町田 千春 著 | |
刺繍師 その2 TOP | |
なんて広くて大きくて美しいんだろう。 目の前に広がる光景にトナは呆然として、あんぐりと口を開けたまま空高くそびえる王宮の建物を見上げていた。 タスカナの町から都までは天候も悪く途中足止めされ、当初の予定よりも日が掛かった。手広く商売をやっているタネは顔が広い。また都にも二月に一度は行っているので、都やそして王宮のことも詳しかった。タネもたった十二才で一人故郷を離れて都に行かされるトナを不憫に思ったのだろう。これからトナが一人でもやっていけるよう、いろいろな話を教えてくれた。 そこでトナははじめて侍女についての詳しい話を聞かせてもらった。タスカナの領主は都合の悪いことは話していなかったのだ。まず王宮に上がった娘たちは、薬師が病を患っていないかを調べて、その後に侍女見習いになれるのか、それとも下働きの者になるのかを振り分ける試験があるそうだ。誰でも王宮に上がったら侍女になれるのではなかったのだ。 地方から上がった娘の任期は最低五年で、下働きと侍女見習いから正式な侍女になれなかった娘は王宮を去り、正式な侍女になれた者だけが、それ以上の期間もずっと王宮に残れた。侍女見習いも下働きも給金は出るが、渡される額は三倍も違うそうだ。ただし下働きの娘は王宮の外に自由に出られるが、侍女や侍女見習いは自由に出入りはできなかった。市や芝居など自由に見に行けなかったのだ。 自由がなく、しかも日がな一日暇であった刺繍侍女達がこぞって嫁に行き、王宮を去りたがる訳だ。トナもタネの話を聞いて、子供心に納得した。 それだけではない。料理室長に仕立室長、子守室長や刺繍室長といった位の高い侍女には商人が贔屓にしてもらおうと、いろいろな物を贈っていたのだ。タネの知り合いの都の商人たちには既に上手く取り入っている者もいて、そこから聞いた話を教えてくれた。 お前は産まれてから一度もタスカナを出た事がない。なのでお前は今までそんな事を感じた事はないだろうが、この国では未だに東だ、西だ北だ、南だと見えない所で争いの火種があるんだ。特に王宮はそういった争いの場だ。 タネのことばと険しい表情にトナは自分が場違いな恐ろしい場所に飛び込んでしまったと後悔し始めた。でももう遅い。このセルシャの国の歴史がそういった地域間の軋轢を産んでいるのだ。
クスハネは何とか南の協力を得て圧政を敷いていた王を倒した。慈悲深いクスハネは倒した王の妻子は殺さずに東の果てのコマヌの地に追放して新たな王政を築いた。 オクルスはその病に効く薬を持った薬師達をセルシャの遣わそうと新たな王になったクスハネに申し出てきたが、それは薬師を装った兵士達であった。セルシャの国の民の為になると思い、喜んで受け入れを認めたクスハネは騙されていた事に気づき慌てた。今回の病は薬学の知識の進んだオクルスがセルシャの国を乗っ取る為に仕組んだ罠だったとすら民の間では囁かれていたのだ。 クスハネは南のオクルスに対抗できる軍事力がある北のマルメルに助けを求めた。マルメルは交換条件としてセルシャの北の沿岸で作られる良質の塩を毎年マルメルに収める事を要求してきた。それはオクルスのように直接の領土とはしないとしてもセルシャの国をマルメルの属国と見なすという事だ。 しかしその間にセルシャの国はマルメルの条件を呑み、マルメルから兵が大挙して海を越えてくるという噂が流れた。するとオクルスは直ぐ様セルシャの国に遣わしていた兵達を引き揚げたのだ。結局マルメルは一兵たりとも兵を出していないのでその話は反故になったが、クスハネはマルメルと友好の証として自分の愛娘をマルメルの国に送った。 またオクルスとも関係を改善するべく美女と名高かった自分の末の妹をオクルスの王の妃の一人にするべくオクルスに遣わしたのだ。こうしてセルシャの国はオクルスとマルメル、二つの大国の間で均衡を保ちながら国は栄えていったのだ。 トナも学舎の歴史の授業でそう習って知ってはいたが、なぜそれが各地域間の軋轢を産んでいるのかは、分からなかった。なぜ北と南、それに東と西が仲が悪いの? トナは思い切ってタネに尋ねてみると、タネは顔をしかめて、そりゃ元は都にいたはずの者が西の者によって東の果てに追いやられたし、南の者はオクルスとの薬の交易で儲けているし、実際オクルスの者と婚姻した者も多いから南の奴らはオクルスの血が混ざっている者も少なくない。 しかしその説明にトナは釈然としなかった。東に追いやられたのは元の王家の一部の人々で、しかもコヌマに追いやられたので他の東にあるタスカナやザルハスといった他の領地は関係がないはずだし、西の者もほとんどは元の王家を倒すのに加わっていない。
北と南だってオクルスとマルメルの代理で争っていると言うのか? トナは更にタネになぜなのか聞いてみたが、タネはそんなトナに、トナ。実は俺もお前と同じように不思議に思った事はあった。 だが誰に聞いても俺がお前に話したような答えしか答えてくれなかった。理由は分からないが王宮で生きていくには不思議に思っても深く追及しない方がいい事も多いんだ。お前はまっすぐに育っているから、そんなお前が王宮でやっていけるのか俺は心配だよ。いいか、分かったな?そうトナに言った。
なおもタネのことばに納得できないといった風に不満げな顔をしているトナに向かってタネは、明日はついに王宮に上がる日だ。もっと早く都に着いていれば都見物に連れて行けたが、時間がない。お前にどうしても会いたいというお方がいるから今日はその方と会って、今晩はお前は宿屋でなくその方の館に泊めて頂けることになっているからゆっくり休めよ。 そうタネは言うと馬車は王宮から少し離れた所に向かった。そこはきっと都の偉い方々が住んでいる場所なのだろう。領主様の館のような広く美しい館がいくつも並んで建っている。トナは今までに見たこともない光景に口をあんぐりと開けて馬車の窓にかぶりついて目の前を流れていく景色を眺めていた。 そして馬車は一軒の大きな館の前で止まった。すぐに中から侍従らしき一人の中年の男が出て来るとトナとタネに恭しく頭を下げた。奥様が中でお待ちでございますと言うと二人を館の中へ招き入れた。奥様?トナはそれが誰なのか分からなかったが、とりあえず侍従とタネについて館の中へ入って行った。 トナとタネは客間だろうか。落ち着いた色調の趣味の良い空間に通された。壁一面にはまるで学舎のようにたくさんの難しそうな本が並べられている。同じように広くてもタスカナの領主の館のような金は掛かっているが、どこか品のない落ち着かない雰囲気と違って、ここにいても不思議と落ち着くな、 そんな風にトナがぼんやり思っていると、扉の向こうから一人の女が現れた。雰囲気から女がこの館の主であるとすぐに分かった。年は母さんと同じくらいだろうか。自分の家の中なのに、まるで祭りの時のように美しく髪を結い上げ、ゆったりとした綿ではあるが、濃い緑に淡い緑の地にいくつもの花の紋様が浮き上がって見える高価そうな織りの着物を重ねて着て、赤いサラシュの花と緑の葉が連なった刺繍の帯を絞めている。 お前がトナね。そう癖のない滑らかなセルシャ語でトナに笑いかけてきた。笑うとまるで花が咲いたように更に美貌が華やかになった。あまりの美しさにトナはことばも忘れて、ぼーっと見とれてしまった。 サマは優雅なしぐさで近くにあった椅子に座ると、トナとタネに座るよう近くの椅子を勧めたが、タネはゆっくり話したいのは山々だが、急いでトナの王宮行きの支度を整えないといけないので、今日は自分はここで失礼させてもらう。
トナは二人きりになって、どきどきしながら改めてサマを見つめた。自分の目の前には生まれた時から都でずっと生まれ育ったような雰囲気の貴婦人がいる。そうシルが見せてくれた絵の中の人のようだ。話すことばだってタスカナの訛りが全くない。 部屋には再び侍従が入って来て二人の前に温かい茶の入った器を置いた。さあ、まだ外は寒かったでしょう?これを飲んで暖まってねとサマはトナに茶を勧めた。 サマはトナに向かって、トナ。お前がまさか都に来ることになるなんて夢にも思ってみなかったわ。王宮から誰か刺繍の得意な娘を王宮に上げろとお達しがあったけれど、お前はまだ十二才と幼いからきっと他の誰かが来ると思っていたら、タネからタスカナからはお前が来ることに決まったと聞いて驚いたのよ。こんな幼いお前が来ることになったのは何か事情があってだし、きっとお前から望んで来たのではないのね。 そうサマは優しい声をかけてくれた。サマも昔タスカナを離れたくないのに、結局都に来ることになったんだ。トナは目の前のサマに遠い先の自分を見た気がした。トナは思わず、本当はタスカナを離れたくなかったの。 サマはため息をついて、やっぱりそうなのね。私の時と同じように脅されたのねと眉をひそめた。 トナはサマの話にびっくりした。思わずそうなの?とすっとんきょうな声を上げてしまった。タネの話では侍女見習いと下働きに分ける試験があるとは聞いていたが、まさか刺繍の腕比べをさせられるとは初耳だった。そんなトナにサマの方が何も聞いていないの?と逆にびっくりした。 王宮では刺繍侍女が足りなくて困っているし、各領地共に刺繍の上手な娘を選りすぐって連れて来ているので下働きになることは、よほどでなければないと思うけれど、最初の腕比べの順位で与えられる部屋の広さや向き、食事の順番なども変わってしまうのよ。 その腕比べでこれからの食事の順番や寝る場所の広さ狭さも決まってしまうのか?トナもその話を聞いて、にわかに焦ってきた。 トナはそんな大切な事を一切話してくれなかったタスカナの領主への怒りとこんな急で自分は大丈夫なのか、他の領主から来ている娘達はどれだけ上手なのだろうかと不安が込み上げて来た。 サマは、トナ。お前の刺繍の腕は素晴らしいし、何よりお前とお前の母さんのエダの刺す刺繍は相手を想って刺してくれているのが手に取っただけで分かるの。だから自信を持って王宮に上がりなさい。きっと大丈夫よ。 これから王宮で一人でやっていかなくてはならないトナにとってサマの気持ちは本当に心強くありがたかった。もちろん何かあったらタスカナにいる母さんに文を送ろうと思っていたが、サマならもっと早く連絡できるし、何より王宮の事も分かっている。初めて自分に会ったのに親切にしてくれるサマに思わずどうしてそんな親切にしてくれるの?同じタスカナの出だから?とトナは聞いていた。 そんなトナにサマはお前の母さんからは聞いていないかも知れないけれど、私もお前の父さんの事が好きだったのよ。私はお前の父さんとは結ばれない運命だったけれど。私にとってクナの娘のお前は、まるで親戚の娘のように思えて心配だし、私でできる事があったら力になりたいのよ。そうサマはトナに微笑み掛けた。 トナも母さんの話で父さんとサマが結婚する噂があった事は聞いていたし、その話を聞いて父さんにそれは本当だったのか尋ねた事もあった。父さんは噂はあったが、実際に結婚の話は出ていなかったとトナに答えた。トナは父さんはサマの事が好きだったの?と尋ねてみたら、笑いながらタスカナの男のほとんどはサマの美しさに惚れてた。
