町田 千春 著 |
刺繍師 その5 TOP |
二人共、ご苦労であった。式典担当の事師にそう声を掛けられ、トナとクハは慌てて頭を下げた。 きょうはこのまま勤めに付かずにゆっくり休むようにとの王様からのご命令があった。このような式に参列してさぞ緊張したであろう。刺繍侍女長のアギにも伝えてあるからきょうはゆっくり休めと伝えると事師も部屋から下がって行った。 トナとクハもとりあえず広間から退室して、刺繍侍女の棟に向かって歩き出そうとした時、トナとクハに広間の外で二人を待っていたと思われる一人の若い侍女が声を掛けてきた。記憶違いでなければこの前ナトラスの部屋で菓子を運んで来ていたナトラス付の侍女だ。 トナ。クハ。ご苦労様。ナトラス様が二人を秘かに労いたいと仰って茶を用意してある。ナトラス様の館だと他の方の目もあるので今回はわたし達ナトラス様付の侍女の棟に用意してある。一目に付かないように後で来るように。 ナトラスの命ならば従うしかないし、クハはそのありがたい申し出に目を輝かせていた。 二人は刺繍侍女の棟ではなくナトラス付の侍女の棟のある方に向かってゆっくりと歩き始めた。 クハは歩きながら感極まったように、やっぱりナトラス様はお優しいわ。元侍女であっただけあって私達侍女を気遣ってくださるし、逆に式典の間中に何か粗相をして後でメマリス様に叱られないかと内心ひやひやしていたのよ。メマリス様は怖いものと顔をしかめると本当はナトラス様みたいな方に王妃様になってもらいたいんだけどね。と小声だが興奮したように本音を洩らしていた。 そのことばにトナは思わずクハをじっと見つめてしまった。 あの方はお優しいだけではない。本当はメマリス様よりずっと恐ろしいお方なのよ。それに既に影の王妃様はあの方なの。裏で全てを、そう。王様をも操っているのはあの方なのよ。声に出せないが心の中でそう呟いていた。 そんなトナにクハは何気なくナトラス様が王様の妃になる前の元の名前のササだけど、あれは古いセルシャの国のことばで糸を意味するのよ。王様の妃になる前は刺繍侍女としてかなりの腕前であったと聞くし、その刺繍の腕前で王様の目に留まってめでたく王様の妃になれたのもすごい運命よね。まあササということばには縁や運命って意味もあるけれど、やっぱりナトラス様はすごい運命の持ち主よね。そう言った。 ササが糸や縁や運命を意味するのをクハは知っているのか!それは刺繍師しか知らないはずではないか!思わず驚いた顔でトナはクハを見つめてしまった。 そんなトナの視線に気がついたのかクハは慌てて、そうよね。トナはパルハハの出じゃないからそんなこと知らないわよね。わたしったらつい舞い上がっちゃって。ごめんなさい、トナ。気にしないでと少しばつが悪そうに微笑んだ。 トナは逆にクハ、その話について教えて!誰から聞いたの!とすごい剣幕でクハに尋ねながらクハの手を強く握り揺らしてしまった。そんなトナの勢いにトナ。いったいどうしたの?とクハは驚きを隠せないようにトナを見つめながら尋ねてきた。 あ。 トナは急に我に帰るとクハ。ごめんなさい。ナトラス様に関わることだからつい。と言い訳をした。クハはああ、トナはナトラス様に気に入られているものねと納得したように小さく笑った。 少し長くなりそうだからどこかに座って話しましょう。ナトラス様の所にお伺いするのに時間を潰さないといけないからちょうど良かったわ。そうクハは言うと二人は木陰の芝生の上に腰を下ろした。 するとクハはこう話し始めた。 パルハハはこのセルシャの国の一番西端にあるでしょ?都からも遠いせいもあって、まだ独自の文化が残っているのよ。まあそれだからパルハハは田舎だ、遅れている、栄えていないとか言われるけどね。そうクハは苦笑いを浮かべながら話し始めた。 わたしのひい婆さん達の代の人は古いセルシャ語も少し話せたみたいなの。まあひい婆さん達の代の人で学舎に通った人なんて普通の村人にはほとんどいなかったから、逆に村では古いセルシャ語を読み書きにも使っていたそうよ。 今暦に使われていることばもみんな古いセルシャ語が元になっていてそれぞれに意味があるのよ。 わたしの名前のクハは知識とか教えるとか学ぶという意味なの。だからわたしが産まれた時にこの子は大きくなったら女の子だから学舎の先生にはなれないけれど、人に何かを教える者になるだろうって村の年寄りから言われたんですって。そうクハは話してくれた。 小さい頃からトナもなぜ今日がトナの日なのか、エダの日なのかいつも不思議に思っていて、父さんやじいさん、学舎の先生にも聞いてみたが、皆口を揃えたようにそんなの昔から今日はトナの日と決まってるんだ。トナの日が夏や秋、冬にあったらおかしいだろう。 じゃあトナにもアラにもジハにも意味があるの?と尋ねるとクハはもちろんよ。みんな意味はあるわ。ただわたしは分からないけれど、村にいる父さんに文を出して聞いてみれば分かると思うわ。そうクハは笑いながら答えた。 トナは思いがけず長年抱いていた謎が少し解けてきたが、まだいくつかの疑問があった。 前にザホからナトラスの過去について教えられた時にアラもジハも名前の由来となる暦が古いセルシャ語でそれぞれ意味があると知らなかった。北の出のアラと南の出のジハだけでなく、パルハハと同じ西のキヌグスの出であるザホも知らなかった。 ねえ、クハ。どうしてパルハハにだけ昔のセルシャ語が残ったのかしら?他の地域には残っていないわよね。そう尋ねてみるとクハは少し考えたような顔をした後で、もしかしたらパルハハには昔東の果てに追放された元の王家に仕えていた人が暮らしていたという言い伝えがあるからかしら?と小さく首を傾げながら答えた。 元の王家に仕えていた人!つまりそれは刺繍師となったホナと同じようにカナジュやカナジュの夫であったオルホクに仕えていた者がパルハハに暮らしていたと言うのか! クハ!それは本当なの?そうトナが真剣な表情で尋ねるとクハはそんなトナの様子に少し戸惑いつつも、ええ。そういった言い伝えがあるのよと続きを話してくれた。 圧政を敷いて民を苦しめていた前の王をクスハネが倒した後にクスハネは慈悲深かったからその妻子を東の果てのコヌマに追放したでしょう?前の王に従っていた前の王の右腕と言われていた者も殺さないで、コヌマとは一番離れた西のパルハハに追放したのよ。そうすればその者が残された前の王家の者達を担ぎ上げて反乱を起こして王座を奪おうとできないでしょ。 そこまで言うとその人は遠いパルハハの地で一人で生きていく為に王宮に伝わっていた染物をパルハハの地でも始めて生計を立てたそうよ。王宮にしか伝わっていない独自の製法もあって、その製法とパルハハの水や植物から取れる染料が合っていたみたいで、そのおかげで一際美しい色に染められていて、それでパルハハの染めは珍重されて今でもこの国じゃパルハハの染めが一番とされているのよ。 と言うと急に声を潜めると、実は染物だけじゃなくて織物と、わたし達刺繍侍女が刺している刺繍にも王宮にしか伝わっていない秘密があると言われているのよ。その秘密を東の果てと西の果てと別の地域にそれぞれ遠く離れた場所にいる者達同士で共有する暗号としてセルシャの国の暦が作られて、いつしかセルシャの国の民は産まれた暦の日の名前を付けるようになったそうよ。 そのうちにだんだん使っているうちにことばも変化したのか、それとも何か深い意味があって故意に変えられたのかは分からないけれど、いくつかの古いセルシャの国のことばは変化して暦に載せられたらしいの。 ナトラス様の昔の名前のササもいつしかサシになったって父さんが言ってたわ。そうクハは打ち明けてくれた。 確かにサシなら暦にあるし、その日に産まれてサシの名を付けられた者なら、このセルシャの国には山ほどいる。刺繍侍女にはいないが仕立侍女とトナと同じ東のザルハス出身の事師のサシならトナも知っている。 パルハハに残ったその人はそのうちパルハハで数名の者を自分の染めの弟子にして、染色の技と暦の秘密を弟子達に伝えていったそうよ。それだけじゃなくて読み書きができない村の者達に読み書きを教えたのよ。その人のおかげでそれまで特に大きな産業もなくて都からも遠く離れて貧しかったパルハハが少しは豊かになれたのは、その人のおかげだ。村人も読み書きができるようになったのもその人のおかげだってパルハハの者達はみんな秘かにその人に感謝していたの。
