雪解けの水が厳しい冬とともに古きものを運び去り、新しき命を育んでゆく。
青々とした若葉が当たり一面を覆いつくし、流れる空気はひたすらに澄んでいた。
春の到来を告げる風に、民衆の喜びの声が乗る。
バベルの民は今日この日をずっと待っていたのだ。
そう、バベル帝国の宰相、ラキア・バシリスクの婚儀の日を。
「エピローグ」
その日、バベル城は使用人に至るまで皆浮き足立っていた。
庭師は切らなくて良い枝まで思わず切ってしまったし、侍女はお茶をこぼし、厩番はいつもより多くの餌を馬へ与えてしまった。
しかし誰も、今日この日に限ってはそんな失敗を咎めたりはしなかった。
皆一様に頬を上気させ、廊下を進む足取りは軽い。
その中を、一人の青年が足早に進んでゆく。すれ違った者は例外なく深々と頭を下げて短く祝いの言葉をかける。が、急ぐ青年の耳には充分に届いてはいないようだった。
やがて一つの扉の前にたどり着くと、ノックもおざなりに押し開いた。
「できたか?」
部屋の中は侍女たちで一杯だった。
彼女たちの視線を一斉に気圧され、彼、ラキア・バシリスクは一歩後退する。
「まあ、ラキア様ったら! 式までお待ちくださいな」
聞き覚えのある溌剌とした声に、ラキアはほっと胸を撫で下ろした。声はアリヤのものだ。彼女は侍女の群れの間から出てくると、「困った方ですね」と笑ってみせる。
「待っていようと思ったんだが、一つ言い忘れたことがあって……彼女は?」
「奥ですわ。もう準備は出来ております。完璧に仕上げましたからラキア様もきっとお気に召すはずです!」
満足げに笑う少女にラキアも笑みを返して言う。
「悪いが――」
「承知しました。御用が済んだらお呼びください」
アリヤも浮かれているに違いない。ラキアの言葉を最後まで待たず、彼女は他の侍女たちを連れて部屋を後にする。「さて」、とラキアは奥へ続く扉に手をかける。
「ねえアリヤ、ちょっと助けてくれない? 鎖が髪に引っ掛かっちゃったみたい」
背を向けた銀髪の少女は、その身を純白のドレスに包み一つの椅子に腰掛けていた。
首の後ろに回した手をどけさせると、せっかく時間を掛けて編みこんだであろう髪が鎖に絡まり、目も当てられぬ惨状を呈している。
「どうしたらこんなに絡まるんだ?」
「ラ……キア様!?」
「動くな。余計に絡まる!」
驚いて振り返ろうとしたリディスの頭を両手で前へ向かせラキアは叫んだ。
「取ってやるから、じっとしてろ」
「………はい」
大人しく前を向いた少女がくすりと微かな笑い声を漏らす。青年の問うような気配を感じて彼女は口を開く。
「なんだか、覚えのある会話だなあと思って」
「……そう言えば、そんなこともあったな」
「出会ってしばらくの頃です。貴方は私を避けてました」
「なのに君は必ず俺を見つけたな」
「避け方が中途半端だったんですよ」
「……君が、怖かったんだ」
苦笑いを浮かべたラキアに、リディスは「ひどい」と呟きふくれて見せた。
鎖は執拗に彼女の銀髪に絡まりなかなか外れない。これはもう一度編み直さなければなるまい。
ふと、「本当に俺でいいのか」と訊こうとしてすんでのところで飲み込んだ。もうその問いはしないと決めたのだ。過去の過ちも、未来に積もっている問題も、一緒に乗り越えていこうと誓ったから。
最後まで彼らの婚儀に異を唱えていたのは意外なことにセラフィーだった。
あの真面目な執事は全てを分かった上で、ただ主と彼の愛した少女の身だけを心配し苦言を呈していた。城にいれば否が応にも目立ち、リディスの素性を問いただす者も現れるかも知れず、そうなれば再び国は混乱するだろう。セラフィーはただそれを心配していた。
彼にはいつも嫌な役目ばかり負わせてしまう。
だからラキアとリディスは誓ったのだ。
身を案じてくれる全ての人のためにも、必ず幸せになると。過去に犯した罪は生きて償ってゆくと。
絶対に後悔はしないと。
だけど、どうしても最後に問いたいことが一つあった。
「本当に、良いんだな? ……リディス・アシュハルトとしてでもなく、リディエラ・トゥル・イシリスとしてでもなく――」
「リディス・ゾルディック」
放たれた言葉は決して揺らぐことのない絶対的な力を持っていた。前を向いた少女の表情は分からない。だが、ラキアには容易に想像することが出来た。
「それが、私のたった一つの名ですから」
「君が、揺らがないなら……それで良いんだ」
もう何も、二人の間に問うべきことなど残っていなかった。全ての答えはお互いの中に存在していて、わざわざ形にする必要はなかったから。
不意に、銀糸から鎖が解放される。
付け直そうとしたラキアの目が、彼女の胸元に光る二つの鍵を見つけた。
ラキアが渡した銅の鍵と、アゼルが渡した銀の鍵。
ともにリディスの胸元で揺れるそれらが、彼女の決意を表しているようで、ラキアは黙って鎖を付け直す。
「じゃあ、行こうかリディス」
ほつれた髪は行きがけにアリヤに直してもらえば良いか、とラキアは座る少女に手を伸ばす。分厚い壁を通り越すほどの歓声が聞こえているのだ。
ふわりとリディスが立ち上がる。まるで重力などないかのような、軽い静かな動作だった。
深紅の瞳に、綺麗に編み上げられた銀の髪。
薄いレースが幾重にも重ねられた純白のドレスが、さらさらと音を立てる。
今まで見た中で、一番最高の笑顔を浮かべて、少女は差し出された青年の手に自らの手を重ねた。
我知らず止めていた息を気付かれぬように吐き出して、青年は少女の手を優しく握る。
わずかに首を傾げ、リディスは答えた。
「はい、ラキア様」
バベル帝国、ウォルス・トゥル・イシリスの即位後二十六年。
その王座を空位のままにして、実質上の最高権力者ラキア・バシリスクは成婚の儀を執り行った。
選ばれた花嫁の名をリディス・ゾルディック。先の内乱で行方不明となっていたウォルス陛下付きの小姓キース・ゾルディックを父に持つ者である。
臣下の反対を押し切った形で成されたこの結婚は民衆の圧倒的な支持を得、現在に至る。
また、隣国アシュハルトと結んだ停戦条約は守られ、その後幾度もの協議の結果、和平条約を締結。これをもって長い二国間の敵対関係に終止符を打った。
これから以後、バベル帝国は王のいない国として、永くその歴史を刻むことになる。