町田 千春 著 |
刺繍師 その1 TOP |
刺繍でいちばん大切なのは、相手のことを想って、一針一針心を込めて刺すのよ。
どうしたら母さんみたいに刺繍が上手になれるのと聞いたわたしに母さんはそう微笑みながら、慣れた手つきで一針一針、布地に色糸を刺しながら答えてくれた。
このことで母さんは父さんとの結婚を許され、父さんとの間にトナと妹、弟たちが産まれた。母さんの所には、それにあやかって近隣の村々からここぞという時に使う帯に刺繍を刺して欲しいという頼みがひっきりなしに来るのだ。そのおかげでトナの家は、豊かではないにしても日々の食事に事欠くことはないし、トナも弟のトジもエジも隣村にある学舎に通えて、文字も読めるし、計算もできるようになった。
そんなトナだからも小さい頃から、母さんの傍らに座り、母さんが刺繍を刺していくのをずっと見ていたし、遊び道具と言えば注文の品の布の切れ端や余り糸で、学舎に通って文字を習う前よりも先に、母さんに習って刺繍を始めた。成長するにつれ、母さんから、周りからも何度も聞かされた話はいつしかトナの夢と憧れになっていた。いつかは母さんのように刺繍が上手になって、そのおかげで好きな人と結ばれて、母さんみたいに村の娘みんなが憧れる父さんみたいな優しい素敵な人の嫁になるのだ。
そう、取り分け美人でも金持ちでもない。おとなしくて目立たない母さんが、若い娘たちの憧れの的だった父さんと結ばれたのは、一枚の刺繍の帯のおかげだったのだ。それは母さんの父さんを想う気持ちの込められた刺繍の帯だった。
どうか、あの人の病が治りますように。神様、どうかお願いいたします。この願いを込めた帯を捧げますから。どうかあの人が前のように元気になって、自由に歩けるようにしてください。どうか、どうかお願いいたします。
冬が近づいているセルシャの秋の風は冷たい。特にこのオリヅの村には、モグスの森からの冷たい風が容赦なく吹き付ける。人々は風の冷たさに身をすくませ、足早に今いる場所から立ち去っていく。そんな冷たい秋の風の吹く中でセルシャ王国の東のタスカナ地方に位置する田舎の村のオリヅで一人の娘が一心に村外れの小さな古ぼけた神殿の冷たい地面に座り込み、必死に祈っていた。
娘の名はエダという。
エダが秘かに愛している村一番の若者クナは、男らしい引き締まった体躯を持ち、勇敢で働き者の心優しい青年だ。エダとクナの住むオリヅの村は、豊かなモグスの森に近い田舎の村だ。村人たちは、主に油の原料となる黄色いマルハルの実をモグスの森から採ってきたり、実から油を取ることを生業としている。 領主様のいる領都のタスカナの町は、オリヅや近隣の村のダルサ、カナタ、スセリ、サエダなどから採れたマルハルの油を商って豊かになっていった町だ。町にはたくさんの油屋がある。マルハルの油の産地の中でも特にオリヅのマルハルの油は灯りに使うにはセルシャの国一、質がいいと言われている。少しの量でも何時間も暖かく長持ちするのだ。
このタスカナの地では、遠い北の港町のトクミのように刺繍が得意な娘は誰からも嫁に来て欲しいと言われるような土地柄でもなく、年に一度のタスカナの祭りで、派手に着飾って目当ての男に声をかけれるような娘でもない。
そんなエダなので、クナの記憶には同じ村のおとなしい娘とだけとしか残っていないだろう。エダが刺繍が得意なのも知らないだろうし、そもそもエダには特別な関心はないだろう。顔を合わせた時に声をかけてくれるのは、クナはただ優しい人だからだろう。
熱が引いて意識は戻ったのだが、未だに起き上がれず、床についている。タスカナの地ではこんな冬も近い寒い秋に熱病にかかることはなく、薬師も何が原因なのかまったく分からず、自慢の息子を持つクナの両親だけでなく、村の娘たちも皆悲嘆と涙にくれていたのだ。
元気で壮健なクナが突然原因不明の病で倒れたので、村人たちの間ではいろいろな噂が囁かれていた。クナの取ったマルハルの実は、えらく高い値がついたそうじゃないか。それを妬んだ者の仕業ではないのか?いいや、違うらしい。
月に一度、領主様のいるタスカナの町には市が立つ。タスカナの町には油屋は多いが、市には遠く離れた町や村から、この辺りの村々では取れない作物や手に入らない物が並び、近隣の村々から人々が集い、活気と喧騒に溢れている。そのため、ここでは村の噂話で盛り上がるのだ。
市に糸を買いに来ていたエダは、糸屋で糸を手に取り選んでいたが、どこからともなく耳に入ってくる噂を聞いて、ぶるぶると震えてきた。秘かに想っているクナが原因不明の熱病で倒れて、まだ起き上がれずにいると聞いていて、エダもクナを想って心配と悲しみで毎晩枕を涙で濡らしていたが、まさかそんなことだったのか!誰かがクナを妬んで恨んで、それであんな元気だったクナは急に原因不明の病にかかったのか。
パチン。
どうしたんだい、顔が真っ青じゃないか。好きな男の身に何か悪いことが起こったんだね。ふいに横から低い女の声がした。思わずその声に導かれるようにエダが視線を送ったその先には、漆黒の服を着た棒のように細い年老いた女が立っていて、手にはエダと同じように数色の色糸の束が握られていた。
見たことのない女だ。ここは狭い世界だ。タスカナの周囲の村々の人のことは、おとなしく社交的でないエダでも、だいたいの村人の顔や母親と伯母や村の女たちの日々のおしゃべりでその人たちのことは耳にして知っているし、毎月この市に店を並べる商人たちもほとんど顔ぶれは変わらない。そもそもこんな老女がいったい何を商っているというのか。
伝説のカナジュの鳥は、数千年生き、高いところからこの世のすべてを見ている。この世の何もかも、そう良いことも悪いこともすべてを見通しているカナジュのような鋭さと、遠い昔からの叡智を全て知っているような賢さ、一度はまったら二度と抜け出せないモグスの森の奥の深い沼のような得体の知れないものが潜んでいるような不思議な目をしていて、エダはそんな目を持った人に今まで出会ったことがなかった。
このタスカナで一番賢いと言われている、そう都の難しい試験を通り、見事王宮の事師に選ばれたカナタ村のドサや、病気や薬の知識を持つ薬師のスガや、手広く商売をして稼いでいるタスカナの商人頭のタネ。そしてめったに会わないが、祭りなどで目にするタスカナの領主様。エダの周りで賢いと言われている誰もこんな目をした者はいない。
それよりもなぜこの女は、好きな男の身に何か悪いことが起こったんだね。と言い当てたのか。もしかしたら、この老女こそが人々が噂している魔術師なのかも知れない。エダは驚きと幾分かの恐怖の混じった目で女を見つめ返した。ただ今、自分の目の前に、愛するクナを助ける術を知っているかも知れない人がいるのだ。
セルシャの人々は何か悪いことがあった時は、誰かが魔術師に金を払って自分に呪いをかけたなどと冗談で言うが、実際に魔術師に会ったことがある者の話を、エダは聞いたことがない。そもそも魔術師は、伝説のカナジュの鳥のようにおとぎ話でしかないのかも知れない。