でもそれって今の王家に対する反逆ともとられてしまう恐れがあるから、いつしか暦に関する秘密は各村々の村頭にだけ伝えられていったのよ。わたしの父さんも村頭だから、その地位を引き継ぐ時に前の村頭の人から暦に使われている古いセルシャ語の全ての意味を教わったそうよ。
普通のパルハハの民も昔はだいたいの古いセルシャ語の意味は何となく分かっていたけれど、今はすっかり学舎で今のセルシャ語を習ってしまって、古いセルシャ語はパルハハでもすたれてしまっているのよ。
わたしも王宮に上がってナトラス様の元の名前を偶然知った時に珍しい名前だわ。それにナトラス様は前の王家の人達が追放されたコヌマの出なんだってふっと思って、つい故郷の家族に宛てた文にそのことを書いてしまったの。そしたら父さんが返事の文にそう書いてきたの。
そうクハはトナに明かしてくれた。
トハは声を潜めると代々村頭にだけ伝えられるのは領主様はもし今の王家と対立して別の領主様に替えられたりしてしまったり、もし領主様に跡継ぎの男の子が産まれなかったら別の領地や今の王家の血を引く方を婿に迎えたりするでしょう?そうするとその方は本当の意味でのパルハハの者ではないもの。 現に今の領主様も前のパルハハの領主様には男の子が産まれなくて、前の領主様の娘の婿に来た同じ西のセズトロの領主様の末息子だもの。それにわたしのひい婆さんの時も領主様は男の子に恵まれなくて、その時の王様の母違いの王子様がパルハハの領主の娘だか姪と結婚してパルハハの領主の地位を受け継いだのよ。村頭は領主様と違って世襲ではなくて、村で人望のある者が選ばれるから絶対にパルハハの者になるもの。 そうやって都から遠く離れたパルハハの地で昔の王家に纏わる秘密が代々受け継がれているなんて不思議よね。そうクハは軽く笑うと話を締め括った。 トナはトハが何気なく呟いた昔の王家に纏わる秘密ということばを聞いた瞬間思わずぎゅっと手を握り締めてしまった。 東の果てのコヌマに追放された元の王家の血を引き、都から遠く離れたその地で産まれ、今の王家に元の王家の血を継がせる為だけに過去を全て捨てて、この王宮にやって来させられたナトラスの存在こそがこの王宮での大きな秘密なのだ。 そしてそのナトラスが明かした秘密の刺繍で自分は愛するカイの心を操る悪事についに手を染めてしまった。もう後戻りはできないのだ。トナは更にぎゅっと強く手を握り締めていた。 そんなトナの心の中の葛藤も知らないトハは、明るく弾んだ声でもうそろそろ行かないとね。さあ行きましょうとトナを促した。
トナも仕方なく重い腰を上げてナトラス付の侍女の棟に向かって、トハと一緒に歩き始めた。
トハはなおも弾んだ明るい声で、わたしナトラス様に憧れているのよ。だからついこっそり刺繍侍女時代のナトラス様の話を聞かせてもらったり、故郷に文を出した時にもいろいろとナトラス様のことを書いてしまったの。こうトナに笑顔で話を続けた。
刺繍侍女として行く行くはアギ様の後の刺繍侍女長になるかもって言われていたくらいの腕前の持ち主だったし、おまけに王様の周りにはたくさんの美しい侍女達もいたのに、その刺繍の腕で王様に見初められてお妃様の一人になれただけでもすごいのに、今もご寵愛を独り占めしてるなんて本当にナトラス様はすごいお方よね?うらやましいくらい幸運の人よね。そうクハは感嘆していた。
そんなクハのことばにトナは、いいえ、あの方は決して幸運の人なんかじゃないのよ。大きな宿命を背負わされた不幸なお方なのよ。そう心の中で呟いていた。
ふっとトナはナトラスは本当は幸せなのだろうか。それとも不幸なのか。そんなことを思ってしまった。
そして自分はどうなのだろう。
もしナトラスから教えられた秘密の刺繍でカイが自分のことを愛してくれたのなら、自分は本当に幸せなのだろうか。そうトナは歩きながら想いを巡らせていた。
トナとクハはナトラス付の刺繍侍女の棟に着いた。先ほど広間で二人を待っていた若い侍女がすぐに二人を中に招き入れてくれた。
案内された部屋に入ると卓の上にはまるで領主の妻や貴族の娘を茶会に招いてもてなす時のような数種類の木の実や高価な蜜漬けの果実が用意されていた。若い侍女はトナとクハに席をすすめると香り高い茶を二人の器に注いでくれた。
ナトラスに憧れているクハは、やっぱりナトラス様はこちらにはいらっしゃらないわよねと心底残念そうな声を上げると、茶を注いでくれた侍女はそんなクハの様子に笑いながら、そうね。本当はナトラス様は二人を自分の館に招いて労いたかったのだけど、今王宮はメマリス様とルカララ様のどちらが王妃様に決まるという話題で騒がしいもの。と言うと声を潜めて、でもお二人ではなくナトラス様に王妃様になって頂きたいと考える者がこの王宮には実は秘かに多いのよ。なのでお二人を刺激しないよう敢えて今は目立つ行動は慎んでいらっしゃるの。と言うと悔しそうな表情を浮かべながらナトラス様は純粋にお前達を労いたいと思っていても、それは王妃様の座を狙っているが故の見せかけの態度だと勘ぐる者もいるのよ。
まったく。ナトラス様はそんな方ではないのにと言うと、段々普段抑えているらしい怒りがこみ上げて来たのだろう。
今日だってナトラス様一人だけあんな後ろに座らされていたのよ!ナトラス様は控えめでいらっしゃるからいつもお二人に軽んじられているのよ!今日の任命式だってナトラス様も今はお二人と同じ王様の妃の一人というお立場だからお二人と同じようにもっと着飾って出席されても良かったのに、お二人に遠慮されてあんな控えめな装いをされていたの。
本当は王様だってナトラス様に王妃様になってもらいたいのに!と声を荒げて言った。
そんな侍女の話にクハはすぐに飛びついた。
それ本当なの?王様もそのようにお考えなの?目を輝かせてクハは侍女に尋ねると、侍女はええ。きっと王様もそうお考えだと思うわ。と言うと少し前に王様はナトラス様付の侍女をもっと増やそうとされたけれど、ナトラス様は今いる者は皆心を込めてわたしに仕えてくれているので十分でございます。それより王子様達にお仕えする者を増やしてあげて下さいと辞退されたし、今日の任命式だって王様はナトラス様の為に新しい金の髪飾りと首飾りと耳飾りを贈ろうとしたのよ。
最後には自分の仕えているナトラスのことを誇らしげに話していた。クハもそんな侍女に同調して、本当にナトラス様はお美しいだけでなくお優しくて、あなたナトラス様付の侍女で良かったわねと言うとクハと侍女はナトラスの話題で延々と盛り上がって話し続けていた。
そんな二人をよそにトナは口を挟む気になれず黙って出された茶を飲んでいたが、頭の中ではナトラスについてずっと考えていた。
ナトラスは今の王家に元の王家の血を秘かに継がせる為だけに王宮に上がり、そして秘密の刺繍の技で狙いどおり王様の目に止まり王様の妃の一人となった。
ナトラスが王様の妃になる前から既に王様の妃であったルカララとメマリスはそれぞれ北と南の名門貴族の娘達で、それぞれ背後に控えている北と南の思惑どおりに王子を産んでいる。二人共に母親の立場からどちらが世継ぎの王子になってもおかしくはない。
逆に、もしそこに王様のご寵愛こそ受けてはいるが母親は領主の娘でも貴族の娘でもない元侍女で何の後ろ楯もないナトラスが王子を産んでも果たしてその子が兄である二人の王子を差し置いて王位を継げるのだろうか。
そしてナトラスは今王子には恵まれず二人の王女を産んでいるが、それはただの偶然なのだろうか。
王様を虜にしてご寵愛を独り占めするぐらいだから、きっとトナがまだ知らない他の秘密の刺繍の技を知っているナトラスにいまだに王子が産まれていないのも考えてみればおかしなことだ。
そもそもナトラスは言わば王子を産んで、その子に王位を継がせる為だけに王宮に送られて来たのだ。何か王子に恵まれる算段がなければ、元の王家の者もナトラスを王宮に送り込まなかっただろう。
ふとトナはナトラスが何か企みがあって王子を産む時期を狙っているのではないか。そんな気がしてきた。もし王妃の座に着いてから王子を産めば、その子は王妃の息子なので二人の兄を差し置いて次の世継ぎの王子に着ける可能性が高い。
もしナトラスが正式に王妃の座に着いた後ならば王妃として刺繍師にどんなことも命じることができるのだ。
前にアギはメマリスとルカララ、どちらかが王妃の座に着いた時に我が子の王座を阻むもう一人の王子が邪魔になるので病になるよう願いを込めて刺繍を刺すよう命じられる可能性が高いと言っていた。
もしやナトラスも同じことを秘かに考えているのか!
