今まで、まったく、全然、微塵も気づかなかった。
金平の、自分にたいする気持ちなど。
言われてみればたしかに、そうと取れる態度や場面がいくつかあったように思わないでもない。
そうやって気づかずに通りすぎている気持ちが、あとどれくらいあるのだろう。考えると怖くなってしまう。
自分の気持ちさえままならないというのに、だ。世間の人々は一体全体どうやって日々を切り抜けているのだろう。
「まあ、とにかくまずは自分のことよ」
独り言に自分でうなずいた依良は、周りに人気がないのを確認してから叫んだ。
「一馬! いるんでしょ!?」
背後に地面を踏みしだく気配を感じ、少女はゆっくり振り返る。
「夕飯の買い出し行くわよ。付き合って」
「……わざわざ呼ばなくたって」
「荷物持ちが必要なの」
「何十年も生きてきた俺に対して親子そろって失礼なやつらだな」
そう言ってため息をつきつつ、一馬は依良の隣りを歩き始める。
ふと、さきほどの会話を一馬が聞いていた可能性に気づいて、少女はバッと顔をあげた。一馬はそんな彼女を訝るように見返す。
一瞬合わさった視線のなかに戸惑いの色はなく、依良は安心して前を向きなおした。
「あんた、最近いつもどこにいんの? 母さんが心配してたわよ。まあ一応父さんも」
「……なんでだ? 俺は約束は守る。言ったはずだ、すべてが終わるまでお前のそばにいてやる」
「ちょっと論点がズレてるのよね。あんた」
「なにが言いたいんだよ」
心底分からないという風に一馬が眉を寄せた。
「つまり私のことじゃなくて、あんた自身のことを心配してるってわけ。家にいるときはちゃんと家の中にいてよ。屋根の上じゃなくてね」
「なんでそんな話になる?」
「頭悪すぎ。察し悪すぎ。とにかく家の中にいてよ。屋根の上にいられると居心地悪いの」
口は災いのもと、というのはなかなか良く出来たことわざだ。この前もこの調子で失敗したというのに自分はまだ懲りないらしい。「そりゃ悪かったな」と一馬がぼそりと呟くのが聞こえる。
伝えたいことは他にあるのに、それをうまく言葉に表すことは難しい。
甘い言葉は自分の柄じゃない。
「ほらっ、さ……寒いじゃない。あんたがそう感じなくても見てて寒々しいのよ。だから――」
「分かったよ」
一馬がほんの少し笑みをこぼした気がした。が、依良がふり返ったときにはすでに笑顔は消えてしまって、いつも通りの怒ったような無表情が残っているだけだった。
ふたたび沈黙。
「なんか食べたいものある?」
そこの曲がり角を曲がればすぐにいつものスーパーだ。ごく自然に依良は問う。
「べつに、何だって構わない。食べなくたっていいんだからな」
「食べても食べなくてもいいなんて――」
便利ね、と続けようとした依良だったが、その言葉はどうにも不適切に思えて呑みこむ。しかし代わりの言葉も思いつかず知りきれとんぼに会話が終わる。
「本当は、食べたくなんてない」
しらけた空気を破ったのは、意外にも一馬だった。曲がり角を曲がる。夕日を浴びたスーパーが見えた。買い物をしにきた客であたりはそれなりに賑わっている。
「なんで?」
依良ははやる鼓動を抑えて、つとめて自然に聞き返した。
「……どうしようもなく人間に近いって思い知らされるからだ。それでいて、決して俺は人間じゃない。絶対に人間にはなれない」
依良は口を開きかけたが、自分がなにを言いたいのか分からずにふたたび口を閉じた。唇がカサカサに乾いている。
一馬は黙々と歩きつづけている。
「桐谷歳三は、あれから毎日おまえのとこで食事してるだろ。あいつは食べないではいられない。どうしてだか分かるか?」
「わからないわ」
「あいつはもともと人間だからだ。体がべつのものになっても、心はそう簡単に変えられない。心は人間なんだ。だからあいつは食べる。体が飢えなくとも、心が飢えるから」
スーパーの自動ドアを無言でくぐり、依良はそばのカゴを手にとった。と、数秒もたたないうちに一馬がカゴを引き取ってしまう。
驚いて依良はふり返ったが、一馬はなにも考えていないように歩いている。
「俺は……俺のこの体は、ある女の体を使ってつくられたんだ。だからこの体の中には人間の内臓がちゃんとある。自分でつくった人形に、自分の中身をくれてやったんだ。馬鹿な話だ」
「その人は、じゃあ――」
言いながら依良は野菜売り場であてもなくさまよう。
そういえばまだ献立を決めていないのだ。迷った末に彼女の手はにんじんに伸びる。鮮やかなオレンジ色に触れたとき、自分の手がかすかに震えているのに気がついた。
「俺をつくってからしばらく後に死んだ。やっぱり少しは生存本能が働いたようで、体の中身を失ってからも四、五日生きつづけた。辛い様子なんてみじんも見せずに。……呆れるくらい、強い女だった」
にんじんをカゴに受け取りながら、一馬は静かにつぶやく。まるで独り言のように。まるで、となりに依良がいることなど知らないように……。
たまらなく不安になって、依良は一馬のそでをつかんだ。しかし次の瞬間には羞恥心が勝って手を放す。その手であわてて目の前の玉ねぎをつかみ取った。
「あんた、もしかして……」
「なんだよ」
「……味覚はあるわけ?」
「迷惑この上ないことにな」
一瞬あいた、不自然な間にはたして一馬は気づいたのだろうか。気づいていて知らぬふりをしてくれたのだろうか。
依良は本当の言葉を胸の奥にそっとしまった。
さっき見せた一馬の瞳が、いつか見た、どこか遠くを見るような目だったのだ。
そのときも今とおなじ女の話をしていた。
その目は、見ているこちらが切なくなるくらい――もう永遠に失くしたものを想う目だ。今ならわかる。
まさか、自分の気持ちに気づきかけた瞬間に失恋だなんて、そんなの納得できようはずがない。そんなのごめんだ。
依良は乾いた唇をぺろりと舐める。
「味覚があるならけっこうだわ。なにか食べたいものある? 今ならカレーとシチューと肉じゃがの三択よ」
「おまえ料理なんかできるのかよ」
「……出会って二ヶ月たつってのに一体なにを見てきたの? その目は節穴? 阿古屋家の食卓は私の独壇場よ」
「げっ」
「あんたねえ、失礼にもほどがあるっての。さあ早く選んでよ。ブロッコリーを買うかどうかがかかってるの」
一馬はじっと依良の手の中にあるブロッコリーを見つめていた。依良が、ハッとして問う。
「まさか、ブロッコリー知らないわけ?」
「……なんだよその……木みたいなやつ。それは食べ物か」
「ああ嫌だ嫌だ。食への興味がない奴はこれだから! あんたねっ、嫌だっつっても消化器官も味覚もあるんだからね、もうちょっと有効利用しなさいよ。この『木』の味をよく味わってちょうだい」
依良は手早く四つのブロッコリーをカゴへ放りこんだ。今日のシチューはブロッコリー尽くしだ。
「ほら、ボサッとしないで次行くわよ。肉よ、肉。エネルギー摂取しないと」
「それ以上元気になってなにするつもりだ」
一馬がちらりと苦笑する。
恋だ、と依良は心のなかで答えた。
本当にこの想いが本当に「恋」なのかどうかは知らないが、とにかくこの男を相手にするにはエネルギーが必要なのである。
気づいたばかりのこの気持ち。ふたをするにはまだ早い。
「女は度胸」
少女はぼそりと呟いた。