この前の席替えで窓際の席に移ってからというもの、一日の大半は窓の外を見て過ごしているような気がする。おかげで放課後は首が痛い。
「なんか平和よね」
人気がまばらな帰り道をのんびり歩きながら、凝り固まった首を左右に曲げる。
「お主はちいと能天気すぎる」
「桐谷、もう少し言ってやってくれ」
依良がこぼした呟きに、呆れ交じりの二人の声が返ってきた。ムッとなってふり返れば思ったとおりの表情が視界に飛び込んできて、依良の眉間にしわが寄る。
「だって、そう思っても仕方ないくらいここ二週間平和なのよ。今朝母さんが風邪引いて寝込んで、父さんが久々に出張してるほかは、これといってニュースもないくらい私の周りは平和なのよ」
依良だってこれが長続きしないことは百も承知している。だが、こうも忘れ去られたように放置されていると、嫌でも危機感が薄れてしまうのが人間というものだ。
宇石との一戦以来、彼らが依良に接触してくることは一切ない。
様子見だと言われて気を引き締めていられたのも最初の三日くらいで、そのあとは依良も普段どおり学校へ行き、もうすぐ来る冬休みを待ち望んでいるごく普通の学生の身である。
「あーあ、来るなら早く来いってのよ。待ってるだけってのも疲れるわ」
「ご希望に応えようか?」
ざわりと背筋が震えて依良は反射的に声のしたほうへ振り返った。その動作よりも速く、一馬が依良の前に立ちふさがる。視界を遮った一馬の肩越しに依良は相手の姿を確認した。
宇石と名乗った少女ではない。また別の少女だった。
短い髪が肩口で綺麗に切りそろえられている。いくぶん大人びた切れ長の瞳が、覗き見ていた依良の姿を見とめてスッと細められた。
「下がれ」
一馬の鋭い声が飛んで、依良が一歩後ずさった。その背中に冷たい別の声がかかる。
「悪いが今日は引かない」
視線を飛ばした先にいたのは、ついこのあいだ暗闇の中でちらりと見た少年だ。手にしたクナイが鈍く光って依良を威嚇する。
明るい空気の中で改めて見ると、少年のその異様さは一層際立っていた。物語の中の「忍者」と呼ばれるキャラクターがそのまま目の前に現れたかのようだ。だが、彼を取り巻く不自然な空気がこれは紛れもない現実なのだと告げている。
殺気は感じなかった。あまりにも少年は静かだ。それが逆に怖かった。
「ねえ……」
思わず不安になった依良の手が、一馬の服のすそを無意識に引っ張る。
その手を、まるで「大丈夫だ」というように一馬がそっと引きはがした。
「桐谷、お前はそっちの奴をやれ」
有無を言わさぬ強い口調で一馬はそう言うと、自分は依良の前に立ちふさがる少年に向き直った。
少年は相変わらず無表情だったが、手にしたクナイが戦闘の意思があることを否応無く示す。
「この前は良いとこで邪魔しに来てくれたな。借りは返す。……力を吸われたあの女はどうした? 動けないんだろう? もう捨てたか?」
薄く笑みさえ浮かべた一馬の挑発に、少年は初めてわずかに反応を返した。
「宇石を愚弄するな」
「動かなくなった人形なんてただのガラクタだ。そうだろ?」
「黙れっ」
低く叫んで飛び出した少年の体を、一馬は正確に捉えて叩き伏せる。地面に叩きつけられた少年は軽く一回転して間を置かずに再び跳躍する。
逆手に握ったクナイが一馬の頬をかすった。意図せず依良の口から小さな悲鳴が漏れるが、遅れて青年が痛みを感じないことを思い出す。それにしたって、誰かが傷つけられるのを見るのは辛い。
一馬と少年が激しくぶつかり合っている横で、桐谷ともう一人の敵である少女はただじっと間合いを取って睨み合っていた。
「歳三、楽しそうにやってるじゃあないか」
少女がくすりと笑みをこぼす。ほんの少し嫌味が混じった、それでもどこか温かみのある笑みだ。
桐谷はそれには応えずちらりと一馬のほうへ視線を動かす。
いくら人気がないと言っても、まわりは民家が立ち並ぶ静かな住宅街だ。いつ家の中から人が出てくるか分からなくて依良は冷や冷やする。
この状況を説明しろといわれてもできるはずがない。知り合いに見られたら一環の終わりだ。
だが状況を打破するだけの力が依良にはなかった。
手助けも、自分の身を守ることもできずにただ立ちすくんで二人の戦いを見守っているだけだ。騒がずにじっとしているのが精一杯の今の自分の姿に吐き気がする。