そう思った瞬間、トナの背筋には一気に冷たいものが走った。
そして自分はそんなナトラスの思惑どおりに既に愛するカイの心を操る悪事に手を染めてしまった。そしてその次はナトラスの次の願いを託される立場になってしまうのか。
そう思った瞬間、トナは自分がもう戻れない道を進んでしまっている。そう既に自分は刺繍師としての暗い闇の部分に足を踏み入れてしまったのだと気がついた。
何も知らないクハと侍女はまだ楽しそうにナトラスの話を続けている。
トナは急に身体が凍りついたように寒くなり、慌てて自分で器に茶を注ぐと一気に飲み干した。しかし香り高く甘くて美味しいはずの茶もまったく香りも味も、そして温かさも感じられず、トナにはまるで冷たい水を飲んでいる。そんな感覚であった。
ナトラスの用意した茶会はまだ続いているが、立場上トナは勝手に席を立てない。トナにとっては苦しく長い時間であった。
任命式から三週間ほど経ったある日のことであった。王宮内はまだ新しい王妃様と世継ぎの王子様が誰に決まるかの話でざわめいていた。そろそろ正式に発表があってもいいのではないか。そう囁かれていたが特にトナ達刺繍侍女達の周囲はいつもと特に変わってはいなかった。
ただトナと同じように今回副衛兵長に任命されたジモの制服の刺繍を刺したクハが気のせいか美しくなった気がしていた。大きな仕事を成し遂げた後の達成感と解放感からだろうか。特に着物や髪型など前と変わってはいないが、どこか表情に穏やかな満ち足りたような美しさが滲み出ていた。
トナやアラ、ジハ達がいつものように刺繍室で刺繍を刺していると、見知った顔の商人の男が愛想良い笑顔を振りまいて部屋に入ってきた。北のモロタリの飾り物を扱っていて主に侍女相手に髪飾りを商っている男だ。
髪を結うのに必要で、また仕事中でも着飾れる唯一の部分が髪なので、王宮に仕える侍女達は競って美しい髪飾りを買い求めていた。外に出られない侍女達にとって買い物は数少ない娯楽であり、商人達にとっても金払いが良く、次々に新しい品を買ってくれる王宮の侍女達は上客であった。
カイとジモの任命式の時にトナとトハの髪を結ってくれたヤカは凝った髪型を美しく結えるだけでなく美しい髪飾りには目がなく、次々に新しい髪飾りを買い求めていた。
きっと商人の男はヤカに新しく仕入れた髪飾りを見せに来たのだろう。そうぼんやりトナは商人の姿を目で追っていた。
しかし彼はいつものようにヤカの机の側に行くのではなく、トナの方に笑顔を浮かべて近づいてくる。え?トナは思わず驚いてしまった。
トナと同室であったクタもヤカほどではないが、髪飾りが好きで度々買い求めていたので、たまにトナやジハも一緒に見せてもらった髪飾りの中で気に入った物があった時は買い求めていたが、トナは上客ではない。それなのになぜ彼は笑顔で近づいて来るのだろうか?
怪訝な顔をしたトナに商人の男は尚も笑顔を浮かべたまま近づいて来て、これはこれはトナ様。この前はご注文ありがとうございました。やっとお探しの髪飾りが手に入りましたのでお届けに参りました。と声を掛けた。
え!わたし髪飾りなんて頼んでいないわ!トナは咄嗟にそう返事をしようとした時、商人の男は意味ありげな目配せをトナに送ってきた。
それにヤカやクタのように頻繁に買い求めている上客でもない、まして刺繍侍女の中では一番下っ端のトナの名前を彼はなぜ知っているのか。
とその時、刺繍室にどこかに出掛けていた刺繍侍女長のアギと副侍女長のカサが並んで戻って来た。
すると商人の男は直ぐ様ぱっと身体の向きも視線もトナからアギとカサの方に向けると、これはこれはアギ様、カサ様。
アギ様、カサ様。これは心ばかりの品です。どうぞお納め下さいと商人の男は懐から小さな包みを取り出すとカサにささっと手渡した。渡されたカサも小さく頷くと黙って受け取った包みを自分の懐に滑り込ませた。
商人の男は愛想よくアギに向かって、そろそろ正式に王妃様が決まるのではという噂が私達王宮に出入りを許されている商人達にも伝わってきております。正式に王妃様がお決まりになれば、ますます王宮は活気に満ちて華やぐのでアギ様達刺繍侍女の皆様もさぞお忙しくなるのでしょうね。モロタリの飾り者職人達も今から気合いを入れて、次々に美しい飾り物を作っておりますので、次に王宮に上がる時には皆様にご満足頂けるような美しい飾り物を数多く揃えてご覧いただけることと思います。と話し掛けた。
そんな商人の男にアギはふと何か思いついた顔をした後にこう声を掛けた。ああ、そうだ。お前に頼みがある。
つまりそれは何か注文をしたいという事だ。商人の男は満面の笑みを浮かべ、揉み手でアギに愛想良く何なりとお申し付けください、アギ様。どんな物をお望みでしょうか?と尋ねた。
そんな商人の男にアギは飾り箱を一つ頼みたいのだ。そうだな、色は黄色の物が良いが頼めるか?そう尋ねると、商人の男はもちろんでございます。アギ様。すぐにでも選りすぐりの品を揃えて持って参ります。と笑顔で答えた。
そのことばにトナ達刺繍侍女はえ?と思わずお互い目線で会話をしてしまった。それはつまり。皆自然とアギに視線を向けていたがトナはとっさにクハの方を見つめてしまった。
セルシャの国の娘達が嫁入りする嫁入り道具の中に飾り箱がある。飾り物や金貨など大切な物を入れておく箱で、通常嫁入りが決まった時に母親が娘の為に用意する。しかし王宮に勤めている侍女は母親の代わりに自分の所属する部署の侍女長が与えてくれていた。
トナと同室であったクタが商人と結婚する為に王宮を下がった時にもアギからクタに美しい飾り箱を与えられていた。
つまり誰かが嫁に行くということで、アギは商人の男に黄色を指定していた。このセルシャの国で黄色を好むのは西の出身の者ということだ。最近急に美しくなった西出身の者と言えば。
皆の視線に向かってアギは大きく頷くと、ちょうど良かった。皆に伝えようと思っていた所だ。このたびクハの嫁入りが決まった。クハは副衛兵長になったジモの嫁となる為もうすぐ王宮から下がることとなった。そう皆に告げた。
クハがジモと?
