町田 千春 著

染色師外伝 その1     TOP


私は少し長く生き過ぎてしまったかもね。

みんな逝ってしまったし。

そう、あの人も私を残して逝ってしまったし。

でもお互いあの秘密は墓場まで持って行こうと心に決めて、あの人は約束どおりに誰にも明かさなかったようだ。だから私も誰にも言わずに心に秘めて逝くよ。そろそろ私もみんなのいる世界に行く時が近づいてきたようだわ。朧げな意識の中でそう思うと自然と笑みがこぼれてきた。

 

セルシャの国の都にある王宮から少し離れた場所にある離宮の一室で一人の老女が寝台に横になっていた。老女の側には薬師と侍女が不安げな顔で立って祈っていた。何とか一秒でも長く生きていて貰わなくては。何とか息子であるモノクテ様がここに着くまで生きていて貰わなくては。グリソル様。どうか、どうか目をお覚まし下さい。

二人の願いが天に届いたのか、もの凄い勢いで額から汗を流し息を切らして一人の男が部屋の中に飛び込んできた。

母上!しっかりなさって下さい。

そう叫ぶと寝台に横たわるグリソルの手をぎゅっと握り締めた。息子の声が聞こえたのだろう。ああ、モノクテ。目をうっすらと開き、弱々しく微笑んだ。

母上、なぜこんなになる前に私に知らせてくれなかったのですか?とモノクテは涙声でグリソルの手を更に強く握り締めた。そんなモノクテにグリソルは、モノクテ。タツルス様とレナミル様がこの世を去られて、もう十九年も経ってしまった。私より年下のカトハル殿もマスルク殿も私より先に逝ってしまったし、ついにはカジグル殿も逝ってしまった。私一人生き残ってしまって、もうそろそろ皆と会いたいと思っていたのですよ。

なので薬師には無駄な治療はせずに逝かせてくれと命じていたのです。そう囁くような声で答えた。

母上、母上にはまだまだ生きていて貰わなくては困ります。私だけではありません。兄上と義姉上だって母上を頼りにしているのです。兄上と義姉上も急いで王宮からこちらに参ります。だからしっかりして下さい。そうモノクテは涙声でグリソルに伝えた。

お忙しい王様と王妃様にわざわざお越し頂かなくてもいいのにとモノクテに弱々しく笑い掛けた。

グリソルは目の前のモノクテを改めてじっと見つめた。自分とは全く血の繋がっていない息子だが、こんな自分を本当の母と慕い、尽くしてくれた。自分にはもったいないほど良くできた息子だ。

セルシャの国の東にあるザルハスの領主の娘として生まれ、運命のいたずらで世継ぎの王子の妃となり、そして自分の子でない王子の母となった。人は自分の事をどう思うのだろうか。幸せな女だと思うのか。それとも不幸な女だと思うのだろうか。

グリソルの意識は遠い過去の記憶の彼方に飛んでいた。

 

さあ、お兄様、お姉様、横に並んでちょうだい。そしてお兄様がお姉様の手を取って腕を組んで。これは王女の命令だから従ってね。

王宮の庭園で王様の妃の一人であるクノスクとその娘の王女のホリナム。そして叔母であるクノスクに招かれた東のタスカナの領主の跡継ぎであるカキトナと同じようにクノスクに王宮に招かれたグリソルが茶を囲んでいた。

グリソルとカキトナは同じ東の領主の子で年も近いので面識があり、王宮の行事などで顔を合わせた時に共通の話題も多いので話も弾み、また東の気質とでも言うのだろうか。お互い気性も穏やかで一緒にいると心地良く、いつしかお互いがお互いを意識していた。おませなホリナムは最近絵本で読んだ異国の王子と王女の結婚の宴の場面を二人に演じさせようとしていた。幼いとは言え王女の命なので二人共照れながらも従った。

お兄様とお姉様、本当にお似合いだわ!本当に結婚したらいいのに!無邪気に二人の姿を見てホリナムはこう叫んだ。そしてきゃっきゃと浮かれている。

そんな娘の姿を母であるクノスクは微笑ましそうに見つめていた。ホリナムがグリソルの手を取り、庭園の花壇の方に向かって歩き出したのを見計らって、自分の甥であるカキトナにこう笑いながら話し掛けた。

本当にお前とグリソル殿はお似合いね。身分的にも釣り合いが取れているし。どう?ザルハスの領主殿にグリソル殿を嫁に迎えたいと願い出てみたら?あちらも

きっと喜んでこの話を受けてくださると思うわ。ザルハスの領主殿は前からお前のことを気に入っているしね。必要ならば私からもザルハスの領主殿に掛け合ってみます。そうクノスクは強い言葉でカキトナに伝えた。

いつもは控えめでおとなしい叔母としては珍しい態度にカキトナは眉を潜めた。一体何があったのだろうか?カキトナは訝しがった。しかし叔母は王様の妃である以上追及はできないし、きっと自分には言えない何かがあったのだろう。そうカキトナは推測した。

カキトナの推測どおり、クノスクは数日前自分の夫でもある王様から数年後ホリナムを隣国のオクルスの王の妃にする為オクルスに送るので、それまでにオクルスの言葉や風習をしっかり学ばせ、またセルシャの国の王女として恥ずかしくないよう育てておくようにと言い渡されていたのだ。

クノスクとて王の妃となり、王女を産んだ時から娘は権力争いの道具とされる可能性もある。それは覚悟はしていた。けれども娘の相手は十五も年上で既に数人の妃がいて、一番年上の子はホリナムと三つしか違わない。そんな男の元に嫁がされるのだ。しかも一度他国に嫁に行った以上、娘は二度とセルシャの国の土を踏むことはないだろう。

クノスクは娘が不憫でならなかった。娘がオクルスに行ってしまい、せめて自分の身近に残ってくれる可愛い甥のカキトナには幸せになってもらいたい。しかもカキトナもグリソルもお互いに好意を寄せている事にクノスクは気づいていた。

カキトナはクノスクに叔母上、お気持ちは嬉しいのですが、まだタツルス様の婚儀が決定しておりません。

王様は西のパルハハの領主様の姪のサアンゾ殿をと、お望みですが王妃様のご意向で難儀していると聞いております。どうやら王妃様は東のキクアラの領主の娘のササミレ殿を推しているとか。タツルス様もササミレ殿をお望みとの噂もございます。定かではございませんが、昨年の王宮の式典の後にお二人で庭園を散策されているのを見た者がおるとか。

タツルス様の婚儀が決定するまで臣下の私がタツルス様を差し置いて妻を迎える訳にはいきません。それこそ不敬です。他の貴族達も皆遠慮して婚儀を控えております。私一人先にとはいきませんし、グリソル殿もきっと分かってくれていると思います。そうクノスクに静かに答えた。

カキトナは賢く優しい子だが控えめである。もっとあの二人のように女性に対して積極的になればいいのに。クノスクは静かにため息をついた。

王様も王妃の甥でタツルスの従兄でもある南のホルトア出身のアソニジ、東のザルドド出身で大臣の息子であるカジグル、そしてカキトナの三人がタツルスの御代にはタツルスを支える人材となるだろうと公言していたし、王妃が何よりは自分と近い南と東の者である三人にタツルスの周りを支えさせようと思っているのは明らかであった。

その為カジグルは王妃の口添えでアソニジの妹であるクスハルと婚約していた。タツルスの婚儀が終わったら二人もほどなく婚礼をあげるのだろう。二人は年が少し離れているが王妃様の口添えではカジグルも断れなかったのだろう。もっともカジグルの父の大臣は乗り気であっただろうが。

整った甘い顔をしていて、性格も気さくで陽気なカジグルに言い寄る貴族の娘や奥方も多く、クスハルを妻に迎える前でも女性には不自由していないようだ。またアソニジも同様に割り切った関係を結んでいる者が数名いる事もクノスクも噂で聞いていた。王妃様は誰か手の内にある南の貴族の娘とカキトナを結ぼうとお考えなのではないか。クノスクは秘かに危惧した。王妃様から話があればクノスクの兄であるタスカナの領主も断れまい。一刻も早いうちに婚儀はあげられなくともせめて婚約を発表してしまえば、東の領地同士ならば王妃様もさほど文句は言わないだろう。

クノスクは妙な胸騒ぎがした。何かこれから起こるかも知れない。

クノスクの不穏な予感は数日後の王宮からの発表で当たる事となる。でも今はクノスクもカキトナも、そしてグリソルもこれから起こる出来事を予期していなかった。

庭園で茶を楽しんだ後にクノスクの館に移り、楽しく談笑しているうちに日も暮れる頃となった。昼前から招かれたので、かなり長い時間を共に過ごしたが、グリソルもカキトナと一緒に過ごせるのは嬉しかった。

では叔母上。この後私はカジグルと共に新しく東の領地から王宮に上がった衛兵達の歓迎の宴に招かれておりますので、私はこれで失礼させて頂きます。王女様また参りますねと挨拶して席を立った。

グリソルもクノスクとホリナムに挨拶するとカキトナと共に館を後にした。カキトナは馬車が迎えに来る東門まで送ると言うと二人並んで歩き始めた。カキトナは先日あったタスカナの祭りについて話してくれた。彼の少し低い深みのある声で祭りの様子を聞かせてもらうと、なぜか自分のその場にいて実際に見聞きした気持ちにさせられる。そろそろザルハスの秋祭りも近い頃ですよね?グリソル殿もその時はザルハスにお戻りですか?