この国では昔、南のオクルスから優れた薬学の知識が伝えられ広まり、今ではどんな小さな領地の村にでも必ず薬師がいる。男の子が産まれたら薬師になれば必ず食うに困らず生きていけるだの、どんなに見栄えの悪い男でも薬師のところには嫁が来ると、冗談で人々が口にするくらい生活に薬学が根付いている。それに伴い病を魔術で病を治すとしていた魔術師を名乗る者は迷信で人々を惑わすと処罰されて今ではこのセルシャの国では見たことがない。
しかしセルシャの民は皆、カナジュの伝説と同じように魔術師のことを口にする。もしかすると魔術師は、今もどこかに潜んでいるのかも知れない。
エダは、恐る恐るあなたは誰ですか?とおずおずと声をかけてみた。本当はあなたは魔術師ですか?と聞いてみたいが、こんな村々の人が行き交う市で、そんなことは口に出せない。誰がどこで何を聞いているのか分からないからだ。ここは狭い世界で皆、毎日変わり映えのない生活を送っている。なので些細な噂話でも盛り上がるのだろう。 いつもはおとなしく恥ずかしがりのエダが見知らぬ老女に自分から声をかけたので、糸屋のおかみも、何よりエダ自身がびっくりしていた。老女は、わたしはササだよ。昔王宮で刺繍侍女をしていたんだよ。もうすっかり老いぼれになって王宮を去って、今は都の南のダサルの町にいるんだが、昔の知り合いに会いに東の果てのコマヌに行こうと思って、ちょうど通り道の、このタスカナに馬車が着いたら、今日はちょうど月に一度の市が立つ日で、せっかくだから、きょうはタスカナに泊まってくださいと宿屋のおかみがしつこく言うから、きょうはタスカナに宿を取ったんだよ。
この糸はどこの糸だい?色からすると西のパルハハの糸じゃないね。やっぱり東じゃあ西のいい色糸は扱っていないんだね。パルハハどころか、セズトロやキヌグスの色糸もなさそうだね。この色からすると、南のメレレスかクルハゾの物だね。これは冬に染めた糸だね。黄色が茶色に近い色に染まっているからなどと、おかみと糸について話している。
確かに王宮の侍女をしていたなら、都の言葉を話しているだろうし、ササなんていう珍しい聞いたこともないような名前をしているが、都では田舎の村のように生まれた日の暦の名前をつけないのだろう。セルシャの国にはセルシャ暦があり、それぞれの日に名前がある。子供が産まれた日の暦の名前を名づけるのが、王族や貴族以外のセルシャの国の民の間では、当たり前の事であった。
糸屋のおかみもササの正体が分かって、愛想良く、もちろんパルハハの糸もありますよ。ええ、それもとびっきり上等な糸ですよ。赤も青も緑も、そりゃ色鮮やかですよ。とっておきの品なんで、いつもは店先には並べていないんですが、侍女様には特別にお出ししますよ。今出しますねと、エダにまくし立てた時とは別人のように、にこやかに接している。
辻褄の合う話にどうやらササは魔術師ではないようだ。しかしなぜ愛する男の身に悪いことが起こったと分かったのだろう。あの、なぜ好きな人の身に悪いことが起こったと分かったのでしょうか?エダは囁きのような小さな声でササに聞いてみた。
エダの問いかけに、ササは面白そうにそして自慢げにこう話し始めたのだ。王宮では、刺繍糸が突然自分の手の中で切れると悪いことが起きると言われているのさ。まあ王様の貴重な衣の糸を不注意で切らないようにしろという注意を込めての迷信だろうけどね。お前のような真面目でおとなしそうな娘が心配するとしたら、家族か好きな男のことだけじゃないか。他にあるかい?
もし家族に悪いことが起こったなら、お前は呑気に市になんか来ていないね。どうしても糸が必要だったら、他の誰かに頼んで糸だけ買ってきてもらえばいいんだから。好きな男の身に何かあっても、側にいないということは、お前はその男の恋人でもいいなずけでもないね。親しい女なら男の側に飛んで行ってるだろう。ササは種明かしのように笑いながら、エダの問いに答えた。
話は終わったとばかりに、ササはおかみが奥から取り出してきたパルハハの色糸を手に取り、選び始めた。ササのことばに黙ってうつむくエダに代わって、糸屋のおかみが早口で話し始めた。まあこの辺りの村の娘はみんなクナというオリヅ村一番の男に惚れているんで、このエダの好きな男もきっとクナでしょうよ。ええ、確かにいい男ですよ。
ササは、ふんふん、なるほど。そのクナに呪いをかけた男は誰だい?思い当たる男はいるのかい?その塩屋の娘は美人なのかい?などと、次々に聞いていくので、おしゃべりで噂好きなおかみはすっかりいい気分になって次から次へと今回の話を伝えた。
おかみの話を聞き終えたササは、おかみにおもしろい話を聞かせてくれたじゃないか。王宮を去ってすっかり年を取ってしまって、こんな男と女の惚れただの、夢中だの、呪いだのおかしな話をしばらく聞いていなかったね。王宮にいた頃を思い出させてくれた礼として、この糸をそうだね、100ディルで買うよと手にしていた糸の束の倍以上の値段を口にした。それを聞いたおかみは、満面の笑みを浮かべ、愛想良くササが手にしていた糸の束を包み始めた。ああ、ついでにおもしろい話を聞かせてくれるきっかけになったこの子にも礼をしないとね。ササはエダの瞳をじっと見つめた。
この子のその切れた糸と、代わりにそうだね、そのパルハハの燃えるような赤の糸も一緒に包んでおくれ。もう10ディル余分に払うよ。おかみは、黙ってうつむいたままのエダの手から切れた赤い糸の束を引ったくるように奪うと、別の赤い糸の束と一緒にササの選んだ糸と一緒に手早く包んで、ササに渡そうとした。ササは懐から真新しい100ディルと10ディル金貨を取り出しおかみに手渡し、こう言った。この糸は礼として、この子にあげておくれ。
まるでおかみは王様や王妃様の言葉に従う臣下のようなうやうやしい態度で、エダに丁寧に包みを手渡した。
確かに何色もの高価で色鮮やかな色糸は、喉から手が出るくらい欲しい。本当は毎月市に来るたびに、あの黄色い糸もいいな。良く熟したマルハルの実の色だわ。この緑はきっと夏に茂るトトスの葉で染めたのね。見ているだけで夏の暑さを思い出すもの。そんな風に糸を見て、その色でどんな刺繍を刺したら、さぞ美しいかと想像しては楽しんでいた。
もしかしたらササは刺繍侍女でも魔術師でもなく、噂で聞いたことのある人買いなのかもとエダは急に怖くなってきた。都には騙された娘が働かされているいかがわしい宿屋や酒場があると男たちが祭りで酒に酔って言っていたのを耳にしたことがある。だから祭りには若い娘が1人で決して行ってはいけないと伯母さんは言っていたのだろう。こうやって若い娘を騙しているのかも知れない。
ササは不安そうなエダの視線に気がついたのか、何も心配しないでおくれ。わたしはただ刺繍が好きなだけさ。本当は自分で刺したいが、もうすっかり年老いて目も遠くなり、手元も狂ってしまい、満足にサラシュの花ひとつも刺せなくなってしまったからね。美しい色の糸を見ると、どうしても血が騒いでしまうんだよ。ぽつりとササは、少し悲しそうにこう呟いた。これも刺繍師の性かも知れないね。
刺繍師?
