町田 千春 著

染色師 その5     TOP

 

タツルスは宮殿の見張りの衛兵達の目を忍んで王宮の端にある厩舎へと向かった。今日は王宮で大規模な宴があった為、多くの賓客が訪れ、その人々を捌くのにいつもは夜の番の者も駆り出したのだろう。宴が終わり見張りの衛兵の数はいつもより少ない。それに急にレナミルの懐妊という慶事が重なったので宴は予定よりかなり伸びた。衛兵達も当初の予定より伸びて疲れたのだろう。きっとくたくたになって眠っているだろうし、衛兵達の中には自分達のことを祝って酒を酌み交わしている者もいるだろう。

宮殿を出るなら今晩が最適だった。タツルスは急いで身仕度を整えたがジユの元に行くのに自分は金を全く持っていない事に苦笑した。自分は何か労働の対価として金を貰った事もないし、自分で何かを買った事もない。なのでこの王宮のどこに金があるもかも知らなかった。全く自分は王宮以外では生きていけない身なのだと改めて思い知らされた。

金の代わりになりそうな飾り物がいくつか自室にはあったが、そんな事も思い付かなかった。しかし戻っている暇などない。何としてもここを出てジユの元に行くのだ。

厩舎では自分の愛馬数頭が眠っていたが、タツルスが忍び込むと一番の愛馬であるナクがぶるると嘶き声を立てた。きっと主人のただならぬ気配が伝わったのだろう。タツルスは急いでナクを繋いでいる紐から外し、ナクの背に乗ると王宮の五つある門のうち西の街道に召した西門に向かった。

衛兵の交代直後が狙い目だ。タツルスは一計を案じた。

夜更けの時間に交代した衛兵三人が少し眠そうに立っている。タツルスは敢えてゆっくりと馬を進めた。近づいて来た人影に誰だ?と衛兵達は声を上げた。しかしその姿を認めて慌てて敬礼した。

タツルスはアソニジと王妃やレナミルの目を盗んで秘かに王宮の外で飲み直そうという事になったが聞いていないのか?アソニジが西の衛兵には上手く話しておくので心配ないと。お前達の上官からちゃんと話は伝わっていないのか?早く門を開けてくれと嘘を言った。衛兵達も慌てて門を開けた。まさかタツルスが王宮から去ろうとしているとは彼らは夢にも思っていないのだろう。

タツルスは悠々と馬を進めて門の外に出ると一目散に西に向かって駆け出した。

レナミルは目が覚めると傍らにはタツルスの姿がなかった。ただうっすらと寝台にはタツルスの匂いが残っていた。昨日カクに処方された薬には眠くなる薬草も含まれていたのだろう。すっかり深い眠りに落ちてしまい、いつタツルスが寝台を降りたのかも気がつかなかった。どこに行ったのだろう。嫌な胸騒ぎがする。レナミルは慌てて自分も寝台から降り、寝室の扉を開けた。

レナミル様おめざですか?レナミル付きの侍女がレナミルが夜衣のまま寝室から出てきたので慌てて控えの間から飛び出して来た。ええ、タツルス様はどちらに?もう自分の館にお戻りになったの?慌ててレナミルは侍女に尋ねた。尋ねられた侍女は怪訝な顔をして、タツルス様はまだお部屋でお休みではないのですか?と逆に尋ねられた。

レナミルは急いでその侍女にすぐにタツルス様の館と王宮に使いをやって今どこにいらっしゃるのか確認して頂戴。早く!と命じた。レナミルの様子に慌てて侍女も駆け出して行った。侍女達が戻って来るまでの時間がどれだ長く感じられただろうか。レナミルは落ち着かずに部屋の中を何度も行ったり来たりしながら知らせを待った。

レナミル様!大変でございます。タツルス様の館にも宮殿にもタツルス様のお姿が見当たりません。二人の侍女が慌てて戻って来た。一人が私がタツルス様の館に行くと逆に昨晩はレナミル様の館にお泊まりになったのだろう。いらっしゃらないのか?と逆に尋ねられてしまいましたと言うと、もう一人の侍女も王宮のタツルス様の執務室とタツルス様のお部屋にも行ってみましたが、どちらの部屋に仕える者も今朝はタツルス様のお姿を見かけていないとの事です!とレナミルに伝えた。

レナミルは血の気が引いていくのをはっきりと感じて身体が足元から崩れそうになった。よろけたレナミルに慌てて侍女達が駆け寄りレナミルを支えた。大丈夫よ。何とかそう言って一人で立ったが、まだ足元がはっきりしなかった。

いったいタツルス様はどこに行かれたのだろう?まさかあの女に会いに?まさかあり得ない。レナミルは自分の考えを否定しようと首を振った。たった一人でタツルスが王宮の外に、しかも行き先は遠いパルハハの地に行くのだろうか?

タツルスがこの宮殿内で居そうな場所を思い浮かべてみた。カトハルとマスルクの館に図書室。それにサジカルとマトバスも昨日は宴が長引いたのでそれぞれの離宮には帰らず、まだ王宮にいるのかも知れない。二人とどこか王宮内で会っているのかも知れない。レナミルは侍女達に秘かに様子を見てくるよう命じた。またもう一人の侍女にも再度タツルスの館に出向いて様子を見てくるように命じた。

実際二人の妃達の館にいたり、サジカル達と会っていたのに騒ぎ立てたらタツルスに恥をかかせてしまう。それに何より、もし本当にタツルスがいなくなっていたら、レナミルは自分がタツルスに見捨てられたと認めたくなかったからだ。どうかタツルス様、王宮にいてください。レナミルは必死に祈った。

レナミルの元には次々に様子を見に行かせた侍女達からの知らせが入って来た。カトハル様とマスルク様の館にはいらっしゃいませんでした。サジカル様は昨晩のうちに離宮にお帰りになっておりました。マトバス様も昨晩は王宮にお泊まりになりましたが、これから王様にご挨拶をしてお帰りになるそうです。どの知らせもレナミルの期待していた答えではなかった。タツルスの館に様子を見に行っていた侍女が息を切らして走って戻って来た。レナミル様!タツルス様のご所在が分かりました!レナミルはそのことばにほっと胸を撫で下ろした。

