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 脆いものは嫌いだ。
 見ているだけでムカムカしてくる。
 弱く頼りないものに、存在する権利なんてぜったいにない。

 宇石は視界に入った真っ赤な花を一べつしてから片手でくしゃりと握りつぶした。
「花に罪はないだろう」
「うるさいよ、佐助」
 曲がり角から姿を現した佐助が無言で近づいてくる気配がした。宇石は縁側に腰かけたままふり返りもしなかった。

「罪ならあるさ。『弱い』っていう罪がね。逃げなかった罪。黙って潰された罪。仕返ししない罪。罪ならある、山ほど」

 握ったこぶしをゆっくり開くと、赤い花びらがバラバラと足元に散る。
 佐助はなにも言わずに、少し離れた場所へ腰かけた。
 縁側は小さな中庭をぐるりと囲んでちょうど正方形に広がっていた。小さい、とはいってもゆうに十四畳はあるだろうか。
 その正方形のなかに、名前は知らないが何本かの木と花々が、少年にはよくわからない調和を保って入り乱れている。
 春になれば華やかになるだろうが、十二月ともなるとやはり寒々しい雰囲気はぬぐえない。一際存在感を誇っていた赤い花は、たったいま宇石に握りつぶされその数を減らしている。
「桜華様はなにをしてるんだ? なんでお前たちはのんびりしてやがるんだ? 僕がやられてひるんだのか?」
「待ってるんだ」
「なにをさ」
「人形師の目覚めを」
「覚醒ならしてたさ! 見ろよ、この僕のありさまをッ! 力を吸われてすっかり使い物にならない。縁側に座って桜華様の庭を日がな一日眺めるのが関の山さ!」
 たまりかねて叫んだ宇石を佐助は無言でちらりと見やった。その瞳にはなんの感情も表れてはいなかったが、その口調には少女に対する少なからぬ気遣いがあった。
「真の目覚めを待っているんだ」
「なんだよそれ」
「人形師は、おそらくまだ完全に覚醒してはいない。お前に追いつめられてとっさに力を使ったが、自らコントロールするには至っていない……というのが桜華様の見立てだ」
「……なんだよ、それ」
 宇石がぼそりと呟く。
 佐助は湿った地面を見つめながら口を開く。
「宇石、桜華様はお前を決して見捨てたりしない。いつか必ず元通りに――」
「いつか? いつかっていつだよ!? すべてが終わったころか? 僕は……僕は、桜華様の役に立つために、ただそれだけのために今日までお側についてたんだ。それなのに、一番大事なときに、このときに、足手まといにしかなれないんだったら……いっそ、死んだほうがマシだ!!」
「宇石……」
 少女はふらりと立ち上がる。
 感情がないはずのガラスの目に、青い炎がちらちらしている。
「なんだよ、それ。じゃあ僕は……当て馬かよ。ハッ」
 吐き捨てるように言って、宇石は庭に飛びおりた。裸足の足が敷石に触れて、コツンと鈍い音を立てる。
 そのまま並んで咲いていた赤い花の前に立つと、前触れなく腕をふった。
 パシッという軽い音とともに赤い花弁が宙に舞う。
 さらに執拗に二度三度手を払うと、宇石はくるりと背を向け去っていった。
 まるでもう花の存在を忘れてしまったように。
 赤い花びらはひらひらと、音もなく地面に散らばった。
 残された少年はその一つを手にとると、外見に似合わぬひどく優しい手つきでそっと口づけた。

「弱いのは罪じゃないさ、宇石。弱さに甘んじなければ……」





 自覚しかけたあと、意識につながるのは本当にあっという間のできごとだった。
 まさかと思うほどの勢いで、依良の意識はたった一つの存在へ一直線に傾いていた。
 自分でもなんと単純なことか、と乾いた笑いがこぼれるほど。呆気なく、そして劇的に、彼女の世界は様変わりした。
 それは驚くほどの変貌ぶりだった。
 なるほど、「恋」と「変」が似てるわけだ。
 急速に色づき始めた世界を、しかし当の本人はまるで人事のように鼻で笑う。
 こんな変化に騙されるものか、とでもいうように少女の心は頑なだ。
 今、自分は、「恋」という存在自体に恋しているのだ。という客観的な見解を少女はもっていた。
 でなければ、昨日今日でこんな簡単にころっと自分が浮つくはずないと思っていた。

「なんだ、今日はえらく大人しいじゃねえか。病気かと思ったぜ」

 後ろを歩く一馬の憎らしい声が聞こえる。
 鼓動がオートでドクドクいいはじめる。
 ああ、なんて馬鹿なのだろう。
 世の恋する女なんてものはみんなそろって大馬鹿に違いない。
 好きな人間にかけられる言葉ならなんだってドキドキしてしまう節操のない心臓の持ち主なのだ。