刺繍が本当に好きな者かどうかわたしは相手の目を見れば分かるのさ。お前は、その男と同じくらい刺繍を愛しているね。だからわたしの代わりにお前に刺して欲しいと思って、この糸をお前に託すんだよ。そうササは続けた。
エダはそのことばに少しでもササのことを人買いだなんて思った自分が恥ずかしかった。ありがとうございます。こんな美しい糸をもらえるなんて本当は嬉しいです。いつもあの色でこんな刺繍を刺してみたいな、できた帯をあの人がしてくれたらと夢見ていたんです。と誰にも話していない秘密を喜びのあまり、ついササに明かしてしまった。
セルシャの人々は綿や絹の織物で仕立てられた着物を着て、暑い時は一重で、寒くなると厚い生地の着物を何枚か重ねて、異なる色の糸で織られた帯か、刺繍を刺した帯を絞める。
そのエダのことばにササは、エダの目をじっと見つめてお前はその男が、お前の気持ちに気づいてくれなくても、振り向いてくれなくても、他の女のものになっても、お前はそれでもその男が前のように元気になってくれれば、それで幸せなのかい?そう問いかけてきた。
エダはそっと目を閉じて、ほんとうの自分の心に聞いてみた。まぶたの裏には、元気になったクナと、その傍らに寄り添うサマの姿が浮かんできた。似合いの二人の姿を思うと、胸が張り裂けそうなくらい悲しかった。それでもクナがもう二度と自分の目の前から永遠に去ってしまったら、と思うと息もできないくらい苦しい。たとえ他の人のものになっても、生きていて欲しい。
エダは、ササの不思議な深い沼のような目をしっかりと見据えて、はい。あの人には生きていてもらいたいんです。といつも囁くような声しか出せないエダとは思えないくらいはっきりとした声で言い切っていた。ササは、じっとエダを無言で見つめ返した後にこう言った。お前のその想いを込めた帯を刺して欲しいのだ。それを神殿に捧げておくれ。
帯の長さはお前の背丈とちょうど同じくらいで、幅は両手を揃えたくらいだね。ああ、布は普通の白い綿の布でいい。それならすぐこの市でも手に入るだろう。肝心なのは、刺繍の良し悪しだからね。図柄は、まずお前がその男に絞めてもらいたいと思う柄を帯のちょうど半分まで刺すんだよ。その男が実際にそれを着ている姿を思い浮かべて、一針一針想いを込めて刺すんだよ。そう、いつもお前が想っている柄と色でいいのさ。いつも想っているから、もう何を刺せばいいのかお前は分かっているね。
そしてもう半分には、お前がもし夢でもいいからその男の嫁になって、結婚の宴で皆の前で絞めている帯の柄を刺してごらん。今までそんなこと考えてもみなかっただろう。でもその姿を思い浮かべてみてごらん。エダはその刺繍を、そして結婚の宴でクナの隣に嬉しそうに、そして恥ずかしそうに立つ自分の姿を目を閉じて思い浮かべてみた。
真っ白い帯の上にはつがいのカナジュの鳥がいるの。ずっと二羽寄り添って数千年も生きている。オスのカナジュは深い緑、そうモグスの森みたい。あのたくましい腕でわたしを包み込んでくれるの。あの人は深い森の緑のようだわ。メスのカナジュはそうね。赤かしら。クナのような婿をもらえるなんて、あんたは幸せ者だよって伯母さんに言われて嬉しくってちょっと恥ずかしいから赤くなってしまったのね。
それならカナジュの周りにたくさんのサラシェの花の刺繍も刺さないとね。色はそうね。緑と赤を交互に刺そうかしら。それがぐるっと二羽の周りを取り囲んで。自然と笑みがこぼれ、エダの頭の中には宴の様子がありありと浮かんできた。
その夢のような姿を思い浮かべていたら、次にエダのまぶたの裏には、新しい景色が見えてきた。窓の外の景色は冬の夜のようで雪が舞い、見るからに寒そうだ。けれど家の中はマルハルの油で薪を燃やしているので明るく暖かい。暖炉の周りに今より年を重ねて、すっかり家長の風格を漂わせているクナがマルハルの実を取る時に使う刀を研いでいる。
エダはただ少しの間、目を閉じていただけなのに、まるで眠っていて夢から急に目が覚めたような不思議な気分だった。ササは、風が強くなってきたね。年寄りには堪えるから、もう宿へ帰るよ。と言うとあっという間に人混みの中へ消えて行ってしまった。
夢だったのかしら?とも思うが、エダの手の中には確かに糸が残っていた。夢でも魔法でもいい。それでクナが元気になるのだったら、ササの言うとおり、クナへの想いを込めた刺繍を刺そう。エダは急いで宿屋とは逆の方向にある布屋の方へと走って行った。
その数日間のことは、ほとんど覚えていない。ただ夢中でクナをことを想い、刺繍を刺していた。母さんや伯母さんや従妹のナリも寝る間も食べる間も惜しんで、何かに取り憑かれたように一心不乱に黙々と、色鮮やかで見事な刺繍を刺しているエダを不安そうに見つめていたし、何かと声を掛けたらしいがまったく覚えていなかった。
エダは帯が仕上がると、急いでタスカナの町へと向かった。ササに帯を見せないと。毎朝オリヅからタスカナに向かう乗り合い馬車は、とっくに出発してしまっていた。オリヅからタスカナへは大人の足でも歩いて二時間は掛かる。それでもエダは一目散にササの泊まっているであろう宿に向かった。
ササはコマヌに行くと行っていたが、コマヌはタスカナと違う領地だし、都に上る馬車は多いが、逆に都から下って東の果ての辺境の村に向かう馬車など頻繁にない。タスカナからコマヌに行くにはまずコマヌのあるザルドドの領都に一度着いてから、そこでコマヌに行く馬車に乗るのだろう。タスカナからザルドド行きの馬車は週に一度出ている。月に一度の市のある日の次にザルドド行きの馬車が立つのは明日の朝だ。きっとまだササはここにいて、会える。
しかしそんなエダに宿屋のおかみは残念そうに、エダ、あんたのことだったのかい。ああ、あの人が元王宮の侍女だったと聞いたさ。さすが侍女様は違うね。一番高い部屋に泊まっただけでなく、毎晩酒も料理も一番高いのを頼んでくれたよ。
残念そうな顔をしているおかみに、エダはおかみのことばを遮るように、今どこにいるんですか?と焦って聞いてみた。気の毒そうな表情で頭を振ったおかみは、急に今日の朝、コマヌまで行ってくれる馬車が見つかったからここを発つと言ったんだよ。
侍女様は発つ前に、もしあの子が訪ねてきたらこれを渡しておくれと言い残して出て行こうとしたから、あたしはこんなに払ってもらったんだから、せめて文くらいその子に渡してやろうと思って急いで誰なのか尋ねたんだよ。そうしたら侍女様は、あの子はきっと来るから大丈夫さと笑って、結局誰なのか言わないまま出て行ってしまったんだよ。と済まなそうな顔をして、エダの手の中に文を握らせた。
エダは急いで文の封を開けた。そこには神経質そうな細く角張った字で日が暮れる前に二人が生まれた村の小さな古い神殿に帯を納めよ。そして祈れ。とだけ書いてあった。その文の下に見慣れぬ何か図柄だろうか。いいや、図柄と言うより線と線を組合せた印のような物が書いてある。エダには全くこれが何か分からないので、おかみにも見てもらったが、やはり同じように分からないと言っていた。ただこんなことを言っていた。
普通、文の最後に自分の名前を書く。そこにこの印が書いてあるから王宮では名前の代わりにこの印を書くのかもね。商人たちも同じ商売仲間の間で使う印があるからね。
それよりもササからの文の内容を読んだおかみは、日が暮れる前に二人が生まれた村の小さな古い神殿に行けと書いてあるじゃないか。急いでオリヅに戻らないと。
エダはササに会えると思って、休みも取らずに二時間も歩いて来た。ササと会えないと分かったら、急にどっと疲れが出てしまい、また帰りの道を二時間も歩いて帰れなそうだ。
でもエダにはササのように一人で馬車を頼む金もない。みんなが乗り合う馬車を日暮れ前まで待たないといけない。思わずエダはため息をついてしまった。そんなエダにおかみは馬車じゃなくて荷車でもいいなら、オリヅに行く人が誰かいないか聞いてみてあげるよ。これくらいはせめてもの礼にさせてもらうよと言って、少しここで待っていなとエダに椅子を指差し、水差しから水を器に注いで手渡すと、自分は急いで外に出ていった。
エダが椅子に座り冷たい水で喉を潤し、棒のように疲れた足をとんとんと手のひらで叩いていたら、おかみが息を切らしながら戻って来た。ああ、運が良かったよ。ちょうどスセリの塩屋に荷を取りに行こうという車がいてね。キドの油屋の荷車だよ。ほら、つい最近二人めの息子が産まれた油屋だよ。シルっていう元気な赤ん坊さ。キドがスセリに行くから、オリヅに立ち寄って降ろしてもらうよう頼んだから。