刺繍侍女達の視線が一斉にクハに注がれた。クハは恥ずかしそうに照れ笑いして、ほんのり顔は赤く染まっているが、何より幸せそうだ。
皆、おめでとう。クハ。と口々に祝した。居合わせた商人の男もおめでとうございます。クハ様と満面の笑みを浮かべて述べている。
副衛兵長との結婚が決まったなら、これから何かとクハは物入りになる。つまり商人にとっては稼ぎ時になる。
アギは商人の男に視線を送ると男は大きく頷き、アギが視線で示した方向に向かって歩き出しアギとカサに続いて刺繍侍女長の部屋に入ると静かに扉が閉じられた。
扉が閉じられた途端に、皆一斉に歓声を上げてクハを取り囲んだ。情報通のジハでさえ二人が恋仲であったことを知らなかったので、皆驚いて話を聞きたがった。
ジハが爛々と目を輝かせてクハにねえ、いつからそんなことになっていたの?と尋ねた。クハは恥ずかしそうに照れながらも、ついこの前よ。わたしも今回刺繍を任されるまで彼を知らなかったものと答えた。
じゃあ、今回の刺繍がきっかけなの?更に興奮したようにジハや皆が尋ねるとクハは頬を赤く染めながら頷くとこう話し始めた。
わたしも今回王命なんてこんな大きな仕事を任されたでしょう。それでそのジモって人はどんな人なのかしら?若いのに副衛兵長に任命されるなんてきっとすごい人なんだろう。その人の制服の刺繍を刺すんだから、その人に会って話を聞いてみたいって思ったの。それで思い切って事師に刺繍を刺す上で本人に聞きたいことがあるから会えないかって聞いてみたら、すぐに事師経由で彼から返事が来て会うことになったのよ。と言うとクハは思い出し笑いをした。
いちお仕事とは言え副衛兵長になる男性と会うでしょう?わたしおめかしして勇んで行ったのよ。そしたら現れたのがあの風貌の人よ!と言うと大笑いした。それにはジモを知っているジハや他の侍女達も大笑いしていた。
トナも任命式でジモを見て知ったが、武人らしいと言えば武人らしい厳つい顔をした逞しい身体つきの大男で、カイやドクやキジのように若い侍女の胸をときめかせるような風貌ではなかったのだ。
わたし会った瞬間にああ、いつもだったらわたしが北のカイの、トナがこの人の刺繍を刺すはずだったのにって心の中ではがっかりしてたのよ。そう小さく笑いながら本音を明かしていた。
それがどうしてこんなことになったのよ?誰かが興味津々な声でクハに尋ねた。
がっかりしたけれど、ともかく仕事は仕事だから彼に衛兵の仕事のことや故郷のアズナスについて聞いてみたの。わたし、今まで南のアズナスについて詳しくなかったからとクハは恥ずかしそうに答えた。
南のアズナス出身の刺繍侍女は数年前には三人いたが、三人共次々に結婚して王宮を去ってしまっていて今アズナス出身の刺繍侍女はいないので、その為刺繍侍女達の間で話題に上ることが確かに少なく、トナもアズナスについては学舎で習った程度の知識しか持っていなかった。
彼、とても分かりやすくいろいろと教えてくれたの。おまけに話上手で話を聞いてるとすっかり話に引き込まれてしまったの。それにわたしの故郷のパルハハについてもいろいろ尋ねてくれて、わたしもすっかり夢中になって話してしまっていたの。そうしたらついうっかり都のことばじゃなくてパルハハのことばで話してしまったのよ。いけない!また田舎者だって思われちゃったとわたし急に恥ずかしくなったら、彼が優しく話を聞いたらパルハハは素晴らしい所なんだね。いつか自分も行ってみたくなったよ。そんなパルハハのことばもいいねって言ってくれたの。そう頬を染めながらクハは答えた。
トナはクハの話を聞きながら、きっとその瞬間にクハは恋に落ちたのだろう。そう感じた。
クハはそれに衛兵の仕事に対する想いを聞いていたら今回彼が抜擢されたのも納得できて、わたしも頑張って刺繍を刺そうって思ったの。
実際クハがトナと同じように連日夜遅くまで刺繍を刺していたのを知っていたが、それは王命に応えるべく頑張っていたのではなくジモへの想いからだったのか。
トナはいつの間にかクハに自分の姿を重ねて、クハの話を聞いていた。
クハは性格は穏やかで優しいが、顔に幼い頃にかかった熱病のせいであばたがある。その為か自分の容姿をどこか恥じている部分があった。
あの話を聞いた時に一回会っただけよ。それも事師の部屋でね。その次に会ったのは任命式の時よ。トナも知っていると思うけれど、わたし達は会話なんてできなかったの。
そう言うとトナに助け船を求めるように視線を送って来たのでトナも大きく頷いた。皆も任命式には参列していないが、おおよそ厳格な儀式の様子は想像できるのであろう。納得したように小さく頷くと、じゃあその後に何かあったのね?と話の続きを促した。
するとクハは顔を更に赤く染めながら、任命式の翌々日に彼から文が来たの。この前わたしといろいろ話した時とても楽しかった。わたしが刺した制服の刺繍を見て心を込めて刺してくれたのが分かった。嬉しかったって。そこまでクハは言うと耳まで赤く染めて、嫁に来て欲しいって。自分は副衛兵長になったから苦労はさせないって。と言うとついに恥ずかしさのあまりに両手で真っ赤に染まってしまった顔を覆ってしまった。
その話を聞いた他の侍女達は皆興奮して、きゃーと歓声を上げていた。
その声に反応したのか、それともちょうど用件が済んだのか、刺繍侍女長室の扉が開いた。
部屋から一人先に出て来たカサだが、いつもなら皆が刺繍の手を止めておしゃべりにふけっていれば厳しく注意するが、さすがにきょうは皆がトハの話を聞きたがると分かっているのか、いつものように注意はしなかった。後に続いてアギと商人の男も並んで部屋から出て来てアギは男に、では頼んだぞと言うと男の方もアギ様、承知致しました。お任せくださいと言うとアギに向かって深々と一礼した。
そんな商人の男に待ちかねたようにヤカが、ねえ。新しい髪飾りを持って来たんでしょ?見せてよ!と目を輝かせながら催促すると、男は満面の笑みを浮かべながら、ええ、ヤカ様。今回もいいのが手に入りましたよ。これなどヤカ様にお似合いでは?と慣れた手つきで背負っていた箱から直ぐ様いくつもの髪飾りを取り出し並べて見せた。ヤカは歓声を上げるとすぐに次々に手に取って吟味し始めた。他の侍女達も髪飾りの周りに集まる者、まだトハの周りで話の続きを聞いている者達に分かれた。
ただアラはいつものようにどちらにも加わらずにただ黙って自分の席に座り周りを横目で眺めながら黙々と黙って刺繍をしているがいつもの事なので誰も特に気には留めていなかった。
商人の男はトナの方に近づいて来ると、トナ様。お待たせ致しました。こちらがご注文の髪飾りです。とても美しい品ですよと言うとトナに小さな髪飾りを手渡した。それはサラシェの花が幾重にも重なった形をしていて凝った作りの美しい髪飾りだった。ぱっと見た感じでも値の張りそうな髪飾りだ。
それにめざとく気がついたジハもトハの周りからトナの席の方に戻って来た。
あら、トナ。髪飾りなんて注文したの?珍しいわね。どんなのにしたの?と言うと、トナの手から髪飾りを取ると、しげしげと髪飾りを眺めるとあら、きれいね。いいじゃない、これ。トナったらいつの間にこんな素敵な髪飾りを頼んでいたの?わたしも何か新しい髪飾りを買おうかしら?と言うとトナの手に髪飾りを返すと、弾んだ足取りでヤカ達のいる方に足を向けた。
トナとジハのやり取りを黙って二人の側で笑顔で聞いていた商人の男は、ああ。トナ様。お代を多く頂き過ぎていたのでお返ししますねと言った。
そもそもトナは髪飾りの注文もしていないし、ましてや代金を払ってもいない。そんなトナに商人の男は先ほどと同じような意味ありげな目配せをすると、懐から銭袋を取り出すと銀貨を一枚取り出しトナに手渡した。トナは怪訝に思いながら差し出された銀貨を受け取る為に手を差し出すととその時、商人の男は周りに気づかれないように、ささっと一通の文をトナの袖口に忍び込ませた。
え?
