町田 千春 著 |
刺繍師 その6 TOP |
このセルシャの国もすっかり冬になった。
トナ達の暮らす都には雪はめったに降らないが、それでも朝夕は部屋の外に出ると身体が芯から冷えてくる。暖かい春になるのはもうしばらく待たないといけないようだ。薬師の棟から出て自分の部屋に向かおうとしたトナは外の寒さに小さく身動ぎをした。
トナは前と変わらず毎日王宮で刺繍侍女として刺繍に励み、勤めの後に自分の部屋でジハの話に付き合い、そしてたまに薬師長のガクの元に通ってガクの出してくれる薬を飲みながらガクと話す日々が続いていた。
一月ほど前、王様はついに大きな決断を下して皆に発表したが、その決断は王宮の誰をも仰天させる内容であった。王妃はメマリスとルカララの二人を王妃とする。この発表に誰もが驚いた。
王様は過去の王家の過去の歴史やしきたり、決め事について紐解いて調べてみたが、どこにも王妃を一人とする決め事はなく余は至らぬ王なのでこの国を治めるのに是非とも王妃の協力が必要だ。ついてはこの国の内政には父譲りの才のあるメマリスの力が必要で、またこの国はオクルスとマルメルという二つの隣国と上手く渡り合っていかなければならない。そこには代々外交の任を任されてきた家の出で才のあるルカララの力が必要だ。なので二人をそれぞれ王妃とし、メマリスには主に内政面で、ルカララには主に外交面で王妃としての勤めを果たしてもらう。
そう発表したのだ。
それだけではなく王様は世継ぎの王子は二人の産んだセホトルとマザンソの二人とし、二人が成長した暁にどちらがより王の座に相応しい者になっているかで決定する。その為に王妃達は王妃の勤めの他にそれぞれの王子がより王座に相応しい者になれるよう母として力を尽くすようにする為に、王宮内の事は全てナトラスに任せるようにと命を下したのである。
つまり王妃の称号こそ与えていないが、この王宮の女主人はナトラスだと皆に示して、そしてメマリスとルカララ、二人の体面を汚さないよう配慮した決定だったのだ。
春になったらメマリスとルカララは今いる王様の館の隣にある自分達の館からそれぞれの息子達の館の隣の館に居を移す事となり、それに伴い空いたメマリスとルカララのいた館にナトラスとナトラスの産んだ二人の王女達が移り住む事が決まった。
その為王宮は今何かと慌ただしいのだ。
トナも先ほどまでガクと王様の話をしていたのだ。ガクは薬師長として王様の体調を診るために毎日顔を合わせているだけに王様の人柄を良く知っている。
それだけでなくガクはまだ王様が王位に着く前の幼い世継ぎの王子の時から知り合いで、しかも親しかったのだ。先ほどもガクは今回の王様の決定におもしろそうに顔を綻ばせ、昔から王様は賢いお方であった。今回もよもや誰も思い付かない方法で皆が反論できぬよう、また三人のお妃様達誰もが不公平にならぬよう上手く取り計られた。さすが王様だと感心していた。
確かに二人のお妃様達は王様の愛より地位と体面が保たれる方が喜ぶし、ナトラスは王妃という称号にはあまり関心がなさそうだし、身分の低い自分が二人を差し置いて王妃になれば混乱が起こると弁えているのだろう。もっとも既に影の王妃様なので今すら称号などいらないのだろう。その辺りも王様は良く分かっているようだ。
思わずトナは大変失礼ながら今まで世間の噂を信じていてわたしも秘かに王様はあまり賢くないお方だと思っておりましたと正直にガクに告白したら、ガクはそんなトナのことばに豪快に大笑いすると、それは今までお前も皆も王様に騙されていたなと言うと急に真面目な顔をして、王とはただ強くて賢ければ良いのではないのだぞ、トナ。
その時の国内の状況、そして何よりオクルスとマルメルという二つの大国の狭間でいかに振る舞うのが一番この国の為にとって良いのか見定めなければならない。二つの国と均衡を保って上手に付き合っていくには今はあまり賢くて二つの
それに王様は賢いだけではなく、とてもお優しい方なのだ。
そもそも私と親しくなったのは王様は幼い頃は王ではなく薬師になりたいとお思いだったのだ。
そう昔話を始めた。
前の王様と前の王妃様の間に産まれた王様の弟のゾルトア王子は産まれた時から病弱で成長してからもすぐに病で熱を出して倒れてしまったり、食も細く母である王妃や周りの者達を心配させていた。
父である王様は政務で忙しいだけでなく美しいが少し神経質で口うるさい王妃様に嫌気が差したのだろう。ちょうどタスカナから王宮に上がったタスカナの領主の遠縁の娘であるサイミシの素朴なおおらかさを好ましく思い、寵愛するようになったのだ。
その話ならトナも母さんのエダからかつてサイミシが前の王様のご寵愛を受けていた時があったと聞いていた。もっとも前の王様は恋多き、そして移り気な方だったようでご寵愛はサイミシの後には西の領地であるクチチトの領主の娘のサラトメに移ってしまったし、王妃様、サイミシとサラトメの他にも三人のお妃様達がいた。
そんな王様のせいだったのだろう。前の王妃様は時々感情的になって泣き出したり、物を投げたり、皿を床に投げつけて割ったりすることもあったそうだ。
王様は賢くて身体も丈夫で聞き分けの良い手の掛からない子供であった為、父である王様も政務に恋に忙しく、また母である王妃様も弟の看病や自分の気鬱で、幼い王様はほとんど両親と接することはなく周りの侍従や侍女達に育てられていた。
やはりそれでも幼い子だ。寂しかったのであろう。
そんな王様は病弱な弟と時々癇癪を起こす母を救う為に自分は大きくなったら薬師になると心に決めて、寂しさを振り払う様、足繁く王宮の図書室に通って膨大な過去の書物を読み漁ったり、薬師の棟に赴いて薬師が薬を煎じるのを横でじっと黙って眺めていたり、病や薬について薬師を質問攻めする時もあったそうだ。
ガクとはその頃出会ったそうで、若き日のガクも幼い頃の王様の質問攻めにあって四苦八苦した時もあったそうだ。
ダルマツ様は幼い頃から賢くて優しいお方であった。昔を思い出したのであろう。王様の名前を呼び、懐かしそうに暖かい目をしながら、こう続けた。
何かと心配されたゾルトア様も無事成長され妃を迎える年齢となられた時のことだ。ゾルトア様のお妃様は北のモロタリの領主の娘のケイホフ様だが、実は最初はケイホフ様こそダルマツ様の妃候補に名前が上がっていたのだ。ケイホフ様は顔立ちこそ目立たないお顔立ちだがが、とても賢く、そして何より慈悲深く将来の王妃の器を兼ね揃えていたのだ。
しかしダルマツ様はゾルトア様が秘かにお優しく芯の強いケイホフ様に想いを寄せておられたのに気づいて父である前の王様に弟のゾルトアは病弱なので壮健で賢いケイホフを妻に迎えてゾルトアを支えてもらいたい。自分はオクルスとマルメルと均衡を保つ為にそれぞれの国と縁の深いメマリスとルカララを妃に迎えたい。そう自分から願い出たのだ。
例え実の兄弟でも世継ぎの王子とそうでない王子では立場も違う。ゾルトア様はケイホフ様に憧れていたが、兄である世継ぎの王子の妃候補であると分かっており、己の立場を弁えて想いを口に出せずにいたのだ。
最初は前の王様は渋っておられたが、結局はダルマツ様の粘り強い説得が効を奏してゾルトア様とケイホフ様は結ばれたのだ。そうガクはまるで自分の手柄のように自慢気に話したのだ。
そしていたずらっぽい目をすると、私の見立てではきっとお二人の娘のミルカシ様が将来王妃様になられるだろう。私は病だけでなく将来も見えるのだと澄まして冗談を言ったのでトナも思わず笑ってしまった。