良かった。レナミルは心底そう思った。でもいったいどこにいるのだろうか。

タツルス様は今どこにいらっしゃるのだ?レナミルが問うと侍女はタツルス様の侍従達もタツルス様がレナミル様の館にいらっしゃらないと知って王宮内を秘かに探し始め厩舎に行ったら、タツルス様の愛馬のナクだけがいなくなっていたので、もしや王宮の外に出られたのではと思い、各門の衛兵に確認した所、昨日の夜更けに西門の衛兵がタツルス様がアソニジ様とお忍びで王宮の外で会われると仰っていたとの事です。なのでまだアソニジ様とご一緒で王宮にお戻りになっていないようですと答えた。

アソニジとお忍び。ありそうな話である。確かにレナミルもたまにタツルスが王宮が煩わしくなってアソニジと王宮の外で身分を隠して羽目を外している事には気がついていた。アソニジもタツルス様はどんな美しい女が言い寄って酒を酌み交わしても世継ぎの問題が生じないよう寝所は共にしないからと笑いながら言ったのを覚えていた。

やはり昨日の自分の行動はタツルスに疎ましく思われていたのか。レナミルは唇を噛み締めた。しかしレナミルには疑問が浮かんで来た。いったいいつタツルス様とお兄様はそんな約束をしたのだろうか?昨日の宴にアソニジももちろん参列していたが、タツルスとは直接話している姿は見ていない。タツルスはずっと自分の隣に座っていたし、アソニジも居並ぶ他の大臣達と同じように大臣席に座っていた。しかも年配の者から王座に近い席に座るので若輩のアソニジの席は後ろの方でタツルスの席とは遠かった。

それになぜ西門からタツルスは出たのか?都の歓楽街と言えば南と北の方が西よりずっと栄えている。元々この国でも南と北の領地が栄えているので、その街道に繋がる歓楽街も自ずから南と北が栄えるのだ。アソニジと会うのならば南門から出るのではないのか?アソニジも都の南の歓楽街の店に馴染みの店の一軒もあるだろうし、逆に北の領地の者が行き交う北の歓楽街にアソニジが好んで足を運ぶとは思えない。同様にアソニジと一緒に西の歓楽街に行くだろうか。

 

西!あのジユという女がいる!もしや?

 

レナミルは侍女にすぐさまアソニジを探してここに呼ぶようにと命じた。アソニジがレナミルの元に慌ててやって来たのはもうすっかり昼過ぎになってからであった。レナミルは一日中何も手につかず、また食事もお腹のお子様の障るのでとしきりに侍女は勧めたが、全く喉を通らなかった。タツルスの侍従が王宮の者達にはタツルスはアソニジと狩りに出て戻っていないと伝えたようで特に王妃様や他の妃達は不審に思っていないようで騒ぎにはなっていないようだった。

レナミルは一人不安な気持ちを抱えてタツルスの帰りとアソニジの訪問と待った。

レナミル様、タツルス様のお姿が見えないとは本当ですか?アソニジは使いの知らせを聞いて慌ててレナミルの部屋に飛び込んで来た。アソニジは少し疲れた気配を漂わせていた。そんなに夜通し遊んでいたのか。

お兄様!今までいったいどこで何をされていたのですか!タツルス様とご一緒ではないのですか!

そんなレナミルに昨晩の宴で自分には事前に全く知らせずに突然レナミルがあのような申し出を王様にして王様が聞き入れてしまったので、宴が終わると慌てて南の領主達や貴族達、そして東の領主数名と秘かに会って、南はどう動くべきか話し合っていたと少し怒った表情でレナミルに伝えた。自分をないがしろにして話を進めた事に立腹しているのだろう。

ではタツルス様とご一緒ではないと?レナミルはアソニジに詰め寄った。当たり前だ!昨日は急にあんな事があってタツルス様と一言もことばを交わせなかったし、お前があんな事を言い出したから俺が昨晩から寝ずに南や東の者と会っていたのだぞ!レナミルは慌てて侍女経由で聞いた昨晩のタツルスの事を話した。アソニジは驚愕した。すぐに昨日の事を知る西門の衛兵とその上官とタツルスの侍従長をここに呼ぶよう命じた。

いったい昨晩は何があったのだ、レナミル?レナミルは唇を噛み締めた後、恥を忍んでアソニジに

全てを打ち明けた。話を聞き終えたアソニジはそもそもお前が急にあんな事を言い出すからだ!タツルス様がご気分を害してしまうに決まっているだろう!俺が前に言ったはずだ!お前は政治の事に口を挟むではないと!!

それよりも今タツルスがどこにいるのか、まさか本当にあのジユという女の元に向かってしまったのか?レナミルはそちらの方がずっと気掛かりであった。タツルスの失踪に打ちのめされているレナミルに更に追い打ちをかけるようにアソニジはこう続けた。

タツルス様の女の件でとやかく言うなと俺があれほど言ったのをお前は忘れたのか!ようやくタツルス様のお子を身籠って黙っていれば次の王妃の座はお前の物と決まったのに、なぜタツルス様のご不興を買うような真似をしたのだ!そんな身分の低い女なんてどうでもいいだろう!

タツルスは去ってしまい、アソニジは自分の味方ではない。タツルスを取り戻すにはどうしたらいいのか分からなかってレナミルはついに激しく泣き出してしまった。

アソニジはばつが悪くなり、ともかく今はタツルス様の行方を探す事が先決だとレナミルに言うとさすがに一人で金も持たずにパルハハまで向かうとは考えにくいから西門から出たならセルカイの所かも知れない。他にタツルス様と関わりのあった者達の所も当たってみようと言うとアソニジはレナミルの侍女に数人の貴族の奥方達の名前を伝えた。

いつもなら嫌悪を感じるセルカイだが今はどうかセルカイの所にいて欲しいとすら思った。

そうこうしているうちにタツルスの侍従長と昨晩の西門にいた衛兵達とその上官が参上した。侍従長はいつも通りで顔色一つ変えていないがめったに呼ばれない妃の館の中に呼ばれ、衛兵達は落ち着かない様子だった。衛兵達はタツルスがアソニジと会い酒を酌み交わして、その後そのまま一緒に狩りに出たのだろうと思っていたのに、ここにアソニジだけいて、しかも自分達は呼び出されている。事態が飲み込めていないのだろう。アソニジは視線でお前は黙っていろと言っているのでレナミルもそれに従う事にした。