歯がゆさにギリッと奥歯をかみ締めた彼女に、桐谷と向かい合っていた少女が声をかける。
「阿古屋の人形師、初めまして。わたしは麻巳」
軽やかに自己紹介されて依良は戸惑う。
桐谷が、遮るように依良と少女の間に立ちふさがった。
「……お前の家に、いま女が一人いるだろう」
麻巳と名乗った少女がにやりと笑う。酷薄な笑みだった。
瞬間、依良の体中に震えが走る。
「早く行かないと、その女、死ぬよ」
「……や、やめて」
「依良、聞くな」
初めて桐谷が依良の名を呼ぶ。だが、彼女の耳には届かない。
家には、寝込んでいるはずの母親がいる。
隆久は今日家にいない。
家にいるのは母親一人だ。
「やめてよ! やめてっ、母さんは関係ないでしょ!?」
「関係ならあるよ。阿古屋の家に生まれたんだもの。……いいの? こんなとこでじっとしてて」
桐谷の手が依良の腕に伸びるよりも早く、彼女は地面を蹴っていた。少年の制止する声が後ろから追ってくる。続いて何かがぶつかり合う音。
「おいっ、どこ行くんだ!!」
一馬の驚きに滲んだ声も、あっという間に後方へ飛んでいく。全ての制止を振り切って、依良はただ駆けた。
罠かも知れない。一瞬浮かんだ考えもどうでも良かった。
罠だとしても、彼らは力も何もない母親を殺すのを躊躇わないだろう。
自分を招くための餌など、母親以外にもたくさんある。
だから、彼らは阿古屋優子を殺すのを躊躇いはしないはずだ。
ありったけの速度で依良は見慣れた風景の中を駆け抜けた。肩にかけていた鞄はいつの間にかなくなっていた。
ひたいに嫌な汗が浮かぶ。呼吸が乱れて足の感覚がなくなってきたころ、やっと視界に古ぼけた神社の鳥居が映る。
「母さん!!」
大声で叫ぶ。
叫んだからって意味が無いのは分かっていたが、叫ばずにはいられなかった。
そのままの勢いで玄関に飛び込むと戸を力任せに引っ張った。が、開かない。震える手で鍵を出そうとして、鍵は鞄の中だったことに気づいて愕然とするがもう遅い。取りに戻る時間などない。
「どうしよう、どうしよう……母さん!」
何か聞こえないかと一瞬耳を澄ませ、ついで急いで居間の窓へ移動する。ためらいもなく置いてあった植木鉢を持ち上げて窓ガラスを割ると、手を突っ込んで鍵を開けた。
靴のまま中に入り廊下へ飛び出した依良の足が、ぴたりと止まる。
「遅かったじゃないか、阿古屋の人形師」
廊下にたたずんでいたのは一人の少女だった。異様なほど長い黒髪が薄暗い廊下に溶けこむように広がっている。
真っ白な肌と、黄金色の大きな瞳だけが暗闇に浮かび上がっている少女のさきに、優子の寝ているはずの部屋がある。その戸が、ほんの少しだけ開いていた。
「……母さん、は……」
かろうじて搾り出した声はかすれていた。無表情の少女の口が小さく開く。
「安心しろ。今から殺しに行くところだった。馬鹿みたいに眠っているよ。何も知らずに」
「やめてっ、なにが目的なのよ。なんで母さんを殺さなくちゃいけないのよ! やめて、お願いだから……」
こんな、ただ懇願するような声が自分の口から発せられるとは思っていなかった。でも今は確かに、何もできない自分はただ相手に必死に頼むしかないのだ。
力が欲しい。有無を言わさず相手を屈服させるだけの力が。
依良の言葉にわずかの動揺も見せない少女は、足音を立てずに一歩後退する。それはつまり、優子のほうへ一歩近づくことと同じだった。
「やめてっ!」
「止めたくば力ずくで止めてみせろ。口だけ達者でも、なにも守れない」
「そんなの、出来てりゃ……」
力があったら、言われずともとっくに使っている。
あの日一度だけ発現した力は、そのあとどれだけ念じても現れはしなかった。
力を使うことが自分の命を削ることだとしても、大切な人を守れるのなら使うことに何のためらいもない。それなのに、なぜ自分の思うように使うことが出来ないのか。
「……っ、そんな当てになんないもんに頼ってられるかっつーの!」
叫ぶなり依良は少女に体当たりする。
一瞬ひるんだ彼女の長い黒髪を左手につかみ、右手で首を締めつけるようにして床に押し倒した。
伝わってくる感触が硬質だ。まぎれもなく相手は「人形」だ。
そのまま母親から引き離そうとした依良の手を、今度は相手が思い切りつかむ。思わず悲鳴を上げるほどの痛みが腕に走って、その拍子に右手から少女の体が抜けた。が、左手の髪の毛だけは離すものかと渾身の力で握る。
