町田 千春 著
 刺繍師 その4     TOP

 

トナがナトラスの館に着くとすぐに部屋に通され、ナトラスがナトラス付の侍女長を伴って部屋に現れた。今日も淡い紫と濃い紫の絹の衣を重ねて羽織って、土色の髪を美しく結い上げていて、この前ここにお伺いした時と同じ甘い花の香りが漂ってきた。

トナ、ご苦労であった。そう少し低いが良く通る声でトナに声を掛けた。お前が刺してくれたあの帯はとても気に入ったし、王様も良く似合うと誉めてくださった。お前のおかげだ。礼を言うぞ。そう微笑みかけてくれた。

トナは慌てて、わたしにはもったいないおことばです。と頭を深く下げた。

ナトラスは傍らに控えている侍女長に頷くと侍女長はパンパンと手を叩いた。すると既に控えていたのだろう。数名の侍女達がまるで王様や貴族をもてなすような二人分の茶と数種類の木の実や高価な蜜漬けの果実などが載ったいくつもの皿を持って入って来た。

トナ。今日はお前とゆっくり話がしたい。アギには言ってあるので時間を気にせず、ゆっくり過ごすがいいと、にっこりとトナに微笑み掛けた。

ナトラスの意図が分からずトナは困惑したが、それでもナトラスの命には従わないといけない。トナは侍女長に座るよう指し示された椅子に座った。茶を注ぐと侍女長と侍女達は静かに一礼して部屋から下がり、この広い部屋にはトナとナトラスの二人きりとなった。

しばらくどうしたらいいのか分からずトナは黙って出された茶を飲んでいたが、そんなトナにナトラスは、トナ。昨日アギとカサがお前とアラのどちらかを次の刺繍侍女長にしたいと伝えに来たのだ。まずはメマリス様とルカララ様に根回しをしてから正式に王様にお伝えすることになるが、その前にわたしから王様にそれとなく伝えておいて欲しいと頼まれたのだ。そう言った。

アギも二人に根回しをしてからと言っていたが、その前にナトラス経由で王様のお耳にも入れておくとは、さすが知略に長けた刺繍師のアギらしい。王様はナトラスの所にしか泊まらず、二人きりの寝屋での会話なら他に漏れることはない。

ナトラスはわたしもトナ。お前が刺繍侍女、そして刺繍師になるのは賛成だ。わたしはお前こそ刺繍師になるべきだと思っている。けれどトナ。お前はどう思っているのかそれを聞きたい。刺繍師になればお前は故郷のタスカナにも一生帰れず、また結婚もできない。それでお前は本当に良いのかお前の正直な気持ちを聞いてから王様にお伝えしようと思っているのだ。

そのことばにトナはなぜナトラスは自分の気持ちを聞いてから王様にお伝えしようとしてくれているのか不思議に思った。刺繍侍女という立場なら王様やお妃様から命じられば従う他ないのに、それがトナにあらかじめ正直な気持ちを聞くのはなぜだろう。

そんなトナの疑問が聞こえたかのようにナトラスは、トナ。わたしは王様の妃でお前はわたしが命じれば従う立場にある。
けれどわたしはお前にはお前が望まないことを無理強いしたくない。なので聞いているのだと優しく微笑み掛けながら言ってくれた。

トナはそんなナトラスに、急にアギ様から話をされて驚いております。なのでまだ刺繍侍女長になるとか、タスカナに一生戻れないとか、結婚もできないとか話が大きすぎてわたしにはどうお答えしたらいいのか分かりませんと戸惑いながら答えた。

そんなトナにナトラスはそうか。と答えるとトナ。お前は前はそういった者はいないと言っていたが特に今も好きな者などいないのか?そう尋ねてきた。

好きな者。そう問われた途端、急に脳裏にカイの姿が浮かんできて思わずトナはえ?っと狼狽してしまった。敏いナトラスは一瞬トナが見せた反応にトナ。どうやらお前に好きな者が現れたのだな?と嬉しそうに微笑んだ。

王宮に遣える者か?それとも出入りの商人なのか?まるで優しい姉や母親のように尋ねてくる。そうなるとトナとしては白状しない訳にはいかない。

トナは恥ずかしさに口ごもりながら東門の衛兵でクナクスのセロハの出のカイという者です。と答えた。そうか、衛兵なのかとナトラスは頷いている。

その者とはどうやって知り合ったのだ?もうそのカイとはお互い想い合っているのか?続けて尋ねられて仕方なくトナはこの国の隠された歴史と刺繍師について知ってしまい、あまりの秘密の大きさに怖くなりタスカナに逃げ帰ろうとしたこと、その時始めて出会ったカイが助けてくれたこと、カイが優しいので男女問わずに人気があること、そしてカイとアラが親しくしているのを他の刺繍侍女達が見たと聞いてしまったことなど全てナトラスに打ち明けてしまった。

 話を聞き終わるとナトラスはしばし何か考えていたようでじっと一点だけ見つめていたが、すぐに手元にあった小さな呼び鈴をチリンチリンと鳴らした。

するとナトラス付の侍女長が静かに部屋に入ってくると、ナトラス様お呼びでしょうか?と恭しく頭を下げた。

そんな侍女長にナトラスは東門の衛兵でクナクスのセロハ出身のカイという者がいる。その者を東門の副衛兵長にするよう今晩にでも王様に願い出てみるので、衛兵担当の事師にも伝えておくようにと命じた。

あまりのことにトナはびっくりして声も出ずに目を丸くしてしまったが、侍女長はナトラスが王様に願い出れば、それぐらいのことは簡単にすぐに叶うと分かっているのか特に驚きもせず、承知致しました。すぐに伝えて数日の内に正式に命が下るよう準備させますと心得た顔で頭を下げた。

そんな侍女長にナトラスは頼んだぞ。わたしはまだトナと話があるので下がるが良いと声を掛けると侍女長は一礼して静かに部屋から下がっていった。

驚いたままのトナに向かって、トナ。本来ならばお前が世話になって、そして何より愛する男だ。衛兵長に任命しようかと思ったが、いきなり衛兵長では周りも不審に思うのでとりあえず副衛兵長に命じたが、そのうち折を見て衛兵長に命じるから安心して待っていておくれとにっこりと微笑んだ。

そして表情を改めると王様の妃らしい威厳に満ちた表情でトナ。お前にカイの副衛兵長の上着の刺繍を刺すよう命ずる。後で刺繍侍女長のアギから正式な命がいくので従うようにと命じた。このように命じられれば刺繍侍女であるトナは王様の妃であるナトラスの命に従う他ない。トナはそれでも突然の命に驚きを隠せないでいた。

いったいなぜナトラスがトナの為にそんなことをするのか。いくらトナのことが気に入ったとしてもそれは大げさ過ぎる。

驚いたままで何も言えないトナにナトラスは.
トナ。お前はアギから刺繍師についての話を聞いたようだが、その話には更にいくつか王宮の刺繍師にも伝えられていない秘密の話があるのだ。そう告げた。

伝えられていない秘密?そのことばにトナがナトラスを見つめるとナトラスはトナ。カナジュには二人の王女がいたのは聞いているだろう。トナは頷きながらアギから聞いた話を思い出していた。

確か二人の王女は東の果てのコヌマに追放されたが、その旅の途中で病弱であった妹のサラシェ王女は無理が祟って亡くなってしまったと聞いた。姉の王女はコヌマの地に辿り着き、そこで家庭を持ったのだろう。そしてその子孫としてナトラスが産まれている。

そんなトナにナトラスは幼くして病で死んだとされていたサラシェだが、実はタスカナの地で秘かに生きていて家族を持ち、子をもうけて亡くなったのだよ。そうナトラスは告げた。

サラシェ王女は生きていて、タスカナの地にいた!トナは驚きのあまり、大きく息を飲んだ。

ナトラスはその秘密の話をトナに明かした。二人の王女はホナとカスという二人の侍女と四人でコヌマの地に向かっていて、四人は何とかタスカナまで辿り着いた。その時姉のセリノト王女は十二歳で妹のサラシェ王女は九歳であった。

タスカナでは王女達を哀れに思ったタスカナの領主が秘かに人目につかない小さな家を用意し、自分の侍従を一人付けて世話をしてくれていた。

二人の王女が寝静まった夜中にホナとカスは秘かに話し合った。何とか無事ここまで来れたがクスハネは王女達を消そうと手の者をいつ送ってくるかも知れない。

それなら元の王家の血を絶やさない為にも二人を別々の場所に残して、周りを欺く為に一人は死んだことにすれば何とか血を絶やさずに済むかも知れない。妹のサラシェ王女は病弱だと知れ渡っているので旅の途中で無理が祟って亡くなったということにしても不審には思われないだろう。

