町田 千春 著

染色師 その6     TOP

 

パルハハまでの道程、タツルスは本当に多くの民に世話になった。元々セルシャの民は穏やかで人懐っこい気質だと言われるが、モズの文のおかげだろう。皆タツルスを快く迎えてくれた。今まで視察で西の村々にも立ち寄った事はあったが、やはり本当の民の姿には接していなかったとつくづく実感させられた。毎日彼らは何を食べ、何をして、何を感じているのか。民の本当の姿に始めて触れられたとすら感じたのだ。

キヌグスのある村では話し好きの酒呑みの木こりの男がいて、自分が醸造したという酒を次から次へとタツルスの器に注いできて、その間も本当にいろいろな話を聞かせてくれた。自分と嫁の出会いの馴れ初めから村の祭りの話や最近の森の様子。そして話は政治や各領地間の格差についても及んだ。まさか自分の目の前にいるのが世継ぎの王子とは夢にも思っていないのだろう。今の南ばかり手厚くしている現状をタツルス様が新しい王様になったら変えてくれるのを期待しているが、母親の王妃様が南出身なので期待を裏切られるかも知れないと本音を洩らされた時、やはりセルシャの国の民は自分のことをそのように思っているのだと知り、タツルスの胸に鋭い痛みが走った。

セズトロの馬車屋の親爺に大層気に入られて、侍従を辞めて自分の娘と結婚して家を継いでくれないか?と言われたこともあった。娘の方もタツルスの整った顔立ちと普通の着物を着ていても、どこか洗練された雰囲気にぽーっと頬を染めていたが、タツルスは自分には染師の娘の嫁がいると伝えると、親爺も娘もひどく落胆したが、それでも温かくもてなしてくれて、最後は任務が終わって故郷に戻っても元気でいろよと明るく見送ってくれた。

道中もずっとタツルスの心にあったのはジユの姿であった。いったい今ジユはどうしているだろうか?しばらく会えなかったが今も変わらずに自分を想ってくれているのだろう。自分の失踪に慌てて侍従長がジユの元にも使いを送っているだろうが、モズのおかげで早道を使えたので、都からの使者よりも先にゾルハには着くと思う。すぐにでもジユに会いたかった。待っていてくれ、ジユ。タツルスは毎夜夜空の月に向かって、そう話し掛けていた。月は毎夜ごと姿を小さくしていっていた。

 

あ!ジユは手元が狂い、せっかく作った染料の入った樽を落としてしまった。床にはみるみるうちに紫の染料が流れ出していく。そんなトナに祖父のグジは、ジユ。心が乱れているなら染めるな。染めにお前の心がそのまま写ってしまうからなと一言言うと、そのまま工房から立ち去ってしまった。ジユは思わず唇を噛み締めた。そんなジユの肩をスガはぽんぽんと軽く叩くと、ここは後は自分がやっておくからお前はもう休めと言ってくれた。ジユは歯痒かったが、祖父の言うように心が乱れた今染めをやっても、きっと満足いく出来にはならないだろう。ジユはスガにすまないと声を掛けて工房を後にした。

ここ数日、訳もなくトナの心は乱れていた。やたら夢見が悪いのだ。そしてどの夢にもタツルスが現れていた。一度などセルシャの国とどこかの国が戦うことになってタツルスは指揮を執るべくその国に赴いて行って、その結果タツルスは敗戦の将として処刑されることになった夢を見た時は目が覚めると身体は汗でぐっしょりしていて、涙まで流していた。タツルスからの文が急にここ数日来ていないから自分はこんなにも心が乱れているのだろうか?前に届いた文では数日前の満月の日に異母弟のマトバスの婚儀の宴があると書いてあった。きっと王族の婚儀の宴だから各領主や貴族が集まるだけでなく、きっとマルメルやオクルスなどからの使節も来ていてタツルスは忙しいのだろう。そう思ったが、それとは違う。何か妙な胸騒ぎをジユは感じていた。工房を後にしたが、まだ皆が汗水垂らして働いている昼日中に自分の部屋に戻る気になれず、ジユは庭の隅の大きな石の上に座って、ぼんやりと空を仰いだ。温かい秋の日差しの中で太陽が輝いている。夏の照り付ける太陽のようではないが、じっと見ることはできないがジユはなぜか太陽に向かって祈っていた。どうかタツルスが無事で元気でいますように。今朝もタツルスが王宮を誰かに追われるという嫌な夢を見たのであまり寝れなかった。そのせいで手元が狂ってしまったのかと、ジユは座りながらぼんやりとそんなことを思っていた。

その時、ジユ!どこかでタツルスが自分を呼ぶ声がした気がした。まさかタツルスがこんな所にいるはずがない。眠りが浅く疲れている気のせいだ。そうジユが頭を振って馬鹿な考えを振り払おうとしたら、ジユ!もう一度さっきよりはっきりとした声が聞こえてきた。確かにタツルスが近くにいる!ジユは慌てて立ち上がると声のする方へと一目散で駆けて行った。家のすぐ側に一人の土色の地味な着物を着た若い男が立っている。服装こそいつもと違うが間違いない。タツルスだ!ジユはタツルス目掛けて走り、タツルスもジユ目掛けて走って来た。お互いが手の届く所に現れると手を伸ばしお互いの存在と感触を確かめるようにしっかりと抱き締めた。言いたいことや聞きたいことは山ほどある。けれど今はお互いのぬくもりをただ感じたかった。

ここにタツルスがいる。

ここにジユがいる。

そうお互いにただ相手がすぐ側にいるという事を実感したかった。お互い無言でしばらく抱き合って、お互いの唇の甘さ、体温の温かさ、指に感じる髪の感触、自分を包む腕の強さ、ほのかに匂ってくるお互いの肌の匂いをただ黙って感じ合っていた。しばし無言で抱き合っていた二人の前に闖入者が現れた。ジユの兄のヌクであった。新しい樽を取りに工房を出たら、偶然視線の先の家の外にジユと抱き合う見知らぬ男がいるではないか。慌てて二人の前に息を切らして走って来た。

お前は誰だ!俺の妹に何をしてる!ジユ、こいつはいったい誰だ!まるで頭から湯気を出さんばかりの勢いで怒鳴ると抱き合っていた二人を力任せに引き離そうとした。

いつもはそんな素振りは見せないが、ヌクにとってはジユは大切な妹だ。ただですら普通の娘として生きていけない運命を背負って産まれてしまったジユを不憫に思っている。そんな妹が見知らぬ男に抱き締められている。ヌクは警戒心剥き出しの鋭い視線で目の前の男を睨み付けた。

兄さん、違うんだ!そうジユは慌てて自分達を引き離そうとするヌクの手を止めようとしたが、何から伝えていいのか、どこまで今回の件を話したらいいのか。ジユはとっさにそんな事を思ったら、手が止まってしまった。

そんな時、何も騒ぎだ?外の声が聞こえたのだろう。工房から祖父のグジも出て来た。他の者は手が離せないのか一人で三人のいる方に向かってきた。グジの姿を見てヌクは援軍が来たとほっとした。グジはジユに手を伸ばしたままの若い男の顔を見て驚いた。まさか宮殿で一度見掛けた事のある世継ぎの王子であるタツルスが本当に自分の目の前に立っていようとは。本当の事だったのか。グジは心の中で大きく嘆息した。