「馬鹿な女だな。わたしは桜華様の人形のなかで、最強強度をもっているんだ。それに、人形は痛みを感じない」
耳元でぞっとするような低い声がささやかれた。次の瞬間、左手にかかっていた力がふっと抜ける。
左手で必死につかんでいた少女の黒い髪がざっと床にばら撒かれた。彼女が自分で根元から切ったのだと気づくのに、少々の時間が要った。
床に尻もちをついた依良を、無残な髪を揺らした少女が非情に見下ろす。
「髪なんて要らない。必要なのはお前の力。……出さないなら、本当に母親を殺す」
そんなことを言われても、出し方が分からないのだ。
呆然とする依良を一べつして、少女はくるりと踵を返した。優子の部屋へ行こうとする彼女の足に依良は飛びつく。
自分の無力さに涙が出る。
一馬も桐谷も足止めを食らっているに違いない。最初から依良を一人にするのが敵の目的だったのだ。
依良を一人にして、母親を餌にして力を出させるのが目的だったのだ。
「やめて! お願いだから! 力ならっ、力ならこんなことしなくたって」
「時間が無いんだよ、我々には。お前が不甲斐ないから、周りが傷つくんだ。お前が力を操れるようになるまで、何人でも殺してやる」
「やめてよ!!」
絞め殺すほどの勢いで抱きついているのに、少女の歩みは止まらなかった。
不気味なほど白い手が、すき間の開いた戸にかかる。
ざわりと背中が凍りつく。
「騒がれると面倒だから眠らせた。悪いが最期の会話はできないな」
「母さん!!」
喉がはちきれるほどの大声も優子には届いていなかった。
布団の上で、彼女は静かに眠っていた。
この大騒ぎにも気づかず、場違いなほどの静かな寝顔。その頬だけがかすかに赤く染まっていて、まだ生きていることを証明していた。
もう一度呼ぼうと口を開けた依良の頭に衝撃が走った。
金色の瞳の少女が依良の髪を無造作に引っ張って、依良は無理な姿勢のまま床から離される。
「今日は母親。次は父親だ。それでも駄目なら親戚、友人。無関係の人間でも、際限なく殺してやる。今からするよりもっと苦しむ方法で、無残に殺してやる。この母親が、幸せだったと思えるくらいのやり方で」
言い終わるなり少女は依良を突き飛ばした。
髪が数本束になって抜ける感触と、背骨が壁に打ち付けられた衝撃に眩暈がした。
定まらない視界のなかで、少女の白い手が眠ったままの優子の首に触れる。
やめて、ともう一度叫んだ気がした。
もはや自分の声も聞こえなかった。
血が逆流する。
すべての音が遠ざかる。
痛みも何も吹き飛んで、手だけがまっすぐ少女に伸びる。
「やめてッ!!!」
体中が熱かった。
燃えているのではないかと思うほど。
白いもやのような糸が体中を駆け巡って、次の瞬間少女に触れた指の先から視界一杯に広がった。
もう何も見えない。痛いほどの白い光が瞳を突き刺す。
何も見えない。
無我夢中で手に触れたものを握りしめた。
耳鳴りがする。
雑音が一つのうねりになって耳を通って脳のなかを駆け巡る。
うるさい、と呟く。
こっちだって必死なのに、力、力、とみんなうるさい。
好きでこんな力手に入れたわけじゃない。
期末テストだってあるし受験だってあるし、叶えたい恋もあるし将来の生活だってある。
生きていくだけで精一杯だ。
でも、守りたいものがある。
大事なものが、失いたくないものがある。
そのためなら、どんな危険な力だって使ってやる。
「母さんに……ッ、触るな!!」
つかんだ少女が依良の手から逃れようと身をよじった。
逃がすものか、と渾身の力を手にこめる。それでも人形の力に抵抗できるわけもなく、ぎりぎりと拘束が緩む。
もう少しで自由になろうとした少女の体に、依良の体から吹き出た白い光の糸が絡みつく。
依良の手は完全に少女から離れたが、光の奔流だけが人形の体をこの場に押しとどめていた。目にした光景に依良自身驚く。
光が、まるで生き物のように人形に絡みつき、その力を、食っていた。痛みを感じないはずの少女の綺麗な顔が、苦悶の表情に歪む。
必死に光から逃れようと床をのた打ち回るその姿を見ても、勝ったのだという満足感は少しも得られなかった。
「ああっ、く……おう、桜華様ッ、桜華様っ! 助け……」
「なにこれ……」
助かったと思った安堵の気持ちは、目の前のおぞましい光景に一瞬で吹き飛ぶ。
