町田 千春 著
 刺繍師 その3     TOP

 

アラの部屋は扉が少しだけ開けてあった。トナへの合図だろう。トナは音を立てないよう気をつけてアラの部屋に忍び込んだ。アラは昼の着物姿のまま起きていて蝋燭の明かりを頼りに本を読んでいたが、トナの姿を認めると燭台を手にして小声で行きましょうと声を掛けた。トナは急いで髪を結い上げ、ささっと着物の襟を整えるとアラと連れ立って、刺繍侍女の棟から王宮へと向かった。

 

広大な王宮の西側の一角に刺繍侍女達の暮らす棟があり、そこから王宮の刺繍室には歩いて少し掛かる。少し前まではマルメルの使節が来る準備で忙しく夜にも明かりが灯っていた部屋もあった王宮だが、今は落ち着き、こんな夜更けなので王宮内は灯りもなく静まり返っていた。今晩はちょうど新月で月明かりも見えないので二人は燭台の灯りを頼りに暗い王宮内を歩いた。

 

侍女長に呼ばれて、毎日通っている刺繍室に行くのにこんな夜更けに人目を忍んで歩いていると何やら悪い事をしているようでトナは落ち着かない。そんなトナにアラは小声で、どうして内密とは言えこんな夜更けに、しかもアギ様の部屋ではなく刺繍室の倉庫に呼ぶのかしらねと、アラにしては珍しく自分から疑問を口にした。

 

二人は手元の灯りを頼りに刺繍室の隣にある刺繍室の倉庫に向かった。そこには様々な色の色糸や針などの道具、そして昔の刺繍侍女が残したであろう古い書物や書き写した図柄の紙などが置かれている。でもいったいなぜこの部屋に呼ばれたのだろう。

 

倉庫に近づくとアギがもういるのか、ほのかに灯りの気配がした。トナとアラはお待たせ致しましたと倉庫の扉を開けると、そこにはアギだけでなくカサも燭台を手に二人を待っていたので慌てて一礼した。

 

トナ、アラ良く来たな。カサに促されて二人は倉庫の中に入った。刺繍室の一番奥まで付き従って歩くと、倉庫の隅の古い棚の前でアギとカサは足を止めた。そこには古ぼけて埃を被った古い本が並べられた棚があった。いつも使う色糸や道具は倉庫の入口近くの棚にあるので、こんな倉庫の奥には滅多に人が入らない。カサがアギに手にしていた燭台を渡すと、両手でいきなり棚を手前に引いた。すると棚はギギギという音と共にゆっくり動くと、その壁の奥には別の空間が見えた。この棚は隠し扉だったのか!

 

驚きのあまりトナは声も出ず、ただ息を飲んだ。そんなトナとアラに向かってアギは、さあ、二人共。中にお入り。夏の終わりとは言え夜は寒くなってきたので温かい茶でも振る舞おうではないか。と、どこか意味深な笑みを浮かべて二人に隠し部屋に入るよう命じた。

 

トナもアラも恐る恐るアギとカサに従い奥の隠し部屋に入った。四人が部屋に入るとカサは中から扉を閉じた。

 

始めて中に入った隠し部屋はこんな倉庫の裏に隠された部屋なのに、どこか一度訪ねた事のあるナトラスの館とどこか雰囲気が似て、落ち着いて暖かみのある空間であった。そして誰か妃の館の一室と言われてもおかしくないくらい高価な質の良い調度品が並んでいた。

 

トナとアラは並んで椅子に座り、アギから茶を振る舞われていた。セルシャの国では茶の葉が育たないので遠い国からセルシャの国に持ち込まれ、飲むと長寿になる妙薬でとても高価な品なのでトナも今までに口にしたのは、タスカナの領主の館と都に上がってすぐの事師長の奥方であるサマから振る舞われて飲んだ二回だけであった。

 

しかし今回振る舞われた茶は明らかにその時より高価な茶なのだろう。口に含むと何とも爽やかな甘味と花のような干した草のような独特の香りが鼻を掠める。どうだい、おいしいかい?アギは謎めいた笑みを浮かべながら尋ねてきた。アラははい。と答えて、トナもタスカナの領主の館と事師長様の館で頂いたのよりずっと美味しいですと答えるとアギは、当たり前さ。この茶はオクルスの王様から王様に献上された茶だから滅多な事では飲めないさと言った。

 

と言う事はナトラス様から二人への褒美はこの貴重な茶を振る舞うという事だったのか。王様に献上された茶なら寵妃であるナトラス様の手元に渡り、トナ達に褒美として授けられたのか。それだったらなぜアギは刺繍侍女の棟にある自分の部屋で茶を振る舞わなかったのだろう。

 

トナはそう疑問に思ったがそれが顔に出ていたのだろう。アギは笑うと、ナトラス様からの賜り物はこの茶ではないさ。と言うと奥の木箱を開け、トナには明るく光沢のある緑の絹布に濃い緑の絹紐が巻かれた包みを、アラには同じように明るい青の絹布に濃い青の絹紐が巻かれた包みをそれぞれの目の前に置いた。二つの小さな包みからは、それぞれに異なった香りが漂ってきた。

 

ナトラス様からは貴重な香袋を賜った。それぞれに合う物を選んで下さったのでありがたく受け取りなさい。そうアギは命じた。ナトラス様とお会いした時にふっと甘い花の香りがしたのは香袋の香りだったのか。

お目当ての衛兵や事師や語師がいる侍女達は文やすれ違う時に 自分だけの香りを漂わせると相手の記憶に残るとかで 甘い香りの花水など髪や身体に付けているが、 特にそういった相手もいないトナは花水は持っていなかったし、 もっと貴重で高価な香袋など持っていない。 おそらく色恋事に興味のないアラもどちらも持っていないだろう。 貴重な品だが使う事はないだろうと思いながらもトナは包みを受け取った。 包みからは花の甘い香りと草の青い香り、 そして果実の甘酸っぱい香りが混ざって、何とも言えない良い香りが 鼻孔をくすぐる。

アラも同じように手に取っていて、 そこからはトナに与えられた香袋よりも濃い花の甘い香りと 何やら木の力強い香りが混じったような香りが漂ってきた。 しかしこの香袋もアギの部屋で二人に渡せば良いはずなのに、 なぜこんな夜更けにここへ呼んだのだろう。 それに秘密の部屋になぜ自分達が呼ばれたのか、 トナにはそれが分からなかった。

茶は私からそなた達への褒美だ。今回は本当に良くやってくれた。 アギは二人にもう一杯ずつ新しい茶を注ぎながらこう告げた。 そろそろ私が宮殿を去った後の事を考えねばならぬ時が来たようだ。 昔私の後を継がせようと秘かに心に決めていた者がいたが、 その者は貴い方に見初められてしまったからね。 まああれが自ら見初められるように仕向けたとも言えるが。 と謎めいた笑みを浮かべた。

トナ、アラ。そなた達はこの国の成り立ちの歴史は知っているであろう。 そう尋ねてきたので、二人は黙って頷いた。 トナもアラも学舎は出ているのでこのセルシャの国の成り立ちの歴史は知っていた。圧政を敷いて民を苦しめていた王に抵抗して立ち上がったのが、 セルシャの国の西にいた今の王家の祖先のクスハネ王だ。 アギはこう続けた。

では本当のこの国の歴史を話そうではないか。 闇に葬られた本当の歴史をね。 アギはこう言うと二人に話し始めた。
 

元はこのセルシャの国はオルホクという王が治めていた。オルホクには王妃がいて、名をカナジュと言った。カナジュは元は農民の娘で容姿はどこにでもいるような普通の娘であったが愛情深く大層刺繍が上手で、その刺繍の腕を認められ王妃となったのだ。

刺繍が得意な娘には不思議な力が宿っている。

そうセルシャの国では信じられており、オルホクはカナジュの不思議な力で自分の治世が長く続くよう願い、カナジュの力を借りるべく彼女を王妃にしたのだ。それでもカナジュは夫であるオルホクを深く愛し、またセルシャの国の民を愛し、夫の治世が長く平和に続くよう願いを込めて、夫の衣に見事な刺繍を刺したのだ。

そんな二人の間には一人の王子と二人の王女が生まれた。カナジュは王妃としての勤めに、子育てにと忙しくなり、特に末の娘は病弱で面倒を見なくてはならないので刺繍など刺している時間もなく、すっかり刺繍を刺さなくなっていた。

カナジュが王妃の勤めに子育てにと忙しい隙に夫のオルホクはいつの間にか一人の若い娘にすっかり夢中になっていた。夫はついにその娘を正式に自分の妃の一人にしたいとカナジュに打ち明け、カナジュとその娘はついに顔を合わせた。

娘は大層美しく、そして王妃であるカナジュに対しても礼を尽くさず、自分がいつか王妃の座を奪ってやるとばかりに不敬な態度で接してきた。

カナジュは愕然とした。自分は夫に尽くして国を支えてきたのに、夫は自分を裏切り、あんな女に想いを寄せていたのか!カナジュは悔しくて悲しくて夫であるオルホクを恨んだ。その娘を正式に妃にするのは認めなかった。そして夫の心を取り戻し自分だけの物にしたいと願った。

そんなある日、カナジュの元に夫の臣下で西の一領地の領主を任されているクスハネが急に訪ねてきた。そしてカナジュにこう伝えたのだ。

王妃様、王様はすっかり若い娘に夢中で王様に尽くされている王妃様を蔑ろにされておられると耳にしました。お痛わしい。王様が今の平和な治世の上に胡座をかいていられるのは、ひとえに王妃様のお力のおかげなのに。王妃様の刺繍には不思議な力があると聞きました。ただ最近はお忙しくて刺繍を刺していらっしゃらないとか。どうです、王妃様。ここは一つ王妃様の不思議な力で王様に願いを掛けてみてはいかがでしょうか?