翌日サラシェ王女は病で亡くなったということにしてカスとホナ、セリノト王女の三人で簡素な葬儀を行った。

その後セリノト王女とホナはコヌマに向かい、サラシェ王女とカスは姉妹ということにして、二人共名を変えてタスカナに残ることにした。

つまりタスカナにもカナジュの血を引く者がいるのだ。そうナトラスは告げた。

その後セリノト王女とホナはコヌマの地に辿り着き、しばらくは二人で暮らしていたが、ホナがクスハネから王宮に呼び戻され、セリノト王女は一人コヌマの地に残った。

そして成長したセリノト王女はコヌマの地を治めているザルドドの領主の縁者の男の妻となり、五人の子を産み、コヌマの地でその一生を終えた。そしてそれから脈々とカナジュとセリノトの血を引く者達がコヌマの地に根付いていったのだ。

月日は経ちセリノトの子達もすっかり大きくなり、もうすぐ子達に結婚の話もちらほら出る頃のある日、セリノトの元に一通の文と包みが届けられた。朝家の前に置かれていたので誰が届けたのか分からない、そう伝えながらセリノトの夫はセリノトに文と小さな包みを手渡した。

訝しげに文の封を開け、中の文を読みセリノトは驚愕した。

文にはセリノト様、お元気でお暮らしと風の噂で伺っております。わたくしも彼の地で夫と子供達と元気に暮らしております。セリノト様には五人のお子様がいると聞いておりますが、わたくしには一人の息子と二人の娘がおり、まるで自分の幼い頃を思い出させてくれます。どうぞこれからもお元気でお暮らしください。そう文には綴られていた。

これは!その者の名前やどこの場所かは記されていないが、それがタスカナの地にいるであろう妹のサラシェからの文だと分かった。一人の息子と二人の娘とは、亡くなった兄のアズマクとサラシェと自分のことを言っているのであろう。

慌てて包みを開けるとそこには見事なつがいのカナジュの鳥の刺繍が刺された帯が入っていた。妹のサラシェに付き従ってタスカナに残ってくれた侍女のカスもホヌに負けじと劣らず刺繍の腕は見事だったからきっとサラシェもカスから刺繍の手ほどきを受けたのだろう。母のカナジュの血を引くだけあって妹のサラシェも刺繍の腕は確かだったようだ。

セリノトは文と帯を抱き締めて、嬉しさのあまり泣き出した。少女の頃に生き別れた妹は確かにタスカナの地で元気に暮らしている。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

ただ名を変えた妹の今の名や夫や子の名、タスカナのどの場所でどのように暮らしているか限定できることは記されていなかったが、それはクスハネの手の者の追及の手が及ぶのを恐れてのことだろう。クスハネは既にこの世を去り、クスハネの息子が王位を継いだが、息子に前の王家の血を引く自分や自分の子達を消すよう遺言を残している可能性はある。遠い王宮で影になって自分の支えてくれていたホヌも既に病でこの世を去ってしまった。妹とその子達の身の安全の為にもこの秘密は王宮にいる者には決して明かしてはならない。私の胸の内だけに隠しておこう。

急いでセリノトは妹が生きている証拠となる文は跡形も残らないよう燃やしてしまい、ただ刺繍の帯だけは終生手元に置いて大切にして、自分が亡くなる直前に秘かに長女と長男の二人にだけこのことを伝えて、帯を託した。

そして代々一族の数名の者にだけこの秘密は伝えられていったのだ。

そこまで伝えるとナトラスは、なのでどの者がサラシェの子孫なのかは分からないが、確かに今でもタスカナの地のどこかにわたしと同じ元の王家の、そう。カナジュの血を引く者がいるのだ。そう言った。

なのでタスカナ出身のトナにナトラスは懇意にしてくれると言うのか。トナは驚きの視線をナトラスに送った。

他にタスカナ出身の侍女や衛兵、事師も数名は王宮には仕えているが、特にナトラスに贔屓されているような話は聞いたことがない。現にタスカナ出身の刺繍侍女に先輩のミボがいるが、特にナトラスに贔屓されていることもなかったし、そもそもナトラス自身の出身であるザルドドの出の者ですら特に贔屓されて昇進したという話すら聞いたことがなかった。

思わずトナはなぜわたしにそんなに肩入れをしてくださるのですか?そう恐る恐る震える声で尋ねていた。

そんなトナにナトラスは艶然に微笑むと、トナ。わたしの本当の名前はナトラスでもササでもないのだ。わたしの本当の名はトナと言うのだ。そう、トナ。わたしもお前と同じ春のトナの日に産まれたのだよ。そう告げたのだ。

ナトラス様の本当の名前はササではなく、トナ?予想もしなかった話にトナは大きく口を開けて呆然とナトラスを見つめた。

そんなトナに、トナ。わたしはお前に出会って本当に驚いたのだ。タスカナの出で刺繍が得意で、しかもわたしが捨てたかつてのわたしと同じ名前を持つ娘がこの広い王宮の中にいたのかと!とても他人とは思えなかったのだ。

そんなお前だけにわたしの過去を明かそうではないか。そうナトラスは続けた。

ナトラスは母と伯母がセリノト王女の直系の子孫で代々いくつもの秘密の願いを込めた刺繍の技と闇に葬られているセルシャの国の歴史を受け継いでいた。

一族にはある言い伝えが残されていた。もし春の満月の日に娘が産まれたら、きっとその子は王宮に上がり、その子のおかげで元の王家がまた甦るだろう。

そしてナトラスは春の満月のトナの日に産まれた。

母と伯母はこの子こそが一族の恨みを晴らしてくれる子だ!そうナトラスが産まれた時から二人は思った。

もちろんナトラスはそんな言い伝えがあるとも知らずに育ったが、ナトラスには姉と妹、そして伯母の子である二人の従姉妹がいたがナトラスだけは小さい頃から明らかに他の子達とは区別して育てられていた。

家はザルドドの領主の縁者の地元の名家で決して貧しい訳ではないのに、姉や妹、従姉妹達と同じように村の学舎に通わせてもらえず、その代わりに元は王宮の侍女であったという住み込みの老女から、ことば使いや立ち居振舞いを厳しく躾られ、姉や妹や他の子のように外で遊ぶことも許されず、刺繍を叩き込まれた。その合間には父から学舎で学ぶ読み書きや計算なども習わされていた。

そう。王宮に娘を送り込むには刺繍侍女見習いとして王宮に上げるのが一番確実な方法であったからだ。

なぜわたしだけ姉さんや妹のホゾと違うのだろう。従姉妹達とも違う。わたしはいつもなぜトクから刺繍やことば使いを注意されて暮らしているのだろう。そうナトラスは不思議に思っていた。母さんや伯母さんに聞いてもいつもお前はそのような運命だからとしか答えてくれず、父さんや伯父さんは困ったように口をつぐんでいた。

姉のサクや年上の二人の従姉妹達も自由のないナトラスをいつもどこか哀れむような目で見ていた。周囲には真ん中の娘のトナは産まれた時から病弱で外に出せないと伝えられていた為、姉達のように村の皆が楽しみにしている祭りにすら行けなかった。

そんなナトラスが十二歳になり、ついに身体が少女から娘に変化したすぐ直後のことであった。

ある夜、ナトラスは母と伯母、そして住み込みの老女であるトクから突然話があると言われ、いつもは鍵が掛かっている家の奥の部屋に通された。

そこでナトラスは自分達一族は元の王家の末裔で、なぜ今このコヌマにいるのか。闇に葬られたこの国の歴史を伝えられ驚いた。

だが驚いたのは、それだけではなかった。

そんなナトラスに母はトナ。お前を同じ親から産まれた姉妹ながらサクやホゾと区別して育てていたのには訳があるのだ。いつもお前にはそのような運命だからとしか答えていなかったが、一族にはある言い伝えが伝えられて、もし春の満月の日に娘が産まれたら、きっとその子は王宮に上がり、その子のおかげで元の王家がまた甦るだろう。そう言い伝えられているのだ。

そしてトナ。お前は満月のトナの日に産まれたのだよ。なので私達はお前を王宮に上げようと決めて、元王宮の刺繍侍女長であったトクに協力してもらい、王宮に上げて王様の妃になっても恥ずかしくないようお前を充分に躾けてきた。

お前は刺繍侍女見習いとして王宮に上がり、そして王様の目に留まり、ご寵愛を頂き王子を産むのだ。その子が王位に就くことで元の王家の血筋が、またこのセルシャの国の王座に就けるのだ。

今の王様は病に臥せっておられる。おそらく数年の内に息子の世継ぎの王子のダルマツ様に王位を譲るであろう。お前はダルマツ様の目に留まるようにして、子を、そう王子を産むのだ。それがお前に与えられた使命なのだ。

そのことばにナトラスは驚愕した。つまり自分は次の王様となる人に近づいて見初められるよう仕組んで気に入られ、やがて王様の息子を産んで、今の王家に元の王家の血筋を入れる為だけに王宮に送り込まれると言うのか。

その為だけに今まで刺繍やことば使い、立ち居振舞いなど厳しく躾られていたと言うのか!