おそらく自分の使ったであろう力が、見た目こそただの少女である人形に絡みつき苦しめている。
「いやだ……ッ、桜華様あぁ!」
救いを求めるように伸ばされた少女の手から一歩、依良は後ずさる。どうしていいか自分でも分からない。
それでも悲痛な表情の少女を見捨てることがどうしてもできず、依良の手が少女の伸ばした手に触れる。その瞬間だった。
「だから勝手な行動はやめろって言ったんだ!」
頭上から低い声がふってくる。
顔を上げた依良を、一馬の苦々しい色の瞳が捉える。
「落ち着け。この力を抑えろ」
「でも! 私がやろうと思ってやってるんじゃ――」
「力はお前のものだ。お前が止めなきゃ、誰も止められない。できるから、やってみろ」
落ち着け、ともう一度静かに言われ、依良は深く息を吸う。細く長く息を吐いてから、目の前の状況を確認した。
少女はもうぐったりとした様子で床に横たわっていた。
白い光はもう清いものには思えなかった。とぐろを巻いて少女の力を貪っている禍々しいものだった。
戻れ、と光に命じる。
おとなしく戻れ、と。
驚いたことに、光は依良の言葉を解したかのようにかすかに瞬いた。不本意そうにずるずると床を這って依良に近寄ってくる。
ひるんで後ずさろうとした依良の肩を、一馬が「大丈夫だ」と押しとどめる。
光は蛇のようにくねりながら依良の足に絡みつく。全身に鳥肌が立つ。思わず一馬の手をしっかり握った。
「戻れ、もう。こいつが命じているんだ、もう十分だろう」
一馬の厳しい声が部屋に響いた。少し掠れた、低い声だ。
足に絡み付いていた白い光はそのままずるりと依良の体の中に姿を消した。瞬間、体が重くなった気がして崩れ折れた依良を一馬が支える。
「お前は、母親連れて向こうへ行ってろ」
「一馬……」
戦いはもう終わったのではないのか。倒れた少女は、この前の宇石のときと同様、もう力を吸われて満足に動けないのではないのか。
眠ったままの母親を抱き起こしながら依良は無言で一馬に問う。しかし一馬は相変わらず厳しい視線で倒れた人形を見下ろしていた。
「まだ、終わってない」
「え? だって……」
言いかけた依良の目が、驚きに見開かれる。
目の前で、ぐらりと少女が立ち上がる。顔にかかった黒い髪を無造作に書き上げた彼女の金色の瞳は、ぎらぎらと異様なほど輝いていた。
「行け、早く。ここから離れろ。邪魔だ」
一馬は背中越しに依良に命じる。
その向こうで、少女の甲高い笑い声が響いた。人を不安にさせるような暗い笑い。
ひとしきり笑って少女は依良をじっと見つめてくる。
「凄いよ、お前。さすがは歴代最高の力をもった人形師だ。最後にして最強の人形師。桜華様は間違っていなかった。あの方は凄い。……なあ、そうだろう? 一馬」
「目障りだ。今すぐ消えろ」
「本題は終わった。人形師は確実に目覚めに向かってる。計画通りだ。……だけど、なあ、一馬。桜華様の計画に一つだけまだ邪魔なものがあるんだよ」
「お前らの下らない計画なんか知るか」
「邪魔なんだよ、一馬、お前が。この死に損ないの異端の人形が!!」
一馬はもうなにも言わなかった。
向かってきた相手の喉笛を力任せにつかんでそのまま窓を割って、二体の人形は一緒になって外へ躍り出た。
空中で体勢を立て直した一馬の足が少女のこめかみをえぐる。陥没した少女の頭が異様な方向へ曲がった。
「ひっ……」
優子を今のソファへ移した依良は戻ってきて、割れた窓の桟に手をかける。ガラスが手のひらに刺さって血が出たが気づかなかった。
人気の無い神社の境内は真っ赤な夕日が降り注いでいて、激しくぶつかり合う二体の人形の体は赤く染まっていた。まるで、本当に生きているように。
さすが最強の強度を持っていると豪語していただけあって、一馬の強い蹴りを食らっても人形は壊れはしなかった。ただ、体のあちこちがわずかにへこんでいて、痛みはないと知ってはいても痛々しい。
やはり依良の力が少しはダメージを与えているのか、相手の動きは少々鈍い。
一馬のほうが格段に早い。
殴り飛ばした少女がまだ宙に浮いているところに、容赦なく打撃を与えていく。
とうとう少女の左手が肩から外れて高く空に舞い上がった。
背中から地面に倒れた彼女の上に一馬の足が振り下ろされる。
「や、やめて……」
依良の声から掠れた小さな叫びがあがる。
怖い。
誰が?