そうカキトナがグリソルの瞳を見つめながら尋ねてきた。急にグリソルの胸の鼓動は高まった。早る鼓動を押さえながら、ええ、戻る予定にしております。父が急に都に来ると今朝館の者が言っていたので、父の用事が終わったら共にザルハスに戻ることになるでしょう。そう答えた。

グリソルの父のザルハス領主は自分の領地にいる事を好み、都には王宮の行事で招かれた時やどうしても都でなければできない用事がなければ都には来ないので、最近は都にあるザルハス領主の館の主はまるでグリソルのようである。今朝グリソルが王宮に向かう前に侍従が急に父が今日の午後にも都に急ぎやって来ると早馬で知らせがあったと伝えた。不思議に思ったが王宮に招かれているので、グリソルも父を出迎える事はできない。もう父も館に着いているだろう。それとも都には着いたが急ぎの用とやらで外出しているかも知れない。

グリソル殿、カキトナが何か話し掛けようとした時にあちらから息を切らしてこちらに向かった走って来る長身の男の姿が見えた。カキトナの親友でもあるカジグルだ。この後一緒に衛兵の歓迎の宴に出席するとは聞いていたが、何事だろう。

カキトナ!カジグルが二人の所に急いで近づいて来る。急いで走って来たのだろう。少し額に汗をかいているが、甘く整った顔立ちは変わらない。王宮の侍女達や貴族の娘達が騒ぐのも無理はないなと思わずグリソルはカジグルの姿を見つめた。

急いで走って来たが、カキトナの隣にいるグリソルの姿を認めると、おお、これはグリソル殿、お元気でいらっしゃいましたかとグリソルに声を掛けた。

カジグルも東のザルドド出身の為、グリソルとは幼い頃から顔見知りであった。ただグリソルは自分と違い華やかなカジグルはどこか違う世界に住む人のような気がしていて特に恋心は抱かなかった。

はい。カジグル様もお変わりなく。と微笑みかけるとカジグルは大げさに自分の胸に手を置き、ああ、いつ見てもグリソル殿は野に咲く花のように清らかで美しい。そして私のような不埒な輩を近づけない侵しがたい気品に満ちておられると芝居がかった声を出した。

思わずグリソルも笑ってしまったが、私はただおとなしいだけです。それでもあまたの美女のご存知と名高いカジグル様にお褒め頂いて光栄ですわと返した。そんな二人のやり取りをカキトナは楽しそうに黙って笑って眺めていた。

カジグルはカキトナの方を向くと急に表情を改め、先ほど急な知らせがあった。宴の前に少しいいか?といつもより少し低い声で伝えた。そして一瞬ちらりとグリソルの方を見た。

父も急に都に来た。きっと何か領地間や王宮であったのだろう。ただ政治の事なのでグリソルは敢えて口を挟まず、何も聞かずにここは辞した方が良さそうだ。

それではカジグル様、カキトナ様、私はここで。東門まですぐですし、我が館からの使いが待っておりますので、と言うと二人に軽く一礼した。

カキトナは何か言いたげな顔をしていたが、カジグルもいるし、カジグルの言う急な知らせも気に掛かっていたのだろう。

それではグリソル殿、お気をつけてお帰りください。またお会いしましょうと挨拶するとカジグルと連れ立って元来たクノスクの館の方に向かって歩き出した。グリソルは逆の方向の東門の方に歩き出した。

と、その時、キクアラが!という少し驚いたようなカキトナの声が聞こえた。よほど驚く話だったのだろう。いつも穏やかで冷静なカキトナにしては珍しく大きな声を上げたので、思わずグリソルは振り返って二人の方を見てしまった。そこには何やら難しい顔をした二人の姿があった。

キクアラと言えば同じ東の領地だ。東の領地の中では一番北端にあって、北の領地であるバルスエと接している。

キクアラで何かあったのかしら?だから急に同じ東の領主である父も都に来た。と言うことは父は王宮から呼び出されて慌てて参上したのか。グリソルは急に不安になった。

ササミレ様は大丈夫かしら?キクアラの領主の娘のササミレとはカキトナやカジグルと同じように幼い頃からの知り合いで、季節ごとに文をやり取りをする仲である。そして王妃様がササミレをタツルス様の妃の一人にお考えだという噂も聞いていた。

不安な気持ちを抱えたまま、グリソルは都にあるザルハス領主の館に帰宅した。父はめったにこの館に来ないので仕えている侍従や侍女の数も少ない。

館に戻ると待ち構えたように侍従が、グリソル様。お帰りなさいませ。領主様がお待ちでございます。と父の部屋に促した。

やはり呼ばれた王宮で何かあったのだ。そう思いながらグリソルは父の部屋の扉を軽く叩いた。お父様、グリソルでございます。失礼致します。そう言って父の部屋の中に入った。

グリソルは自分の耳を疑った。父は今何と言ったのか。聞き間違えでなければ自分は世継ぎの王子のタツルス様の妃になる。そう言ったのだ。

ザルハスの領主は何とも気まずそうに娘のグリソルにこう伝えた。

グリソル。今日王妃様から王宮に呼ばれた。お前をタツルス様の妃に迎えたいと仰せだ。お前も知っていると思うが、この国の実権を握っているのは王様でなく王妃様なのだ。王妃様直々にこのような命があった以上、このザルハスとしては断れない。分かってくれ、グリソル。タツルス様の元に行ってくれと父は肩を落として呟いた。

グリソルとて領主の娘として生まれ育ってきた。時に領主の娘は権力争いの道具として嫁がされる事がある事も知っている。しかし自分の身にはそんな事は起こらない。どこかそう信じていた。

父は王宮での権力争いには興味がなく、自分の領地で領民と共に生きるのを生き甲斐としており、そんな父なので領民から慕われ、グリソルは自分も父と同じような、そうどこか東の領主の息子や貴族の息子の妻となり、母と同じように自分の領地で暮らし、一生を終えるのだろうとぼんやり将来を思い描いていた。

噂では同じ東のキクアラのササミレが妃候補だと聞いていた。グリソルは納得がいかず、なぜ急に自分に白羽の矢が立ったのか、父に尋ねてみた。お父様、キクアラのササミレ様が候補だと話を聞いております。なぜ急に私が?父の話はこうであった。

お前がクノスク様に招かれて、王宮に伺った際に王妃様がお前を見かけて見初めたそうだ。王妃様は周りにザルハスの領主の娘は美しく礼儀正しい。タツルスと同じ年なのでタツルスの妃に相応しいではないか。それにクノスクの話だと優しく賢いのでホリナムも姉のように慕っているそうだ。タツルスの異母妹とも親しいのであれば、まさに王家の一員に相応しではないかと仰っているそうだ。

王様の妃の一人であるクノスクは自分と同じ東のタスカナの領主の娘であったので、同じ東のザルハスの領主の娘であるグリソルの事を可愛がってくれて、クノスクと王様の間に生まれた王女のホリナムも同じ母から生まれた姉妹もなく、お姉様が欲しかったのとグリソルを慕ってくれて、グリソルもそんなホリナムを可愛いと思っていた。王妃様とも一度クノスクの館の前で偶然出会い、挨拶をしたがまさかそれがきっかけになったとは思いもよらなかった。急にこんな話が降って沸いたのも何か理由がありそうだ。

自分も王宮の権力争いの渦に巻き込まれてしまったのか。グリソルは唇を噛み締めた。グリソルも領主の娘なので、最近の王宮の様子は伝え聞いていたし、クノスクに招かれて、度々王宮に上がっているので何となく最近の王宮の不穏な空気は感じていた。

世継ぎの王子のタツルスの元に王様の命で北のバルスエの領主の娘のラオズスが嫁ぐ事が決まっており、婚儀の準備も着々と進んでいたのに、婚儀まで後二月のある日ラオズスが急な病でこの世を去ったのだ。

ラオズスがタツルスの妃となり、やがて王妃の座に着いてしまう可能性を恐れた南の者が秘かにラオズスに毒を盛って葬ったのではないかと囁かれていた。ある日ラオズスの侍女が急に館から消えて、そのすぐ後にラオズスは急に原因不明の高熱が出て意識を失い二日後には亡くなってしまったそうだ。消えた侍女は南の手の者だったのだろう。そう囁かれていた。

