全国のやきもの    

やきものの歴史
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奈良朝から平安初期には 須恵器窯は殆ど全国的わたって普及していた 尾張の猿投窯は特に貴族、寺院など上層の需要に応じて上手物を生産した 官窯的性格の著しい窯であったが 平安末期(12世紀)になると もっぱら山茶碗などの粗製の雑器に変わってきた
平安末期という時代は 猿投窯だけでなく常滑、備前にも大きな変化をもたらしている 素地の色が灰色系から赤褐色系に変わってきている
これを基点として それぞれ土地の素地、焼成、形などに相違が見られ地域差が出てきた やがて常滑焼となり備前焼となり また信楽焼き、丹波焼き、越前焼となっていく
平安朝盛時の須恵器にあっては 律令体制を基盤とする中央政府の 画一的な規制によって 共通の様式が取られていたが 平安末期になってこの規制が事実上壊れた(中央政府から援助が得られなくなった)かくて平安末期から鎌倉初期に掛けて それぞれの特色を具備しはじめ 中世古窯出現を見た
主なるものが 瀬戸、常滑、信楽、備前、丹波、越前である

焼きものの種類

『やきもの』とは 土を成形し乾燥した後 窯で焼いたもの 現在の日本ではこの焼き物を主に 土器 せっ器 陶器 磁器の四つに分類している 実際にはこれらの境界は曖昧で完全には区別されてないが ここではそれぞれの特徴を示しその違いを知る目安としたい。

土器は焼きものの始まり

土器作りは 1万2000年前の縄文時代から現在に至るまで続いている 土器は700度〜1000度以下の低い温度で野焼きし 釉薬を使わない焼き物 代表的なものは 縄文土器 弥生土器古墳時代の土器なのが上げられる 現在でも神事に用いられる祭器や 行平や焙烙 植木鉢等に使われている。

焼き締め陶 せっ器

せっ器は 陶器と磁器の中間にあたるもので 釉薬に関係なく 約1150度〜1200度の高温で焼成し 素地は硬く焼き締まっているが ある程度の吸水性をもつ。
古墳時代の須恵器 平安後期の始まる 常滑 美濃 備前 越前 丹波 信楽などの焼き締め陶器 近世の万古焼 赤膚焼 朱泥焼などがせっ器に分類される。

焼きものの多くは陶器

一般的には 素焼の後に釉薬を掛けて 再び1100度〜1300度の高温で焼成する焼き物を陶器と言うが 無釉のものを含む場合もある。
中国のおける施釉の陶器は 高火度焼成(1200度以上)の実現と共に 窯焚きの際土器に灰が掛かることで自然釉が生じた約3500年前を始まりとしている 日本の陶器も中国の施釉技術を受け継いでいる 古代の緑釉陶器 三彩陶器 灰釉陶器 瀬戸焼 美濃焼 京焼や唐津焼などが陶器になる

陶器よりガラスに近い磁器

磁器は 陶器と同様の工程で創られるが 主な原料に陶石を用い 1300度前後の高温で焼成する 陶器を土ものと呼ぶのに対し 磁器は石ものと呼ばれている 硬く緻密で吸水性の無い磁器特有の素地ができる
代表的なものとして 白磁や青磁があり 伊万里焼 九谷焼 清水焼などがる。

青磁と天目

青磁と天目はともに釉薬に含まれている鉄分のはたらきで 青や黒の色を出している 青磁は約1%〜2% 天目は約15%の酸化鉄を含んでいるが 鉄分が更に変われば柿釉や鉄砂釉になり 少なければ飴釉になる 青磁は和薬の溶けるとき 還元焔焼成もしくは『せめだき』『おいだき』といって焚き木をきらさず どんどんくべ窯から焔が吹き溢れるくらいでないと 美しい青磁はできない。

(以上やきものを楽しむ 本より抜粋)

雑感
備前焼が好きで焼き物を集めだしたが、何時の間にかいろいろの茶碗等を集める様になってしまった、茶道は全く判りませんが、茶碗で飲むことぐらは知っている、お茶は「おもてなしの心」が基本で有るらしいが、茶碗がどの程度関わっているのか、私には解らない。茶碗は生活雑器の中から生まれてきた物で、お客様が不愉快な気を起こさなければ、作りはどうでも良いと思っている。
陶芸家に於いては、茶碗を創らない人は居ない、そのくらいいろいろな茶碗がある、焼き物が好きで集めだした私には、茶碗の良し、あしきは解らないが、自分では結構良いものもあると思っている。
骨董品を集める人は美よりも、歴史観の在るものを集める様だが、私にはそれだけの勉強も研究もした事がない、ただ好きで集めてきた物を整理して、HPを作っております、兎に角焼き物を楽しんで下さい。

(本サイトの情報、内容に付きましては一切の責任は持ちません)

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笠間,益子焼 越前、九谷焼 大樋焼 御砂焼、大谷焼
常滑焼 信楽、丹波焼 萩 焼 伊万里,有田焼
美濃焼 京,楽,清水焼 唐津焼 琉球,中国、他

笠間、益子焼

笠間焼
江戸時代中期信楽から陶工長右エ門を招き、笠間に窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている のち笠間藩に保護され甕、すり鉢などの日常雑器が主に作られていた

益子焼
江戸末期笠間で修業した陶工大塚啓三郎が、益子に窯を開いたのが始まりとされている 当初はみずかめ、火鉢、壷などの日用品が主に製作されていたが、1927年より製作活動を開始した濱田庄司によって花器、茶碗などの民芸品が作られるようになり発展してきた

 
益子大鉢  作家 無名(益子市にて購入)

 
コーヒーカップ  作家 柳 元悦 (師金城次郎、浜田庄司)
* 民藝運動の父柳宗悦との関係?