クスハネは元はどこの出か素性も明らかではないが、商人で知恵が働く男で瞬く間に大金を集めてオルホクに献上したので、オルホクが領地の一つを任せていた。それだけに知恵が働き、また言葉も巧みでカナジュはついクスハネの言葉に耳を貸してしまった。

そうか、あの娘が王様から愛されなくなるようにと願って刺してみよう。そうカナジュはクスハネの言葉に乗ってしまった。しかしクスハネは、いいえ。王妃様、それでは王様がまた別の若い美しい娘に目を向けてしまいますよ。若くて美しい娘など他にも山ほどいますから。その者が王妃様を追い落とし、自分が王妃の座に着こうと考えてもおかしくはありません。王様が他の女に見向きができないようになりますようにと願いを掛けてみてはいかがでしょうか?カナジュはクスハネの言葉に大きく頷いた。

そしてカナジュは久しぶりに刺繍を刺し、夫が他の女に見向きができないようになりますようという願いを込めてつがいの鳥の刺繍を刺した衣を夫に手渡した。オルホクはその見事な出来映えに喜び、早速その衣を纏い、そしてカナジュの目を盗んで二人の護衛だけ付けてこっそりと例の娘の所に行ったのだ。

そこで悲劇が起こったのだ。オルホクは娘の館の寝室で乱入してきた何者かに二人揃って暗殺されたのだ。二人が寝室で共寝の最中だったので護衛もすぐ側にはいなかった隙の出来事であった。

宮殿に戻ってきた夫の遺体の前で号泣するカナジュに王様の葬儀の前に二人きりで内密に火急の話があると訪ねてきたクスハネはこう囁いた。

王妃様、これであなた様の願いは叶いました。もうこれで二度と王様は他の女に見向きもできなくなりましたからね。今回王様がお亡くなりになったのは王妃様のその不思議な力のおかげですよと不遜に笑い掛けた。

そのことばにカナジュは気がついた。今回の首謀者はクスハネだったのか!自分はクスハネに騙されて、夫の死を願う事に加担してしまった。カナジュは死ぬほど後悔した。

真実が明らかになり衝撃を受けているカナジュに更にクスハネは懐から一通の文を差し出し、ああ、王様がご存命の時にこのような遺言を残しておいででした。今回王様と共に刺されて亡くなった娘が持っておりましたと、王家の紋章の入った文を手渡した。

慌てて文を読むとそこには夫の文字で、もし自分に何かあった時は息子であるアズマクに王位を継がせるが、二十才になるまで母である王妃のカナジュが摂政となる。ここまでは至極当然の事である。しかしその後の一文にカナジュは驚愕した。

アズマクの妃にクスハネの娘のサレナレを迎え、義父であるクスハネに政治に不慣れなアズマクとカナジュを補佐させるように。

これはつまり実権はクスハネが握るという事ではないか!そして夫はなぜこんな遺言を書いていたのか。そしてなぜあの娘が持っていた夫の遺言の文をクスハネが持っているのか。

カナジュにクスハネは、王妃様はあの娘とは違い賢いので、残された王子様と王女様達の為にもご自分がどのように振る舞えば良いのかお分かりですねと不敵な笑みを浮かべた。

カナジュはあの娘はクスハネに利用されて、そして始末されたのだと気がついた。

更にクスハネは追い討ちを掛けるように、それにもし王子様や王女様達が王妃様が王様の死に関わっていたとお知りになったら、どれだけ衝撃を受けるでしょうか。まさか自分の母上が父上の死に加担なさったとは。他の領地を任されている者で今回の王様の遺言に異論を申し上げる者達も出てくるでしょうが、今回の事は口外しないので、その代わりに王妃様は王様の遺言を必ず履行して頂きたいのです。

何としても子供達を守らなくてはならない。その為にはこの男の要求を飲まなくては。カナジュは涙を流しながら、きつく唇を噛み締めた。

オルホクの葬儀の後、息子で十五才のアズマクが新王として王位に着き、クスハネの十四才の娘のサレナレが王妃となった。

摂政の座にカナジュが着いたが、誰の目にも実権はクスハネが握ったのはオルホクを殺めたはクスハネの手の者の仕業と気がついた者もいたが、それでもカナジュはそれを退けクスハネに実権を譲り、自分は名前だけの摂政となり二人の王女達と信頼できる数名の侍女達を連れ、王宮を去り離宮へと移り静かに暮らし始めた。


アズマクの妃となったサレナレはあのような父を持つ娘とは思えないほど心優しい娘で、裏で父が行った非道な事も知らないのだろう。夫となったアズマクにそして義母となったカナジュにも良く尽くしてくれた。アズマクとも愛情を育んでいて、カナジュは複雑な気持ちを抱きながらも若い王と王妃を静かに見守った。

しかしその翌年の事であった。アズマクとサレナレが馬車の事故で急にこの世を去ってしまったのだ。あまりにも不審な事故にカナジュはまたしてもクスハネの仕業であったと気がついた。

あの男は自分が王位に着く為には必要とあらば自分の娘でさえ犠牲にするのか。カナジュはクスハネの非道なやり方に恐怖を覚えた。

もちろんまだ年若いアズマクとサレナレの間に子はなく、次の王位は誰が継ぐのか、この国の領主達は二手に分かれた。実権を握っているクスハネに付く者もいれば、正統な血筋である二人の王女のどちらかが誰か領主やその息子を婿に迎え、王位に着くべきだと主張する者もいた。

しかしカナジュは自分の娘達が王位に着けば、また必ずクスハネがどんな汚い手を使ってでも娘達を消して、自分が王位に着こうとする。そう分かっていた。

夫も息子も命を奪われ、せめて二人の娘達は何としても守らないと。

カナジュはクスハネにこう交換条件を出した。お前に王位を譲るので、その見返りとして自分と娘達の身の安全を保証して欲しい。そして自分達は王宮から遠く離れた東の果てのコマヌに退く。それならもう王座とも無縁になるだろうと。

しかしクスハネはカナジュの不思議な力での報復を恐れたのだろう。王女達がコヌマに行くのは認めるが、カナジュは自分の監視下の置ける王宮に残す。それがクスハネ側からの条件だった。

カナジュは涙ながらその条件を受け入れ、王女達は母と引き離され、都から遠く離れた東の果てのコヌマへと追放された。しかし都からコヌマに向かう道中、元々病弱であった末のサラシェ王女は急激な環境の変化に耐えられなかったのであろう。病が悪化してついにこの世を去ってしまったのである。

カナジュは軟禁状態の離宮で一人深くクスハネを憎みながら、ついにはその生涯を終えた。

カナジュは最期に私はずっとお前の事を見ているからな。私の身体は消えても魂は鳥に乗り移り、お前のやった事全てを上から見届けてやるからなと言い残しながら亡くなった。

トナの話を聞き終えるとアギは、どうやらお前の母親の出会ったササとは、わたしの前の刺繍侍女長で刺繍師でもあるトク様だったのだ。ササとは昔王宮で使われていた侍女ことばで糸を意味するのだよ。ササなんて偽名を名乗るなんて、あの方らしいねと笑うと、

考えてもごらん。そもそも着物をつくるのに布は織らないといけないし、仕立てないと着られない。まあ糸を染めるのは、あれは元々は虫を除けて着物を長持ちさせる為だったのさ。今じゃあオクルスから虫除けの薬が入ってきて美しさの為だけに染めているけれど。刺繍なんて刺さなくても、着物は着れる。ではなぜそこに刺繍をするのか。トクミのような北の寒い地域では刺繍を刺した布は暖かくなるし、刺繍は衣の補強にもなるが、この王宮ではそんな必要はないさ。それはそこに不思議な力が宿るからだ。

つまり王宮に刺繍侍女がいるのは、その不思議な力を利用する為になのか。

トナの考えが読めたらしいアギはゆっくりトナに向かって頷くと、カナジュの不思議な刺繍の力を恐れたクスハネがなぜ王宮に刺繍侍女を残したのか。つまりクスハネが権力を握った後に、その不思議な力を借りなくてはいけない事が起こったからさ。

そこに一人の刺繍が得意な娘が現れたのだ。その方が代々の刺繍師の役目を秘かに闇に葬られた真実を伝えていくよう定めたのだ。そう言うと意味深に微笑みながら、また新しい茶をトナとアラの目の前の器に注いだ。

さあ、話を続けようではないか。身体も冷えたであろう。もう一杯飲むが良い。王様から刺繍師に献上された貴重な茶だからね。

邪魔なカナジュもこの世を去り、クスハネはこれでやっと王位に着き、権力を謳歌しようとした途端にセルシャの国に急に高熱が何日も続き身体が痺れ、最後には死に至る原因不明の病が流行り、セルシャの国の民は動揺した。

王宮でもクスハネの妃の数人や自分の年老いた母親、そして自分の世継ぎにと決めた息子だけでなく、もう二人の息子まで病に掛かり、ついには次々にこの世を去ってしまったのだ。流石のクスハネも自分の跡を継ぐであろう息子を全て病で亡くし憔悴した。不思議な事に娘達は無事だったが、娘が王位を継げば夫やその舅に権力が移ってしまう。せっかく苦労して手に入れた王座を他人に譲る事になってしまう。

この頃セルシャの民の間でも前の王のアズマクの事故死と、その父であるオルホクの暗殺に、新しく王位に着いたクスハネが関わっていて、しかも前の王女達が王宮から遠い東の果てのコヌマに追放され、そのせいで病弱であった王女の一人まで病死してしまい、この原因不明の病はクスハネを恨んで亡くなった前の王妃のカナジュの不思議な力による呪いではないかという話が囁かれていた。

おまけにセルシャの国とは陸続きであるオクルスが今回の王位の乗っ取りに危機感を覚えて、セルシャの国に攻め入ろうとしているという噂まで伝わっていた。

さすがにクスハネも皆が囁いているように今回の事はカナジュの呪いが引き起こしたのか。その呪いの力の恐ろしさをまざまざと感じて怯えた。逆にカナジュが生きていれば脅してでも懇願してでもカナジュの不思議な刺繍の力で何とかしてもらえたかも知れないと後悔したが、もう遅い。

と、その時クスハネは一人の者の事を思い出した。カナジュの腹心の侍女であり、王女達に従いコヌマに行ったホナという侍女だ。その娘も刺繍の腕は素晴らしく、確かカナジュが忙しくて刺繍を刺していなかった頃は代わりに王であるオルホクの衣の刺繍も刺していた。

その者ならカナジュの不思議な刺繍の力を秘密を知っているかも知れない。急いでホナをコヌマから王宮に呼び戻し、今回の事は亡きカナジュの不思議な力による呪いなのかと問い詰めた。

そんなクスハネにホナは、恐らく今回の事は亡きカナジュ様の呪いでしょう。カナジュ様には不思議な力が宿っておいででしたから。クスハネ様がもし今回の混乱を鎮める為に私を呼んだのでしたら私の願いを三つ叶えてくださるのでしたら、カナジュ様から教えて頂いた刺繍の力を使ってみましょうと条件を出してきた。

侍女ごときに条件を出されてクスハネは内心は不服だが、それでも不思議な力を借りなくてはならない。そなたの願いを述べてみよと言うとホナは一つはコヌマにいる王女様に決して手出しをしない事、二つ目は自分を刺繍侍女長として王宮に置き、自分に従う刺繍侍女は自分に選ばせて欲しい。そして三つ目の願いは小さくてもいいので各領地に亡きカナジュとオルホク、アズマクとサレナレ、そしてサラシェ王女の為に供養の神殿を建立することを願い出てきた。

クスハネとすれば遠い東の果ての村で静かに暮らすならば小娘一人など捨て置いて構わないし、自分に力を貸すならばホナを引き立ててやる事など問題ない。ただし神殿については渋った。そこでホナはカナジュでなく伝説の鳥を祀るという名目でいいので神殿を建てて欲しい。さもないとクスハネ様もその子孫も永久にカナジュ様の呪いが掛かったままになるでしょう。私の刺繍の力だけではカナジュ様のお怒りを静めるのはとても無理でしょうと告げた。

背に腹は変えられないとばかりにクスハネは全ての条件を飲む事にした。

それからホナは元のカナジュの部屋に籠ると半月後にクスハネにこれできっと状況は良くなるでしょうと伝えて、見事な一枚の刺繍の帯を渡した。

その後だった。噂ではセルシャの国に攻め入ろうとしていると言われていたオクルスは、実は病がオクルスに蔓延しないようと薬と薬師をセルシャの国に遣わしてくれ、またマルメルの国も同じように支援を申し出てくれ、二つの国のお陰で病は終息した。その礼としてオクルスにはクスハネの娘を、
マルメルにはクスハネの末の妹を嫁がせた。それだけではなかった。ホナが願いを込めて刺繍したおかげでクスハネは五十を越えたのに次々に二人の王子が産まれた。これで自分の息子が王位を継げる。

