとんどだからな。親が選んだ婚姻で上手くいっている方が珍しいさ。俺が知っている唯一の例がサジカルとホクアタぐらいだ。あの二人は珍しく親が決めて幸せになった。
異母妹は十六歳で他に五人も妃がいる十五も年上のオクルスの王に嫁がされたし、もう一人の異母妹もマルメルに嫁いで行くことになると思う。せめてマトバスともう一人の異母妹には幸せになって欲しいと思うと言っていたのをジユも覚えていた。
そして自分も不幸な婚姻だったが今はお前がいてくれるから幸せだと言って優しく口づけられた。
ジユはトクに結婚だろ?めでたい事じゃないか?相手は西出身の貴族の娘だろ?何であんたの家が大騒ぎになるんだい?あんたの家はその親戚なのかい?確かあんたは東の出だった気がするけど。
そうジユはトクに尋ねた。そのジユの問いに一瞬トクが鋭い顔をしたのにジユは気がつかなかった。トクは笑顔でおお、お前に俺が東の出と伝えたのをちゃんと覚えてくれたのか?やっぱり俺の事を気にしてくれてたんだなと言うとジユはあんたは春に来た時も今も緑や土色の着物じゃないか?なら東だろ?東の人はやたら緑や土色を着るそうじゃないか?違うのかい?と疑問を浮かべた顔をしている。
そうか。たまたま当たっただけか。トクはとても演技をしているとは思えないジユの表情に自分の中に沸き起こった疑惑を振り払おうとした。
しかし確かめないと。
ジユ。お前は口は悪いが口は硬いようだ。俺が大臣の息子だと言うことはここの誰にも話してないみたいだなと言った。実際ジユが不在の時に会ったジユの兄のヌクの態度からしてもジユは話していない様だった。そんなトクにジユはあんたが大臣様の息子だなんて言っても信用されないしね。逆にあたしがおかしな事を言い出したと思われちまうよと顔をしかめて見せた。
お前は口が硬いからな。実は俺が実家に呼ばれた理由はのマトバス様の婚姻だけじゃない。今王宮は大きな波乱が起きそうな状況なのさとトクはジユに声を掛けた。
王宮に大きな波乱?その一言にジユはじっとトクの目を見つめてしまった。タツルスのいる王宮に何が起ころうとしているのか?
そんなジユにトクはこう続けた。元々はマトバス様のお相手は立場的にも年回りからも北のメクアナの領主の娘と言われていたが、発表されたら相手は西のモリオズの領主の遠縁の貴族の娘だった。お世継ぎのタツルス様には西と東出身の貴族の妃がいるがどちらもまだ子を産んでいない。それで北と結び付きを深めようと、そのメクレアの領主の娘が新しくタツルス様の妃になるのではないかと囁かれていると。
ジユもその話は実はタツルス本人から聞いていた。水面下でマルメルと交渉をしているが、万が一母である王妃や南に悟られた時の為に北と接触しているのはメクレアの領主の娘との婚姻話と思わせた方がいいので敢えて北との交渉はメクレアの領主の侍従も参加させているし、協力者であるメクレアの領主は娘の婚姻が近いよう周りに匂わせていると。
マトバスの婚儀はたまたま好いた者同士が結ばれる為に行ったが、ちょうどマルメルとの交渉の目眩ましになったとも言っていた。
その時ジユはただ優しい男の面だけでなく、タツルスの政治家としてのしたたかな一面も垣間見た気がした。もちろんそれでも自分はタツルスの事が好きだが。
そんなトクにジユはもし世継ぎの王子様とその北の領主の娘が結婚したら、何であんたの家は大変になるのさ?東からはもう世継ぎの王子様に妃が嫁いでいるだろう?と思わず続けてしまった。トクはジユの口から出てくることばに疑惑を深めていった。なぜジユの口から王宮の人間関係についての話が出てくるのか。そもそもジユはそういった話に全く興味がなさそうな女だったのに一体なぜだ?
春に王宮に参上して急に詳しくなったのか?でも単なる好奇心でジユはそんな事に興味を持つ女ではなさそうだ。何か理由がありそうだ。
それにトクは気がついていた。ジユに始めて出会った春より美しくなっている。特に身なりが変わったのではないが、明らかに発している空気が違う。自分に悪態をついていても以前のような険が立つ感じは感じられない。むしろ男と甘いことばの駆け引きを楽しむ女の気配だ。
誰か王宮に近い男と関係を持ったのか?まあさすがにパルハハの領主ではないだろうが。トクは太った頭部の毛の薄いパルハハの領主を思い浮かべた。パルハハの領主の関係者か?