 
納豆小鉢  作家 無名(益子市にて購入)

 
酒盃  作家塚本窯 (益子市にて購入)

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常滑焼

常滑焼きは千年の歴史を持つ六古窯の一つで 愛知県の常滑市を中心とした常滑半島内で焼かれる陶器で 鉄分の多く含まれた土を使い高温で焼しめられた朱泥の焼き物は常滑焼きの代表する物です

 
古常滑四耳壷(22cm)  作家 無名

 
古常滑四耳花入れ  作家 無名 (常滑と思うが,耳破壊)

 
ビアカップペア  作家 清水 北條(作者名が気になって)

 
練り込み片口小鉢  作家 小崎 陶仙

 
水滴  作家 浅井 茂幸

 
煎茶セット (旅行中窯元にて) 

  
湯呑みと湯さまし  作家 浩明 

 
香合観音菩薩(朱泥焼7寸)  作家 無名

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美濃焼(瀬戸、織部、志野)

美濃焼という名称は、古陶磁の歴史をたどってもなかなか出てこない、しかし織部や志野は焼き物の好きな人で知らない人はいない、茶碗の名品として知られ和食器の代表といわれる、黄瀬戸や志野、瀬戸黒や織部が美濃焼なのである。別名赤津焼、古墳時代に瀬戸市猿投(さなげ)山山麓に始まった、平安時代には日本最古の灰釉陶器を完成させ、多彩な釉薬や装飾技法を生み出し、日本六古窯の一つと数えられている。
初代尾張徳川公は赤津村の唐三郎、仁兵衛兄弟、下品野村の新右衛門、三右衛門兄弟を保護した、江戸時代中期には19世唐三朗景貞が尾張公より呼び出しを受け、太兵衛窯
(21世太兵衛景輔)へ瀬戸村(春琳、春暁、春宇、春丹)、赤津村(春岱、壽斎、春悦)、下品野村(定蔵、品吉、春花)より陶工を集め御深井窯を作った。
瀬戸や黄瀬戸、織部、志野などの窯元は、趣深い7種の釉薬と12の技法を用い、ヘラ彫り透かし彫り、印花など文様を施し作陶、現在でもこの伝統を守り、優美な赤津焼を生み出している、釉薬の調合は窯元にとって、今でも一子相伝の秘中の秘と、それぞれの窯が独自の色合いを競っている。一方主座から転落した瀬戸焼は、美濃において大衆向けの日常食器類が主に焼かれ、全国的に流通する様になり、近畿地方より東では瀬戸物、中国、四国、九州、など西では唐津物と言われる様になって行った。

 
古瀬戸茶碗  作家 5代藤四郎 信政 (銘松羅)

陶祖藤四郎景正(藤の四郎兵衛春慶)(瀬戸赤津焼窯元)
陶祖景正について調べてみたが、昔の人はその時その時で名前が変えるので、いろいろと名前を持っているがここでは藤四郎・・藤の四郎兵衛春慶(後に唐四郎)は道元禅師と主従関係にあったみたいで、道元禅師が師明全と入宗の旅に出た時、藤四郎も従者として付き添った、道元が修行中藤四郎は宗の寺内で焼かれていた焼き物を習得し、1227年帰国後道元は平等院に入ったが、自分に合わないといって三年後(1230年)藤四郎の母方の里深草に移り、その後永平寺に入った、藤四郎は白磁の再現を求め各地を遍歴し、瀬戸の地に仕事場を定着した、永平寺には藤四郎の焼き物は多く残っているらしい。道元禅師没(1253年)後藤四郎も隠居し1〜2年後に没したと思われる、道元禅師の骨壷の裏には加藤唐四郎景政謹作之と銘が残っていると言われている。
陶祖加藤唐四郎景正→2代藤次郎基通→3代藤三郎景国→4代藤九郎政通→5代藤四郎信政→6代藤治郎正光・・・弟子、子供、兄弟が独立して行ったが直系は30代
に至っている。

 
古代形抹茶碗  作家 明治の藤四郎?(綺麗すぎる)

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春花(旧徳川御深井作家)

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春花(旧徳川御深井作家)

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春丹(旧徳川御深井作家)

 
黒織部沓茶碗  作家 加藤武右衛門 春暁(旧徳川御深井作家)

加藤武右衛門春暁1772〜1808)
景正本家23世春琳の孫、幼名「直七郎」尾張徳川家窯師(御深井)の名工、御深井窯解散後独立、2代武右衛門春暁を名乗る(春暁→楽之斎)以後代代武右衛門を名乗る、3代春宇は春暁の子、孫兵衛兼敬と称していた(1827年没)4代春眠は春宇の養子(1861年没)5代?(1872年没明治5年)6代?(1953年没昭和10年)7代春武(明治19年に生まれ)春日窯春暁。

 
黄瀬戸茶碗  作家 7代加藤武右衛門 春武
(黄色は中国皇帝の色)

 
鉄釉瀬戸平茶碗  作家 7代加藤武右衛門 春武

 
徳利花瓶  作家 加藤 春山 (黒泥常滑春山窯か?)