アソニジは衛兵達に昨晩タツルス様と行き違いになってしまった。昨晩のタツルス様はどんなご様子で何を仰っていた?と敢えて笑いながら確認した。衛兵達は口々に皆一様にタツルスが出て行った時の様子を伝えたが遠出をするような支度もなく、本当にふらりと外に出るような様子だったそうだ。これ以上彼らからは必要な情報は得られそうにないと分かると、もう良い。下がっていいぞと彼らを退出させた。

衛兵達が退出するとアソニジはタツルスの侍従長にお前ももう気がついていると思うが昨晩から急にタツルス様の行方が分からなくなったのだ。俺と王宮の外で会うと衛兵達には言ったようだが、そんな約束はしていない。お前はタツルス様がお忍びに出て午後になっても戻らないので急いで周りには俺とタツルス様は狩りに出たと言ってくれたようだが、王様や王妃様に知られる前に何としても探し出してこの王宮に戻って頂かないといけない。そう伝えた。侍従長はそこまで話を聞くと一瞬レナミルを見た。彼も昨晩タツルスとレナミルの間に何かあったと気がついたのだろう。

タツルス様と付き合いのある女には今秘かに訪ねていないか確認させているが、万が一の場合も考えられる。その女はどこの誰だかお前は知っているだろう。正直に話せ。タツルス様が行方をくらましたのだ。何としても探し出さねば。一瞬侍従長も躊躇したが事態が事態だけに彼も重い口を開いた。タツルス様のお相手のジユ様はパルハハの山間のゾルハの村にある染めの工房にいらっしゃいます。彼はまるでジユも妃の一人のように丁寧な言葉遣いでジユの正体を明かした。

その後皆一様に黙りこくって、アソニジが使いを出した侍女達が戻って来るのを待った。侍女達が戻って来たがやはり誰の元にもタツルスは訪ねてもいなかった。セルカイは侍女から知らせを聞いて慌てて本人もやって来た。まずレナミルに、レナミル様。ご無礼とは承知しておりますが、タツルス様がいらっしゃらなくなったとお伺いして居てもたっても居られなくなってしまい侍女の方に無理を言って付いて来てしまいました。お許し下さいと丁寧に頭を下げ詫びた。

そんなセルカイにアソニジは良く来てくれた。タツルス様の行方を探すのにそなたの力も借りたいと言って、セルカイに席を勧めた。そして侍女達も皆部屋から下げ、部屋にはレナミルとアソニジ、セルカイとタツルスの侍従長の4人だけが残った。アソニジは今回の経緯をセルカイに伝えた。その話の間誰も一言も口を挟まなかった。

話を聞き終わるとセルカイは深いため息をつくとおそらくタツルス様はジユの所に向かったと思います。タツルス様はジユを深く愛しておいでですからと言った。そしてタツルス様がいずれ王宮にお戻りになるつもりなのか、それとも違うのかは分かりませんが王様がお知りになる前に、事が大きくなる前にアソニジ様がタツルス様をお迎えに上がって上手く説得して頂いて事を収めて頂くのがよろしいかと思います。と続けた。

アソニジも同様の考えだったのだろう。分かったと言うと侍従長と段取りについて話し始めた。王宮の者にはタツルスは自分やセルカイの夫と共に狩りに出ていると伝えておく事。急ぎ西の領主達には秘かにタツルスがもし領主の館に来たら何としてもそこで足止めをするように使者を送る事、王宮の衛兵達を捜索の為に動かすと王様が今回の事をお知りになってしまう危険性があるのでタツルス付の数人の衛兵とアソニジの館で抱えている数人の手兵を従えて、アソニジがパルハハに向かう事に決めた。

おそらく昨晩に都を出たならば今頃はキヌグスも領地に着いた頃だろう。おそらくタツルスは街道しか知らないので街道を通っているだろう。若い貴族らしい身なりの一人馬に乗った男が通らなかったか街道を行き交う者達に尋ねれば何か手掛かりはすぐにでも得られそうだし、街道の裏道を通ればタツルスがパルハハに着く前に先回りして到着できる可能性もある。

しかしレナミルは話を聞きながらも不安だった。もし本当にタツルスが戻って来なかったら。

お兄様!私も一緒に連れて行って下さい!何としてもタツルス様を連れ戻さないと。

そのことばに皆レナミルを止めにかかった。今回は火急の用なのでのんびりと馬車で行くのではなく早馬に乗って行くのだ。お腹の子に障るので無理だ。しかしレナミルは自分が行くと言って聞かない。実際自分も子を産んだ事のあるセルカイの説得で何とかレナミルも思い止まったが、アソニジにお兄様、何としてもタツルス様を連れ戻して来て下さいと願い出た。

セルカイと侍従長が部屋から下がり、レナミルとアソニジの二人きりになった後、レナミルはアソニジにお兄様、一つお願いがあります。と強い眼差しでアソニジに声を掛けた。お兄様、お願いがございます。そのジユという女を消し去って欲しいのです。アソニジはその言葉にはっとしてレナミルを見つめた。レナミルは先程まで激しく泣いていた時とは別人のように毅然とした態度でアソニジにこう言った。

もしこの世からあの女がいなくなればタツルス様ももう二度とお心を惑わされる事はないでしょう。私からタツルス様を奪った罪は己の命で贖ってもらいましょう。タツルス様が私を愛さないと仰るならばいっそ憎むがいい。あの女を殺めた私を憎むがいいと言って静かに涙を流した。その時のレナミルの表情は何とも言えず不思議な美しさを称えていて、アソニジも何か大きな力に抗えずに分かったと返事をするとパルハハに向かう為に部屋を後にした。

レナミルは一人になると大きく息を吐いた。いつの間にかすっかり辺りは日が暮れて夜になっていた。窓の外には大きな月がぽっかりと浮かんでいた。その月明かりを頼りにタツルスは今もパルハハに向かって馬を走らせているのだろう。あのジユという女の元に向かって。レナミルはそんな月を窓辺に寄りかかり眺めながら、また静かに涙を流した。

 