今回の事はホナの不思議な刺繍の力のお陰だと信じ込んだクスハネはホナの願いを聞き入れただけでなく、ホナをまるで女王でもあるかのように下にも置かない丁重な扱いをした。そして各領主に領地にこの国の伝説の鳥を祭る為の神殿を作る事を命じた。敢えて伝説の鳥の為にしたのは自分の行った非道な事が後世に伝わらない為にだ。またホナにも栄華と引き換えにこの事に関わる全ての事は他言しないよう約束させた。

そして歴代の王になった子孫達にも三つの遺言を残した。歴代の王にだけ秘かに伝えられた遺言であり、子孫にはカナジュの呪いを恐れて、各地にある神殿はカナジュというこのセルシャの国を常に見つめている不思議な鳥の住みかになるので、決して壊さないように。

何があっても東の果てにあるコヌマの村には足を踏み入れたり、コヌマ出身の者に手出しはしないように。

そして例え王や王妃であっても刺繍侍女長の人選に口を挟んだり、異論を唱えてはならない。また刺繍侍女長は影で丁重に扱い、決して粗略に扱ってはならない。こういった謎めいた遺言を残したのである。

そしてホナも秘かに自分が選んだ次の侍女長と何かあった時の為に副侍女長に選んだ二人の娘にだけ真実をを伝え、それを跡を継ぐ者にだけ伝えるように言い残した。そして代々の刺繍侍女長と副侍女長だけに真実は伝えられていったのだ。

アギはつまり刺繍師とはカナジュの腹心の侍女であったホナが、カナジュの無念を晴らす為に秘かに真実を未来に伝える者を選んだのが刺繍師の役割の一つなのさ。

そして歴代の王様達も皆クスハネの遺言があるので影で刺繍侍女長はまるで王妃様の様に丁重に扱ってくれている。この貴重な茶もどうして王様が私に賜ったのかもう分かるねとアギはにやりと笑った。

つまりこの秘密の部屋も貴重な茶も王様から秘かに賜ったと言うのか。そして今回トナとアラを秘かにここに呼んだのは自分達にその役目を継がせようと考えているからなのか!トナはアギの考えに驚愕した。

そんなトナに、トナ。どうやらお前は産まれてくる前から刺繍師に縁があったようだね。そもそもトク様とお前の母親が出会わなければお前はこの世に産まれてこなかっただろう。ササということばには糸という以外に別の意味もあって、それは縁や運命という意味もあるのだ。正にお前は刺繍師と運命で繋がっているようだね。

年老いたトク様がなぜコヌマに向かったのか。刺繍師には真実を伝える他に二つの役目があるのだよ。一つは遠い東の果てのコヌマの地で生き残ったカナジュの娘の王女の子孫である元の王家の末裔を遠くから見守る役目なのだ。ホナも裏ではクスハネの目を盗んで、かなりの金をコヌマにいる王女に送ったり、人を遣わして世話をしていたのだ。

トク様がコヌマに向かったのは、恐らくあの者の母親か伯母に会うために向かったのだろう。と言うとトナ、アラ。どうやらお前達はもう一人ササという名の者を知っているのだろう?ジハがいろいろ聞き回っていたようだからねと口元には笑みを浮かべているが、視線は鋭く二人を見つめた。

ササ!それはナトラス様が王様の妃になる前の名前だ。そしてナトラス様はコヌマの出である。その話を秘かに教えてくれた先輩刺繍侍女のザホの話では、まるで貴族の娘のように気品があり、王宮のしきたりや歴史についても詳しかったという。

つまりナトラス様は。

驚きのあまり目を見開いたトナに向かってアギはそうだ。ササ、つまりナトラス様はカナジュの末裔なのだよと告げた。

元々ホナは孤児であったのを哀れに思ったカナジュが手元に引き取り、表向きは侍女であったが、実の子供達同様に大切に育てたのだ。なので残された王女とも姉妹のように仲が良かった。妹のような王女やその子孫を守って欲しい。ホナはその想いがあり刺繍師には刺繍が上手く、秘密が守れるよう口が固く、そして長く王宮に留まり次の刺繍師に引き継ぐ役目を担えるよう帰る場所のない孤児や故郷と縁の薄い者を選んだ。

アギはアラを見つめながら、長く王宮内だけで秘密を伝えていける者だけが刺繍師に選ばれるのだ。アラ、お前は刺繍の腕は確かで口も固く、しかもお前に故郷から一通も文が来ていないのに私達は皆とっくに気づいている。お前は美しいがどうやら男に関心がない、いいや、関心がないというより心の底では憎んでいるようだね。お前が衛兵や事師と接している時の態度でお前は平静を装っているが私には分かるさ。なので結婚して王宮を去って行くという事はなさそうだ。

ササ、今はナトラス様だが、お前と同じように刺繍の腕は確かで口も固くどうやらあの者も故郷を捨てて来たようなので、私は次の刺繍師にあの者をと決めていたが、王様に見初められてしまい刺繍師にはなれなかった。まあ、見初められるようにあの者が自分で仕組んだのだろうが。

アラ、私が王宮を去る時にお前にその座を引き継ごうと思うが正式に刺繍師になれるのかは、これから刺繍師の大切なもう一つの役目を教えよう。その成果次第で決まるのだ。そしてトナ。お前にもその資格があるのだ。お前はその資質はアラよりも優れている。

どちらが刺繍師にふさわしいのか、これから見極めて私はその座を継がせようと思う。そうアギはトナとアラ、二人に向かって告げた。

自分よりトナの方がその資質は優れている。そうアギに断言されて、アラはもう一つの役目とは?とアギに声を震わせて尋ねた。

するとアギはお前は何も分かっていないねと言うように少しおかしそうに笑いながら、おや、もう忘れたのかい?なぜクスハネがホナを遠い東の果てのコヌマから王宮に呼び戻したのか?そうだよ、刺繍が得意な娘には不思議な力が宿っているからだったね。そう、刺繍師のもう一つの役目はその不思議な刺繍の力を引き継いで、必要な時にその願いを込めた刺繍を刺す事なのだ。

刺繍師の刺繍の力の秘密は代々王様と王妃様にだけ伝えられ、お二人から望みを託され刺繍師はその願いを叶えるべく刺繍を刺すのだよ。今はまだ王妃様が決まっていないので、その秘密を知っているのは王様と離宮にいらっしゃる前の王様、前の王妃様の三人だけだ。

前の王様の時は家柄や年齢、ご本人の資質から王妃様は西のパルハハの領主の娘のアツクト様が嫁いですぐ王妃様に決まり、王妃様の願いで早く世継ぎの王子様が授かるようにと望みを託され、世継ぎの王子様が産まれた後にも、もし万が一世継ぎの王子様に何かあった時の為にもう一人王子様に恵まれますようと望みを託されたトク様が刺繍を刺した所、無事今の王様と王弟のゾルトア殿下が産まれになった。

わたしも前の王様のお加減がかなり悪かった時に息子であるダルマツ様、つまり今の王様に無事に代々の王様に伝えられている事を引き継げるまで生きながらさせて欲しいと望みを託され、僭越ながらその望みを託した刺繍を刺させてもらったのさ。前の王様は無事ダルマツ様に王位を継がれて離宮に移られてからお加減が良くなったが、きっと体調を崩されていたのもオクルスとマルメルの板挟みになって気苦労が絶えなかったのであろう。今はお元気になられて、わたしも刺繍師として面目が立ってほっとしているのだ。そうアギは笑った。

トナはアギの話を聞いて、アギやその前の刺繍師のトクには悪いが世継ぎの王子様ともう一人の王子様に恵まれたのはたまたま運が良く、前の王様のお加減が良くなったのも、不思議な刺繍の力などではなく、王座を退かれて気苦労が去ったからではないのかと思ってしまった。

アギはお前達もこれで不思議な刺繍の力がどれほどか分かっただろうと言うと、刺繍師は代々どんな願いの時はどのような刺繍をどのように刺せばいいのか、その秘技が伝えられるのだ。わたしが王宮を去る前にお前達がどちらかを次の刺繍師と定めて、代々の刺繍師に伝えられてきた刺繍の力を伝えよう。そう決めたのだ。そしてその不思議な刺繍の力にはもう一つ、大切なことがある。そう言うとアギは二人に鋭い視線を向けた。

それはいかにその刺繍に自分の想い、そう。念とも言うがそれを込められるか。それが最も重要なのだよ。そうアギは強い口調ではっきりそう告げた。

アラ、お前の刺繍の腕はトナよりも優れている。しかしお前は相手の事を想って刺繍を刺すというのはトナより劣っているのだ。どうやらお前は誰かに関心を寄せたり、まして恋しく想ったりしたことはないようだね。そのことばにアラがぎゅっと唇を噛み締めたのがトナにもはっきり分かった。

アギはそう言うと、トナ。お前は覚えているか?初めて王宮に上がって刺繍の腕を試す時にただ刺繍を刺せと言われても誰の何の為の帯なのか聞かないと刺せないとお前は言った。そんなことを最初から口にした娘は今まで誰一人もいなかった。お前は刺繍師として大事な相手を想って刺繍を刺す。それを既に知っていたのだ。

そうアギはトナの顔をじっと見つめて、そう言い切ったのだ。

そのことばを聞いた時、ふいにトナの脳裏に急にタスカナにいる母さんの姿と声が浮かんできた。

刺繍でいちばん大切なのは、相手のことを想って、一針一針心を込めて刺すのよ。

アラは、それでしたらわたしを呼ばずにトナだけ呼べば良かったのではありませんかと言った。

そんなアラにアギは首を横に振ると、確かにトナは相手を想って刺繍を刺すという刺繍師の本質が分かっているが、ただ王宮の刺繍師はそれだけでは務まらないのだ。

アツクト様のように跡を継いでくれる子を授かりたい、前の王様のように病が治りますようにといった願いは何も王様や王妃様でなくとも誰もが抱くごく普通の願いだ。ただこの王宮ではそんな願いを託されるだけではなく、前の前の王妃様のように次の王座に関わる争いに纏わる願いを託される場合も多いのだ。

そう言うとアギはもし仮にルカララ様が王妃様になったとしよう。自分のお産みになったマザンソ様の王座を阻む可能性のあるメマリス様がお産みになったセホトル様をどう思う?