長谷元釜5代藤四郎信政より分家、19代目の春清の孫に当たる春喜の子喜平治が後の春山、明和年間(1764〜1772)活躍し御深井に入る,春山の子友太郎が後の春岱である。

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春岱(旧徳川御深井作家)
(箱は備前西村春湖、中身は瀬戸焼加藤春岱です)

加藤春岱 享和2年(1802〜1877)明治10年
本名宗四郎→仁兵衛(幼名友太郎)父春山の代わりに15歳で御深井(おふけ=尾張徳川家御用窯)に入り後年尾張11代斉温公より春岱の号を賜り300石を戴いている(師匠格で20石10人扶持位)天保9年罪で御窯屋職を辞し復活するまでの30年間今尾春岱、名古屋春楽で陶作、明治3年御深井が廃炉になった後、26世弥曽右衛門の家を継ぎ27世仁兵衛春岱と号した、名家仁兵衛窯は27世で後継者がいない為絶家している、尚春岱は良い作品は作るが酒と女に溺れ、人生の大半を宿無し放浪だったという。

 
鳴海織部茶碗  作家 加藤 春岱(旧徳川御深井作家)

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春岱(旧徳川御深井作家)

 
椿手瀬戸茶碗  作家 加藤 春岱(綺麗過ぎる・・)

 
瀬戸茶碗  作家 加藤 春岱(綺麗過ぎる・・)

 
黄瀬戸観世音菩薩 作家 加藤 春岱(私のお宝です*箱あり)

 
志野茶碗  作家 加藤 麦岱(袋)
(師は春岱→加藤麦岱→水野古麦)

 
鉄釉瀬戸茶碗  作家 加藤 麦岱(袋)
(「岱」「袋」「武」陶印判断が付かず)

 
天目茶碗  作家 加藤 麦岱(袋)

 
絵志野平茶碗  作家 加藤 麦岱(綺麗過ぎる・・)

 
絵志野茶碗  作家 水野 古麦
(師は麦岱→水野古麦→子陶和)

 
志野茶碗  作家 水野 古麦

 
織部沓茶碗  作家 2代作助 春仙  

初代作助/23世(23世作兵衛景清「寿斎」文化5〜M26)
初代作助は加藤藤四郎景正から23世、16代四郎左衛門景元から7代目にあたると言う事は景元より分家している、他の窯元も同じように分家し陶祖藤四郎景正から何代目と継承している
2
代作助/24世(慶三郎景義「春仙」(春逸)弘化1〜T12)3代作助/25世(加藤精一「春山」M12〜S23)4代作助/26世(加藤紀彦M42〜H8)5代作助/27世(加藤伸也S15〜H)6代作助/28世(加藤圭史)

 
織部茶碗 作家 初代 春鼎 (箱書きは24世作助「春仙」銘は春鼎)

初代春鼎/24世(2代作助24世慶三郎景義「春仙」(春逸)弘化1〜T12)
2代春鼎/25世(春仙の三男「春倫」M18〜S36) 3代春鼎/26世(加藤孝S2〜H7
4代春鼎/27世()

 
織部沓茶碗  作家 ○代 春鼎

 
織部茶碗  作家長谷元窯 25代六兵衛 景信

 
鉄釉瀬戸茶碗  作家 加藤 唐九郎(M31~S60)
唐九郎陶印 「と」「TK」「玄」「ヤト」「ウ..」「一ム」「オーム」等々

加藤 唐九郎(1897〜1985)
幼名加納庄九郎、美濃では瀬戸焼より黄瀬戸の方が先に焼かれていたと発表して、瀬戸市民より反発を受けたりしたが、焼き物では「野の陶人」「炎の野人」とか言われ、作風は豪快で男性的なものが多い、後年は日本陶芸協会や日本陶磁器協会の設立に活躍した。

 
黄瀬戸茶碗  作家龍窯 河村 益弘

 
黄瀬戸筒茶碗  作家 小山 冨士夫?
(小山冨士夫(1900〜1975)真清水蔵六に師事、号は古山子)

 
黄瀬戸茶碗  作家 野田 東山

 
黄瀬戸平茶碗  作家 水野 壽山

 
織部茶碗  作家 祥山窯又は俣野祥山
 

 
織部茶碗  作家 北大路 魯山人 

北大路 魯山人(1883〜1959)  
本名房次郎 京都上賀茂神社神主の北大路家に生まれる 子供の頃より日本画、書道は独学 15年金沢で須田菁華と出会い作陶に興味 書画、篆刻、陶芸、漆芸、古美術、料理と奇才を発揮 感覚的、美的才能を開花
s26年に北鎌倉に星岡窯を築く s51年織部焼きの国の重要無形文化財保持者に推薦されるも辞退

 
黄瀬戸茶碗  作家 奥村 英夫

 
刷毛目茶碗  作家尾張徳川葵窯 加藤 春二
2代加藤春二(m25〜s54)加藤元十の次男竹里庵春二襲名(愛知県無形文化財)

 
志野茶碗  作家秀山窯 加藤 秀三

 
染付茶碗  作家五山窯 加藤 五山(父鶴山)

  
瀬戸中鉢 作家五山窯 加藤 五山

 
絵志野茶碗  作家 川本 晴雲、

 
絵志野茶碗  作家不東庵 細川 護煕

 
粉吹茶碗  作家 水野 双鶴

粉引(粉吹)茶碗  
素地を白く見せるため白化釉(エンコーべ)を手杓で内外面高台裏迄杓で流しある程度乾かし透明釉を掛けて焼く 三角の「火間」のあるものも多く 上手のものは素地が細かい黒褐色の土味のもの、

 
美濃妖炎茶碗  作家 山本 一仁(銘逆さまかも)

 
鼠志野茶碗  作家四方木窯 吉田 浩三 

 
鼠志野茶碗  作家桂山窯 和田 和文

 
片口鉢(織部?) 作家 無名

 
茶碗(瀬戸黒?)  作家 無名

 
残雪志野旅茶碗  作家竹林窯 小林 武春 

 
黄瀬戸湯呑み  作家 原 兆山

 
瀬戸黒野点旅茶碗  作家 無名(蕎麦猪口として使用)

 
志野小鉢  作家 無名 (蕎麦猪口にと?)