トナはサマは好きだった父さんと結ばれずに、こんなタスカナから遠く離れた都に嫁がされて幸せだったのだろうか?今まで自分が幸せに家族と暮らせていたのはサマの犠牲があったからではないのか。そんな事を思ってしまった。 あの、今幸せですか?トナは遠慮がちにサマに尋ねていた。サマはそんなトナに笑いながら、そりゃ最初は産まれ育ったタスカナを一人で離れるし、好きな人でもない、ほとんど見ず知らずの数回会っただけの十五も年上の方に嫁ぐから陰で泣いていたわ。でも旦那様はそれはそれは私を大切にしてくれたし、可愛い子供達にも恵まれたわ。だから今は幸せよと言った。 その一言を聞いてトナは心からほっとした。今日は旦那様は新しい王様が立つ準備でお忙しいから王宮に泊まりで、館には私と子供達しかいないから、気兼ねなくゆっくり過ごして。お前の部屋を用意したからそこで休んで。 ふう。トナは一人になって思わず大きく息を吐いていた。サマが親切でもやはり緊張していたようだ。トナはごろんと寝台に横になってみた。そうしたら自然と瞼が重くなり、ふわーっと大きなあくびが出てきた。気がつくとトナは暖かい寝台の中にくるまれ、安らかな寝息を立てて眠りについていた。
翌朝、約束どおりタネがトナを迎えに来てくれた。昨晩はやはり疲れていたのだろう。あのまま朝までぐっすり眠りについていて、サマも起こさないでいてくれたのだ。サマはトナへのはなむけとして、淡い緑と深い緑の美しい織りの着物を贈ってくれた。トナはそれに合わせて母さんが持たせてくれたマルハルの実の刺繍の帯を絞めた。 別れ際にトナ。何かあったら必ず連絡して頂戴と強く手を握って見送ってくれた。これからついに王宮に上がるのだ。トナは緊張で胸がドキドキしてきた。馬車から降りてタネと一緒に王宮の門の前に立つと直ぐ様背の高い若い衛兵が二人の前にやって来た。 王宮に上がる娘か?と尋ねて来たので、タネは懐からタスカナの領主から預かった文を差し出した。衛兵は文を預かるとさっと一瞥すると、刺繍侍女候補の娘はこちらについて参れとトナに言った。どうやらこの先にはタネは入れないようだ。トナは急に不安になってタネを見つめたが、タネはトナ。しっかりな。元気でやるんだぞとトナの肩を叩くと衛兵に一礼すると門の前から去って行った。
トナは急に一人にされて不安になったが、衛兵に早く着いて参れと促されたので、慌ててその衛兵に着いて始めて広い王宮内に踏み行った。 トナはつい始めて見る王宮の様子に驚いてキョロキョロ辺りを見渡しながらも、案内の衛兵に必死でついて行った。ここで案内の衛兵の姿を見失ってしまったら自分は二度と目的の場所までたどり着けないのではないかと思うくらい、トナにとってこの王宮は広すぎた。 さあ、着いたぞ。衛兵は一つの大きな建物の前にトナを案内した。どうやらここが刺繍侍女のいる所のようだ。トナと衛兵の姿を見つけると一人の若い侍女らしき女がすぐに建物の中から出てきて衛兵に一礼した。衛兵も侍女に軽く一礼すると、タスカナから来た娘だと伝えるとタネから預かった文を侍女に手渡した。 さ、こちらへ。侍女に促されトナは建物の中に一歩足を踏み入れた。 建物の中に入ったトナはまず入り口に近い小さな部屋に通された。そこには年老いた薬師の男と中年の事師の男がいた。侍女が事師の男にタスカナの領主からの文を手渡すと一礼して部屋を辞して行った。トナは事師の男から自分の名前や父さんや母さんの名前や学舎での事を聞かれて答えた後に、薬師の男に身体中をあれこれ診察された。 始めて会った人の前で服を脱ぎ、あれこれ診られて大層気分が悪かったが、二人はトナ以外の何人もの娘達を診ているのだろう。動揺するトナを尻目に淡々と診断を終えると、この先の突き当たりの部屋へ行くようにとトナに言った。 言われた部屋の扉を開けると、そこには三十人くらいだろうか。各領地から集まった刺繍侍女候補の娘達が皆緊張した面持ちで座っていた。このセルシャの国には大きく東西南北に別れていてそれぞれに七つの領地がある。今回もそれぞれの領地から選ばれた娘が来ているので三十人近い娘がそこにはいた。 年齢もぱっと見た所トナと同じ年くらいの子もいたが、ほとんどはトナより年上のように見える。トナは産まれたから一度もタスカナを出たことがなかったので、他の領地の話は学舎の授業やシルの話でしか知らなかったし、せいぜいトナが見たことのある他の領地の者は市で会う限られた商人だけであった。 セルシャの国の民の多くは黒や土色の髪をしているが、中には北の方の出身なのだろう。金色の髪をした者もいてトナは絵以外で始めて金色の髪をした者を見た。その中に一際見事な波打つような金髪に抜けるように白い肌を持ち、更に整った美しい娘が一人いた。濃い青の着物がその白い肌にとても映えていた。 何て綺麗な子だろう。まるで祭りに来ていた芝居師か舞師みたい。そんな風に思った。この綺麗な子に俄然興味が沸いてきたトナは、私はトナよ。東のタスカナのオリヅから来たの。あなたは?興味津々な顔で尋ねてみた。するとその娘はあたしはアラ。トクミから来たのと言うと、あんたは東の田舎から来たから訛りが激しいのね。と素っ気なくそう言った。 このことばにはさすがにトナもムッとした。このことばにトナと同じようにやはり東のザルハスやザルドドの出身なのだろう。並んで座っている娘達も不機嫌そうな表情をしている。嫌な感じだわ。せっかく仲良くなりたいと思ったのに。 そんなアラにその場に居合わせた一人の娘が、あんたトクミの出だからって、それを鼻に掛けてるんじゃないないわよ!トクミの刺繍なんて元は貧乏漁師の稼ぎの足しになるよう始めたのに、ときつい口調で責めた。赤い着物を着ているので、きっとどこか南の領地出身の娘だろう。北はマルメル、南はオクルスとそれぞれ親しいので北と南は反目していてやはり北のトクミの出のアラの態度が癇に障ったのだろう。元々トクミの青刺繍は、この国の刺繍で一番評判が高い。 トクミは北の港町でトクミの周辺の海では大きな魚が獲れるが他の北の港町と違って波が荒い。なので大きな船が停まれる港が作れないのだ。北のマルメルとの交易船の拠点である同じ北のサクチリや生活に欠かせない塩を作る塩田のあるトエガルと違って、トクミのあるクナクスは同じ北の領地でも栄えていなかった。
マルメルの人に好まれるように青い刺繍糸で刺したのだ。それがある時にクナクス出身の妃が王妃様の座に着き次の王妃様もマルメルの王女様だったので、王宮でもトクミの青刺繍がもてはやされ、いつしかこの国の民もそれを真似してトクミの青刺繍の帯を珍重するようになったのだ。
南は東とは比較的友好な関係にあることもトナは都に向かう馬車の中でタネに聞いた。だからだろうか。トナに加勢したのか。赤い着物の娘はアラに、いくら刺繍の腕が良くても王宮じゃ愛想が良い娘の方が喜ばれるのよ。あんたはそんな事も知らないの? その話にトナは首を傾げていると、知らないの?と小さな声がした。えっ?トナが声のする方を振り返ると淡い赤の着物を着たふっくらとしたトナより二つくらい年上らしき娘がくりくりと瞳を動かしながらトナに話し掛けてきた。将来は刺繍侍女と言うより宿屋や馬車屋のおかみなど大勢の世話をする方が似合いそうな雰囲気の娘だ。 あたしはジハよ。南のオスハデのクルチって町から来たのと言うと、王妃様の数は南出身が四十三人なのに対して北は三十八人なのよ。そう自慢気にトナに教えた。学舎の授業でセルシャの国の歴史については習ったが、今まで何人の王様がいたのかは習っていないし、ましてや王妃様が何人いて、どこの出なんてトナは聞いた事がなかった。
そんなトナにジハは、だけど王様の寵妃だった人の数が多いのは西なのよねと悔しそうに言った。
今の王妃様は北のバルスエの領主様の娘だけど、今の王様の寵妃も西のクチチトの領主の娘だし。やっぱり西は美人が多いと言われているからかしら?でも西の女は着物や化粧に金を掛けるから嫁にするなと言われているのにねと続けた。
良くそんな事まで知っているな。トナは思わずジハに感心してしまった。
そうなると自分達が仕える事になる新しい王妃様やお妃様はどういった方なのだろう?確かタスカナの領主様はダルマツ様には三人の妃がいると言っていた。新しく王様がお立ちになると言う事は新しい王妃様は決まっているのか?