そのことばにトナもアラも息を飲んだ。アギは大きく頷くと、おそらく邪魔な存在だと思うだろう。消えて欲しいと思うかも知れない。そう冷淡に告げた。それはつまりセホトル様を殺めるという事なのか。トナは背筋が凍ってきた。

領主の娘や貴族の娘達は次の世継ぎの王子を産む事を期待されて、各々の領地から王宮に送り込まれる。自分の産んだ王子が次の王となれば、自分の一族は栄華を極められるし、自分も王の生母として敬われ、この王宮で誰よりも丁重に扱われる。また自分の出身の領地だけでなく、同じ北や南、西や東の別の領地にも便宜を図ってやる事ができるので、そんな期待を一身に受けて、皆王宮に上がっているのだ。

アギは二人を安心させる為にか、まあそこまで恐ろしい事をお考えにならなくとも、もしセホトル様が熱病にでも掛かれば、セホトル様は病のせいで将来世継ぎを望めないお身体になったとでも噂が流れれば、もう次の王座は望めないだろう。もし逆にメマリス様が王妃様になったとしてもおそらく同様の事をお考えになるだろうと続けた。

セホトル様とマザンソ様の年齢、能力、そして母親の実家の力も互角なので、どうやら王様もどちらの王子様を世継ぎの王子とするのか決めかねているようだ。もう少しお二人が大きくなって、どちらが王としての器量を備えるかによって決めるのかも知れないが、残念ながら今の王家の状況では次の世継ぎ争いが起きるのは避けられないであろう。

メマリス様とルカララ様、ご本人達は不本意でも、おそらくご実家や周りの思惑で相手の王子様に影で何らかの災いが降りかかるよう次の王妃様に決まった方から刺繍師は託されるであろう。

しかしトナ。お前は両親や家族に愛され、素直に育った。そしてお前は自分が納得しない事は黙って受け入れない上に立つ者からすれば意外に扱いにくい性格でもある。

それにわたしはお前が今まで刺した数々の刺繍を見てきたが、お前は相手が知っている者や自分では意識していないだろうが東出身の者とそうでない者の為の刺繍では明らかにこもっている想いの差だろう。仕上がりが全く違うのだ。他の者はそこまで気がついていないかも知れないが、わたしにはお見通しなのさ。

そんなお前はそのような願いに想いを込めてお前は刺繍を刺せるだろうか?いいや、今のお前には難しいだろう。

アラ、お前は決して悪い者ではないが、お前ならば自分の個人の感情は抜きにして命令とあらば割りきって従う事ができる王宮で生きていくには必要な賢さと冷静さを持っている。それもこういった厳しい時世の刺繍師には必要とされる素質なのだ。それにどうやらお前は故郷を逃げるようにして王宮に上がったようだね。つまりお前には帰る場所はない。それならここに残る為ならばどんな命令にも黙って従うだろうね。

なのでお前達はどちらを刺繍師にすべきか決めかねているのだよ。そうアギはことばを締め括った。

そう言うとアギは、それだけの想いや念を込めて刺繍を刺すので、王様も王妃様も滅多な事で願いを託す事はしないし、運良く王様や王妃様から何も願いを託されない内に年老いて無事勤めを終えて王宮を去る刺繍師もいるのだが、一人の刺繍師がお仕えしている間にこれほど大きな願いを託されて刺せる刺繍はせいぜい一人一つ、多くても二つだ。

わたしも前の王様のご病気を治すという大きな願いを託されたので、もう力は使い果たしたのだよ。ただ今の王様からそういった話もなく、王妃様はまだ決まっていないのでこのまま五十を越えるまでは王宮にお仕えして、五十になり王宮を去る前に次の刺繍師を決めようと思っていたが、マルメルから使者が来て王様に世継ぎの王子様をマザンソ様に決めろと圧力が掛かっているし、おそらく同様にオクルスも王様にセホルト様を世継ぎの王子にと働き掛けてくるだろう。それにいつまでも正式に王妃様を決めないのはいかがなものかと王様に奏上する大臣も出てきて、どうやらそんな悠長な事は言っていられない状況になってしまったようだ。

わたしも早く次の刺繍師を決めてその者に必要な事を全て伝えて、もうわたしは王宮から下がらせてもらおうと思っているのだ。そうアギは二人に告げると大きなため息をついた。

ふとトナはまさかナトラスは不思議な刺繍の力を知って、それを使ってその時は世継ぎの王子様であった王様が自分に興味を持つように仕向けたのか?そんな気がしてきた。

思わずそれでナトラス様は王様に?とアギに尋ねるとアギは頷き、おそらくそうであろう。あの者は何と言ってもカナジュの末裔だ。わたし達が知らない刺繍の秘密を伝えられていてもおかしくはない。そこに代々王宮に伝わっている秘密の刺繍の力が更に加われば、わたし達王宮の刺繍師が知らない不思議な力でササと会った事がなく、今まで周りに数多いた美しい侍女達にも興味を示さず、また特に刺繍に関心などなかったダルマツ様がササに興味を持ちお召しになった。
そして今なお王様のご寵愛を一身に受け続けている。そう考える方が自然であろう。そうアギは答えた。

前にジハが王様はナトラス様の元でしか夜を過ごさないと言っていたのを思い出した。

ナトラスは刺繍の不思議な力で王様を惑わし、虜にしたのか。トナはナトラスの館で対面した時のナトラスの姿を思い浮かべた。優雅に微笑みながらナトラスはこう言っていた。

トナ。愛する人に愛してもらえるのならば、人はどんな事でもしてしまうのですよ。例えそれがどんなに愚かな事でも。もしそれで愛してくれるのだったら、迷わずそれを選んでしまうのよ。

 

アギはトナとアラに向かって、これからお前達には少しずつどのような時にどのような刺繍を刺すのか伝えていこうではないか。と言っても、あまり時間がない。近々お前達を正式に次の刺繍侍女長と副侍女長に任命する王命を出してもらおうではないか。お前達より先に侍女になった者ばかりだが、何、ナトラス様がお前達の刺繍を大層気に入り、王様にこのような命を下して欲しいと頼んだようだと言えば誰も何も言えまい。

と言っても実は王様を動かすのは、このわたしだがねとアギは愉快そうに笑った。

無論ナトラス様の願いで王様が決めたとお耳に入ればメマリス様とルカララ様は表だって異論は言えまいが良い気はしないであろう。その前に混乱が起きぬようメマリス様とルカララ様には根回しをしておく必要があるので、正式な任命は少し遅くなるかも知れないが、二人ともその心づもりはしておくようにと言い渡すと、カサに向かって明日はトナとアラにこの倉庫での刺繍糸の整理をさせるように皆の前で命じるのだ。あまりにも大きな話なのでお前たちもさぞ混乱しているであろう。二人とも明日はここでゆっくり気持ちの整理をするがいい。

ああ、ジハだが明日お前が今回の褒美の礼を言いにルカララ様とメマリス様の所にお伺いする時の供として連れて行くが良い。なるべく早い時間にお尋ねするのだ。帰って来たらジハは皆の者にその話を吹聴するであろう。そうすれば皆その話に夢中になってトナとアラがいない事から気が反れるであろうからな。あの者も使い用によっては役に立つからなと笑うと、カサは承知しましたとアギに頭を下げた。

二人とも、今日はもう下がってゆっくり休むが良い。そう告げたので、トナとアラも慌ててつられる様にとりあえず席から立つとアギに向かって大きく頭を下げ、この部屋から下がろうと扉に向かって歩き始めた。

そんな二人に向かってアギは、これから何が起こるかね?刺繍師の秘密を知ってしまった者の運命は大きく変わってしまうと言い伝えられているからね。

アラ、お前は誰かを想って胸が切なくなったり、涙したり、そんな気持ちが芽生えればお前の刺繍も変わるかも知れないね。そしてトナ、お前は人の心も自分の心も時には思いもよらぬ事を引き起こしてしまう事もあるという事を知るかも知れない。

お前たち二人がこれからどうなっていくかで、どちらが刺繍侍女長になるのか、運命が動いていくのだよ。そうアギは最後に意味深なことばを部屋を下がろうとしている二人に掛けた。

あまりの話の大きさにトナは自分が刺繍室倉庫にある秘密の部屋から刺繍侍女の棟にある自分の部屋にどう戻ったのか、トナもアラも二人とも無言のまま並んで王宮から歩いてそれぞれの部屋に戻ったようだが、ついさっきの事なのにそれすら定かでなかった。

足元が地に付かず、ふわふわ宙に浮いたような魂の抜けたような状態でとりあえずトナは自分の部屋に戻ったが、いつもの日常の場である自分の部屋に入ると急に意識がはっきりしてきた。逆に知ってしまった秘密の重みにトナは、一息ごとに自分が見えない何か大きな物に押し潰されていく気がして息が苦しくなった。

何も知らずに隣でスヤスヤと眠っているジハとは急に自分だけ別の世界に連れ去られてしまったみたいだ。

ここから逃げよう!そうトナはとっさに思いついた。夜のうちにこっそり王宮を抜け出して、オリヅに帰るのだ。何とかタスカナまで行く馬車を探すか、商人に付いて行ってもいい。

トナは急いで金貨の入った袋を懐にしまい、クタがくれた髪飾りと母さんがタスカナを離れる時に渡してくれた帯だけ絞めて、心残りだが気に入った着物や髪飾りなど後の物は全て部屋に残して、そっと音を立てないように部屋を抜け出した。

トナ達に刺繍侍女の館がある宮殿の西側から何とか人目を避けるように広い王宮内を所々衛兵見つからないよう注意して刺繍侍女の館と反対側の東に行く街道に面した東門の方に周り、衛兵の交代の時間を見計らって王宮から脱け出すことにした。

左右を見渡すとちょうど門の前に衛兵はいない。トナは足音を立てないように門まで一気に走った。その時、誰もいないと思っていた門の柱の陰から背の高い若い衛兵の男が一人するっと音も立てないでトナの目の前に現れた。そしてこうトナに囁いた。

王宮に残るんだ。それが君の定めだ。

どこかで聞いたような、そうタスカナの領主の館で聞いた誰か分からなかったトナに語りかけてきた言葉をトナに思い起こさせた。驚いて思わず動けずに立ち止まってしまったトナに誰だ!遠くから別の鋭い男の声がした。

しまった!見つかってしまった!王宮から無断で逃げ出そうとした者として引き渡されてしまう。また王宮に戻されるだけでなく、どんな罰が待っているか。

何事だと彼の上官らしき中年の衛兵があちらから走ってくる。思わずトナはぎゅっと目をつぶった。そんなトナに衛兵の彼は小声で、いいか。俺に任せろ。俺に合わせるんだと早口で囁いた。その声にトナは彼の目を見つめると、彼はトナと視線を合わせると小さく頷いた。

上官らしき男の前に二人並んで、彼は少しばつが悪そうに照れ臭そうに頭を掻きながら、実は俺の恋人なんです。そう上官の男にそう答えた。

驚きのあまり思わずトナは声を上げそうになってしまったが、彼のさっきのことばと眼差しを思い出し、何とか堪えた。逆にそう、クタが結婚相手の事を幸せそうにのろけていた時のような嬉しそうな恥ずかしそうな顔を思い出し、必死でその時のクタのような表情を作って見せた。

衛兵の彼は、最近お互いの休みの日が合わなくて会えないでいたら、俺が他の侍女と親しくなったと仲間から聞いたみたいで、居ても立ってもいられないとこっそり部屋を抜け出して会いに来たんです。他にそんな女なんていないのにと、照れ臭そうに続けている。

上官の男はそれを聞くとにやりと笑って、上にばれるとまずいから目立たないようにやってくれ。この貸しは高いぞと言って、手で杯をあおる仕草をして見せた。衛兵の彼は、今度いいミクルアの酒でも奢りますよ。このことは周りに秘密にしといてくださいと笑いながら続けた。

二人きりで少し話したいので、すぐ戻るので彼女を侍女部屋まで送って行っていいですか?と上官の男に尋ねた。

侍女部屋に送って行くなら見つからないように上手くこっそりやれよ。間違っても侍女長の婆さん達にばれないようにな。誰かが寝ずに見張ってるそうだから、と下卑た笑いを浮かべながら、衛兵の肩を軽く叩いた。