しかも次の王様となるダルマツ様は確か自分より二十も年上で、既に二人の南と北の名家出身のお妃様達との間にそれぞれ王子様がいると聞いている。そんな人に近づいて子を産めと言うのか。

まして世間知らずのナトラスの耳にもどこからともなくダルマツ様は凡庸な男で見た目も特に美男子でもなく、そして賢くもないので決断力に欠けるという噂も伝わってきていた。

そんな人に近づいて、その人に自分を捧げて、その人の子を産めと言うのか。

ナトラスは姉のサクの自分を見つめる哀れみの混じった眼差しを思い出した。それだったのか!姉や従姉妹達はきっとこの秘密を明かされていたのだろう。

どうしてわたしはこんな家に産まれてしまったのだろう。どうしてわたしは春の満月のトナの日に産まれてしまったのだろう。もし同じトナの日でも一年前のトナの日に産まれていれば。いいや。同じ年でも一日違いでクハの日やマクの日にさえ産まれていれば。

ナトラスは自分の運命を秘かに恨んだ。

 

ナトラスは自分の運命を恨みつつも、逆らう術もなく王宮に上がるまでの二年間更に刺繍の修練だけでなく、元刺繍侍女長であったトクの伝で元王宮の副事師であった男を都から呼び寄せ、まるで王様の元に嫁ぐ領主の娘のようにセルシャの国の歴史や王宮でのしきたり、そして特に今の王宮の人間環境やその背後にある勢力分布など自分が王宮に上がった後にどう振る舞うのか、誰を敵に回さず、味方にするのかといった王宮で生き残る術を叩き込まれた。

そして十四才の時ついに王宮に上がることになった。

コヌマを発つ前日、ナトラスはまた母と伯母とトクに家の奥の部屋に通された。

母はナトラスを目の前にして、トナ。お前は明日この家を出て王宮に向かう。お前は明日からトナという名を捨ててササと名乗るのだ。そう告げた。ナトラスは驚いた。

そんなナトラスに母はお前がコヌマに落ち延びたカナジュの末裔だと今の王家の者に見破られてしまってはいけない。

なのでお前の過去は葬るのだ。お前の過去を探っても分からないようにその為にお前を小さい頃から外にも出さずに周りと交流させず学舎にも通わせなかったのだ。このザルドドの周りの者達にはお前はついに病が悪化してこの世を去ってしまったと伝えておく。

お前は新しいササという名前で王宮に上がる為の書類はザルドドの領主様に父さんから秘かに伝えて整えてもらった。なのでお前は王宮にザルドドのササという娘として上がるのだ。そう伝えられた。

そして最後に、トナ。お前にはダルマツ様がお前を恋しく思うようになる秘密の刺繍を教えよう。王宮に上がったら折りを見て、その刺繍を刺した衣をダルマツ様に贈るのだ。これは王宮にいる刺繍師にも伝えられていない秘密の技だ。セリノトがこの地で一人で生き延びていく為に見つけた技だからねと伝えた。

コヌマに落ち延びたセリノトは若い娘の身空でたった一人、このコヌマの地で生き延びていく為には誰か自分を支えて協力してくれる者を味方に付けなければならなかったのだ。

それでセリノトが選んだのはザルドドの領主の従弟だったのだ。領主の妻になればいつ夫であるザルドドの領主を焚き付けて都に攻め入るかも知れないと都のクスハネに警戒されて危険だ。然りとて都の王家の動きには常に警戒しておく必要がある。領主の身内ならば他の者が知らないことも耳に入る可能性が高い。そこでセリノトはザルドドの領主が信頼して可愛がっている従兄弟の男に目を付けて彼が自分に惚れるよう秘密の刺繍の技を使ったのだ。

当初男には相思相愛の村頭の娘がいたが、彼はいつしかセリノトの虜になり、その娘ではなくセリノトを妻に迎えた。

トナ、いいや、ササ。お前は幸運にも美しさにも恵まれた。それにこの秘密の刺繍の技があればきっとダルマツ様はお前に夢中になるだろう。そして必ずお前は王子を産んで、その子を次の王座に付けるのだ。

そうやってナトラスは産まれた時からのトナという名を捨ててササと名乗り王宮に上がり、やがて世継ぎの王子であったダルマツに見初められて妃となり、貴族のようなナトラスという新しい名を授かった。ダルマツの即位と共に王の妃の一人となったのだ。

トナはナトラスの話を聞き、驚きを隠せなかった。

自分の母さんのエダが出会い、結果的に父さんとの縁を取り持ったササと名乗った元王宮の刺繍侍女長のトクが協力してナトラスは王宮に上げるのにふさわしい娘に仕立てあげられて王宮に上がり、そしてその秘密の刺繍の技で王様を虜にしたと言うのか!

自分とナトラスの間に張り巡らされていた不思議な運命の縁をひしひしと感じていた。まるで自分は見えない運命という糸に操られて、この王宮に引き寄せられてたどり着き、ナトラスと出会ってしまった。そしてカイとも出会ってしまった。

わたしはこんな風にして、この王宮に来てしまったのだ。そうナトラスは哀しげな微笑みを浮かべた。

そんな哀しげなナトラスを見つめてトナは混乱していた。

つまりナトラスは一族の望みを叶える為に王宮に上がり、そして王様が自分に虜になるよう秘密の刺繍を刺して、その結果として王様のご寵愛を受けるようになったのだ。それは前に刺繍侍女長であるアギもおそらくそうであろうと言っていたので、だから王様は他の者に見向きもせずナトラスだけを寵愛しているのだと逆にアギの推測は本当だったのかとそれはトナも腑に落ちた。

しかし初めてトナがナトラスと出会って話した時にナトラスは、トナ。愛する人に愛してもらえるのならば、人はどんな事でもしてしまうのですよ。例えそれがどんなに愚かな事でも。もしそれで愛してくれるのだったら、迷わずそれを選んでしまうのよ。

ただ本当にナトラスは王様を深く愛しておいでなのだ。そうトナも強く感じたのに、あの時のことばと想いは偽りであったと言うのか。

それともナトラスは目的の為に王様に近づいたが、いつしか本当に王様を深く愛するようになったのだろうか。

トナはナトラスの本当の心が見えずに困惑していた。

 

ナトラスの心が読めずに困惑したままのトナにナトラスは哀しげな表情を改めると王様の妃らしい毅然とした態度で、トナ。先ほど命じたようにお前はカイの新しい副衛兵長の制服の刺繍を刺すのだ。と再度命じると、妖艶な謎めいた笑みを浮かべてこうトナに問うてきた。

トナ。お前はカイ、その者が欲しいのだろう?