俄然トナにもむくむく興味と好奇心が沸いてきた。
ジハに、じゃあ新しく王妃様になる方は決まっているの?どんな方なの?と尋ねてみると、ジハはあんた、王宮に上がるのにそんな事も聞いていないの?タスカナはそんなに情報が伝わらない田舎なの?それともタスカナの領主様は無能で王様や王宮の事師から呆れられているって噂があるけど本当なの?まあ東は南より遅れているから仕方がないけれどと辛辣な事を口にした。
トナもタスカナの領主様には脅されたりしたので良い印象は持っていないが、他の領地の者からタスカナについて悪く言われるとさすがにカチンと来た。
思わずトナは東は田舎かも知れないけれど、南のように噂好きで意地悪な人は少ないのよと言い返していた。
そんな二人に黄色い着物を着た娘がにこにこと笑いながら、もう、やめましょうよ。これから王宮で一緒にやっていく仲間になるんだから仲良くやっていきましょうと声を掛けてきた。良く見るとアラほどは整った顔立ちではないが、愛嬌のある可愛らしい顔をした娘だ。アラと違って親しみやすい雰囲気を漂わせている。
あんた誰よ?とジハが訪ねると娘は私はクタよ。西のクチチトから来たのよと二人に笑い掛けた。そんなクタにジハは、西って事はあんたも王様の妃の座を狙って王宮に上がったの?と聞いてきた。え?思いもよらないことばに思わずトナはびっくりしてしまった。
コンコン。 急に大きく扉が叩かれて、娘達は慌てて皆黙って背筋を伸ばして座り直した。扉が開いて二人の中年の女が入ってきた。一人は背が高く棒のように痩せていて神経質で気難しそうな顔をしていて、もう一人はでっぷりと太っていて首が埋もれてしまっている。まるで棒と樽じゃないか。棒女と樽女か。トナは二人を見た瞬間とっさにそう思ってしまった。そう思うと笑いが込み上げてしまいそうで、何とか笑いを堪えた。そんなトナをアラがちらりと横目で見た。 樽女がその体型に見合った野太い声で並んで座っている娘達にこう伝えた。皆、それぞれに遠い地からここまでの長い旅路ご苦労であった。早速これからそなた達の刺繍の腕がどれほどなのか知りたいので、刺繍を刺してもらおう。布と刺繍糸はこれから配る。それを使って得意な物を刺すがいい。
皆に配り終わった頃を見計らって樽女が他に何か質問はないか?なければこれから始めるぞと声を掛けた。トナは渡された布と刺繍糸を眺めていたら、疑問が沸いてきた。いつもトナが母さんに言われて刺繍を刺す時の大切な事について何も聞かされていないではないか。トナは恐る恐る声をあげた。あの、聞きたいことがあります。 その声に棒女と樽女、そしてその場にいた娘達の視線が一気にトナに向けられた。樽女が野太い声で、そなたはタスカナのオリヅから来たトナだな。言うてみよと声を掛けた。 トナは思い切って、あの。今回は誰の何の為に刺すのでしょうか?と聞いてみた。そんなトナの問いに樽女は何?と急に鋭い顔をしてトナを見つめた。そんな視線にトナは自分は何かおかしな事を言ったのかしら?と少し戸惑ったが、でもそれを聞かないと帯は刺せない。そんなトナに今までずっと黙って座っていた棒女がどうしてそのような事を聞いてみようと思ったのだ?言うてみよと命じた。 そんな棒女に樽女の方が慌ててアギ様と声を掛けた。どうやら棒女はアギという名前で樽女より偉いようだ。アギは慌てる樽女を軽く手で制して、トナに続けるように目線で促した。トナは思い切って、母さんは刺繍を刺す時にいちばん大切なのは相手のことを想って、一針一針心を込めて刺すのよと言っていた。だから今回もただ刺繍を刺せと言われても、誰の何の為の帯なのか聞かないと刺繍は刺せないとアギに訴えた。
トナの話を興味深そうな顔で黙って聞いていたアギは全て聞き終えると、ではトナ。そなたが今一番刺繍の帯を贈りたい相手は誰だ?想像してみよ、と促した。トナは目を瞑って想像してみた。
今回初めて会ったのに優しくしてくれたサマ。タスカナから都までの道中世話になったタネ。自分との別れを惜しんでくれたシル。次々に浮かんで来るが、トナの頭の中には自分との別れで涙を流している母さんの顔がはっきり浮かんできた。自分が今一番贈りたいのは母さんだ。母さんへの懐かしさと恋しさが浮かんで来る。それと今までの感謝の気持ちだ。一緒に暮らしていたら当たり前過ぎて気がつかなかった事が、この数日の旅の間にいろいろ浮かんできていた。トナは目を開けた。 そんなトナにアギは浮かんだようだな。今のそなたの気持ちをそのままに刺してみるが良いと言った。アギは他に質問がないようならカサ、進めておくれ。と樽女に命じた。樽女はカサという名のようだ。カサはアギに向かって軽く一礼すると、では始めるぞと娘達に声を掛けた。トナも他の娘達も皆、目の前の針と糸に集中して思い思いの刺繍を刺し始めた。
気がつくとあっという間の時間だった。集中して目の前の布と糸で母さんへの想いを形にしていった。終わりの合図と共に一気に緊張の糸が弛んだ。他の娘達も皆トナと同じだったのだろう。皆一様に息を深く吐いたり、身体を軽く動かしたりしている。完成させた帯はそれぞれ領地と自分の名を記した札を付けられてカサの手元に渡ると、カサは皆、ご苦労であった。この後は一旦食堂に案内するのでそこに夕飯が用意してある。しばしそこで休息するように。 その後、今後のそなた達の部屋割りを発表すると声を掛けると、アギと共に部屋を出ていった。入れ違いに最初にジユを建物の中に案内してくれた若い侍女が現れて、娘達を食堂に案内した。そこにはたくさんの椅子と机が並び、今日の勤めを終えた後らしい美しく着飾ったたくさんの華やかな侍女達が笑いながら食事をしていて、トナはその華やかさに少し気後れしてしまった。
でもこれから自分もその一員になるのだ。トナは自分にそう言い聞かせた。夕飯を終えた頃にカサと先ほどの若い侍女が現れ、これから刺繍侍女の住まいに案内する。着いてこいとトナやアラ達を王宮の奥の侍女達の住まいに案内した。今日からここがお前達刺繍侍女や見習いの住まいだ。明日からの事を伝えるので良く聞けと話し始めたので、トナは慌ててカサの話を聞き漏らさないようにした。
侍女見習いは数人が同室になる。先ほどの刺繍の腕で部屋割りを決めたのでそれに従うように。これから同じ部屋の者は連帯で責任を負う。誰か一人でも決められた休みの日以外に病欠届けを出さずに無断で休んだり、刺繍の鍛練を怠ったら罰として同じ部屋の皆の食事が抜きとなる。お互い支え合い一日も早く一人前の刺繍侍女となれるように努力するようにと。その他細々とした生活の注意が与えられた。
では部屋割りを伝える。基本的に侍女見習いは四人で一部屋となる。呼ばれた者は前に出よ。トナはドキドキしてカサの言葉を待った。まず北のクナクスのトクミのアラ。どうやらあの無愛想なアラの刺繍の腕が一番だったようだ。さすがトクミの出身だけある。西のクチチトのクタ。あ、さっきの優しそうな娘だ。できるならあの娘と同室が良かったが、クタはあの無愛想なアラと一緒なのか。 南のオスハデのジハ。あ、あの噂好きの娘だ。そして東のタスカナのトナ。お前達が同室だ。部屋はその突き当たりの一番広い部屋だ。思わぬ言葉にトナはびっくりして目を丸くして驚いてしまった。 次に西のセズトロのサハ。東のザルドドのキリ。南のホルトアのジゲ。北のカヤタクのマズ。カサはトナの驚きを他所に次々に娘達の名前を読み上げている。あの無愛想なアラと噂好きなジハという娘とこれから毎日一緒に生活するのか!これからいったいどんな毎日をあたしはここで過ごすんだろう。 まあ優しそうなクタがいるから何とかなるだろうか。同室に決まった二人をそっと眺めてトナは秘かにため息をついた。こんな風にトナにとっての王宮での生活は始まったのだ。 皆が寝静まった頃、ある王宮の一室で刺繍侍女長のアギと副侍女長のカサが二人で茶を飲んでいた。オクルスから入ってきた貴重な茶で、本来は王族しか口にできない物だ。オクルスからの使節がオクルスの王からの献上品として