キドの荷車に乗せてもらい、何とか日が暮れる一刻前くらいにエダはオリヅに着いた。家の近くではなく村外れにある古い神殿の前で降ろして欲しい。そんなエダのことばをキドは不思議に思ったが、エダの願い通りにそこで降ろしてくれた。まだセルシャの国に魔術師がいる頃、そう南のオクルスから優れた薬学の知識が伝えられ広まる前はセルシャの民は何かことある度に神殿で祈っていたが、今ではそんなことはしない。
昔は寄進により、どこの町や村でも広大な敷地を持っていたそうだが、今では村外れに小さな神殿と裏に林が少しだけ残っていた。壊さないのは、古い神殿にはカナジュの寝床があって、それを壊すとカナジュに祟られるからだと人々は口にする。南のある村で神殿を壊したら、急に山が崩れて村が埋まってしまった。
エダは神殿の入口にそっと帯を置くと神殿の前の冷たい地面に座り、必死で祈り始めた。どうか、あの人の病が治りますように。神様、どうかお願いいたします。この願いを込めた帯を捧げますから。どうかあの人が前のように元気になって、自由に歩けるようにしてください。どうか、どうかお願いいたします。
冷たい秋の風の吹く中で、どれだけの間祈っていたのだろうか。辺りはすっかり暗くなっていた。急いで家に戻らないと心配した父さんと母さんがエダが人買いに騙されたのではないかと騒ぎ出すかも知れない。エダは急いで家路についた。
エダが去った後に林の方から、がさっと木々の揺れる音がした。棒のように細い皺だらけの手が神殿の入口に置かれた帯を手に取った。しばしその刺繍の見事な出来栄えを丹念眺めて、満足したように目を細めて、そっと帯を元あった様に神殿の入口に帯を置いた。そして歌うような声でこれはカナジュの神様への帯だからねと呟いて、足早に神殿の前を去った。
林の裏には目立たない様に小さな一台の馬車が泊まっていた。馭者の中年の男は退屈そうに座って待っている。ああ、悪かったね。ずいぶん待たせたね。もうすっかり日も暮れてしまうから 今晩はもう一泊タスカナに泊まるから急いでタスカナまで戻ってくれないかい?明日からコマヌに向かって走ってもらうから、今晩はこれでたんまり精でもつけておくれ。そう言って懐から真新しい100ディル金貨を数枚取り出して、馭者に手渡した。
思わぬ大金を渡されて、馭者の男は日焼けしたその厳つい顔を破顔させた。ああ、悪いがついでに、今晩の宿をどこか世話してくれないかい?馭者なら馴染みの宿屋の一つくらいあるだろう?通りに面した赤い扉の宿屋?あそこはだめだね。素性がばれちまってるからね。フフフ。面白そうに、そしてどこか嬉しそうな顔をして馭者の男に声を掛けた。
さあ、行っておくれ。馬車はタスカナに向けて勢い良く走り出した。
エダが神様に帯を捧げた翌日、クナが急に元気になったと村中に噂が広まった。床から起き上がれただけでなく、食欲も取り戻し前と変わらず、すっかり元気な様子になって、薬師のスガも首を傾げているそうだ。良かった。エダはほっと息をついた。
それから一月も経たないうちにエダの周りでは不思議なことばかりが起こっていた。サマが都から来たドサの上官でもある王宮の事師長に見初められ、春になったら都に嫁いで行くことが決まり、また塩屋の父が急に倒れ、塩屋のムハは北のソソルの町の塩屋の息子を婿に迎えることとなった。そしてある日、タスカナの領主の使いの者がエダの家に来て、すぐにでも館に来るようにとの領主から知らせを伝えた。
領主の館には祭りの時に、その広い庭には入ったことがあるが、建物の中には一度も入ったことがないし、ほとんどの村人も入ったことはないだろう。見たことのない広く豪華な部屋の様子にエダはすっかり圧倒されてしまい、居心地が悪く、今にも自分の家に逃げ帰ってしまいたいくらいだった。
数名の侍従を伴ってタスカナの領主がエダの待っている部屋に入ってきた。金の掛かった身なりで、深い緑の光沢のある絹の着物に毛皮まで羽織った太った男で髭を生やしている。年に一度のタスカナの祭りの時に遠目で姿を見たことはあるが、実際に目の前にして話したことなど一度もない。
領主の顔をまともに見ることもできず、エダは彼の足下の革の履き物に視線をさ迷わせていた。そなたがオリヅ村のエダか?領主様の低く野太い声が聞いてきたので、恐る恐る顔を上げて、はい。と小さな声で答えた。この狭いタスカナの人々はお互いの名前と顔を知っているのに、領主はエダを知らないらしい。
なぜここにあの帯があるのだろう。そなたがこの刺繍の帯を刺したのか?と問うてきた。はい。理由が分からず困惑したエダはそれだけしか答えられない。見事な出来栄えだ。このタスカナにもトクミにも負けない、これほどの刺繍の技を持っている者がいようとわ、と髭を擦りながらこう言った。
事の次第が飲み込めていないエダは恐る恐る、なぜ領主様がこの帯をお持ちで、私が刺したとお知りになったのでしょうか?と聞いてみた。領主は好奇心一杯の眼差しでエダを見つめたながら、こう野太い低い声で話し始めた。
サマが婚儀の為に都に上がるので事師長の使いとして、ドサが都からタスカナに戻って来た。それに合わせて最近他の領地で神殿の土地を巡って大きな揉め事が起こったので、タスカナのそれぞれの村の古い神殿とその周りにどれだけ敷地が残っているか、誰か管理しているのかも調べてこいという命令も下ったそうだ。
ドサが領主の侍従を伴って村々の神殿を回ったら、オリヅの神殿に真新しい見事な美しい刺繍の帯が納めてあった。特に糸は明らかにこの辺りでは普通に手に入らなそうな美しい糸だ。何か深い理由がありそうだ。それを調べる為にドサは一旦その帯を持ち帰ることにした。手掛かりは糸だ。
ドサと糸屋のおかみの話を傍らで聞いていた領主はある事を思いついた。このタスカナにも北のトクミにも負けないこれほどの刺繍の腕を持つ者がいるのならば。我ながら妙案だとほくそ笑むと、直ぐ様そのエダという娘を呼ぶ用侍従に申し付けた。
そなたに頼みがある。王様の妃であるサイミシ様に献上する帯に刺繍を刺して欲しいのだ。タスカナの領主の話はこうであった。王様の妃の一人であるサイミシは、タスカナの領主の遠縁の娘で王宮に上がった。最初の数年は王様のご寵愛を受けて時めいていたが、ここ数年、王様のご寵愛は西のクチチトの領主の娘にだけ注がれていた。
そこでこう領主は切り出した。せめてタスカナを思い出せるよう、このタスカナの刺繍の帯を刺してくれまいか?サイミシは領主の遠縁の娘だが、元は貴族の娘ではなく美しいが活発な娘で、タスカナの祭りではこのタスカナに伝わる踊りを踊ったりする陽気な娘であった。そのことばでエダは思い出した。サイミシという貴族の名前を名乗っているので気づかなかったが、記憶違いでなければエダより十ほど年上で美しく陽気で踊りが上手だったサエダ村のミクだ。エダが子供の頃、確か十年ほど前に都の偉い方に嫁いだ
あの子はタスカナの為に王宮に上がってくれたのだがと、済まなそうな顔をして領主はこう口にした。せめて王様が前のように少しでもあの子に関心を向けてくれればと深いため息をついた。
口に入れる物は毒が盛られているといけないのでむやみに献上する事は認められていないので、タスカナの領主はせめてもの罪滅ぼしにと高価な美しい絹織物の衣や刺繍の帯、金の飾り物などをサイミシに献上しているが、どれも彼女の心を晴らしてはくれなかった。このセルシャの国では、北のトクミの村の青刺繍が一番美しいと言われ衣や布地は西の領地のパルハハやキヌグスの物が有名だ。
わたしにやらせてください。
気がつくとエダはそう答えていた。その刺繍の帯がエダの人生を変えるきっかけになるとは、その時エダは知る由もなかった。
エダは自分が子供の頃、父さんと母さんに連れられて行ったタスカナの祭りで誰よりも軽やかに踊っていた美しいミクの姿を思い描いて、心を込めて刺繍を刺していた。せめてこの帯を見て、少しでも気が晴れてくれたら。タスカナにいた娘時代の楽しい思い出でも思い出してくれたら。そして笑顔になってくれたらと。