トナもミルカシの姿を思い浮かべて大きく頷いていた。普段は都にある離宮に住んでいてたまに王宮に遊びに来るミルカシだが、従兄弟の王子達やレナミルの産んだ王女達とも仲が良く、まだ少女だが父譲りの美しさと母譲りの賢さで既に将来の王妃の風格を漂わせている。そして何より従兄であるルカララが産んだマザンソは美しくて聡明な従妹のミルカシのことが大好きなようで将来は自分はミルカシを妻に迎えると周りに事あるごとに言っているとトナも聞いたことがある。
ゾルトア様だけでなく異母妹のククレア様は南のアズナスの領主の三男に惚れていたが一国の王女様の嫁ぎ先として跡継ぎでもない者など許されない。王様はククレア様の為にその者をマルメルに遣わし外交の任を任せたのだ。そしてマルメルとセルシャの国の友好の為にとマルメルにククレア様を送り込んで、そこで二人は結ばれてしまったのだ。そうなれば父親である前の王様も二人の結婚を認めざろう得ないが、全てダルマツ様が仕組んだことなのだ。
そうガクは言うと、自分は世継ぎの王子という立場上権力の駆け引きの為に相手を選ばなくてはならない。愛する者とは結ばれない運命であろう。それならばせめて弟や異母妹達には愛する者と結ばれて欲しいのだと秘かに私に心の内を明かして下さった時もあったのだ。
だが王様はナトラス様と巡り会えて、本当にお幸せそうで私も安心したのだ。
まるで我が子の事のように幸せそうに目を細めながらガクは王様のことを話していた。
そんな幸せそうなガクにトナは本当のことを伝えるべきなのかと複雑な気持ちを抱いていた。おそらく王様がナトラス様を愛したのは自分がカイに行ったと同じような秘密の刺繍の力の為だったのだと。
ふとトナはレナミルは、いつ王様を愛するようになったのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら歩いていた。
前の王妃様似のゾルトアは線の細い美男子だが、前の王様似の王様はお世辞にも美男子とは言えない風貌だが、今回のガクの話で賢くてお優しい方だということはトナも十分理解した。
ナトラスが王様を深く愛しているというのは前にトナが始めてナトラスと会った時にナトラスからはっきりと感じられた。ただ王様とナトラスはナトラスの刺繍に興味を示した王様からお召しがあり、そしてすぐ王様の命で妃になったのだ。王様に求められれば立場上ナトラスは拒むことはできないので、その時はきっと愛していないのに拒めず妃になったのだろう。
またナトラスは王様の子を、王子を産んで前の王家の血筋を今の王家に入れるという密命の為に王宮に上がったのだ。ある意味王様の妃になったのは二人のお妃様達と同じように使命であって自分の望みではなかったはずだ。
それなのにいったいいつナトラスは王様を心から愛するようになったのだろう。他のお妃様達の前では凡庸な王を装っていた王様もナトラスの前では本当の姿を見せていたのだろうか。
あの任命式以降トナはナトラスと一度も会っていない。ナトラスも今回の王様の決定で何かと慌ただしく、トナのことなど意識にないのかも知れない。
そしてカイとも一度も会っていなかった。
トナが刺繍侍女の棟に着いて中に入ろうとした時にああ、トナ。また薬師の所に行ってきたの?まだ具合は良くならないの?心配げな表情で偶然同じように建物の中に入ろうとしたクハはそう声を掛けてきた。刺繍侍女達にはトナは病名は伏せるが、軽い病に掛かったので治療を続けるとアギが伝えていた。
カイが遠いマルメルの国にいるんじゃ何かと心配で気が休まらないから具合も良くならないわよね。とクハは小さく自分のことばに頷いていた。
そう。今カイは海を越えたマルメルの国にいるのだ。
王様は実は今回の二人の王妃様の任命を秘かにかなり前から考えておられたようで、カイとジモは副衛兵長に任命されるとすぐに秘かに選ばれた大臣と数名の通師や事師や語師と共に一緒にそれぞれオクルスとマルメルの国に遣わされていたのだ。
しかも王妃様の発表の前までは今回の使節の件は内密に伏せられていたので、トナもカイが王宮を離れていたことを知らなかったのだ。
今回の件は全て同じようにオクルスの国にジモが遣わされているクハからトナに伝えられたのだ。
トナ。最近カイの姿を王宮で見ていないでしょ?実はあんたにだけ言うけれど、カイは今秘かにマルメルの国に遣わされた使節の一員としてマルメルに向かっているのよ。ジモも同じように今オクルスの国に向かっているの。そうクハはこっそり打ち明けてくれたのだ。
あのカイからの文はマルメルの国に向かう途中の北の領地のモロタリで書かれた物で、モロタリの飾り物商人から王宮に出入りが許された同じモロタリの商人の男に託されトナの手元に届いたようだ。
トナはクハもジモが遠いオクルスの国に行っているので心配でしょ?そう尋ねるとクハは小さくため息をつくとええ。本当はいろいろ心配なの。と言うと例え一緒に語師が着いて行っていると言っても、言葉も食べ物も全く違う国でしょ?ジモがオクルスの国で苦労していないかと何かと心配なのよ。病に掛かっていないかも心配だし。最もオクルスの方が薬学は進んでいるからそこまで心配しなくてもいいのかも知れないけれど、とまた一つ小さくため息を着いた。
カイとジモがそれぞれセルシャの国に戻って来れないのは、この冬のせいだ。
セルシャの国とマルメルの国の間の北の海は冬の間は風向きのせいか大荒れになるので船は出さないし、セルシャの国と陸続きのオクルスの国との間にそびえ立つ山脈の峠道も深い雪で閉ざされて冬の間は両国を行き交う人もいない。なのでそれぞれカイとジモはまだマルメルとオクルスの国に留まっているのだ。
無論セルシャの国の使節の一員として赴いているのでそれぞれ相手側の国でもそれなりに丁重に扱ってもらっているだろうし、日々の生活で困るようなことは少ないであろう。それでもやはりトナもクハも心配である。
それにね。クハは急に声を潜めるとジモがオクルスで誰か別の人に心を奪われないかと心配なのよ。オクルスの方がセルシャの国より進んでいるから、きっと女の人達も華やかで美しいと思うの。そう小さく苦笑いをした。
クハはその点で言うとわたしよりトナの方が心配よね。カイはジモと違って見た目もいいからマルメルの王宮に仕える侍女の中でカイに興味を示す人も多そうだものね。でもきっと大丈夫よ。カイはトナに夢中だってジモが言ってたもの。一緒にいる時に何度もトナの話を幸せそうに話してたってジモは言ってたし、おまけにマルメルの国に向かう道中から文を送ってくれたんでしょ?わたしモロタリの商人がこっそりあんたの袖に文を押し込んだのに気がついていたのよ。
カイもジモと同じ日に都を発ったから、あんたにあの時に文が届いたなら旅の途中で送ってくれたのね。いいわね。羨ましくなっちゃうわ。わたしなんてジモから都を達つ前日にこっそり今回の任務の話を打ち明けられて、それだから春にセルシャの国に戻るまで文は送れないかも知れないけれど、待っていてくれって言われて、それっきりだもの。一人寂しく待たされるわたしの気持ちなんて分かってないのよ。まあ女心が分かっていないジモだから、オクルスの国でも他の女が振り向く心配もないとは思うけれど。
そう言うと、ちらっとトナの方を見て、トナ。あんたアラに遠慮してるけど本当はあんたもカイのことが好きなんでしょ?
任命式の時にカイが何度もあんたのことじっと見つめていたのにも気がついていたし、あんたもカイを意識してて恥ずかしくて目を反らしてたでしょ?
