ああ、いつだって、戻れないあの日々を取り戻したくて。
それでも譲れない想いがあったから、私たちの道は分かれてしまったのだけれど。
でもできることなら、もう一度、あの場所で……。
「アンダーグラウンド」
感覚さえ飛ばすほどの激痛があったことは確かだ。そしてその後、「死んだ」のも確かだったと思う。
気を抜けばたちまち四散してしまいそうな意識を必死で手繰り寄せ、チェルシーは首をひねった。目に入ってくる光景をしばらくぼんやりと見つめてから、ようやく異常に気づく。
「な、なにっ!?」
勢いよく体を起こそうとして失敗し、力なく倒れこんだ。
足の先が水面をなでている。そして背中に当たるこの感触は……
「イルカ……?」
問いに呼応するかのように、彼女の背中の下から鳴き声が響いた。独特の浮遊感とかすかな水音。
思考はぼんやりと霞がかかっていて、上手く状況を整理できない。もどかしい思いを持て余しながら、チェルシーはあたりを見回す。
真っ先に視界に入るのはそびえ立つ瓦礫の山。元が何をかたどっていたのか全く想像がつかない。それほど無残に砕け散っている。
動くものは水面の揺らぎだけ。彼女を乗せるイルカはただ静かに水を泳ぐ。
「私は……白龍を道連れにして…」
言いながらだるい手を腹に当てた。じかに伝わる手の感触が、そこにあったはずの服がすでに破けて無くなっていることを伝える。記憶のとおりなら、そこには致命傷に至る傷があったはずだ。しかし痛みは感じない。それは、つまり――
「……ッ、ルリ様!!」
体に残るだるさも、思考の乱れも全ては一瞬で消し飛んだ。一切の雑念は消え、たった一人、守りきると心に誓った存在だけが行動を促す。
バッと起き上がると、驚いたようにイルカが暴れた。それを慌ててなだめ、小さく「ルリ様はどこ?」と訊ねた。
答えを期待していたわけではなかったが、見えるものが水と瓦礫だけというこの状況で、何かに頼らずにはいられなかった。
最悪の結末が脳裏をよぎる。
すぐにぶんぶんと頭を振り、浮かんだ結末を否定した。
だって、アイツが……留美奈がいた。
だから大丈夫なはずだ。そう、自分を奮い立たせる。
「え、ちょっ……何?」
急にさっきとは比べものにならない速度で泳ぎ始めたイルカにぎょっとして、チェルシーは声を荒げた。振り落とされないように強くしがみつく。
イルカは水面に浮かぶコンクリートの残骸をうまく避けながら進んでいった。
何度目かの瓦礫の山を曲がったところで、一気に視界が開ける。残った照明装置から降り注ぐ光が水面に反射し、そこだけキラキラと光っていた。
チェルシーは一度まぶしさに目を細め、それからすぐに大きく見開いた。翡翠の瞳に映るのは今一番会いたかった人。光が目を射すことなど気にならなかった。
「ル、ルリ様ッ!!」
叫びは大きくこだまし、反響し、何重にもなってチェルシーの耳に返ってくる。
思わず出した足の裏が水底に触れるのを確認するより先に、急いでイルカの背から飛び降りる。胸元まである水の中を無我夢中でかき分け進んだ。
求めた少女の姿はチェルシーと同じく、イルカの背の上にあった。
泳ぐでもなく、もちろん潜ることもせずに少女を守ってくれていたイルカに心から礼を述べて、チェルシーはルリの体を引き取った。
恐る恐る口元に手をやって、そこに確かに呼吸を認めると、つめていた息を一気に吐き出す。
「良かった……。良かった、ルリ様……」
何度も「良かった」と呟き、少女を抱く手に力を込める。そうやっても身じろぎ一つしないルリに心配そうな視線を落とした。
今度はどのくらい、眠り続けるのだろう。
生きていただけで満足できない自分に少し呆れつつ思う。
今、自分が生きているということはつまり、この腕の中の少女がその能力を使ったということに他ならない。能力を使ったということは、白龍の思惑通り、龍が生き返ったということではないのだろうか。
それにしては静かすぎる。
四方八方崖に囲まれたその場所で、チェルシーは立ち尽くしていた。
状況がまるで分からないが、それでもルリが生きている。それだけが、今の彼女にとって全て。
他のことはまた後で考えればいい、と取りあえずの気持ちの整理をつけると、登れそうな崖を求めて視線をさまよわせた。
「――……ッ」
痛む両手に渾身の力を込める。
背負ったルリの体は、引きちぎったチェルシーの服で彼女自身にしっかりくくり付けてある。
すでに水面は遥か下方にあり、落ちればただじゃすまないだろう。幸いすぐそこが開けた場所になっているようだった。ボロボロになったグローブがきつく岩肌をつかむ。
「やっと……」
最後の行程を登りきり、急いで背中の少女を安全な場所へと横たえた。
登る前と変わらず規則的な寝息を立てているルリをみて、ほっとため息を漏らしたときだった。
ガラッと不穏な音とともにチェルシーの体がぐらりと揺らぐ。「え」と小さな叫びを上げたときには、彼女は空中に投げ出されていた。
それがただの水面などとは思えなかった。とっさに能力を使った気がするのに、コンクリートに叩きつけられたかのような衝撃が彼女を襲う。
ゴボゴボと気泡が水の中を上っていく。逆にチェルシーの体は沈んでいく。
服が水を含んでいやに重い。体にまとわりついてうまく水をかけなかった。もがけばもがくほど沈んでいく体と意識。
水をかく彼女の手が何かに掴まれたと感じたとき、チェルシーの意識は呑み込まれていった。