そしてもう1つトクは不思議に思っていた。なぜジユが急に紫の布を染めようと思ったのか。トクも高く売れる紫の生地や糸を手に入れたいと思い、ジユは不在だったがジユの父のキドに話を持ち掛けたが断られた。お前さんだけじゃなくてどんなに馴染みの商人に頼まれてもジユが紫の染めにはいい思い出がないので、しばらくはうちの工房では紫は染めない。悪いが紫の染めが欲しかったら他の工房を当たってくれと済まなそうに謝られたのだ。紫の衣。急にトクの脳裏にある一人の男が閃いた。トクは自分のあり得ない妄想に頭を振った。
あり得ない。ジユとタツルス様が出会うなんて。もし万が一謁見でお会いしても、そんな事が起こるのか?
しかしトクは自分の勘が当たることを信じていた。今までも何度もそれで救われて来た。
もう少しジユに鎌をかけてみよう。トクはそう閃いた。トクはああ、いるさ。グリソル様という東のザルハスの領主の娘だ。元々はタツルス様には王妃様の推した南のホルトアの貴族の娘のレナミル様と王様が推した北のバルスエの領主の娘のチルクスが嫁ぐ予定だったのさ。ところがチルクスが急に亡くなってしまい、世継ぎの王子様と世間に認めさせる為にも一日も早く妃が必要でグリソル様が急に選ばれたのさ。レナミル様はタツルス様と六才離れているから、その時は早過ぎたからだ。
急にトクは声を潜めてジユにこう言った。この話は秘密だぞ。グリソル様は秘かに想いあっている男がいた。相手は同じ東のタスカナの領主の息子のカキトナだ。王様の妃のクノスク様の甥でもある。そして俺の友だ。あいつは本当にいい男でグリソル様とは似合いの夫婦になれるはずだった。ところが王妃様の命令で急にタツルス様の元に嫁がされた。カキトナも王家の為にと涙を飲んで諦めたのに慣れない暮らしにせっかく身籠った子まで死産してしまいグリソル様は不幸になったのさ。
この話もジユはタツルスからグリソルの想い合っている相手が誰かは聞いていないが聞かされていた。でも今回タツルスはグリソルの為を思い療養という名目で産まれ故郷のザルハスに一旦帰してあげた。グリソルも涙を流して喜んでいたそうだ。なぜもっと早く思い付かなかったのかと後悔も口にしていた。
そんなジユにトクはそれが先日タツルス様がグリソル様がカキトナを想っていた事を理由に急に王宮から追放したのさ。本当は自分が北のメクアナの領主のリサナミを迎えるのに邪魔になっただけなのに、言い掛かりを着けて追放したのさ。二人は清い関係で想い合っていただけだぞ?グリソル様だって嫁いだ時に生娘だったのをタツルス様自身が知っているはずなのに。全く酷い話だろ。そもそも想い合っていた二人を引き離して、今度は勝手に捨てるんだぞ。
おまけにリサナミとマトバス様の婚姻話を破談させたのはタツルス様だったそうさ。いつまでもグリソル様が次の子を身籠らないので新しい若い妃が必要になって弟の相手を奪ったそうだ。それで東の大臣の俺の父親は慌てて俺に東はどうしたらいいのかと聞いて来たのさ。全く迷惑な話だよな。そもそも急に北とタツルス様が結び付こうとしたのは母親の王妃様との親子喧嘩がきっかけだそうだ。全く世継ぎの王子様のすることじゃないよな。お前もそう思うだろ?世継ぎの王子様なんて所詮こんな物さ。偉そうな事を言って周りを不幸にしてもお構い無しさ。
違う、違う、違う!
ジユはトクの話を聞いていて怒りが沸いてきていた。なんて無責任な話だ!タツルスの気も知らないで!