思わず驚きで声を上げそうになったトナに商人の男は目線で何も言うなという風に合図を送って来た。
商人の男はこの文を託されたのでトナが今回髪飾りを注文したという事にしたのか。
でもこんな風に自分に文を送ってくるのは誰だろう。周りに気づかれないようにトナに秘密の文を送ってくるとしたら。
一番考えられるのはナトラスだ。自分の侍女を使ってトナが髪飾りを注文したことにさせるなどナトラスの立場ならば容易いことだ。
そしてもう一人は。
商人の男はニヤリと笑うとトナに軽く頭を下げるとヤカ達の方に戻って行き、そうそう。こんな髪飾りもありますよ。どうですか?とまた別の包みを取り出すと皆の前に開いて見せると、刺繍侍女達からは新たな歓声が上がった。
トナは文が気になり、そっとこの場を離れようと扉の方に向かったが、皆トハの話を聞くのに夢中になっている者達、髪飾りに夢中になっている者達で誰もトナが部屋から出て行くのに気がついてはいなかった。
ただ一人、アラだけが横目でトナが部屋を後にするのをじっと眺めながら黙々と黙って刺繍を刺していた。
トナは急いで人目を避けるよう刺繍室の倉庫の奥にある隠し扉を細く開けると身体を滑り込ませた。
本来は刺繍師にだけ許された空間ではあるが、ここならば誰にも見つからず落ち着いて文が読める。
トナは急いで袖口に忍び込ませた文を取り出した。文は淡い美しい青の文紙で文を開いた途端に、見慣れた大きく伸び伸びとした文字が目に飛び込んで来た。
やはり間違いない。
トナは小さく唇を噛み締めた。文を持つ手が少し小刻みに震えているのに気が付きトナは大きく一つ息を吐いた。そして息を吸い込むと文に目を通した。
トナ。偶然とは言え君が王命で俺の制服の刺繍を刺してくれたなんて本当に嬉しいよ。とても美しい仕上がりだね。トナ、君が心を込めて細部まで刺繍してくれたと手にした途端、一目で分かったよ。ありがとう。トナ、任命式の時の君は美しかったね。君に似合いそうな髪飾りを見つけたので贈るよ。また次に君と会える時にはこの髪飾りを付けて欲しい。本当はもう少し早く文を送りたかったけれど、副衛兵長に任命されて何かと忙しくて遅くなってしまったんだ。ごめんよ、トナ。また君に会える日を楽しみにしているよ。
そう見慣れたカイの字で文はこう綴られていた。
カイからの文を読み終えたトナは思わず唇をぎゅっと噛み締めてしまった。
この王宮に上がってからいつの間にか、そう。この王宮ではタスカナにいた、のどかな娘の時と違い、悲しかったり、悔しかったり、理不尽で納得できなくても立場上従うしかなく感情をそのまま表せずに唇を噛み締める癖がトナにはついていた。
文面からカイは自分に恋してくれている。そうはっきりと感じられた。けれど今のトナにはカイが自分に恋してくれているという喜ぶはずの甘く幸せな感覚には全く包まれずにいた。
カイから借りた衛兵の制服の刺繍を刺し直している時には、ただカイのことを思い出しただけで、甘くほんのりと柔らかな優しさに包まれた感覚であったのに、実際に願ったとおりにカイが自分に想いを寄せてくれているのに、その甘さも幸福感も心の高揚すら感じられなかった。むしろ愛するカイの心を無理やり何か見えない大きな冷たい力で自分に向けてしまったという事実の大きさに身体が芯から冷えてくる感覚すらしてきた。
そんなトナの脳裏に先ほどのジモとの馴れ初め話をしていた時のクハの愛する人に本当に愛された時にだけ感じられる幸福感に満ちた表情が浮かんで来た。
その瞬間、トナの瞳からは大粒の涙が溢れてきていた。
あんなことするのではなかった。
トナはついに耐えきれず床に崩れるように座り込むと激しく号泣していた。泣きながらトナの瞼の裏には、初めて自分と出会った時にカイが自分を安心させる為に向けてくれた優しい笑顔が浮かんできて、トナからは止めどもなく涙が溢れ続けていた。
ごめんなさい。カイ。
そう心の中でトナは何度も泣きながら呟いていた。
あっ!
トナは自分の指に針を刺してしまい、その鋭い痛みと指先から血が滲み出すのを見た瞬間、思わずトナは小さな声を上げてしまい、咄嗟に血が出た指先を自分の舌で舐めていた。
その声に隣の席に座っているアラとジハはそれぞれ自分が刺している刺繍から視線をトナに向けた。ジハは何も言わないが心配そうな顔で、アラはいつものように無表情だが瞳の奧はやはりトナを心配している。そんな表情だった。
そんなトナにカサが目ざとく気がついたのか、トナ!また自分の指に針を刺したのか!これで何度目なのだ!お前はただの村娘ではなく刺繍侍女なのだぞ!最近のお前は注意力が不足している!怠けているのか!と野太い声で叱責した。
カサが言うでもなく、最近のトナは心が乱れている。注意力不足で刺している糸を切ってしまったり、誤って自分の指に針を刺してしまい、ちょうどトナが刺していたナトラスの冬衣に血が付いてしまい、刺繍室の中でちょっとした騒ぎになってしまったこともあった。
必死で刺繍に集中しなければと思えば思うほど、心の中にある後悔の念がむくむくと大きくなり、トナの心をかき乱していく。
そんなカサの叱責をカサの横で黙って聞いていたアギが音もなく自分の席を立つと無表情な冷たい顔で静かにトナの方に向かって歩き出した。
皆無言で心配そうにトナの方を見つめていた。
アギはカサと違い小さな声をしているし、普段からあまり口数は多くない。そのアギが、そう刺繍侍女長という立場でトナに何か叱責するのか。
皆不安そうに固唾を飲んで、成り行きを見つめていた。
アギがトナの席の前に来たので、トナも自分の席から立ち上がって頭を垂れた。
アギはそんなトナの席の前に立つと、トナ。最近のお前は刺繍に身が入っていないようだな。そう冷たい声と表情でトナに声を掛けた。
申し訳ございません、アギ様。トナはアギに向かって深々と頭を下げた。
そんなトナに向かってアギは、トナ。お前は王命でしばらく寝る間も惜しんで刺繍を刺していた。体調を崩したのかも知れない。一度王宮に仕える薬師に診てもらうのだ。そうトナに声を掛けた。
思わずそのことばにトナは顔を上げて驚いたようにアギを見つめた。アギの指摘するように、ただ疲労から来る集中力不足ではないことはトナ自身が一番良く分かっている。自分さえしっかりすればいいのだ。頭の中から余計なことを追い払って刺繍に集中するのだ。ただもちろん今回自分を苦しめているのは秘密の刺繍の力でカイの気持ちを自分に向けてしまったとはとても言えない。少し疲れているだけだということにしておこう。
アギ様、わたしは大丈夫です。ただ少し疲れているだけですぐ治るので、薬師に診てもらうほどのことではありません。
そうトナは慌ててアギに伝えると、アギはトナ。もしお前が何か悪いはやり病でもかかっていたらどうする。お前だけでなく他の者にも悪い病が移ってしまう可能性があるのだ。私はこの刺繍侍女の長として皆を監督する立場として、それは何としても避けなければならない。トナ。今日はもう仕事はいいのですぐに薬師に診てもらうのだ。そして今日はここに戻って来ないで良いので夜になったら私の部屋に来るように。そう伝えた。
なおも困惑しているトナに向かってアギはこれは私からの命令だ。従うのだ!最後は冷たく厳しい声で命令されたので、トナは黙って深く一礼すると、刺したままの刺繍を机に置いたまま刺繍室を静かに立ち去った。
そんなトナの後ろ姿を皆黙って心配そうに見送っていた。
トナはしぶしぶ王宮の東側にある薬師のいる棟に向かった。
ここには王様やお妃様達などの王族や事師や衛兵、侍女など王宮に仕える者達が怪我や具合が悪くなった時に治療する為に薬師達がいる。
元々トナは身体が丈夫なので病で薬師の世話になることも、また仕事で怪我をすることもほとんどないのでめったにこの薬師の棟を訪れたことがなかった。
扉を開けて中に入ると薬草の匂いだろう。独特のいくつもの匂いが混じり合って、その不思議な匂いがトナの鼻孔に漂ってくる。トナと入れ違いに足を少し引きずりながら衛兵らしい若い体格のいい男が部屋から出て行こうとしていたので、トナは邪魔にならないよう扉の側にそっと黙って立って、その男が出て行くのを見送った。