じいさん?ヌクは自分を遮ったグジに驚いた。

ジユもヌクはタツルスの正体を知らないとは云え、暴力を振るったりしたらただでは済まない大事になってしまうので、グジが征してくれたことにひとまずほっとした。しかしこの状況をどう説明したらいいのか。そんなジユとヌクとタツルスにグジは、ヌク。このお方は都のさる貴族のご子息だ。私達が王宮に呼ばれた際に大変お世話になった方だ。と嘘の説明をした。

その思いもよらない答えにヌクは驚愕したが、良く見てみると確かにどこにでもあるような普通の綿の土色の着物を着ているが、どこか不思議と威厳があり人を従わせるような生まれながらにして人の上に立つ者の気配を漂わせている。顔は全く似ていないが、春と少し前に工房を訪ねてきたあのトクという男が醸し出していた雰囲気となぜか似ている気がした。

ヌクはタツルスに改めて深く一礼すると、供も着けずにお一人こちらにいらしたのは何か火急のご用があったのですね。とりあえずここでは人目があります。さ、ジユ。ひとまずお前の部屋にご案内しろ。お前が疲れて休んでいるから部屋に入るなと伝えておくから。ヌク。この事は誰にも他言してはならぬ。分かったなときつくヌクに釘を刺した。ヌクも事態を把握できていなかったが、何やら自分の手の届かない所で大事が起こっているのには感づいて、黙って祖父の指示に従う事にした。

ジユはとりあえず工房にいる他の者の目を避けるようにタツルスを自室に案内した。いったい何から、どこか伝えたらいいのか。タツルスはジユの部屋に通され、二人で向き合って座った。ほとんど寝床があるだけの狭い部屋なので二人の膝と膝が当たってしまうくらいの距離だ。

ジユの方も聞きたい事はたくさんあった。いつもなら少ないとは言え数名の侍従や護衛を連れて、しかも会うのはパルハハやキヌグスの領主の別邸にジユが呼ばれて会いに行っていた。タツルスが自分自身でこんな辺鄙なゾルハの村までやって来るなんていったい何があったのか?まさか今朝の悪い夢ではないが誰かに王宮を追われて逃げてきたのか?知らせもなく一人でここまで来るなんて、一体タツルスの身に何が起こったと言うのか?

きっと余程の事があったのだろう。ジユが不安げな瞳でタツルスをじっと見つめた。タツルスの方から言い出すまで、急かさないでタツルスのことばを待つことにした。

タツルスはジユをじっと見つめ返すと、ジユ。お前に会いたくて会いたくてたまらなかった。そう囁いてジユを優しく自分の腕の中に抱き締めた。そして今回の顛末をジユに話し始めた。

タツルスの話を黙ってジユは聞いていたが、やはり話の衝撃は大きかった。タツルスに子ができたことは仕方がない。タツルスには妃達がいるし、次の世継ぎとなる子を設けることが世継ぎの王子であるタツルスの大切な義務であり、自分でもいつかそんな日が来るのだろう。そう頭の片隅でぼんやりそう思っていた。

タツルスに新しい妃を迎えさせようと北が画策していた事もやはり哀しかった。いくらタツルスは自分を愛してくれていて、新しい妃を愛さなくても立場上領主の娘であるその妃はタツルスに大切にされ、何より誰もが彼女がタツルスの側にいることを認めている。

そして何よりジユが衝撃を受けたのは、妃のレナミルの事だった。以前タツルスから聞いた話では王妃になりたいが為、今の王妃に願い出てタツルスの妃になったと聞いていた。タツルスが二人の侍女を妃にした時も特に悲しむ素振りも見せずに王宮の年長者として進んで世話を買って出たという話も聞いていた。王族と貴族の間の婚姻に愛情はなく、レナミルという女も次の王妃の座の為に割り切ってタツルスと共に生きているとジユはタツルスの話を聞いて思っていた。

しかしレナミルは九歳という幼い頃から初恋の相手であるタツルスの事だけを想い、タツルスの側に行く為だけに、そしてタツルスに愛される為だけを願いに王宮に上がったと言うのだ。ジユは自分のタツルスを想う心よりもずっと長くて深いレナミルの想いに打ちのめされた気分になった。そしてタツルスもそんなレナミルの愛情に気がついて戸惑っている事にもジユは気づいてしまった。そう。タツルスは前のようにレナミルをただ疎んでいるのではなく、どうレナミルの想いを受け止めていいのか戸惑っているのだ。ましてやレナミルはタツルスの子を宿している。

ジユは自分とタツルスの間に見えないが、越えられない大きな壁があると感じて唇をぎゅっと噛み締めた。タツルスの話が終わった頃に頃合いを見計らっていたのだろう。祖父のグジがジユの部屋を訪ねて来て、ジユ。タツルス様。王宮からの追手はここに現れるでしょう。タツルス様がどうなさるのかお心が定まるまでひとまず身を隠してはいかがでしょうか?ジユ。グスリリの実の採れるあの谷にお連れするのだ。あそこなら小屋があるからひとまず身を隠せるだろう。そうグジは提案してきた。

一族だけが知るあの秘密の谷には小さな小屋があった。急な悪天候を避けたり、採ったグスリリの実を一旦置いておく為の小屋で、そこから少し歩くと水は湧いているし、火が起こせれば粥を煮ることもできる。簡単な暮らしの物は置いてあるので、不自由だがそこなら何とか数日なら寝泊まりはできる。

グジの話にタツルスはジユに大きく頷いた。

ジユとタツルスはグジが用意してくれていた荷を持つと、人目を避けて家を出ると二人であの谷に向かって歩き始めた。

谷にはグスリリの実がびっしりと実っていた。ジユがこの谷を訪れたのは三年振りで、そうトワと二人で来たあの時以来であった。

タツルスは初めてこんな谷に来たのだろう。辺りの木々を珍しそうに辺りを見渡している。グスリリの実も初めて見たのだろう。手を伸ばして一つ実を採って口に入れてみたが、あまりの酸っぱさに顔をしかめてしまった。そんなタツルスの姿を見て、ジユは声をあげて笑ってしまった。タツルスと再会したのにお互い声を上げて笑っていなかったな。ジユはそんな風に思った。二人で並んで少し涼しい秋晴れの中、自然の中をあてもなく散策した。タツルスはジユの腰に手を回して、ジユも空いている方の手をタツルスに絡めながら二人でたわいもない話をして笑い合った。歩き疲れたので小屋に入って少し休むことにした。

ジユはタツルスと歩きながら想いを巡らせていた。仮に自分がパルハハの領主の縁者や王宮の侍女となって、タツルスの側に行ったとしても、きっと自分に合わない暮らしで気がおかしくなってしまうか、タツルスを責めるようになってしまうだろう。そして何よりタツルスの側にはタツルスを深く愛して、誰もが将来の王妃にと認めて、しかもタツルスの子を宿しているレナミルがいる。