このセルシャの国では北と南の権力争いが激しい。王妃の座を巡っても北と南が争い合っていた。南出身の王妃様は自分の出身でもある南の領地から次の王妃も立てたいと願っている事はグリソルも知っていた。

私より誰か南の者をタツルス様の妃にすれば良いではありませんか?王妃様は南の者が次の王妃様に立たれるのがお望みでは?グリソルはそう父に尋ねた。父は首を振り、王妃様はどうやら自分の身内でもある娘をタツルス様の元にとお考えのようだが、

その娘はまだ幼く今すぐタツルス様の元には嫁がせられないようだ。それにその娘が控えている以上、同じ南から他の娘を妃に上げたら将来同じ南同士で次の王妃の座を巡って内紛が起こってしまう。それを避ける為に南以外の領地から妃を上げたい。王妃様はそうお考えなのだろうとため息をついた。

そしてその娘が成長する前にタツルス様を一日でも早く一人前の世継ぎの王子と認めさせる為にとりあえず南と親しいどこか東の領主の娘か貴族の娘をタツルス様の妃にしようとお考えのようで、キクアラのササミレ殿をとお望みだったらしい。それがキクアラが北のバルスエと秘かに手を結び、マルメルと塩の公益の権利を手に入れているという証拠が見つかったそうだ。

王妃様は北と通じた裏切り者と烈火の如くお怒りでササミレ殿はタツルス様の妃候補から外されてしまったようだ。と厳しい顔をした。

それならば北でなければ。グリソルは一度王宮で会った一人の娘の事を思い出した。王宮でクノスクが催した茶会に来ていた西のパルハハの領主の姪のサアンゾという娘だ。絶世の美女との噂どおりの大層美しい娘であった。確か王様の寵妃である西出身のクミハルとホリナムの異母妹になる二人の幼い王女様達と一緒に招かれていた。という事はいずれ王宮に上げようという魂胆があってクミハルの伝を使って王宮に招かれて来たのだろう。あのサアンゾの美しさなら、きっとタツルス様もお気に召すだろう。

お父様、パルハハのサアンゾ様はいかがでしょうか?西は北と親しいとは言え、直接南と対立しているのではございません。サアンゾ様には一度王宮の茶会でお会いしましたが、大層美しくて身のこなしも優雅でした。あの方ならばタツルス様の妃に相応しいと思いますし、王様の寵妃であるクミハル様とご一緒だったので王様もサアンゾ様をタツルス様の妃にとお考えなのでしょう?西の者達はきっとクミハル様経由で王様に働き掛けているでしょうし。そう父に言うと父は難しい顔をして、それがと言い募った。

お前の言うとおり王様はサアンゾ殿をタツルス様の妃にとお考えなのだが、王妃様から横槍が入ったのだ。王宮の薬師がサアンゾ殿が幼い頃に掛かった熱病のせいで子を望めない身体らしいと言っていると。パルハハの領主様お抱えの薬師の見立てでは問題ないそうだが、やはり王宮の薬師がそう言っている以上、世継ぎのお子を産めない娘は例え王様のご意志でも妃には上げるのは難しいだろう。周りが納得しない。最も今回の薬師も王妃様の息の掛かった者だろう。今の王宮は王妃様に牛耳られているからな。父は悲しげな瞳でグリソルを見つめると、グリソル。済まない。タツルス様の元に上がってくれと頭を下げた。そして顔を上げると、こう言った。カキトナ殿との事は諦めてくれ。王妃様の命である以上、あの方も逆らえまい。今回のお前の決断もきっと分かってくださるだろう。分かってくれ、グリソル。それが領主の子に産まれてしまった宿命だ。お前もあの方も逆らえまい。

自分もカキトナも王妃様の前では無力だ。それにお互い領民の上に立つ領主の子として生まれ育って来た。自分の領地に悪影響を及ぼすであろう事は選べない。グリソルはぎゅっと唇を噛み締めた後に父にこう告げた。お父様、私タツルス様の元に参ります。グリソルの瞳から涙が溢れてきた。

そして心の中でこう呟いた。さようなら、カキトナ様。お別れでございます。

タツルス様、王妃様がお見えになりました。そう侍従がタツルスに声を掛けた。

タツルスは今回の母の訪問の意味を察していた。いよいよ決まったのか。そう思い、深いため息を着いた。

それは自分が世継ぎの王子である以上避けられない事であった。

お通しせよ。そう侍従に伝えるとほどなくして満面の笑みを浮かべた母の王妃がタツルスの執務室内に入って来た。母がこういった表情をしている時は自分の要求が満たされた時だ。きっと自分に都合のいい娘が妃に決まったのだろう。タツルスは内心冷めた目で母を見ていたが、そんな事も微塵も見せずに母を迎えた。

母に椅子を勧め、自分も椅子に座ると母は早速話を切り出した。タツルス、正式にお前の妃が決まりました。相手はザルハスの領主の娘のグリソルです。そなたと同じ年で美しく礼儀正しく、そして温和な娘と評判でお前の妃にふさわしい娘だ。おまけにクノスクやホリナムとも親しいそうで、王室の一員になっても周りとうまくやっていけるであろう。そうタツルスに微笑み掛けた。

東のザルハスの領主の娘か。その娘に決まったのか。

タツルスも当初母が同じ東のキクアラの領主の娘のササミレをと考えていた事も知っていた。そして王宮内で流れている自分とササミレの噂を流したのも北や西を牽制する為に母の手の侍女がわざと流したのだろう。

昨年の王宮の式典の後に二人で庭園を散策していたというのも母の仕組んだ事だった。侍従から王妃様の命で庭園にオクルスからの使節がいるので案内するようにと伝えられ庭園に向かったら母の館からの帰りのササミレと行き合った。型通りの挨拶を交わしただけだが、いつの間にかそういった噂が流れていた。

しかし今回キクアラが北のバルスエと秘かに手を結んでいた事が発覚して、急に別の東の自分に都合の良い娘を選んだのであろう。

タツルスはそのグリソルという娘について思い出してみた。セルシャの国には二十八も領地があり、年頃の領主の娘も数人いる。ザルハスの領主は娘を使って王宮内での地位を得ようという欲はない男なので、娘をタツルスと個別に引き合わる事はなかった。

王宮の式典に数回ぐらいは参列していて他の者と同じように挨拶はしたと思うが、うっすら記憶に残っているのは、美しいがおとなしそうな控えめな感じのする娘だった。控えめでおとなしい。母にとっては好都合な娘だ。母は南の娘も妃にしようと腹積もりがある。

自分が幼い頃に母の静養に付き合わされ、母の産まれ故郷である南のホルトアに一緒に連れていかれたが、そこでドリメルという母の姻戚の娘と会った事がある。おそらく自分より二歳か三歳年下だった気がするので、その娘が十五になるまで母は待てずに、とりあえず先に自分と同じ年のグリソルという娘を妃に決めたのであろう。

そしてきっとその娘も今回の母の魂胆には気づいているのであろう。それでも王妃の命には逆らえず、自分の妃になると承諾したのだろう。

誰も母である王妃の命には逆らえまい。

自分も、そしてそのグリソルという娘も哀れだな。

タツルスは冷めた目で自分自身を見つめていた。

カキトナ様が私を見つめている。

グリソルは壇上の上でカキトナの視線をひしひしと感じていた。

王宮ではタツルスとグリソルの婚姻の宴が盛大に行われていた。世継ぎの王子の婚儀だけあり、セルシャの国の全ての領主とその妻子と全ての貴族とその妻子だけでなく、隣国のオクルスとマルメルからも王の名代が使節と共に参列して、盛大に行われていた。もちろんタスカナの領主の跡継ぎであるカキトナも参列していた。

もちろん今日の主役はタツルスとグリソルなのでこの場にいる皆の視線が一身に集まっていたし、タツルスの妃に選ばれた娘を値踏みするよう皆の注目がグリソルに注がれていたが、カキトナの視線は皆の視線とどこか違っていた。

 

タツルスとグリソルの婚儀は王妃の意向で急ぎ執り行われた。正式に婚約が発表された半年後という王室の婚礼としては異例の早さだった。それでも世継ぎの王子の婚儀にふさわしい豪華な宴になっているのは皆王妃の手前総力を尽くして準備したのだろう。

一日も早くタツルスを一人前だと世間に認めさせたいという王妃の思惑と、最近タツルスの祖母でもある皇太后の健康が思わしくなく、もし逝去してしまうと喪が明けるまで一年は婚姻ができなくなるという事情があった。

 