部屋の中では何名もの薬師が忙しそうに薬を調合していたり、奥の方ではどうやら調理中にやけどをしたらしい調理侍女が薬師に腕に薬草を巻かれながら、痛みに顔をしかめていた。
扉の側で佇んでいるトナに気がついた中年の薬師の男が薬を調合している手を止めて、どうした?どこの部署の侍女だ?熱でもあって来たのか?そう声を掛けた。トナも仕方なく、わたしは刺繍侍女のトナです。最近王命で刺繍を刺していて疲れが出てしまったようで侍女長様から一度薬師に診てもらえと命じられたので参りましたと答えた。
そのことばを聞いた薬師の男は幾分面倒くさそうな態度を取りながら、トナにあそこに座れと椅子を指し示すと薬を調合していた机から椅子の方に向かったので、トナも慌ててその椅子の方に小走りで向かった。
薬師の男はトナの正面に座ると熱がないのかトナの額に手を置いたり、脈をとったり、トナの瞳や舌の様子を診た。
薬師の男は、ああ。何でもない。とりあえず早く寝て元気を取り戻すんだな。まあそれでも治らない時にはまた来い。そうしたら何か薬を処方してやるから。と言うと、もう用はないとばかりにさっさと席を立って、また薬の調合をしている机の方に向かった。
トナもこれ以上ここにいても意味がないので席を立って帰ろうとした時に、扉の方から一人の初老の男が悠然と中に入って来た。その途端、部屋の中にいた薬師達が一斉に皆その初老の男に向かって頭を下げた。トナもちらっとその男の姿を見ると、男の帯には薬師長を表す幅広の帯に赤と青の独特の組模様が刺繍されていた。どうやらこの初老の男が薬師長らしい。
この王宮に仕える薬師はそれぞれの領地から集められた優れた薬師達だが、その頂点に立つ薬師長にまで登り詰めたということはこの男の腕がそれだけ一際抜きん出ているということだ。それだけに薬師長は主に王様の体調を診ていて、トナ達侍女や衛兵など王宮に仕える者の診察などしない。ある意味王族と同じようにトナにとっては雲の上の存在であった。
トナも部屋にいる薬師達と同じように頭を下げると薬師長が自分の部屋に入るのを黙って見送ろうとしていると、薬師長の男はトナの方に向かって歩いてきた。その様子に居並んだ薬師達は驚いて皆目を見開いて驚いていたし、何よりトナが一番驚いていた。
いったいなぜ薬師長が自分の方に向かって歩いているのか? 薬師長の男はトナの前に来ると、お前が刺繍侍女のトナだな。私がお前を診るので私の部屋に来るのだ。
そう薬師長の男が言ったので皆驚いた。先ほどトナの具合を診た中年の薬師がガク様、この者は先ほど私が診た所何ともありませんでした。ましてや薬師長のガク様が刺繍侍女ごときを診るなど滅相もございませんと慌てて声を掛けた。
薬師の男が言うように薬師長がトナのような一介の侍女を診るなどあり得ないことだ。薬師長が診るのは主に王様でお妃様達にもそれぞれ専属の薬師がついているが、大きな病の時などは薬師長が診察するという話をトナも聞いたことはあった。そんな薬師長がトナを診ると言い出したので、薬師達もそして何よりトナが一番驚いた。
それになぜ彼は自分が刺繍侍女のトナであるのか知っていたのか。
そんなトナの疑問を払うようにガクは、トナ。お前を診るように私に命が下ったのだ。なのでお前も従って私の診察を受けるのだ。そう言うと自分の部屋に向かって歩き出したので、トナも慌てて一礼するとガクに従って彼の部屋に向かって歩き出した。
薬師長のガクの部屋は刺繍侍女長のアギの部屋と同じように、薬師の勤める棟の一番奥の隅にあった。扉を開くと、そこには王宮の図書室と同じように棚一面にびっしりと難しそうな本が並んでいて、良く見ると中にはこのセルシャの国の文字だけではなく隣国のオクルスやマルメルの文字で書かれたとおぼしき本も並んでいた。そして先ほどこの薬師の棟に入って来た時に感じた独特の薬草の匂いとは違う、そうどこか故郷のタスカナにあるモグスの森を思い出させるような深い森の木々と雨の後の土の匂いをトナは感じた。
部屋の様子を珍しそうに眺めているトナに向かってガクはここに座るのだと、自分の机の前の椅子を指し示したので慌ててトナも椅子に座った。
そんなトナの正面の椅子にガクは自分も座ると、さて、と小さく声を掛けると先ほどの薬師と同じように薬師の男はトナの額に手を当てて熱を計ったり、脈をとったり、舌の様子を診始めた。大きな肉厚の温かい手がトナの額や手首に触れていく。
先ほどの薬師と同じように診ているはずだが、ガクの診察はどこか違う。そうその者の中までどこか診ようとしている。そんな気すらしてくる診察であった。
最後にガクは、どれ。と小さく呟くとトナの瞳を両手で上下に大きく開くと、じっとトナの瞳の中を見つめた。
ほんの数秒だろうか。でもトナにとってはそれは不思議ともっと長い時間に感じられた。
そんなトナにガクは診察は終わったぞ。今からお前に必要な薬を出してやるからしばしここで待つのだ。そう言うとガクはトナを一人部屋に残して扉を閉めて薬師長の部屋の外に出て行ってしまった。
ふうーっとトナは大きく息を吐いた。慣れない薬師の診察を受けて、ましてや普通なら絶対に自分ごときが診てもらうことのない薬師長の診察だ。これでは逆に気が張って具合が悪くなってしまいそうだ。そんな風にトナは思って苦笑いをした。
しばらくガクは部屋に戻って来なかったので、トナはぼんやりしながら、先ほど感じた疑問を思い出していた。
ガクは自分を診るように命が下ったと言っていたが、それはいったい誰の命なのだろうか。
ガクに命を下すとすれば普通は王様だが、まさか王様が自分の具合を心配するとは、とても考えられない。
だとするとナトラスか。任命式の後にナトラスとは一切会えていないのでナトラスが最近のトナの様子を知っているとは考えにくいが、ナトラスの立場ならば自分の手の侍女を使ってトナの様子を探るなどいとも簡単なことだ。それか上手く刺繍室の中で解決させたと思っていたが、どこからかトナが誤ってナトラスの冬衣に血が付けてしまったことが漏れていて、心配したナトラスが王様にトナを薬師長に診させるよう願い出たのだろうか。ナトラスの願いならば王様もすぐに命を下すだろう。
それとも影で王様をも操れるという大きな力を持つアギが裏で手を回したのか。
そんな風にトナが考え事をしていると部屋の扉が開き、煎じた薬が入っているのであろう。かすかに湯気を立てている温かそうな茶器を二つ盆の上に乗せてガクが部屋の中に入ってきた。
部屋にはどこか懐かしい甘い香りの他にトナが今まで嗅いだことのない甘酸っぱい香りも漂ってきた。
先ほどの薬師は何ともないと言っていたが、ガクが薬を煎じて持ってきたということは自分は何かの病に掛かっていたのだろう。さすが薬師長だけあって先ほどの薬師が見落としていた病にも気づいたのだろう。
自分はいったいいつ何の病に掛かったのだろう。もしやカイの制服に自分の髪を埋め込んだ時には、もう自分は悪い病に掛かってしまっていたのかも知れない。そう心に巣くう嫉妬という悪い病だ。
そんなことを考えていたトナにガクは茶器を差し出すとまずこれから飲むのだ。そう声を掛けた。トナは差し出された茶器を受け取ると、ほのかに温かい薬を口に含んだ。
口に含んだ途端に懐かしいほのかな甘さと、微かな草の匂いと共に遠い故郷のタスカナにいる母さんのエダのことを急に思い出した。ふっとトナが視線を上げるとガクは、いかにも。この薬にはクチャの花が入っておる。そうガクは頷きながらトナに教えた。
クチャの花を乾燥させた茶は、このセルシャでは子供がぐずって寝付かない時などに飲ませる茶でこのセルシャの国の子を持つ家になら必ずある。もちろんトナもタスカナにいた少女時代に母さんが煎じてくれて飲んだことは何度もあった。
そしてこのトナが今まで嗅いだことも味わったこともない甘酸っぱい味と香りはいったい何だろう。
そんなトナにガクはもう一つはオクルスの山奥になるセセリリの実を乾燥させた物だ。そう薬の正体を明かした。
これはいったい何の病に効く薬なのでしょうか?思わずトナはガクに尋ねていた。するとガクは残っていたもう一つの残っていた器を手に取ると勢い良く中の薬を一気にあおったので、トナは驚いて目を剥いてしまった。