しかし頭でそれが分かっていても、タツルスと会えなくなり、もう二度とタツルスの笑顔や自分にだけしか

そんな顔は見せたことがないと思う拗ねたり、いたずらっぽ目をしたり、熱く愛を語ってくれた真剣なまなざしを見れなくなり、タツルスの耳に心地良い声での愛の囁きや将来の国を思って未来を語る時の強いことばや弱音を吐く時の困った声も聞けず、自分の髪を優しく指に絡めて撫でてくれたり、肌の上を滑る指の感触や強く抱き締めてくれる腕の強さ、口づけの唇の甘さも感じられなくなる。自分がそれに耐えられるのか。心が張り裂けてしまうのではないか。ジユは思わず涙が溢れて来てしまいそうになっていたが、ジユは慌ててタツルスを心配させまいと涙が堪えた。

そんな泣きそうなジユの表情を見て、タツルスは優しくジユの潤んだ瞳の淵を優しく拭うと深くジユに口づけしてきた。ジユもタツルスを力いっぱい抱き締め、自分の唇を強く押し付けた。タツルスの指が、唇がジユの肌の上をゆっくりと滑って行く。タツルスの記憶を身体の隅々まで深く刻み付けていって欲しい。ジユはそう思いながらタツルスの愛撫を受け入れていた。トクトクトク。規則正しい心臓の音と共にタツルスの胸がわずかに上下している。

抱き合った後の気だるさを感じたまま、ジユはタツルスの見かけに寄らず厚い逞しい胸板に自分の頭を乗せて、タツルスの肌の温かさ、肌の感触、鼓動の速さを感じていた。

このままずっとここで二人きりでいたい。ジユの偽らざる本音であった。タツルスも同じことを思っているのだろう。ジユの長い黒髪を指に絡めていとおしいそうに髪を撫でたり、頭に口づけながらジユ。このまま全てを忘れてお前と二人きりでずっといられたらなと囁いた。

ジユはあたしがどこかここから遠く離れた東や北の村で染師をやって、あたしが染めた布をあんたが売って歩くのはどうだい?と叶うはずのない夢のような話を口にしたら、タツルスはそれもいい。俺は今まで王になる以外の事は考えてこなかったが、もしかしたら商人になれるかも知れないし、お前に弟子入りして染めをやってみたら実はすごい才を持っているかも知れないぞ。他に織師が向いているかも知れないし、馬の扱いは上手いから馬車屋の親爺になれるかも知れないぞ。そうジユに笑いかけた。

そうだね。ジユはそんなタツルスに力なく寂しげに微笑み返した。タツルスの言っているとおりに今までやった事がないだけで何か他の仕事をやってみたら向いているかも知れない。けれどタツルスが国の民を想い、先頭に立ってこも国の舵を執っている以外の姿は思い浮かばなかったし、きっと別の道を選んだとしてもタツルスは国を思って憂いて、自分が誤って進むべき道から外れてしまった事を深く悔やむだろう。ジユはタツルスのそんな姿を見たくはなかった。

日が暮れ始めて風が出てきたようだ。タツルスの情事の後の肌の熱も冷めてきて、ジユは冷たさを感じ始めていた。そっと二人の横に脱ぎ捨てられていた着物を羽織った。タツルスも同じだったのだろう。やはり着物を身に纏った。それに激しく動いたので腹も減ってきた。グジが持たせてくれた荷の中にはいくらかの食べる物も入っているだろう。何か簡単な夕飯の準備でもしようと思いジユは手早く帯を絞めて立ち上がろうとしたその時、小屋の前でがさっという物音がしてとっさに二人はぎゅっと強く抱き合った。

まさかもうここまで王宮からの追っ手が来たというのか?そう二人は息を詰めて小屋の入口を睨み付けた。ガタガタという音を立てて、扉が開くと背の高い一人の男が窮屈そうに背を屈めて入って来た。

トク!

カジグル!

男の顔を見ると二人は思わず男の名を呼んでいた。そこに現れたのは大臣の息子であるトクことカジグルであった。

どうしてあんたがここに?

どうしてお前がここにいる?

またジユとタツルス、二人同じように尋ねてしまった。そんな二人にカジグルは、ジユ。あの時この後何かが起きる気がすると言っただろう。そう思って秘かにお前のじいさんには何かあったらすぐジユをどこかに隠せと伝えておいたんだ。そして俺にすぐ連絡を寄越せとも伝えてあったから、二人がここに隠れている事はすぐお前の兄貴がじいさんの使いで俺に知らせに来たから、慌てて飛んできたのさ。俺は今秘かにゾルハの村の空き家だった家を借りて住んでるから飛んで来れたんだと種明かしをした。

二人の関係をどこまで聞いたのかは知らないが、だからグジはいきなり目の前に世継ぎの王子であるタツルスが現れても、さほど驚かなかったのか。タツルスの正体をさる貴族の子息だと言ったのもカジグルの入れ知恵だったのであろう。

カジグルはタツルスに一礼すると、ご無礼とは存じつつもタツルス様の周辺も念の為探らせておりました。と詫びた。カジグルの話はこうであった。

きっときっかけはタツルスの周辺で何か起こると踏んだカジグルは自分の信頼できる友である同じ東のタスカナの領主の息子のカキトナに協力を求めた。カキトナは王の妃の一人であるクノスクの甥でもある。たった一人の娘をオクルスに嫁がせているのでクノスクは甥のカキトナを大変可愛がっており、またカキトナもそんな叔母を不憫に思い、頻繁に叔母に会いに王宮を訪ねていたので、王宮に上がっても不審に思われない。王宮での怪しい動きは彼に探らせる事にした。

また今の王宮の副事師長はカジグルと同じ東のザルドド出身なので、その縁で彼の協力も取りつけた。更にタツルスの侍従長にも自分はジユの知り合いでジユ本人からタツルスとの事は聞いている。なので必要であればいつでも力を貸すと伝えておいたのだ。これでタツルス側で何か起こったら、すぐにゾルハにいる自分に知らせが来るよう万全に整えた。

そしてタツルスの妃達の動きも探る必要がある。カジグルはすぐに動いた。今王宮にいるタツルスの妃は三人だが、カトハルとマスルクは元侍女で大きな後ろ楯はない。何か起こすとすればレナミルだ。レナミルの動きを探らせるにはと、カジグルが選んだのはレナミル付の侍女で信頼できる者を自分の味方に付ける事であった。

王宮の侍女は金はあっても自由に外に出られない。その為多くの商人達が金払いが良く、頻繁に買ってくれる王宮の侍女達を上客としていた。カジグルも商人として、レナミルの館に潜り込んで自分の味方になりそうな侍女に目を付けることにしたのだ。ただレナミルの館には南出身や南と懇意にしている商人達が既に取り入っており、新参者の商人は普通では入り込めないし、自分の素性をばらす訳にはいかない。そこでカジグルはある人の力を借りることにした。そこまで王宮で力のある人とは?タツルスが怪訝な顔をするとカジグルはタツルス様はきっとお会いになっていると思いますと、意味ありげに笑った。