カイ。あなたが欲しい。

ナトラスの発したことばにトナは自分の心の奥底に秘かに芽生えてきてしまっていた誰かに知られてはならない想いをナトラスに暴かれてしまったようで、はっと瞳を凝らしてしまった。

そんな動揺しているトナに向かってナトラスは尚も妖艶な笑みを浮かべたまま、何。驚くことでもあるまい。ことばで好きだの愛しているだの言うが、それは本当は心の中でその者を欲しているのだ。恥ずべきことではないのだ、トナ。と優しい声で囁きかけた。

トナ。お前はカイを欲しているが、それはどうやらアラも同じようだ。そしてカイは、カイの心は誰を欲しているのか今の話を聞いただけでは分からないが、カイとアラは同じ故郷の出だ。アラに親近感を抱いても不思議はあるまい。ましてアラ、あの娘は美しいからな。そう告げるとナトラスは更にトナの瞳を正面からしっかり見据えて、こう告げた。

トナ。カイの新しい制服の刺繍を刺す時にわたしがこれからお前に教える、そう。カイがお前を恋しく思うようになる秘密の技を使うのだ。それで刺繍を刺した衣を纏えば、きっとカイはトナ、お前に心を奪われるだろう。

そう言うとナトラスは艶然と微笑みかけた。

 

そ、それは。

トナの声は自然と震えたかすれた声になっていた。

何か分からないが、知ってはいけないことだとトナの頭の中には警笛が鳴っている。

またそれを知ってしまったら、もう自分はそれを知る前には戻れなくなってしまうことをトナも本能で悟っていた。

しかしその秘密でカイがアラではなく、自分を選んでくれるならば。

トナの脳裏にはお互いに見つめ合い視線を交わして微笑み合うアラとカイの姿が浮かんできて、それとは裏腹に頭の中の警笛は更に大きく鳴り響いている。

やめて!思わずトナはとっさに自分の両耳を自分の両手で塞いで頭を振っていた。

そんなトナにナトラスは艶然と微笑むと、トナ。お前が人の心を秘密の力で操ることに良心の呵責を感じてカイへの恋心との狭間で葛藤しているのはわたしに分かる。ただ何もしないで黙って手をこまねいていたら、カイはアラや他の者のものになってしまうのだぞ。お前はそれで良いのか?それでも後悔しないのか?
恋に破れた時の心の痛みに耐えられるのか?

そうナトラスは畳み掛けるようにトナに尋ねてくる。

カイが自分を選ばずにアラや別の女性の手を取り、トナが差し出した柔らかく傷つきやすい恋心を受け取らずに無残にも置き去りにして去って行こうとしたら、その未知の心の痛みに自分は耐えられるのだろうか。

そう言うとナトラスは椅子から立ち上がるとトナの真横に来ると、トナの黒髪を優しく撫でた。

トナ。お前の黒髪はお前の心のようにまっすぐだ。この髪にはお前が、そう。お前の想いや記憶。それだけではない。お前の母や父、その母や父からずっと受け継いできたものが詰まっているのだ。

そう言うとナトラスはトナの黒髪を一筋軽く自分の細く長い指に絡めると、お前の髪を、そうこのお前の想いの詰まった黒髪を刺繍の中に見えないようにこっそり埋め込んで、カイを想いながら刺繍を刺すのだ。これが相手が自分を想うようになる刺繍の秘密なのだ。そうトナの耳にそっと囁いた。

ナトラスのことばにトナはびくっと震えてしまった。

そんなトナにナトラスは妖艶に微笑みながらトナ。なぜ刺繍は刺すと言うのか、お前は知っているか?男は剣で相手を刺して倒すが、女は刺繍に想いを込めて一針一針ずつ刺して、相手はその想いの詰まった服を毎日身につける。つまりその想いが毎日じわりじわりと相手に伝わる。それはまるで毒蜂の針のようなのだよ。

そしてナトラスは最後にこう言い切った。

これでトナ。カイはいずれお前のものになるだろう。そしてにこりとトナに微笑み掛けた。

トナはあまりの秘密の重さに耐えきれず、小刻みに震えてしまっていた。

ナトラスのことばに震えてしまったトナを安心させるようにナトラスはなおも優しくトナの黒髪を優しく撫で、ただ、トナ。一つ言っておく。いくら髪を埋め込んで刺繍を刺したとしても、お前のカイへの想いが詰まっていなければ、それはただの糸と同じだ。何の意味もない。一番大切なのは相手を想って刺繍を刺すことなのだ。そう優しく告げた。

その瞬間、刺繍で一番なのは、相手のことを想って、一針一針心を込めて刺すことなのよ。

母さんのエダが幼い頃のトナにいつも教えてくれていたことばが母さんの声と共にトナの脳裏に甦った。

思わずトナは母さんも同じことを言っていたと震える声で呟いていた。

そのトナの呟きにナトラスはそうか。トナ。お前は既に私が教えるでもなく一番大切なことを知っていたのだな。トナ。お前こそ本当の刺繍師の心を持っているのだな。と先ほどまでの妖艶な笑みではなく、優しくトナを慈しむ母のような笑顔を浮かべながら、そう囁いた。

ナトラスはトナに、トナ。わたしはお前に刺繍の秘密は伝えた。ただそれを刺すか刺さないかはお前の選択に任せよう。お前がどうしたいのか。お前のその心に従うが良い。

もし今回わたしが教えた刺繍を刺すことにして、お前の良心が咎めた時は、わたしはナトラス様から命じられてやったのだと自分に言い聞かせれば少しは気が楽になるであろう。

そう言うと、表情を妃らしい毅然とした表情に改めると、トナ。今回カイを副衛兵長に命じるのはお前の為だけではない。王様の為でもあるのだ。お前の話を聞くとそのカイとやら言う衛兵は人望もあるし、必要な時に正しい判断ができる者のようだ。そういった者が王宮を、そして王様をお守りしてくれるのならば心強い。なのでわたしはその者を副衛兵長に任命するよう王様に願い出てみるのだ。

刺繍侍女、トナ。お前には副衛兵長となるカイの制服の刺繍を命じる。刺繍侍女として従うのだ。頼んだぞ。そう毅然とした口調で言い切った。

しばしナトラスの毅然とした態度に気圧されてトナは何も言えなかったが、慌てて我に返ると、ご命令承りました。と深くナトラスに頭を下げた。

そんなトナにナトラスは優しい笑みを浮かべて頷くと手元の呼び鈴を再度鳴らした。

すぐにナトラス付の侍女長が静かに部屋に入って来た。ナトラスはすっかり話し込んでトナをこんなに遅くまで引き留めてしまった。トナ、済まぬの。後でわたしからアギに詫びておこう。ああ、それにほとんど菓子にも手を付けてないようだな。ナデ。トナの為に包んで持って帰れるようにしておくれと侍女長に微笑みながら命じた。その後に少しいたずらっぽい目をしてお二人の手前もあるのであまり大げさにはならない程度に頼むぞと声を掛けた。

お二人とはメマリス様とルカララ様を指しているのだろう。命じられた侍女長の方も分かっているのだろう。心得ておりますといった表情をしながら、畏まりました。すぐに準備致しますと笑顔で答えた。

そんな侍女長に向かってナトラスは、ああ、ナデ。ついでにお前にもう1つ頼みをしたいと声を掛けた。その声にトナも侍女長も思わずナトラスに視線を向けると、ナトラスは南出身の衛兵の中で人望があり、副衛兵にふさわしいと評判の者が誰かおるか急ぎ調べて欲しい。できるか?と真剣な目で侍女長に尋ねた。

なぜ南出身の者を?トナは今のナトラスのことばの真意が掴めずに目を丸くしてしまった。

そんなトナを横目に侍女長はお任せください。すぐにお調べ致しますと深々とナトラスに頭を下げた。

そんな侍女長にナトラスは、ナデ。いつも済まぬな。頼んだぞと、毅然と微笑み掛けながら声を掛けた。

正に人の上に立つ、そう王様か女王様のような風格の人がそこにいた。

この国の王妃様はここに既にいる。トナはそう感じていた。

そして自分は王妃様のようなナトラスの命のどちらに従うのか?

トナの心は揺れていた。

トナはナトラスの威厳に気圧され、まだ足元がふらふらしている感覚だが、とりあえず刺繍室に戻った。

かなり時間が経ってしまっていたのだろう。トナが刺繍室に戻った時には勤めの時間も終わっていて、すっかり他の刺繍侍女達は皆食堂に向かってしまいジハだけが退屈そうに机に肘を付きトナの戻りを待っていた。

トナの姿を認めるとああ、トナ。遅かったじゃない!何かナトラス様の所であったのかと心配したのよ!とジハは椅子から立ち上がるとトナに駆け寄って心配顔で尋ねてきてくれた。

とりあえずトナは作り笑顔で、ごめんね、ジハ。ナトラス様から秋衣の話の後にこの前の褒美としてお茶を振る舞われていたからと言うと、ナトラス付きの侍女長から渡された菓子の入った包みをジハに差し出し、ナトラス様から賜ったの。みんなの分はないからこっそり二人で分けようと思って少し遅く戻ったの。と嘘をついた。

すらすらとジハに嘘をついている自分に驚いたが、そんなトナの嘘をジハは信じたようで、わー。トナ。ありがとう。嬉しいわ。いったい何かしら?この包みの様子だと何種類もの菓子が入っているのね。さすがナトラス様ね。やっぱり王様のご寵妃は違うわ。じゃあこれは一旦私達の部屋にこっそり持って帰ってから食堂に行きましょうとジハはトナが手渡した包みを手にウキウキしている。