衛兵の彼は、さあ行こうとトナの腰に手を回し促した。トナは照れ臭そうに上官の男にぺこりと一礼すると彼と並んで歩き始めた。

トナと衛兵の彼は彼の上官の姿が見えなくなるまで恋人の振りをして腰に手を回されたまま並んで歩いた。幼い頃にタスカナでシルに淡い恋心を抱いた事はあったが、男性と手も握ったこともないトナはこんなに接近されて心臓が破裂しそうなくらい音を立てて鳴っていた。

上官の姿が見えなくなるとようやく彼はトナの腰に回していた手を離すと、今日はともかく侍女の棟に送っていくからせめてどこの侍女かと名前ぐらいは教えてとトナを怖がらせないように優しく聞いてきた。

助けてくれた恩人でもあるのでトナは、恐る恐る私はトナ。刺繍侍女なのとだけ答えた。彼はそうか、トナか。トナなのかとなぜか一人で頷いている。

すると彼は自分の着ていた衛兵の制服の上着を脱ぐとトナに羽織らせた。突然の事に驚くトナにこれを羽織れ。そうすれば遠目には衛兵が並んでいるように見えるから、周りにばれないで済むかも知れない。ただ髪は結っていると女とばれてしまうから下ろして上着の中にうまく隠すんだと言うと、トナの結い上げている髪飾りをさっと外した。彼の手にトナの黒髪がまとわりついた。その大きく温かい手の感触がどこか父さんの手の

感触に似ている。そんな気がした。彼はトナに外した髪飾りを手渡すと、美しい髪飾りだね。そう優しく笑い掛けた。どこかトナを優しく包み込んでくれるような大きな暖かさが感じられ、トナは急に初対面であるにも関わらず彼に全てを打ち明けてしまいたい衝動に駈られてしまった。

しかしあんな国の歴史を揺るがすような秘密はさすがに打ち明けられるはずがない。トナはどうしたらいいのか分からず、ぎゅっと唇を噛み締め、受け取った髪飾りをぎゅっと握り締めた。

そんなトナの様子をじっと見つめていた彼は、ああ。まだ俺の名前も名乗っていなかったね。俺はカイだ。北のクナクスのセロハという小さな港町の出なんだとトナの緊張を解そうと優しく笑いながら親しげに話し掛けてくれた。

トナは東門の衛兵のカイという名前をどこかで聞いたことがあった気がして、記憶を遡ってみたらジハが侍女に人気がある衛兵と噂していた気がした。またクナクスはアラの出身と同じ領地だ。

この王宮には東西南北にそれぞれの街道に向かっての門があり、衛兵達が護衛している。ただ東門には東出身の衛兵は配置されておらず、北と西出身の衛兵によって護衛されていた。もし王家に各地域の領主が反旗を翻した時にその地方出身の衛兵が内通して門を開いて兵の進行の手助けをできないよう、それぞれの方角の門には仲の悪いとされている地域の衛兵が配置されていた。東は南とは交流が深いが、北や西とはそれほど親しくない。むしろ仲が悪いとされている。

東門から抜け出そうとした娘なら、東の領地の出身とすぐ分かるだろうが、カイはそんなトナを助けてくれた。

トナは恐る恐るカイにどうして私を助けてくれたんですか?と尋ねてみるとカイは王宮に上がるまで自分は生まれ育った北のクナクスの人間しか知らなくて、周りの話から南や東出身の者は話の合わない連中だと思っていた。ところが実際に王宮に上がって南や東出身の者達と話してみたら気の合う者もたくさんいるし、逆に同じ北出身でも気が合わない者もいた。利害関係の絡む領主や貴族達と違って自分は特に東の者でも敵視していないからだよと答えた。

そしてトナをじっと見つめて、なぜだろう。トナ、君の姿を見た時に君は王宮に残る定めだとなぜか理由もないけれど、そう思ったんだ。とカイは首を傾げながら呟いた。

そうトナは昔タスカナの領主の館で誰かが王宮に来るんだ、トナ。それがお前の定めだ。待っているよ。そう囁いた声を聞いたのだ。

トナはその声に導かれるようにここに来たのだ。

今初めて出会ったカイもそれを感じたと言うのか?トナは驚いた顔でカイを見つめ返していた。

カイはトナ、君はまだ若いけれど侍女見習いじゃなくて正式な刺繍侍女なんだね。それだけ優秀な侍女なのにどうして王宮から逃げ出そうとしたんだい?何か辛い事や嫌な事があったの?と不思議そうに尋ねてきた。

そう。トナも今までタスカナが恋しく懐かしくなった時や刺繍侍女見習いとして学ぶ事の多さが辛い時は何度もあったけれど王宮から逃げ出そうとは思わなかった。ある意味自分はこの王宮で生きていくのに向いていたとも言える。

ただやはり今回知ってしまった秘密の重さには耐えきれない。そう思ったから逃げようと思ったのだ。でもそれはカイにはとても言えまい。トナは打ち明けてしまいたい気持ちとあまりの秘密の重大さに言ってはいけない気持ちの狭間で揺れていて、口を閉じていないと何か口走ってしまいそうでぎゅっと口を閉じてしまったが、逆に瞳はじわっと涙ぐんできてしまった。

そんなトナにカイは慌てて手を小さく振ると侍女ならば立場上言いたくても言えない事もあるよな。ごめん。言いたくない事や言えない事なら何も言わなくていいよ。ただ誰かに聞いてもらって気が晴れる時もあるし、俺が王宮に残る定めに思えた君がなぜ王宮を去ろうとしたのか不思議に思っただけだからと優しく声を掛けてくれた。

トナは何も言えない自分にもどかしさを感じながら、黙ってうつむいてカイに従って刺繍侍女の棟に向かって歩いて行った。うつむいて歩いているのでトナの視線はカイの大きな手に向かっていた。ふと気がつくとカイの両手の甲に何か傷痕だろうか黒い染みのような跡がある。宮殿のほのかな明かりと少しずつ明るくなっていく空の明かりだけなので、はっきりとは確認できなかったが、やはりいくら今は平和で戦いもないセルシャの国の王宮の衛兵でも危険なこともあって怪我をするのかも知れない。 


トナが見慣れたいつもの自分が暮らす刺繍侍女の棟に着く頃にはもうすぐ夜も明けて空が白み始める頃になっていた。と入口の近くに誰かの姿があった。もしやアギやカサに逃げ出した事がばれてしまったのか!とびくっとしたが、恐る恐る近づくとそれはアラの姿であった。

アラはトナの姿を認めるとトナ!と声を掛けて一目散にトナの方に向かって駆け出してきた。トナの所にたどり着くと何も言わずにぎゅっとトナを抱き締めた。そんな二人を黙って傍らで見つめていたカイはトナを安心できる仲間が迎えてくれたので自分は不要と理解したようで何も言わずに静かに立ち去った。

思わずトナは声を掛けて引き留めようとしたかったが、カイはその身長に見合う大きな歩幅で早足に去ってしまったし、彼とて勤務中に抜け出してトナを送ってくれたので引き留められない。トナは無言でカイの広い背中を見送った。

そんなトナをアラが何も言わなかったが、優しく肩を抱いたまま刺繍侍女の棟に入るよう促した。トナも黙って従い、アラに肩を抱かれたまま中に入った。

アラはトナを自分の部屋に招き入れ床に座らせると黙って温かい湯を注いだ器をトナの前に置いた。トナも黙ってアラが入れてくれた温かい湯に口をつけた。身体の中に温かい感触が流れ込みトナは少し呼吸が楽になった気がした。

そんなトナを見つめてアラは、タスカナに帰ろうとしたのね。とぽつりと小さく呟いた。トナは黙って小さく頷いた。

アラは急にあんな話を聞かされてあたしも眠れないし、あんたが気になってこっそり部屋をのぞきに行ったの。そしたらあんたはいなくて、ジハだけが呑気に寝息を立てて寝ているじゃない。もしかして王宮を抜け出してタスカナに帰ろうとしたのかもと思ったの。でももし違うのにあたしが東門に様子を見に行って騒ぎが大きくなったら困るし、どうか王宮にいてって思いながら、あんたを待っていたのよ。

そうアラは言った。アラは無愛想だが冷たい女ではない。こうやって心配してトナの身を案じてくれているし、刺繍侍女見習いで同室の時にトナが熱を出した時も夜も寝ずに看病してくれた時もあった。

いいわね、帰る場所がある人は。そうぽつりとアラが小さく呟いた。トナもアギが指摘したようにアラに故郷のクナクスのトクミから便りが来ていないことには気づいていた。きっとアラにもさっき自分がカイに打ち明けられなかったような大きな、
そして重い秘密があるのだろう。トナもそんなアラの秘密に踏み込めないでいた。

アラは自分のこぼした言葉に慌てて、トナ、あんた寝てないでしょ?明日は倉庫の整理だからアギ様に具合が悪いと伝えて休ませてもらったら?とアラは心配そうに声を掛けた。そうは言うが寝てないのはきっとアラも一緒だろう。トナは首を横に振ると大丈夫。明後日は休みだからとアラに無理に笑顔を作って答えた。アラもそれ以上追及しなかった。

アラは夜が明けきるまでまだ少し時間があるからここで横になったら?と勧めてくれたので、トナは横になろうとした。その時自分はカイの衛兵の制服の上着を借りたままであったことに今更気がついた。

おそらくカイはもう一着衛兵の上着は持っていると思うが、返さないといけない。トナは慌ててカイの上着を脱ぐと、そっと丁寧に畳んで床の上に優しく置いた。そんなトナにアラはあの衛兵が助けてくれたの?そう尋ねてきた。トナはこくりと大きく頷くと、他の衛兵にも見つかってしまったけれど、あの人が上手くごまかしてくれたから大事にはならなかったの。そう答えた。

それを聞いてアラは北か、西の出身か分からないけれど、いい人で良かったわねと小さく笑った。

トナはアラが床に敷いてくれた敷布の上にそっと寝転ぶと目を閉じた。けれど頭が冴えて、気持ちが高ぶっているのか一向に眠気は襲ってこない。ふっとトナの脳裏にはクタの幸せそうな顔とことばが浮かんできた。

この髪飾りを着けていた良いことが起こるの。買ってすぐよ。一度目はアギ様から大変誉められて、次に着けた日に彼と知り合ったの。でもその日は挨拶ぐらいしかできなかったの。次にこの髪飾りを着けた日に彼から声を掛けてくれて、文を手渡されたの。そこには前から見かけて気になっていたと書かれていたのと頬を染めた。だからこれはトナにあげるわ。もしかしたらトナもこれを着けたら運命が変わるかも。

そう。トナの運命も大きく変わり始めてしまった。闇に葬られていたこのセルシャの国の歴史を知ってしまい、また刺繍師の秘密を知ってしまい、そしてカイと出会ってしまった。急にカイの優しい笑顔がトナの脳裏に浮かんできていた。

トナはクタからもらった髪飾りをぎゅっと握り締めた。

 あの秘密を知ってしまった翌々日トナは勤めが休みで一人自分の部屋でカイの衛兵の上着の襟元と袖口にある刺繍を新しい糸で刺し直していた。

カイに上着を返す時に何かお礼をしたかったが、何がいいのかトナには分からないし、ともかく上着はなるべく早く返さないといけない。ふと刺繍の部分を新しく刺し直して上着を綺麗にして返そう。そうトナは思いついた。それにどこかでカイに自分の刺した刺繍を見てもらいたい、自分の刺した刺繍を身につけて欲しい、そんな気持ちがあったのだ。