その表情にタツルスは気がついた。そうきっとモズだ。モズの言っていた私の育てた者には私のように根なし草になってしまった輩とはカジグルの事だったのか。モズは二年前までレナミルの出身地でもある南のホルトアの領主の館で、ホルトアの領主の指南役と領主の息子の教育係を勤めていたのだ。父である前ホルトア領主の急逝で跡を継いだホルトア領主にとってはモズは父のように頼れる大きな存在であった。なのでモズが病に掛かった際は手を尽くしたし、モズがどうしても生まれ故郷のトラエグに戻りたいと願った時もトラエグの領主に掛け合って、終の住処となる場所も手に入れてくれた。

そんなホルトア領主はモズの頼みとあらばとトクという商人をそちらで贔屓にして欲しいとレナミルの侍女長宛てに文を書くくらい朝飯前だったのだ。もちろん南出身でもあるレナミルの侍女長はその文を携えていたトクをレナミルの館に招き入れ、贔屓にしてくれた。カジグルは最初毎日なんやかやと理由をつけてはレナミルの館に上がり、信頼できそうな侍女を見つけて、その侍女を自分の味方にした。

ふうーん、自分の味方ね。そういう事か。思わずジユは苦笑した。

トクが自分の味方にしたと言った時の、にやりとした表情で全て理解した。なるほどね。自分の仕えている人の情報を裏で別の人に伝えるなんて普通信頼できる侍女のすることじゃない。愛する男の願いならやってしまうって事か。全くあんたは策士だよ、トク。でもその女は情報を手に入れたら用済みって事にしたら恨まれるよ、あんた。とジユは心の中で毒づいた。

カジグルはその侍女に自分はゾルハに向かうので、何かあったら毎日館に出入りしている自分の代わりの商人のマタに文を託して欲しいと伝えて都を離れた。マタは信頼できる仲間であるし、マタにとってもレナミルの館の贔屓の商人になれれば儲けは期待できる。今回の贔屓にしてもらった礼として、何かあった際にカジグルに文を急いでゾルハに届けるなど簡単な事であった。

カジグルの説明に、あんた良くたった一月ちょっとで良くそんな事ができたんだねとジユが嘆息すると、カジグルはにやりと笑い、カジグルとトクの二つの顔の人脈と、俺の賢い頭とこの顔さえあれば、それぐらい何でもないさと得意そうにいい放った。

その自信満々な顔にジユは少し面白くなかったが、やはりこの男はそれだけの知恵と人脈、そして行動力があるのだ。と思い知らされた。

タツルスが王位を継ぐのならば。ふとジユに新たな考えが浮かんで来た。

今回のタツルスの王宮からの失踪も直ぐ様カジグルの情報網を伝わって、ゾルハにいるカジグルに伝えられた。まずマトバスの婚礼の宴に参列していたカキトナは、レナミルの懐妊、そしてリサミナとキタビルの婚姻話を聞いて、きっと何か起こるとすぐ感づいた。宴の最中にすぐ自分の侍従経由でゾルハにいるカジグルに急ぎの使いを送り、合わせて親友の師で自分も面識のあるモズにも今回の事を伝える文を送っておいた。

カキトナはカジグルから南と、ジユのいる西について特に注意しておくよう頼まれていた。西であるトラエグにいて領主や貴族、商人にも広い伝があるモズならカジグルの助けになってくれるだろう。タツルスはあの時モズが文を読んで険しい顔をしていたのは、カキトナからの文だったのかと気がついた。

またその翌日にはレナミル付の侍女から昨晩レナミルの館に泊まっていたタツルスの姿が急にいなくなり、レナミルが方々を探しているという知らせをマタ経由の使いから受け取った。カジグルはタツルスがジユの元に向かったと確信した。もしタツルスがパルハハへ向かうのならば必ずトラエグを経由する。師であるモズにはジユからタツルスとの関係を明かされてすぐにモズにもタツルスがパルハハに向かう事を知った際は力を貸してあげて欲しいと頼んでおいた。

カキトナの文を読んで状況を把握してモズは直ぐ様タツルスを迎えに動いた。

どうしてそこまで自分達の為に動いてくれるのか?タツルスの問いにカジグルは、私は王宮を去りましたが、タツルス様には期待しているのです。きっとこの国を良い方向に導いてくれるお方だと。更にいたずらっぽい目をして、それに私もこのジユに惚れているのです。まあジユはタツルス様にしか興味がなくて、私には目もくれませんがね最後にはジユに意味深な流し目をしてそう続けた。そんな余計な事をタツルスに伝えなくてもいいだろう。一言余計だよとジユは心の中でカジグルに向かって毒づいた。

なので二人にとって一番良い方向に進んで欲しいのです。例えばどのような結果になっても。そうカジグルは微笑んだ。

その言葉にジユの心は定まった。自分とタツルスの行く先は。そう思い、タツルスに自分の想いを伝えようと口を開こうとした時、ドンドン。激しく戸を叩く音がするとすぐにカジグル、俺だ。キハだ!と外から声がした。カジグルが慌てて戸を開けると小柄な頬に傷のある男が飛び込んで来た。

大変だ!都からレナミル様の従兄のアソニジ様が私兵を引き連れてやって来た!その声に、カジグルはくそっ。思ったより早かったな。タツルス様が都を出られて次の日の夜に発ったはずなのにもう着いたのか?と早口でキハに返した。キハはおそらく相当な金を積んで夜通し馬を走らせただろう。さっき奴らが染師の工房に乗り込んで行くのを見かけた。すぐにここも突き止められるだろう。

どうする?お前の隠れ家もおそらく突き止められてしまうだろうし、何よりゾルハの村に戻る道で行き合ってしまうぞとカジグルに尋ねた。ジユは慌ててカジグルに奴らの狙いは?と尋ねると、カジグルは厳しい顔をしてタツルス様を王宮に連れ戻すのが目的だが、おそらくお前はただでは済まされないだろう。レナミル様にとって邪魔者のお前は下手をするととカジグルは顔を曇らせた。しかしすぐにジユ。心配するな。いざとなったら俺がアソニジや私兵の奴らと刺し合ってでもお前を助けるからなと、着物の襟口から短刀を出した。

その言葉にタツルスは自分は剣も何も持っていないがジユを救う為なら自分が楯になってもいい。何とかジユを救う!とジユの肩をぎゅっと抱き締めた。

タツルス、カジグル、キハの三人は殺気をみなぎらせていた。

あ!ジユにふっと一つの閃きが起こった。一か八かやってみよう。一斉一代の大勝負だ。

すぐにタツルスに小屋の裏に隠れてもらい、何かあった時の為にキハに側にいてもらう事にした。昔は荒っぽい事にも手を染めていたキハだ。剣の扱いには慣れている。

小屋の中にはジユとカジグルの二人きりになった。ジユはカジグルに、あたしはあんたの女ってことにしてくれ。そうジユはカジグルに伝えた。カジグルはジユの顔を見つめると、にやりと笑った。どうやらジユの考えている事が分かったようだ。さすが勘のいい男だ。