タツルスは月明かりの中パルハハに向かって歩を進めていた。昨晩都を出てトラエグで少し休んで、もうすぐキヌグスの領都に着く前だった。正直金も何も持たずに王宮を飛び出したが、途中の街道で行き交った見ず知らずの旅人や商人達のおかげで水や食べ物、そして途中の宿場の馬車屋では自分だけでなく馬の水や飼い葉も分けてもらえた。

皆明らかに貴族と分かる身なりの男が供も付けずに一人急いで馬を走らせているので何か深い事情があるのだろうと察してくれたのか気になっている様子を伺わせていたが、皆あれこれ詮索せずに水や食べ物が欲しいので少し分けてくれないかとタツルスが願い出たら分けてくれた。

途中何回か休んだがナクもずっと走り通しだ。疲れているだろうし、さすがに自分も疲れた。しかし金を持っていないのでさすがに宿には泊まれない。今晩はどこかで夜を明かそう。そう覚悟して一旦野宿にふさわしい場所まで行ったら今晩はそこで休む事に決めた。運良く満月に近いので月明かりは明るい。秋になりさすがに夜になると肌寒いが何とか一晩くらいは我慢できるだろう。

タツルスは見晴らしの良い場所までたどり着くとナクの首筋を優しく撫で労うと自分は草の上に寝転んでみた。少し地面で背中が固いが仕方ない。タツルスの視界の先には大きな月がぽっかりと浮かんでいる。タツルスはいろいろな事が頭に浮かんで来ていた。きっと自分の姿が見えなくなって王宮の者は慌てているだろう。しかしきっと有能な侍従長が上手く事を片付けてくれているだろう。また彼はタツルスがジユの元に向かったと気づいて追手を差し向けているだろう。タツルスとて自分の愚かな行動がどれだけ周りに迷惑をかけているか知っている。とても世継ぎの王子のする事ではない。また自分の子を身籠ったレナミルを置いて去った。きっとレナミルは狂ったように泣くだろう。それでもジユに会いたくてたまらなかった。

たまらなくジユに会いたかった。なあ、ジユ。お前は今何をしている。今の俺を見たらお前は何と言うだろうか。タツルスはそんなことを思いながら眠りに着いた。身体は疲れているがやはりいつもとはあまりにも違う環境だからだろう。神経が冴えているのか浅い眠りでうとうととしていた時に急に近くに人の気配がする。比較的治安の良いセルシャの国だが、それでもやはり物盗りはいる。ナクも眠っていたようだが気配に気づき目を覚ましたようで嘶いた。

タツルスも慌てて起き上がり、誰だと大きな声を上げた。

とそこには一人の年老いた男が灯りを持って立っていたのいた。年の頃は70近いだろうか。白髪で頭のてっぺんは剥げている。もし生きていれば父王の父、つまりタツルスの祖父であった前の前の王と同じ年ぐらいだろうか。タツルスが物心が着いた頃には既にこの世を去っていたので直接会った事はなかったが。

老人は逆にお若い方。都の身分のある方にお見受けしますが、何ゆえにこんな所に一人で居られるのですか?と問うてきた。タツルスはどう答えたらいいのか分からなかったが、老人はとりあえずこんな所で夜を明かしてはいくら秋でも冷えて風邪を引いてしまいます。少し先ですが休める場所がありますので、そこまで参りましょうとタツルスを促した。

見知らぬ男に付いて行くのになぜかタツルスは躊躇せずに付いていっていた。この老人だが、なぜか人を従わせるような不思議な風格を漂わせていて、タツルスもなぜかそれに従わないといけない気すらしていた。そうまるで師に従う弟子のように。タツルスはナクの手綱を引いて老人の後に付いて歩いた。

少し歩くとそこには男の馬らしい馬が一頭いた。男も馬でここまで来ていたのか、それとも旅の途中で偶然タツルスの姿を見かけて声を掛けたのか。しかしただの旅人にも見えない。

男は老人とは思えないような身のこなしで馬に股がるとタツルスに自分に付いて来るよう視線で促し走り出した。タツルスもナクに股がり、男の後を追った。しばらく男に従って馬を走らせて街道の脇道を進んだ所に一軒の小さな家があった。この老人の住まいだろうか。二人は家の前に馬を止めると馬から降りた。

狭いあばら家ですが、どうぞお入り下さいとうながされて入るとそこはこの老人が一人で暮らしている気配がした。床に引かれている寝屋の敷布と小さな文机に一脚だけの椅子。一見すると猟師の小屋に見えるが、壁一面の棚には書物がぎっしり並んでおり、並びきらない物は更に床に積み上げられている。こんな領地境に近い辺鄙なそれも人里離れた所に一人で暮らしているのだろうか。正体不明の謎の老人だ。

老人はお若い方。身体が冷えたでしょう。酒を温めましょうか?と尋ねてきてくれたが、タツルスはお心遣いありがたいが自分は酒があまり得意ではないのでと言うと、老人は笑ってそれではきっと宴などの場ではお困りでしょうと尋ねてきた。タツルスもつい本当は苦手だが立場上飲まない訳にもいかず旨そうに飲んでいると答えると、自分を偽って生きておいでなのですねと静かな声で言った。タツルスがそのことばに思わず黙ってしまうと、老人は酒と女に溺れると道を踏み外してしまうので酒が苦手な方が賢明な生き方ですぞ。私のようになってはいけませんからと言うと少しお待ち下さいと言うと部屋の隅にある小さな炊事場に向かった。ほどなくして何か野草から採れた茶なのだろうか。独特の香りのする茶の入った器を二つ小さな盆に載せて持って来た。しかも一つは淵の欠けた器だ。

一人住まいなので器もろくに揃っておりませんがと言うとタツルスの前に欠けていない方の器を置いた。

タツルスは私がそちらの器にと欠けた方を手にしようとしたら、いえいえ。尊い方にこのような器をお使い頂くことはできませんんと言った。タツルスは思わずはっとして老人の顔を見つめた。もしやこの男、私の正体に気づいているのか?そなた、私が誰であるか知っておるのか?ついタツルスは鋭い声で尋ねてしまった。

老人はお若い方。大変失礼致しました。私が若い頃にお仕えしておられた方とあまりにも似ていらっしゃるのでついとと頭を下げた。それでは?タツルスもこの老人の過去を垣間見てしまった。この男昔はお祖父様に仕えていた者なのか?