噂ではアラとカイが想い合ってるって流れてるけど、本当はあんたとカイが両想いなんじゃない。カイもきっとアラとは同じクナクスの出だから親しく話していただけだと思うわ。わたしだって同じパルハハの出の衛兵とは親しく話すけれど、それでも好きにはならなかったもの。
アラに遠慮することなんてないわ。アラなら将来刺繍侍女長になれる刺繍の腕を持ってるし、あの美貌なら副衛兵長じゃなくてもっと高い身分の方にだって見初められる可能性だってあるから心配しなくていいと思うわ。
そうクハはトナに強く言っていたが、トナはぼんやりと遠いマルメルの国にいるカイのことを想っていた。
カイは今何をして、そして何を想っているのだろう。そして今も自分に心を寄せてくれているのだろうか。 ようやくこのセルシャの国も暖かい春になった。メマリスとルカララが自分の王子達の館の隣の館に移り、ナトラスが前の自分の館から王様の館のすぐ隣の館に居を移したので、王宮はまだ何かと慌ただしかった。
トナ達刺繍侍女も早くもこの秋にあるメマリスとルカララの王妃任命式とその後にある盛大な祝宴の為の準備が始まりにわかに忙しくなり始めていた。それも視野に入れてなのか、この春は例年より多く十人もの刺繍侍女見習いが正式な刺繍侍女となった。
オクルスの国に赴いていたジモ達一行も峠の雪が溶けた途端セルシャの国に戻って来ていたが、カイ達マルメルの国に赴いた一行は船が渡れる季節になったのにまだ戻っていなかった。
実はマルメルで1つ問題が起こったのだ。
マルメルの国でセルシャ語を操る王宮の語師の一人がカイのことをえらく気に入って、カイを娘の婿に迎えたいと言い出したのだ。その語師はマルメルの国の語師の中でも一番セルシャ語に堪能なだけではなく、セルシャの国の文化や風習、しきたりにも精通しており、何よりマルメルの国の王宮では貴重な親セルシャ派の者であった。
セルシャの国で異例の抜擢を受けて若くして副衛兵長になったカイに興味を持ち、親しくなり、カイの人柄を大層気に入ったそうだ。
そんな父を持つだけあって娘もセルシャ語を自分の国の言葉であるマルメル語と同じように話せてセルシャの国にも造詣が深く、今回カイ達一行がマルメルに滞在中に何かと世話を焼いてくれたそうだ。
今回の話は船が渡れるようになるとすぐに使節の一行にいる大臣からセルシャの国に伝えられたのだ。
大臣からは、その通師はマルメルの王宮内でも大きな影響力を持つし、両国の関係を思うと今回の話を受けてカイをその娘と結婚させるのが得策かと思う。
カイがマルメルの国や言葉に慣れたらその通師の伝ならばマルメルの国でも衛兵として仕官できるだろうし、そもそもその語師の所には両国の貿易で便宜を図ってもらった礼に多くの商人が金や贈り物を贈っているので、大層羽振りがいいと聞いているので、もしカイが婿になっても仕官せずともやっていけそうだ。
しかし肝心のカイが自分はセルシャの国の王様にお仕えする身なので、残念ながらそれはできないと渋っている。ついては王様にお許しを得て、そして王様からその娘と結婚するようお命じ頂けないだろうか。
そのような文がセルシャの国にいる大臣に届けられたそうで、その噂は瞬く間に王宮内でも拡がった。
もちろんその話はトナの耳にも入ったし、普段と全く変わらない素振りをしているアラの耳にも当然今回の話は届いているだろう。
今回の話は単なる結婚話ではなく、両国の外交話にまで大きく発展してしまっていて、カイ個人の問題ではなくなってしまっていた。
カイはアラがいるから今回の結婚話を受けないのではないか。しかしもはやカイ個人の意志では済まないぐらい大きな話になっている。カイも王様から命が下れば受けざろう得ないだろう。刺繍侍女達の間ではそのように囁かれていた。
刺繍侍女達も皆心配とそして幾分好奇心の混じった目でアラを黙って見つめていたが、アラは周りの騒ぎなど全く耳に入っていないかのように、いつもと変わらず淡々と仕事をしていた。
今アラは何を想っているのだろう。
トナは黙々と刺繍を刺しているアラの美しい横顔をそっと見つめた。
そしてトナとカイのことを知っているクハだけがそんなトナを静かに心配そうに見つめていた。
あれからまた季節も過ぎ、これからセルシャの国は暑い夏になろうとしていた。
クハがジモとの結婚の為に王宮を辞し、そして王室ではガクの予言どおりにメマリスが産んだ王子のマザンソと従妹のミルカシの婚約が発表され、同時にルカララの産んだ王子のセホトルも北の領地のバルスエの領主の娘で前のマルメルの王の孫でもあるサクレレとの婚約が発表された。実際に婚儀を上げるのは数年後だろうが、それぞれ負けず劣らず将来の王妃の座に相応しい娘達で、メマリスとルカララの息子の王座を巡っての水面下での争いは激しくなりそうであった。
そしてカイはまだセルシャの国には戻って来ていなかった。
今回の件でとりあえず大臣や他の使節の一行は一旦セルシャの国に戻り、カイともう一人の語師だけがマルメルの国に残ることとなったのである。
王宮では秋にある王妃任命式や二人の王子の婚約という大きな話題の影に隠れてしまったが、噂ではどうやらカイもその娘のことは嫌いではないが、言葉の通じないマルメルの国での生活を渋っていて、カイをマルメルとの交易船が出る北の領地のサクチリの港の衛兵長に任命して、その娘との結婚後は普段はサクチリの港町で共に暮らし、海が荒れて船が出られなくなる前の秋の終わりに一緒にマルメルに渡って冬はマルメルの娘の実家の語師の元で過ごすのはどうかという案が出ているとトナも聞いていた。
サクチリはマルメルとの交易船の港があるだけにマルメル出身の者が暮らしていたり、セルシャの国の者でもマルメルの国の言葉を話せる者も多く暮らしているし、夫や妻にマルメルの国の者を迎えている者もいると聞いている。そこなら語師の娘もセルシャの国に嫁いで来ても不自由なく暮らせそうだし、故郷のマルメルとも頻繁に行き交いができる。
そこまで具体的な話まで出ているのか。トナは小さくため息をついて刺繍の手を止めた。
今日はトナは勤めが休みの日で一人自分の部屋にいたが、そこでも刺繍を刺していた。
カイが遠いマルメルの国で無事でいますように。そしてカイが幸せになりますように。
そんな願いを込めていつしかトナは勤めが休みの日や勤めの終わった夜に刺繍を刺すようになっていた。 トナ!まだ刺繍を刺していたの?もういい加減今日は終わりにして湯殿に行ったら?
先に湯殿に行っていたジハが部屋に戻って来て、先ほどからまだずっと刺繍を刺しているトナに呆れたように声を掛けた。
確かジハはトナ。先に行ってるわよと声を掛けて部屋を出たようだが、刺繍に集中していたトナは上の空で空返事をしていたようだ。
呆れたようなジハの手前、トナも刺繍の手を止めると部屋を出て湯殿に向かおうとした。もうほとんどの者が湯を浴び終わって寝ようとしている時間なので、廊下を行き交う者もいなかった。
そんな時トナは偶然まるで人目を避けてどこかびくびくと怯えたようにアラの部屋に入っていくミブの姿を見てしまった。
ミブは南のアズナス出身の刺繍侍女で、この春の昇進試験で刺繍侍女見習いから刺繍侍女になった者だ。
例年の試験の基準ではまだ昇進できないと見なされていたが、秋にある新しい王妃様達の任命式で何かと忙しくなるが、クハがジモとの結婚で王宮を辞した他に東のザルドド出身のクリも王宮に仕える事師との結婚が決まり王宮を去った為にミブも見習いから刺繍侍女となったのだ。
また新しく王妃となるメマリスの手前、南のアズナス出身の刺繍侍女もいないといけないが、他にアズナス出身の刺繍侍女達は次々に結婚してしまっていて既に王宮を去っていた為という点もあったようで今回刺繍侍女になれたが明らかに一緒にこの春に昇進した他の者に比べると劣っていた。
いったいなぜミブがこんな夜更けにアラの部屋を訪ねて行くのだろう?トナは不審に思った。アラは普段から必要以上の話をしない為、特に誰かと親しくしていることはないので勤めが終わってから自分の部屋に誰かを招いておしゃべりに興じるということもないし、そもそも北のクナクス出身のアラと南のアズナス出身のミブではそれほど接点がないはずだ。
もしかしてアラに何かいじめられたり、注意を受けているのでは?
トナは例え辛い事があってもいつも笑顔を絶やさないが、少し要領の悪いミブの事が心配になり、いけないとは思ったが、こっそりアラの部屋の扉を音を立てないように注意しながら少しだけ開くと、中の二人に気付かれないように部屋の中の様子をのぞき込んだ。
トナが扉の隙間から中を覗くと、向かい合って座る二人がいてアラがミブの刺した刺繍を丹念に確認していて、ミブはどこか緊張しながらアラの返事を待っているようだった。
するとアラはこの部分は良く刺せているけれど、ここは糸が重なり過ぎて分厚くなっているわ。ほら、ちょっと薄目で周りの他の刺繍と一緒に見てみたら、この花だけ目立っているでしょう?こういう時はこう刺すといいのよ。
そう言うと刺されていた刺繍をほどくと手早く、その部分にアラが刺繍を慣れた手つきで刺し直すとミブに手渡した。アラが直している時もじっと黙ってアラの手元を見つめていたミブは渡された刺繍布を表から裏から丹念に眺めると、何か納得したのだろう。
ああ、そうなのね。と大きく頷いていた。そんなミブを黙って見つめていたアラは文机の所に行くと、何か小さな冊子を一冊取り出すとミブに手渡した。