襟元と袖口の刺繍を昨日の夜ジハが眠ったのを見届けてからこっそり始めて、朝ジハが勤めに出てからは誰の目も気にすることなく刺繍を刺した。衛兵長でないカイの上着の刺繍の部分は少ないとは言え、思いを込めて集中していたので何とかジハが勤めから戻ってくる前に完成した。

トナは自分の一番よそいきの着物と帯を絞めクタからもらった髪飾りをして、今日はカイは勤務しているだろうか。そわそわしながら足早に東門へと向かった。

この前と違い日が暮れる少し前の東門には八人ほどの衛兵がいた。しかしその中にカイの姿はない。今日は休みなのだろうか?それともどこか別の場所にいるのか。トナは一番年下らしい衛兵にカイはいないかと尋ねてみると彼はカイは今日は勤務が休みだと答えた。その答えにトナは内心がっかりした。

そんなトナに八人の中で一番年上らしい衛兵が、何かカイに用があるのかい?と少しニヤニヤして声を掛けてきた。トナはとっさに澄ました顔で頼まれていた上着の刺繍が終わったので届けに来ましたと上着を差し出した。すると彼はああと少し当てが外れたといった表情をすると、自分はカイと同じ衛兵の棟に暮らしているから預かっておくと手を差し出したので、トナは仕方なく彼に上着を渡した。

本当は自分で渡したかったが、これから衛兵の宿舎の棟のある王宮の南側に寄ってから自分達刺繍侍女の棟のある王宮の西側に戻ったら、ジハは今日の勤めを終えて帰ってきていて、きっとよそいきを着たトナを見たらあれこれ詮索するだろう。

トナはお願いしますと一礼すると東門から去ろうとした。すると一人の衛兵が、あの刺繍侍女の方ですよね?とおずおずとトナに声を掛けてきた。はい、そうですがとトナが訝しげに返事をすると、あの刺繍侍女のアラについて聞きたいことがあるのですがと恥ずかしそうに声を掛けてきて、他の衛兵達はニヤニヤ笑っていたり、彼を冷やかして肩を小突いている。

ああ、そういうことか。トナも直ぐに納得した。どうやらこの衛兵はアラに惚れているようだ。

何でしょうか?トナは彼に尋ねてみた。彼はトナの返事に、あの、アラは誰か好きな人がいるとか言っていませんか?と真剣な表情で尋ねてきた。トナは首を横に振るとアラはそういった話を一切しないので分かりませんと答えた。彼は更に真剣な表情で、噂では衛兵や事師や通師を相手にしないのは王様の妃になりたいと思っているからだと聞きますがそれは本当なのでしょうか?と聞いてきた。

トナはそれはないと思います。ただアラは刺繍にしか関心がないのでと彼をがっかりさせず、けれど期待もさせないような返事をすると、もう戻らないといけないので失礼しますと軽く頭を下げると、少し足早に東門から立ち去った。

今頃カイは宿舎で何をしているのだろうか。上着の刺繍に気づいてくれるだろうか。気がついたら何を思ってくれるのだろうか。そしてわたしのことをどう思っているのだろうか。そんなことを考えながらトナは自分の刺繍侍女の棟に向かって歩いていた。

その頃ある人が刺繍室を訪ねて来ていることも知らずに。 

仕立室から戻ってきた刺繍侍女のクリとハクが刺繍室の扉を閉めると同時にきゃーと歓声を上げた。いったい何があったのだろう。刺繍室の皆の視線が二人に集中した。

ちょうど刺繍侍女長のアギと副刺繍侍女長のカサは三人のお妃様の所に伺うと言って連れ立って出掛けて不在だったので、すぐにジハは何があったの?と興味津々に二人に声を掛けると、二人は刺繍室の建物の入口の前で東門の衛兵のカイが誰かを待っていたのよ!と興奮気味に口々に返事をした。そのことばに若い刺繍侍女達は一斉にきゃーと色めき合っていた。

アラはいつもならそんな周りの様子も気にせずに一人黙々と針を進めているが、クリとハクの言った東門の衛兵ということばに反応して、刺繍の手を止め顔を上げた。

東門の衛兵?もしやトナを助けてくれたあの衛兵ではないかしら?トナは衛兵の上着を借りたままであったので、もしかしたら彼は上着を取りに来たのかも知れない。今日はトナは勤めは休みなのでここにはいない。とりあえず自分が彼に会って、もしあの時の若い背の高い衛兵だったらそのことを伝えよう。そう思いアラは自分の席から立ち上がった。

そんなアラに周りの侍女達が皆びっくりして息を飲んだ。今まで何人もの衛兵や事師や通師から文を渡されたり、贈り物を贈られたり、言い寄られていても全く興味を示さず、愛想のない態度で接していたアラが自分から衛兵に会いに席を立った。皆何か不思議な物でも見るような驚いた顔をしていた。

そんな周りを余目にアラは刺繍室の建物の入口に向かうと、そこにはあの時の若い背の高い衛兵が一人誰かを待っているように立っていた。入口にアラが現れると彼もアラを覚えていたようで、アラに近づいて来た。

アラの目の前に立つと小声でトナは?とアラに尋ねてきた。やはり衛兵は上着を取りに来たようだ。トナは衛兵に自分の名前を伝えていたのか。アラも小声でトナは今日は勤めは休みだから自分の部屋で休んでいるわ。だから上着は今日は返せないわと答えた。衛兵はそうか。と答えると心配そうな顔で大丈夫かな?と呟いた。どうやら彼は上着を取りに来たのではなく心配してトナの様子を見に来たようだ。

アラは昨日のトナの様子を思い出してみた。やはりあんな重大な秘密を知ってしまったからだろう。どこかトナはそわそわ居心地が悪そうに刺繍室の倉庫の入口近くに座って刺繍糸を整理していた。でも関係のない彼に刺繍師に纏わる話はできないので、とりあえず大丈夫だと思うわとだけ伝えた。

そのことばに彼は少しだけ安堵の表情を浮かべた。そんな衛兵を見ていてアラは、この人はどうしてこんなにもトナのことを心配しているのかしら?もしや二人は親しくなったのかしら?そう思って、ついまじまじと衛兵の顔を見つめてしまった。

そんなアラの視線に衛兵はびっくりしたようにアラをじっと見つめ返してきた。そんな風に見つめ合ってしまい、アラは急に胸がどきどきしてきてしまい、慌てて視線を下に落とすとちょうど衛兵の大きな手の甲が視線に入ってきた。

とその時、アラは彼の手の甲にある黒い小さな印に気がついて思わず息を飲んだ。

死んだ父さんと同じだわ!この人もクナクスの漁師の出なの?

そう衛兵の手の甲にはクナクスの漁師の男達が海で遭難した時に身元が分かるように目印として、そして航海の無事を祈って入れている小さな刺青が入っていたのだ。

アラは目の前の衛兵をもう一度じっと見つめてしまった。

衛兵の彼も驚いた表情でじっと自分を見つめているアラの様子に驚いたようで、何かあったの?と恐る恐る尋ねてきた。

アラは真剣な表情で、あなた、クナクスの漁師の出なの?と尋ねると彼は合点がいったのだろう。アラに両手の甲を見せ、そうだよ。俺はカイだ。クナクスのセロハの漁師の家の子で王宮に上がる前は漁に出ていたさと笑いながら答えた。

やはりクナクスの漁師だったのか。アラは急に同じ故郷の者と分かり気を許して、めったに他人には見せない笑顔を向け、わたしはアラよ。トクミの出なのと自分について話した。カイもそうか、トクミの出なのか。刺繍侍女ならトクミの出の者がいてもおかしくはないよな。なんてったってトクミの青刺繍はこのセルシャの国一番だからなと自慢げにニコニコ笑った。

アラはもっとカイについて知りたい、話したいと思ってしまったが、まだ勤め時間の最中だ。後ろ髪を引かれる思いで、トナには後であなたがここに来たことは伝えておくわ。それと上着も早く返すように伝えておくから。トナを助けてくれてありがとうと伝えると刺繍室の建物に戻ろうと踵を返した。するとカイも諦めたように南の衛兵の宿舎の方に向かって歩き出した。建物に戻ると入口の近くにはジハやカノ、ハクといった若い刺繍侍女だけでなく、もう少し年上のザホやミボまでも立っていて遠巻きにアラとカイの様子を伺っていた。

そんなアラに刺繍侍女の中ではアギとカサの次に年上で北のミクルア出身のトハが、アラ。今日はアギ様とカサ様はメマリス様とルカララ様とナトラス様の所にお伺いしているからきっと戻りは遅いわ。特に今は急ぎの刺繍もないから少しぐらい席を外していても大丈夫よ。もし二人が戻ってきてもうまく言っておくからいいから行きなさいよ。あんたに会いにわざわざ来てくれたんでしょ?そう促してくれた。

トハは同じ北の出身だからだろう。いつも何かと刺繍の腕はいいが無愛想なアラを気遣ってくれていた。きっとトハも北のクナクス出身であるカイのことは知っていて、同じ北の者同士が仲良くするのは嬉しいのだろう。盛んに早く立ち去ったカイを追いかけろとアラをせっついた。

アラはトハに黙ってこくりと一礼をすると慌ててカイの背中を追いかけるよう一目散に走り出た。

アラは必死でカイを追いかけた。

聞きたいことはたくさんあった。セロハではどんな暮らしを送っていたのか。なぜ漁師をやめて衛兵として王宮に上がったのか。そして何よりどうして一昨日始めて出会ってだろうトナのことをそんなにも心配しているのか。

身長に見合う歩幅の大きさのカイだったので、アラがカイに追いついた時にはアラの息はすっかり乱れてしまって肩で息をして額からは汗が浮き出ていた。

そんなアラにカイは目を丸くして、アラ、どうしたの?と声を掛けた。アラははあはあと荒い息をしながらあなたに聞きたいことがあるのと声を掛けた。そんなアラに驚きながらもカイはそれはいいけれど、少しどこかに座ろうか?すっかり息が上がっているじゃないか。と言うとアラを少し木陰の場所まで連れて行き、芝生の上に座らせると自分も隣に並んで座った。

アラは額の汗を拭こうと着物の胸元に忍ばせている手巾を探ったが出てこない。もしかしたらすごい勢いで走ってきたので途中でどこかに落としてしまったのかも知れない。そんなアラの様子を見ていたカイがアラにすっと白い綿の手巾を差し出してくれた。

アラは照れくさくなって、ごめんなさい。懐に入れていたはずなのに走って来た途中でどこかに落としてしまったみたいなのと答えると、カイは普通刺繍侍女はそんなに慌てて走ることはないだろうしねと笑いながら言った。アラは受け取ったカイの手巾で額の汗を拭った。カイの手巾からはほのかな海風のような香りが漂ってきている、そんな気がした。

カイは不思議な人だわ。するっとごく自然に心の中に溶け込んで、いつの間にか心に住み着いてしまう。アラはそんな風に思った。

 カイは俺は今日は休みだから大丈夫だけど、君の方は勤めを抜け出して大丈夫なの?と少し心配そうに尋ねてきた。アラはとっさに今日は侍女長様も副侍女様もお妃様達の所にお伺いしていて戻らないし、今は特に刺繍を刺す物もないのと嘘をついた。カイはそうかと納得したようだ。