そんなトナにガクはおもしろそうに顔をほころばせると、恋の病に効く薬なのだ。もっとも私のような老いぼれには効くか分からないがと冗談を言うと小さく笑った。
先ほどまではトナもガクを偉い身分である薬師長としてしか見ていなかったが、良く見ると賢さの漂う涼やかな瞳の奥に、どこか故郷のタスカナにいる記憶の中の弟のトジに似たいたずらっ子のような姿も垣間見れた気がした。
ガクは空になった茶器を机に置くとトナの顔をじっと見つめ、恋とはいつも自分の思い通りにはならないものだ。だから人は恋の病に掛かるのだ。そう声を掛けた。
病は気からと言うが、今のお前では本当にそのうちに悪い病に掛かってしまうかも知れない。私に話してみれば少しはお前の恋の病も良くなるかも知れない。さあ、話してみるのだ。
そうガクはトナに声を掛けた。
しかし今回の話など、とても他人に明かせる話ではない。けれど誰にもこの苦しい気持ちを明かせずにいて辛かったのも本心だ。
そんなトナにガクは薬師は人の生き死に関わる秘密にせねばならぬ事を知ってしまう時もあるのだ。私は口は堅いし、それにこの王宮に長く仕えてきて口には出せないような事を見聞きしたこともある。そう言うと、最後に少し声を潜めると私とて王宮に仕える薬師長として決して人には言えないことに手を染めたこともあるのだ。そうガクはトナに告げた。
その最後のことばにトナは思わずじっとガクを見返してしまったが、ガクはそんなトナの視線を逆に受け止めて、大きく頷いた。
自分もこの王宮で人には言えぬようなことをしているのだと、それはまるでトナが今回やってしまったことを知っていて、トナに自分だけではないと、どこか安心させる為に自分の秘密も明かしてくれた。そんな気をトナに起こさせた。
ついに思い切ってトナは小さな声でぽつりぽつりとガクに今回のことを話し始めた。隠された歴史の秘密を知ってしまったこと、その重さに耐えきれず故郷のタスカナに逃げようとしたこと、その時にカイに出会って助けてくれたこと、カイに恋心を抱いたこと、仲間のアラとカイが想い合っているという噂があること。そしてある人から教えられた秘密の刺繍の力でカイの心を自分に向けようとしたこと。そしてカイから届いた文の内容。
もちろんナトラスが自分に秘密を教えたなど明かせない話もあるので、その点はぼかして伝えたが、ガクは真剣にトナの話を聞いてくれた。
ガクはトナの話を全て聞き終えると、トナ。起こってしまったことは変えられないし、もしあり得ないが時が戻ってもきっとお前はまた同じ選択を選ぶだろう。恋すれば誰もが冷静さや、常識や良心といったものを忘れてしまうし、その愚かさこそが人なのだ。恋する相手を目の前にして何も心が冷静さを失わなかったら、逆にそれは恋ではないのかも知れない。そうガクはトナに語り掛けた。 この国で賢いとされる薬師の頂点に立つガクでさえ恋に我を忘れて冷静さや常識や良心を失ったことがあるというのか。トナはそんなことと無縁のようなガクをじっと黙って見つめた。 さて、とガクは小さく呟くと、全ては運命なのだ。きっとどの道をお前が選んだとしても、お前は選ばなかったもう一つの道を選んだ方が良かったのかもと迷っても結局は最後には全て同じ道に通じるのだ。全てはなるようにしかならないのだ。 もう戻るがいい。先ほどの薬は恋の病に効く薬ではなく、寝付きを良くして深く眠れるようにする薬だ。お前は最近いろいろ悩み過ぎて眠りが浅いようだ。今晩は良く眠れるだろう。何も考えずにぐっすり休むがいい。 そうトナに優しく諭すように伝えた。 トナは席を立つと深くガクに一礼した。そんなトナにガクはいやいやと顔の前で大きく手を振ると、礼には及ばん。私はただあの方の命を受けて薬師としてお前を診ただけだ。そう笑った。
トナは最後にもう一つ気になっていたことを尋ねてみた。今回ガク様にわたしを診るようにお命じになったのはどなたでしょうか?そう尋ねると、私に命令できるお方と言えばこの王宮でも限られているからお前も想像がつくだろうと言うと、ガクはいたずらっぽい目をして、謎多き美しきお方だ。わたしは年甲斐もなくその方に魅了されてしまっているので逆らえないのだとだけ言っておこうではないか。そう続けた。
ガクに命令できる謎が多い美しい人と言えば、やはりナトラスか。どこからか最近のトナの様子が伝わったのか、それともナトラスも自分と同じように今回の件で後悔しているのだろうか。
そう、トナに人の心を操る技を伝えたことに。
トナは苦しい胸の内を聞いてくれたガクに感謝の意を込めて、もう一度深く礼をすると部屋を出て行こうとした。
そんなトナの後ろ姿を黙ってガクは黙って見送りトナの姿が見えなくなると文机に向かった。
トナは今日は勤めに戻らなくていいとアギに言われていたので、仕方なく部屋に戻ることにした。
他の刺繍侍女達はまだ皆勤めの最中の時間なので、刺繍侍女の棟はひっそりとしていた。トナは自室に戻ると、所在投げにぼんやりと床に座り込んだ。
今まで誰にも明かせないでいた想いを打ち明けられたからだろうか、心の鬱蒼とした重みが少し減って気が楽になったのと、ガクが飲ませてくれた薬の効果なのだろうか。トナは急に眠気に襲われて、大きくあくびをするとそのまま敷布も引かずに床に寝転がった。
気がつくと、うとうとと心地好い眠気がトナを包み込んで、いつの間にかトナは意識をなくして深い眠りに落ちていた。
どれだけ眠っていたのだろうか。
トナ、トナ。
心配そうな自分を呼ぶ声と身体を揺すられる動きでトナははっと目を覚ました。そこには心配そうな顔で自分をのぞき込んでいるジハの顔があった。
ああ、ジハ。まだ眠い目を擦りながらトナは身体を起こした。ジハが勤めから戻ったということはあれからかなり時間が経ったのだろう。周りもすっかり暗くなって部屋には蝋燭の明かりが灯っていた。
大丈夫、トナ?食堂にも姿を見せないで部屋に戻ったらあんたが敷布も敷かずに倒れたみたいに眠ってて何度か声を掛けても起きないから心配したのよ。薬師は何て言ってたの?と心配した顔でトナの顔をのぞき込んだ。
久しぶりにぐっすり眠れたので心も軽く、頭の芯もどこかすっきりしている。
その途端にトナは、アギから夜になったら私の部屋に来るようにと言い渡されていた事に気がついた。
あ!アギ様に呼ばれていたんだったわ!そうトナが叫ぶとジハも大変!もっと早く起こすべきだったわと顔を青くしながら叫んだ。
トナは慌てて寝て乱れてしまった衣と髪を整えて身支度を終えると急いでアギの部屋へと向かった。
アギの部屋は刺繍侍女の棟の一番上の階にあり、その階にはアギの部屋しかないので誰もアギの部屋に足を踏み入れたことはなかった。
トナは緊張しながらアギの部屋の扉を叩くと扉が開き中からアギが顔を出し、トナを部屋に招き入れた。 アギの部屋は冷静で時には冷酷にすら思えるアギの部屋とは思えないような落ち着いた暖かい雰囲気で所々に花が飾られ、
アギの出身である西の者が好む暖かい黄色の敷布が敷かれていた。
それよりもトナが驚いたのはアギの服装だ。いつも刺繍室にいる時は漆黒の衣を纏っているが、部屋でのアギは柔らかい黄色の衣に自分で刺したのだろう。赤や青の花が咲き、その間に緑の葉や黄色い実の手の込んだ色鮮やかな刺繍の帯を締めて、同じ図柄の柔らかそうな肩掛けを身に纏っていた。
いつもと違うアギにトナは思わず失礼とは思いつつも目を剥いてしまった。
そんなトナにおかしそうにアギは笑いながら、私は本当はこういった身に纏っていて心が浮き立つような華やかな衣が好きなのだ。けれど刺繍侍女長になってからは皆の刺した刺繍の仕上がりを確かめる時に色があると気になってしまうので、勤めの時は黒い衣を纏っているのだ。そう打ち明けた。
そしてトナに席をすすめると、暖かい茶を出してくれた。漂ってくる香りからどうやらクチャの花の茶らしい。ガクからもクチャの花の茶を出されたなとぼんやりと思いながらトナは一礼すると暖かいクチャの茶を口に含んだ。
そんなトナをいつもの冷静な眼差しではなく温かい眼差しで見つめながら、アギはこう言った。
最近お前の心が乱れているのはナトラス様の入れ知恵のせいか?