 好きかどうか定かでないから、まずはこの男のことをもっとよく知ろうとしたのだ。それなのに、意識し始めたらもう気持ちは止めることができなくなってしまった。
 自分のものなのに自分でコントロールできない心が憎らしい。
 自分の心は自分で決めたい。
 それなのに、金平のあの一言をきっかけにして心が勝手に一人歩きしている。しかもただ歩いているだけじゃなくスキップしているのだ。我慢ならない。

 本当なら今が一番楽しい時期だろうに、阿古屋依良はむしろ腹が立ってしかたがなかった。ふつふつと湧き起こる怒りのあまりの大きさに、恋心のほうがかすんでしまうほどだった。



「呆れた……まあ、かえってその方があんたらしいっちゃ、あんたらしいわね」
 学校についてやっと一馬と離れられると思ったとたん、せきを切ったように言葉が口から飛び出てくる。話を聞いた佐々木葵はため息をついてちらりと笑う。
「最悪よ。金平のやつが余計なこと言うから」
 先日「ありがとう」と言ったことなどすっかり忘れたとでもいうように、少女はぷいと口を尖らせた。
 きっかけが分かりやすいだけに、どうしても憤りの矛先が少年にいってしまう。
「あなた口がすべっても金平にそんなこと言ったらだめよ。打たれ弱いからすぐにしぼんじゃうわよ。紙風船みたく」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「あら金平、いたの」
 わざとらしい葵のリアクションに、金平はげんなりと肩を落とした。
「おはよう金平」
「おはよう阿古屋。なんかあった?」
 不思議そうに首をかしげた金平を、依良はぎろりとねめつけた。
「あんたのせいで私の世界は気色悪いピンク色よ。こんな世界じゃ呼吸もままならないわ。最っ悪!!」
「結局言っちゃいましたか」
「は? どういうこと? なに、ピンク色って。どうかしたの? 目が?」
「金平のばーっか!」
「は? 阿古屋? なんで俺怒られてんのかまったく身に覚えがないっていうか……っていうか泣きたいのは俺のほうっていうか……」
 少年は腑に落ちない様子でポリポリと頭をかく。
 そうやって嘆いてみせる彼は、叶わなかった恋心などまるで覚えていないとでもいうようだった。
 ふと、あの告白はすべて依良の白昼夢だったのではないかという考えさえ頭をよぎる。
 だがしかし、しばらくして、彼が決して自分と目を合わせようとしないことに依良は気づいた。本当に、さりげなく、依良に気づかれないように金平は視線をさまよわせていた。
 ただそれだけが、あの告白が事実であったと証明するものに思えて、依良は静かに目を伏せる。

 繋がらない想いもあるのだということが、いまは、ただ、怖かった。





 かすかな気配。静かな足音。ごくたまに漏らすささやかな吐息。
 これまで素通りしてきたはずのものが、またたく間に心の中を占領していく。
 こんな状態では、家に着くまでに気疲れで死んでしまいそうだ。
 依良は目だけで一馬を確認する。
 姿が見えないなら見えないで気になるし、見えたら見えたでこの有様だ。
 いったい、彼のどこがそんなに気になっているのか、もはや自分でもわからない。
 嫌なところを挙げろと言われれば、一晩中でも語って聞かせられる気がするのに、良いところと言われるととたんに訳がわからなくなる。
 金平に言われてその気になっているだけかと思えるほどに、自分の想いの原因がわからない。


「あんたは、晶さんのどこが好きだったの?」
 家に着くなりそう訊ねてきた依良に、桐谷は一瞬の空白のあと無言で小首を傾げてみせた。長い髪がつられて揺れる。
「そういう可愛い動作は求めてないわけ。あんた、私の何倍も生きてんでしょ? 教えなさいよ。晶さんのどこが好きだったの?」
「……恋でもしたか」
「質問に質問で返して煙に巻こうったってそうはいかないわよ」
 依良の声は小さかったが、それでいて問答無用の気配がただよっていた。桐谷はやがて観念したのか、ふいっと視線をそらして、
「強いところ……か?」
「あのね、小学生に戦隊ヒーローのどこが好きなのか訊いてんじゃないんだからね」
 脱力して肩を落とした依良は、なんとはなしに天井を仰ぎ見る。
 屋根越しに一馬の意識がふってきている気がした。
「………いかんぞ」
 唐突な桐谷の言葉に、依良はびくりと肩を震わせた。
 思いのほか強い口調でもう一度繰り返すと、桐谷はじっと依良の瞳をみつめて言った。
「一馬は、いかんぞ」
「なに言って――」
「一馬は駄目だ」
「なんでよ!!」
 叫んでから、依良はハッとして天井を見上げた。暗い木の天井はただ黙って依良の視線を受け止めている。
 視線を感じてあわてて向き直れば、桐谷の厳しい瞳とかち合った。
「やつが人間ではないからだ」
「でも」
「決して幸せな未来は望めぬ」
「まだそんな深い話じゃ」
「ならば好都合。その気持ちには未来永劫ふたをしろ」
 桐谷とこんなに長い会話が成立したのは初めてかもしれない。
 長い髪と言葉遣いのはしばしを無視すれば、ごく普通の少年に見えた。瞳だけが、無感情に暗く光る。