そもそも今回のマトバスの婚姻はマトバスとカタホナが幸せになる為に決めてあげたし、そもそもタツルスはもう自分は他の女を妃に迎える気はないと自分に言ってくれたからリサナミを妃に迎えるつもりはない。今回北と協力して水面下でマルメルと交渉しているのも王妃様との親子喧嘩でなく民の暮らしを想っての事だ。それにマルメルに嫁ぐ事になる異母妹に済まないと想ってその事に苦しんでいる。周り不幸にしてもお構い無しなんかじゃない。
おまけに今回のグリソルの件も王宮から追放なんかでないのだ。半年か一年故郷のザルハスで気ままに過ごして元気になったらまた王宮に戻る事はグリソルとタツルスでお互いに納得して決めたと聞いたし、その間もタツルスは何不自由なくグリソルが過ごせるよう手を尽くした事はタツルスの侍従長からもジユは話を聞いていた。グリソルに自分ではなく母の王妃様が決めた事なのに好きな相手と引き離した事を謝って、グリソルは涙を流してタツルスに礼を言ったそうなのに。
どれもこれも勝手な事ばかり!タツルスはそんな人ではない。自分も本当は自由に生きたいのに民の為に王宮という檻に入れられて、そこでもがいて苦しんで、時には心では泣いているのに!
ついにジユは口に出してしまった。
タツルスはそんな人じゃない!あの檻のような王宮で民の為に一人苦しみながらも生きているんだ!勝手に家を出たあんたにあの人の何が分かるっていうんだい!
ジユはついに明かしてはいけない愛する人の名を明かしてしまった。どれだけの間二人は黙ったままだったのだろう。
トクがポツリと呟いた。俺は勘がいいんだよ。トクの日に産まれちまったしなと言うとおどけて見せた。そんなトクの優しさに思わずジユは自分が泣きそうになっているのに気づいた。ジユもそれに応えるように、あんたがいい男だって今気がついたよ。まああの人ほどじゃないけどねと敢えてはすっぱに返してやった。
そんなジユにトクはおかしいな?今頃気がついたのか?俺の方があの方よりずっといい男なのにな。と冗談めかして言うと急に真剣な表情になって、いつ出会ったんだ?と聞いてきた。
ジユも全てを正直に話した。
王様から褒美を聞かれた際にとっさの嘘で昔の染めを見たいと言って王宮の図書室に行った事。そこでタツルスと二人きりになってたった数言だけ話した事、都から帰る途中で旅の疲れが出て一人キヌグスに残っている時にタツルスと再会した事。そこから二人の関係が始まった事。そしてパルハハへの旅の間だけだろうと思っていた二人の関係が今まで続いている事。トクはその間黙ってジユの話を聞いていた。
ジユが話し終わると、お前とタツルス様が出会ったのも運命だったんだろうなと、少し寂しそうに笑いながら呟いた。ジユも本当にそう思った。こんな辺鄙な田舎の村に住む自分と王宮に暮らすタツルスが出会ったのも運命だし、もし王様に褒美として飾り物を願い出て、嫌々祖父やパルハハの領主と一緒にお妃様との茶会に参加していたらタツルスと二人きりになって話す事もなかった。もし自分が具合が悪くならないでそのままパルハハに戻っていたらせいぜい視察の時に呼ばれてまたパルハハの領主の館で会えるか会えないかだっただろう。具合が悪くなったのがキヌグスではなく他の領地だったらタツルスとの関係は始まっても旅の間だけで終わってしまっていただろう。
それでジユ。これからお前はどうするんだ?そうトクは聞いてきた。お前が王宮に入って生きて行くとは思えないし、お前はあそこでは生きていけないだろう。きっとタツルス様もお前が王宮で縛られて生きていけないのは分かっておられる。あの方は賢いからな。さっきはお前に鎌をかける為にあんな風に言ったが俺はあの方ならきっとこの国を良くしてくれると信じているのさ。そうジユに笑い掛けた。
そうだね。そうジユも呟いた。自分が王宮でタツルスの妃になっている姿は思い浮かばなかった。また王宮以外で生きているタツルスの姿も思い浮かばなかった。
分からないね。そうジユも寂しそうに笑った。あたしには分からないね。ただ今はあたしはあの人を愛していて、あの人もあたしを愛してくれてる。ただそれだけだよ。そうジユはトクをしっかりと見据えてそう答えた。
そんなジユにトクはそうかと呟いた。そして真顔になって、でもこの後何かが起きる気がするんだ。俺の勘は当たるからな。いいか。何かあったらすぐに俺に連絡を寄越せ。いいな?約束だぞ。そうトクはジユに念を押した。
王宮ではマトバスとカタホナの婚礼の宴が盛大に繰り広げられていた。さすがに世継ぎの王子ではないので他国からの賓客は呼んでいないが、セルシャの国の全ての領主とその妻、そして貴族達が招待され王宮は色とりどりの絹の衣を纏った人々で溢れ返り賑わっていた。
そんな中でもそれぞれの地域の誇りと意地が垣間見れた。北出身の者は青を、南出身の者は赤を、東出身の者は緑を、そして西出身の者は黄色を基本とした着こなしをしていた。
花嫁と花婿であるマトバスとカタホナも揃いの黄色い絹の衣を纏って並んで正面の主役の席に座り、喜びに頬を紅潮させていた。そんな異母弟の姿をタツルスも自分の席からじっと見つめていた。自分はレナミルと婚儀の時はどんな気持ちであったのだろう?そしてレナミルは何を思って自分の隣に座っていたのだろうか?