これは?ミブが訝しげな声を出しながら冊子をめくり中に書かれた内容を確認すると、これは!と驚きの声を上げた。
そんなミブにアラは黙って頷くと、ここに書かれた事はわたしがアギ様やカサ様や辞めていった他の刺繍侍女達で刺繍が上手だった人から見聞きした事を自分で纏めたのよ。わたしはここに書かれた事は全て習得して身につけたから、次はあんたがこれを読んで、これと同じように練習して、この技を身につければきっと他の人に見劣りしないようになれると思うわ。
今回の昇進はメマリス様とルカララ様の王妃様の就任式に向けてだけど、このままの刺繍の腕だといずれ降格されてまた元の刺繍侍女見習いにされてしまうわ。
あんたは故郷に病気の父さんと幼い妹や弟達がいて、あんたの仕送りが家族を支えてるって聞いてるわ。今回の任命式の刺繍でアギ様やカサ様、他の侍女達にもあんたの実力を認めさせないと。
静かだが、はっきりとした意志のこもった声でアラはミブにそう伝えていた。
アラにそのようなことばを掛けられたミブはうっすら瞳に涙を浮かべて、こくこくと小さく何度も頷くと涙で少し上ずったような声でアラ。ありがとう。と礼を言っていた。
その瞬間、トナの中で何か大きな光が弾けた。そんな気がした。
トナはそっと扉を閉めると急いである場所に向かって小走りで走って行った。
こんな遅い時間なので、もう休んでしまったかも知れない。
そう思いつつもトナは小さく扉を叩いてみると、起きていたのだろう。すぐに小さく扉が開いて中からこの前のような華やかな衣ではなく、いつも見慣れた漆黒の衣を身に纏ったアギが顔を覗かせると、トナか。こんな遅い夜更けにどうしたのだ。そう言いつつもトナを部屋の中に招き入れてくれた。
そしてトナを席に座らせるとこの前と同じようにクチャの茶を淹れてくれるとトナに薦めて、自分もトナの正面に座るとクチャの茶を口に運んで一口飲むと、さて、トナ。どうやらお前は何か決断したようだな。そうトナに微笑み掛けながら呟いた。
まったくアギにはすべてお見通しらしい。トナは小さく息を吐くと、アギ様。わたしはこの王宮を去ろうと思います。
そうトナはアギに先ほど自分の中に閃いた想いを伝えてみた。
そんなトナにアギはそうか。そう決めたのか。と小さく頷くとなぜそう決めたのだ?と尋ねてきた。
トナは先ほどわたしはアラがミブに人目を避けてこっそりと刺繍を教えているのを見て気がついたんです。刺繍侍女長にふさわしいのはアラだと。
確かに刺繍師は刺繍侍女長でもありますが刺繍師として王様や王妃様の願いを叶える為に刺繍を刺すのは長い王宮生活でたった一度あるかないかです。それよりも毎日刺繍侍女長として皆を見守り支えていく方がどれだけ多いことか。そう考えるとアラはミブが家族の生活を支える為にこれからも刺繍侍女としてやっていけるように人知れず手助けをしてあげていて、しかも出身地の北とは仲が良くないとされる南の者のミブを助けてあげている。アラは将来刺繍の腕はもちろん、きっと皆を支える素晴らしい刺繍侍女長になるでしょう。
そうトナは自分の想いをアギに伝えてみた。
そうか。そうアギは頷くと、しかしトナ。刺繍侍女長になれなくとも副刺繍侍女長として王宮に残ることもできるのだぞ。そうアギは尋ねてきた。
前にアギとこの部屋で話した時にアギはトナに三つの道があると言っていた。このままに王宮の刺繍侍女として残るのか、王宮を去るのか、それともカイと共に生きる道を選ぶのか。
しかしカイは遠いマルメルの国から戻って来ずにいた。
アギ様。わたしはこの王宮に何かに導かれるようにやって来て、そしてアギ様の仰るように既に刺繍師としての勤めを果たしたならば、アラという次の刺繍侍女長にふさわしい者がいてくれる以上ここに残る理由がありません。わたしが王宮に刺繍侍女として残りたいと思ったのはアラに追い付きたいという想いからでした。でももうその想いも先ほどのアラの姿を見た時にああ、わたしはアラには一生追い付けまいと悟ったんです。そう静かに、少し寂しそうにトナは微笑んだ。
そんな気分を払うように少し明るい声で、わたしはこの王宮とタスカナしか知らずに生きてきました。この王宮に来てセルシャの国にはもっといろいろな場所があり、そこで暮らしている人々がいると知りました。わたしはもっと他の場所というものを知りたくなったのです。前は産まれ育ったタスカナからこの王宮に何かに導かれて来たけれど、次は自分でわたしの次の居場所を探したいのです。
そうトナはアギに想いを伝えてみた。その時のトナの瞳の奥はまだ見えぬ未来に向けての期待で輝いていた。
そうか。トナ。そうアギは頷くと、ただ一度王宮を去ると決めたらお前はもう二度と王宮には戻れないのだぞ。それでもいいのか。今日は夜も遅い。一晩じっくり考えてみるがいい。それまで今の話は私の心の中だけにとどめて置こう。そう返事をした。
そう。トナが王宮を去る時は表向きは病で王宮を辞したことになり、それは王宮に仕える侍女としては不名誉な事で、王宮に使える者の記録にもそのように記され、二度と王宮に仕えることはできなくなってしまうのだ。
トナはアギの温かい気遣いに黙って大きく深く一礼をするとアギの部屋を辞した。
トナの姿が見えなくなるとアギは急いで部屋を出ると足早に夜の王宮の闇の中に消えて行った。
翌日トナはいつもと同じように勤めに出て、刺繍を刺し、勤めが終わると自分の部屋でジハと共にいた。
ただいつもと違うのは最近はずっと刺していたカイを想っての刺繍は刺さずに、前のようにジハと湯を飲みながら、ただおしゃべりを楽しんでいた。
最近はトナが刺繍を刺している事も多かったので久しぶりにいろいろ話せるのでジハも楽しそうであった。
ねえ、ジハ。ジハの故郷のオスハデってどんな所なの?そうトナが尋ねてみるとそりゃ、私にとってはいい所よ。そう言うとジハは次々に故郷のオスハデの話を始めた。南の中でも比較的都に近いオスハデは濃厚な酒が名産で、秋にはその収穫を祝う祭りがあるそうでジハは楽しそうに祭りの踊りや歌を披露してくれた。またオスハデに伝わる怖い昔話などを話してくれてトナを驚かせたりもした。
このセルシャの国には南も北も西も、そして自分の出身でもある東でもトナはタスカナしか知らない。同じ東の領地のナトラスの産まれ育ったザルドドにすら行った事がなかったのだ。
ひとしきり話が終わるとジハは、明日も勤めがあるからもう休みましょう。と寝る為に敷布を敷き始めた。
トナはとっさに、あ、ジハとの話が楽しくてアラの所に借りていた手巾を返しに行かなくちゃいけないのを忘れてたわ。ジハ。すぐに戻るから先に休んでいてと嘘をつくと部屋を後にしてアギの部屋にそっと向かった。
アギはトナが尋ねて来るのが分かっていたのだろう。昨晩と同じように漆黒の衣姿で出迎えてくれた。それは刺繍侍女長としてトナの話を聞くというアギの想いからだろう。
今晩はトナを席に座らせると茶も出さずに、単刀直入に決めたのか。とだけそう短く尋ねてきた。
トナは、はい。アギ様。やはりわたしは王宮を去ろうと思います。とはっきりと意思のこもった声で伝えた。アギはそんなトナに大きく黙って頷くとおもむろに懐から一通の文を取り出して、トナの目の間に静かに置いた。
読んでみろと目線だけで静かに促され、文を手に取って中を確認すると、そこにはタスカナのオリヅの出の刺繍侍女のトナは気病に掛かり、この王宮にいては治る見込みがない。ついてはこの者はこれ以上刺繍侍女としての勤めを果たせないので王宮から去ることを命じると、薬師長としてのガクの署名と王宮の刺繍侍女長としてアギの署名が記されていた。
アギはお前は王宮のしきたりに従って病で王宮を去ることとなる。その場合はお前も分かっているな。王宮の侍女としては不名誉なことで皆に見送られず人目を避けてひっそりと黙って静かにこの王宮を去らねばならない。無論周りの者達に別れの挨拶すらできないのだぞ。そう念を押したが、トナは黙って小さく頷いた。
そうか。それならば明日、人目を避けてこの王宮から去るが良い。私は見送りには行けぬ。今日ここでお前と会うのが最後となる。トナ。これからはお前の望むように生きるが良い。
そう言うと、王宮から辞した後は一先ずダサルにある刺繍侍女の館に向かうが良い。いつお前が着いてもいいように既に使いを出して館の者には伝えてある。ダサルの町の広場の側に赤い屋根の美しい館がある。そこが刺繍侍女の館だ。迷ったら町の者にミクジの花の館はどこにあると尋ねれば、すぐに教えてくれるであろうと事務的に伝えると、一旦そこに落ち着いたら私の故郷でもある西のパルハハに向かうと良い。パルハハは良い所だし、余所者にも優しいのだ。特に王宮から去った者には優しい地だし、それにお前も知っているように西の者は皆着道楽だ。お前の腕ならどこぞの布屋で雇ってもらえば、きっとすぐにその地で生きていけるであろう。
そう優しく微笑みながら話してくれ、最後に彼の地でまた新しい出会いも待っているかも知れないしな。と優しく声を掛けてくれた。
トナは文を懐にしまうとアギ様、今までお世話になりました。本当にありがとうございます。そう泣きそうになるのを堪えて深く一礼するとトナはアギの部屋から去ろうとした。
そんなトナにアギはトナ。恐らく会えないとは思うが、あの方の館の前で一礼してあの方にもご挨拶をしてから王宮から去るが良い。お前の事を気に止めてくださっていた時もあるからな。そう背中越しに声を掛けてきた。
