無線技術30年ー私の経験からー

本「僕の出張」がきっかけとなり「人と技術の歴史を記録する会」が発足し、第一回目の
発表会をやりました。

 


◆「人と技術の歴史を記録する会」第一回発表会のお知らせ  
  - 仕事を通じての一人一人の人生、共有し残していきませんか -  研究員、開発エンジニア、事業企画担当者、営業部隊、宣伝部門、問合せ窓口... 多くの会社で生み出され、日本の産業を支えてきた技術には、さまざまな形でそれ を支えてきた人たちがいます。そこには大変な苦労やドラマ、そして幸運や喜びが あったはずです。でも、多くの場合、技術そのものは会社に継承されても、個人が 何を夢みて何を手掛け、そして何を感じたのかは、なかなか記録として残りません。 本当はそれこそが、次の世代に伝わってほしいことなのに。
 「人と技術の歴史を記録する会」は、かつての企業戦士や現役の会社員の間での 自由闊達なコミュニケーションを通じて、そんな「産業技術を支えた個人」の足跡 を共有していこうという会です。技術の公式な変遷を残すのではありません。それ を支えた生身の人間の、個性や哲学やメッセージ、そして人生を残すのです。
 その第一回目では、松下通信工業でエンジニアとして開発や営業の現場で活躍 されてきた、田村正勝さんの無線屋人生を追ってみたいと思います。ご本人のお話 はもちろん、積極的な質疑応答を通して、田村さん自身がどんな夢を追い、何を形に し、そして何を学んだのか。そのドラマを、みんなで一緒に残していければと考えて います。もちろん無線通信技術の歩みに触れる一つの視点にもなると思います。  そして「ぜひ次は、私のやったことを共有し残したい」という方、大歓迎です。 いわゆるエンジニアでなくても構いません。さまざまな形で日本や世界の産業技術 に関わってきた方々にご登場いただき、定期的に続けていきたいと考えています。

「人と技術の歴史を記録する会」第一回発表会 http://www.net-syoten.com/kiroku/presentation.htm

日時 :2月10日(火)18:00開場、18:30開始、21:00終了予定
場所 :東京都高年齢者就業センター 第二セミナー室(シニアワーク東京5階)
     〒102-0072東京都千代田区飯田橋3-10-3(JR飯田橋駅東口から徒歩8分) 
       地図  http://www.kanrikyo.or.jp/etceteras/news10_1.html  電話 03-5211-2307

発表テーマ:「無線通信技術の30年 私の経験から」
内容    :会の簡単な説明、田村正勝さんの発表と質疑応答、参加者自由交流など
費用   :1000円(消費税含む、なるべく千円札でお持ちください)
申込み先:電子メールで、題名(Subject)に「apply20040210」とお書きの上、参加される人数とそれぞれのご 氏名、代表の方の電話連絡先とメールアドレスを明記し、contents@qj8.so-net.ne.jpにお願いします。

発表会後記

電波というのは目には見えないが、石油や鉱物と同じく有限な資源である。この貴重な資源をいかに大勢の人が使えるようにするかが電波技術の一つの歴史だという。技術の進歩と利用者の広まりとの、いわば「いたちごっこ」が常について回るわけだ。
 たくさんの人が限られた土地を使うなら、まずはそれぞれの敷地を狭くしていかざるをえない。しかし当然それには限度がある。それではということで、2階建て3階建てと、高さを伸ばしていく。あるいは同じ部屋を多目的に使ったりもする。電波も同じだ。周波数を狭帯域にしたり、高速に時間を区切ったり、あるいは独立な符号列と掛けて足し合わせて送ったり。さまざまな工夫がなされている。

 そんな無線通信のエンジニアとして、松下通信工業で長く開発や営業 の現場で活躍してきたのが田村正勝さんだ。ただし基本となる方式は、大学や通信会社、あるいは研究所などで開発される。その原理を応用して、実際のユーザーのニーズに合わせながら、信頼性とコストを両立させて商品に仕上げていく、そんな役目である。
 生の声が一番ダイレクトに入る仕事でもある。警察無線を納入する際には、万一電波が途切れたら捜査官や住民の命にも関わると言われた。一つのショートが大爆発にもつながりかねないコンビナート向けのものも開発した。ヘリコプターの中で使う装置のために、最近話題の骨伝導技術を、音を聞くためではなく、音を拾うマイクとして取り入れたりもしたという。

 後半はシステム・エンジニアとしての仕事が中心となる。「あくまでお客様の立場になって考え、誠意を持って約束を守る」。それを自分に
言い聞かせながら、国内の市町村防災の仕事を手掛けたり、海外を回ったりした。文化の違うアラブに出張した時は、問題がなかなか解決せず、ノイローゼ寸前にまで追い込まれた。欧米のシステムにそれまで完全に席捲されていたマレーシアで、警察無線の新システムを一気に受注したこともあるという。

無線屋というのはね、無銭屋とも書くんですよ」と笑う田村さん。確かに内外の競争にさらされ、一円単位でコストが問われる厳しい仕事
ではあるだろう。反面、技術が社会に受け入れられていくのに直接触れる、きわめてエキサイティングな仕事でもあったに違いない。
 今や一台80グラムほどで、カメラだGPSだ着メロだと高校生が当り前のように遊ぶケータイの世界。携帯無線機一台が5キログラム以上で給料の10か月以上もした、そんな時代を知る田村さんにとっては、夢のような進歩が実現した40年間であっただろう。そしてごく一部とはいえ、その進歩に確実に貢献し続けた人生でもある。