タツルスは良く亡くなった祖父に良く似ている。亡くなられた王様が孫になって私の元に戻って来てくれたとも言われて祖母である前王妃に言われて大変可愛がられていた。こんな辺鄙な場所に暮らしているのにおびただしい数の書物がある。相当学のある者のようだし、おそらく王宮の事師であったのだろう。またどこか人を従わせるような雰囲気は王宮にいた時はそれなりの地位まで登りつめた者なのだろう。

そなたは昔王宮に仕えていた者なのか?それなのになぜこんな所でこのように暮らしておるのだ?タツルスは思わず口に出した後、先ほどの老人のことばを思い出した。

酒と女に溺れると道を踏み外してしまうので。私のようになってはいけませんからと言っていた。それでは何か道を踏み外すような出来事があってここに世捨て人のように暮らしているのか?とても酒で道を踏み外すような者には見えない。では女で何かあったのか?

はっとして老人をまじまじと見つめてしまったタツルスにお若い方。私のように道を踏み外して頂かない為にも愚か者の昔の話を致しましょうと寂しそうに笑うと話し始めた。

 

男の名前はモズと言った。生まれはトラエグの馬車屋の息子だったが幼い頃から非常に賢くこのトラエグ一、いいや西一の天才だと言われ、難しい王宮の事師の試験にもたった十五才の若さで受かり、王様にもその才を高く評価されめきめきと頭角を表し、たった十年の二十五才で副事師長の地位まで登りつめた。次の事師長と目されたモズだったので彼を婿に迎えたいという者は山ほどいた。

特に彼を婿に迎えたいと強く願っていたのは彼の上官でもあるその時の事師長であった。彼には娘しかおらず兼ねてより賢い婿を迎えて、叶うならば自分の地位もその者に引き継ぎたいと思っていたので事師の試験の時からモズの才に目を付けていた事師長はしきりに将来は娘のマヌを嫁に迎えないかと口説いていたが、実はモズは心に決めた人がいたのだ。その為今はマルメルとの交渉が決着していないので、新しい税の制度を整えるのに忙しいなどとやんわり断っていた。やんわりと断っていたのはモズも父親である事師長の家に何度も招かれ、父親譲りの賢さと幼いながら知的な美しさを持ったマヌの事は妹のように可愛いとは思っていた。マヌも将来はモズの嫁になると言っていたが十歳も年が離れている子供のいう事なのでいずれマヌにも本当に好きな男が現れるだろうと思っていた。

モズが心に決めていた相手は隣のキヌグスの出身の侍女でハクという娘だった。控えめでおとなしい娘で彼女の出身の村はトラエグとキヌグスの領地境に一番近い村の出身だった。そんな事もあって二人は侍女と事師の時に秘かに親しくなっていた。自分は勉強ばかりしていて色恋事に不慣れな不器用者なので仕事と恋の両立は難しいので大きな交渉が終わって、それなりの地位を得たら彼女を嫁に迎えよう。そう思って仕事にも励んでいたのだ。ハクもモズの気持ちに気づいて待ってくれていた。

そしてある春にモズはマルメルとの交渉の為にセルシャの国を離れてマルメルの国に渡り、当初は難航していた交渉を何とか成立させた。その条件の一つにお互いの国の友好の証としてお互いの国の王女をお互いの国の王に嫁がせるという条件があった。

モズが秋になって半年振りに王宮に戻ると王宮では予期せぬ出来事が起きていたのだ。王妃様が身籠られていて、そしてハクが王様の目に止まりサルテクという名を授かり妃の一人になっていたのだ。モズは愕然とした。王様が望まれた以上ハクも拒めない。なぜもっと早くハクを王宮から下がらせ夫婦とならなかったのか。モズは深く後悔をしたが既に遅かった。

それまで王様は今までの王にしては珍しく王妃様以外の妃を側に置いていなかったので、こう言っては不敬だがハクは王妃様のご懐妊時の寂しさを紛らわせる為の相手として選ばれてしまったのだ。

無事王妃様には待望の世継ぎの王子様が産まれ、またマルメルの王女も嫁いで来た。となると王様は世継ぎの王子の母でもある王妃や他国と友好の為に嫁いで来て丁重に扱わなくてはならない妃と違うサルテクへの関心は薄れ、サルテクは一人孤独に生きることになってしまった。また立場的には自分が王妃になるべきだと思っていたが叶わなかったマルメルの王女の怒りの捌け口として理不尽な扱いを受ける事も度々あって、ついにサルテクは精神を病んでしまったのだ。たまに遠目で姿を見かける度に病んで行くサルテクを見る度にモズはなぜあの時に先伸ばしにしてしまったのだろうと自分を責めた。

そしてある日ついに痛ましい事件が起こったのだ。サルテクが王宮の塔の上から転落してこの世を去ってしまったのだ。サルテクは高熱で意識が朦朧として誤って足を滑らせてしまった不慮の事故だとされたが自ら命を断ってしまったのは誰の目にも明らかだった。モズは激しく後悔をして苦しんだ。なぜあの時にハクを嫁に迎えなかったのか。不幸なハクを何とかして助ける事ができなかったのか。

そんなモズを更に打ちのめす秘密がサルテクの葬儀の後に明かされたのだ。ハクを王様のお相手に勧めて選んだのは他ならぬ事師長だったのだ。あのような死に方をしたサルテクの葬儀は仮にも王様の妃であった者の葬儀とは思えないくらい質素にそれも人目を避けて行われた。参列したのはほんの数人であった。

サルテクが侍女の時に同室で一番仲の良かった侍女が人目を避けてモズと二人きりになった時に涙ながらに打ち明けた。マルメルにいるモズ殿からの文がハクに届いた直後に急にハクが事師長様に呼び出された。その数日後にいきなり王様がハクをお気に召したので妃の一人とすると皆に伝えられ、ハクは王様のお側に侍るようになったと。その侍女も事師長がモズを婿に迎えたがっている噂は聞いていたし、ハクから秘かにモズと想い合っていることは打ち明けられていた。おとなしいハクが自分から望んで王様の妃になりたいと言い出すとはとても思えないし、逆に王様の妃になって豊かな暮らしをしたいと望んで公言している侍女すらいた。おそらくモズを婿に迎えるのに邪魔なハクを権力で排除したのだと。

