「別に良いじゃないか、減るもんじゃあるまいし……」
 右ほおを赤く腫らせた男は、そっぽを向いたままぼそりと呟いた。そんな彼を翡翠の双眸がぎろりと睨む。それきり男は口をつぐんだ。
 ほどなくして少女はしかめ面を解くと、クスクスと静かな笑みをこぼした。どうした、と問うように男が振り返る。
「……不思議」
「何が、」
「だって、これじゃ……まるで――」

 昔に戻ったよう。

 続く言葉をチェルシーは飲み込んだ。口には出さなかったが相手にもそれは伝わったはずだった。
 なおも可笑しそうに笑う彼女につられて、男も口元をほころばせた。そうしてみると、ずいぶん長い間こんな穏やかな気持ちを忘れていたことに彼も気付く。彼女の笑う顔も、最後に見たのはいつだったか、もう思い出せなかった。
「ねえ、華泰」
 気付けばすでにチェルシーの笑いは収まっている。黙って先をうながす華泰に、彼女は静かに問いかけた。
「あなた、これからどうするの?」
「……お前はどうするんだ?」
 問い返されたことを怒るでもなく、少し驚いたように目を開いてから少女は顔を伏せる。傍らのルリの髪をサラサラと梳きながら口を開いた。
 いつか、あの少年に同様の問いを投げかけられたことを思い出す。
 あれからずいぶん長い時が経ったように感じるが、紡ぎだされた答えは喉につっかかってしまった。
 全てを覚悟して白龍に相対したとき、先のことなど考えなかった。その後、夢か(うつつ)か定かではない記憶の中で少年に出会ったように思う。彼に全てを託したとき、自分の未来など諦めたのだ。彼と、唯一護りたかったルリの未来があれば、それだけでいいと心底思った。
 だから急に生き返ってもすぐに「これからどうしたいか」など考えられなかった。今の願いは、ルリが無事に目覚めることだけなのだ。そう、今はそれだけが、望み。
「分からない。ルリ様が目覚めてから、それから考えるわ」
「そうか」
「で、あなたはどうなの?」
 どうやら質問から逃れる術はないようだった。二度はぐらかすことはできない。
 華泰は薪に枝を放り込む。パチ、と弾かれるようにして赤い粉が舞う。
「…………二度も救われた世界だ。三度壊すことはできない」
「じゃあ――」
「公司には戻らない」
「………………」
「戻ることはできない」
 断固として放たれた言葉は、覆ることがないのを物語っていた。そんな彼に、重ねて「戻って」などとは決して言えない。
 そう、と小さく頷いたチェルシーの瞳に、涙がこみ上げる。もう戻っては来ないものを想い、全て承知しているはずなのに、ただ、涙だけはどうにも止められなかった。
 どうか頬にかかる金髪が、この涙を目の前の男から隠してくれることだけを祈る。

 華泰が動く気配がした直後、残りの枝が全て薪にくべられた。ふたたび勢いを取り戻した紅い炎はゆらゆらと揺れて、まるで壁をつくるかのようにチェルシーと彼との間で燃えさかる。
「明日、公司の近くまで連れて行く。今日はもう寝ろ」
 そう告げるなり華泰はさっさと横になる。チェルシーに向けられた背中はなにも語らない。ただ、かつて見たどの印象も今の彼の背中には当てはまらないのはわかる。
 自信に満ちた大きな背中でもなく、子供のような小さな背中でもなく、全てを吹っ切ってしまったもの特有の何かが漂っている。
 その事実が、「公司には戻らない」と言った彼の言葉を無言で肯定していた。
「………おやすみなさい、華泰」
 一目見たときから分かっていた。知っていた。
 たぶん、自分が彼の姿を見るのは、これが最後だということを。

 横になったチェルシーの後ろで、パチンと火が鳴る。
 紅い炎はゆっくりと力をなくし、やがて風に吹かれて消えていった。





 指し示された眼下の光景に、チェルシーはしばらく何も言えなかった。
 案内されて向かった施設周辺地域は近づくにつれて酷い有様になっていき、ただでさえ疲労している彼女の心を鬱々とさせた。
 見渡すかぎり廃墟と化したこの地は、少し前まで龍の研究施設だった場所だ。彼女が、最後に意識を失った場所。
「……………」
 龍の発掘跡であったあの穴が、周りの土を巻き込みながら巨大化している。地下の施設はつぶされて、二度と忌まわしい研究がよみがえることはないだろう。
 絶句しているチェルシーの後ろで、華泰は淡々と言葉を紡いでいく。
「ここから迂回していけば公司本部にたどり着く。もうお前を追う者はいない。崇神や赤が事情を全て知っているだろう」
「………分かったわ」
 呟くように言った彼女の手に、愛おしい重みが戻ってくる。
 華泰が抱えていたルリを静かにチェルシーの腕へと渡したのだ。確かめるように一度ギュッと強く抱きかかえてから、彼女はくるりと後ろを振り返った。感情に乏しい紅い瞳が見返してくる。しかしそこに、以前のような圧迫感は感じられなかった。
「ありがとう。それから……、さようなら」
「ああ」
 短くうなずく彼の姿をしっかりと記憶に焼き付ける。
 いつでもまた想いだせるように。決して(かす)れることがないように。
 真摯な翡翠の瞳のさきで、華泰はふとなにか思い出したように首に手を当てた。プツリと音がするかしないかのうちに、彼の拳が前に出される。
 何?と見返すチェルシーの両腕がふさがっているのに気付いて、彼は手早く持っていたものを彼女の首にかけなおした。
 華泰の胸に抱きしめられるようなかっこうになったチェルシーは、黙って目を閉じた。たった今、首に掛けられているものが何なのか、彼女にも察しがついたのだ。
「これはお前が持っていてくれ」
 案の定、胸に掛かるのはあのペンダントで。果たすはずだった役目を無くしたそれは、今となってはただのペンダントに過ぎなかった。大部分の者にとっては……。
 返事も待たず華泰は踵を返す。そのまま去ろうとする彼の背中に、チェルシーの凛とした声が響いた。
「問いの答えだけど、」
 地下空洞(アンダーグローブ)から心地よい風が吹き上がる。金色の髪がなびく様は、まるで麦穂が波打っているようで。華泰の瞳が静かにすがめられる。
「私、風が好きなの。地上の風が」
 本心だった。今なら臆することなく言える。
 ここにはいないあの少年に向けて、チェルシーは言う。
 華泰がそっと微笑んだように見えたが、薄暗いここでははっきり分からなかった。
「そうか」
 それだけ言うと、今度こそ彼は歩き出す。今度はチェルシーも引き止めなかった。
 遠ざかっていく彼の背中をしばらく見送ってから、彼女はしっかりとした足取りで歩を進める。
 彼とは逆の方向へ。


 待ってなさいよ、留美奈。

 挑むように笑って、生命の巫女の護衛役、チェルシー・ローレックは地下空洞を駆け抜けていった。

←前話/二次創作↑

着地点は見えていたけれど、なかなか終わらなかったお話。
取りあえず空白だった施設崩壊後のわたし的穴埋めです。こんなだったら良いなあと想像してました。
最終回のあと一番気になったのは、公司のトップは誰になったかっていうことです(笑。
どう転んでも、崇神の苦労が尽きることはないんだろうな。
お名前(任意)
コメント
           Powered by FormMailer.