グリソルは今まで着たこともないような美しい染めの淡い紫の絹の衣にびっしりと隙間なく金糸と銀糸で何羽ものつがいのカナジュの鳥やサラシュの花が刺繍をされ、王家の紋章が大きく胸元と背にも刺されている婚礼衣装を着て、頭には金と色とりどりの宝石で飾られたずっしりと重い王冠を被り、王冠と揃いの豪華な首飾りと耳飾りを付けてタツルスと並んで壇上に座らされた。

そしてグリソルも壇上から婚儀の宴に集まった者達を眺めていたが、気がつくとカキトナの姿ばかりを目で追ってしまっていた。

いけない。私はもうタツルス様の妃となったのに。

この宴の後についに自分はタツルス様に抱かれ、名実と共にタツルス様の妃となる身なのに。

タツルスの元に嫁ぐと決めてから半年。必死でカキトナを心から消して夫となるタツルスのことだけを想おう、そう自分に言い聞かせたのに。

タツルスとは正式に婚約が決まってから婚儀まで半年と期間が短かったので妃として王宮に上がったら、もう二度とザルハスには戻れないグリソルの心情を推し量ってくれたのでだろう。タツルスからは婚儀の数日前まで王宮に上がらずにザルハスでの残り少ない日々を楽しむがいいと文が来て、通常妃となる娘が王宮に上がって準備する婚礼衣装も王宮の仕立侍女長と刺繍侍女長が数名の侍女を引き連れて、わざわざザルハスの領地の館に赴き、準備を進めてくれた。

その為この異例の扱いは王宮では噂に登っていた。

タツルス様はグリソル様を大層お気に召して格別のお計らいをしている。元々タツルス様は東の娘がお好みなのだという噂もあれば、本当はタツルス様は絶世の美女と名高い西のサアンゾ様をとお望みだったのに王妃様の決定でグリソル様に決まり、がっかりされている。妃になれば嫌でも毎日顔を合わせなくてはいけないので、それまで来なくていいという事らしい。

そんな噂が飛び交っているので、各領主達や貴族達は好奇の目でグリソルを眺めていた。

慣れない多くの好奇の目と、そしてカキトナの視線に思わず耐えられなくなり、グリソルはうつむいた。

グリソル様、いかがなさいましたか?

周りに聞こえないよう小声でグリソルの後ろに控えていたグリソル付きの侍女長と決まったマサが心配そうに声を掛けた。

グリソルは慌てて視線を上げ、大丈夫よ。何でもないわとマサに答えた。その声に隣に座っていたタツルスが大丈夫か、グリソル?とグリソルの方に首を向けた。グリソルはタツルスの優しさにいたたまれない気持ちになり、タツルス様。大丈夫でございます。慣れない華やかな場で、王冠も重いので少し疲れてきただけにございます。そう嘘をついた。

タツルスはそうか。グリソルそなた疲れたようだな。そろそろ下がると良いと言うとマサに向かって視線で合図するとマサがグリソルの側に寄り、さあグリソル様と声を掛けて、宴から退席するよう促すと豪華な婚礼衣装のせいで動きづらいグリソルを支えた。

マサの手を借りてグリソルが席から立つと、皆の視線が一気にグリソルに集中した。

マサの目配せに気づいた式典長が、グリソル様がご退席なさります。と声を上げた。

その声に参列していた人々が一斉に席から立ち上がり、グリソルに向かって深く頭を下げた。

グリソルはマサに促されて、壇上から降りると自分の館へと向かって王宮内の広間から歩き始めた。

皆、頭を下げてグリソルを見送っているが、頭を下げながらもグリソルの姿をちらりと好奇の目で見ている。

これからついにタツルス様の物になるのか。

タツルス様と初夜を迎えるのか。

いつ子に恵まれるのか。王子は産めるのか。

そんな聞こえない声がグリソルに押し寄せて来る。

思わずグリソルはその見えない圧に押されて、その場に倒れそうになってしまうが、何とか堪えてゆっくり一歩一歩歩いて行く。

心では足早にここから立ち去りたいが、豪華な婚礼衣装が自分の動きを阻み、また世継ぎの王子の妃という

身分になった以上振るまいにも注意しなければならない。

と、その時カキトナの姿が目に飛び込んできた。

皆と同じように一列に並び、深々とグリソルに向かって頭を下げている。

カキトナの前を通り過ぎる時、グリソルは思わずぎゅっと唇を噛み締めていた。

お互いに想い合っている人を断ち切り、これから愛していない人に自分を捧げるのだ。

グリソルは涙が溢れそうになるのを堪えて、王宮の広間からゆっくりと立ち去った。

タツルス様、グリソル様のお支度が整ったそうです。

どうぞグリソル様の館にお出ましください。

そう侍従が声を掛け、タツルスは自室でぼんやりと椅子に座り、もの思いにふけっていたが、その声に引き戻された。では参るとするかと侍従に声を掛けると侍従は黙って一礼した。

 

宴で酒を飲み過ぎたせいか。タツルスは自嘲気味に笑った。世継ぎの王子という立場の為秘密にしているが本当は酒があまり得意ではない。しかし宴の際などで飲むことが多いので、敢えて旨そうに飲んでいるが内心酒のどこが旨いのかとすら思っている。

母の妹の子である従兄のアソニジなど逆に酒のない生活など考えられないと言うくらいだ。

そして自分の母である王妃もアソニジに似て酒を好んでいる。

逆に父王も本当は酒が苦手だが、自分と同じように立場上酒を旨そうに演じて飲んでいるのもタツルスは気がついていた。

タツルスは姿形こそ母の王妃に良く似ているが、体質や物の考え方、食べ物の好みも実が父王に似ていた。その為か本当は母よりも父と気が合うが母の手前そこも上手く装って母とは接している。

食べ物の好みが合う者とは相性が良いと言うが、本当にそうなのだろう。タツルスは苦笑した。

母の王妃は背後に山脈が控える南で産まれ育ったからか、鹿や猪などの獣の肉と南の名産の熟成した酒など濃厚な味を好むが、父王は北やマルメルの国で捕れた塩漬けの魚や野菜など淡泊な味を好む。

父王が王子の頃は王宮にはタツルスの祖母で西だが南に一番近いクチトトの出身の王妃と、もう一人マルメルの王女の二人の妃がいたので、王宮はどちらかと言うと北やマルメルの風習が流行っていた。そのせいか父王はどちらかと言うと北と西、そしてマルメルに肩入れしていた。

なので父王はタツルスの妃にも北のバルスエの領主の娘のラオズスを、ラオズスが急な病で他界した後は西のパルハハの領主の姪のサアンゾを推していたが、結局王妃の推した東のザルハスの領主の娘であるグリソルに決まった。まあ父王も同じ東でも野心家のキクアラの領主を父に持つササミレには難色を示していたが、権力に興味のないザルハスの領主の娘であるグリソルを妃にするのは認めたのは父王と母の王妃の政治的な駆け引きがあったと推測される。自分達の息子の婚姻ですらお互いの都合のいいように駆け引きの道具に使う冷えきった両親の姿にタツルスは深いため息をついた。

そして自分もこれからその駆け引きの道具に選ばれてしまったグリソルを抱く。

しかもグリソルには心に秘めた男がいる事にタツルスは気がついていた。

今回の婚姻が決まり、タツルスは自分の妃となるグリソルについて秘かにどんな人物なのか探らせた。ザルハスの領主が権力に興味がなくほとんど王宮に来ないし、その娘であるグリソルも目立つ娘ではないので貴族の女の噂に精通したアソニジの口からもほとんど話題に上った事はなかった。

正式に婚姻が発表された後にアソニジにグリソルについて聞いてみたが、まあ美しいが、おとなしくて従順そうで特に面白味のない娘ですねとあまり関心がなさそうに言っていた。その後にやりと笑いながら、その分タツルス様が足を開けと言えば黙って従って足を開くでしょう。かと言ってタツルス様を悦ばせるような事をしそうな娘でもないので、グリソルとの閨は退屈そうですなとも言っていた。

まあアソニジの閨云々の評価は別としてもグリソルについての評価は皆似通っていて、美しく賢いが従順そうなおとなしい娘、父親のザルハス領主同様に欲のない娘。そんな評価しか上がってこなかった。

今回の婚姻が発表になった時にその場に居合わせた父王の妃の一人であるクノスクが秘かに動揺していたのにタツルスは気づいていた。そして異母妹であるホリナムが後日タツルスの部屋に秘かに訪ねて来て、お兄様とグリソル様が結婚すると言うのは本当なのですか?と尋ねてきた。そうだと答えるとホリナムは明らかに落胆していた。