そしてふっと今も自分の隣に並んで座っているレナミルの横顔を見つめた。今日のレナミルは一際鮮やかな赤い絹織物の衣を纏い、いつもと変わらず優雅な姿で微笑みながら参列している。先日自分の前でまるで親とはぐれた子供のように心許ない表情をしていた人とは別人のように堂々と悠然としている。今お前は何を思ってここに座っているのだ?タツルスは心の中でそう思っていた。薬師のムツからレナミルの腹の中には自分の子が宿ったと聞かされたが、その後レナミルから自分にその事については何も伝えられていなかった。なのであの日以降どうレナミルと接していいのか自分でも良く分からずレナミルの館には寄れずにいたし、またレナミルも何も言わずにただいつもと同じように侍女を伴って朝自分の執務室に来て形式どおりの挨拶をするだけであった。
兄上、タツルスは不意にマトバスから声を掛けられタツルスは我に返った。自分の席の目の前にマトバスとカタホナが並んで立っていた。ああ、マトバス。本当におめでとう。そなたが幸せになってくれて私も本当に嬉しい。そう弟に笑い掛けた。マトバスも兄上のおかげです。兄上の元にも幸福が訪れます。と笑い返した。カタホナもタツルスの隣に座るレナミルに向かってレナミル様、今回の婚儀のいろいろな事を取り仕切って頂きまして本当にありがとうございます。レナミル様から頂いたこの金の飾り物も生涯大切に致します。と深々と礼をした。
そんなカタホナにレナミルは悠然と微笑んだまま、カタホナ殿、本当におめでとう。王宮の年長者としてお祝い申し上げますとにこやかに言葉を掛けた。
そしてレナミルはふいにこう言葉を続けたのだ。カタホナ殿、そなたはこれから忙しくなりますよ。私はしばらく王宮の宴や行事に出られなくなるので、そなたはサジカル殿の妻のホクアタ殿、それにカトハル殿とマスルク殿と協力して王妃様をお支えして欲しいのだ。頼みますよ。
その言葉にマトバスとカタホナだけでなく、近くにいた父王、そしてサジカルとホクアタ、侍女出身の妃なのでタツルスとレナミルの後ろの席に座っていたカトハルとマスルク、父王の妃達や異母妹達、そして居並ぶ領主や大臣達も皆一斉にレナミルを見つめた。
タツルスの母でもある王妃がすぐその言葉に反応した。レナミル?いったいどういう事だ?そなたもグリソルのように体調が優れぬと言うのか?と。
タツルスも今回の婚礼の宴にザルハスにいるグリソルに王宮に一度戻って参列するかと使いを出して尋ねたが、グリソルの方で周りからいろいろ詮索されるのが煩わしいからと断ってきたし、タツルスも同じ意見だった。なのでこの場にグリソルはいなかった。
そんな王妃に向かってレナミルは王妃様、失礼致しました。今回の婚礼が終わって少し落ち着いた時にご報告させて頂こうと思っておりましたが、実は私タツルス様のお子を身籠りました。
そうレナミルは皆の前で悠然と微笑みながらそう伝えたのだ。レナミルの報告に王妃は歓喜した。レナミル、そなた真なのか?喜びと興奮で顔を赤くして席から立ち上がって身を乗り出して尋ねてきた。
はい。王妃様。先頃具合が悪かったのもそのせいでした。ですがグリソル様とカトハル殿の事もありましたので王様と王妃様、タツルス様にはもう少しはっきりしてからお伝えしようと思っておりました。もし何かの間違えであった時は皆様をがっかりさせてしまうのですからと少し寂しそうな表情をして見せた。そして薬師の見立てではもうすぐ三月になります。と嬉しそうに微笑んでみせた。
そのことばに居合わせた者達はレナミル様おめでとうございます。お身体を厭おってくださいませ。タツルス様おめでとうございます。お喜び申し上げます。王妃様おめでとうございます。王様これで王室も安泰ですな。おめでとうございますと皆一様に祝意を口にした。
タツルスはとりあえずああ、ありがとうなど答えたが気持ちは別の所にあり上の空だった。ここで伝えたは故意なのか?偶然口が滑ったのか?レナミル、そなたは何を考えているのだ?