カサ、あのタスカナから来たトナという娘だが、刺繍の腕はやはりトクミのアラという娘が一番だが、もしかしたらあの娘が一番刺繍師としての素質があるかも知れないね。誰の為に、何の為に刺繍をするのかと最初から聞いてきた娘は初めてだよ。私達が本当に必要なのは刺繍侍女ではなくて、刺繍師になれる素質のある娘だからね。アギの言葉にカサはアギ様、承知致しました。 これからじっくりとあのアラとトナ、どちらが刺繍師にふさわしいか見極めたいと思います。と深く頷いた。アギは笑いながら、焦ることもあるまい。まあ、これからじっくり見極めようではないか。 それにいくら刺繍師としての資質があっても、どこかの誰かさんのようにお偉い方に見初められてしまう可能性もあるからね。アラは愛想はないが顔立ちは美しいから、あり得るかも知れないね。まあお偉い方に見初められなくても恋をして そう、私達と一緒さ。アギとカサは謎めいた微笑みを交わして、アギはもう一杯ずつ熱い茶を二つの茶器に注いだ。 あれから五年の歳月が過ぎ、トナは十七歳の娘となった。五年の月日のうちに話す言葉からタスカナの訛りは抜け、生まれた時から都にいたようなセルシャ語を話し、長く伸びた髪を結い上げ、綿ではあるが美しく染められた布で仕立てられた衣を身に纏い、身体つきもすっかり娘らしくなった。
腕のいいトナは、今年の春に王宮に上がってたった五年の十七歳で刺繍部門の侍女見習いから、正式な侍女と認められた。この五年間、毎日毎日いったい何千枚もの布に刺繍を刺しただろうか。王宮に使える大臣や国の税や政務などを司る事師や外交を担う通師やマルメルの国やオクルスの国の言葉を操る語師、王宮を守る衛兵や侍女たち。それぞれの身分と位を表す文様と色の刺繍の帯をいったいどれだけ完成させただろうか。 もちろん見習いのトナは王様やお妃様、王子様や王女様たちの服の刺繍は任されたことはなかった。やっと正式な侍女と認められて王族の衣に刺繍する栄誉が与えられるのだ。それでも先輩の侍女たちが王様やお妃様たちの服にどんな色や図柄で刺繍を刺しているのかは、ずっと同じ刺繍室の近くで見ていたし、頼まれた色糸の手配なども手伝っていた。書庫にある分厚い過去の図柄帳から、文様を書き写したことだって何度もある。 トナもアラも、一緒の時に王宮に上がった娘たちも五年間の間、刺繍の技だけではなく、多くのことを学んだ。残念ながら五年の任期が明けて正式な侍女になれず、王宮を去って行った者も数名いたし、トナと同じ時に王宮に上がったのに、まだ刺繍侍女見習いで正式な侍女になっていない者の方が多かった。 それだけではなく、それぞれのお妃様の好みの色の布地にどうやったら一番華やかで美しく、それでいて気品が溢れるようにするには、どのような色と図柄にして、また刺繍と刺繍の間を埋めるのか。妃達の衣は絹織物の衣の胸元と足元、それに合わせる帯に刺繍を刺している。
野太い声の副刺繍室長のカサがトナに声を掛けた。カサはたっぷりと肥えた女で、その身体に見合った大きな野太い声を出すので、彼女の指示は刺繍室内に響き渡る。
トナと同じ時に王宮に上がって、毎年春にある昇進試験で今回正式に侍女になれたのはトナとアラ、ジハだけであった。三人と同室であった西出身のクタも腕が良く本当は侍女に上がれたのだが、結婚が決まり、つい一月ほど前に王宮を辞して行ったのだ。 話し上手で優しい商人。トナは、ふと故郷のシルのことを思い出した。王宮に上がってからも、母さんは季節ごとの便りを送ってくれて、トナには遠く離れた故郷の村の家族や村の仲間の消息は伝わっていた。シルはトナと同じ学舎に通っていたトナと仲良しだったサエダ村のキトを嫁にもらったそうだ。トナにとってタスカナは遠い記憶の中の場所になってしまっていた。 つい最近、身近にいたクタが嫁に行ったので若い刺繍侍女たちの話はもっぱら結婚の話で盛り上がっていた。侍女が王宮を去るのは年老いて、そう五十を越えたらか、家族の事情などで故郷に戻るか、病や怪我で勤めができなくなった時か、残るは誰かと結婚をする時であった。 侍女たちは王宮に使える事師や通師、語師や薬師などの役人や、衛兵。数多くいる王宮に出入りする商人たちの嫁になることも多かった。ごく稀にだが、王様や王族に見初められる者もいる。 もう一人のルカララ様も北のサクチリの出身で代々マルメルとの外交の任を担っている名門貴族の出身で、ルカララ自身も今のマルメルの王とは縁続きという話を聞いたことがある。メマリスの実家に引けをとらない名家の出だ。アラと同じように北の出身らしい抜けるような白い美しい肌と金色の波打つ髪が自慢でいつもそれを際立たせるような装いをしている。 そしてもう1人のナトラス様は元はトナたちと同じ刺繍侍女の一人であったが、王様に見初められて妃の1人となったのだ。侍女たちは憧れといくぶんのやっかみを含めてナトラスの話題を口にするが、皆敢えてその名前は言わずに暗にぼかして言うのだ。トナが王宮に上がって感じた、いくつもの不思議のうちの一つであった。 なぜナトラス様の本当の名前や過去について明かされないのだろうか。元刺繍侍女であったのは公然の秘密とされていた。トナが王宮に上がる時にタネから王宮で生きていくには不思議に思っても深く追及してはいけない事があると教えられた。まさにナトラス様に纏わる話がそうであったのだ。 トナとジハは連れ立って仕立室に行った。今日の仕立室はなぜかやたらと忙しそうだった。何人もの商人らしき男達が出入りし、仕上がった衣を受け取って、メマリス様の衣がいつ仕上がるのか教えてもらえればトナ達の用事は終わるが、やけに待たされた。
刺繍を刺す前にきちっと確認しておかないと後で大変な事になる。なので仕立室には刺繍侍女見習いではなく、刺繍侍女が赴かないといけないのだ。もしそこで傷やほつれがあれば、すぐに仕立侍女が治すのだ。トナとジハは丹念に衣を調べて問題がなかったので受け取り、メマリス様の仕立ての様子を尋ねると刺繍室に戻った頃にやっと今日の勤めが終わった。 トナとジハは王宮の刺繍室から食堂に向かい、その後刺繍侍女達の住まいの棟に戻ってきた。刺繍侍女見習いの時は数人で一つの部屋を与えられて、刺繍の腕の近いトナとアラ、ジハとクタは同じ部屋であった。技量の近い者を同室にして教えあったり、お互いに競わせたりして更に腕を磨かせようという狙いがあって部屋割りは決められていた。
またなるべく東や西、南や北という別の地域の娘を同じ部屋にすることで、地方間の摩擦を減らそうという意図も秘かに含まれていた。正式な侍女になれば希望すれば個室を与えられる。侍女に成や否や、すぐにアラは個室に移ったが、トナとジハは同じ部屋に残った。
ジハがどこかの商人から袖の下としてもらったのだろう。懐からこっそりと干した甘いセズの実を出してきた。トナもそれぞれの茶碗に湯を注いで、床に置いた。
相変わらず噂好きで如才ないジハは、この刺繍室だけでなく、仕立室や料理室、子守室など他の部署の侍女たちや出入りの商人たち、果ては事師や通師などこの王宮にいるいろいろな人たちに知り合いがおり、そしてまたどこからともなく、いろいろな情報を仕入れてくるのだ。 ねえ、ジハ。きょうは仕立室はずいぶん忙しそうだったし、クタの旦那様だけでなくて、別の絹織物の商人の姿も見かけたわ。夏衣はだいたいできているし、秋衣の準備にしては早すぎるわ。トナの問いかけにジハは、そら来たとばかりに目を耀かせて声を潜めた。マルメルの国の使節が一月後に急に来ることが決まったそうよ。通師のカルと語師のサチの話だから間違いないわ。あ、これはまだ公にされていないから、ここだけの秘密よ。絶対に他に言ってはダメよ。 いつもの口癖だ。トナは苦笑しながら続けた。こんな夏に急に使節が来るのも珍しいわね。毎年の春に来る使節が帰ったばかりじゃない?いったい何故かしら?それにどうして使節が来るのに仕立室が忙しくなるの?宴会の料理の準備で料理室が忙しいのなら分かるけれど。マルメルの国とは衣は違うから献上できないし。 そんなトナの問いにジハは更に声を潜めて、これはもっと秘密よ。今回歓迎の宴はルカララ様が、お別れの宴はメマリス様が催すのよ。それ以外の滞在中の行事もお二人それぞれ分担して行うんですって。まだ王妃様が決まっていないでしょう? 今の王様には三人のお妃様がいるが、まだ誰が正式に王妃様になるのかが、決まっていなかった。それ故に妃たちの間では常に水面下で見えない争いが起こっていた。もっとも争っているのはメマリスとルカララの二人の妃だろうと皆思っていた。 ジハは、まあ王様のご寵愛は一番お若いナトラス様だけどね。王女様をお二人も産んでいらっしゃるし、いつ三人目がお産まれになってもおかしくないわ。ルカララ様もメマリス様も王子様をお一人ずつしかお産みになっていないのは、ここ数年は王様は夜はナトラス様の館にしかお泊まりにならないからみたいね。と少し下卑た笑いを浮かべた。