刺繍室を連れ立って出ようとした時に急にジハがあっ!と何か思い出したような声を上げた。

いけない!トナに渡そうと思って待っていたのに賜り物のおかげで舞い上がっちゃってすっかり忘れる所だったわ。いけない、いけないと言うと慌てて自分の机に戻ると、一通の文をトナに差し出した。

西門の副衛兵長のカグって人があんたにってこっそり持って来たのよ。タスカナの領主様の件で内密にって。ことばの訛りからするとカグって人もタスカナの出ね。知っている人なの?とトナに文を手渡しながらジハはそう尋ねてきた。文はまるで命令書のような素っ気ない分厚い白の文紙に生真面目そうな角張った太い文字でタスカナ、トナ殿とトナの名前が記されている。間違っても恋文ではなさそうな雰囲気だ。

さすがにジハもカイやドクやキジなど若くて人気のある衛兵については
詳しいが、特にそういった話題に上らない衛兵には興味がないのか、
情報通のジハでもカグについては知らなかったようだ。

副衛兵長。カイもほどなく任命される。

トナはタスカナより、副衛兵長ということばに無意識に反応してしまい、思わずはっと息を飲んでしまった。

そんなトナの反応にジハは何か知ってはいけないタスカナだけの内密な話。しかもあまり良くない内容だと思ったのだろう。命令書のような厳めしい雰囲気の文も更にジハの思い込みに拍車をかけていた。

わたしはこれを置きに一旦部屋に戻るから、トナ。後で食堂でねと声を掛けると逃げるように刺繍室から足早に去って行った。

タスカナの領主様の件で内密な話?

カグには面識がないが、タスカナの領主様の件で内密の文らしい。慌ててトナは文の封を切って中の文に目を通した。

 中の文の文字は表のトナ宛の名を書いた生真面目そうな角張った太い文字ではなく、大きく伸び伸びとした文字で綴られていて別の人が書いたようだ。中の文はタスカナの領主様が書いたのか。

しかし文の内容を読んでトナはびっくりした。

トナ。わざわざ東門に制服を届けに来てくれたんだね。きのうは休みで宿舎に戻ったら制服を預っていると渡されたよ。刺繍の部分が美しくなっていたから君が刺し直してくれたんだね。さすが若いのに刺繍侍女になっただけあって美しい刺繍だね。本当にありがとう。嬉しかったよ。

明らかにこの文の内容からするとカイからの文だ。しかしなぜカイの文を西門の副衛兵長のカグが自分からの文としてトナに届けたのだろう。

そこがトナには謎だ。

慌てて更に文を読み進めると、君に文を出そうと思ったけれど、俺から文を出すといろいろ面倒なことが起きると周りから言われて、そうしたら君と同じタスカナの出の西門の副衛兵長のカグがそれなら俺が代わりに渡してやろうと言ってくれたからカグに文を託すよ。 

とりあえず無事にカイの手元に制服は届いて、そしてカイはトナが刺繍を刺し直したことには気づいてくれたようだ。そこにはほっと安心した。

けれどカイから自分に文を出すといろいろ面倒なことが起きると周りから言われてとあるが、一体なぜだろうか。

確かにこのセルシャの国では北は西と親しく、南は東と親しい。王宮での覇権争いをしている北と南の者同士ならまだ分かるが、東のタスカナと北のクナクス出身の自分とカイの間で何か面倒なことが起きるのだろうか?そもそも今回の橋渡し役を買って出てくれたカグ自身がタスカナ出身だ。

となると何か領地絡みの問題ではなさそうだ。

ではなぜカグはジハにタスカナの領主様の件で内密と言ってトナにカイからの文を渡したのだろうか。誰かにカイは自分の文がトナの手元に渡ったと知られたくなかったのだろうか。

通常それぞれの故郷などの遠方から届く文は一旦王宮の事師の所に集められ、その後それぞれの部署の侍女長か副侍女長に預けられ各侍女達の手元に渡る。なのでアラに故郷のクナクスから文が全く来ないことに気がついていたのだ。

王宮にいる者同士だと、普通は自分で相手に文を手渡している。ジハが衛兵がアラに恋文を手渡しているのを目撃したように恋文などは一目につかない場所で相手に手渡す場合がほとんどだ。

読んだ時に自分に良い印象を持ってもらえるように恋文の場合、皆特別に凝った美しい色の文紙を紙商人から買ってそれに自分の想いを記して送っている。トナはまだ自分では恋文を書いたことがないが、トナも一度だけ西門の衛兵から恋文をもらったが、彼の文も美しい薄青の文紙だった。

恋文らしくない文紙に、自分で持ってきたのではなく他人に託して、誰かに知らないように内密に渡された文。

その三つの証拠から導き出された答えにトナは思わず息を飲んだ。

カイはアラに自分に文を出したことを知られたくなかったのだ!

ただカイはトナが制服を届けただけでなく、助けてくれた礼として刺繍を刺し直して制服を美しく直してくれた礼をトナに言いたいが、アラに他の侍女に恋文を送ったと勘違いされたくなかったのだ。

トナを助けてくれた時にカイの上官に俺が他の侍女と親しくなったと仲間から聞いたみたいで、居ても立ってもいられなくて会いに来たと嘘をついていたが、もしや過去に実際にそういったことがあったのかも知れない。

侍女達に人気があり、カイが実際に何歳なのかトナは知らないが、おそらくトナより七つか八つくらい年上に見えるので、過去に誰か侍女と恋仲であったことがあってもおかしくはない。

そう思った瞬間、ふいにトナの瞳から知らずに涙が頬を伝わって来ていた。

カイの心は既にアラに向かっているのかも知れない。

恋に破れた時の心の痛みに耐えられるのか?急に先ほどのナトラスの声とことばがトナの脳裏に甦ってきた。

トナは一人声も出さずに小さく震えながら、カイを想って泣いていた。

 

トナは泣き止んだ後に慌てて顔を整えて食堂に向かうと心配した顔のジハがいた。とりあえず夕食の粥を貰ったが、食欲もなくほとんど口をつけなかった。ジハも何があったのかと心配している様子だったが、タスカナの領主のことで内密に届けられた文の内容が悪い知らせであったと思ったのであろう。トナを心配しているが聞くに聞けないといった表情を浮かべていた。

寝る前にジハは恐る恐るトナに、トナ。もし言えることでわたしで良かったら聞いてもらいたかったら言ってね。もちろん内密な話のようだから誰にも言わないから。と声を掛けてくれた。

ジハの気持ちはありがたかったが、今回のことはとても他の人には打ち明けられない。トナはジハ。ありがとう。ただ言えないの。ごめんねと哀しそうに謝ると、ジハは慌てて手を横に振りながらいいのよ、トナ。誰だって言えないことはあるんだから気にしないで。と言ってくれた。

昨日は良く眠れなかったが、今日も勤めはある。

皆いつものように朝の挨拶や雑談をしながら、それぞれに任されている刺繍を刺し始めていた。

そこにアギがカサと共に入って来たので、皆慌てて口をつぐみ姿勢を正した。

そんな刺繍侍女達に向かってカサがいつもの野太い大きな声で皆良く聞け。この度、北のクナクスの衛兵のカイと南のアズナスの衛兵のジモを副衛兵長に任じるとの王様の命が下った。ついては一月後に任命式がある。刺繍侍女は急ぎ新しい副衛兵長の制服に刺繍を刺すこととなった。そう皆に告げた。

居合わせた刺繍侍女達は皆驚いてざわざわし始めた。通常王宮に仕える侍女や衛兵、事師や薬師などの昇進は春にある。それがなぜ急にこんな秋にあるのだろうか?