「ふたをしようにも、もう溢れちゃってしまいきれないわ」

 あっけらかんと依良は笑ってみせた。
 ようやく、自分の気持ちを素直に認める気になった。皮肉にも、桐谷の強い否定にさらされたおかげで、依良は自分の恋心に確信を持つしかなくなってしまった。
 いまさら、どう言われたところで、この気持ちをなかったことにするのは不可能だった。
「ふたをしろって言われて、簡単にそうできてたら、あんたなんかに相談してないわよ。ふたなんか出来ないってことを大前提に話を進めてよ。……だいたい、どうしてそんなに反対するわけ? たしかにあいつは人形だけど、感情もあって、ご飯も食べられて、ほとんど人間と変わらないじゃない」
 その言葉のとおり、最初に「人形だ」と言われてさえいなければ、一馬はどこをどうとっても人間だった。
 触れる手が冷たくとも、脈がなくとも、痛みを感じなくとも、彼は依良のなかでは立派な人間だった。
 憤然と言い切る依良を、桐谷はしばらくじっと見つめていた。
「やつも、私も、人間じゃない」
 それは聞き分けのない子供に、歴然とした事実を説いているような、哀れみと親愛が満ちた言葉だった。
「やつを望むかぎり、お主に平和は訪れんぞ。……お主のことは、一馬と私とで必ず守ろう。だから、お主は目先のことにとらわれず、もっと未来を望んで――」
「うるさいわね!」
 ふつふつとこみ上げてくる怒りのままに依良は怒鳴った。
 自分の短気さを最近自覚しているつもりだったが、このとき初めて、自分の感情の御しがたさを思い知った。
 どうやら名前の付けようのないムカムカしたものや、しっくりこない違和感だとかが、すべて「怒り」に変換されるようになっているらしい。
「うるさいのよ。なによそれ、外見は若いくせに、言うことだけは六十年生きてきた老人と一緒ね。未来、未来、未来!! 未来がなんぼのもんよ。私にとっては現在(いま)がすべてなの! 現在が、未来につながるのよ。そうでしょ!? 自分が失敗したからって、私に理想を押しつけないでよ。私は……私は、平和に生きる方法を訊いてんじゃないのよ。そうでしょ? 私が訊きたいのは、どうすれば、どうすればやつの心を手に入れられるかってことなの」
 勢い言い切ったはいいが、突然自分がとんでもないことを口走った気がして、依良はぎゅっと口をつぐんだ。
「一馬に戸籍はない。社会的に結婚はできん」
「わかってるわ」
「子供もできんぞ」
「……わかってる」
「お主は老いるだろうが、一馬はあのまま、永遠に年をとることはない」
「わかってる」
「お主が先に死ぬだろう」
 桐谷の言葉一つ一つが、冷たい棘となって心臓に突き立っていく。
 意思が手折れないように、依良はギッと歯を食いしばった。大丈夫、自分は傷ついたりしない。
「お主が死んで、一馬は一人残されるだろう」
「一人で残したりなんかしないわ」
 決然として依良は言った。
「一人で残したりするもんですか。もし、あいつが、私に心を預けてくれるのなら、誓って私はあいつを一人で残したりなんかしない。私が死ぬまえに、あいつを燃やして、あいつの魂を一緒に連れていく」
 呆れるくらい傲慢で、強引な言い分だった。
 ふだん能面のような桐谷の顔にさえ、ありありと驚きの色がにじみ出ている。
 依良は撤回する気はさらさらなかった。
 むしろ、もうあとには引けぬこのギリギリの感覚が心地良い。
 薄く口を開けたまま突っ立っている少年に、阿古屋依良は一歩つめ寄った。
「だから、ねえ、一馬の弱点教えなさいよ」
 かたくななあの青年の心をぜったい手に入れてやる。
 阿古屋依良、十六歳。
 この冬、私は、一方的に人生の伴侶を決めました。






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