じゃあ見せつけてやらないとな。そうカジグルはジユに笑いかけると、役得だなと冗談を言うと自分の着物と帯を解くとジユの着物も勢い良く剥ぎ取って床に落とした。そして全裸のジユをぎゅっと抱き締めた。ジユの耳に、なあ、こんな姿を見せられた本気にしちまうぞと囁いた。ジユも抱きたければ抱いてもいいさ。でも心はあの人の物だからねと言い返すと、カジグルは全く、俺もとんだ女に惚れちまったと言う訳だと肩をすくめて見せた。

ジユもカジグルの広い背中をしっかり抱き返した。とその時、いきなり男が乱暴に扉をこじ開けると小屋の中に飛び込んで来た。レナミルの従兄のアソニジだ。アソニジは目の前の光景に仰天した。

なぜタツルス様ではなく、カジグルがここにいるのだ!そしてタツルス様はどこにいるのだ?染師を脅したら、すぐに二人の居場所を白状したので直ぐ様私兵を引き連れてここにやって来た。古ぼけた小屋が一つあるだけなので、中にタツルスとジユという女がいるのはすぐに分かった。私兵達にはもしタツルスが抵抗したら多少手荒な事をしてでも女と引き離して都に連れ帰るようにと命じてあった。そしてタツルスと私兵達が誰もいなくなった隙にジユという女を消してしまおう。そうアソニジは秘かに心に決めていた。ところが勇んで乗り込んだ小屋の中には裸で抱き合っているカジグルと女の姿があったのだ。

女の方はいきなり乱入して来た見ず知らずの男に気がついて、驚いたのかきゃあと悲鳴を上げると、慌てて自分の裸体を隠そうとした。そしてあんた、いったい何なのさ!と怒鳴り声を上げた。

そんな女を自分の背後に隠したカジグルも、アソニジ。いったい何のつもりだ?と問うてきた。

予想もしなかった光景にアソニジも一瞬我を忘れてしまったが気を取り直してタツルス様が急に宮殿を去ってジユという女の元に来ているはずだ。お前がジユだな?タツルス様はどこに行ったのだ?とジユを睨み付けた。そんなアソニジにジユは、ああ!あのお方だね。今頃都にでも戻っているんじゃないかと、さも関心のなさそうな素振りで素っ気なく言った。

一時あたしもあのお方のお相手を勤めていたさと言うと、パルハハまでの道中のお相手を勤めたらたっぷり金を貰えると思ったからね。ところがどうやらあっちはあたしの事を大層気に入ったようで、パルハハに着いてこれでお役目は終わったと思ったら、また会いたいと言い出した。まあ偉い方から言われればこちらは断れない身なんでね、付き合ってやって相手をしてたさ。どうやらお上品なお妃様達とはできないこともできたからね、フフフと卑猥な笑みを浮かべて見せた。

ジユのことばにアソニジは警戒していた表情を変え始めた。レナミルの話ではジユという女、タツルス様と愛し合っているようだったが、この女の口調と態度からすると、どうやらこの女の方はタツルスに命じられて相手をしていたというのがありありしている。

更にジユは、そんな時にこの男がうちの工房に来て知り合ったのさと言うと、カジグルの肩にしどけなく寄り掛かった。カジグルもにやけた顔をしてジユのだらしなく羽織った着物の上から身体を撫でて、頬に口づけた。

あたしはこのカジグルにすっかり惚れちまったんだよ。男振りもいいし、会いたい時にはすぐ会える。それに正直あのお方みたいな世間知らずのお偉い方はあたしにはどうも付き合いきれなくてね。あたしにはこういう自由に生きている男が合うんでね。それにあたしはあんな窮屈な世界で生きている人は退屈なんだよ。と吐き捨てるように続けた。

カジグルがにやりと笑いながら、俺もすっかりジユには惚れちまって今ではこのゾルハの村に住み着いているのさと言うと、昨日タツルス様がジユを尋ねて来た時に今みたいに俺達が寝台で抱き合っている姿を見られちまったのさ。まあ俺達は見られても構わないが。どうやらジユは自分の事を愛していると思っていたのだろう。本当の事を知ったのか驚いた顔をして、飛び出して行ったから、都にでも戻ったんじゃないのか?所詮あの方は狭い王宮でしか生きられないしな。と続けると、王宮のいざこざに関係のないこっちを巻き込まないでくれ!正直迷惑だ!と強い口調でアソニジを睨み付けた。

そしてアソニジ。お前とは昔からの付き合いだ。こちらも敢えて事を荒立てたくはないが、もしお前が俺の女に何かしでかしたら、その時はただではおかないと鋭く睨み付け、手元にあった短刀を抜いて見せた。

カジグルは本気だし、この男を敵に回したら厄介である事はアソニジは知っていた。レナミルが願ったので、このジユという女を消そうと思ったが、元々アソニジはレナミルが訴えても身分の低い戯れの相手など気にも止めていなかった。タツルスの方は本気になっていたようだが、肝心のジユ本人はタツルスに気がないようだし、レナミルは二人は愛し合っていると言っていたが、当初から自分が言っていたように愛ではなく、所詮金目当ての女だったのだ。タツルスと関係を持った後にカジグルとも関係を持ったようなあばずれ女だ。王妃はおろか妃の一人にもなれないようなクズだ。ここに捨て置いた方が得だ。アソニジはとっさにそう判断した。

そうとなると急いでタツルスを探し出して王宮に連れ戻す事の方が先決だ。アソニジは分かった。二度とお前達とは関わる事はないだろうと吐き捨てると、小屋を慌ただしく出ていった。アソニジと私兵達の足音が遠ざかって行く。

ジユはフーッと大きく息を吐いた。

そんなジユにカジグルは、さすが俺の惚れた女だけあってアソニジ相手にやりやがったなと楽しそうに笑うと、ジユの身体をまた撫でようとしてきた。

芝居はもう終わったんだからねと言うと、カジグルの手を軽く叩くと着物を着直した。やれやれ、カジグルもそうため息をつくと自分も着物を着直すと、外に向かってもう大丈夫です。と声を掛けた。その声に少し離れた所で様子を伺っていたタツルスとキハが小屋の中に慌てて飛び込んで来た。

ジユ!大丈夫だったか!タツルスが息を切らして飛び込んで来るとジユを力いっぱい抱き締めた。済まない、ジユ。俺はお前一人ろくに守ってやれなかった。と自分の不甲斐なさに肩を落とした。

そんなタツルスにジユは、タツルス。あんたの役目はあたしを守るんじゃないだけだよと笑い掛けると、カジグル。悪いがタツルスと少し話したいから外してくれないかと声を掛けた。

カジグルは、分かった。近くにはいるから何かあったら呼んでくれと言うとキハと共に出ていった。

二人きりになり怪訝そうな顔をしているタツルスにジユはこう切り出した。

タツルス。あんたの役目はあたしを守るんじゃないんだよ。あんたの役目はこの国を、みんなが安心して自分のやりたい事をやって暮らせる国にする事なんだよ。その為にもあんたは王宮に戻らないといけない。例えそこが美しくて色鮮やかな檻のような所でもね。そう言うとジユはこう続けた。