それにカイの年齢だ。カイよりももっと年上で長く王宮に仕えている者もいるのに、それを差し置いての異例の抜擢だ。
トナは南のアズナスのジモは誰か知らないが、どうやら同じ南の者同士でジハは面識があるようで、隣の席でやはり皆と同じように今回の任命に驚いていて口をあんぐりと開けているので、ジモもカイと同じように若いのに抜擢されたようだ。

何かこれから王宮で大きな変化が起こるのではないか、もしやついに王様は今まで不在だった王妃様の地位に三人のお妃様達の内のどなたかを据えるご決断をされたのか、それとも二人の王子様のどちらかを世継ぎの王子様と決めたのか。その両方なのか。刺繍侍女達は皆そのように感じているのかざわざわしていた。

そっとトナは隣の席に座るアラの表情を盗み見るといつもはそういった話題にも関心がなく無表情で話を聞いていたアラとは打って変わって、カイの昇進という喜ばしい出来事に目を輝かせて口元には喜びの笑みを湛えている。

そんな刺繍侍女達に向かい、アギは今回の刺繍はクハ。お前がジモの、トナ。お前はカイの制服の刺繍を刺すようにと厳かな声で言い渡した。その命令に居合わせた皆が、そして誰よりも命じられたクハ自身が一番驚いていた。

クハは西のパルハハ出身の刺繍侍女でトナやアラ、ジハ達より一年前の春に刺繍侍女見習いから刺繍侍女となったので、刺繍侍女としては若手だ。いつもならもっと経験のある他の誰かが選ばれるはずだ。

しかも南のアズナスの出身の衛兵の制服の刺繍を西のパルハハ出身の自分ではなく同じ南出身の者か、それか南と親しい東の、そう逆に東のタスカナ出身のトナに南出身のジモの刺繍を、西のパルハハ出身の自分に北のクナクス出身のカイの刺繍を刺すよう命じるなら分かるが、一体なぜアギがこのように命じたのかが理解できないでいて、困惑した表情を浮かべていた。

他の刺繍侍女達も皆いつもとは違う命令に戸惑いの表情を浮かべていた。

そんな中でトナだけが今回の命令の真意を知っていた。今回の命令は全て自分がカイの制服の刺繍を刺すのに周りが不審に思わない為にだ。全てこれはナトラスの仕組んだ事なのだ。トナは思わずぎゅっと唇を噛み締めた。

しばしざわついた雰囲気の中でアラが、恐れながらアギ様と声を上げ、皆一様に驚いたようにアラを見つめた。

いつもはただ淡々と命じられたことに従っているアラがアギに何か異論を唱えようとしている。

辺りは急に静まり返り、皆固唾を飲んでアラを見つめていた。

何だ?アラ。何かあるのか?言ってみよ。そうアギは声を掛けた。

その声にアラは、恐れながらアギ様。なぜ今回トナとクハにお命じになるのでしょうか?二人を選んだということは若い者に任せるということなのでしょうが、トナは東のタスカナ、クハは西のパルハハの出の者です。若い刺繍侍女にとお考えでしたら、北のカイの刺繍はわたしに、南のジモの刺繍はジハにお命じになるのが道理に叶っておりませんか?いつもは淡々としたアラとは思えないような必死な声でそう訴えた。

トナも恐らく他の者達もアラの自分がカイの制服の刺繍を刺したいという必死の想いがひしひしと伝わって来て、皆一様にその想いに圧倒されていた。

しかしそんなアラに、いかにも。お前が言っているように今回は若い者に機会を与えよという王様のご命令でカイとジモという若い二人が副衛兵長に任命されたのだ。それならば若い二人の為に刺繍を刺す者も若い者に任せてみようとわたしは考えたのだ。と頷いた。そういった意図で経験豊富な侍女ではなくトナとクハが選ばれたのかと皆納得した。

しかしなぜアラとジハではないのか。皆アギの次のことばを固唾を飲んで待っていた。

確かにいつもならば北の者の刺繍ならばできるだけ北の者に、南の者の刺繍ならば南の者に命じていた。

しかし今回は副衛兵には北と南の者が選ばれたが、王様は決して東と西を軽んじておいでではない。それを皆に示す為にも今回制服を仕立てる者と刺繍を刺す者は東と西の出身の者を選んで活躍の機会を与えるようにとのご命令があったのだ。

またできるだけ北のカイの制服は東出身の侍女に、南のジモの制服は西出身の侍女にと、事師長様から私と仕立侍女長のオクに秘かに話があったのだ。王様はこの国が北と西が組み、南と東が親しくしており、北西と東南で反目し合っているのにいつもお心を痛めていらっしゃるそうだ。なので今回は敢えて南の者に西の者を、北の者に東の者をと事師長様は命じたのだ。

そうなるとカイの刺繍はトナに、ジモの刺繍はクハにと自ずから決まった。まだオクから誰にしたか聞いてはいないが同じように仕立室でも担当する者が決められたであろうな。とアギはアラの必死の訴えをあっさりと退けた。

そのような理由があるのならば誰も異論は言えまい。皆一様に押し黙ってアギの話を聞いていた。

理由は分かったが、尚も納得できなくて何か言いたそうなアラに向かってアギは今回は畏れ多くも王様のご意志なのだ。私達刺繍侍女は王様にお仕えする身だ。王様の意を汲んで従うのは当然のことであろう。トナ、クハ。心して従うように。他の者達も皆従うように。アラ。お前も分かったな。と威厳のある声で言い放った。

皆慌てて深々と頭を下げた。トナも頭を下げながら横目でちらりとアラを見つめると、アラは頭こそ皆と同じように下げていたが悔しそうに唇を噛み締めてぎゅっと拳を握り締めていた。

そんなアラの姿を見て、トナの心は揺れていた。

任命式まで残り後一週間となった。

このままでは式典までに間に合わなくなりそうだが、カイの副衛兵長の制服だ。トナは妥協したくなかったので細部まで丁寧に刺繍する為にアギの了承を得て、勤めの時間が終わった後に自分の部屋で続きの刺繍をすることにしていた。

今も部屋で一人黙々と刺繍を刺していた。

あら、トナ。まだやっていたの?湯を浴びに行っていたジハが二人の部屋に戻って来たので、トナも一旦その声に刺繍の手を止めた。

随分気合いが入っているわね。やっぱり王様のご命令と言われると気が引き締まるわよねとジハは感心した声で言っている。

今回トナだけでなく同じように南のジモの刺繍を任されてたクハも寝る間も惜しんで必死に刺繍を刺しているそうで、そのおかげか二人共に王命に応えるべく必死に刺繍を指していると皆に思われていて、運良く自分もカイに恋心を抱いているからだとジハにはばれていないようだ。そっとトナは秘かに胸を撫で下ろしていた。

アラが自分がカイの制服の刺繍を刺したいと皆の前で気持ちをあらわにしてしまったので、刺繍侍女の誰もにアラがカイに想いを寄せていることが知れ渡っていたし、前にカイが刺繍室に来たのはアラに会うためだったので、二人は両想いであると皆が囁いていた。

そう皆が噂していて、実際にそうであるならば、自分は刺繍の腕でも恋でもアラには敵わないと認めるのは辛いし、周りにも同じように思われるのも嫌だった。

あら!トナ。これ違うんじゃない?

ふいにトナが刺している制服の胸元の刺繍の仕上がりを何気なく見ていたジハが叫んだ。

え?慌ててトナもその刺繍の部分を見つめた。制服の左の胸元には、その衛兵の出身の領地の紋章の刺繍を刺す。

カイの出身のクナクスは海に面しているので、船と航海の時に船を導くいくつもの星の紋章だが、ジハは星の部分を指さしながら、確か上から二つ目の星の方が三つ目の星より少し大きくて、色も二つ目の方が黄色というより白に近かった気がするんだけど。と指摘してきた。

トナは慌てて書き写したクナクスの紋章の図柄の紙を見てみたが、それではジハが言っていることが正しいのか、自分の記憶が正しいのか分からない。明日の朝に急いで事師の所に行って、クナクスの紋章を再度見せてもらわないといけない。大丈夫だと思っていたが、きちっとそこまで確認をしていなかった自分の甘さにトナは唇を噛み締めた。

そんなトナに、あ!そうだわ。ジハがいいことが閃いたとばかりに、クナクスのことならアラに聞けばいいんじゃない。アラならどっちが正しいのか分かっているからすぐ教えてくれるわとトナに伝えた。

更に満面の笑顔できっとカイの制服の為なら喜んで教えてくれるわよ。今ならまだ休んでいないと思うし、聞きに行ってみたら。その方が明日もう一度事師の所に行くより早いしねとトナに言った。

ジハの知らない秘密にトナの胸がちくりと傷んだ。

そう。それはトナがカイの制服の刺繍を担当すると決まった直後のことであった。

アラが刺繍室で二人きりになった隙を狙ってトナにこっそり声を掛けてきた。そのアラの何か思い詰めたような表情と声にトナはどきっとしてしまった。

トナ。あの制服の刺繍だけど、わたしに何か手伝わせてくれない?そう真剣な眼差しでトナに訴え掛けてきた。

本当はできることならば自分がカイの制服の、そう副衛兵長に昇進という晴れがましい出来事を自分の刺した刺繍で祝福したいという想いがひしひしと伝わってきていた。

ただ今回は王様の命令ということもあって、それが叶わないとアラも悔しいが理解しているのだろう。せめてそれならば少しでも手伝いたい。そんなアラの切なる想いがトナにもひしひしと伝わってきた。