 
志野らしい志野茶碗(梅)  作家 無名 (湯呑み、蕎麦手)

 
飾り皿(青白磁) 作家人間国宝 塚本 快示

塚本 快示(1912〜1990)  
本名快児 塚本源右衛門(快山窯)11代 日根野作三、小山富士夫の指導を受ける 青白磁鉢で日本伝統工芸展に入選 83年白磁、青白磁で国の重要無形文化財、紫綬褒章受章

 
ふぐ徳利  作家 無名

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越前焼

越前焼きは六古窯のひとつで 福井県丹生郡宮崎村及び織田町を中心に作られているやきもの
当初は須恵器が焼かれていたが 平安時代末期なって東海地方の技術を導入して 焼締め陶を作り始めた 一時は日本海側の最大の窯場となり 製品は今の北海道から島根までの日本海沿岸各地に運ばれたが 江戸時代になり 瀬戸焼などに押され 生産規模を縮小 このため福井県は弱体した越前焼を復活させ 有力産業に育成しようと 越前陶芸村の構想を立て 陶芸館を開館させた これにより全国から陶芸家たちが集まるようになり 脚光を浴びることと成った。

 
越前花入れ  作家 前田 義郎 (能登旅行にて)

  
越前組湯呑み  作家 佐々木 麗峰(越前塗り作家?)

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九谷焼

九谷焼は江戸時代の初期 藩命により 後藤才次郎が肥前有田におもむき 磁器焼成の技術を習得したと伝えられる この時期のものを古九谷というが この窯は5,60年で廃窯と成ってしまう
古九谷の窯の火が消えて約100年後 加賀藩は京都より名陶工 青木木米を招いて試し焼きをさせ 金沢の春日山に窯を築いた 木米帰国後弟師の 本多貞吉が引き継ぐが1820年ごろ廃窯
1824年古九谷復興を目指して吉田屋窯が開窯 しかしこの窯も1831年には姿をけす
1841年 名工九谷正三が寺井に開窯 そして輸入された洋絵具を使い金襴手の華やかな九谷焼きを世の中に送り出す。
九谷焼は現在 金沢市から加賀温泉郷までの広範囲で 個人作家の一品制作から量産品まで作られている。

 
九谷花瓶  作家人間国宝 富本 憲吉

 
(6寸五分) 作家人間国宝 富本 憲吉

 
水滴(かめ)  作家人間国宝 冨本 憲吉

富本 憲吉(1886〜1963)  
奈良県生まれ「色絵磁器」で1955年重要無形文化財(人間国宝)に認定される。信楽、波佐見、益子、瀬戸、九谷、京都等各地に行きその地の素地に独自の模様を描き 日常の生活に結びついた陶磁器の製作に寄与して来た

 
九谷徳利お猪口セット  作家 美泉

 
九谷夫婦湯呑み  作家 秀幸

 
九谷招き猫  作家 銘有るも(箱ありシーサーの箱の中) 

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信楽焼

742年聖武天皇は紫香楽宮を造営する時その瓦を焼かせたのが信楽焼きの始めと言われているが この地で焼締めの無釉の壷や甕などの日用雑器が本格的に焼かれるのは 鎌倉時代からである
茶の湯の巨頭 武野紹鴎、千利休が作らさせた信楽の茶器は紹鴎信楽、利休信楽と呼ばれ本阿弥宮中のは空中信楽、野々村仁清のは仁清信楽と呼ばれた江戸時代に入ると上は黒褐色下は白色に施釉された腰白茶壷が造られた

 
古信楽檜垣文お茶壷  作家 無名(私のお宝です)

 
古信楽檜垣文うずくまるお茶壷  作家 無名(化けるかも)

 
古信楽檜垣文壁掛け花入れ  作家 無名(私のお宝です)

 
信楽檜垣文壁掛け花入れ  作家 山本 竜山

 
信楽檜垣文大徳利(徳利25cm)  作家 銘有るも

 
信楽のお茶壷  作家明山窯

 
信楽芋徳利(花瓶)  作家 無名(お土産用か?)

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丹波立杭焼

兵庫県今田に上立杭、下立杭地区があり、そこで多く焼かれていた事から、丹波立杭焼きとも呼ばれる、日本六古窯の一つに数えれている、丹波焼は一貫して日用雑器湯呑み,皿,鉢,徳利,ぐい呑み,壷,花瓶などを生産していた、丹波立杭焼きは左回転ロクロの特徴を持ち、当初は自然釉で壷や甕を焼いていたが、小堀遠州等の指導により茶器類にも多く名品を生み出している、江戸時代初期赤土部釉,灰ダウ釉が開発され、後期には皿釉にイッチン描きした白丹波が開発されている。

 
丹波花入れ(中) 作家陶勝窯 市野 勝

 
丹波瓢箪徳利(17cm花瓶)  作家 無名(丹波?)

 
丹波舟徳利(花瓶)  作家 無名

 
(33cm) 作家 無名 (丹波のお茶壷?)