でもあたしの生きる場所は王宮じゃない。そもそもあんたはこんな生き方をしているあたしだから好きになってくれたんだろ?あたしが王宮に上がってお上品に絹の着物を着て、大人しく愛想笑いなんてしてる姿を見たくないだろう?あまりにも滑稽さ。あたしの居場所はここなんだ。ここで自分の納得する色を追い求めるさ。女でもこんなに美しい染めができる、女でも染師になれるんだって世間に伝えていくのさ。あたし達は例えお互い愛し合っていても、同じ場所で一緒に生きていく事はできないのさ。そうタツルスに告げた。ジユのことばにタツルスは拳をきつく握りしめ、唇を噛み締めた。自分でもずっと頭の片隅で分かっていた。けれども

他に何か別の道があるのではないか。そんな淡い夢を抱いていた。ついに夢から覚めないといけない時が来てしまったのか。しかしその夢から覚めるのはあまりに辛く哀しかった。

タツルスはジユを見つめるとジユは静かに涙を流していた。ジユ!タツルスはジユを抱き締めた。お互いの頬と頬を重ね合わせると、ジユの涙と自分の涙がいつしか混じり合っていた。

ジユは泣きながらもタツルスの胸を軽く押して自分から引き離した。ジユ。タツルスも苦しそうな眼差しでジユを見つめた。タツルス。あんたの居場所はここじゃない事が分かった以上、あんたは王宮に戻るんだよ。ここにいちゃいけないんだ。戻らないといけないんだよ!ジユは涙ながらに叫んだ。

あんたは太陽のようにみんなを照らしていかなきゃいけない運命なのさ。太陽が毎日空にあるようにあんたも王宮にいないといけないのさ。あたしは今はあんたの心の中で大きな位置を占めているけれど、いつかきっと月が欠けていくように離れて会わなくなったら、あたしの事はすぐに遠い昔話になるさ。だから今は辛いだろうけれど、あたし達はもう一生会わないで別々に生きていくんだ。最後は涙でかすれた声でジユはそう言い切った。

タツルスもぎゅっと拳を握り締めて涙を流した。そしてこう続けた。ジユ。お前は俺に太陽のようにと言ったが、太陽は人々を照らし、月は太陽を照らすという言い伝えが遠い国にはあるそうだが、お前は月のように俺を照らしてくれた。ある国では王は太陽、月は王妃に例えられているそうだが、俺の心の王妃はお前だけだ。例え王宮で誰が王妃の座に座っても、俺の心の中にいて俺を照らしてくれるのはお前だけだ、ジユ。

もう充分だ。そのことばだけを誇りにあたしはこれからも秘かにあんたを思い続けて生きていけるよ。ジユは心の中でそうタツルスに語り掛けた。そんなジユにタツルスは、またいつか俺達はきっと会える日があるだろうと言うと強くジユを抱き締めた。きっとまた会える日が来るさ。そうだ。いつかきっとこの国を誰もが安心して幸せに暮らせる国にして、そしてそれが叶い、自分の子供に王座を譲った後は俺は身分も何も関係なくお前と二人ここで暮らす。そんな日がいつかきっと来るさ。そんな日を待っていてくれ、ジユ。そう言うとどちらともなく唇を深く重ね合わせた。

どれだけお互い唇を重ね合っていただろうか。二人が身体を引き離すと、タツルスは何も言わずにジユに背を向けて一歩一歩歩き出し、扉の外に出て行こうとした。ジユは唇を噛み締めながら、そんなタツルスの背中を黙って見送った。

扉を開けようとしたタツルスが振り返ると、涙に濡れた瞳で大きく優しく微笑んでいるジユの姿があった。それがタツルスが見たジユの最後の姿であった。

憔悴しつつも毅然とした態度のタツルスが一人で小屋を出て来たので、察しのいいカジグルはジユとタツルス、二人の間に何があったのか理解した。キハに小声でタツルス様をとりあえず自分の隠れ家にお連れしてくれ。自分もすぐに追いかけて行くからとタツルスを託すと自分は小屋の中に入った。そこにはタツルスと同じように涙で潤んだ瞳ながら、どこか毅然として立ちすくんでいたジユの姿があった。ジユ。カジグルは戸惑いながらも声を掛けた。

ああ、ジユは慌てて手の甲で涙を拭うと、どうやってタツルスを王宮に戻すんだい?と尋ねて来た。カジグルも敢えて淡々と、とりあえず俺の隠れ家にお連れして目立たないように都にお戻しする。王宮にはタツルス様の侍従長と示し会わせて、タツルス様は療養でザルハスに戻っているグリソル様に会いにザルハスに行っていた事にするよう急ぎの使いを出すさ。ああ、グリソル様に話を合わせてもらうように俺の伝を使うから安心しな。アソニジもタツルス様が王位に就かないと困るから、今回の事は決して口外しないだろうとジユに伝えた。

そうか。ジユはそう短く答えた。そしてカジグル。あんたに頼みがあるんだ。と真剣な眼差しでカジグルを見つめた。

カジグルがジユの顔を見つめ返すとジユはカジグル。あたしの代わりにタツルスの側に着いて、あの人を支えてやって欲しいんだ。あんたなら賢いし、タツルスを守って支えてやれる立場にいる。あの人は太陽であたしは月で、太陽と月は一緒にいられないのさ。別々の場所でそれぞれの役目を果たさないといけない。あんただって、あんたの本当の居場所はここじゃなくて王宮なのさ。そこであんたの賢い頭と人脈を使ってあの人を支えるのが使命なのさ。そうジユはカジグルに伝えた。

しばらく黙ってジユの話を聞いていたカジグルは、やれやれ。お前もとんだ女だな。俺が惚れたお前の頼みを断れないと分かっていて、俺にあの方の事を頼むなんてと言うと首を竦めてみせた。そしておどけたように、しかもあの方は俺の恋敵だぜ?全くひどい女だぜと笑ってみせた。そして大きく笑うと、分かった。俺に任せろと請け負ってくれた。

これできっとタツルスも大丈夫だろう。これからの王座への道、そして王となった後のさまざまな難局でもきっと自分の想像もできない険しい道でも片腕となって支えてくれるカジグルがいる。そしてもう一人。そうきっとレナミルが王妃となってタツルスを支えてくれるだろう。さあ、行こう。ジユはカジグルに声を掛けて小屋の外に出た。辺りはすっかり暗くなっていて夜空にはもうすぐ欠けそうな細い月が浮かんでいた。

ずっとあたしはあんたの月になって離れていても照らし続けてあげるよ。ジユはそう心の中で呟いて、そっと空を見上げた。カジグルもジユの横に並んで黙って同じように月を仰いでいた。

 

タツルスは王宮に戻ったが、カジグルとタツルスの侍従長、グリソルの根回しのおかげで王宮では今回のタツルスの失踪は上手く誤魔化せていたようで、さほど心配したほどの混乱は起こっていなかった。またカジグルは今後の事も考えてアソニジにも今回のタツルスの王宮への帰還の協力を求めていて、アソニジも承諾した。