エダが刺繍を刺すと約束すると、領主はすぐにあのおかみの糸屋から店にあるパルハハの極上の色糸をすべて買い上げて、それで後で侍従に家に届けさせるのでそれで作るようにとエダに命じた。エダは届けられた極上の何色もの糸を前にして特に領主からは何も色や図柄の指示はなかったので散々迷った挙げ句、領主の話を聞いてタスカナの祭りで踊る人々の姿やミクの姿が閃き、その周りにマルハルの実やモグスの森などを刺すことに決めた。
刺繍を刺している間、エダは独特の拍子のタスカナの祭りで踊る歌を口ずさんでいた。タスカナの踊りは男と女が腕を組み、輪になって踊るのだ。モグスの森に。モグスの森に。
いつの間にかエダの耳には笛や太鼓や鈴の音まで聞こえてくるようだ。去年のタスカナの祭りにはクナは濃い土色の染めの着物に、油壺や刀といった伝統的なタスカナの柄の刺繍の帯を絞めていて、そんなクナにまるで絵の中で見たことがある都の娘か王宮の侍女様のように着飾った塩屋のムハがしきりに一緒に踊ろうと声を掛けていた姿を思い出した。
恥ずかしがりのエダはとても自分から声を掛けて一緒に踊ろうとなどと言えないので、皆が踊るのを遠くから見ていたが、娘時代のミクはきっとムハのように自分から男に声を掛けて一緒に楽しく踊っていたのだろう。
夢中で刺しているうちに帯の上にはタスカナの祭りで輪になって踊る人々や歌に出てくる黄色くたわわに実ったマルハルの実や、そんなマルハルの実が取れる深い緑のモグスの森の姿が写し出されてきた。ここタスカナの民はマルハルの実や木材、木の実、モグスの森にある粘土質の土から作る油壺などの焼き物。モグスの森からのたくさんの恵みと共に生きているからだろう。モグスの森を思わせる深い緑や土色を好む。刺繍の中にもたくさんの緑や土色の着物を着て踊る人々の姿があった。そう去年の祭りの時のクナのように。夢中で刺していたので、これだけの刺繍の帯をエダはたった二週間で刺して完成させた。
すぐにでもこれをサイミシに届けたい。エダは急いで馬車屋に行って、タスカナの領主から渡された10ディル金貨を5枚馭者に手渡すと、すぐにタスカナの領主様の館に行かなくてはならないから、馬車を出して欲しいと願い出た。直ぐ様、馬車は出発してエダはタスカナに着いた。
残念ながら領主は都にいて不在だったので、事情を知っている侍従に帯を託した。帯を受け取った侍従は、すぐに都の領主様の元に届けるからと請け負ってくれたので、エダは安心してオリヅへの帰路に着いた。
エダは乗り気ではなかったが、母さんと伯母さん、そして従妹のナリがどうしても見に行きたいと言うので一緒について行ったのだが、遠目で見たサマは緊張していたのだろう。美しい姿とは裏腹にこれから嫁いで幸せになろうという娘なのにその顔には笑顔がなかった。そして集まった人々の中にクナの姿も見つけられなかった。
前に一度呼ばれたとはいえ、広く豪華な部屋にエダはやはり気後れしながら侍従に案内され入った。と、そこにはタスカナの領主だけでなく、なぜか濃い土色の着物に油壺や刀といった伝統的なタスカナの柄の刺繍の帯を絞めて、去年のタスカナの祭りと同じよそいき姿のクナと、その後ろにやはり緊張した姿で並んで立っているクナの両親の姿もあった。
はい。さようでございます。クナはそう答えた。そんなクナに、なるほど。確かに王宮の衛兵にいてもおかしくないぐらいの男振りだ。と髭を擦りながら言った。一体何なんだろう。もしやクナを王宮に衛兵として送りたいので呼び出したのだろうか?それならなぜクナの身内でもないエダもこの場に呼ばれたのか?
困惑する四人をよそに領主はこう続けた。秋に掛かった熱病はもう良くなったのか?その後具合はどうじゃ?と聞いてきた。前の領主はタスカナの館にいつもいたが、息子の今の領主は都の方ばかりに関心があって、都の館にばかりいるという噂は当然クナの耳にも入っているだろうが、そんな領主が自分が原因不明の熱病に掛かった事をなぜ知っているのかという驚きと戸惑いの表情を浮かべている。
はい。おかげさまですっかり元気になって、今までどおりにマルハルの実を取って暮らしておりますと答えた。そうか、そうかとやはり上機嫌で続けた領主は、じっとクナの顔を見て、そなたが今こうして元気でいられるのは誰のおかげだと思う?と言い出した。突然の問いにクナもクナの両親もすっかり驚いている。
そんな三人に向かって領主は、実はここにいるエダがそなたの病の回復を願って、見事な刺繍の帯をオリヅの村の神殿に納めて、そのすぐ後にそなたの病が治ったのだ。知っておったか?と続けた。このことばにクナとクナの両親だけでなく、エダもびっくりした。なぜそれをタスカナの領主様が知っているのか?
前に刺繍の帯を刺したのが自分だとは答えたが、クナの病の回復を願って神殿に納めた事は話してはいない。そんなエダに領主は糸屋のおかみから全て聞いたと今回の経緯を話し始めた。タスカナの領主は糸屋のおかみから話を聞くと糸屋のおかみはきっと王宮の刺繍侍女様が泊まったのは赤い扉の宿屋に違いない。
エダはクナに自分の気持ちが、そう秘かにクナを想っていた事が知れてしまい、恥ずかしくてここから逃げ出してしまいたいくらいだった。
急に自分の病が治った理由を知った。クナとクナの両親は驚きを隠せない表情で、じっとエダを見つめている。そんな三人の視線にエダは居たたまれなくなっていたが、更に領主はこう続けた。
それだけではないぞ。このエダが刺した刺繍の帯は恐れ多くも王様もお誉めになったそうだ。そのことばに四人は更に驚いた。王様が、このエダの刺した刺繍の帯をお褒めになった。あり得ない出来事だ。そんな事が本当に起こったのか?タスカナの領主は四人に自慢げに話し始めた。
そしてある晴れた日、ここ数年は気鬱で自分の館に引き籠っていたサイミシは急にこの帯を絞めて外に出たくなった。この刺繍の帯に合うよう、また自分の生まれ故郷のタスカナを思い出して明るい緑色の絹織物の上に濃い緑の衣を重ねて纏い、
ちょうどその時、偶然昼の政務が終わり王宮内にあるクチチトの領主の娘の館に向かおうとしていた侍従達を従えた王様と再会したのだ。王様は久しぶりに会ったサイミシがいつもと違い、楽しそうな顔をして、しかも自分から館の外に出て散策しているのに驚いた。何があったのか?と尋ねられ、サイミシは自分の領地の娘が自分の為に心を込めて刺してくれた祭りの図柄の帯を見ているうちに、久々に外に出てみたいと思ったので散策をしているうちに懐かしい祭りの歌を歌ったりしていたと答えた。
そんなサイミシの姿に久しぶりに関心を持った王様は二人で庭園の東屋で茶を飲みながら語ろうと誘ってくれたのだ。もう自分にすっかり関心をなくしたと想っていた王様の方から誘って貰えた。サイミシは涙が出そうなくらい嬉しかった。
二人で向かい合って茶を飲みながら、
王様もここ数日、南のオクルスの国との外交で頭を悩ませていたが、自分の国の民の様子を聞いて心が晴れたと仰った。二人でこんな風に楽しく共に時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。王様は祭りの様子を詳しく刺繍した帯にも関心を持たれ、もっと細かい所まで見てみたいと仰った。
サイミシはすっかり元気を取り戻した。
サイミシは王宮にタスカナの領主を呼び出した。王宮からの招きに領主は喜び勇んで参上した。
すっかり明るく晴れやか姿になったサイミシは、今回の事でこの刺繍を刺してくれた娘は誰なのか、何とかその娘に礼をしたい。何が一番喜ぶのか?と尋ねてきた。
驚いてじっと黙って領主の話を聞いていたクナに向かって、そなた結婚の約束を交わした娘はおるのか?と尋ねてきた。クナは慌てて、そのような者はおりません。と答えるとそなたの為にここまで尽くしてくれる娘が、このタスカナに、いいや、このセルシャの国のどこにおる?このエダほどの者はおるまい。
そんな両親と領主のやり取りをよそに、黙って何かを考えている様子のクナがエダに向かって歩いて来た。エダは何も言えず黙ってうつむいてしまった。エダ。クナの声が自分を呼んだ。はい。恐る恐る顔を上げたエダに今の話は全て本当なのか。お前が俺の事をそこまで想ってくれていたのかと熱い眼差しで見つめながら聞いてきた。エダは黙ってこくりと頷くと、ずっと陰であなたのことを想っていましたと告白すると、胸いっぱいに気持ちが高ぶってしまい、涙が溢れてきてしまった。そんなエダの姿をじっと見つめたクナはこうエダに伝えた。