 
黄伊羅保茶碗  作家丹波二天窯 石川 洋二

 
出石焼どんぶり鉢  作家 永沢 永山

出石焼=兵庫県出石(いずし)に江戸中期白磁の鉱脈が発見され、伊万里より陶工を招き染付け、赤絵などの色物を生産したことが始めとされている。(ラーメンどんぶりに使用中)

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京 焼(楽、清水)

京都で作られる陶磁器が京焼である 日本の伝統的なやきものの産地はそのほとんどが原料すなわち粘土と密接な関係で結びついているが 京都には良質な粘土があるという話は聞いたことがない 慶長年間(1596〜1615)瀬戸の陶工が招請され粟田口に本格的な窯を築く(粟田口→八坂焼→清水焼) これが古清水の始まりで寛永年間(1624〜1644)に八坂焼の窯で色絵の技法が導入された
この時期に名工野々村仁清が登場する 仁清の後を受けて京焼を発展させたのが尾形乾山、光琳→奥田穎川、青木木平、仁阿弥道八、欽古堂亀祐、尾形周平、永楽保全、永楽和全などの名工が誕生した 京焼の発展は文化の中心京都だから出来たものだろう。

 
乾山壷(花瓶)  作家 尾形 乾山(*箱あり)
(私の持っている資料の乾山銘と違うが、とうとう手に入れたが偽物?・・)

尾形乾山(1663〜1743)本名惟充 通称権平、新三郎
使用した号;深省、乾山、霊海、扶陸、逃禅、紫翠、尚古斎、
陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など 窯銘は「乾山」
乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入に指導を受けていたが 本格的に仁清から陶芸を学んだ 京の北西鳴滝泉谷に窯を開く その場所が都の北西(乾)の方角に有ることから乾山と号した 乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品が多いことで知られている

 
乾山写し組小鉢  作家 無名

 
糸瓜形徳利(花瓶)  作家 北大路 魯山人
(私のお宝です)

 
仁清写し茶碗  作家
 (銘は仁清、窯銘か?)

 
伊羅保刷毛目茶碗  作家 村田 陶隠
*(陶隠窯=清水寺に茶碗坂在るそこに茶陶を主に作っている窯 現在は二代目村田陶隠)

伊羅保茶碗
肌がざらつきイライラしてる様子から名前が付けられた。伊羅保釉を全体に掛けて焼くが鉄分の多い砂混じりの肌に 作行はやや厚めで形は深め腰から口まで延び口は大きく開いている

 
斗斗屋茶碗  作家 無名

斗斗屋茶碗
素地は鉄分の多い細かな赤褐色又は青鼠色(青鼠色に当たった物は青斗斗屋といって上作)
腰に段がつき肌は細かく鮮やかな轆轤目があり 佗びた感じで形は深め高台は竹節高台
一名魚屋とも言う 堺の豪商魚屋が高麗から取り寄せたものと 利休が魚屋の店頭で見つけたとの説がある。上茶碗、出品者は伊羅保と言っているが?私は斗斗屋でないかと思っている

 
刷毛目平茶碗  作家  李 康則 (良い物かも)

刷毛目茶碗
高麗茶碗の一種で白化粧土を器面に刷毛で塗布する 濃淡とかすれた感じの表情が面白く 刷毛の勢いが良く、動きがそのまま現れているのが喜ばれる 高台は竹の節
出品者は備前と出していたが備前は釉薬を使用しないので黒土美濃刷毛目と思う

 
三島手刷毛目茶碗  作家 東峰 (東峰は所在地かも?)

 
三島茶碗  作家 谷口 祥八

三島茶碗
静岡の三島神社発行の星暦の流れ文字に似ているところから名付られた 
文様は木型で同じ小紋を連続して押す その上に白い化粧土を塗布し拭き取り釉を掛けて焼成する

 
大徳寺茶碗  作家 無名

大徳寺
臨済宗大徳派の大本山です禅僧一休宗純が入山 天正10年(1582)豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行う。龍光院は大徳寺の塔頭の一つで慶長11年(1606)黒田長政が父如水の菩堤を弔うため建立した。津田宗乃、江月宗玩親子が(龍光院開祖)一流の茶人であった関係で茶道具多く残されている

 
八坂焼大福茶碗  作家
 無名

 
梅花天目茶碗  作家 万代 草山

天目茶碗
抹茶茶碗の一種。この呼称は、鎌倉時代に中国浙江(せっこう)省の禅寺天目山に学んだ僧侶(そうりょ)が帰国に際して持ち帰った黒釉(こくゆう)のかかった茶碗をわが国で天目とよんだのに始まるとされ、のちにはこの器形(天目形(なり))のものを天目茶碗とよぶようになった。天目茶碗の基本形は、低く小さな輪高台(わこうだい)をもち、すり鉢形で、口縁にスッポン口といわれるくびれのあるのが特徴で、これを天目形という。またその釉は原則として黒釉であるが、のちに白釉(白(はく)天目)も現れた。
天目茶碗の代表的な物として、現在の福建省南平市建陽区にある建窯(中国語版)で作られた建盞(けんさん)と呼ばれるものや、江西省吉安県にある吉州窯で作られた玳皮盞(たいひさん)/鼈盞(べつさん)が挙げられる。
前者からは「曜変天目」(ようへんてんもく)・「油滴天目」(ゆてきてんもく)・「灰被天目」(はいかつぎてんもく)・「禾目天目」【または「芒目天目」】(のぎめてんもく)、後者からは「木葉天目」(このはてんもく)、「文字天目」(もじてんもく)、「鸞天目」(らんてんもく)が派生した

 
油滴天目茶碗  作家(銘あるも?)

 
窯変茶碗  作家 長谷川 慎治

 
窯変天目ぐい呑み  作家(銘あるも?)