そして、でもいくら王様のご寵愛があってもナトラス様が王妃様にはなれないでしょうね。お二人のような名門の貴族の家柄じゃないもの。お二人を差し置いてナトラス様を王妃様にしたらお二人のご実家が黙っていないわ。その辺りはさすがに王様もお分かりでしょうしね。 でもルカララ様が王妃様になれば、今は良好な南のオクルスと関係が悪くなるだろうし、逆にメマリス様が王妃様になれば北のマルメルが塩の交易を止めると言い出し兼ねないわ。だから王様も未だにどちらを王妃様にするのか決めかねているのよ。王様にとっても難しいご決断よね。王宮内の話でなく外交問題にまでなってしまうものとジハは大げさに顔をしかめてみせた。 そうこのセルシャの国はオクルスとマルメル。二つの大国の狭間で生き延びている国なのだ。上手く均衡を保っていかなければならないのだ。でも皮肉な事よね。ジハがだらしなくごろんと床に寝そべりながらこう言った。 ルカララ様とメマリス様がそれぞれ王子様をお産みになったのがたった一月しか違わないから、先に産まれたルカララ様のお産みになった王子様を年長者とも言えないし、二人の王子様のどちらかが飛び抜けて賢いとか、逆にお身体が弱くて王位を継ぐのが難しいとか誰もが納得する決め手があれば、すんなり世継ぎの王子様を決められて、その母上を王妃様にできるのにね。
ジハはそこまで言うと急に起き上がり、トナに向かって急に真剣な顔をして、でも王様は本気でナトラス様を王妃様に据えようとお考えなのかもね。まだお若いナトラス様なら王子様をお産みになる可能性もあるからそれを待っていて、だからまだ王妃様を決定しないのかもと言うと、更に急に声を潜めて、だからナトラス様の過去を秘密にしたんじゃない?とトナに囁いた。 そのことばにトナはジハと視線を合わせてしまった。ジハは無言でこくりと大きく頷いた。ナトラスが元刺繍侍女であったというのは公然の秘密とされていた。だが何故わざわざそれを秘密にする必要があるのか。 何故ナトラスの過去を秘密にしているのか。トナだけでなく噂好きのジハがそこに関心を持たないはずがなかった。先輩の刺繍侍女達に聞くと、皆一様に口をつぐむのである。ある侍女は私はその時は見習いでナトラス様と同じ頃に刺繍侍女だった先輩達はちょうど前の王様が病で臥せっておられて、刺繍侍女達が暇で皆王宮の外に出たくて結婚して辞めてしまった時だから、
刺繍室にはナトラスと同じくらいの年齢のザホという先輩の刺繍侍女がいる。良く言えばこだわりのある職人気質で、悪く言えば要領が悪い。つまり自分が納得するまで時間を掛けてしまうのだ。 それは昨年の秋の事だった。メマリスの冬衣の一枚をザホが任されていた。燃えるような深紅の絹の衣で国一番の染師と言われているパルハハの染師によって染められた布を使った美しい衣だった。俄然ザホの職人気質に火を付けてしまい、あれやこれや細部までこだわって刺繍を刺していたら期限まで残す所二週間になってザホは焦った。このままではとても約束の日には間に合わない。 その年の春に一度メマリスが衣の刺繍がお気に召さなかったとかで、刺繍侍女長のアギや副侍女長のカサはじめ、その衣の製作を担当した刺繍侍女やその刺繍侍女の手伝いをした刺繍侍女見習いまでもメマリスの館に呼び出されて、えらく怒られた事があった。なので刺繍室ではメマリスの衣には特に神経を尖らせていたのだ。
ただ本来は王族の衣に刺繍を刺せるのは正式な刺繍侍女に認められてからとされていたので、ザホはトナ達に話を持ち掛け、勤務が終わった後にこっそりとトナ達の部屋に衣を持ち込み、同室のアラ、ジハ、クタとトナの四人で手伝って何と約束の日に間に合わせたのだ。 その数日後、勤務が終わってトナとアラ、ジハが部屋にいる時にこっそりザホが部屋を訪ねて来た。クタはちょうど恋人の絹織物商人が王宮を訪ねて来たとかで部屋を外していた。今回は本当に助かった。礼を言うぞ。今回の事はくれぐれも内密にな。ザホはそう言うと礼は何がいい?と三人に尋ねてきた。 アラは素っ気なく金額を口にした。トナはちょうど冬用の暖かい靴が欲しかったのでそう伝えた。ザホはクタにも望みを聞いておいて後で伝えて欲しいと三人に言った。きっとクタは髪飾りだろうなとトナがぼんやりと考えていたら、ジハはザホにこう言い出したのだ。 アギ様やカサ様に知れたら大変な事に手を貸したんですよ。それぐらいの秘密を共有したんだから、ナトラス様についての話だって聞いても決して他言しませんから。そう言うとジハはザホの目をじっと見つめた。
ザホと同じ日にナトラスは東のザルドドのコマヌから王宮に上がった。その頃はトナ達のように大量に刺繍侍女が辞めてしまったので各領地にお達しが来て数十人も一緒に王宮に上がったのではなく、自ら侍女になりたい者達が手を上げて王宮に上がっていた。ザホは始めてナトラスを見た時に驚いた。 身元確認をする為に門の前に並んで立っていたが、ごく普通の皆が着ているような緑の綿の着物に刺繍の帯を絞めて立っていたのに、まるでどこかの領主の娘か貴族の娘のような気品のある雰囲気を漂わせていてザホは自分の目を疑った。 娘はザルドドのコヌマから刺繍侍女見習いとして参りましたと衛兵に伝えて文を手渡した。その姿を見つめながら本当にこの子は東の果ての田舎の村であるコマヌから来たのか?まるで貴族様みたいじゃないか。そうザホは思った。そしてトナをちらっと見ると、おまけに話すことばも東の地方独特の訛りが全くなく、まるで産まれた時から都にいた人のようだったと続けた。 トナも王宮に上がって何とか刺繍侍女長のアギや副侍女長のカサ、それに先輩侍女達の言葉遣いや口調など必死にまねて直したのだが、かなり苦労した。今でも焦ったり驚いたりした時はつい訛りが出てしまう。やはり東のザルドド出身のクリの訛りは更にトナより強いので、今もクリは訛りが完全には抜けていなかった。 そこまで聞くとジハは思わず黙っていられなかったのか、本当はザルドドの出じゃないんじゃない?と口を挟んだ。しかしザホは首を横に振ると、自分から手を上げたとしても身元が確かでない者は王宮に上げたら危険だから領主様の文がないと王宮に上がれないでしょう?ザルドドの領主様の印の入った文を持って来ていたから、ザルドドの出は確かよとジハの意見を否定した。 それにその気品溢れる雰囲気に反して、手は明らかに日々働いていた事が伺い知れる手だった。働く必要のない領主や貴族の娘の手とはとても思えなかった。刺繍の腕は将来は刺繍侍女長になるのではないかと囁かれるくらい上手だった。十四歳で王宮に上がったが、いきなり見習いも経験せずに刺繍侍女になれたくらい刺繍の腕も確かで、なぜか王宮の行事や歴史、そして各地方の刺繍についても詳しかった。 ザホはナトラス様はあまり周りと雑談しない無口な娘で、ほとんど自分の話や故郷のザルドドの話も口にしなかったし、他の侍女のように故郷から文が届いているのを見た事がなかったのよ。と言った。とっさに思わずトナはちらっとアラの横顔を見つめてしまった。トナはアラに故郷から文が来ているのを見た事がなかった。 トナは王宮に上がったばかりの頃はまだ周りに馴染めず、故郷の母さんや同じ学舎で仲良しだったサエダ村のキトからの文だけが日々の楽しみだった。 他の娘達も皆そうであったのだろう。文は毎日勤めが終わる頃に届く。勤めが終わる頃には皆自分に文が来ていないかとそわそわしていたし、自分に文が届いていると知ると皆一様に満面の笑みを浮かべていた。さすがに今は王宮での生活にも慣れたので、ジハと話したり、商人達が持ってくる珍しい品を見たり他の楽しみもあるが、やはり母さんから文が来ると嬉しい。 一年前くらいから急にキトからの文がぱったりと来なくなっていたが、トナは母さんからの文でシルとキトが結婚する事になったと聞いていた。きっとキトは自分が淡い恋心を抱いていたシルと結ばれる事になって言えなかったのだろう。しかしアラにはそんな文が故郷から届いているのをトナは見た事がなかったし、アラも無口で無愛想で仕事や日常生活に必要な話はするが、自分の事はほとんど話さない。