エダ、俺の嫁になってくれ。大切にする。そのことばを聞いてエダの顔は涙でぐしゃぐしゃになったが何度も頷いた。傍らではクナの両親も笑顔で、ええ、ええ。こんな素晴らしい娘がうちのクナの嫁になってくれるなんて夢のようですと喜んでいる。そう、その日は偶然にも暖かい春のエダの日であった。エダにとって生涯忘れられない自分の暦の日となった。
もちろん神様のおかげだとは思うけれど、きっかけはあのササという人のおかげでもあるんだよ。と母さんは懐かしそうに遠い目をして、いつもこうこの話を締めくくった。父さんとの結婚が決まった後に母さんはどうしてもササにお礼が言いたくて、南のダサルの町に行くタスカナの商人頭のタネに、元王宮の刺繍侍女だったササという人を探して、この文を渡して欲しいと頼み込んだ。
最後の望みをかけて、母さんは都の王宮の事師になったドサに、タスカナの領主経由で事情を伝えてササについて調べてもらったが、ドサからの便りには、王宮の過去の刺繍侍女の記録にササという名前はなく、何人かの顔見知りの刺繍侍女にも聞いてみたが誰も知らず、偽名か身分を偽っていたのではないかという返事が書かれていた。そもそもこの国でササという名前自体珍しかった。都の人は珍しい名前なのねと世間知らずのエダはあの時何も疑問に思わなかったが、よくよく考えてみればおかしかった。
それにササはこれも刺繍師の性かも知れないねと呟いていたが、王宮で刺繍師という身分はないので、その女は本当は侍女ではなかった。お前を騙す為にそう騙ったのかも知れないとも書かれていた。エダが結婚してすぐ後に、糸屋のおかみも急に胸を病んで亡くなってしまい、宿屋のおかみも年老いて記憶があいまいになり、誰もササのことを覚えていなくなってしまった。
あの人こそ、本当は魔術師だったのかも知れないね。
一度だけ、ぽつりと母さんはそう呟いた。その時の母さんの懐かしそうで、それでいて少し悲しそうな表情をトナはいつまでも覚えていた。
父さんと母さんの結婚の馴れ初めの話を思い出して、わたしの婿はシルだったらいいな。 ふっとそんなことを思ってしまい、 トナは一人で顔を赤らめてしまった。 周りをそっと伺ったが、運良く母さんは台所で夕飯の支度をしているし、 側にいる妹のムクはまだ五つと小さく、 トナの様子には気がついていないようだ。
トナはシルのことを想い出すと刺繍の手が止まってしまった。 シルはタスカナの町の油屋の次男坊だ。 トナより二つ年上の十四歳で、父親の油屋の商売柄、都や他の領地の商人とも頻繁に交流があるからか、 また社交的で愛嬌があり、話好きなシルはいろいろなことを知っていて、 トナたち学舎の子どもたちに教えてくれるのだ。
特にみんなは学舎の先生が教えてはくれない、 そう遠い都や王宮の噂話や、 セルシャの国の北や南、西から伝わってきた話など、 おもしろおかしく話してくれるのをワクワクしながら聞いていたのだ。
王様は最近病がちで、近々息子の王子様が 即位するんじゃないかと都では囁かれているとか、 マルメルの国に嫁いだ王女様が女の子を産んだとか、 北では魚を塩漬けにして食べているが、
とても臭くて食べれたものじゃないだの、 西は美人が多いが着道楽なので嫁にもらうと苦労するとか 本当にいろいろな話を聞かせてくれる。 それだけではなく、トナに都の貴族や裕福な商人の奥方や
娘たちの美しい装いの姿を描いた絵を見せてくれたり、 このタスカナではめったに市には並ばず 手に入らない遠い北の町のトクミの青い刺繍がされた小さな布を
皆に秘密でこっそりトナにくれたことがあった。
トナはシルもあたしのことが好きなのではないかしら。 もちろん声に出して聞いてみたことはないが。 五年も経てば、トナも娘になり、嫁に行く頃だ。 トナは母さんと父さんの思い出話を思い出して、 また熱心に布に針を刺していった。 そんなトナは自分の身にこれから起こる事を夢にも想ってもみなかった。
トナの家にタスカナの領主の使いの男が来たのは、 冬の小雪が舞う寒い日だった。
その時、トナと母さんは刺繍をしていて、 父さんはマルハルの実を取る時に使う刀を研いでいた。 弟たちのトジとエジは書き取りの練習をしていて、 妹のムクは幼い頃のトナと同じように 余り布の切れ端と糸で遊んでいる。 母さんとトナは、都の王宮の事師長の奥方になった サマから頼まれている帯の刺繍をしていた。
高価で珍しい品のあふれる都で暮らしているサマだが、 時おり秋の終わりに都から遠く離れたオリヅの村に わざわざ使いを送って帯の注文をしてくれていた。 都ではタスカナの刺繍の帯は手に入らないの。 タスカナのモグスの森の深い緑や 黄色く豊かに実ったマルハルの実の柄の刺繍。 生まれ故郷を遠く離れた都にいると無性に故郷が懐かしくなる時があるの。 だからあなたに刺してもらいたいのよと、 纏まった金と一緒にそう書かれた文が付いていた時があった。
偉い方の奥方様になって裕福に暮らしていても やはり故郷を遠く離れた都で暮らしているのは寂しいのだろう。 冬になるとマルハルの実は採れない。 サマはクナ達一家の生活の足しになるようにと 帯を頼んでくれているのかも知れない。
やはりサマはクナを愛していたのだろうか。 エダはそんなことを想い、昔やはりこのタスカナから 王様の妃になる為に王宮に上がったサイミシの為に 心を込めて刺した時のように刺繍をしていたし、 一緒に手伝ってくれるトナにも相手の事を想って 刺繍を刺すように良く良く言って聞かせていた。
領主様の使いの男はエダとトナに明日館に来るようにとの命令で 明日の朝また馬車で迎えに来ると伝えると寒さのせいだろう。 足早に去って行った。 エダだけでなくトナも一緒に?エダとクナは不思議に思った。
サイミシに最初の帯を献上してから二回ほど また領主から献上する帯の刺繍を頼まれた事はあったが、 ここ二年ほどなかった。 人望があるクナはこのオリヅの村の村頭になっていて 油の仕入れの件で家に立ち寄ったタスカナの商人頭のタネと 最近の商売の話をした時に、タネの話ではここ二年ほど 王様の体調が優れず、病に臥せりがちで妃達も皆不敬だということで 以前のように華やかさを競わず皆一様に華美な服装や飾り物も控えていて、 王宮の侍女達もそれに倣い、皆地味な装いをしているそうだ。
西の絹織物商はすっかり景気が傾いちまったとぼやいているし、 知り合いの北の飾り物商人は飾り物の注文がさっぱり来ないので 店を畳まないとと言っている。 それに比べるとこのタスカナはいいな。 高価な衣や飾り物と違って、油は生きていくのに必ず必要だからな。 逆に羽振りがいいのは南の薬商人さ。 効き目があると言って王宮に高い薬を売りつけられるからなと言っていた
また刺繍を刺して欲しいのかしら? エダは不思議に思いながら、領主の館に呼ばれるのは それくらいの事しか思い付かなかった。
エダは数回館に呼ばれて行ったことはあったが、トナは始めてであった。
トナは初めて入った広くて豪華な館の様子に驚いたが、昔のエダのように帰りたいと怖じ気づく様子はなく、ただ珍しそうにキョロキョロと周りの壁の高さや廊下の長さ、置かれた壺などを眺めていた。
昔と同じ部屋に通されるとそこにはタスカナの領主がいただけでなく、机と椅子が並べられていて、その上には茶器や甘いクスネの実の蜜漬けのような茶菓子まで用意されている。まるで貴族同士で会う時のような歓待だ。今まで数回呼ばれたが、こんなことは一度もなく、いつも領主は椅子に座り、エダは立っていたのだ。
さすがにエダは訝しげにタスカナの領主を見つめた。
そんなエダとトナに、さあさ、ここに座るんだ。おお、この子がトナか。お前に良く似た良い娘ではないかと、にこやかに二人を迎えた。
侍従が良い香りを漂わせた熱い茶を持ってきた。このセルシャの国では採れないので、きっと南のオクルスから入ってきてセルシャの民が普通に手に入れられないような高価な品だ。手厚すぎる歓迎にエダは不安になった。侍従は茶を注ぐと一礼して部屋から下がって行った。
いったい何が起こるのだろうただ刺繍を刺して欲しいという頼みではないもっと何か大きな難しい頼みなのか。そのせいでせっかくの高価な香り高い茶の匂いも味も楽しめなかった。そんなエダの不安は的中した。
トナとエダが茶を飲み終わった頃に、タスカナの領主はこう口にしたのだ。
そなたの娘ならば、きっとそなたに似て刺繍の腕も確かであろう。既にそなたを助けて帯の刺繍を手伝っていると周りから聞いている。そこでだ。そなたの娘を侍女として王宮に仕えさせないか?