トナは振り返らずに小さく頷いて、アギの部屋を去った。 翌日トナは朝から具合が悪い振りをして勤めを休んだ。
トナ、本当に大丈夫なの?早く薬師の所に行って薬を貰ってくるのよ。今日はなるべく早く戻るからね。そう心配そうにあれこれ言ってくれるジハにトナは申し訳ない気持ちでいっぱいで声には出せないが心の中で深く詫びていた。
刺繍侍女達が勤めに出て刺繍侍女の棟がひっそりと静かになるとトナはそっと文をしたため始めた。
ジハ。ごめんなさいから始まる文には自分の病は王宮にいては治らないので黙って王宮を去ることになったこと、今までの感謝の気持ち、そしてこれからも刺繍侍女として頑張って欲しいと綴り、クタが王宮を去る時にくれた髪飾りをそっと文に添えて、クハからもらった髪飾りでこれを持っているといいことが起こるとクハに言われた。なのでこれはジハに持っていてもらいたいと文には書き添えた。ジハの文机の上に文と髪飾りをそっと置いた。
そしてもう一人。この王宮でトナが一番今までの礼を伝えたい。それはアラだ。
時に一緒に喜び、悩み、そして苦労して共に刺繍侍女見習いから刺繍侍女になり、そして同じ人を好きになった。アラの刺繍の才能に追い付きたいと願ったりカイとの仲を嫉妬したこともあった。
文紙を前にすると過去の様々な記憶がまざまざと甦ってくるが、何から書いていいのか、どうこの想いを伝えたらいいのか分からず一向に文が書けないでいた。トナは大きく息を吐くと、そっと刺しかけの刺繍の布を手に取った。カイを想ってトナが刺していた布だ。アラ。わたしはここから去るけれどカイのことと、刺繍侍女のことはあなたに任せたわ。そう刺繍の布を胸に抱くと心の中で呟いた。
きっと何も言わなくてもアラはこの刺繍の布を見て分かってくれるだろう。
トナは何も書いていない文紙の中にそっと刺繍の布を包むと手に取り、そしてささっと纏めた自分の荷物も手にすると、静かに自分の部屋から去って行った。
トナはアラの部屋の机の上に包みをそっと置いて刺繍侍女の棟を出ると、刺繍侍女の棟の前で建物に向かって大きく一礼した。その途端に初めてこの王宮に上がってアラやジハ、クタやアギやカサと出会った時のことが甦って来て涙が瞳に浮かんで来た。慌てて手の甲で涙を拭うと涙が溢れないように足早に刺繍侍女の棟から立ち去った。
トナが次に向かったのはナトラスの館だ。無論ナトラスの館に向かったからと言ってもナトラスと会えるはずはなかった。ナトラスは今ではこの王宮の女主人で何かと忙しいし、元々王様のお妃様と一介の刺繍侍女では身分が違い過ぎる。
きっと会えないだろうとは分かっていたが、ナトラスに遠くからでも礼を言ってからこの王宮を去るのが筋だろう。それにアギからも同じように言われていた。トナはナトラスの館の前に着くと地面に手にしていた荷物を置くと、深く黙って一礼した。その瞬間トナの頭の中には始めてナトラスと出会った時の事や自分に秘密を打ち明けた時のナトラスの姿が甦ってきていた。
どれだけ頭を下げていただろう。ようやく身体を起こして荷物を手に取り、踵を返した時だった。
待て!待つのだ!遠くから慌てたような大きな声と息をぜいぜい荒くして一人の若い侍女がトナの方に向かって走ってきた。
良く見るとトナとクタを茶に招いてくれたナトラス付の若い侍女である。
全速力で遠くから走ってきたのであろう。はあはあと荒い呼吸のまま、トナ。お前が現れたらすぐにでも知らせるのだとナトラス様から厳命されたのだ。ナトラス様はお前をお待ちだ。本当は今日は北の領主の奥方様達と昼食を共にする予定だったのに、お前の為に急にそれを断ったのだぞ。さあ、早く中に入るのだ。そうトナを促され、ナトラスの館に入った。
そして館の中でもナトラスの自室と思われる奥の部屋に通されると、すぐにナトラスが部屋に現れた。
トナがナトラスと会うのはあのカイの副衛兵長の任命式以来なので、あれから半年以上が経っていた。
久しぶりに会うナトラスは相変わらず美しく、そして前より一層威厳に満ちて王妃の風格を漂わせていた。しかしそんなナトラスだが良く見ると美しく化粧を施しているが目の下にうっすらとくまがあり、どこか憔悴した表情であった。やはり王宮の女主人ともなるといろいろトナの知らない所で気苦労も多いのかも知れない。
トナの前の椅子に座るとナトラスは私のせいなのだな、トナ。とどこかトナに赦しを乞うような震えた声で小さく呟いた。
思いがけないナトラスのことばにトナが大きく目を見開いてナトラスを見つめると私がお前にあんなことを伝えてしまったのでお前は苦しんでいるのだな、トナ。そう言うと許して欲しい。トナ。済まぬ。そうどこかすがるような眼差しでトナを見つめてきた。
きっとナトラスもトナにあの秘密の刺繍の事を打ち明けてしまってから後悔していたのだろう。けれど結局、秘密の刺繍を刺すと決めたのはトナなのだ。
トナは大きく頭を振ると、ナトラス様、お止め下さい。結局あの刺繍の件はわたしが決めたのです。カイを自分に振り向かせたい。そうわたしが思ってあの刺繍は指したのです。ナトラス様のせいではございません。そうどこか優しく、まるで聞き分けのない子を優しく諭す母のようにトナは優しくナトラスに声を掛けた。
そんなトナにナトラスは今朝急にアギが火急の用があると言って私の元を訪ねて来たのだ。私は自分の館ではなく領主の奥方達との昼食会の為に宮殿にいたのだ。やっとアギと会えたら、お前は気病で王宮を去ると言うではないか。慌ててルカララ様に領主の奥方達のお相手を頼んで館に飛び帰って来て、宮殿から館に戻る途中に急いで侍女を刺繍侍女の棟に使いとして送ったら、お前は部屋に文の残して既に立ち去っていると言うではないか!急いでそれぞれの四つの王宮の門へ侍女達を送って、何としてもお前を引き留めてここに連れてくるよう厳命したのだ。
お前が気病に掛かってしまったのは、カイの心を刺繍の力で自分に向けてしまったからと悔やんでいるのなら、それは違うのだ、トナ!あの者は刺繍の力でも何でもなくお前が好きなのだ!
そうナトラスは叫んでいた。
カイは刺繍の力ではなく自分のことが好きだ?
思いがけないナトラスのことばにトナは呆然とナトラスを見つめ返してしまった。
そんなナトラスは済まなそうな表情を浮かべると、私はお前に自分の姿を重ね合わせしまっていたのだ。それ故にお前にも愛する人と結ばれて幸せになってもらいたいと思って、あのような事を伝えてしまったのだ。しかし後になって私は後悔したのだ。そんな刺繍の力を使って愛する人の心を向けていいのか、それで本当にトナは幸せなのかと。
ナトラスのことばにトナは驚いてとっさにそれでナトラス様は王様のお心をご自分に振り向けたのではありませんか!そう身分も弁えず叫んでしまった。
そんなトナの声にナトラスは小さく頭を振ると、そうではない、トナ。きっとアギはそうお前に伝えたのであろうが実は違うのだ、トナ。王様はずっと昔から私を黙って見守って下さっていて、そして秘かに愛して下さっていたのだ、トナ。
そしてナトラスは全てを打ち明け始めたのだ。それはナトラスと王様だけが知る秘密の話だった。
王様は幼い頃、孤独であられたのだ。お父上である前の王様もお母上である前の王妃様もご自身の事やゾルトア様のご病気の事で幼い王様は関心を向けられずに寂しくお育ちになったのだ。
王様は幼い頃、病がちなゾルトア様や気鬱な王妃様をお救いする為に薬師になろうと心に決められ、王宮の図書室に足しげく通われて、昔の書物を紐解かれていたのだ。そこには王宮でも王様と世継ぎの王子様にしか読む事が許されていない秘密の書があるのだ。そこで王様は隠された歴史についてお知りになり、興味を持たれ、同じようにそれを代々伝えられている刺繍侍女長を秘かにお呼びになって話をお聞きになったのだ。
その刺繍侍女長こそが私の教育係であり、お前の母が出会ったトクだったのだ。
その言葉にトナは思わず目を見張った。ナトラスは大きく頷くとトクは見かけこそ冷たい者に見えるが本当はとても温かく情の深い者なのだ。たまたま偶然旅先で出会ったお前の母が愛する者と結ばれて欲しいと思い知恵を授けたように、幼いのに母上や弟の為に薬師になりたいと世継ぎの王子として必要な勉強だけでなく薬学まで学ばれている幼い世継ぎの王子様を不憫に思い、心を寄せたのだ。
王様はそんなトクを秘かに母のように慕い、いつしか二人は秘かに深い絆で結ばれていったのだ。
そう、それは王様が十二才になられた頃の事と聞いている。王様はお父上である前の王様に自分は薬師となって病の者達を救う道に進みたいとお申し出になったそうだ。しかしお父上は無論本気とは思わず、何をふざけた事を言っているのだ。お前はこの国の世継ぎの王子なのだぞ。お前には私の跡を継いで王になる以外の道はないのだ。全く寝ぼけた事を言うのではない。周りの者達はいったいお前にどんな教育を与えていたのか。
それよりそろそろお前は世継ぎの王子として婚姻を決めなくてはならない。ああ、相手は私が将来の王妃にふさわしい娘を選んでやるからな。何。例え王妃が気に入らなくとも王となれば他に気に入った者を何人でも妃に迎える事ができるから安心するが良いと言うと、一方的に話を終えて、まだ呆然とされている王様を一人残して寵妃であったサラトメ様の館に向かわれてしまったそうだ。