クノスクが動揺して、ホリナムが落胆する相手と言えば、クノスクの甥であり、ホリナムの従兄である東のタスカナの領主の跡継ぎのカキトナか。

タツルスはカキトナの姿を思い浮かべた。やはり賢いが控えめな男だ。グリソルとは同じ東の領主の子同士で面識があるし、親しくしていたというのは容易に想像できた。きっとクノスクを通じて親しくなったのであろう。何となく二人の雰囲気は似ているし、グリソルは自分よりカキトナの妻となる方がしっくり来る。

しかし今回母である王妃の命に逆らえなくてグリソルは自分との婚姻を承諾したのだろう。

またカキトナも異論は言えず、黙って身を引いたのだろう。もちろんお互い立場を弁えた者達なので心と心を通わせ合っただけで、実際に肌を重ねた事はないだろう。

心に愛する男を秘めて、これから愛してもいない自分に抱かれる。

グリソルもカキトナも、そして私も皆哀れだな。

タツルスはそう想いながら、グリソルの館に向かって歩き出した。

 

 

タツルスはアソニジや南の領主や貴族の子弟達共に都の南に位置するオスハデ領の森に狩りに来ていた。

お付きの衛兵やそれぞれの侍従も含めると百人近くの者が参加する大規模な狩りだ。

本当は気心の知れたアソニジと少人数の供の気楽な狩りが良かったのだが、今回はそうはいかない事情があったのだ。

タツルスが大掛かりな狩りを催したのは、そうでもしなければアソニジを家から連れ出せなかったからだ。

今回は南の領主や貴族の子弟を招いての南の者達との交流という名目なのでアソニジも大手を降って参加していた。

タツルスとグリソルの婚儀が終わると今までタツルスの手前婚儀を控えていた貴族達が婚儀の話を本格的に進め始めた矢先、思いがけない出来事が起きていた。

東のザルドドの大臣の跡継ぎ息子であるカジグルが

大臣の位を継がないと言い、家から失踪してしまったのだ。王様にも目をかけられていた優秀な自慢の息子の将来に期待をしていたカジグルの父の大臣は慌てた。家を捨てて失踪しただけでなく、そして婚約者すら捨てて出て行ってしまったのだ。

おまけにカジグルの婚約者は王妃の姪で、タツルスの従妹でもあるクスハルである。そんな立場のクスハルを捨てて家を出るなど王妃に対する反逆と見なされてもおかしくはない。カジグルの父の大臣は青ざめた。

何とか手を尽くしてカジグルの居場所を突き止めて説得しようと使いを送ったが無駄に終わったそうだ。

タツルスが今回母の王妃の目の届く王宮内ではなく別の場所でアソニジと会う為に南の領主の子弟との交流という名目で狩りを行い、話せる場を設けたのは、

今回の騒動についてアソニジから詳しく話を聞くためであった。

アソニジはカジグルとも親しいし、タツルスが知らない情報も持っている。何か聞けるのではないか。

なので二人は狩りに来たのだが、狩りは他の者達に任せて、侍従も下がらせ天幕の中で二人きりで話をしていた。

アソニジは酒を片手に、タツルスは酒が苦手なので茶を片手に話しているが、お互い気心が知れた従兄弟同士で取り繕う必要もないので、タツルスもアソニジと二人きりで会う時は無理に装って酒は飲まないし、逆にアソニジも昼間から酒を飲んでいる。

どうだ?その後叔母上やクスハルの様子は?とアソニジに尋ねると、いやはや参りましたよ。アソニジは酒を片手に深くため息をついた。

母は感情的になってお前はカジグルと親しかったのになぜ気がつかなかったのか、思いとどまるよう説得できなかったのかと私に何かと理不尽なことを言ってきますし、妹は妹でわたしはカジグル様に捨てられてしまった。あの方の妻になることだけを夢見て生きていたのにと泣いていますしと心底参ったという顔をして見せた。

カジグルは臣下だが、カジグルの祖母はタツルスの曾祖父の王の娘で、父王にとっては血の繋がった叔母に当たる。タツルスとも遠いが縁続きの者と言える。

それでカジグルの行方は分かったのか?今どこにいる?アソニジに尋ねると、カジグルは北のバルスエにおりました。今は塩の女王の屋敷に匿われているそうです。そう顔をしかめながら答えた。

塩の女王の庇護下にいるのか。それはカジグルの父の大臣も、アソニジも母である王妃も迂闊には動けまい。

塩の女王のサオか。タツルスは一度だけ会ったことのある女の姿を思い浮かべてみた。

 

塩の女王と呼ばれているサオはバルスエの塩商人の妻だったが夫の死後、息子が成人するまで息子に代わって店を支えていたが、やり手の女商人で卓越した手腕でいつしかこのセルシャの国の塩の値は彼女によって決まると言われるほどの塩の売り買いは彼女に牛耳られていた。生活に必要でまたセルシャの国の良質な塩はマルメルやオクルスとも高値で取引され、彼女は巨額の利益を手にしていた。今は店は息子に継がせているが実質はサオが取り仕切っているのは誰の目にも明らかだった。そんなサオのことを人々は陰で塩の女王と呼んでいた。

塩の女王はカジグルが自分を頼ってくれたという事で大層喜んでカジグルを自分の屋敷に住まわせているそうです。それだけなくどうやらカジグルは布を扱う商売を始めたいと言っているそうで、塩の女王はその資金として大金を与えたとか。

塩の女王の異名を持つサオは女ながら、このセルシャの国の塩相場を牛耳っている女傑だ。生活に欠かせない塩の値と流通量は彼女によって支配されているのだ。

元は北のバルスエの小さな塩屋の女将であったが、いつしか天性の商才と卓越した交渉力と並外れた度胸で、並み居る北の塩商人達を出し抜き、マルメルの塩商人の元締めから独自に塩の販売の独占権を得て、そして最大の塩の輸出国であるマルメルからの塩の貿易を一手に引き受け、巨万の富を手にした。

現在は息子にその座を譲ったと言われているが、実は影で今でもセルシャの国の塩相場を牛耳っているのは

彼女だ。皆サオの事を影で塩の女王と呼んでいた。

バルスエにあるサオの邸宅はまるで要塞のような堅固な建物で中はまるで王宮のように豪華だと聞く。

邸宅には王宮の衛兵さながらに何十人もの護衛を抱えている。今は戦のない平和な王宮の衛兵よりも荒くれ者達の中から特に腕に覚えのある者を選りすぐったサオの邸宅の護衛達の方が荒事には慣れている。

カジグルの父大臣や王妃の使いをサオの邸宅に差し向けたが皆ことごとく退けられたそうだ。

アソニジは大きくため息をつくと、カジグルの父上から昨日我が家に使いが来てもうカジグルが戻ってくる気配がないのでカジグルを廃嫡にして弟であるマグトナを大臣家の跡取りにして、クスハルを妻に迎えたいと言ってきたのですよ。まあカジグルの父上の提案は

王妃様の面目を潰さないので良いと思いますが、いかんせんクスハルがこの期に及んでまだ私はカジグル様の妻になりたいと泣くので私もほとほと困っているのですよ。とこぼした。

アソニジは急に声を潜めると、まあ我が妹の事ですが元々カジグルとは釣り合いが取れないと私は内心思っていましたからね。あの男をクスハルがとても昼も夜も満足させられるとは思っていませんでしたからね。

とニヤリと笑った。

確かに頭の回転が早く切れ者のカジグルと夢見がちでのんびりとしたクスハルでは話が合いそうもないし、女性経験が豊富なカジグルを深窓の令嬢で生娘のクスハルが満足させられるかと言うと難しいだろう。

まあクスハルも一日も夢から覚めてマグトナと夫婦になった方が幸せになれると思いますよ。マグトナとは似合うでしょうからとアソニジは言うと、思い出したように、そうそう。似合いの夫婦と言えばカキトナが妻を迎えるそうです。相手はタツルス様がお選びにならなかったササミレですよ、とまたニヤリと笑った。

その言葉にタツルスは苦笑いした。タツルスが選ばなかったのではなく母の王妃が一方的に当初は目を付けて、タツルスとササミレがお互いに想い合っているような噂を流しておいて、そして自分にとって不都合になったので切り捨てただけだ。そもそも自分は特にササミレに対して何の感情も抱いていなかった。

婚姻前にタツルス様とお気持ちを交わしあった仲なのでとても恐れ多いと誰もササミレに結婚を申し込まなくなってしまったそうで、このままでは一生独り身で過ごさなくてはならないのを憐れんで、まあ同じ東の領地同士という事もあってカキトナが妻に迎えると決めたようですよ。カキトナも優しいですからね。と言うと、同じ東の者同士で似合いそうですから。

まあそれにタツルス様とのお噂がなければササミレもパルハハの領主の姪のサアンゾと人気を二分するこの国の適齢期の貴族の娘でしたからね。ササミレを妻に迎えたいという者はあまたおりましたから、カキトナにとっては今回の件は漁夫の利でしたねとアソニジはまたもやニヤリと笑った。