三人の声は聞こえているので、たまに三人の話が検討違いの方向に流れると、素っ気ない口調で一言指摘が入っていたが。きっとアラは故郷で何かあったのだろう。トナはそう思っていた。なのでついとっさにアラの横顔を見つめてしまった。しかしアラはトナの視線に気づいたのか気づかなかったのか、いつもと変わらない無表情な顔で黙って、ザホとジハの話を聞いていた。 無口で美しくて、そして自分の過去に纏わる話をせずに、故郷から文が来ない。アラとナトラス様はどこか似ているのかも知れない。 ザホは、ナトラス様が侍女になって三年後だったわ。今の王様はその時はまだ世継ぎの王子様で王宮ではなくて離宮にお住まいだったの。ある日急に世継ぎの王子様が王宮にいらして、この刺繍を刺した娘に会いたいとお召しがあって呼ばれて、翌日には妃になるとお達しがあって、すぐ王宮から離宮に移って行ったわ。 ザホは深くため息を着くと、自分と同じ時に王宮に上がったのに片や王様の妃となり、自分はまだ嫁に行けず刺繍侍女のままで、刺繍侍女長や副侍女長にもなれそうにない。全く不公平よね、本当にササは運がいいわと呟いた。ササ!トナは驚いてザホの顔を思わず凝視してしまった。今ササと言ったのか? 昔母さんの目の前に現れて、母さんに父さんの病気が治る刺繍の帯の事を教えてくれて、その後調べたが全く正体が不明だった謎の老女と同じ名前だ。ナトラス様の元の名前はササと言うのですか?トナは思わずびっくりして、ついタスカナ訛りの大声でザホに尋ねてしまった。 サエダ村のミクが前の王様の妃になった時にサイミシという貴族らしい名前に変えさせられたように、ナトラス様の元の名前はササと言うのか!しかしどう考えても二人は別人だ。母さんが娘の時に老女だったササと今の王様の妃のナトラス様はあまりにも年が違いすぎる。おまけにその老女はコヌマに行くと言っていた。ナトラス様の出身地だ。奇しくもコヌマという場所もあの謎の老女のササと繋がっている。 トナの様子にザホは幾分驚きながらも、ええ、ナトラス様の元の名前はササと言うのと答えた。ジハもそんな名前聞いたことないわ。だってササの日なんて暦にないじゃない?と驚いている。珍しくアラがザルドド独自の名前じゃないの?と驚いている二人を他所に素っ気なく口を挟んだ。 しかしザホは私も他の侍女達もみんな不思議な聞いたこともない名前だったから、ササに理由を聞いたけれど答えてくれなかったわ。だからアラと同じようにザルドドの独自の名前かと思ってたの。でもその後にザルドドから来たカノとクリにもこっそりザルドドにササという名前の人はいるのかと聞いてみたら二人共聞いたことがないと言うし、やはりザルドドでも子供には産まれた日の暦の名前をつけるそうよ。
そこまで話すと、ともかくナトラス様は元から謎が多くて、今も過去を明かしてはならない方なの。だからお前達もこのまま王宮に残りたかったら、今聞いた事は絶対に他人に話してはならぬ。もちろんクタにもだぞ。分かったな。そう強く念を押した。トナもジハも王命という言葉の重さに押し黙ってしまったが、アラは承知しました。決して他言致しません。
アラが今任されているのは、ナトラス様の夏衣だ。一度アラが刺した刺繍を見て、大層気に入ったので今回の夏衣の刺繍をそのアラという娘に任せたい。そう命令が来たのだ。正式な侍女になって数ヵ月で直々に、しかも元腕の良い刺繍侍女であったナトラスにそう言わせるほどアラの刺繍の腕前は素晴らしい。トナは刺繍を任されたアラが羨ましかった。 トナが任期の五年が終わってもタスカナに戻らず、このまま王宮に残ろうと思ったのは他でもない。もっと刺繍が上手になりたい。アラのように刺繍が上手くなりたい。そんな思いがあったからだ。もちろん父さんや母さん、弟のトジとエジ、妹のヌクとも会いたいと思うが、アラに追いつきたい。いつしかそんな気持ちがトナに沸き上がってきていた。 ジハはきっとアラは今回も文もろくに読まないで捨ててしまうでしょうね。私達と同室の見習いの頃から幾人もの衛兵から文をもらってたのに全部見もしないで捨てていたもの。ああ、もったいない。衛兵の副隊長よ!この前は事師だし。何が不足なのかしら?アラは本気で王様の妃にでもなろうと思ってるのかしら?だから自分の過去を話さないのかしら?そう不満げに口にすると、またセズの実を口に入れた。これでは太る訳だ。 トナはこのままではジハはいつかカサのようになってしまうだろうと秘かに思いながら、ジハはもう王様の妃になる夢は持っていないの?と冗談っぽく声を掛けると、ジハは顔をしかめて、もし私が妃になったらメマリス様を敵に回すのよ。メマリス様本当に怖いんだもの。もうそんな身の程知らずな事は考えてないわ。優しくて美男子の衛兵で充分よ。 コンコン。 急に扉が叩かれ、慌てて二人共口を閉じた。トナが扉を開けるとトナと同じタスカナの出で母さんとトナのちょうど間くらいの年の先輩侍女のミボが慌てた様子で、トナ、ジハ。アギ様から急に話があるからすぐ皆集まるようにと連絡があったの。どうやら急にマルメルの使節が来るそうよ。それで急いで新しい衣を仕立てるから刺繍の分担を決めるそうよ。アラも呼んで急いで刺繍室にすぐ集まって頂戴。そう伝えると他の部屋にも伝えに行く為、慌てて出て行った。 本当に忙しくなりそうだ。トナもジハもお互い目線でやれやれと合図すると、トナはささっと髪を結い直し、ジハも帯を絞め直すとアラの部屋に向かった。 正式にマルメルからの使者が来ると発表され、王宮内はどこも慌ただしくなっていた。ジハはまたどこかから情報を仕入れ、サクチリの港にマルメルの使節を迎えに行く大臣だけでなく、語師と衛兵の誰が選ばれたと言っていた。 そんな時に急に刺繍室にナトラス様付の侍女長がやって来て、副侍女長のカサも呼んで、侍女長のアギの部屋に入ると扉が閉められた。 いったい何があったのだろう?何かお咎めを受けるような事があったのだろうか?皆気になって、ついちらちら閉ざされたアギの部屋の扉の方を見てしまった。もちろんトナも気になり、左隣の机のジハと目線で何があったのだろう?と会話していた。侍女達には数日に一度交代で休みが与えられていてトナの右隣の席のアラは今日は休みでいなかった。 皆、ナトラス様が今回の宴用に新しい衣は仕立てずに今アラが作っている衣と既にご自分がお持ちの衣で出席されるというありがたいお申し出があったのだ。そのことばに皆にわっと笑みがこぼれた。ただでさえ宴用の衣は手間が掛かるので、一枚でも刺繍する衣が減れば本当に刺繍侍女からするとありがたい。 そこで今アラが刺している薄紫の衣とお持ちの衣に合う緑の刺繍の帯を一枚刺して欲しいとのご命令だった。トナ。これからお前がナトラス様の所にお伺いしてどんな刺繍が良いのか見ておいで。戻ったらどんな柄が合いそうなの、必要な色糸を私に伝えるのだ。分かったな。 ナトラス様の元にこれからお伺いする! 