王様は自分には将来の道も、そして妻も自分で選ぶこともできないのだとお知りになって、酷く塞ぎ困れたそうだ。その後王様は全てを諦めてご自分の宿命をお受け入れになって将来薬師になる夢はお捨てになったのだ。お妃様の候補を最初北のモロタリの領主の娘のケイホフ様の名前が上がっていたが、王様は弟のゾルトア様の恋心を叶えてご自分はオクルスとマルメルの国との関係を保つ為にメマリス様とルカララ様との婚姻をお決めになったのだ。
そして王様がメマリス様とルカララ様、お二人と結婚された後だ。その時はまだ世継ぎの王子様のままだったが、ついにトクは刺繍侍女としての任期を終えて、次の刺繍侍女長はアギと決めて王宮を去る事となったのだ。
王様はトクに王宮を去った後はダサルにある元刺繍侍女長の為の館に住むように。たまに自分も人目を忍んで王宮の外に出て会いに行くと伝えると、トクは首を横に振ると私は刺繍師としてもう一つ役目を果たさなければならないようでございます。そう王様に伝えたのだ。
実はコヌマにいる元の王家の末裔の者からもうすぐ出産を控えているが、薬師の見立てでは腹の子は女の子らしい。もしかすると将来娘を育てるのにお前に手伝って貰わねばならなくなるかも知れない。ついては一度コヌマに来て欲しいのだと文を受け取ったのでございます。刺繍師の役目に前の王家の末裔を見守り、必要な時は手助けをするようにとございます。どうやら今がその時のようでございます。ついては私がコヌマに行くのをお許し下さい、ダルマツ様。そうトクは願い出たのだ。
王様は慕っていたトクがコヌマに行かれるのを寂しく思われていたし、何より今の王家には決してコヌマの地には足を踏み入れてはならぬという言い伝えが残っているのだ。
そこで王様はトクの願いを叶えるのにトクに一つ条件を出されたのだ。コヌマの地からも月に一度は必ず自分に文を出して無事に暮らしているのか近況を伝えるようにと。
そしてすぐに秘かにザルドドの領主にも手を回し、トクがコヌマの地で暮らすようになってからも王様とトクの交流は続いたのだ。トクがコヌマの地で一生を終えるまでずっとな。
それは無論私が産まれて王宮に上がるまでずっと続けられていたのだ。王様は都から遠く離れたコヌマの地で暮らすトクを案じて、秘かに都から珍しい食べ物やオクルスの王から贈られた貴重な茶や薬、同じようにマルメルの王から贈られたから塩や魚の塩漬け、南のオスハデの酒や西のキヌグスの絹の布地やパルハハの刺繍糸、北のモロタリの飾り物などコヌマの地ではめったに手に入らない物をザルドドの領主を通じてトクに届けていたのだ。
そして私もトクを通じてそれらの物を受け取っていたのだ。もちろんその頃はよもや遠く離れた都にいる会ったこともない王様が贈ってくれた物とは知らずにいたがなと、少しナトラスは苦笑いをした。特に私は幼い頃呼吸が浅かったのか度々息が苦しくなっていたのだが、トクを通じて王様が秘かに前の薬師長のタヌに命じて薬を調合させて送ってくれていたのだ。
そう言うとそれだけではなく王様は秘かにトクから私の話を全て聞いていて、自分と同じように自分の宿命から逃れられない定めの私を哀れに想い、そしていつしかお心に留めて下さっていたのだ。そうナトラスはトナに明かしたのだ。
思わずトナは、では、ナトラス様の刺繍の力ではなく王様は。と震える声で尋ねるとナトラスは大きく頷いた。
ナトラスはトナに大きく頷くと、私がついに王宮に上がる時にトクは秘かに王様に文を送っていたのだ。
私が今まで育ててきたトナがササと名を変えて、ついに王宮に上がる事となりました。自分の故郷で生きていく事さえも許されない哀れな娘です。私の最初で最後のお願いでございます。せめてあの子がこれから王宮でささやかでもいいので幸せに暮らしていけるよう影で見守ってあげて下さい。そう綴られていたそうだ。
そしてトクは同じように自分の後に刺繍侍女長となったアギにも私の事を頼んでくれていたのだ。アギに私が縁あって面倒を見た元の王家の末裔の娘のササという娘が王宮に上がる事となった。王宮であの子を見守ってやり、そして詳しい事情は明かせないが然るべき時が来たらササにダルマツ様の衣の刺繍を任せてやって欲しい。お前ならそれがいつなのか分かるであろう。そう頼んでいたそうだ。これは私が王様の妃となった後にアギから打ち明けられたのだがな。そう小さく少し懐かしそうな遠い目をして笑った。
私はそんな事はつゆ知らず王宮に上がったのだ。王宮に上がってから後で考えると全て影で王様とアギがそのように取り計らってくれていたと分かったのだが、最初から刺繍侍女見習いではなく刺繍侍女になったし、部屋もすぐに個室が与えられたのだ。
それも裏で二人が糸を引いていたようで王宮に上がる時の診察から私の診察は普通の薬師ではなく、薬師長のガク自らが行ってこの者は昔患った呼吸の病の為に他の者と同室ではなく別の部屋で暮らさせるようにと命を下したそうだ。あの時もなぜこんな偉い方が私のような一介の刺繍侍女の診察をするのか謎に思ったのだが私もその時もガクに上手くかわされて分からなかったのだ。刺繍侍女担当の担当の事師のサズはしきりにこの命に首を傾げていたようだがなとナトラスは少し気難しいサズの顔を思い出したのか少し笑いながら話を続けた。
そうやって私は二人に秘かに守られてこの王宮に上がって三年目の十七才になった時だ。ついにアギから世継ぎの王子のダルマツ様の衣の刺繍を刺すようにと命じられたのだ。
アギは私が何か刺繍に細工するのだろうと気がついていたのだろうが、トクとの約束を果たす為にダルマツ様の衣の刺繍を刺す機会を私に与えてくれたのだ。
私はついに自分に課せられた役目を果たす時が来たと観念したのだ。そこでトナ。私はお前と同じように王様の、その時はまだ世継ぎの王子様のダルマツ様であられたが、王様の衣の刺繍の中に私の髪を埋め込み、あの方を想って刺繍を刺したのだ。もっともあの時はお前のように愛しく想って刺していたのではなかったがな。それでも相手の事を想って刺していたのには違いはない。そしてその衣は王様のお手元に届けられたのだ。
それから一月ほど経ったある日の事だ。急に世継ぎの王子様付の侍従長が刺繍室に現れると刺繍侍女長のアギはおるか?と声を掛けたのだ。ちょうどその時アギは不在で、代わりに副侍女長のカサがめったにない出来事に訝しがりながら答えると、ダルマツ様がこの前の自分の衣の刺繍は見事な出来映えであった。これを刺したササという刺繍侍女はどんな者かと興味を示されたので、急いで支度をさせて離宮におられるダルマツ様の元に来させるのだ。と言うとくれぐれも失礼のないように準備させるのだぞ、良いなと強く念を押すと急いで刺繍室から出て行ったのだ。
そうナトラスはその時の様子を思い出したように少し遠い目をしながら話した。
世継ぎの王子様が侍女に興味を示されたという事はつまり王様と一夜を共にするという事ぐらいはナトラスにも分かっていた。
ついに自分の使命を果たす時が来たのだ。これから自分は愛してもいない二十も年上の男に身を捧げるのだ。ナトラスは大きく息を吐いて、そして目を瞑った。
周りでは慌てたカサや侍従長の連絡を受けて現れたのであろう。周りにあまたの美しい侍女達がいても関心を示されなかったダルマツ様が侍女を所望されたという事で世継ぎの王子様付の侍女長や副侍女長や位の高い侍女達が次々に現れて、ナトラスはまるで人形のようにされるがままにあっという間に美しく飾り立てられて、世継ぎの王子であるダルマツの待つ離宮に送られたのである。
世継ぎの王子のダルマツの寝室に通された時にナトラスは思わずこれから自分の身に起こる事を想像して小さく震えたが、もう自分には逃げる事すらできないのだ。ナトラスは己の運命を呪った。
ナトラスを部屋に案内した侍女長はダルマツ様は間もなく参るのでここで待つようにと椅子を示すとくれぐれも粗相のないようになと強く念を押すと部屋に一人ナトラスを残し静かに去って行った。
どれだけ待ったのだろうか。実際はそれほど長い時間ではなかったのだが、ナトラスにとっては永遠にも感じられるほど長い時間であった。
ほどなくするとダルマツが一人で部屋に入って来たのが分かった。足音がだんだん自分に近づいて来て人の発する気配もはっきり感じられる。ナトラスはこれから起こる事に緊張しながらも、なるべく平然を装おうと小さく息を吸って吐き自分で自分を諌めた。
大丈夫。大丈夫。
そんなナトラスにダルマツはゆっくり近づいてきてナトラスの正面に立つと温かい笑顔でこう一言言ったのだ。
トナ。待っておったぞ。
ナトラスは驚きのあまり思わず目を丸くして椅子から立ち上がってしまったのだ。
そんなナトラスをダルマツはにこにこと笑いながら楽しそうに眺めていたのだ。
ダルマツは驚きのあまり椅子から立ち上がってしまったナトラスの頭をその大きな手のひらで優しく撫でるとトナ。そなたの話は全てトクから聞いているのだ。トクはそなたには明かしていなかったので知らないとは思うが、私はトクが王宮に仕えている頃から仲が良く母のように慕っていたのだ。トクがコヌマに赴いてからも私達の交流はずっと続いておりそなたの話は全てトクから聞いていたのだ。
そうダルマツは明かすと少し哀しそうな目をして、そして今回そなたがなぜ王宮に上がったのかも聞いている。けれどそなたはまだ若いし、それに美しい。何も二十も年上の他に妃も二人も子供のいる愛してもいない男のものになる必要はないのだぞ、トナ。宿命などに縛られず自由に生きるが良い。
そなたが望むなら私は豊かな暮らしでも、好きな者がいるのならばその者と結び合わせることもできる。もし王宮を去ってどこか別の場所で暮らしたいのならばその地の領主に上手く話をつけるので何も心配することはない。何か望みはあるか、トナ?と優しく尋ねてきた。