残念ながらタツルス様に選ばなかったサアンゾも西のキヌグスの領主の跡取りのクメルアとの婚姻話が近々纏まるとか。こちらも同じ西の者同士ですし、クメルアはサアンゾに惚れ込んでいたのでサアンゾが子が授からない身体でも良いと言い張ったそうですよ。

クメルアには優秀な弟もいますから跡継ぎの問題は解決しそうですからねと言うと、タツルス様はサアンゾとササミレ。我が国の二大美女を振っておきながらグリソルを妻に迎えましたからね。さぞやグリソル様はタツルス様をご満足させているのでしょうね。

実はああやって普段は大人しく控えめに見える女が寝台の中では豹変して、情熱的に振る舞ってタツルス様を魅了しているのでは?世継ぎの王子様のご誕生も近いのでは?とアソニジは冗談を装いながら何か探るように尋ねてきた。

つまりグリソルとの事か。タツルスは心の中でため息をついた。

母の王妃も南の者達もアソニジの従妹が一日も早く成長して妃としてタツルスの元に嫁ぎ、そして世継ぎの王子を産んで次の王妃になる事を望んでいるが、もしグリソルがタツルスの寵愛を受けて先に王子を産んだら状況は変わってくる。それを警戒しているのだ。

残念ながらタツルス様に選ばなかったサアンゾも西のキヌグスの領主の跡取りのクメルアとの婚姻話が近々纏まるとか。こちらも同じ西の者同士ですし、クメルアはサアンゾに惚れ込んでいたのでサアンゾが子が授からない身体でも良いと言い張ったそうですよ。

クメルアには優秀な弟もいますから跡継ぎの問題は解決しそうですからねと言うと、タツルス様はサアンゾとササミレ。我が国の二大美女を振っておきながら

グリソル様を妻に迎えましたからね。さぞやグリソル様はタツルス様をご満足させているのでしょうね。

実はああやって普段は大人しく控えめに見える女が寝台の中では豹変して、情熱的に振る舞ってタツルス様を魅了しているのでは?世継ぎの王子様のご誕生も近いのでは?とアソニジは冗談を装いながら何か探るように尋ねてきた。

つまりグリソルとの事か。タツルスは心の中でため息をついた。

母の王妃も南の者達もアソニジの従妹が一日も早く成長して妃としてタツルスの元に嫁ぎ、そして世継ぎの王子を産んで次の王妃になる事を望んでいるが、もしグリソルがタツルスの寵愛を受けて先に王子を産んだら状況は変わってくる。それを警戒しているのだ。

タツルスはグリソルは昼は私の妃としての役目をきちっと果たしてくれているので満足はしているよ。夜はセルカイ始め他の者達がグリソルの代わりに私を充分満足させてくれているから、グリソルの館には夜はあまり訪ねていないなと素っ気ない風を装って言うと、さて、そろそろ私達も本来の目的の狩りに出ようではないか。と言うと、アソニジ。お前の夜の狩りの評判は耳にしているが、果たして昼の狩りの腕前はどれほどなのか見せてもらおうではないかとタツルスも仕返しのようにアソニジに向かってニヤリと笑い掛けた。

その声にアソニジもニヤリと笑うと、タツルス様。

それでは私の狩りの腕前を得とご覧に入れましょう。と芝居がかった声をあげて、二人は連れ立って天幕の中から外に出た。

 

 

グリソル様。タツルス様がおみえになりました。

そう侍女に声を掛けられ、グリソルは手にしていた本を慌てて閉じた。

今晩もいつものように独りの夜だと思っていたので、グリソルは昼は結い上げている髪も下ろして夜衣の上に衣を羽織り眠くなるまで自分の書斎で本を読んでいたのだ。

こんな時間にタツルス様が?今日の狩りで何かあったのかしら?

タツルスがアソニジや南の貴族の子弟達と大掛かりな狩りに出るとはタツルスの侍従から聞かされていた。

タツルスが急にこんな夜に自分の館を訪ねて来る事などめったにない。タツルスが自分の館を夜に訪ねて来る日はあらかじめ朝にタツルスの侍従が使いに来て伝えて来ていた。

慌てて側に控えていた侍女長のマサにすぐにお迎えの支度をと声を掛けると、マサはタツルス様はそのままで良いのでと仰って既にグリソル様の寝室でグリソル様をお持ちでございますと一礼した。

タツルスを長く待たせる訳にはいかないので、グリソルは慌てて、そのままの格好で自分の寝室に向かった。

寝室の扉を侍女が開けるとそこにはタツルスが一人立ってグリソルを待っていた。

お待たせ致しました、タツルス様。今日の狩りはいかがでございましたか?と敢えて笑顔で声を掛けた。

本当は何かあったのでございますかと尋ねたいが、それは侍女達の手前、そう単刀直入には尋ねられない。

マサと侍女達が机の上に茶の用意を整えると一礼して静かに下がっていった。

タツルス様、どうぞお召し上がり下さい。そう言って茶を勧めながらタツルスを席に促した。

何か話があるのだろう。

タツルスはああと言うと席に着き、グリソルの勧めた茶を口にすると、今日の狩りでカキトナが婚儀を上げる事になったと聞いた。そう告げた。

カキトナ様が妻を。

その言葉を聞いた途端、グリソルの心は小さく疼いた。カキトナも領主の跡継ぎだ。妻を迎えて子を設けるのは領主の跡継ぎの大切な役目だし、自分はもうタツルスの妃でカキトナと結ばれる事は決してない。

いずれそういった話を聞く日が来るとは覚悟していたが、こんなに早く決まったのか。

相手は同じ東のキクアラの領主の娘のササミレだ。

敢えてタツルスは一度自分と恋仲の噂のあったササミレをまるで知らない者のように名を上げた。

ササミレ様が、カキトナ様と。

グリソルはササミレの笑顔を思い浮かべていた。

二人それぞれの本心は分からないが、グリソルとてタツルスとササミレが恋仲だったという噂は知っている。

タツルスと噂のあったササミレがカキトナの妻となり、カキトナを想い、カキトナも自分に想いを寄せてくれていたであろうが、結局自分は逆らえずタツルスの妃となった。もし自分の隣にカキトナがいて、そしてタツルスの隣にはササミレがいれば。ふとそんな事をグリソルは想ってしまった。

東の者同士なので似合いの夫婦になるであろう。

そこでグリソル。そなたは東の出で二人共親しいそうなので二人が喜びそうな祝いの品を選んで欲しい。

何が良いか決まったら私の侍従長に伝えてくれ。

手配させよう。そうタツルスは告げた。

それを伝える為にタツルスはこんな時間に自分の館を訪ねて来たのか。グリソルは納得がいった。

承知致しました、タツルス様。お二人が喜びそうな品を考えてみますと笑顔を返した。

グリソルの返事にそうかとタツルスも笑顔を向けるとタツルスは椅子から立ち上がった。

用も終わったのでタツルスは自分の館に戻るのだろう。そうグリソルは思っていると、さあとタツルスが自分に向けて手を差し伸べてきた。

つまり。今晩はそのまま?

グリソルは小さく息を飲むとタツルスに手を取られてそのまま寝台に横たえられると目を閉じた。

タツルスの手が自分の夜衣をゆっくりと脱がしていくのを感じながら、瞼の裏にカキトナの姿を思い浮かべていた。

 

 

全くそなたは何をしているのだ!