一馬が、怖い。
依良のかすかな声など一馬に届くはずも無かった。
桟にかけた手が震えている。赤い血が滴り落ちる。
どん、と重たい音がして依良のすぐ目の前に少女の左腕が無造作に落ちてきた。
その音に弾かれるようにして依良は窓を飛び越えて外へ出た。
「一馬やめて!」
これ以上はやめて欲しかった。
どうして?
見ていたくないから。
怖いから。
誰が?
……誰が?
「一馬っ、もういいでしょ!?」
叫んだ依良を振り返った一馬の瞳は少女と同じようにぎらぎらと暗く光っていた。彼の足元で、少女の人形は激しく暴れている。だが一馬の足はびくともせずに少女を地面に縫い付けていた。
「『もういい』?」
一馬はそう繰り返して鼻で笑う。
「あんたは、なにも分かってない。『もういい』なんてないんだ、……阿古屋依良。『もう』なんてないんだよ。やらなきゃ、やられる。こいつはまた来る。また来て、お前の大事なものを奪っていく。それが嫌ならやらなきゃならない。同情するのは結構だが、代償を払う覚悟が、お前にあるのか? 阿古屋依良」
答える言葉が見つからない。
守りたいものがある。
何に代えても、守りたいものがある。
一馬の言っていることは正しい。それは分かる。
「甘い。甘いんだよ。お前。だから嫌だったんだ、お前を見ているのが……。甘くて、理想論で、口ばっかりで……お前を見ているといらいらする。どうしようもなくムカつくんだ。俺は間違ってない。俺は間違ってない。守りたきゃ、やらなきゃならないんだ、やられる前に! お前は、そんな単純なこともわかんねえのかよ!」
くそ、と悪態をついた一馬の手が、地面に縫い付けられている少女の首に伸びる。
「こいつは壊す。じゃないとまた来る」
自分に言い聞かすように強い口調で呟いて一馬はその手に力をこめる。
ミシミシと木が締めつけられるような音がする。いや、「ような」じゃなくて実際そうなのだろう。
彼らの体は本物ではなく木でできているのだから。
見ていられなくなって依良は顔を手で覆った。
なにか言いたい。
なにも言えない。
ふさげない耳から少女の罵声が入ってくる。
どうしていいか分からない依良の首に、不意に冷やりとしたものが当てられた。驚いて振り返ろうとした依良の耳に、「動くな」という短い声がかかる。
「動くな、動けば動脈が切れるぞ。……一馬、その手をどけてもらおう」
慎重に視界の端にとらえたのはあの少年だった。手にしたクナイが、まっすぐ自分の首に当てられている。
一馬はちらりと振り返って、「お前がその女を殺せるわけがない」と吐き捨てるように言った。
「確かに、殺せない。だが、傷つけられないわけじゃない。殺さなければいいんだ。……それとも、死ななければこの女が傷つこうとどうなろうと知ったことではない、か?」
首に当てられた刃がプツリと薄皮を一枚破る。少しでも動けば首が切れる。
一馬の顔は見られなかった。見たくなかった。
やがてゆっくり彼が立ち上がる気配がした。倒れていた少女は跳ね起きざまに一馬を蹴り飛ばす。
境内を勢いよく吹き飛ばされた彼が体勢を立て直したときには、すでに敵の姿はそこになかった。
力なく地面に座り込んだ依良の目が、一馬を捉える。
彼のおそろしく澄み渡った瞳が、一瞬依良の視線と絡み合う。
薄く開いた口からはなんの音も発せられなかった。
ふいっと踵を返して一馬は立ち去る。去っていく後ろ姿を、ただ依良は黙って見つめ続けていた。
一馬を初めて怖いと思った。