驚きのあまり思わずトナは手にしていた茶器を落としそうになってしまった。
そんなトナにアギはおかしそうに笑うと私を誰だと思っている?刺繍侍女長なのだぞ。今まであまたの刺繍侍女達を見てきた。私は自分の部下の侍女に変化があってもすぐに気づかないような凡庸な者ではないのだぞ。
お前が急に落ち着かなくなってからすぐにナトラス様もしきりとお前がどうしているのかとお前の様子を私に尋ねてはくるが自分ではお前をお召しにならない。きっとお前との間に、そう、どちらかと言うとナトラス様の方がお前に対してどこか引け目を感じているのではないか。何かあったなと私は気づいたのだ。それで薬師長のガクに手を回したのだ。
そうアギは笑った。アギには全てお見通しだったのか。トナはまた小さく唇を噛み締めていた。
そんなトナに向かってなのか、それとも自然と本音が漏れたのかアギは、ササ。あの者も不幸な生い立ちと言うか因果な宿命を持って生まれ育ってしまった娘なので、どうも他の者のようにはいかないようで、私もつい自分の部下でなくなったとは言え何かと心配で目が離せないのだよ。そう呟いた。
ナトラス様の因果な宿命をアギは知っていると言うのか!思わず驚いた顔でアギを見つめ返してしまったトナを見てアギは、どうやらその様子だとお前はナトラス様本人から秘密を打ち明けられたようだな。さすが同じトナという名を持つだけあって余程お前には親しみを感じたのだろう。そう続けた。
アギはトナというナトラスの産まれた時の本当の名前まで知っているのか。
驚きを隠せないままのトナに向かってアギは、私は前の刺繍侍女長様で、ナトラス様の故郷での教育係でそしてお前の母親がタスカナで出会ったトク様から、あの者が王宮に上がる際に密かに全てを打ち明けられて不憫な宿命を持って生まれた子だ。自分の宿命に逆らえず王宮に上がることになった。どうかせめて王宮で生きづらくないよう影で支えてやって欲しいと頼まれたのだ。そう種明かしをした。
そのことばにトナは、はっとした。
冷静になって考えてみればナトラスの過去を全て知っているトクとアギは元の上司と部下だ。トクからアギに話が伝わっていてもおかしくはない。
そんなトナにアギは、お前とナトラス様はどうもトク様という見えない不思議な縁で結ばれていたようだな。それぞれ都から遠く離れた東の地で同じトナの日に産まれ、そして何かに導かれるようにこの王宮にやって来た。そしてお前達は出会った。
アギのことばにトナは思わず昔タスカナの領主の館でどこからともなく聞こえてきた声を思い出していた。
王宮に来るんだ、トナ。それがお前の定めだ。待っているよ。
そう自分はあの不思議な声に導かれてこの王宮に来たのだ。
そんなトナにガクから既に話を全て聞いているであろうアギはお前がこれからどうするのかはお前が決める事だ。クハのようにお前に惚れてくれたカイの妻となるのも一つの道だ。どんな手を使ったとしてもカイがお前に惚れたのは事実だ。王宮の副衛兵長の妻ならば安定してそれなりの一生を過ごせるであろう。悪くはない道だ。
それともこのまま刺繍侍女として王宮に残る。無論その道もある。私としてはお前を将来は刺繍侍女長か副刺繍侍女長にと考えているので、それならありがたいが。そう笑った。
トナはぽつりとアギ様、わたしはどうしたらいいのか分かりません。最初カイと出会って彼のことが好きだと気がついた時はクタみたいに将来はカイと一緒になれればと思いました。けれどナトラス様から教えられた刺繍
いつしかトナはあのカイからの文を読んだ時の感情がよみがえって来てしまっていたのだろう。トナの頬に涙が伝わってきていた。
そんなトナにアギは優しい声でこう声を掛けた。
トナ。お前はもう刺繍師としての道を歩み始めたのだな。いいや。もうお前は刺繍師なのかも知れない。
アギの思いがけないことばにトナは濡れた瞳でアギを見つめた。
アギは大きく頷くと、ナトラス様はお前に自分のように愛する者と結ばれて幸せになってもらいたい。自分と似ているお前に自分の姿を重ね合わせて、その願いを叶えるべくお前に命じたのだ。
刺繍師は王様か王妃様の願いを叶えるべく刺繍を刺すのが役目だ。ナトラス様は王妃様の称号こそ得てはいないが、実際は既に王妃様だ。王様のお心を掴んで離さずご寵愛を受けているし、影で王様をも操っておられる。今回のカイとジモの副衛兵長の任命も影でナトラス様が糸を操っているのであろう。まあ、もっともカイを昇進させるのは引いてはお前の為、いいや。ナトラス様自身が自分とお前の姿を重ね合わせているのでご自身の為だろう。お前はもう王妃様の望みを叶えるべく、例え納得できなくても迷ったとしても命に従った。立派な刺繍師となったのだ。
それに刺繍師のもう一つの役目はコヌマにいる前の王家の末裔を見守ることだが、お前は見守るのではなく、その方の願いを叶えるべく従ったのだ。もうお前は立派に刺繍師としての勤めを果たしたと言えるのだ。そうアギは優しく微笑みながらそうトナに語りかけてきた。
トナの脳裏にはナトラスから命じられた時の情景が、そしてナトラスのことばがよみがえってきていた。
ナトラスはトナに、トナ。わたしはお前に刺繍の秘密は伝えた。ただそれを刺すか刺さないかはお前の選択に任せよう。お前がどうしたいのか。お前のその心に従うが良い。
もし今回わたしが教えた刺繍を刺すことにして、お前の良心が咎めた時は、わたしはナトラス様から命じられてやったのだと自分に言い聞かせれば少しは気が楽になるであろう。そう語り掛けた。
トナは結局悩んだ末に自分の心に従って、カイの心を操る方法を選んだのだ。
お前が刺繍師としての役目を果たした以上、お前にはカイの妻となって王宮を去る、それともこれからは名実共に王宮の刺繍師としてこの王宮に残る。まあ皆は刺繍師とは知らずただの刺繍侍女長とだけ思っているがな。
この二つの道以外にも、もう一つ別の道もあるのだ。そうトナにアギは語り掛けた。
もう一つの別の道?思いもよらなかったアギのことばにトナはびっくりして、まだ涙に潤んだ瞳でアギを見つめた。
そんなトナにアギは役目を終えた刺繍師は次の刺繍師に全てを託して王宮を辞すという道もあるのだ。
次の刺繍師に全てを託して王宮を辞す!
驚いた眼差しでアギを見つめたトナにアギは大きく頷くと、前の刺繍師であったトク様は私に全てを託して王宮を辞して都の南のダサルにある元の刺繍侍女長の館に移られた。世間には知られていないが、ダサルには王家が秘かに持っている館がいくつもあるのだ。
他国の使節や大臣やある領地の領主と秘かに会う時に使ったり、人目を忍んで逢い引きをして逢瀬を楽しむ際や、過去にはここで秘かに育てられた王様の血を引く王子様がいたと聞いている。
刺繍侍女長にもそういった館の内の一つが与えられていて、王宮を辞した後にはそこに移り住んで良いのだ。もっともトク様は最後はダサルの館ではなく、コヌマの地でナトラス様が王宮に上がった後に自分の役目は終わったとばかりに静かに息を引き取られたが。
トナ。お前が望めば私はお前をこの王宮から下がらせて、ダサルの館で過ごせるよう取り計らうことができる。そうアギは静かだが、意志のこもったはっきりした声でそう伝えた。
驚いたトナにアギはいたずらっぽく笑うと私を一体誰だと思っているのだ。王様をも影で操れる刺繍師なのだぞ。薬師長であるガクにお前は王宮での気疲れで気病に掛かってしまい、この王宮にいては治らないので王宮から下がらせるようにと診断を下させるなどいとも容易いことだし、王様を通じてお前が秘かに既に刺繍師としての役目を果たしたので王宮の元侍女長と同じように扱って欲しいと伝えて、ダサルの館に住めるように取り計れることもできるのだぞ。
ああ、無論金の心配もないようにしようではないか。まあお妃様達のように何不自由なく毎日豪勢に暮らすほどの金ではないが、お前一人がこれから暮らしていけるには十分な金も支給されるであろう。
そうアギはなおもいたずらっぽく微笑みながら、トナこう伝えた。
そのいたずらっぽい瞳が昼間に見たガクの瞳とどこか似ているような気がして、トナは秘かに驚いた。
今まで自分はガクを薬師長という役目の肩書きでしか見ていなかったように、アギも実は冷酷な刺繍侍女長という肩書きでしか見ていなかったのかも知れない。
またガクが言っていた謎多き美しき人というのはナトラスではなくアギのことだったのか。
確かにアギも年は取っているが時に冷酷にも見えるのは整った顔立ちだからなのかも知れない。若い頃はさぞ硬質な美しさの漂う娘だったのだろう。どこかトナはアギに王宮で年を重ねたいつの日かのアラの姿を見た気がした。
さて、私からの話は終わった。後はお前がどうしたいのかだ、トナ。焦ることはない。ゆっくりじっくり考えてみるのだ。それに考えている内に時が流れて、自然と答えが出てくる時もあるのだ。その渦中にいると先が見えず苦しい時もあるが、そんな時もいつか過ぎ去ってしまうのだ。
そうアギは優しくトナに微笑み掛けた。
きっとアギにも同じように過去に悩んだり苦しんだりした時があったのだろう。
トナは自然にはい、アギ様。分かりました。とどこか先ほどまでとは違う迷いの視線と声で答えていた。
そんなトナにアギはカイだが副衛兵長に任命されて多忙を極めているらしい。まあそれはジモも同じだ。そのせいでクハとの婚儀の日取りも決められずにいるようだ。なのでクハをいつ王宮から下がらせていいのか私も困っているのだ。
まったくナトラス様は次々に私に心配の種を送って寄越すのだなと軽口を叩いたが、その眼差しは温かい。きっとナトラスがかわいくて心配でたまらないのだろう。
そう言うと、しばらくはお前は軽い病で治療が必要ということにするので、ガクの所に通って眠れる薬を貰うがいい。きっとどうしたいのか思い悩んで眠れぬ時もあるだろうし、ガク。あの者はなかなかの聴き上手だし知識もあるし、さまざまな経験をしてきた。きっとお前の良き相談相手になってくれるであろう。
そんなアギのことばにトナは大きく頷いた。
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