急な命令にトナはびっくりした。なぜアラでなく私にご命令なのでしょうか?そう尋ねるとカサは急に宴があると決まったので各地から色糸を集めないと、とても倉庫にある糸だけでは足るまい。今回もナトラス様は紫の刺繍の帯をご希望と思っていたので緑の糸が少ない。明日の朝に糸商人達を集めるので明日アラが来てからでは遅いのだ。お伺いするだけならばアラでなくとも構わないだろう。お前ならアラの隣に座っているので、今アラが刺している刺繍も良く見ているからな。 ジハがなぜ私ではないのだと言いたげに口を尖らせている。カサはジハの表情に気づいたようで、東の出の者の方が緑の色には馴染みがある。東のザルドドとタスカナの出の者でミボは王様の、カノは王女様の衣の刺繍があるし、クリも王子様の衣の刺繍が終わっていない。なのでトナ、お前がお伺いしなさい。そう言われるとトナもジハも反論できない。こうしてトナは始めてナトラス様の館に足を踏み入れた。 王様の寵妃であるナトラス様の館という事でもっと派手で豪華な部屋を想像していたが、トナの想像に反して部屋は暖かみのある落ち着いた雰囲気だった。こんな館の主はナトラス様とは本当はどんな方なのだろう。無口で美しくて謎が多い。そしてザルドドのコヌマの出で元の名はササと言う。それがトナの知っているナトラス様だ。もちろんその事は知らない事になっているが。 ナトラス様がお見えです。ナトラスの侍女長の声がしたので、慌ててトナは深く頭を下げた。扉が開くと、ふっと甘い花の香りと共に絹の衣の擦れる音がして人の気配がした。 面を上げよ。侍女長の声に従いトナは顔を上げた。そこには土色の髪を綺麗に結い上げて、淡い紫の絹の衣にやはり同じ紫の刺繍の帯を絞めた、どこか謎めいた妖艶な美しい人が座っていた。こんなに間近でナトラス様のお姿を拝見した事はない。トナは緊張しながらナトラスに視線を向けた。 ナトラスの方も幾分驚いた表情をしながらそなたがアラか?確かアラはトクミの出で金色の髪の娘と聞いているが、と少し低いが良く通る声でトナに尋ねた。どうやらナトラス様の元にもアラの情報は伝わっているのだろう。金髪の美しい娘と言わなかったのはナトラスの優しさだろう。トナは私はトナと申します。 そんなトナをナトラスはなぜかどこか懐かしそうな顔をして優しくじっと見つめていた。いったいなぜそんな表情で私を見つめているの?ナトラスの視線にトナは戸惑ってしまった。 そうか、十七歳か。もう一度ナトラスはそう口にした。そう言えばナトラス様は十七歳の時に王様の妃になったのだった。トナはザホから聞いた話を思い出していた。 ナトラスは表情を改めると、今回の宴はそれぞれメマリス様とルカララ様が執り行う。私はどちらもただ出席するだけなので特に宴用の衣は作らずに今ある物で出席する。たださすがに帯は新しくしないと礼儀を欠くのでこの衣とアラが今刺繍を刺している夏衣に合う緑の刺繍の帯を刺してもらいたい。どんな刺繍が良いと思うか?そう尋ねてきた。 元は優れた刺繍侍女だったナトラスならば、きっとどのような色や図柄にするか頭に浮かんでいるのだろう。しかしそれも口にできずトナに尋ねたのだろう。ナトラスの侍女長が紫の衣をトナに手渡した。この国では北の人は青、南は赤、西は黄色、そして東の人は緑を好み、ルカララ様は青の衣を、メマリス様は赤の衣をお召しになっていた。なのにナトラスはいつも紫の衣を着ている。 ふとトナは一つの図柄が閃いた。何色もの緑の葉の間に黄色いマルハルの実を少しだけ刺せば映えるのではないか。それに。トナには一つの考えが浮かんで来ていた。 ナトラス様。今回の帯ですが、何色もの緑の葉の間に黄色いマルハルの実を少し刺した柄はいかがでしょうか?紫に少しの黄色はとても映え、また緑に黄色も映えます。この衣の紫ならば土色に近い黄色が良いかと思います。それに帯に緑だけでなく黄色も使われておれば西の者も喜ぶと思います。 ついトナは帯の色柄だけでなく自分の考えを述べてしまった。 ナトラスの侍女長は刺繍侍女の分際でそのような刺繍図柄以外の聞かれていない事を申すな!それにお前今何を言ったのだ!と厳しい声を上げた。 しまった!トナは自分の失態に気づいた。つい思っている事を言ってしまった。それにナトラス様は東の出である事は伏せられている。それを口にしてしまうとは!きっとジハがメマリス様に怒られた以上に怒られるし、下手をするともっと厳しいお咎めを受けるかも知れない。最悪王宮を追放されてしまうのか。 トナは思わず泣きそうになっていた。 そんな侍女長にナトラスは、止めよ。トナは正直に自分の思った事を述べただけだ。咎める事ではない。と言うと、トナ。なぜ私が紫の衣を着るのか話そうではないかと続けた。トナはそのことばに驚いた。東の出である事を隠す為ではないのか? 妃になってすぐの事だ。朝私が王様より先に目を覚ましたが、まだ寝ぼけていてつい寝台の床に落ちていた王様の衣を自分の衣と間違え手に取って羽織ってしまったのだ。王様もお目覚めになって、そんな私の姿をご覧になって、ナトラス、そなたは本当に紫が良く似合うなと目を細めて仰ったのだ。それから私は好んで紫の衣を着るようになったのだ。そう優雅に笑いながら話してくれた。 それはつまり東の出である事を隠す為ではなく、王様が紫の衣をお召しになった姿をご覧になって喜んだからなのか。王様とナトラス様が共寝をした翌朝の事で、お二人共に夜衣も何もお召しにならないで寝台の中でお休みになってしまったという事はと想像したら、急にトナは赤面してしまった。 あまり色恋事に興味のないトナでも、さすがに他の侍女達が話しているそういった話題は耳にする。特にクタの結婚が決まった頃、ジハがどこからともなくそういった男女の共寝の話を仕入れて来て、熱心に披露していた。クタは赤面しつつもジハにいろいろ質問していて、トナも隣で黙って赤面しながら聞いていた。そしてアラはいつもと同じように部屋の片隅で黙って本を読んでいた。 もちろん王様とナトラス様は夫婦だ。夫婦なので共寝するのは当然だろうが、トナは実際に共寝している本人からそのような話をされた事がなかったので、恥ずかしくなってしまった。 トナの初々しい態度にナトラスは艶然と微笑むと、トナ。そなた誰か好きな者はおるのか?そう尋ねてきたので、トナは首も手も横に振り、そのような人はおりませんと慌てて否定した。 そんなトナにナトラスは、トナ。愛する人に愛してもらえるのならば、人はどんな事でもしてしまうのですよ。例えそれがどんなに愚かな事でも。もしそれで愛してくれるのだったら、迷わずそれを選んでしまうのよ。王様が紫の衣を着た私を見て誉めて下さった。だから私は紫の衣を着ているのよ。そう強い想いのこもった声でそう言い切った。 トナにはまだそこまで人を愛する気持ちは良く分からないが、ただ本当にナトラス様は王様を深く愛しておいでなのだ。それはトナにも強く感じられた。ナトラス様は王様に見初められて自分の意志と関係なく妃となり、王様の寵妃となったと思っていたが、話を聞くと一方的に王様からご寵愛を受けているのではなく、ナトラス様も王様を深く愛しておいでなのだ。 トナはナトラスの王様への愛をひしひしと感じていた。 そこまで言うとナトラスは、トナ。今回のそなたの言う図柄の帯だが、そなたが刺しなさい。刺繍侍女長のアギには私の方から話をしておく。そうトナの目をじっと見つめながら命じた。 私が!ナトラス様の帯を?突然の予想もしなかったナトラスからの命令にトナは思わず私がですか!とタスカナ訛りの声で叫んでしまった。そんなトナを見て、ナトラス付の侍女長は無言で眉をひそめた。 慌ててトナは訛りが出ない様に気をつけながらナトラス様、お言葉ですが私はまだこの春に刺繍侍女に上がったばかりですが、私でよろしいのでしょうか?そう尋ねた。 ナトラスは、そんなトナに、トナ。そなたにはもう私がその帯を絞めている姿が浮かんできているであろう。