アラはカイにトナとは一昨日始めて知り合ったの?と尋ねると、カイはそうだよとごく当たり前の様に答えた。アラはそれならどうしてそんなにもトナのことを心配しているの?と続けて尋ねていた。本当はその後に、トナのことが好きになったの?そう尋ねてみたかったが、さすがにそうは聞けない。恥ずかしいし、それに何よりカイがそうだと答えるのを聞きたくなかった。

するとカイはそうだなと少し考える様子をした後に多分トナという名前だからかな?と軽く首を傾げると俺の幼なじみで親友の名前もトナなんだ。王宮に上がって始めてトナという名前の人に出会ったからかな?衛兵にトナはいないんだよ。ああ、アラなら南のホルトアの出で北門にいるな。と笑った。それで初対面のトナにも親近感を持ったと言うのか。アラは納得がいった。

そのクナクスのセロハにいるであろうトナは漁師なのだろうか?アラはそのトナは今もセロハにいて漁師なの?そう何気なく尋ねるとカイは首を横に振ると寂しそうな顔をしてトナは今は北の冷たい海の底で眠っているんだと答えた。

そのことばにアラは息を飲んだ。そう、アラの父で漁師であったガゾも同じように荒れ狂う北の冷たい海に漁に出て帰らぬ人となってしまったのだ。

そしてアラの運命も変わってしまった。

 アラの父のガゾはトクミ一の凄腕の漁師と言われていた。クナクスのいくつもある港の中で特にトクミの海域は波は荒いが、その分良く脂の乗ったギダラという魚が捕れ、ギダラの塩漬けは前の王様の好物でもあり、大きなギダラが捕れるといつも高値が付いた。ガゾは漁に出るといつも何匹もの大きなギダラを釣り上げていた。

ガゾはその腕のおかげで裕福になり、その財力でクナクス一の美女と言われていたサリを嫁に迎え、まるで貴族のような大きな屋敷を建てた。そして二人の間にはサリに良く似た美しい娘が産まれた。

アラの幼い頃の記憶は大きな屋敷で暮らし、幸せな記憶しか残っていない。

父が漁で不在の時は母のサリも何かと忙しいのか家を空けることも多かったが、そんな時はアラはトクミの青刺繍の名人と呼ばれていた祖母のマボから刺繍を習い、元々手先が器用だったアラはどんどん上達して刺繍を刺していると時が経つのも忘れてしまうくらいだったので両親がいなくても寂しくはなかった。

それでも父が漁から戻ると嬉しく、父はいつもアラと母のサリ、そして父の母であるマボにたくさんの美しい着物や帯、髪飾りなどを贈ってくれた。

それらで美しく着飾ったアラを見てガゾは目を細めて、うちのアラはクナクス一の、いいや、セルシャの国一の美人になるぞ。きっと将来は領主様の息子が、いいや、王様が嫁に来てくれとお前に言うだろう。きっとアラは将来はこの国の王妃様になるぞ!と嬉しそうに冗談を言った。アラはそんな父が大好きであった。

実際裕福で美しいアラは影で周りからトクミの王女様と呼ばれていた。クナクスの祭りに美しく着飾ったアラが現れると人目を引き、クナクスの領主の跡継ぎの息子もアラの美しさにうっとりとして一度だけ恋文を送ってきたこともあったが、肝心のアラは領主の息子と言うだけで強くも賢くもない彼には全く関心がなかった。

そんな生活が一変したのはアラが十一歳の時であった。北の海の潮の流れが変わったのか、ある時からぱったりガゾの針にギダラは掛からなくなり、急に生活は苦しくなり、一家は貴族のような屋敷から小屋のような家に移り住んだ。

急激な生活の変化に耐えられなかったのだろう。祖母のマボが急に亡くなり、母のサリは前より不在がちになり、父と顔を合わせる度に父に罵声を浴びさせた。あたしに王妃様のような暮らしをさせてやるって言ったからあたしはあんたの所に嫁に来てやったんだよ!それなのに何さ!今じゃ髪飾りや着物や帯を売って暮らしているんだよ!前みたいにさっさとギダラでも捕ってきたらどうなんだい!

そんな母に父のガゾはうるさい!と叫ぶといつの間にか酒を煽っていた。アラは父と母の諍いに為す術もなく、また頼れる祖母もなく孤独を感じていた。

そんな中でアラを支えてくれたのは祖母のマボが教えてくれた刺繍であった。必死に刺繍に集中していれば周りの雑音は気にならないし、それにトクミの青刺繍はこのセルシャの国では珍重される。生活の足しになるようアラはついには学舎にも通わず家でせっせと帯に刺繍を刺した。アラの刺繍は美しいので評判となり次々に注文が来て、更にアラは忙しくなった。

これで家族も少しは楽になる。アラは必死に次々に刺繍を刺した。昔は楽しかった刺繍も今ではすっかり楽しみではなく、アラにとっては生きる術となっていた。自慢の王女様のようだった娘が今では刺繍侍女のように寝る間も惜しんで働き、妻はすっかり家を空けて戻って来ない。

ガゾはある日他の漁師達は今日はギダラの大群が押し寄せているが、波が荒過ぎて船が出せないと言う中で海に漕ぎ出したのだ。

そしてついには帰らぬ人となったのである。

 父のガゾが亡くなると母のサリはすぐにアラを連れてある男の後妻になり、アラも新しい家族のいる家に移り住んだ。男にはアラより五歳と七歳年上の息子がおり、アラには始めて兄弟ができた。きっと母は父を亡くし生きていく為に大きな息子のいる家に後妻に上がったのだろう。そうアラは思っていた。

しかしある日アラは刺繍を頼まれた塩屋のおかみから話を聞いてしまったのだ。

アラ、あんたの母親は本当にひどい女だね。幼いあんたをこんなに働かせて。それだけじゃない。何であんたの父さんが死んですぐに後妻に上がったのか。実はあんたの義父さんになった男とはあんたの父さんが生きている時から秘かに愛し合っていたそうだよ。あんたの父さんが漁で海に出た途端に宿屋で落ち合っていたって二人が一緒にいるのを何度も見た人が言ってたから間違いないね。

アラはそのことばに驚愕した。

しかし思い返せば母は父が漁に出ると何かと忙しいと言って家を空けていた。それに家を出る時はまるで祭りに行くように美しく着飾っていたのをアラも覚えていた。

きっと噂ではなく本当のことだろう。母は義父といる時は明らかにアラの父であるガゾといた時より楽しそうにしている。アラは母の姿を思い浮かべた。

父が大好きであったアラは新しい家で母と義父が楽しそうに過ごしているのを見るのが辛かった。それだけでも辛いのにアラの義兄達は美しく、日々娘らしい身体つきになっていくアラをいやらしい目で見つめたり、何かと理由を付けて身体を触ろうとするのが嫌で嫌でたまらなかった。しかも母のサリもそれに気づいていただろうが何もなかったように振る舞っていた。

ここから早く逃げ出したい。そう何度も思った。しかしアラには他に行く所もない。アラには辛い日々であった。 

そんなある日アラは都から来た布商人からある話を聞いた。ここ数年体調が優れず、病に臥せりがちであった王様がついに息子で世継ぎの王子のダルマツ様に王位を譲ろうと考えたようでどうやら近々正式に発表が出るらしい。今まで王様が病に臥せっているのに着飾るのは不敬だということで王宮の女性達は皆華美な服装や飾り物も控えていたが、やっとそれも終わるからこれから美しい布や刺繍の帯はどんどん売れる。

そしてアラの刺した帯の刺繍を見た商人は、こりゃ見事な腕前だな。まるで王宮の刺繍侍女様が刺したみたいだな!お前の腕なら王宮の刺繍侍女になるのも夢じゃないな。

彼はふと思い出したようにそう言えば新しい王様の即位で王宮の刺繍侍女が足りないから近々各領主様に刺繍の得意な娘を王宮に上げろとお達しが来るという噂も聞いたぞ。もしお前が刺繍侍女に興味があったら領主様に願い出てみたらどうだ?そう笑いながらアラに教えてくれたのだ。

王宮の刺繍侍女!それなら住む所もあるし、給金もたくさん出るらしい。領主に選ばれて王宮に上がるのならば母のサリも義父も文句は言えまい。むしろ母はアラにクナクスの領主の息子と親しくなれとしきりに勧めてきたぐらいだからは娘が都に、王宮に上がるとなれば喜ぶだろう。

アラは早速クナクスの領主宛に新しい王様の即位で王宮の刺繍侍女見習いの娘が必要だと聞いた。どうか自分を王宮に上げて欲しいと書いた文と自分が刺した刺繍の帯を送った。

帯の出来映えを見たクナクスの領主はすぐにアラを呼び出し王宮に上げる娘として選んでくれたのだ。

母のサリはアラにお前の美しさなら王宮の偉い方にきっと見初められるだろう。何と言ってもあたしに似たんだからね。王様でも王子様でも事師長様でもいいから、ともかく偉い方の奥方になってあたしを都に呼ぶんだよ。いいね?そう言ったのだ。

アラはクナクスを発つ時にクナクスの領主に一つだけ願い出てた。故郷を思い出すと悲しくなって王宮を去りたくなってしまうかも知れないので、もし母から王宮の自分宛の文が来ても秘かに処分して欲しい。その代わりに自分は王宮一の刺繍侍女になってクナクスの名声を上げてみせると。そう嘘をついた。

クナクスの領主はそんなアラをクナクスの誇りだ、何と健気で素晴らしい娘ではないかと褒め称え、王宮に上がるアラの為に充分な支度を整えてくれ、アラはいたたまれない気持ちになった。

そしてアラは産まれ育ったトクミから去ったのだ。

アラは急いで借りた手巾で涙を拭くと、もう大丈夫よ。話を聞いてくれてありがとう。逆にあなたの子供時代のことや衛兵になってからのことを聞かせて。そう笑顔を作り明るい声で尋ねてみた。

カイもアラが話題を変えたがっていると気がつき、自分の子供時代や王宮に上がってからの中から面白い話を選んで披露した。

特にアラは南門の三人の衛兵のタネの話には大笑いした。南門に北のサクチリと北のトエガル出身のタネという衛兵がいた最初はサクチリのタネ、トエガルのタネと呼ばれていたが、去年の春にもう一人サクチリから王宮に上がった衛兵の名もタネだった。これではサクチリのタネと呼べば二人の区別がつかない。困った東門の衛兵長は前から王宮に上がっていたタネを兄タネ、新しくサクチリから来た衛兵を弟タネと呼び始めたが、いつの間にか誰からともなく新しく王宮に上がったタネの方が身体が大きいので大タネ、前からいたタネの方が小さいので小タネと呼ぶようになり、いつしかトエガルのタネも中タネと呼ばれるようになってしまったが、今年の春に小タネが副衛兵長に昇進したが、誰もタネ副衛兵長とは呼ばず、小タネ副衛兵長と呼ばれていると話すと小タネを知っていたアラは声を上げて笑った。

いつの間にかかなり時間が経ってしまっていたが、アラにはあっという間だった。

もっとカイと話していたいが夜になっても戻っていないと騒ぎになってしまう。それにカイもそろそろ夕食を食べないといけない。アラは芝生から立ち上がるとカイも同じように立ち上がった。

今日は本当にありがとう。手巾は洗って返すわ。そうアラが伝えるとカイはいいよ。手巾なら他にもあるからその手巾は君にあげるよ。あ、トナに上着を返してと伝えておいておくれ。さすがに上着を無くしたと衛兵長に知れたら大目玉だからねと冗談っぽく言い、アラもつられてそうね。衛兵の上着は貰えないわねと笑った。