 

王妃の厳しい叱責の声が響き、その場に居合わせた者達が皆身を竦めた。タツルスの妃で元王宮の侍女であるカトハルは侍女であった時にも王妃に厳しく叱責された事があるようでその声にびくっと身をすくませていた。

グリソルは王妃に向かって深く頭を下げ、申し訳ございません王妃様。私が至りませんでした。ととりあえず王妃の怒りを沈めようと詫びの言葉を口にした。

明らかに王妃の叱責は八つ当たりだ。

けれどとりあえずこの場は自分が詫びて何としても場を収めなければいけない。

それに王妃様が不機嫌なのにも自分も非があるからだ。いつまで経ってもタツルス様の子を宿していない。

グリソルはそう思うとぎゅっと唇を噛み締めた。

グリソルがタツルスの元に嫁いで1年後にタツルスの祖母である先の王妃が逝去した。その為喪が明けるまで王族は婚姻を控え、それに倣って貴族達も皆婚姻を控えていた。

ようやく喪が明けて一時はタツルスの妃候補に名が上がっていた西のパルハハの領主の姪のサアンゾが同じ西のキヌグスの領主の跡継ぎのクメルアと結婚したが、結婚して数ヵ月で早々と子を宿したという話が王宮に伝わった。恐らく話の出所はパルハハの領主かキヌグスの領主、もしくは他の西の貴族であろう。

貴族達や王宮に使える者達が皆最近囁いているという話はグリソルにも伝わっているぐらいなので、きっと王妃の耳にも既に入っているのだろう。

王様はサアンゾをタツルスの妃にと推していたが、王妃が自分の息の掛かった王宮の薬師にサアンゾが昔掛かった熱病が元で子を望めない可能性が極めて高いと言わせた為にサアンゾはタツルスの妃候補から外されたが、その結果と真逆でサアンゾはクメルアに嫁いですぐに子を身籠ったのだ。おまけに薬師の見立では腹の子は順調に育っているらしい。

サアンゾ殿と言い、ササミレ殿と言い、王妃様が退けた娘達は皆早々と子を身籠もったのに、王妃様が選んだグリソル様は一向にタツルス様のお子を宿す気配がないではないか。おまけに兄妹が七人もいる多産の家系のカトハル様もまだお子を宿していない。

特にササミレ様はタツルス様とお互い想い合っていたのに王妃様に引き離されてしまったが、カキトナ殿の元に嫁いですぐに身籠って元気な男の子の双子を産んだではないか。このセルシャの国には双子の王子が産まれた時にはセルシャの国は一番栄えて王子は世に名を轟かす名君になると言い伝えられているが、もしササミレ殿がタツルス様の妃となって双子の王子を産んでいたらどれだけ良かった事か。

こう言っては何だが王妃様は人を見る目がないようだ。ご自分の身内の南ばかり贔屓されているが、このままではタツルス様にお子が恵まれなくていずれ王座はサジカル様に譲られてしまうかも知れない。

サジカル様はお人柄は良いが、いかんせん母上が貴族ではなく元侍女だからな。王妃様はご自分の欲で王家の正統な血筋を絶やそうとなさっている。一国の王妃様にあるまじき行為ではないか。

タツルスには二人の異母弟がいるが、それぞれの生母は元王宮の侍女で貴族ではないし、それぞれ西の領地の出身である。

もしタツルスに王子が恵まれなかった場合は弟であるサジカルに王位は継がれるが、そうなれば西と親しい北の領地が王宮での覇権を握る事になるだろう。

王妃としてはその点でも焦っているのだろう。

グリソルは深々と頭を下げて謝ったが、王妃の怒りには益々火が付いたようだ。

グリソル。そなた今までいったい何をしていたのだ!

タツルスの妃となって三年も経つのにタツルスの子も宿さず、それならばせめてタツルスの妃として王宮の行事を取り仕切るのが世継ぎの王子の妃の大切な役目であろう。それがオクルスからの使者を迎える宴席で舞う予定の舞姫が逃げたなど言語道断だ!なぜそんな一座に舞を任せたのだ!

そなた、この宴席がどれほど重要なのか分かっておるのか!

王妃が烈火の如く怒っているのは、オクルスの使節をもてなす酒宴で、最近巷でこのセルシャの国一の美貌と舞の優雅さを兼ね備えたとの呼び声も高い舞姫のセシのいる一座を呼んだのだ。

今回の使節の主賓は世継ぎではないがオクルスの王子で、美女には目がないと評判の彼をもてなすにはセシを舞わせればとなり、今回白羽の矢が立ったのだ。

さすがに酒宴に参列するとは言え身分の卑しい者達を王宮に置くことは警備の問題がある。

そこで今回セシの一座を呼ぶ事を強く勧めた南のホルトアの領主の都にある館に一座は滞在していたが、酒宴まで残り五日となった今朝、セシは文を残し突然一人館から去ってしまったのだ。

 

セシの文には自分は舞姫として所望されればいくらでも舞は舞うが、どんなに貴い身分のお方でも愛してもいない男に身を任せる事はできない。

ましてや自分は心に秘めたお方がいるのだから。

といった事が書かれていたそうだ。

どうやらホルトアの領主の館に着いてオクルスの王子を舞以外でももてなせと暗に愛していない男に抱かれる事を強要されたセシは悩んだ末に幼い頃から世話になった一座を捨てて去ったのだ。

王妃はそこにいないセシに向かって怒号を浴びせかけた。

まったく身分卑しい舞姫のくせにいったいこの期に及んで何を言っているのだ!

今までも散々春を売って男に媚を売って生きてきた者のくせに!恐れ多くもオクルスの王子様がお前ごときを寝所に招くとは思えんし、まして一夜のお戯れでも

お側に侍らせて頂くだけでも光栄の限りなのに!

そんなお前が心に秘めたお方がいるのでだと。

笑わせるにも程がある  

そう言うとばしんと強く机を叩いた。

グリソルはその音と王妃の怒りの衝撃の波に思わずぎゅっと拳を握ってしまった。そしてそっと唇を噛み締めた。

 

舞姫は大抵幼い頃に一座に預けられ、家族同然に生活を共にして芸を磨いていく。

もし一度世話になった一座を無断で離れれば、もう一座の掟で元いた一座には戻れないし、他の一座も同様に他の一座から逃げてきた者を仲間として雇う事はない。セシの舞姫としての命運は尽きたも同然で、これから生きていくにはそれこそ春を売って生きていくか、それができないのならば貴族や裕福な商人の屋敷の下働きの者として、今までのように歌や舞といった華やかな世界とは無縁にその美しい手を冷たい水に去らし、働いていかなければならない。

身分卑しい者とされているセシは自分の恋心を守る為に全てを捨てたが、それに引き換え自分は心には今も秘かにカキトナが生き続けているのに、自分は身分に逆らえずタツルスの妃となり、タツルスに夜毎抱かれている。

グリソルは立場に囚われて心のままに振る舞えない自分を省みて俯くと、王妃の叱責に顔向けできないと思ったのか、それまで黙ってグリソルの傍らに座っていたレナミルが小さいがはっきりとした口調で、王妃様。僭越ではございますが、今回は舞の代わりに私がオクジュを演奏して、私に仕える者で数名楽器を嗜む者達がおりますので、ささやかですが皆と一緒に合奏でオクルスの使節の皆様達をもてなしたいと存じます。

そう告げたのだ。

その言葉に王妃は急に笑顔になると、そうか、レナミル。そなたはオクジュの名手であったトバの弟子であったな。それならばさぞ美しい音色を聴かせてくれるであろう。さすれば宴席も華やかに、そしてより格調高くなるであろうと満足げに大きく頷いた。

レナミルは三ヶ月前に新しくタツルスの妃の一人となった娘で、王妃の姻戚の南のオスハデの貴族の娘である。レナミルの母とタツルスの叔母で王妃の妹であるクルグルの夫が兄妹である。その為タツルスとレナミルは血は繋がっていないが、姻戚で幼い頃からお互いを知っており、また王妃がレナミルを将来の王妃にと考えていた事は周知の事実だ。

王妃は先ほどと一変してレナミルに笑顔で、レナミル。曲は何を演奏するつもりなのだ?と問うとレナミルは数曲曲目の名を上げたが、どれも難曲とされる曲だ。急に合奏しろと言われてもすぐに演奏できない曲だ。きっと表には表さずに周到に準備していたに違いない。レナミルは何かあった際にと思い、秘かに準備をしておりましたが、まさかこのように急にとは思いませんでしたと控えめに微笑んで見せた。

そして王妃様。今回の事は酒宴を任されていたとは申せ、セシが勝手に逃げたのでグリソル様には非はございません。ささやかではございますが、宴席が華やかに和やかに進みます様、私の力の限り務めますので、ここは私に免じてお怒りをお納めくださいませ。

その言葉に王妃はちらりと冷たくグリソルを一瞥すると、今回はレナミルに免じて許すとしよう。

そう言うと、大きく芝居ががった大きなため息をつくと、まったくそなたは何年この王宮にいるのだ。

それに引き換えレナミルはこの王宮に上がってたったの三ヶ月だぞ。まったく人には人の器があるのだなと言うと首を横に振った。

こうやって王妃は何かとレナミルを持ち上げ、レナミルがいかに将来の王妃の器かと吹聴して回るのだ。

しかし当のグリソルは自分は王妃になぞなりたいとなど露ほども思っていない。願うならばさっさとレナミルを次の王妃にすると正式な命を出して欲しいくらいだ。さすればこんな茶番劇は起こらないのだ。

しかし王妃がどれだけレナミルを王妃にと望んでも、王様はレナミルもグリソルも貴族の娘である立場は変わらず、グリソルの方が年長だ。タツルスの子を、そして世継ぎの王子を産んだ方が王妃に相応しいと述べており、肝心なタツルス自身も父である王様と同じ意見である。