父王もレナミル、良くやった。産まれて来る子が王子でも王女でも喜ばしい事だ。と笑顔でレナミルを見つめた。そんな父王にレナミルは王様、ありがとうございます。僭越ながらこの喜ばしい出来事への褒美として一つお願いをしてもよろしいでしょうか?とレナミルは続けた。
直ぐ様父王の横に座っていた王妃がもちろんですとも。何なりと仰いなさいと満面の笑みを浮かべて勝手に許可した。父王も黙ってレナミルの次のことばを待っている。恐れながら王様、嘘か真か分かりませぬがタツルス様とのメクアナの領主殿の娘のリサナミ殿との婚姻の話があると耳にしております。つきましてはこのお話はなかった事にして頂き、代わりにリサナミ殿には我が従弟のキタビルに嫁いで来て頂きたいのです。
その場に居合わせた者全てがレナミルの願いに驚愕した。
レナミル、そなたは一体何を考えておるのだ。タツルスはレナミルの横顔をじっと見つめてしまった。そんなレナミルに父王はなぜそのような願いなのか理由を聞かせて欲しいと笑いながら言った。父王はのらりくらりと趣味だけに生きている様に見せ掛けて、実は裏でタツルスを動かして政治を行っているし、頭が切れるのだ。そんな父王でも今回のレナミルのことばの真意を量りかねているようだ。
恐れながら王様。私がタツルス様に嫁いで来て四年。いつまで経っても子を授かれずにいましたので、皆がお子が産まれないのではと、このセルシャの国の行く末を案じてくれている事は知っておりました。ですが私もようやくタツルス様のお子を身籠る事ができました。それにグリソル様も静養に出られて元気になってお戻りになればまたお子に恵まれる機会もあるでしょう。タツルス様にはカトハル殿とマスルク殿もおられタツルス様に心を込めてお仕えしてくれています。そこに敢えて10以上タツルス様と年の離れたリサナミ殿に王宮に上がって頂く必要はないかと思います。
レナミルのそのことばに南と東の領主や貴族達はそうだ、そのとおりだとばかりに深く頷き、北の領主や貴族達は承服できないといった顔をしており、西の領主や貴族達は北と同じ反応を示す者、黙って成り行きを眺めている者とさまざまである。
しかし王様。反旗を翻したのは北のバルスエの領主だ。急な病で娘がこの世を去らなかったら自分がタツルスの舅になっていたはずの男だ。レナミル様のお子が王女様であったらどうなされますか?やはり貴族の母の血を引くお世継ぎの王子様がお産まれになって頂きませんと。お若いリサナミ殿にはタツルス様の元に上がって頂いた方が王家の行く末の為にも賢明かと存じますと反論した。
そんなバルスエの領主にレナミルは、もしリサナミ殿が嫁いで来てお子に恵まれなかったら、どういたしますか?周りから子を子をと望まれ、それが叶わない時の辛さは私が誰よりも分かっております。まだ年若いリサナミ殿には私と同じような辛さを味わって欲しくないのです。と寂しそうな微笑みを浮かべた。
そんなレナミルに加勢するべく王妃がレナミル。そなたは誠に優しい。正に王妃の器ではないかとレナミルを持ち上げる。
父王はメクアナの領主の方を見て、そなたの娘とタツルスの婚姻の話は真なのか?と聞いてきた。父王も水面下でマルメルと交渉をしていて、それにメクアナの領主も関わり婚姻話を隠れ蓑にしているのを知っているのに敢えて知らない振りをして、とぼけて聞いてきた。全く食えない父だ。メクアナの領主は王とタツルスを順にちらっと見た後に、至らぬ娘ですがもしタツルス様のお役に立てばと思っておりますが、まだタツルス様からは正式にそういった色よいお返事は頂いておりませんと頭を下げた。マルメルとの交渉が上手くいったらその見返りに本当にタツルスにリサナミを妃として貰って欲しいと言うつもりだったのか。
きっとジユと出会う前の自分だったら何も考えずにその申し出を受けていただろう。でも今は違う。例え誰が嫁いで来ても、もう自分はジユのように本気で愛せる者には巡り会わないだろう。それならばリサナミが嫁いで来ても不幸になるだけだ。王宮に縛られて辛い想いをさせるのは今いる妃達だけでもう充分だ。どうしても世継ぎの王子に恵まれなかったら、周りはうるさいだろうが、サジカルやマトバスに後を継いでもらってもいいと秘かに思っている。現に母親が貴族出身の妃でない王も過去に何名かいる。