今度また手巾を返すと言って、東門を尋ねようかしら?いいえ、それとも今日のお礼に新しい手巾を贈ろうかしら。ふとアラはあることを閃いた。

ねえ、カイ。最後にもう一度あなたの手の甲を見せてと頼んだ。不思議そうな顔をしながらもカイはアラにもう一度手の甲を揃えて見せた。

アラはしばらくじっと見つめると、ありがとう。じゃあもう行くわねとカイに声を掛けると、侍女達の食堂のある方に向かって歩き出した。カイも無言で軽くアラに手を数回振ると衛兵達の宿舎のある王宮の南に向かって歩き出した。

アラは急いで借りた手巾で涙を拭くと、もう大丈夫よ。話を聞いてくれてありがとう。逆にあなたの子供時代のことや衛兵になってからのことを聞かせて。そう笑顔を作り明るい声で尋ねてみた。

カイもアラが話題を変えたがっていると気がつき、自分の子供時代や王宮に上がってからの中から面白い話を選んで披露した。

特にアラは南門の三人の衛兵のタネの話には大笑いした。南門に北のサクチリと北のトエガル出身のタネという衛兵がいた。

最初はサクチリのタネ、トエガルのタネと呼ばれていたが、去年の春にもう一人サクチリから王宮に上がった衛兵の名もタネだった。これではサクチリのタネと呼べば二人の区別がつかない。困った東門の衛兵長は前から王宮に上がっていたタネを兄タネ、新しくサクチリから来た衛兵を弟タネと呼び始めたが、いつの間にか誰からともなく新しく王宮に上がったタネの方が身体が大きいので大タネ、前からいたタネの方が小さいので小タネと呼ぶようになり、いつしかトエガルのタネも中タネと呼ばれるようになってしまったが、今年の春に小タネが副衛兵長に昇進したが、誰もタネ副衛兵長とは呼ばず、小タネ副衛兵長と呼ばれていると話すと小タネを知っていたアラは声を上げて笑った。

いつの間にかかなり時間が経ってしまっていたが、アラにはあっという間だった。

もっとカイと話していたいが夜になっても戻っていないと騒ぎになってしまう。それにカイもそろそろ夕食を食べないといけない。アラは芝生から立ち上がるとカイも同じように立ち上がった。

今日は本当にありがとう。手巾は洗って返すわ。そうアラが伝えるとカイはいいよ。手巾なら他にもあるからその手巾は
君にあげるよ。あ、トナに上着を返してと伝えておいておくれ。さすがに上着を無くしたと衛兵長に知れたら大目玉だからねと冗談っぽく言い、アラもつられてそうね。衛兵の上着は貰えないわねと笑った。

今度また手巾を返すと言って、東門を尋ねようかしら?いいえ、それとも今日のお礼に新しい手巾を贈ろうかしら。ふとアラはあることを閃いた。

ねえ、カイ。最後にもう一度あなたの手の甲を見せてと頼んだ。不思議そうな顔をしながらもカイはアラにもう一度手の甲を揃えて見せた。

アラはしばらくじっと見つめると、ありがとう。じゃあもう行くわねとカイに声を掛けると、侍女達の食堂のある方に向かって歩き出した。カイも無言で軽くアラに手を数回振ると衛兵達の宿舎のある王宮の南に向かって歩き出した。 

トナが慌てて刺繍侍女の棟に戻ったが、運良くジハはまだ戻って来ていなかったので、急いでよそいきの着物からいつもの着物に着替えた。

ジハは勤めを終えて部屋に戻らずにそのまま食堂に行ったのかも知れない。トナも食堂に向かうことにしたが、この時間でジハだけでなくアラや他の刺繍侍女の誰もがまだ刺繍侍女の棟に戻って来ていないのに気づいて不審に思った。

何かあったのかしら?まさかまたメマリス様からお叱りを受けているとかじゃないわよね。何か大事があったのならば、前にミボが急にマルメルから使者が来ると声を掛けたように自分も呼び出されているはずだ。それともナトラス様からみんなに賜り物があって喜んで騒いでいるのかしら?そんな風に思いながら食堂に向かった。

食堂には勤めを終えた料理侍女や仕立侍女、王子様や王女様の子育てを任されている子守侍女などが楽しそうに会話しながら夕食の粥を食べている。しかしそこには刺繍侍女は誰もいなかった。

首を傾げているトナに、ちょうどその時仕立侍女のクチがあら、トナ。今日はジハと一緒じゃないの?と親しげに声を掛けてきた。クチは北のバルスエの出だが、バルスエは東のザルドドに接していて、北の中では東に好意的な地域である。またバルスエにトナという同じ名の妹がいるそうで、トナにはいつも優しく声を掛けてくれていた。

そうなの。わたしは今日は休みでまだ誰も刺繍侍女が来ていないけれど何かあったのかしら?と尋ねると、クチはそう言えばまだ誰も来ていないわねと周りを見渡すと、午後にカノとハクがセホトル様の秋衣を取りに来たけれど、特に何も言っていなかったし、逆にアギ様とカサ様がお妃様達の所にお伺いしていて刺繍室にいないからと仕立室に来ていた布商人達とちょっと長く話していたわ。あの後何かあったのかしら。でも何かあったのならばトナを呼びに来るでしょう。とトナを安心させるように言うと、そのうちジハも来るでしょう。わたしと一緒に先に食べて待っていたら?と誘ってくれたので一緒に席に座り、温かい粥を食べ始めた。

優しいクチは衛兵にも人気があり、アラほどではないが衛兵から文をもらったという噂も聞く。カイとクチはクナクスとバルスエと別の領地だが同じ北の出身同士だ。もしかしたらクチは何かカイについて知っているかも知れない。ふとそんなことを閃いた。運良くジハはまだここにいないし、クチは口が固そうだ。 


思いきってトナは東門にいるクナクスの出のカイという衛兵は知っている?と尋ねてみると、クチはああ。セロハの出のカイね。知ってるわ!と答えて、ふふと楽しそうに笑いながら若い料理侍女達の間で衛兵の誰がいいか票を取ったらカイは選ばれたそうよ。北門のドクが一番人気で次がカイだったのよ。

確か前にジハがそんなことを言っていた気がしたが、その時はさほど興味がなく聞き流していたが、カイはそんなに侍女達に人気なのか!にわかにトナの心はざわざわしてきた。

クチはわたしと同じバルスエの出の衛兵のマフがカイと親しいから、わたしもマフからカイの話を聞いたことがあるけれど、カイは優しくて面倒見がいいから侍女だけでなく仲間の衛兵からも人気があるんですってと目を細めて笑った。

そしていたずらっぽい表情で、トナ。カイに気があるなら早めに文を書いて想いを伝えないと他の誰かに奪われちゃうわよ。必要だったらわたしがこっそりマフに頼んで渡してあげるからと言った。

他の誰かに奪われてしまう。そのことばにトナの胸はキリキリと痛くなってきた。

とその時、ガヤガヤとジハやカノやハク達刺繍侍女が何か話しながら食堂に入ってきた。あら、ジハ達が来たわねとクチが言うと、ジハもクチと一緒にいるトナに気がついて、小走りでトナとクチの席にやって来た。

席に着くとすぐにジハは興奮気味にトナ、聞いて!今日はすごいことがあったのよ!何と東門の衛兵のカイが刺繍室の建物の前に現れたのよ!そしたら今までどんな衛兵や事師や通師にも興味を示さなかったアラがカイに会いに自分から席を立ったのよ!そしてアラはカイを追いかけて行ってまだ戻ってないの。二人は同じクナクス同士だから前から親しかったのかしらねと早口で話した。

アラとカイが?

トナは一瞬息ができなくなりそうだった。ちらっとクチが黙ったまま心配そうにトナを見た。そんなトナに気づかず、ジハは興奮したように話を続けている。

トナの心は波立っていた。アラとカイが?

 

トナは眠れずに寝返りを打った。もう今晩は眠れずに何回寝返りを打っただろうか。隣でジハは何も知らずにすやすやと気持ち良さそうに眠っている。

カイとアラが親しくなった?ジハはお互い同じクナクス出身同士なので前から知り合いであったのかしらと言っていたがそれは違う。アラはカイがトナを連れて刺繍侍女の棟に戻ってきた時カイと顔を合わせたが特に知り合いである素振りは見せていなかったし、アラはカイの名前も出身も知らず、北か、西の出身か分からないけれどいい人で良かったわねと言っていた。

カイは昼間の東門の衛兵のように前からアラのことを好きだったのか、それともあの時の一瞬でアラを見初めたのか。今まで衛兵や事師に興味を示さなかったアラはどうしてカイに興味を示したのか?もしやカイはすぐにアラに恋文でも送ったのだろうか?衛兵達に人気のあるアラだ。誰かに若く金髪で美しい刺繍侍女は誰かとアラの容姿を伝えて尋ねれば、すぐにトクミ出身のアラだと答えが返ってくるだろう。

自分と同じクナクスの出で、トナを助けてくれた優しい人とアラが関心を持ってもおかしくはない。

トナの脳裏にはアラとカイが並んで親しげに話している姿が浮かんできた。背が高く男らしいカイと美しいアラは似合っていて、同じクナクス出身だけあって二人の会話も弾んでいる。いつもは無愛想なアラと思えないほど表情豊かに笑って話しているアラはいつも以上に美しかった。トナは慌てて頭を振り想像を消そうとしたが、頭から二人の姿が離れてくれない。

結局この夜トナはほとんど眠れなかった。そのせいで頭は重いし、目もどこか重たげだ。ジハや周りにばれないよう冷たい水に浸けた手巾で目を冷やしたおかげで、何とかごまかせたようだ。

翌日アラは勤めが休みで、また刺繍侍女長のアギと副侍女長のカサもお妃様達の所にお伺いすると連れ立って出掛けていた為、刺繍侍女達は昨日のアラとカイの話で持ちきりであった。中には気が早く二人は結婚するのでアラはクタのように刺繍侍女を辞めるのではないかと言い出す者すらいた。

周りがアラとカイが親しそうな話をするのを何もなかったような振りをして聞いているのがトナにとって堪らなく苦痛であった。でも王宮を抜け出そうとしてカイに助けられたというカイとの出会いのことは誰にも話せない。

早く話を止めて!そうトナが心の中で叫んだ時にアギとカサが部屋に入って来たので皆慌てて口をつぐんで刺繍を刺す手元を進めた。

アギはトナの所に来るとトナ。ナトラス様が秋衣の刺繍のことでお前をお召しだ。すぐにお伺いしなさい。そう命じた。そして北のミクルア出身であるトハと南のシクタタ出身のネキにトハとネキ。トハ。お前はルカララ様の所に、ネキはメマリス様の所にお伺いしなさい。そう続けた。

慌ててトナとトハ、ネキの三人は承知しましたと席から立ち一礼すると、それぞれのお妃様達の館に向かうことにした。

トナが刺繍室から出ようとした時にアギと視線が合った。アギは謎めいた笑みを浮かべている。

きっとナトラス様が自分をお召しになるのは秋衣の刺繍の件ではない。もしかしたらあの刺繍師の秘密に纏わる話なのかも知れない。

トナはそんな気がした。

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