 
曜変天目ぐい呑み  作家多治見星山窯 永瀬 慎一郎
(曜変天目茶碗に挑戦している主な人達、愛知,長江惣吉、岐阜,林恭助、京都,桶谷寧、神奈川,瀬戸毅己)

曜変天目
曜変天目は鉄分などを原料とする釉薬をかけて焼かれる、最大の特徴は茶碗の内側に広がる鮮やかな光彩が、光を見る角度によって、輝き方がカラリる変わる物が本物である 

 
ぐい呑み  作家文化功労者 今井 政之(師楠部彌一)

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楽 焼

楽焼は日本独特の陶器である しかも茶の湯から生まれたと言う点で他に類例がない 備前も信楽も伊賀も雑器の製作から始められているが楽焼には雑器が全くない 楽焼で作られる作品は茶碗 茶入 水指 向付 皿 鉢 火入 香合 燈火皿など茶の湯の器である
楽焼が現れたのは天性14年(1586)に利休茶会に黒茶碗が始めて出てくる 先ずは長次郎の作と思われている 長次郎(朝鮮人)は天正2年(1574)ごろは瓦製造業に従事している 長次郎は信長や秀吉によって造られた城や邸宅の屋根瓦を作っているうち 利休や秀吉に近づき認められたものと考えられる 
初楽の作者は4人いるとなっている 長次郎 田中宗慶 庄左衛門(宗味) 吉左衛門(常慶)である その後ノンコウ(道入) 光悦と続くが この頃から窯の火度も高くなり表面が美しいやきものが作れるようになったと言われている また 楽家の楽は 聚楽第の楽を秀吉から 貰ったものと言われている。
 現在の楽焼窯元 ●楽家 ●和楽 ●楽入 ●京楽焼 ●寂光院 ●らく焼淡楽

 
赤楽茶碗  作家 12代楽 弘入

 
赤楽茶碗  作家 12代楽 弘入

   
赤楽茶碗  作家 14代楽 覚入

楽家初代)長次郎 
2代)常慶 3代)道入 4代)一入 5代)宗入 6代)佐入 7代)長入 8代)得入 9代)了入 10代)旦入 11代)慶入 12代)弘入 13代)惶入 14代)覚入 15代)当代吉左衛門
楽家の脇窯は 大樋と玉水、長楽窯と言われているが 楽家を本家と呼んでいる窯元は多い *大樋長左エ門→(開発文明) *小川長楽 *中村道年→(中村研二) *桧垣青子 *吉村楽入 *川崎和楽 *佐々木昭楽→(弟、松楽)等等が居る
その他 楽焼を焼いている作家には 柳川陶脩、小西平内(太閤窯)、山田山庵(いま光悦)、杉本貞光、金井繁晴、馬場咲夫、高橋一翠(高橋和則)、瀬戸楽の園部玄哉、堀部俊二等が出てくる。
(楽の作家は50人位居ると言われているが、その他にも楽を焼いていたと思う)
ただし茶道界では楽家以外の茶碗は 稽古用の茶碗と言っているようです

 
赤楽茶碗  作家 川崎 和楽

 
黒楽茶碗  作家 佐々木 松楽

 
楽茶碗  作家 吉村 楽入 

 
楽茶碗(釘彫り) 作家 藤林 宗源(ニュー有り、この茶碗は軽い)
(江戸期の茶道家片桐石州(宗関)の高弟に宗源という人が居た)

 
道八茶碗  作家 ○代高橋 道ハ(補修個所あり))

高橋 道八(次男仁阿弥道八 三男尾形周平)
初代高橋道八は伊勢亀山藩士の家に生まれたが宝暦年間(1751〜64)に京に出て粟田口にて作陶を始めた 以後代々高橋道八を名乗る 文政10年(1827)には仁阿弥道八 尾形周平 楽旦入 西村(永楽)了全ら紀州徳川家偕楽園焼きに赴く。初代高橋道八 二代仁阿弥道八(光時) 三代尾形周平(光英) 四代華中亭道八(光頼) 五代小川勇之助 六代四代の次男(華中亭道八) 七代(初代高橋楽斎) 八代(当代楽斎)

 
吉向茶碗  作家 7代吉向 松月
(この茶碗好きです)

吉向(松月窯)
江戸時代享和年間(1801〜1804)伊予大洲藩出身の戸田治兵衛が京に出て 楽家9代了入 初代清水六兵衛 仁阿弥道八 浅井周斎などの名人に作陶を学び大阪十三村に築窯『十三軒松月』と号した 4代松月に二子あり長男萬三郎が5世吉向松月 次男実蔵が5代吉向十三軒と吉向窯は二つに分かれた 五代吉向松月(萬三郎) 6代(次蔵) 7代(福男)である。

 
木葉茶碗  作家 ○代吉向 松月

 
茶壷(なつめ)  作家 無名(永楽と思うが)

永楽(西村)善五郎 
十代までは西村性 京都の土風炉師(初代宗禅、2代宗禅 3代宗全 4代宗雲、5代宗? 6代宗貞 7代宗順 8代宗円 9代宗巖 10代了全) ここから永楽 11代保全 12代和全 13代得全 14代妙全悠 15代正全 16代当代善五郎

 
湯呑み、蒸し碗?  作家永楽窯 

  
急須(清水)  作家 河島 浩三 (明晃電機吉本社長より)

清水(古藤)六兵衛 
初代古藤愚斎 二代古藤静斎 三代古藤祥雲 四代清水六居 五代清水六和 六代清水禄晴 七代清水六兵衛 八代清水柾博

 
京焼?茶碗 作家 無名

 
京焼三つ鉢  作家 無名(もしかしたら黄瀬戸)

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大樋焼

 
大樋手杵形花入れ 作家 十代大樋 長左エ門

大樋長左衛門 
大樋焼きは京都の楽焼の系統を引くやきものです 初代大樋長左エ門は楽一入の門下であったが前田家の誘いでお庭焼きに移った 初代、2代は(芳土庵) 3代(芳土庵、甚兵衛) 4代、5代(甚兵衛、土庵) 6代(朔太郎) 7代(道忠) 8代(以玄斎、宗春、松涛) 9代(陶土斎) 10代(当代年朗)
大樋の特徴は飴釉、黒釉です