ナトラスは慌てて首を横に振るとダルマツは優しく微笑むとそうか。もし急過ぎて今は思いつかなくても、もし思い出したら私に言うが良いと微笑んだ。
ナトラスは思いがけない言葉に戸惑って少し震えた声でどうしてダルマツ様が始めて会った私にそのように優しいお心を掛けて下さるのですか?と尋ねるとトナ。私は本当は世継ぎの王子ではなく、ただの薬師となって病で苦しんでいる人達を救って、そして愛する者と共に暮らしていきたいと思っていたのだ。この王宮での寂しい日々の暮らしの中でその夢のお陰で生きて来られたのだ。
しかし私は薬師になる事も、愛する者とも結ばれる事も叶わなかったのだ。私は全てしがらみを捨ててこの王宮を去って生きていく道は選べないで、結局世継ぎの王子としての宿命を諦めて受け入れて生きてきてしまった。
トクからそなたの話を聞いた時にそのトナという娘も自分と同じように代々受け継がれた長い歴史に縛られ、宿命から逃れられずに生きていくのかと、まだ見ぬそなたを哀れとも、そしてどこか自分と似ているとそなたに自分の姿を重ね合わせていたのだ。
幸い今の私にはそなたを幸せにはできないとは思うが、望む暮らしを叶えてあげられる力だけはある。それならせめて自分の宿命に逆らえず、今まで辛く寂しい娘時代を送っていたそなたに私ができるだけの事をしてやりたい、そう思ったのだ。 そう言うとダルマツはそなたが刺した刺繍の衣は大切に閉まってあって身に付けていないのだ。これからたまに眺めてそなたとそなたを育てたトクに想いを馳せるのだろうなと少し寂しそうに言うとナトラスに優しく微笑みかけ、今日はもう遅い。そなたはここでゆっくり休むと良い。と言うと部屋から出て行こうとした。
ダルマツ様は私の刺した刺繍の衣を身に付けていない?ならば刺繍の力ではなくダルマツ様は私に興味を示された?それはトクが幼い頃からの自分の話を全てダルマツ様に明かしてくれていたからなのか?
驚いて何も言えずに立ちすくんでいるナトラスにダルマツは私は別の場所で休むのでゆっくり休むのだぞ、トナ。そう笑い掛けると部屋から出て行ってしまった。
そうは言われたがあまりの事に事態が飲み込めず呆然としていて、おまけに広くて豪華な部屋や寝台に慣れずになかなか寝つけず結局眠りに落ちたのは明け方近くであった。
ナトラスがようやく目を覚ました時はもう日もすっかり高くなっていて、慌てて寝台から飛び起きた。勤めに遅刻してしまった!日が登る前にダルマツ様の部屋を退出して門の所に来れば王宮まで送ると、昨日離宮に向かう際にダルマツ付きの侍従から言われていたのだ。
ナトラスが起きた気配を感じたのか、昨晩この部屋にナトラスを案内したダルマツ付きの侍女長が、昨晩とは打って変わった恭しい態度でナトラスに一礼すると、お目覚めですか、ササ様。と声を掛けた。
ササ様?
なおも事態が飲み込めずにいたナトラスに向かって侍女長がダルマツ様からササ様はお疲れのご様子なので起こさずゆっくり休ませてやるのだ。とのご命令がありましたのでササ様が起きてこられるのをお待ちしておりました。と言うと侍女長はササ様。あなた様は本日正式にダルマツ様の妃になるとの命が下りました。ついてはこれからはササ様ではなくダルマツ様がナトラス様という新しいお名前で呼ぶようにと命じられましたので、これからはナトラス様とお呼び致します。おめでとうございます、ナトラス様。そう恭しい態度で告げたのだ。
ナトラスは呆然と侍女長の話を聞いて、立ちすくんでしまっていた。
最初から選ばれて王宮に嫁いで来る領主の娘や貴族の娘達とは異なり、王様や王子様が侍女をお気に召しても、一夜の仮初めの相手やほんの一時の相手で終わってしまう時もあり、そういった場合はそれなりの金品が渡されて関係が終わってしまうとナトラスも聞いた事があった。
もしその侍女が王様や王子様の子を身籠った場合や特にお気に召して正式に妃にしたいと望まれれば妃となるのだ。
自分は昨晩はダルマツ様のお相手も務めていないのに正式に妃になった?
呆然としたままのナトラスに侍女長は、その旨は既に刺繍侍女長のアギにも伝わっているのでナトラス様はこのまま王宮には戻らずこの離宮にお住まいになって頂きます。ナトラス様の前のお部屋にあった物は全てこちらに引き取りますし、衣や飾り物は世継ぎの王子様の妃としてふさわしい新しい物を揃えますのでご安心下さい。ナトラス様の館やお付きの侍女達も準備が整っておりますので、どうぞこちらへお越し下さいませ。と恭しく案内された。
事態が飲み込めない内に世継ぎの王子の妃となり、その二月後には前から病がちであったダルマツの父である王様がついに退位をされると発表され、ダルマツが王に即位して、それに伴いナトラスはあっという間に王様の妃の一人になったのである。
そして離宮から王宮に移り住むと他の二人の妃のメマリスやルカララと同じように王の妃の一人として周りから丁重に扱われた。
新しく王に即位されて王様は世継ぎの王子の時以上に忙しくなったが、それでも忙しい合間を縫ってナトラスの部屋に訪ねて来て、王宮での生活に不自由はないかと尋ねてくれたり、そなたには季節の変わり目に喉を痛めやすいので注意するようにと薬師を差し向けてくれたりと常に何かと気に掛けてくれていた。
既に王宮内では今まであまたの美しい侍女達にも興味を示されなかった王様が自ら求めてすぐに正式な妃となり、離宮にいる世継ぎの王子様のときだけでなく、即位されてお忙しいのに足しげくナトラス様の館に立ち寄っておられる。ナトラス様は王様のご寵愛を一身に受けている。そう囁かれていたが王様は夜にナトラスの館を訪ねて来ても決して寝室を共にする事はなかったのだ。
ナトラスはただ温かい王様の庇護の元で王宮内で恵まれた生活を送っていたのだ。
しかしナトラスは常にそんな今の自分に違和感を感じていた。自分はこんな生活にふさわしくない。それに私はずっとこの王宮に来てから周りを欺いて生きているわ。名前を偽り、過去を隠して、そして今は私を周りは王様の寵妃と言うけれど本当は寵妃どころか何もないのに。
豪華で恵まれた環境の中にいてもナトラスは逆に満たされない想いを抱いていた。
毎朝起きると侍女達の手によって美しく着飾られ、王様が館に顔を出すと共に昼食や夕食を共にしたり、茶を飲みながら何気ない会話を交わす。それ以外はただぼんやりとやる事もなく時間を過ごしていた。
他の二人の妃であるメマリスとルカララは名門貴族の娘だけあって王様の妃として政治や外交にも関与しているようで、領主や貴族の奥方達やオクルスやマルメルから来た者を招いての茶会や昼食会などで忙しそうだし、それぞれ養育係がいるが、自分の息子の王子達の養育もある。
それに引き換えナトラスは刺繍侍女の頃は毎日勤めとして次々に刺さなければならない刺繍があったり、部屋の掃除や洗濯は自分で手が空いた時間や勤めが休みの日に行わないといけなかったが、王様の妃となった今ではそれもない。空いた時間に自分はなぜここにいるのかと自問自答を繰り返していた。
ナトラスが王様の妃となって半年ほど過ぎたある日のことであった。自分の部屋に飾られている花瓶の花が萎れていたのに気づいてナトラスがその花を手に取って花の世話をしようとするとそれに気がついた侍女が慌てて飛んで来た。お止めください、ナトラス様。それは私達の仕事です。ナトラス様のお役目は王様のご寵愛を受けて王様をお幸せにすることです。そう言われてナトラスは自分はここにいて全く何も役目を果たしていない。
私はここにいて幸せなのだろうか。そして私の生い立ちを憐れんでくれて、私をご自分のできる限りの力で幸せにしようと思って、このような立場を与えてくれた王様に私は何をして差し上げているのだろうか。
ナトラスはそう思って、数日間いろいろ想いを巡らせた。王様を知る為に秘かに王様付の侍従長や侍従、侍女長、そして王様と幼い頃から親しい薬師長のガク、そしてこの王宮に来てから自分を支えてくれていたアギも次々に呼んで王様についての話を聞かせてもらった。
ナトラスの心にある一つの想いが浮かんできていた。
ナトラスは王様に使いを出した。
今晩は南の領主達と夕食を共にして政治について話し合う夕食会があると王様付の侍従長から聞いていた。
使いの者には、折り入って話したい事があるので夕食会が終わった後に今晩自分の館に来て欲しいと伝えさせた。
夕食会は予定より長引いたのか王様がナトラスの館を訪れたのは、すっかり夜もふけた時間であった。王様がナトラスの館に立ち寄るのはいつも遅くても夕食の時間で、それからもっと遅い時間に訪ねて来る事はないし、実は一度も寝室を共にしていない二人が結ばれていない事はナトラスの館に仕える者達なら誰もが知っている公然の秘密であった。
そんな王様がこんな遅い時間にナトラスの館を訪ねて来て、おまけにナトラス自身が王様に何か話があると言って呼んだのだ。ナトラスに仕える皆口には出さないが、これから何が起こるのかと不安そうに王様を迎えた。
王様がナトラスの部屋に入って来た。ナトラスは仕える者達を全て部屋から下げると大きく王様に一礼して王様の正面に向かい合うように立つと、こう告げた。
王様、以前私に何か望みはあるか?とお尋ね下さいましたね。私はようやく自分の望みに気がつきました。つきましては王様に一つお願いしてよろしいでしょうか?