もしハクが自分と想い合っていなかったら。もし自分がマルメルの国の王女様を妃に迎える条件を飲まなかったら彼女は幸せに生きていたかも知れない。モズは自分を責めた続けた。

そんなモズに更なる衝撃が走った。モズがいつまでも色好い返事をしないので事師長がついに王様に泣きついてモズを娘の婿に迎えたいと願い出てしまったのだ。モズは事師長に詰め寄った。

事師長は全てお前の為だ。サルテク様は元々父親が賭博で家が傾いて給金の良さで王宮に仕えた娘だ。そんな娘が未来の事師長となるお前の嫁にふさわしいのか?王様の妃となって家族は王室からの下賜金で豊かになった。割り切って豊かな暮らしを堪能すれば良かったものを。それに不幸な事だがもうこの世を去られてしまった。死人は戻って来ないのだ。マヌは賢く美しく育ったし、お前に立場的にも申し分のないだろう。そう言い返して来たし、既に王様に願い出てしまっていた。

こうなったらマヌ本人から自分と結婚するつもりがない事を事師長に伝えてもらおうとモズは決めた。賢く美しく事師長の父を持つマヌを嫁に迎えたいと願う男は他にもいる。現にモズの同僚の事師一人がマヌに好意を寄せているのを知っていた。優秀な男だし、家柄もいいし、性格も良かった。自分でなくともマヌにふさわしい男なら他にもいる。

モズは話があると秘かにマヌを呼び出した。マヌはモズから呼ばれて美しく装い頬を染めて現れた。モズは自分はそなたの事は妹のよう可愛いとは思っていたがその気はない。まして自分が秘かに愛していた人が不幸にもこの世を去った原因の一つにそなたの父上が関わっていた。なのでそなたと過去に何もなかったように振る舞って夫婦になる事はできないから、そなたから私と結婚する気はないと伝えてくれれば今回の話はなかったことになるだろうと伝えた。賢いマヌは特にごねたり泣き叫んだりせず聞き分け良く分かりました。とだけモズに伝えると優雅に一礼して去って行った。そのあっさりした態度にモズは胸を撫で下ろしていた。

しかしその夜新たな悲劇が起こったのだ。マヌが秘かに毒薬を飲んで自ら命を経とうとしたのだ。マヌが倒れているのに気がついた侍女が見つけたのが薬を飲んですぐだったのと、王宮に仕える国一番の薬師が手を施したおかげで一命はとりとめたが、その影響でマヌは耳が聞こえなくなってしまった。

愛娘の自殺未遂の原因がモズにあると知った事師長はモズを公衆の面前で激しくなじった。お前は王様のお妃様に叶わぬ横恋慕をした挙げ句に、お前を慕った私の娘を冷たく捨てたと。

モズはあまりの言いがかりに怒りと、そして自分と関わったばかりに不幸になった二人の娘の事を想うとこのまま王宮にいるのも辛くなり、逃げるように王宮を辞して去ってしまったのだ。

タツルスも8才ぐらいの時に昔祖父の妃が誤って塔から落ちて亡くなってしまった事は侍女達の噂話を小耳に挟んで知ってしまった。本当かどうか知りたくて昔を知る祖母に昼下がりの茶の席で何気なく聞いてみた所、いつもは優しかった祖母が急に厳しい顔をして、タツルス。そなたは王家に連なる者として二度とその事を口にしてはなりません。分かりましたね。と念を押されたのだ。タツルスも幼さ心にきっと何か深い理由があると思い、成長するにつれ後宮の争いで自ら命を断ったと感づいていたが、まさかそんな話があったのか。

またサルテクの死の原因は祖父のせいでもある。タツルスは居たたまれなくなり、思わずモズに自分の正体を明かし祖父のした事を謝って済む問題ではないがモズとサルテクに謝罪したい気持ちでいっぱいだった。

 

タツルスが口を開こうとした時、モズがお若い方。何も言わなくていいのです。全て遠い昔の話です。私が昔の話をしたのは、あなた様に私のように本当に自分を愛してくれた女達を不幸にして、ご自身が歩まれるべき道を踏み外して欲しくはないのです。私の言っている意味はお分かりになるでしょう。と言い切った。自分を本当に愛してくれた女達。その瞬間タツルスの脳裏に哀しげな顔をしたジユとレナミルの顔が浮かんできた。レナミルは分かるが自分はジユも不幸にしてしまうのか。いいや、自分に言わないだけでジユも本当は同じ未来にどう考えても進まない二人の愛に悲しんでいるのだろうか。

タツルスは思わず深いため息と共にご老人。私はどうするべきなのでしょうか。愛する者とは同じ未来を描けず、私を愛していると言う者を今まで違った目で見ておりました。

もちろんタツルスは本気でモズから答えを求めているのではない。言っても答えが出ない事くらいタツルスも分かっている。ただ想いを口にせずにはいられなかった。そんなタツルスにモズは、お若い方。今宵は月が美しいですから少し外に出てみませんか?風に当たれば気分も変わるかも知れませんよと勧めてきた。

タツルスも少し風に当たって気分を変えてみようと立ち上がり、狭い家を出て外に出てみた。

外に出てみると月がぽっかり浮かんで辺りを優しく包み込むように照らしている。今までこうやって月をじっくりと眺めたことがあっただろうか。タツルスはただぼんやりと空を仰いで月を眺めた。タツルスの後ろにはいつの間にかモズが黙って立っていた。タツルスは思わず、美しいですね。今までこうやって月をじっくり眺めたことがなかった気がします。と月を仰ぎ見ながらモズに語りかけた。