 
大樋茶碗  作家 十代大樋 長左エ門

 
大樋茶碗  作家 泉 富美

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萩焼

萩焼は 今から400年前 毛利輝元公の時代 朝鮮より渡来した陶工によって創始されたものです
萩焼は 萩藩の御用窯として発展し 日常雑器はほとんど作られず庶民は使用出来ませんでした その後 傷物なら使っても良いと言う事で わざと刀傷を入れ切高台とし 庶民も使えるようになり普及してきた その名残が萩焼の特徴となっております。
萩の技術が李朝の陶工によってもたらせたことで 古萩茶碗には高麗茶碗を写した井戸手、能川手、三島手、粉引手、御本手などがみられる。
萩焼は低火度で焼きますので焼締りが少なく 浸透性があります 其のため使えば使うほど 表面釉薬の貫入と呼ばれる ヒビより茶渋がしみ込み 表面の色が変化してくる この変化が古くから 茶慣れとか萩の7変化 と言われている萩の特徴です。

 
萩大皿(1尺2寸) 作家助右衛門窯  新庄 寒山

新庄寒山  
萩焼赤川助右衛門の系譜 11代の時赤川姓より新庄姓に改名 明暦3年(1657)松本中の倉より深川三ノ瀬に移住現在14代貞嗣に至る 寒山は1897年と1902年に全国連合共進会より賞を受けている 大正7年(1918)萩深川三ノ瀬の窯元は7軒ありその仲の一軒

 
萩茶碗  作家 渡辺 栄泉 

 
鬼萩井戸茶碗  作家御台場窯 澁谷 泥詩

 
湯呑み  作家御台場窯 澁谷 泥詩
(そば猪口良いかも90×80)

 
萩釉井戸茶碗  作家 銘有るも

井戸茶碗
朝鮮半島から渡来した高麗茶碗の一種が井戸茶碗で、ロクロで成形され高台が竹の節状で釉が鮫肌状が特色である、李朝時代(1392〜1910)初期から中期にかけ多く焼かれていた。

 
  萩茶碗  作家城山窯 渡辺 城山

 
割れ高台旅茶碗  作家 銘あるも(萩?)

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唐津焼

一楽、二萩、三唐津これは語呂からくるもので、唐津焼が楽や萩焼に劣るものではない。
その歴史、伝統、技術は日本陶芸界の名門であります 唐津焼の特徴はなんといっても『用の美』にあります 有田焼や伊万里焼が製作過程から完成に至るまで完璧にこなされるのに対し 唐津焼の出来上がりは80%が目標 唐津焼が『作り手八分 使い手二分』といわれ残る二分は使い手や使い方に在ると言われている 料理の盛り方 花の生け方で100%の完成です。


唐津焼の窯元  
1)鏡山窯 井上東也 2)佐志山窯 西川一光 3)松円寺窯 大石正峰 4)唐玄窯 島谷啓介 5)唐玄窯 中里太郎右衛門 6)宮ノ下窯 能川好美 7)幸悦窯 滝下幸悦 8)宮ノ下窯 舛田重信 9)曹源窯 小島嘉昭 10)中辻窯 平山賢治 11)炎郡工房窯 碇健 12)大杉皿屋窯 大橋裕 13)岸岳三帰庵窯 富永裕司 14)杉谷異中庵窯 夏秋隆一 15)帆柱窯 中島紀文16)王尺家窯 福田泰山 17)椎の峰窯 中里くすたや 18)日在窯 鶴田豊巳 19)中野窯 中野陶痴 以上19窯 

 
絵唐津深皿(7寸)  作家伊織窯 無名

 
古唐津茶碗  作家 不明

 
絵唐津茶碗  作家三里窯 浜本 洋好

 
朝鮮唐津茶碗  作家 銘あるも

 
ビアカップ  作家 中野 陶痴(旅行中窯元にて)

 
花入れ  作家 中野 陶痴(旅行中窯元にて)

 
湯呑み  作家 中野 陶痴(旅行中窯元にて)

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御砂焼

 
御砂焼酒呑  作家 無名

大谷焼

焼き物細工師、文右衛門が四国徳島、鳴門市の大谷に於いて、蟹ヶ谷の赤土で作ったのが大谷焼の起源と伝えられている、特徴は一人が横になり、寝ながら足でロクロを回し、人間大の大かめ等を作っている。

 
湯呑み(110×55そば猪口兼用) 作家 無名
(そば猪口と思いいろいろと集めたが、一番安かったこの器が、一番良かった。)

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有田焼伊万里、鍋島

有田焼は伊万里焼とも呼ばれている、有田焼は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、伊万里は肥前磁器全般を指す。伊万里は伊万里港から積み出され、その名前から伊万里と呼ばれるようになった。
泉山陶石、天草陶石などを原料としておりますが、磁器の種類によって使い分けている、様式により初期伊万里、古九谷、柿右衛門様式、金襴手(洋物絵具使用)などに大別される それと極上品のみを焼いた鍋島焼がある。(大聖寺伊万里とは石川県九谷で作られた伊万里焼です)

日本近世陶磁史を概括すれば、これを磁器時代あるいは色絵時代と言うこともできる、この時代の初め肥前有田において、あいついて起きた二大事件。
一つは元和2年(1616)の李三平(朝鮮人)による、上白川天狗谷における白磁の焼造、と寛永末年(1643)ごろ、下南川原における柿右衛門の赤絵発見である。
季三平による白磁の出現は、たちまち時代の脚光を浴びて需要の激増をもたらし、付近一帯の陶器窯はむろん九州一円かつ日本全国の陶器窯まで、磁器製造へと転向するものが多く、前代までの有色陶器に代わって磁器が作られた、そして庶民階級の日用雑器として浸透して行く。
一方柿右衛門の創造した、赤絵(上絵付)の秘法も、いつとはなしに漏洩して、古伊万里(有田)姫谷(備後)古九谷(加賀)仁清(京都)へと直ちに伝播し、ついには全国に盛行、ここに華やかな色絵時代が現出して行くのである。