そうか、そのような話があったのかと、まるで今知った風を装い父王は更にレナミルに問うた。ではなぜリサナミとそなたの従弟のキタビルの婚姻を願い出るのだ?と更に続けた。
レナミルはぐるっと居並ぶ領主や貴族達、そして王と王妃、そして最後にタツルスに視線を贈ると、皆様ご存じのようにこのセルシャの国の成り立ちの古い歴史からの南と北は争ってきております。そしてそれがこの国が栄えるのを妨げている事には本当は皆様もきっとお気づきでしょう。タツルス様が最近頻繁に地方に赴かれているのはその為なのです。タツルス様が好んで紫の衣を纏っていらっしゃるのは赤の南と青の北。その二つが共に手を取り合えば更にこの国は栄えるとのお気持ちがあっての事なのです。
レナミル!そなたは私の気持ちに気づいていたのか!タツルスは驚いて隣に座ったレナミルをじっと見つめてしまった。ジユには打ち明けた想いをなぜ話してもいないそなたも知っているのか。
更にレナミルはこう続けた。リサナミ殿はまだお若いのに美しいと聞いております。きっとタツルス様の妃にふさわしい立派な娘に育っている事と思います。ですのでぜひ我が従弟のキタビルにそのような素晴らしいリサナミ殿に嫁いで来て頂ければ南と北の友好の証となりますし、タツルス様の御代にタツルス様をお支えしてもらえるかと思いますと最後は悠然と微笑んだ。
そのことばとレナミルの勢いに皆圧されたように一様に黙ってしまった。レナミルの一人勝ちだ。タツルスは秘かに天を仰いだ。父王は瞬時に何が一番得策か考えたのだろう。普段はめったに声を掛けない王妃に向かって、本にレナミルはこの王室の事だけでなく、セルシャの国の事も良く考えてくれておるな、王妃。と笑顔を向けた。王妃もええ、王様。私もレナミルの王室とこの国を想う気持ちに胸を打たれました胸を押さ、感無量といった表情を見せた。王妃も北出身の王妃と世継ぎの王子の誕生が阻止できるのであれば、甥のキタビルに北出身の娘が嫁ごうが関係ない。しかもキタビルは跡継ぎではない次男だ。せいぜい出世しても大臣の末席に加わるくらいだ。そう腹の内では思っているのだろう。こうなるともう周りも何も言えまい。
父王はメクアナの領主とキタビルの父を順に見て、それではこの婚姻に異論はあるまいな?と問うた。もちろん反論はできまい。二人共口々に王様の思し召しで、このような素晴らしいお話を頂けたのは我が領地の誉れですや我が愚息にはもったいないほどの嫁でございますなどと口にして深く頭を下げた。
父王は、はははと豪快に笑うとマトバスとカタホナだけでなく、また新たな若い二人が結ばれる事になった。真にめでたいではないか。皆もこの四人を祝して今晩は盛大に祝おうではないかと手元の盃を取った。王妃もにこやかにそれに倣い、皆も慌てて同様に盃を手に取った。
乾杯。そう父王の声に合わせて皆が隣の者と盃を交わした。いつもは険悪な父王と王妃もお互い笑顔で盃を交わし合っている。
そんな中でタツルスだけが一人呆然としていた。レナミル、そなたは。
まだ宮殿では宴の最中だが、タツルスはレナミルと共にレナミルの館にいた。きっと宴もたけなわなのだろう。宮殿から賑やかな笑い声や楽器の音色が風に乗って微かに聞こえて来る。楽師が楽器を奏でて舞師が優雅に舞い踊っているのだろう。
あの後レナミルは少し疲れたので申し訳ないが退席させて欲しいと父王と王妃に願い出て、二人は一も二もなく許可した。タツルスも付き添うという事で一緒に退席した。
共にレナミルの自室で二人きりで向かい合って座ったが何から話していいのかタツルスは分からなかったが、ついぽつりといつから気づいていたのだと呟いていた。
そんなタツルスにレナミルは衣の事でしょうか?それとも別の事でしょうか?と少し寂しそうに微笑んで見せた。