モズは太陽も美しいそうですが誰も眩し過ぎて見る事は叶いませんが毎日私達を照らしてくれているのです。また尊い方も私達の目に見えていない所でこの国が正しい道を進み、誤った方向に進まないよう皆を導いて行くという運命を背負って生きているのです。それは他の者にはとても伺い知れないほど大きな責務を背負っておいでなのです。そして月は太陽が照らさない夜に皆を照らしてくれていますが、実はそれだからではないのですぞ。遠い遠いある国の言い伝えでは太陽は人々を照らし月は太陽を照らすと言われているそうです。月は太陽が太陽であるよう支えてくれているのです。太陽は男、月は女と言う話が伝わる国も多いそうですから。そして太陽は昼にしか現れず夜空に太陽が輝かないように、また月も昼には輝きません。お互い太陽も月も自分の正しい居場所を分かっているのでしょう。そのことばは自分とジユを比喩しているのか。それとも。

タツルスが振り返ってモズを見つめるとモズは何も言わずに黙って微笑みを湛えていた。

風が出て参りました。長旅でお身体もお疲れでしょう。今晩はこのあばら家でお休みください。今良く眠れるようクチャの花の茶でもお入れ致しましょう。このセルシャの国の民が寝つけない子に与えるのですが、心が乱れている時は大人にも効くのですぞ。皆誰もが昔は子供でしたから、そう言ってタツルスを家の中に促した。モズの入れてくれたクチャの茶のおかげなのか、それとも疲れていたからなのか、それとも自分を正しく導いてくれそうなモズと出会えた安心感からなのかタツルスはモズが用意してくれた床に着くと、すぐ深い眠りに落ちて、目を覚ますと翌朝になっていた。窓から差し込む光は暖かい。

家の奥にある小部屋の床から起き上がりタツルスは扉を開けるとモズは何やら床に座り難しい顔をして文を読んでいた。がタツルスに気づくとお若い方。昨日は良く眠れましたかな?と打って変わってにこやかな笑顔になりタツルスを見上げた。

モズはささっと文を文箱にしまうと、ちょうど良かった。トクミから魚の塩漬けが届いたので粥と一緒に食べましょうと炊事場に向かった。昨日はそこまで気が回らなかったが、一体モズは王宮を去った後はどのように暮らしていたのだろうか。またこんな場所で暮らしていて日々の糧はどうしているのだろうか?モズの正体は分かったが新たな疑問が浮かんできた。またどうして昨晩は自分と出会ったのか?わざわざ馬で来ていたという事は自分を迎えに来たのか?いったいなぜだ?まさか王宮の誰かから、そう自分の侍従長から知らせが来ているはずもない。

粥の入った器を持って来たモズに、ご老人。どうやって日々の糧を得ているのですか?王宮を去ってからどのように暮らしていたのですか?と尋ねてみた。

モズは、日々の糧は天から降って来るのですぞと言うとはははと豪快に笑い出した。そして本当の話をしてくれた。王宮を去ってからも領主や貴族達の間でもモズの賢さは評判となっていたので、自分の館に住み込んで自分の領地を治める際の指南役になって欲しいという者や子弟の教師をして欲しいという者が数多くいたのでその者達の館に住み込んで食うには困らなかったそうだ。二年前まではさる領主の領地にある館で暮らしていたが大きな病に掛かった。領主お抱えの優秀な薬師のおかげでひとまず治ったが、もう年だし自分の命もそう長くはないと悟ると、急に自分の故郷のトラエグが懐かしくなった。引き留める領主を何とか説得して、その領主の伝でトラエグの領主に願い出て、自分の故郷のトラエグでハクの産まれた地に近いこの場所に土地を与えてもらい移り住んだそうだ。

領主や貴族以外にも商人間の揉め事を解決したり、知恵を貸してやったりという事も乞われてした為、今もその時の恩で商人達やかつての教え子達の領主や貴族の子弟の使いが時より珍しい食べ物や書物など届けてくれるので豊かではないが日々の暮らしには困らないそうだ。タツルスはもしモズが王宮にいたら自分もモズを師と仰ぎ、その領主や貴族の子弟達のようにモズに教えを乞うていたのだろうか。そんなことを思ったし、モズに教えを乞うた者達が羨ましかった。それにモズは志半ばで王宮を去ったが戻りたいと思ったことはなかったのだろうか。

そうタツルスは尋ねてみた。そんなタツルスにモズはこんな話もしてくれた。

前の事師長が亡くなった後に事師長の地位に着いたのはモズの元の同僚で、そうマヌに惚れていたあの男だった。彼は耳が聞こえなくなったマヌを嫁に迎えていた。その時さる領主に仕えていたモズの元に自ら赴いてこの国を支えるにはお前の力が必要だ。過去の事は水に流してまたこの国の民の為に、そして王様の為に

仕えてくれないか?と説得に来た。そして少し言いにくそうに口ごもりながら、マヌも自分のしでかしてしまったことでお前の人生を狂わせてしまったとしきりに後悔している。マヌの為にも戻って来てくれまいか?と。しかしモズは断った。

王宮の事師となればこの国をより良くできると太志を抱いて事師になったが、狭い王宮の中にいた時よりも

市井の人となって領主や貴族だけでなく商人やさまざまな職人、農夫などいろいろな人々と出会い、また

その人達の悩みや願いを聞いて、解決できないか知恵を絞り思案して役にたった時の喜びを味わってしまうと狭い籠の中のような王宮には戻りたいと思えなくなっていた。

また将来この国を支えるべき次の領主となる跡継ぎやや貴族の子弟を育てて、その者達が立派に成長していく姿を見るのも自分には子がいないモズにとっては大きな喜びとなっていた。私もあなたような師について学びたかった。タツルスが思わずそう本音を漏らすとモズは渋い顔をして見せて、お若い方。私のような根なし草の師匠についてはいけません。私の育てた者には私のように根なし草になってしまった輩もいるのですからと顔をしかめて見せた。

その者を思い浮かべてだろうか。モズは笑いながらまったくあやつは自分も先生のように狭い世界で生きるのでは自由に生きたいと言い出しおってと苦笑したが、その眼差しは慈愛に満ちている。それだけその者とは深い信頼関係にあるようだ。タツルスは誰だか分からないが、その者が羨ましかった。

タツルスはついでに昨晩はなぜ私と出会ったのでしょうか?偶然私を見かけて出会ったのではなく私を迎えに来たのですか?と聞いてみた。さすがにまさか王宮から使いが来たのかとは聞けない。