そう王様の瞳をじっと見つめるとそう話を切り出した。
王様はそうか。と小さく頷くとトナ。申してみよと優しく促してくれた。 ナトラスは大きく息を吸って吐いて、早くなってきた自分の呼吸と鼓動を整えると勇気を振り絞って思い切って、こう切り出したのだ。 王様、私の願いは私を愛してくださいませ、王様。そして同じように私に王様を愛させてくださいませ。それが私の望みでございます、王様。 ナトラスは一気にそう心の奥底に芽生えた想いを伝えると気持ちが高ぶってしまったのか瞳からは温かい涙が溢れてきてしまっていた。 そんなナトラスの告白に驚いたようにしばし呆然と立ったまま目を見開いていた王様はトナ。そなたはそれで後悔しないのか?私は二十も年上の愚かな王と影で呼ばれている男だぞ。それでも良いのか?と優しく念を押した。今ならまだ引き返せるぞとナトラスを優しく諭してくれるように微笑んだ。 そんな王様にナトラスは頭を振ると私はこの数日間本当の王様のお姿を知る者達から幼い頃からの王様の話を聞きました。王様の本当のお姿、お心を知って、そして私は王様を愛して、王様に愛されてこの王宮で王様のお側で共に生きていきたいと思ったのです。 偽りのない自分の本当の望み。愛する人に愛され、そして共に自分のいるべき場所で一緒に生きていきたい。 ナトラスは正直に想いを伝えた。そんなナトラスの瞳の涙を優しく王様は自分の指先で拭ってくれると優しくナトラスを見つめて、そっとナトラスの唇に自分の唇を寄せてくれた。 二人の愛の契約のような口づけの後にナトラスは王様の大きく温かな腕の中に包まれて、安堵のため息をついた。 やっと自分は自分のいるべき場所にたどり着いたのだと。この温かな腕の中こそが私のいるべき場所なのだと。 この王宮で共に暮らすのだ。トナ。それがそなたの定めなのだ、待っていたぞ。 ナトラスは優しく自分を腕の中に包み込んで、そう自分の耳元でそっと囁く王様の声を聞いた。 初めて二人で夜を共にした翌朝ナトラスは王様が腕の中で自分の髪を優しく撫でながら、王様からの思いも掛けなかった告白を聞いたのだ。 優しく、少し照れたようにそなたが王宮に上がるとトクから聞いた時から、そなたとならばお互い孤独の中で宿命に縛られてきた者同士心が通じ合えると思ったのだ。 そして私がそなたを愛して、そなたも同じように私を愛してくれたら。そんな風に思っていたのだ。 まあ私はそなたよりも二十も年上で他に妃も子もいる。そう言うと冗談っぽく顔をしかめて見せて、おまけにゾルトアのように甘い顔立ちをしているのでもないからな。と言うとそれが叶わなくとも、せめて私の妃になってくれたら幸せにしてやりたいと思っていたのだ。と言うといたずらっぽい笑みを浮かべると、なぜそなたにナトラスという名を授けたのか分かるか、トナ?と謎かけのように聞いてきた。 王族や貴族の名前は昔の書物から良い意味がある名前を選んでいると聞いたことがあり、王様のダルマツは国が栄えるという意味だし、弟のゾルトア殿下の名前は確か豊かな大地という意味だと聞いたことがある。 ナトラスはしばし考えててみたが思い浮かばない。自分の名前にはどんな意味があるのだろうか? 王様はそなたの本当の名前のトナを逆さにしてナトと入れたのだ。そう言うと私がいつ産まれたか知っておるか? ナトラスは慌てて記憶を辿ってみると冬に王様の誕生の日の祝賀があって、その時はまだ王様も世継ぎの王子で、ナトラスも自分は担当ではなかったが刺繍侍女として準備を手伝った。確かあの祝賀の日はスラの日だ。 スラの日!王様は冬のスラの日に産まれたのだ!つまり自分の名前は二人の名前を逆にして繋げた? ナトラスがようやく気がついたのに王様は楽しそうに笑うとそうだ、トナ。私はスラの日に産まれたのだ。もし私が世継ぎの王子でなくただの普通の男として産まれていたならばスラになっていただろう。と言うと薬師のスラとなって病の人達を救う日々を送っていただろうと言うと、その夢は叶わなかったが世継ぎの王子に産まれたおかげでそなたとも巡り会えた。望まなかった宿命に感謝すべきだな、トナ。そう微笑んでくれたのだ。 この名前は二人だけの秘密だ。トナ。すぐに見破られないようわざと逆にしたのだ。いつかそなたが私の妃になってくれた時の事を思って前から考えてあったのだと優しく、そしていたずらっぽく微笑んで、そっとナトラスの耳にだけ囁いたのだ。 いったいどれだけ私を待たせたのだ、トナ。そなたが王宮に上がってすぐにでも妃にしたかったのだが、そなたから私に刺繍を送ってくるまで待っていたのだぞ。それはそなたが私の事を愛しいかどうかは別としても私の事を想ってくれていたという印で、私の側に置いて良いという合図だと思っていたからなと笑ったのだ。 私は刺繍の不思議な力ではなく、トクのおかげとも言えるが王様とは想い合えたのだ。そして今は幸せだ。愛する人がいて、相手も同じように自分を愛してくれている。愛する人との子にも恵まれた。 だからこそトナ。お前がカイのことを愛しているが、もしカイがお前の想いを受け入れてくれなかったら。アラを選んでしまったらと思ったらと私は自分のことのように心が苦しかったのだ。 それで何としてもカイにはお前に想いを寄せてもらいたい。私と同じように愛する者と一緒になってもらいたいと思ってしまったのだ。 そこで私はお前にあのような事を伝えてしまったのだ。しかし王様と一緒にいる時にふと気がついてしまったのだ。 もし仮に王様が王様の本当のお心ではなく、何か別の力で私を愛しているのだと思ったら、どれだけ辛く悲しいか。 自分のすぐ側にいてくれて優しい眼差しを向けて下さっていても、それが偽りの想いによるものだとしたら。私には耐えられない!そう辛そうな眼差しと声で吐き捨てるようナトラスは叫ぶと両腕で自分の身体をぎゅっと抱いていた。 そして辛そうな眼差しで私はトナ。お前にそんなことを選ばせてしまったのだと呟いてすがるような、許しを乞うをような眼差しをトナに向けた。 私はひどく後悔して自分勝手だがどうかお前が私の伝えたように自分の髪を埋め込んで制服の刺繍を刺していないようにと祈ったのだ。自分で伝えておきながら自分勝手だが私はそう願っていたのだ。 お前の元にマルメルの国に向かう途中でカイが文と髪飾りを贈ったことは秘かに調べさせて知ったのだ。わざわざ任務の途中の地からお前のことを想い文をしたため、髪飾りを贈る。男が女に髪飾りを贈るのをこのセルシャの国では相手を恋しいと想っている時だけだ。 なのでカイは刺繍の力でも何でもなく、トナ。お前のことが好きなのだ!なぜならあの制服にはお前の髪の毛は埋め込まれていないのだ、トナ! そうナトラスは叫んでいた。
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