まだ幼いトナを一人で遠く離れた都に、しかも王宮に侍女として上げる?エダにとっては思いもよらない提案であった。
エダもトナも王宮に仕える侍女達がいるという事は知っている。今まで縁がなかったので詳しくは知らないが、給金の良さで自分から望んで仕える者や王宮に仕える事師や語師や通師などとの出会いの機会もあり、中には王族に見初められて妃になれる者すらいる、華やかな生活に憧れて望んで仕える者もいると聞いたことがあった。
しかし急になぜトナにそんな話が来るのだ?豊かではないが幼い娘を仕えさせるほど貧しくはないし、トナもそんな望みを口にした事はない。エダはトナがタスカナの町の油屋の息子のシルに仄かな恋心を抱いているのに気づいていた。
なぜ急にそんな話が出たのでしょうか?とエダは領主に尋ねてみた。トナは二人のやり取りを黙って目を丸くしながら聞いている。
タスカナの領主は実は、と声を潜めて話し始めた。ここだけの話だが王様の体調が優れず病に臥せりがちで、王様がついに王位を世継ぎの王子のダルマツ様にお譲りになる事を決められて春には新しい王様がお立ちになられる。それに伴い王宮にお仕えする侍女が新たに必要になったのだと。
ここ数年、王様が臥せっている時に華やかに装うのは不敬だという事で王妃様や妃達、他の王族達も皆地味な装いをしていた。特に華やかな刺繍の入った衣は着なくなり、役目がなくなり暇になってしまった刺繍侍女達が自分達の先行きが不安になり、我先にとこぞって事師や語師や通師や出入りの商人達の嫁になり王宮を去って行ってしまった。
新しい王様の即位に伴い、前の王様の王妃様や妃達のいる宮殿に新しい王様の三人の妃達も今いる都の離宮から王宮に移ってこられる。
即位の式典の衣装や日々纏う衣に刺繍する為には人手がいる。今いる刺繍侍女だけではとても賄えないので至急刺繍が得意な娘を各領地から王宮に上げて欲しいと王宮の事師からお達しがあったのだとタスカナの領主は渋い顔をして言った。
元々刺繍侍女は料理侍女や仕立侍女よりも少なくまたどの村でも日々の暮らしに必要な着物の仕立てははできるが刺繍はやった事がない者も多い。普段は織りの帯を絞めているので手間隙かかった刺繍の帯はよそいきの時のみ絞めて、刺繍が得意な者に金を渡してやってもらうのだ。このタスカナでも刺繍ができるという娘は数人しかいないだろうとタスカナの領主はため息をついた。
そのような事情があったのか。でもエダは不思議に思った。このタスカナにも数人だがエダよりもっと刺繍の上手な、しかも年上の娘がいるではないか。
カナタの村のカヤの方がトナより五つも年上で刺繍の腕前も見事だ。父を早くに亡くし、母と二人で着物の仕立てや帯の刺繍で生計を立てていて、丁寧な作業できっと王宮に上がったら優れた侍女になれるであろう。しかしそんなエダの問いに、あの娘は貧しくて学舎にも通っていない。読み書きや計算もろくにできないそんな学のない娘をこのタスカナから王宮には遣れんと言った。その後に慌てて母一人、子一人の二人を引き離すのは不憫ではないかと取って付けたように言った。
それだったらとエダはもう一人適任の娘が閃いた。サエダ村のイクだ。トナよりも四つ年上の十六才だが大人びた美しい娘で父親は木材を商っている。学舎にも通っていたし、兄弟も多く、しかもカヤには少し劣るがイクも裁縫も刺繍も上手だ。大人びた娘なので王宮でも幼いトナよりずっと上手くやっていける気がする。
サエダ村のイクはいかがでしょうか?あの子の方がうちのトナよりずっと王宮の侍女様に相応しいと思いますがとエダは言ってみた。
その名前を聞くと、タスカナの領主は急に不機嫌な顔をして、わしもそう決めていたのだ。それなのにあのふしだら娘が。わしが今回のこんなに良い話を持ち掛けたら、あたしは王宮には上がれませんと言い出すので何とか理由を吐かせたらもう男を知っていて生娘ではないと言うではないか!嫁入り前に親の目を盗んで、そんなふしだらなことをしでかした娘を王宮に上げてばれてみろ!このタスカナの恥さらしだ。あの娘は絶対に王宮に遣れんと声を荒げた。
これにはさすがにエダもトナもびっくりしてしまったが、それでもこんな幼いトナを一人で遠い都に、王宮になんて行かせたくない。エダは何とかトナを行かせない方法はないかといい募った。
いい加減にしないか!領主はついに怒りに顔を赤くしながら興奮ぎみに続けた。
サマだって最初は遠く離れた都になんて行きたくないだの、このタスカナにいたいだの、十五も年上の方に嫁ぐなんてと泣いていたが、最後には聞き分けてくれて嫁いで行って今では誰もが憧れる王宮の事師長様の奥方様だそ。都の大きなお屋敷で、たくさんの使用人に囲まれて絹の着物を着て暮らしている。夢のような生活じゃないか!
そもそもお前がクナと結婚できたのは、わしのおかげではないか。わしが帯を献上したからお前はクナの両親に結婚を認められたし、サマが都に嫁いで行ってくれたから、クナと結ばれたのではないか?親の恩を子が返すのは当然ではないか!
トナだって都に行けば偉い方に見初められることだってあるかも知れないし、王宮の中に住めて、侍女見習いの時から給金はたっぷりもらえる。休みの日には店やら市やら、ここじゃあめったに観られない芝居やらで楽しめるんだ。この子にとっても悪い話じゃないだろう。むしろ喜ばれるくらいの良い話じゃないか!
どうして行かないと言うのならば、お前達の家族がこのタスカナに居られなくしてやるぞ!