モズは神妙な顔をして、お若い方。いずれそれを知るべき時が来たら知るでしょう。もしその時が永遠に来なかったら、それはあなたは知らなくて良いという事なのですとだけ言った。どうやら何か理由がありそうだが、モズの言うは一理ある。タツルスも敢えてそれ以上は追及しなかった。粥ときっと誰かが贈ったのであろうトクミの魚の塩漬けと湯という王宮にいた時ではあり得ない質素な、それでいて暖かいもてなしの心のこもった食事を食べ終わった頃にモズは、お若い方。これからどうされるのですか?と尋ねて来た。

タツルスは正直に私は愛する者を想ったら居ても立ってもいられずに私がいるべき場所から飛び出して来てしまったのです。きっと周りは心配しているでしょうし、その事で嘆き悲しんでいる者もいるでしょう。

タツルスはここにいないレナミルを思い浮かべてみた。私はそれでも、例え私達二人が同じ未来を歩めなくてもあの者に会いたいと思うのです。愚かな事ですが。と胸のうちを吐露するとモズは過去の私のようになぜあの時にと後悔して欲しくはありません。例えあなた様とその者が二人同じ道を共に歩めなくとも、ただ手を拱いて何もせずに、あの時はといつか過去を振り返って後悔して欲しくはないのです。そう言ってタツルスの背中を押してくれた。さて、これからどこに向かわれるのですか?と尋ねられてパルハハのゾルハの村に向かうと打ち明けた。

するとモズは、それでしたらまずその衣では目立ちすぎてしまいます。自らここにいますと言っているようなものですと言うと、自分の着物が入っている箱の中から地味な土色の綿の着物と織りの帯を取り出すと私の着物ですがこれをお召し下さいと差し出してくれた。確かに自分の紫の絹の衣では目立ち過ぎるだろう。そんなことにも気が回らなかった自分にタツルスは苦笑した。

そしてモズは文机から紙と筆を取り出すと今いるトラエグからキヌグス、セズトロ、カリヌルを通ってパルハハまでの簡単な地図を描くと、商人達だけが知っている目立たない裏道や早道を書き込み、途中泊めてくれたり馬の飼い葉を分けてくれる可能性のある過去に世話をした者の家の場所なども細かく記してくれた。いったいこのセルシャの国の西の領地だけで、どれだけの者達の力になってきたのか。記された印を見て改めてタツルスはモズの凄さを目の当たりにした。

更にモズはこの者は昔自分が仕えたことのある、さる領主の侍従で訳あって人目を忍んでパルハハまで向かう命を受けたので力を貸してやって欲しいと達筆な力強い文字で文をさらさらと一気に書くと丁寧に折り畳みタツルスに手渡し、途中で地図に印を付けた場所に立ち寄った際はこの文を見せれば、きっと力になってくれるだろうと笑いながら伝えた。タツルスはモズの取り計らいと自分への想いに甚く感謝し、まるで自分がモズの臣下であるような深い礼をしようとすると、モズは慌ててタツルスを遮った。

お若い方、お止めください。私は国の為にと一度は王宮に仕えた身です。それが心ならずも志半ばで王宮を逃げるように去ってしまい、何一つお役に立てませんでした。せめてもの償いにこれくらいの事をさせてください。ああ、やはりモズは自分が誰であるのかはっきり分かっていて接してくれていたのだとタツルスは確信した。

タツルスはモズに、あなたに今回の事で私は一生分の借りができた。何か礼をしたいと申し出ると、モズは一つ望んで良いでしょうか?と尋ねてきた。無論だとタツルスが答えると、お若い方。この老いぼれの願いはただこのセルシャの国を良い方向に導いてセルシャの国の民が安心して毎日暮らせるようにして欲しい。ただそれだけが私の願いです。そう言うと静かな笑みを湛えた。

思わずタツルスは立ち上がるとモズに向かって黙って深く頭を下げて一礼した。タツルスがモズから渡された着物に着替えて、もらった文と地図を大切に懐にしまい、モズに深く一礼して、モズの元を去りパルハハに向かおうと家を出ようとしたその時であった。

モズは、これをお持ちください。きっとあなた様とあなた様が愛する者を守ってくれるでしょうと言うと小さな薬袋だろうか。モズはタツルスの手に小さな布を握らせた。元は白い布だったと思われるが時が経ち黄ばんでいるが、赤と青と黄色と緑の糸でサラシュの花やカナジュの鳥などの細かな美しい刺繍がびっしりと刺されていた。一見しただけで見事な刺繍の腕前の者が想いが込めて刺したとすぐ分かる品だった。

思わずタツルスはこれは?とモズに尋ねると、これは私が遠い昔にマルメルの国に遣わされる時にあなたの無事を祈って刺繍を刺しましたとハクが渡してくれたのです。赤は南。青は北。そして緑は東、黄色は西。私がセルシャの国を離れても思い出せるようにと想って刺してくれたのでしょうね。その時ハクは王宮の刺繍侍女でしたから。ハクはそれはそれは見事な刺繍の腕前を持っていたのです。行く行くは刺繍室の侍女長になるだけではなく、過去に王宮でササと呼ばれていた伝説の刺繍侍女を越える腕前なのではと囁かれていたぐらいでしたから。王様もハクに興味を示したのも、きっと事師長様からその話をされたからかも知れませんね。

私がハクを私の嫁にと王宮から連れ去れなかったのは、それもあったかも知れません。あの腕前を私の嫁となって王宮を去らせたら発揮できませんでしたからね。もっとも王様の妃となったので、刺繍は刺せなくなってしまいましたが。そうモズは寂しそうに微笑んだ。

きっとハクがこの世を去ってからも長年モズはこれを手元に置いて大切にしていたのだろう。

タツルスはそんなあなたにとって大切なこの品を頂く訳にはいきません。あなたの手元に置いておくべきでしょう。と伝えるとモズは首を横に振り、この老いぼれはいつ命の灯火が消えてしまうか分かりません。子がいないので、これを託して大切にしてくれる者がいないのです。どうかハクの想いと私の願いをあなた様に継いで頂きたいのです。

その一言を聞いてタツルスは丁重に受け取ると、文と地図と一緒に懐にしまい、モズに深く頭を下げると、ナクの背に乗り歩を進めた。そんなタツルスの姿を黙ってモズは見送った。

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