そんな時だった。

王妃の自室の扉が数回叩かれた。そして扉が開き、扉の外に控えていた侍女が恭しく頭を下げると、

王妃様。タツルス様が宴席の件でお見えでございます。と伝えると

おお、タツルスが参ったか。通しなさいと侍女に声を掛けると扉が開き、自分の侍従を数名引き連れたタツルスが中に入ってきた。

グリソルとレナミル、カトハルは席を立ち、タツルスに向かって深く頭を下げた。

今回の酒宴は王妃が主催という名目であり、タツルスの妃という事で宴の手配の一部はグリソルにも任されていて、もう一人のタツルスの妃という事でカトハルもグリソルの手伝いをするが、まだ王宮に上がって間もないレナミルには特に役目は与えられていなかった。

タツルスの元にもセシの失踪の報は伝わったのであろう。タツルスも心配して王妃の元にやって来たようだ。

母上、宴の余興ですが。そうタツルスが王妃に声を掛けるとああ、タツルス。安心するが良い。

レナミルがオクジュを弾いてもてなすそうだ。

お前も知ってのとおり、レナミルはオクジュの名手と名高いトバに弟子と認められた腕前の持ち主だ。

きっと使節の方々もお喜びになるであろう。

卑しい舞姫の舞と違い、我が国の品位の高さも示せる。むしろ我が国にとっては良かったやも知れないな。

と言うと、タツルス。レナミルに感謝なさい。レナミルは何かあった時の為に準備していたのだと、まるで自分の事のように得意気に微笑んだ。

そんな王妃に向かってタツルスはそうですかと微笑むと、レナミル。今回の宴の余興だが父上は最初からセシの舞ではなく我が国の北に伝わる剣舞をお見せしたいと仰っていたのだが、宴の件は母上に全て任せていたので父上も敢えて口を挟まなかったのだ。まあ今回の件はホルトアの領主が強く勧めてきたというのもあったしな。されど今回はこんな事になってしまったので、北の剣舞をお見せして、レナミル。そなたもそこに華を添えるべく一二曲、そこで披露してくれまいか。そう告げたのだ。

つまり宴席では北の剣舞を主として、レナミルの演奏はあくまでもそれに華を添えるという事だ。

その言葉に王妃は何を言うのだ、タツルス!と慌てた声を上げたが、グリソルは思わずちらりとレナミルを見つめたが、当のレナミル本人は承知致しました、タツルス様。と笑みを浮かべて頭を下げた。

王妃は北の剣舞だと!とまだ声を荒げていたが、タツルスはそもそも今回セシが失踪したのはホルトアの領主かホルトアの領主の側近くに仕える者がセシにサカタリ様の夜のお相手を務めるように言ったからだとか。今回の件を我が国とオクルスの面目を潰さず上手く片付けるには北の力を使いましょう、母上。そう告げられると王妃も何も言えない。悔しそうに黙って小さく軽く頷いた。

幾分場の緊張がほどけたと思ったらタツルスが思い出したように、ああ、グリソル。先ほどそなたの館に寄って宴の際にそなたが着る衣と飾り物を侍女に言って見せてもらったが、あれはいけない。そうグリソルに言ったのだ。

今回の宴様にグリソルは新しく誂えた淡い緑の絹の衣に同じ濃い緑の帯を締めて、それに合う銀の髪飾りと首飾りを付けるつもりであった。他国からの賓客をもてなすのに失礼はないはずの服装である。何がいけないのだろう。グリソルは少し困惑した表情でタツルスを見つめると、グリソル。そなたの衣と飾り物は控えめ過ぎる。そなたは私の一番目の妃であるのだから

酒宴では私の隣の席に座るのだ。もっと世継ぎの王子の一番目の妃として華やかに装うのだ。そう告げた。

その言葉に一瞬だけレナミルの表情に怒りと戸惑いが浮かんだのをグリソルは見逃していなかった。

しかし直ぐ様レナミルは何もなかった様にまた淡い微笑みを浮かべて黙ってグリソルの傍らに座っていた。

タツルスは自分の側に控えていた二人の侍従を呼ぶと彼らが手にしていた箱を開けさせた。

そこには所々金糸で刺繍が施された美しい淡い紫の絹の衣と同じように純白の細めの絹地に金糸が織り込まれた帯と、繊細で可憐な金細工の髪飾りと首飾り、そして揃いの耳飾りに腕飾りまでついていて、それはまるで婚儀の宴の時に身につける飾り物のようである。

これは。思わずグリソルは驚いた声を上げてしまい、同じようにやはりその場にいたカトハルやその場に居合わせた侍女達も皆一様に感嘆のため息を漏らしていた。

タツルスはそんなグリソルに大きく頷くと、控えめなそなたの事だ。きっと今回も礼は欠かさない程度の控えめな衣と飾り物を用意すると思って、私も秘かに準備させておいたのだ。やはり役に立ったなと先ほどの王妃の言葉に当て付けるように言った。

そして母上、レナミルは王宮の道理を弁えた賢い妃です。自分より先に私の元に嫁ぎ、年長のグリソルを敬い、宴の席では私の隣の席にはグリソルが座ると分かっているのでしょう。そうだな、レナミル?と笑顔をレナミルに向けた。

そう言われると王妃は悔しそうに唇を噛み締め、レナミルは、はい。タツルス様。仰るとおりでございます。宴では私よりグリソル様がタツルス様の隣の席に座るべきでございますと笑顔のまま答えた。

そこに居合わせた者達は、タツルスはレナミルよりもグリソルをお気に召していると思ったようだが、グリソルはタツルスの本心が透けて見えていて、そっと目を伏せた。

タツルス様はレナミル様よりも私を愛していらっしゃるのではないのに。

 

ふとある時であった。何気ない会話の流れからであったが、思わずグリソルはタツルスに、タツルス様はご自分のお母上である王妃様をお嫌いなのですか?と自分の立場も弁えず尋ねてしまった事があった。

しかしその問いにタツルスは特別気を悪くするでもなく、私とて人の子だ。もし母上がご自分の出身の南ばかり贔屓しなければ母として普通に慕えたであろう。

しかし私は母上の息子であるより先にこのセルシャの国の世継ぎの王子だ。母上が南ばかり贔屓するのであれば母上との接し方を改めなければならない。そう淡々と告げたのだ。

グリソルとて王妃の度が過ぎた南ばかり贔屓する態度には感心はできないが、然りとて王妃とて南の期待を一身に背負わされて王宮に上がったに違いない。

自分ももし父や周りの東の貴族達が同じように野心家揃いであったならば、同じように東の繁栄の期待を一身に背負わされて王宮に上がったであろう。

そう思うと王妃を、そして同じように王宮に上げられたレナミルを憎めなかった。

そしてそれ故にタツルスは表面上丁重に扱っているが、王妃の息の掛かったレナミルを内心快く思っていないのだ。

タツルスには今三人の妃がいる。自分とレナミル、そして侍女出身のカトハルだ。平民であるカトハルが貴族の娘である自分やレナミルを差し置いて王妃の座に就く事は決してない。

そして王妃の望みどおりにレナミルが次の王妃に決まり、益々南がこの王宮で、この国で権力を握るのを阻止する為にだけ自分をレナミルより大切に遇するのだ。

ある意味自分を利用しているタツルスと他の人を心に抱いてタツルスの側にいて抱かれている自分。

こんな私達の間には。

そう思い、グリソルはそっと目を伏せた。

オクルスの王子であるサカタリを主賓に迎え、セルシャの国の王宮では華やかな歓迎の宴が催されていた。

オクルスからの使節を迎え、王族の者の他に各領主と領主の奥方、領主の跡継ぎや貴族達が参列していた。

グリソルはその人の多さと熱気と、そしてタツルスの一番目の妃として乾杯として少し盃を重ねて過ぎてしまったのか、軽いめまいを感じた。

グリソルが軽く目頭を右手で覆ったのに素早く気がついたグリソル付の侍女長のマサは、周りに気がつかれないような囁く声でグリソル様、いかが致しましたか?と尋ねてきた。

グリソルは慌てて大丈夫よ。少し酔ったようで。と答えると、マサはさりげなくグリソルに風に当たれるよう宴の席をさりげなく立つよう促した。

隣の席に座っていたタツルスはサカタリの隣の席に移り、なにやら盃を片手にサカタリと談笑している。

グリソルは静かに黙って席を立った。

ふっと斜め後ろに座るレナミルの視線を感じて、酔ってしまったのでと申し訳ない表情を浮かべると黙ってレナミルに向かって軽く頭を下げた。レナミルはそれに黙って微笑んで見せた。

周りの者達も各々オクルスの使節や各領主と談笑していて、グリソルが退席したことに気を止めている様子の者はいなかった。

グリソルはマサに伴われて宴が繰り広げられている大広間から庭園へと歩いて行った。

あの人いきれのする大広間から外に出られて、新鮮な空気を吸えてグリソルは安堵したように大きく息を吐いた。

 

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