けれどトナの頭の中に二つの声が鳴り響いていた。一番大切なのは相手を想って刺繍を刺すことなのだというナトラスの声と、刺繍で一番なのは、相手のことを想って、一針一針心を込めて刺すことなのよという母さんの声がこだまする。

アラにカイの刺繍をさせてはいけない!とっさにトナの頭にそのことばが浮かんで来た。

トナは小さくごくっと息を飲むとアラにこう伝えた。

ごめんなさい。アラ。それはできないの。

トナは承諾してくれるとアラは思っていたのだろう。予想もしなかったトナの答えにアラは驚いた表情でトナを見つめ返してきていた。

しばし二人共無言で見つめ合ってしまっていたが、アラが恐る恐る震える小さな声でトナにこう尋ねてきた。

トナ。あなたももしかして。アラの唇が小さく震えていた。

とっさにトナはアラを安心させるよう小さく頭を振って、違うの。今回の刺繍でわたしが刺繍侍女長に、そう、刺繍師になれるかどうかが決まるから。そう小さいがはっきりとした声で答えていた。

そんなトナのことばと声にアラは数秒黙って息を飲んでいたが、はっと我に返ったように。そうね。そうよね。ごめんなさい、トナ。今のことばは忘れて。そう言うと、さっと踵を返して自分の席に戻って行った。

刺繍師になる。それはつまり刺繍侍女長として一生王宮に仕えて結婚もしない。そう。カイと一緒に生きていくという道を自分は選ぼうとしていないとアラは思ってくれたようだ。

本当は自分が選んだのでなく、カイはトナを選んでくれずにアラを選んだのだから。

トナはアラの美しい髪とすらりとした後ろ姿をじっと見つめてしまっていた。

その後アラは何もなかったのように以前と同じように淡々と任されたルカララの秋衣の一枚の刺繍を刺している毎日だが、あの一件があってからどうもトナの方で後ろめたさがあってどうアラに接していいのか分からなかった。
ただ運良く今はカイの制服の刺繍で忙しく同室のジハともろくに話していないので、周りも、ジハも、そしてアラ本人もトナのそんな気持ちには気づいていないだろう。

実際刺繍室から事師室まで往復すると半刻以上掛かるし、今までと違い急に秋に任命があって事師達もどこかざわついているので、なぜ最初にきちっと確認しなかったのだと、くどくどと小言を言われるはずだ。それが分かっているだけにジハもトナの為を思ってアラに聞いてみたら?と提案してくれたのだ。

ジハの手前もあってトナも覚悟を決めて、アラの所に行って刺繍について尋ねてみることにした。

実際刺繍を刺している制服を持って行って見せようとも思ったが、さすがにそれは断った手前もあってばつが悪いし、アラも実物の制服を見せられたら気分は良くないだろう。それに何よりトナはアラがいいわよ。この部分だけでも代わりにわたしが刺すわよと言い出すのが怖かったのだ。

トナは図柄の紙と筆を手に取るとアラの部屋に向かった。

アラの部屋の扉は閉まっていたので小さく二回扉を叩いてから、トナは静かに扉を開いたがアラはいなかった。湯でも浴びに行っているようだ。

アラの部屋は一人部屋なのでトナとジハの暮らす部屋よりはかなり狭く、またアラは物欲もなく他の侍女達のように次々に新しい衣や帯や靴、髪飾りなどを買い求めないので物が少なく、部屋はいつも殺風景なほど片付いていて整然としていた。

すぐ戻ってくればいいが、湯を浴びに行って髪を洗っているならば時間が掛かるはずだ。しかたないのでトナは後で部屋に来て欲しいと書き置きをしておこうと部屋の奥の隅にある小さな文机に向かった。

衝立の奥にある文机の前に来て、トナは首を傾げた。いつも机の上も整然と片付いているアラにしては珍しく刺繍の途中で席を立ったようで、机の上には刺しかけの刺繍の小さな薄い青の布や針や糸がそのままに置かれていた。どうやら手巾に刺繍しているようだが、王宮の侍女達が好む絹地ではなく綿布だ。

文机で置き手紙を書こうとしたトナはそっとその刺繍を脇に避けようと思って手に取って、ふと刺されている刺繍に違和感を感じた。

サラシェやミクジといった美しい花でなく、まるで何か一筆書きの印のようだ。なぜいったいこんな印をアラは手巾に刺繍しているのだろうか。

と、その時急にトナの脳裏にカイと出会った時にカイの両手の甲に何か傷痕のような黒い染みのようなと物があったが、その印と全く同じだと閃いてしまった。きっとあれは傷ではなくて何か意味があって入れているのだろう。クナクスの者同士だけが知る意味があるのだろう。

カイの為にアラは手巾にそれを刺しているのだ!絹布でなく綿布に刺繍しているのもカイが使うからだ。薄い青の綿布にしたのは青を好む北の出身のカイの為にだ。

二人だけしか分からない秘密の印。

そう思った瞬間、トナの心の中にナトラスの声が鳴り響いた。ただ何もしないで黙って手をこまねいていたら、カイはアラや他の者のものになってしまうのだぞ。お前はそれで良いのか?それでも後悔しないのか?

いや!

思わずトナは頭を振っていた。

トナは無言で文机の前から立ち上がると書き置きもせずにそのままアラの部屋を後にした。

トナがアラの部屋を出て自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、ちょうど湯を浴びに行った帰りらしいさっぱりとした表情とほのかに湯上がりの柔らかい香りを漂わせた北のミクルア出身のトハと出くわした。

あら!トナ。こんな所でどうしたの?湯も浴びに行かないで。もしかしてまだ刺繍を刺していたの?と心配そうな顔をしながら、王命とは言えあまり無理をしてはいけないわよと優しく声を掛けてくれた。

トナはとっさにトハならばクナクスの出ではないが、クナクスのすぐ隣の同じ北のミクルア出身のトハならクナクスの紋章について知っているはずだと閃いた。

ああ、トハ。ちょっとクナクスの紋章のことで分からない所があって今からアラの所に聞きに行こうと思っていたのとトナが嘘をつくと、トハはアラならさっき湯殿で会ったわ。わたしが出る頃に来たからまだ湯殿にいると思うわ。髪を洗うから時間が掛かると思うからわたしで分かることなら教えるわよ?と親切なトハはトナが想像したとおりの返事を返してきた。

トナは手にしていたタスカナの紋章の図面を見せながら、先ほどのジハとのやり取りを伝えるとトハはジハの指摘どおりで二つ目の星の方が三つ目の星より少し大きいと教えてくれ、色についてもどの色の糸と糸を使えば一番近い色になるのかも詳しく説明してくれた。

ありがとう、トハ。助かったわとトナが礼を言うとまだこれから刺繍を刺すの?あまり無理はしないようにねと優しいことばを掛けてくれてトハは自分の部屋へと向かって行った。

トナも自分の部屋に戻るとジハが敷布を敷いて寝る準備をしていたがその手を止めて、どうトナ?アラに聞けた?と尋ねてきた。

トナはアラは湯を浴びに行ってて会えなかったけれど、ちょうど廊下でトハと会って詳しく教えてもらえたのと答えると、ジハはそう良かったわねと言い、きょうはもう遅いし休んだら?とトナを気遣って刺繍を刺すのをやめて、寝るよう勧めてくれた。

そんなジハにトナはジハ。ありがとう。でも今トハに教えてもらってジハの言ってたとおりに二つ目の星の方が三つ目の星より少し大きかったの。それに色も少し違うからそこだけ直してから休むわ。と答えた。

するとジハも分かったわ。じゃあ先に休むわね。おやすみなさい、トナ。というと敷布に横になった。

トナはジハを起こさないように衝立の奥にある文机に向かうと手元のろうそくで灯りを灯した。

衝立が二人を仕切っているので衝立の中のトナの姿はジハには見えないし、すぐにジハの寝息が微かに聞こえてきた。
ジハは一度眠りに着くと滅多な事で起きてはこない。

トナはカイの制服の胸元の刺繍の部分を無意識に優しく触れていた。指先にはどこかピリピリする感覚が走った。トナは何度も優しく刺繍を撫でていた。

そして頭の中にはただ何もしないで黙って手をこまねいていたら、カイはアラや他の者のものになってしまうのだぞ。お前はそれで良いのか?それでも後悔しないのか?というナトラスがはっきりと聞こえている。

トナはごくっと大きく息を飲むと刺繍に触れていた指を離すと、自分の髪の一本、指で摘まんでいた。

お前はそれで良いのか?それでも後悔しないのか?