タツルスは宮殿に戻るとすぐにレナミルの館に向かった。レナミルと顔を合わせるのは約半月ぶりであった。タツルスは思い切ってレナミルの部屋の扉を開けるとタツルスの姿を認めたレナミルが泣きながらタツルスの元に走り寄って来て、タツルスの身体にすがると泣き崩れた。いつも美しく髪を結い上げ、化粧を施していたレナミルだが、日中なのに髪はただ下ろしており化粧もしていなく、顔はすっかり憔悴していたのだろう。豊かな頬をしていたが、すっかり頬の輪郭が一回りも小さくなっていた。

タツルス様、ご無事で戻って来てくださったのですね。そう言うと床に崩れたままタツルスの足を擦った。レナミルがタツルス様、お許しくださいと聞き取れないような小さな声で呟いた。しかしタツルスはその声には気がつかなかった。

タツルスはそんなレナミルを抱き起こして、済まなかった、レナミル。私は将来の王としても、お前の夫としても道を踏み外す所だった。お前の言うようにあの者とは同じ道を歩けない。その事を思い知らされたとタツルスはがっくりと首を落とした。

レナミルはタツルスより先に都に戻ったアソニジからタツルスの無事とタツルスとジユについての報告を受けていた。アソニジはレナミルにジユという女はタツルス様には本気ではなく、金目当ての女だった。しかもカジグルと関係を持っていて、カジグルがうまく言い含めてくれるので、二度とお前とタツルス様の前には現れる事はないだろう。それにお前はあの女を消せと冷静さを欠いて言ったが、逆にそんな事をして何かの拍子にそれが明るみに出たらお前とタツルス様の名に傷が付く。今回の事は全てなかった事にするのだ。俺の判断が正しかったのだとアソニジはきつくレナミルに言い含めた。

レナミルもアソニジのことばを聞いてほっと胸を撫で下ろした。ジユは生きていたのだ。死んではいなかったのだと。あの時は激情のまま、ジユを消して欲しいと願ったが、アソニジが都を発った後に、もし万が一何かあってタツルスがこの世を去っていたらと思うと気が気でなかった。愛する人が急に自分の目の前からいなくなってしまったら。自分がタツルスがこの世からいなくなってしまったらと思うだけで、胸が張り裂けそうなくらい辛かった。

もしジユがこの世から急に去ってしまったら。タツルスはどれほど悲しむか分からないし、ジユの死に自分が関わっていると知ったら、もう二度とタツルスは自分に心を開いてくれる事はないだろう。そう思うとレナミルは気が気でなかった。慌ててパルハハに向かったアソニジに使いの者を送り、あの願いはなかったことにして欲しいと伝えるよう命じたが、レナミルが使いの者を送った時にはアソニジはとっくにパルハハに着いている頃であった。どうか間に合って。レナミルは真剣に祈った。レナミルの使いの者がアソニジに会えたのはアソニジがパルハハから都に戻る帰路であった。もちろんタツルスはそんな事は知らなかったし、レナミルも一生この秘密は胸に秘めていようと誓った。

タツルスはレナミルを椅子に座らせ、ジユとはお互い話し合って別れた事を伝えた。そして二度と会わないともレナミルに伝えた。タツルス様、ジユという者はタツルス様を愛していたのですね?レナミルはそうタツルスに尋ねた。アソニジの話ではジユは金目当てであったと言うが、とてもレナミルは信じられなかった。

タツルスもああ、あの者は私を本気で愛してくれていた。それ故に私が生きるべき場所に戻す為に身を引いてくれたのだと悲しそうに微笑みながら正直に告白した。そしてレナミル。私は今までお前をただ王妃になりたいが為に王宮に上がった者という目でしか見ていなかった。正直これからお前を愛せるかどうかは分からない。それでもお前は私の側にいたいと思うか?そうタツルスはレナミルに尋ねてみた。

レナミルはじっとタツルスの瞳を見つめると大きく頷き、私は八才の頃からずっとタツルス様が私を愛してくださる日を待ち続けておりました。その日がどれだけ遠くてもずっとお側で待ち続けます。そうタツルスに伝えた。タツルスはレナミルの手をぎゅっと握り締めてみた。

自分の道の為に身を引いてくれたジユの為にも、自分は新しい一歩を踏み出すのだ。タツルスはレナミルの手を取りながら、心にそう誓った。

 

その後レナミルが無事王子を産み、そしてついに父王が退位してタツルスが王位を継ぐ事となった。

即位の準備が着々と進んでいたある日、カジグルがタツルスの執務室にやって来た。カジグルは放浪の生活に終止符を打ち、実家の大臣家に戻っていた。タツルスはカジグルにも自分の補佐となるべく王宮での地位を与えた。カジグルも王宮の生活に戻り、ようやく妻を迎えた。相手はあの時カジグルに協力したレナミルの侍女だったエクだ。領主の娘でも貴族の娘でもないが、カジグルが信頼できると選んだ娘だ。タツルスは当初カジグルが結婚したいと言い出した娘の身分に結婚を渋っていたカジグルの父である大臣を説得するのに協力した。タツルスとレナミルからの加勢もあり、ついにはカジグルの父も折れた。カジグルとエクの婚儀の際にはレナミルからエクに見事な婚礼衣装や金の飾り物を贈られ、大臣家の面目は保たれたのだ。

タツルス様、即位の式典にはどうぞこの染めで仕立てた衣をお召し下さい。そう言ってカジグルはタツルスに包みを差し出した。タツルスが急いで包みを解くと、そこには今まで見たことがないような鮮やかで、それでいて品があり、そして何とも言えないような艶やかな紫に染められた絹の織物が入っていた。

誰が染めた物なのか聞かなくてもタツルスにはすぐ分かった。何も言わずに視線をカジグルに向けるとカジグルも黙って深く頷いた。

包みの中には織物以外何も入っていなかったが、文など付いていなくても、あの者の言いたいことは手に取るように分かった。いつかきっとこの国を誰もが安心して幸せに暮らせる国にして、そしてそれが叶い、自分の子供に王座を譲った後は、身分も何も関係なくジユと二人であのゾルハの村で共に支え合い静かに暮らすのだ。そうジユに約束した。そんな日を待っているよ。それまでしっかりやるんだよ。あたしはずっとあんたを待っているよ。そうジユが自分に囁いている。

タツルスはジユの想いも一緒にを染め上げた織物をそっと大切そうに胸に抱き締めた。

 

その後セルシャの国がどうなっていったのか。

タツルスは二十八才で父王から王位を譲られ即位すると国内の安定と民の暮らしを常に念頭に置いて国を治めた。タツルスと息子のクリトルの二代に渡る治世はセルシャの国が最も安定し栄えた時期となった。

各地域の格差を是正し、産業の発展に勤め内政を良くし、また外交にも手腕を発揮し国は栄えた。特に外交に於いてはタツルスの右腕であったこの国の最高位の大臣を勤めたカジグルの手腕による所が大きい。彼は外交だけでなく国の財政や産業発展の面に於いても手腕を発揮した。惜しむらくはクリトルの治世にはカジグルのような有能な右腕となる大臣が現れなかった事だ。しかし賢明なクリトルは父と母の教えを守り国を良く治めた。またカジグルを父に持つ父譲りの聡明さを持ったジユトク王妃が常にクリトルを影で支え続けた。ジユトクの母のエクは元レナミル付の侍女であり、その縁で幼い頃からクリトルとは顔見知りであった。