私だけでなく私が緑と黄色のその帯を絞めた姿を見て喜んでいる東の領地や西の領地の者達。そしてきっとそれをご覧になってお喜びになっている王様のお姿も見えたのだろう。 そう言い切ると、今回急にマルメルの使節が来るのは王様にそろそろ正式に次の世継ぎの王子様を決めたらいかがかというマルメルの王様の意向を伝えに来るようだ。他国の事なのでそこまではっきりとは口にしないであろうが、ルカララ様とマルメルの王様は再従兄妹の間柄なのでルカララ様のお産みになったマゾンス様をとお考えなのだろう。 ルカララ様も無論そのおつもりであろうし、メマリス様は我が子であるセホトル様を世継ぎの王子様に据えたいとお考えだ。なのでお二人共に我が子の為にも今回の宴でどちらが世継ぎの王子様の母君で、そして王妃様に相応しいのか示さねばならぬのだ。 話を聞くと今回は自分が引き受けないといけない状況のようだ。トナは覚悟を決めて、ナトラス様。承知致しました。ナトラス様の王様と民を想うお気持ちが伝わるよう心を込めて刺繍の帯を刺させて頂きます。そうナトラスに伝えた。 そんなトナにナトラスは満足そうに微笑みながら頷いた。そして心の中で、どうやら次の刺繍師はトナ、そなたのようだな。そう呟いていたが、もちろんトナは知る由もなかった。 アギ経由でナトラスから正式にトナに命が下り、トナはナトラスの為に何色もの緑の葉の間に黄色いマルハルの実を少し刺した柄の帯を刺した。刺繍を刺している間中、ナトラスと東の領地とそこに暮らす民とまだ見たことのない西の領地とそこに暮らす人々の姿を思い浮かべながら。 メマリス様とルカララ様、いったいどちらが王妃にふさわしいとの軍配が上がったのかは定かではなかったが、無事つつがなくマルメルの国の使節が帰国して、やっと王宮内はいつもの穏やかな日常に戻っていた。 ようやく目の回るような忙しさからも解放され刺繍室もどこかほっとした空気が流れていた。トナも今朝はどこか気分が良く、いつもより凝った髪を結い、髪飾りは王宮を去る際にクタがくれた一番のお気に入りの髪飾りを着けていた。 この髪飾りを着けていた良いことが起こるの。買ってすぐよ。一度目はアギ様から大変誉められて、次に着けた日に彼と知り合ったの。でもその日は挨拶ぐらいしかできなかったの。次にこの髪飾りを着けた日に彼から声を掛けてくれて、文を手渡されたの。そこには前から見かけて気になっていたと書かれていたのと頬を染めた。だからこれはトナにあげるわ。もしかしたらトナもこれを着けたら運命が変わるかもと幸せそうに微笑んだ。 今日はジハが休みでトナとアラは並んで王子様の秋衣の刺繍の準備をしていた。 その時、どこかに出掛けていた刺繍侍女長のアギと副侍女長のカサが並んで刺繍室に戻って来たので皆慌てて姿勢を正して二人に一礼した。アギとカサの後ろには美しい大きな箱を持った刺繍侍女見習いが二人付き従っていた。アギが皆の正面の侍女長の席に座ると二人は箱をアギの机に置くと静かに退室していった。 皆の視線が二つの箱に集中した。カサは皆の期待に満ちた視線に対し、いつもの野太く響く声で、皆、今回の宴の衣の準備は急だったが良くやってくれた。礼を言うぞ。ただこれからまたすぐに秋衣の刺繍が始まる。これからも頼むぞと声を掛けた。とは言えカサの声もどこか弾んでいる。 そしてちらりと箱に視線を向けると、今回の褒美として各々にメマリス様からは髪飾りを、ルカララ様からは絹の手巾を賜ったと続けた。皆から一斉にきゃーという歓声が上がった。その反応に満足そうに微笑むと各自好きな物を一つずつ選ぶが良いと声を掛けると、皆一斉に箱の前に押し掛け、手に取ってあれこれ言い合ってお目当てを吟味している。 この髪飾りは本当にクタの言うように良いことが起こる髪飾りなのかも知れない。 何か賜る時は刺繍侍女になった順なのでトナとアラは一番最後になる。トナもどんなのがあるのか気になりながら、自分の番を席で待っていた。 皆が賑やかに箱の周りを取り囲んでいると、珍しくアギがトナとアラの席にやって来たので二人共慌てて礼をした。皆美しい髪飾りや手巾に夢中でアギが二人に話し掛けたのに気づいていないようだ。野太く響くカサの声と違い、アギは小さな囁くような声をしているので目立たない。 アラ、トナ。お前達も今回は本当に良くやってくれた。礼を言うぞ。今回二人にナトラス様からも礼を賜った。ただメマリス様とルカララ様に遠慮されておるのか皆には内密に渡して欲しいとのご命令だ。なので今晩皆が寝静まった頃に刺繍室の倉庫に来るようにと二人に伝えた。内密にという事なので、トナとアラは黙ってその命令に頷いた。 二人が順番を待っていると休みなのにどこかから聞きつけたようで慌ててジハが刺繍室に飛び込んで来た。ねえ、髪飾りと手巾を賜ったんでしょ?もう二人は選んだの?私達が最後よね?三人で話し合ってどれが誰の物になるのか決めましょう。休みだからって残りを渡そうと思ってなかったわよね?と興奮して騒いでいる。 トナとアラはお互い目線で絶対アギ様からの話は、絶対にばれないようにしようと合図し合った。 今日は皆浮かれていてあまり仕事が手につかなかったが、いつも気を張って刺繍しているので、息抜きにたまにこういった日があっても良いと思っているのか、アギもカサも特に注意しなかった。 勤めが終わり、ジハと食堂に行くと他の部署の侍女達も皆はしゃいでいるのが分かった。ジハは早速顔見知りの仕立侍女に話し掛けると、仕立侍女達や料理侍女にも刺繍侍女達と同じようにそれぞれ二人のお妃様達から今回の褒美が授けられたそうだ。 ジハは部屋に戻ると、まだメマリス様とルカララ様の勝敗は着いていないようね。だから今回自分に有利になるようにと、皆にこんな豪華な褒美を授けたのよ。と言うと、頂いた髪飾りと絹の手巾をしげしげと眺めた。これはきっと双方のご実家共大金を使ったわよ。それだけじゃないわ。北と南の全ての領主様達からも金が渡ったに違いないわと、ずっと今回の話をしている。 ナトラス様から褒美はなかったの?ジハに何気なく尋ねられてトナは慌てそうになってしまったが、アラのように冷静を振る舞って、頂いてないわとだけ答えた。ジハも信じたのか、そう。やはり大きな後ろ楯がないと、こういった事はできないからナトラス様は王妃様にはなれなそうねとトナに言った。 このままではジハは夜中まで延々とこの話続けて、アギ様に言われた場所に行けそうにない。トナはとっさにあくびした振りをして、大きく伸びをした。あら、トナ。もう眠いの?ジハが不思議そうに尋ねてきた。トナはこの前まで休みも返上でナトラス様の帯の刺繍をしていたから、やっと終わって気が緩んだみたい。だから眠くてと嘘をついた。 ジハもそうね。休みも返上で刺繍したのに褒美の一つもくれないなんてナトラス様は酷いわね。髪飾りや絹の手巾ほど高価な品じゃなくてもセズの実でもいいのにと、自分が今回ナトラスの衣や帯の刺繍を任され、褒美を授けられる訳ではないのにまだ愚痴を言っている。 仕方ないのでトナは棚から敷布と掛布を取り出し、床に引いて寝床を準備すると、結い上げた髪を下ろして、敷布の上に寝転んで眠そうなふりをして目を閉じた。あら、トナ。夜衣に着替えてないじゃない?そんなに眠いの。トナ、トナ。もう寝ちゃったの?ジハが声を掛けてきたが、トナは目を瞑って寝たふりを続けた。 ジハは昔母さんがいつの間にか眠ってしまったトナに掛布を掛けてくれたように、そっと優しく掛布を掛けてくれた。 ごめんね。ジハ。トナは眠ったふりをしながら、そっと心の中でジハに謝っていた。 どれだけ時間が経ったのだろう。ジハもトナが寝てしまったので、自分も寝床を整えると寝てしまったようで、静かな寝息が聞こえてくる。 トナはそっと起き上がり、ジハの様子を伺った。起きる気配はなさそうなので、トナはクタからもらった髪飾りを握りそっと部屋を出た。夜も更けたので他の侍女達も皆寝ているようで辺りは静まり返っている。トナは足音を立てないようにそっとアラの部屋に向かった。
|