いつもならそなたたちと呼ぶのに、怒りのあまり興奮してすっかり口汚くお前達と呼び捨てて、そう声を荒げて怒り出してしまった。
そして怒りに任せて机をばしんと大きく殴った。その振動で机の上の茶器が、がちゃっと音を立てた。
思わずトナは恐怖のあまり震えてしまい、ぎゅっときつく目を瞑った。
と、その時どこか遠くから声が聞こえた。はっきりした声で、
王宮に来るんだ、トナ。それがお前の定めだ。待っているよ。
その声にびっくりして弾かれたようにトナは目を開けて辺りを見渡したが、部屋には泣きそうな困惑した顔の母さんとますます顔を赤くして今にも湯気が出そうな領主しかいなかった。
でもさっきの声は確かにトナの耳にはっきり聞こえた。空耳なんかじゃない。
しかもどこか恐怖に怯えていたトナだが、そのはっきりとした威厳のある声を聞いたら、誰かが後ろで、そう自分をしっかりと包んで支えてくれているような気がしたら、不思議と恐怖が和らいだ。
タスカナの領主に逆らったところで、どうにもならないことはトナにも分かる。父さん、母さん、弟のトジとエジ、妹のムク。じいさんとばあさん達。みんなが苦しむ。
あたしが王宮に上がって刺繍侍女になります。その代わりにうちの家族をタスカナから追い出すなんて、二度と口にしないと約束してください。
トナが王宮に出仕すると答えてから、二週間も経たずにすぐタスカナを発つ事となった。
気が変わりトナが行きたくないと言い出すのを恐れたタスカナの領主が出発の日取りを決めたのだ。それに今回の王宮行きの話をサエダ村のカクが喜んで受けるとばかり高を括っていたので、王宮から侍女見習いの娘を出仕させる約束の期日まであまり日もなかったのだ。
必要な着物や見の回りの細々とした品は、都に着いたらこちらで揃えてやるからと言って、都に上がるには準備があるからもう少し時間が欲しいと言ったエダの願いを遠ざけた。これでもエダと父であるクナも何とか粘りに粘って懇願して、やっと出発の日を一日でも遅めたのだ。
普通、小雪が舞う寒い冬に人々は長旅をしないがどうやら急いで王宮に誰か侍女を上げないと、よほどタスカナの信用に関わるようだ。まあ、あのタスカナの領主の人柄ならばきっと王宮でもあまり信頼されていないのだろう。それとも王宮ではそれほどすぐにでも刺繍侍女が必要とされているのか。
タスカナの町から都までは馬車に乗り五日も掛かるし、天候によっては更に遅れる時もある。都まではちょうど冬で暖を取るのに必要なマルメルの油や薪を都に売りに行くタネとタネの店の者たちと一緒に向かうことになった。本来ならばその地の領主に連れられて王宮に行くのだろうが、トナとエダを脅したからだろう。ばつが悪いのか領主はタネにトナを託したが、トナの方もあの領主と五日も狭い馬車の中に一緒にいるのは気詰まりなので、タネ達一行と一緒の方が気楽で良かった。
ついにトナがオリヅの村を発つ日が来た。
トナの家の前には既に荷を積んだタネの店の馬車や荷車が四台並んで、トナを待っていた。
トナの家の扉の前には近所の者や同じ学舎に通っている何人もの友達もトナを見送りに来ていた。中にはただ無邪気に都なんて、王宮なんて凄いな。タスカナに戻って来たら話を聞かせてくれとか、トナもあの都の娘のような絵姿になるのかなど言っている者もいたが、くれぐれも身体に気をつけるんだよ。王宮なんて想像もつかない場所に住むんだから大変な事もあるだろうから頑張ってお勤めするんだよと心配や励ましてくれる者が多かった。
同じ学舎でトナと一番仲の良いサエダ村のキトは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらトナの手を握り、何かあったらすぐ文を送ってね。あたしもすぐ返事を書くからと言っている。そしてこう続けたのだ。今まで言わなかったけれど、あたしはあんたが羨ましかったの。読み書きも得意で刺繍も上手で、優しい母さんと素敵な父さんもいる。トナはずるいなって心の底で思ってた。でもあんたが本当は行きたくないのに王宮に行かされるって聞いたわ。あんたはちっともずるくない。あたし達タスカナの為に王宮に上がってくれるなんて。あんたをずるいだなんて思ってたあたしを許して。
一番仲が良いと思っていたキトの思わぬ告白にトナはびっくりしたが、そう正直に心の内を打ち明けてくれたキトの優しさと泣き顔にトナも我慢していた涙が溢れだして止まらなくなってしまった。
父さんと母さんが心配するだろうから、馬車に乗るまでは決して泣くまい。そう心に誓っていたのに、もう泣いてしまった。
見送りの人の中にはシルの姿もあった。
シルの元にも直ぐ様トナが王宮に侍女として上がるという噂は伝わっていた。父の商売仲間のタネと一緒に都に向かうことも父から聞いた。
本当はサエダ村のカクが行くはずが、どうやらあの娘は人に言えない病に掛かっているそうで、幼いが刺繍が上手いトナが代わりに行かされるそうだよ。しかも泣いて嫌がるトナを鞭で脅したそうじゃないか。まったく大きな声じゃ言えないけれど酷い領主様だよ。自分の領地なのにほとんどいないで、都ばかりにいるし。まあさすがに母一人一人のカナタ村のカヤは行かせなかったけれどね。
シルはキトと抱き合って泣いているトナに声を掛けた。トナ。元気でな。きっと都に行ったらお前はあの絵みたいな綺麗な都の娘になっちまうと思うけど、たまには俺のことも思い出してくれやと照れ臭そうに頭を掻きながら伝えた。トナは涙声で絶対に忘れないからと伝えるのが精一杯であった。その返事にシルはこんな急じゃなかったら餞別に何か髪飾りの一つでも渡せたのになと残念そうに呟いた。
やっぱりこのタスカナを離れたくない。トナはますます激しく泣き出してしまった。
タネもたった十二才で一人故郷を離れて王宮に行かされるトナが不憫で、ぎりぎりまで声を掛けずに周りと別れを惜しむトナを黙って待っていたが、さすがにそろそろタスカナを発たないと、日暮れ前までに今日の目的地の隣の領地のザルハスには到着しない。
タネも心を鬼にしてトナに声を掛けた。さあ、トナ。そろそろ出発するぞ。
その声に妹のムクはわっと泣き出し、トナの足にぎゅっと離れまいときつくしがみついた。そんな姉妹の姿を見ていられないというように哀しげに涙顔を背けたじいさんとばあさんたち。弟のトジとエジは男は人前で泣くのではないと教えられているからだろう。必死で涙を堪えようと口をぎゅっとつむり泣くのを堪えているが、目は涙で潤んでいる。
そしてそれは父さんも同じだった。トナ。元気でやるんだぞ。そう言って大きな手のひらでトナの頭をくしゃくしゃと撫でた。そう。自分にそっくりな黒くて硬いトナの髪の感触を何度も確かめるように。
トナと同じように涙でぐしゃぐしゃの顔の母さんはトナ、何か辛いことや足りない物があったらすぐ母さんに文を寄越して頂戴。温かくして身体には気をつけてね。荷の中に薬の包みも入れたから。周りの人と仲良くねなどと言いたいことは山ほどあるのだろう。トナの身体をぎゅっと抱きしめながら話し掛けている。
トナ。行くぞ!馬車に乗れ!ついにしびれを切らしたタネが声を掛け、そんな二人を父さんが促した。
トナ。母さんが手にしていた小さな包みをトナに手渡した。急いで包みを開けるとそこにはモグスの森のような濃い緑の葉と、六つの黄色いたわわに実ったマルハルの実の帯が入っていた。時間がなくてこれだけしか刺せなかったけれど、これを持って行ってね。都ではもっと高価な素敵な帯が手に入ると思うけれど。
準備で忙しい合間の時間を縫って母さんが刺してくれていた六つのマルハルの実。父さんと母さん、トジとエジとムク。そしてトナだ。トナは思わず号泣した。ここを離れたくない!
トナは半ばタネに抱き抱えられるように馬車に乗せられた。そしてタネは自分も一緒に馬車に乗るのではなく、荷車の荷台に乗ると馭者を勤める店の者に声を掛けた。
さあ!出すんだ!日暮れ前に着かなくなっちまう。御者が手綱を引いて馬が勢い良く走り出した。
だんだん父さん、母さん、トジ、エジ、ムク。じいさんにばあさん。シルにキトや村の人々。みんなの姿が小さくなり、ついには見えなくなった。
トナはわっと泣き崩れた。どうしてタネが自分と同じ馬車には乗らず、トナ一人にしてくれたのか分かった。トナはタスカナを、父さんを、母さんを思って泣き続けた。
こうしてトナは生まれ育ったタスカナの地を離れた。
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