ジユトクという誰も聞いた事がないような不思議な名前について聞かれた時に王妃は私はジユの日でもトクの日でもない日に産まれたが、父が娘が産まれたら必ずこの名前にしようと決めていたそうだ。一度父がせめて名前ぐらいは一緒にさせてくれよ、なあ、ジユと月に向かって話し掛けているのを聞いた事があったがいったい誰に向かって話掛けていたのか分からなかったと語ったそうだ。

また政治の面に於いてはカジグルという良き右腕がいたように私生活では王の傍らには常に王妃レナミルの姿があった。王妃は民の暮らしの発展に尽力し、各地に学舎を建設し、女の薬師と教師の育成の為の学舎を設立し各地から志のある娘達を集め、この国に女の薬師と教師が始めて誕生した。また普段は民と同じ綿の着物を着て生活していた。

タツルスはレナミル王妃との間にはクリトルとモノクテ、二人の王子が産まれている。またタツルスは侍女出身の二人の妃カトハルとマスルクとの間に一人の王子と三人の王女を儲けた。ただ一人、子に恵まれなかったもう一人の妃のグリソルだが、王と王妃の間に産まれたモノクテがグリソルの養子となり、グリソルの手元で養育された。

モノクテの婚礼の際は実際の母として遇され、またグリソルが六十九でこの世を去った時にもモノクテが看取った。晩年はモノクテその妻、孫達に囲まれて穏やかな余生を送ったとされている。

そしてタツルスは五十才で惜しまれつつこの世を去った。王として即位して二十数年、国を支えるべく奮闘してきたのだろう。その疲れが彼を蝕んでいた。病が分かった時にはもう手遅れであった。最後は眠るように静かに息を引き取った。レナミル王妃も後を追うように王の逝去からたった二ヶ月後に四十四歳の若さで急にこの世を去った。いきなり倒れて周りいた侍女が声を掛けた時にはもう意識がなかったそうだ。

 

今彼は王宮にある歴代の王が眠る墓所に王妃レナミル、そして妃のグリソル、そしてカトハルとマスルク。妃達に囲まれ静かに眠っている。

しかしそれにはたった二人がだけが知る真実が隠されていた。

病床のタツルスは侍従に息子で世継ぎの王子でもあるクリトルを秘かに呼ぶよう命じた。クリトルが来ると人払いをして父子二人きりになり、タツルスは息子の手を握り絞め、こう伝えた。

クリトルよ。これは王としてではなく、父としての最後の願いだ。世が死んだら世の亡骸の一部でいい。秘かにパルハハの山間にゾルハの村の外れに染師がいる工房がある。その近くに秋になると紫のグスリリという実がなる谷がある。グスリリの実の事はあの一族の秘密だから、子宝に恵まれる薬草が採れるという事にしておいて秘かにそこに人を遣わし、この染めの布で包んだ世の亡骸を埋めて欲しいのだ。と懐から鮮やかな紫の絹織物の小さな布を取り出すとクリトルに大切そうに手渡した。

クリトルは思いもよらぬ父王の願いに驚いた。父上、何故そのような所に?王宮には代々の王の墓があります。そんな父の願いに息子であるクリトルは驚きを隠せない表情をしている。

クリトルよ。叶うならば世の亡骸は全てあの谷に埋めて欲しいが、王である以上それも叶わん。ならばせめて亡骸の一部だけでもいいから、あそこに埋めて欲しいのだ。せめて死んだ後くらい豪華で、そして色鮮やかな檻から抜け出して、心だけでもあの者と自由に野山を駆け回りたいのだ。偉大な王として王座に座り続けた父王の、人として男としてずっと心の奥底に隠していた秘かな願い。これから自分も父王と同じようにずっと王座を守り、そして縛られて生きていかなければならない。

父の切なる願いを理解したクリトルは、はい。父上。必ずお約束致しますと父の手を強く握り返した。タツルスは満足そうに微笑むと、疲れたので少し休む事にしよう。そう言い残すとそっと目を閉じた。

セルシャの国の王のタツルスがこの世を去ったのはその夜の事であった。

王が死去してから数日後、王宮での厳かな葬儀と同じ時に、次の王となったクリトルの命を秘かに受けた者が小さな色鮮やかな紫の染めの包みを懐に忍ばせ、パルハハのゾルハの村へと向かって発ち、数日後無事にゾルハの村の外れの染めの工房に着いた。

そこには染師達らしい何人かの男達が作業をしていた。ちょうど大きな木の桶を持った若い染師の男が工房から外に出てきた。男はちょうど良いとばかりにその若い染師に声を掛けた。

あー、すまんがこの近くに子宝に恵まれる薬草が採れるという谷があるそうだが、知っているか?と聞いてみると、若い染師の男は子宝に恵まれる薬草は知らないが、谷ならこの先の山間の道をずっと歩くとあるが遠いぞ。無駄だと思うがと笑いながら答えた。その笑顔が誰かに似ている気がした。そう男の主でもある新しく王になられたクリトルに似ている気がした。しかしまさかこんな都から遠く離れたパルハハの山間の村に似た人がいるはずもない。男は自分の頭の中に浮かんだ馬鹿な考えを捨て、ああ、それでも俺の師匠の命令だから探しに行ってくるわ。ありがとうよと若い染師の男に礼を言ってここから立ち去った。

そんな男の後ろ姿を見送りながら、若い染師の男はやれやれ、あの谷には秋にはグスリリの実がなるがそれは自分の一族しか知らない秘密だし、今は春だからグスリリの実は見つからないから、まあいいか。そんな風に思っていた。

と、その時工房から、おーい、スエラ早く来い!と伯父のヌクの声がした。生まれた時から父もなく顔も知らず、また早くに母も亡くした彼にとっては伯父のヌクは実の親のような者だ。今行きますと返事をすると慌てて工房へと戻っていった。

月を意味するスエラという変わった名前なので周りから良く珍しいがられたり、からかわれるが何か意味があって母は自分にその名を名付けたのだろうが、そんな母もこの世を去ってしまったので聞くこともできない。まあ母は生前女ながら染師をやっていた変わり者なので、自分の子に変わった名を付けてもおかしくないのかも知れない。死の床で母のジユは自分がこの世を去っても自分はずっとお前を月になって見守っているから。あたしはお前が産まれる前からずっとあの人の月になっていたんだ。だからこれからもお前とあの人を照らし続けるよ。そうスエラに言い残して逝った。

スエラは母がこの世を去ってからも夜空の月を仰いで月に向かって話し掛ける時があるので、いつか月に聞いてみたら何か教えてくれるのかも知れないなと心の中で笑った。

この都から遠く離れたパルハハの山間の谷にセルシャの国の王が秘かに眠っていることはこの世でたった二人だけが知る秘密であった。

そしてこの都から遠く離れたパルハハの山間のゾルハの村にこの上もなく高貴な人の血を受け継いだ者がいることは、かつてこの国に生きていた一人の女の染色師だけ。そう。この世でたった一人だけが知る秘密であった。

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