トナは小さく頷くとその髪を根元からぷつんと抜いた。癖のないの黒髪を一本机の上に置くとトナは手箱から刺繍針とはさみを取り出した。今刺してある二番目の星の部分の刺繍を丹念にほどいていく。そしてそれが終わるとトハに教えられた色の刺繍糸で星を刺し、途中まで刺せた頃、机の上に置かれた自分の黒髪を指で摘まんだ。

お前はそれで良いのか?それでも後悔しないのか?まるで今からトナが行おうとしていることに対してそれでお前は良いのか?後悔しないのか?と問われているようだが、トナは心の中で小さく呟いた。

いいえ、後悔しないわ。

そう呟くと摘まんだ黒髪を針で上手に星の中に埋め込んでいく。その黒髪が表から見えないように上手に上から白の刺繍糸で覆っていく。

その刺繍の最中、トナは心の中で何度もカイ。どうかわたしを選んで。わたしを愛してと呟きながら刺繍を刺していた。

何か熱病に侵されたのか、それとも何か魔物に取りつかれたかのようにトナは一心不乱に刺繍を刺していた。

その時のトナの瞳は暗く、しかし不思議な妖しい光を放っていたのにトナ自身気づいてはいなかった。そう、手元のろうそくのように暗闇の中で美しく揺らめいていた。

王宮の広間では厳かにカイとジモの副衛兵長の任命式が執り行われていた。

王座に座る王様とその右隣には王様の妃であるメマリスとその王子のマザンソ。左隣にはもう1人の妃であるルカララとその王子のセホトルが座り、その少し後ろの席にナトラスが一人座っていた。王族達の座っている壇上の下には大臣達と衛兵担当の事師、衛兵長達とそして今回の主役であるカイとジモが緊張した面持ちで並んで立っていた。

そしてトナもこの場に列席していてナトラスの横にカイの新しい副衛兵長の制服の載った盆を捧げ持ち、同じようにジモの新しい制服を捧げ持ったクハと並んで控えていた。

通常このような衛兵の任命式に王様の妃達や幼い王子様達が列席することなどなかったし、ましてや刺繍侍女が列席することなどあり得なかった。されど今回の任命式は異例だらけであった。

事師から今回刺繍を刺した侍女達も任命式に列席して北と南出身の衛兵である二人にルカララ様とメマリス様がそれぞれに新しい副衛兵長の制服を賜るので、お前達は側で制服を載せた盆を持ってお妃様達の後ろで控えているようにと命を受けた時は本当に驚いた。

なので王宮に仕える者皆これから王室に、そう。ついに正式に王妃様と世継ぎの王子様が決まる前触れだと囁き合っていた。

その為だろう。メマリスとルカララはそれぞれ深紅と紺碧の色鮮やかな絹の衣に金糸の刺繍の帯を絞めて、金の豪華な髪飾りだけでなく、同じように豪華な首飾りと耳飾りまで着けて王妃にふさわしい出で立ちで式に臨んでいた。

衛兵担当の事師が、クナクスのセロハのカイ。アズナスのミトクのジモ。この度それぞれを王宮の副衛兵長に任ずる。慎んで王命を受けよと任命書を差し出すと二人共、深々と一礼して任命書を受け取った。そんな二人に玉座の上から王様がカイ、ジモ。これからも王宮を、そしてこのセルシャの国を守ってくれ。頼むぞ。と声を掛けると二人は神妙な面持ちで、はい。と短く応えると更に深く一礼した。

ナトラスの横で黙って控えていたトナとクハに事師が黙って視線で促すので慌ててトナはルカララの、クハはメマリスの前に副衛兵長の制服の載った盆を捧げると、二人はそれぞれの制服を手に取り、壇上から降りて、ルカララはカイの、メマリスはジモの前に立つと、これからも心して王様に仕えなさいや、これからも王様をしかとお守りするのだぞ。など口にしながら新しい制服を授けた。

恐縮しながら受け取った二人はそれぞれの妃達にも深く一礼をして頭を上げた時、カイが壇上の隅にいるトナをちらっと見たのにトナは気づいていた。

きょうのトナは自分の持っている衣の中で一番美しい緑の複雑な織り柄の入った衣に母さんがタスカナを離れる際に手渡してくれたあの刺繍の帯を絞めていた。

刺繍侍女は皆手先が器用なので時間がある時は凝った髪に結っているが、今日はその中でも一番美しく髪を結えると評判のヤカが気合いを入れて美しく凝った髪に結い上げてくれて、おまけにうっすら白粉と紅も差して薄化粧を施してくれたので、いつもより大人びて見えて目に止まったのだろう。

しかしトナはカイの視線を感じた瞬間、思わずさっと目を背けてしまった。

あの制服には。後ろめたさから思わずカイから目を背けてしまったトナの視線とトナの横で黙って微笑んで座っているナトラスの視線が偶然一瞬絡み合ってしまい、更にトナは狼狽してしまった。

今日のナトラスは淡い紫の絹の衣こそ身に纏っているが、帯は金糸でも銀糸でもなくただの紫の糸の刺繍の帯を絞め、小さな銀の髪飾りを着けただけで、首飾りも耳飾りも着けていなかった。

それぞれの王子を従えた二人の妃達と違いナトラスの産んだ幼い二人の王女は列席しておらず、まして今回は北と南の衛兵が任命されたので、特に自分は用はないが王様の妃の一人なのでとりあえず列席したといった風情で、二人の妃達よりも少し下がった席に式典中ただ黙って静かに笑みを浮かべたまま座っていた。

二人の妃と同じ領地の出ではないが、やはりそれぞれ北と南の者が取り立てられたので、ルカララもメマリスも満面の笑みを浮かべて誇らしげに王様の玉座の真横の席に座っている。

二人の妃達共、王様とは政略結婚と割り切っており、特に愛し合っているのではないので、ナトラスが地位や権力に欲を出さずに黙って王様のご寵愛だけ受けていれば問題はないと思っているようで、今日もその点は弁えたようにただ控えめに黙って座っているナトラスを歯牙にもかけていない様子だった。

ここにいる誰もが皆ナトラスはこれから王宮で起こるであろう王妃の座を巡っての争いの決着に無縁であろうと思っているのだろう。

しかしトナだけは今回の任命を影で操っているのはナトラスだと知っていた。

そして自分の運命も、そう。ナトラスによって操られ、もう戻れない方向へと進んでしまった。

トナはそっと目を伏せた。

無事つつがなく任命式も終わり王様とメマリスとルカララ、そして二人の王子達がそれぞれの侍従や侍女をぞろぞろと従え広間から退出した。式に参列した皆恭しく頭を下げ見送った。

ナトラスは一番最後に式典の間壇上の隅に目立たないように控えていたナトラス付の侍女長のナデともう一人若い侍女を従えて壇上から降りようとしたが、トナとクハの前に来るとトナ。クハ。この度はご苦労であったと二人に労いのことばを掛けると優雅に微笑み壇上からしずしずと淑やかに降りて行った。

トナとクハ、そしてカイとジモ、その他任命式に参列していた者全てが恭しくナトラスが退室するまで頭を深く下げてその姿を見送った。

トナの鼻孔にはあのいつものナトラスの甘い花の香りが微かに残っていた。トナにはそれがまるで甘い花の香りに隠された毒の香りのように思えてならない。でも自分はもうその毒を飲んでしまったのだ。

ナトラスが退室して頭を上げたカイとまた一瞬視線が合ってしまった。

慌ててトナは視線を反らした。なぜなら自分はその毒をカイにも盛ってしまったのだから。

つまりその想いが毎日じわりじわりと相手に伝わる。それはまるで毒蜂の針のようなのだよ。

ここから既に立ち去って姿の見えなくなったナトラスの声だけがトナの脳裏に鳴り響いていた。

やがて大臣達と衛兵担当の事師、衛兵長達も次々に退室して、今回の主役であるカイとジモも退室する時にもう一度カイは壇上の隅に控えて立っているトナにちらりと視線を送った。

しかしトナはカイの視線を受け止められなくて黙ってうつむいてしまった。

コツコツコツ。カイが去っていく足音がトナの耳に遠く響いていた。

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