 
有田小鉢  作家 人間国宝 12代 柿右衛門

 
有田小鉢  作家 人間国宝 13代 柿右衛門

 
古伊万里小鉢  作家 石橋 弥右衛門(使用傷あり)

 
伊万里鉢  作家 館林 源右衛門

 
伊万里湯呑み 作家 館林 源右衛門

有田に三右衛門あり酒井田柿右衛門、今泉今右衛門、館林源右衛門今度狙うのは柿右衛門か? 6代目源右衛門が亡くなり7代目が決まってないらしいが・・・

 
有田小鉢  作家
(波佐見) 栄峰

 
有田六角取り皿(中) 作家 竹山

 
有田染付長方鉢  作家(三川内) 嘉祥

 
古伊万里染付け大皿(47cm)  作家 無名

 
伊万里大皿(一尺五寸)  作家(波佐見)秀峰

 
波佐見染付け三つ鉢  作家 陶房青

 
三川内サラダどんぶり  作家松雲窯 中里 廣松
(平戸松山窯から独立三川内に築炉)

 
有田重箱(三重)  作家 香宝

 
有田鶴取り皿  作家 無名

 
有田取り皿  作家 無名

 
伊万里刺身小皿セット  作家 無名

鍋島

鍋島=日本で最初に磁器を完成させた鍋島藩は その技法が外部に漏れないように 延宝3年(1675)有田から大川内山に藩窯を移した そしてこの地で大名 将軍家 朝廷に献上する高品位のやきものを焼いていた これが鍋島である。

 
色鍋島灰皿  作家 人間国宝 12代今泉 今右衛門

12代今泉 今右衛門(1897〜1975)  
鍋島藩御用 赤絵師の家系に生まれる 幼名平兵衛十代11代今右衛門のもとで色鍋島を修業 1948年12代今右衛門を襲名 1971年国の重要無形文化財に指定 勲四等旭日章受章

 
鍋島猪口  作家 無名

 
鍋島夫婦湯呑み  作家 瀬兵窯

薩摩焼

 
どんぶり鉢  作家 14代沈 壽官(恵吉)

薩摩焼=秀吉朝鮮出征(慶応の役)帰国の際に連行された陶工技術者(沈当吉) 島津家は朝鮮技術者を手厚く待てなし、士分を与え門を構えさせ塀をめぐらすことを許す代わりに、その性を変えることを禁じた、沈家は代々薩摩藩やきものを製造、細工人としての家系をたどり3代は藩主より陶一の名を賜り幕末期には天才12代壽官を輩出し現在は14代壽官まで続く名家である。

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琉球焼

 
壺屋陶器三ヶ月形徳利  作家 新垣 栄三郎

新垣栄三郎
金城次郎(人間国宝)小橋川仁王、新垣栄三郎は沖縄陶芸会のため「陶芸三人展」等を開きリードしてきた 新垣は琉球大学美術工芸の助教授としても活躍した

  
琉球酒呑  作家 銘有るも?

 
琉球 シーサー         ぐい呑み

中国もの

 
天目茶碗  作家 銘有るも?

天目茶碗(てんもくぢゃわん)は、元は茶葉の産地だった中国の天目山一帯の寺院に於いて用いられた天目山産の茶道具で、天目釉と呼ばれる鉄釉をかけて焼かれた陶器製の茶碗のこと。(瀬戸焼の元に成っているのか?)

 
中国茶急須  作家中国宣興 顧◎峰製

 
氷裂紋三足尊青磁香炉  作家宋代哥窯

本物なら大変億だよ!こんな物がネットに出る訳がない、中身より箱がほしかった。日本円にして新しい箱が5000円位掛かるとしてその1/○ぐらいで分けてもらったか、故宮のゴミから箱だけ拾ってきたか? それにしても中身は大した物ではないと思っているが・・・

 
白磁観音坐像(1尺) 作家福建省徳化窯 朝宗

 
お地蔵さん(念呪)  作家特化窯 郭 誠裕 

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その他

津軽金山焼き

金山の大留池底の良質な粘土と風雪に耐えてきた大量の赤松は、陶芸に最適な資源を得ることで、かってこの土地にあった須恵器(縄文土器)の影響を受け、五所川原市盛山に備前式登窯を築いた。
釉薬を一切使わず高温で焼き固める「燒き締め」備前焼と同様の手法で作る、深みある独自の風合いを備えた焼き物を目指している

 
津軽金山焼ロックグラス 作家 松宮 亮二

 
津軽金山焼豆皿 作家 松宮 亮二

佐度無名異焼

 
湯呑み  作家人間国宝 伊藤 赤水

国造焼

初代山本秀治(明治30年〜平成5年)鳥取倉吉市上神、不入岡一帯の陶土が、やきものに適していることに着目 明治末期に築窯した事が始まり 生活用具 花具など暮らしに未着した作陶 二代弥之助が高温度の焼締技術を身につけ 民芸の域を超え 地方作家としての名声を高めた

 
国造皿(7寸) 作家 3代山本 法彩

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その他

 
白磁観音菩薩(8寸)  作家 無名

 
ノリタケ皿(6寸)  作家  

 
オールドノリタケ皿(6寸) 作家 

 
夫婦湯呑み  作家 (白山陶器)

 
コーヒーカップ  作家 (森英恵)

 
徳利(千呂利13cm)  作家 銘有るも?(有田かも?)

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