そのことばにタツルスははっとしてレナミルをじっと見つめた。二人の視線が混じり合った。
タツルス様がどうして紫の衣をお気に召して着ていらっしゃるのか遠の昔から私は分かっておりまし。
タツルス様は王妃様が王様を蔑ろにして南ばかり肩入れなさるのを快く思っていらっしゃらない事にも気づいておりました。それでも南はタツルス様にとっては血筋の土地。そうは言っても愛着はおありになるのでしょう。疎ましくは思っていてもやはり王妃様を母と慕うように。なのでタツルス様は南を排斥するのではなく北と共存させたいとお考えなのでしょう。東と西は北と南に遠慮して表にはしておりませんが、さほどいがみ合ってはないのですから、北と南が手を取り合えば自ずから従います。さすればこの国は平和になります。そういった願いを込めて赤と青から成る紫の衣をお召しになっているのでしょう。
自分の想いをすらすらと述べられてなぜ私の想いがそなたに分かった?タツルスは思わず口にしてしまった。レナミルはタツルス様のお心に気づかない私ではありません。私は始めてタツルス様にお会いしたあの八才の時からずっとタツルス様を心に留めておりました。タツルス様の妃になれればずっとお側にいられる。そう思い王妃様に私をタツルス様の妃にして欲しいと願い出たのです。
そしてタツルスをじっと見つめ、タツルス様が私を愛してくださるのでしたら他に何も望みません。そうレナミルは言い切った。
レナミルはあの始めて会った時から私を愛していた?王妃になりたいのではなく、私に愛されたいが為に王宮に上がった?
そんなタツルスにレナミルはタツルス様が望むのでしたら王妃の座はグリソル様に差し上げてもかまいません。南と縁を切れと仰るなら南との縁を全て捨てましょう。
でもタツルス様のお心はここにはないのでしょうと言うとレナミルの頬に一筋の涙が零れた。レナミル、そなた気づいていたのか?思わずタツルスは口にしてしまった。ずっとタツルス様だけを見つめてきた私です。どうして気づかないでしょうか?そうじっとタツルスを見つめて静かに言った。
タツルス様のお心がこの王宮の外にいる者に向けられている事にはとっくに気づいておりました。タツルス様のお立場ならば容易くその者を王宮に上げることはできるのに敢えてなさらなかった。それはどうしてか。タツルス様はその者はこの王宮で生きていけないとお分かりなのでしょう。レナミルの言うとおりだ。
ジユを側に置きたいならばパルハハの領主の縁者として貴族の娘の名前を付けて王宮に上げたり、とりあえず王宮に侍女として出仕させてから妃にすればいいだけだ。王宮に上げなくても王宮に近い都のどこかに館を用意してそこに住ませて囲う事もできる。でもタツルスはどれもしなかった。パルハハやキヌグスの領主の館に呼び出したのは自分と会っていない時は自分のいるべき場所であるゾルハの村で染めができる。ジユはきっと自分の思う染めができない場所にいたら、例え自分の愛があってもジユの心は死んでしまうだろう。タツルスも認めたくはないが、ジユを本当に愛しているので本心ではそれが分かっていたし、ジユを愛するが故にそうしなかったのだ。
タツルスは自分とジユの間にはいくらお互いに愛し合っても越えられない、そうまるで見えない檻が自分とジユの間にあり、自分はその檻の中に閉じられて逃れられないのだ。そうタツルスは我が身を呪った。自分はジユのように染めや織り、また薬師や商いなどをやって生きて行く術も身につけていないし、日常の全ての事も侍従や侍女に任せて生きてきたので、もし周りに誰もいなくなってしまったら赤子同然で生きていけないだろう。タツルス様。私達は所詮この王宮でしか生きていけない身です。でもあの者は違います。逆にここでは生きていけないのです。タツルス様とあの者は所詮共に生きられないのです。共に生きるなどそれは夢か幻です。どうか目を覚ましてください。
でも自分はジユを失ったらどうなってしまうのか。そう思っただけでも足元から世界が崩れてしまいそうだ。タツルスはただ無言でレナミルを見つめた。そんなタツルスにレナミルは更に訴えかけた。
先ほど王様に一つ願いをと申し上げました。でも本当は望めるならタツルス様のお心を下さいと言いたかった。私はタツルス様が愛してくださるのでしたら王妃の座も世継ぎの王子もいらないとずっと思っておりました。でも実際に子ができたら、この子はタツルス様の愛を受けないで育つのかと思うと不憫でなりません。私はずっと親に愛されていないと思って育ちました。タツルス様も王様と王妃様の愛のない姿を見て寂しくお育ちになったのでしょう。どうか産まれてくる子の為にも私を愛して、私と共に生きてください!タツルス様が愛してくださるのでしたら何でもします。だから私を愛して!最後は普段は慎ましく振る舞っているレナミルとは別人のように叫ぶとタツルスの骨が折れるのかと思うくらい力一杯しがみついてきた。
レナミルの愛と言う名の鎖と二人の間の子という血の鎖で、この見えない檻に自分は縛りつけられて行く。そしてジユと引き離されて行く。タツルスは見えない檻の中で懸命に檻の外にいるジユに手を伸ばそうとしても届かない。
レナミルに強く抱きつかれたままタツルスはそっと目を閉じた。タツルスの瞳からも一筋の涙が溢れてきた。ジユ。
タツルスは心の中で愛する者の名を呼んだ。寝台の傍らではレナミルが眠っている。タツルスは暗闇の中で仄かに差し込む月明かりに照らされたレナミルの横顔を見つめた。
タツルスがジユを想い静かに涙を溢していた時、タツルスに抱きついたままレナミルは激しく泣いていた。結局引き剥がせないまま泣き疲れて呆然としてタツルスに抱きついたままのレナミルの姿を見た薬師のカクがすぐレナミルを床に寝かせるよう命じたのだ。
宴を少し疲れたとレナミルが口にした為、母の王妃がレナミルの様子を診るようにとカクに命じてカクがレナミルの部屋に来た時、扉の向こうではいつもは穏やかなレナミルの叫ぶような声がした。扉が厚いので何を言っているのかははっきり聞き取れなかったが確かにレナミルは叫んでいた。続いて泣く声も聞こえる。カクとレナミル付きの侍女長はどうしたら良いのかと外から中の様子を伺ったが一向に泣く声は止まらない。そんなに興奮してはお腹の子に障ってしまう。泣き声が止むとすぐさまカクは慌てて部屋に入り、泣きつかれて放心状態のレナミルを見て、すぐにレナミルを寝かせるよう侍女達に命じて、自分はレナミルの脈や呼吸を調べた。
カクの処方した薬湯を飲み、少し落ち着きを取り戻したレナミルだが、タツルスが部屋から退出しようとしたら激しく抵抗した。周りに侍女達やカクがいるのにも関わらず人目も憚らずにタツルス様、私を一人にしないで下さいとまた泣き出したのでタツルスも観念して今夜はレナミルの館に泊まることにしたが、神経が高ぶっているのだろう。床に横になっても一睡も眠れなかった。改めてレナミルの顔を見つめた。確かに美しい女だ。流れるような土色の豊かな波打った髪が白い頬に沿ったようにかかっている。通った鼻筋に豊かな頬。小さくきゅっと閉まった口元からは知性が伺える。そして賢い。今回の件で改めてレナミルの洞察力、政治力も思い知らされた。家柄も良くおまけに自分の子を身籠った。王妃にするには相応しい女だ。そして自分を深く愛している。
タツルスは思わず顔を覆ってしまった。もしレナミルが王妃の座を望んでではなく、自分と結ばれたいが為に嫁いで来たと知っていたら自分はレナミルを愛しただろうか。しかし今となっては分からない。それに自分にはジユがいる。例え二人の未来が見えないとしてもジユがいるのだ。
そう思った瞬間タツルスは咄嗟にある想いが閃いた。今すぐここを出てジユの元に行くのだ!
タツルスはレナミルを起こさないようそっと寝台から降りると急いで身仕度を整えた。パルハハまでの道なら覚えている。タツルスは夜陰に紛れてレナミルの館から一人出た。
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