最近の阿古屋依良はなにかおかしい。
そう断定して言えるくらいには、長い間、彼女を見てきたつもりだった。
黒板とチョークが硬質な音を奏でるなか、三十四人の生徒を収容している教室は静かに時間がすぎるのを待っている。
独特の濃い緑色の黒板に化学式がすらすらと描かれていく。
酢酸の加水分解の式はなかなかすっきりしていて金平は気に入っていた。が、それを以前阿古屋依良に話したところ、ヘドロでも見つめるかのような瞳で見られたことがある。彼女は出会った瞬間に化学と縁切りしている人間だ。
阿古屋依良ははっきりしている女だ。
現代っ子である自分が言うのもなんだが、最近あまりみないほどはっきりしている女だ。というより日本で生活していくうえでちょと心配になってしまうくらいはっきりしている女なのだ。
そんな心配していることが彼女に知られれば、海水浴場に浮いているクラゲの死体を見るかのような瞳で見られるかもしれない。
黒板に並んだいくつかの化学式をすべてノートに写しとってから、金平はななめ後ろの阿古屋依良を盗み見る。
案の定、彼女はぼんやりと窓の外に視線を漂わせていた。手元のノートに書かれた式は、どうみても金平より少ない。この分だとまたテスト前にノートを貸すことになるだろう。
それが、金平にとっては嫌ではなかった。
人によっては「いいように使われているのではないか」と思うだろうが、金平にとってはそんな批判など痛くもかゆくもなかった。阿古屋依良に使われるのならもう思う存分使いまわしてくれてかまわないとさえ思えた。
そう告げたら、たぶん彼女は遠慮なしに死ぬほどこき使ってくれるに違いない。
現にこのノートだって、もう阿古屋依良のために取っているのだと言っても過言ではないかもしれない。「しれない」と語尾につけてしまう当たりが、自分の煮え切らないところなのだろう。阿古屋依良ならきっともっと断定口調だ。
彼女が本気になったら、なにも不可能なことなどないように思えた。
そういう、彼女の強さに最初憧れた。
出会ったのは中学のころだが、高校に入って同じクラスになれてやっとここまでの距離になれたのだ。
この距離に近づくために、自分がどれほど努力したか阿古屋依良はまったく気づいていないに違いない。気づいて欲しいなんて女々しいことは考えないけれど。
彼女に出会って初めて、「女々しい」という言葉に「女」の漢字が使われることを不満に思った。佐々木葵にしたって、女というのは男が思うほど弱くない。ある意味もの凄く強い生物だ。
とにかく、自分はどうしようもなく阿古屋依良に憧れて、惚れている。
その一点だけは、はっきりと断定できる。
この気持ちを黒板に並ぶ化学式のように、すっきり明確に真実として表現できる手段があれば教えて欲しい。そうすれば出会いから今日までの気持ちの変化を細大漏らさず書き連ねることができるのに。
ななめ後ろで阿古屋依良のため息が落ちる。
白と黒だけで彩られた世界に君臨した女王様のような彼女が、最近なんだかおかしいのだ。
白と黒だけの彼女の世界に、最近どうも灰色が加わった気がするのである。
そう言えばクラスメイト中が首をかしげるだろう。が、ずっと見てきた自分ならば分かる。最近の彼女は「白」でも「黒」でもなく「灰色」だ。
別段その「灰色」に反感を抱くわけでも、幻滅するわけでもない。むしろ彼女にしては珍しいその曖昧さに新たな魅力を感じるわけなのだが、問題はその「灰色」が生じた原因である。
どう考えたって原因の一部に自分がいるとは思えない。それはもう百パーセントありえない。原因が無数に枝分かれした先のたとえ一つであっても、そこに自分が介入していないのは悲しくなるほど理解している。
それが、どうしようもなく悔しい。
最近の阿古屋依良はおかしい。
それはきっと、あの不審な留学生のせいに違いないのだ。
「阿古屋っ、もう帰んの?」
「うん、あ……いや、まだ家には帰らないけど」
「そっか。俺も今帰るとこだったんだ」
ほんとかよ、という友人の突っ込みを無視して、金平は鞄を手にとる阿古屋依良に視線をうつす。一見すれば普段どおりの彼女だが、返答に口ごもるなんてこと自体考えてみれば異様だ。
どこか上の空の態で少女は机の群れのなかを歩いてゆく。その後を、金平は黙ってついていく。
放課後の校舎は音に満ちていた。しかし少女の周りだけはどんな音も届いていないか、あるいは素通りしているようだった。外界から切り離された空間が彼女をとりまいていて近づけない。こんなに近くにいるのに心はとても遠くにいる。
校門を抜けたところで金平はたまらず声を上げた。一拍おいて少女は振り返る。黒い髪が風に流れ、白いほおに一すじかかる。
「金平……あんたこんなとこで何してんの? 部活は?」
ひどい言いように違いなかったが、いつもと変わらぬハリのある声音が少年を元気付けた。
「部活は今日ない。一緒に帰ろうぜ」
「いいけど……私まっすぐ家に帰んないわよ?」
「いいよ。俺今日、暇だから」
「物好きね。暇人」
言葉とは裏腹に、少女はほんのわずかのあいだ少年が近づくのを待つ。
そのちょっとした気遣いに一喜一憂する。
「……寒いわね」
「うん……」
阿古屋依良の紺色の制服が、寒風にあおられはためいている。
彼女はスカートを短くしていない。膝よりほんの少し上あたりで揺らめくすそに目がいって、金平は慌てて視線をそらした。
目をそらした先に彼女の横顔があって、顔にかかった髪をその手が無造作にかき上げる。つり目がちな黒い眼にまつげがかかった。
一瞬一瞬の彼女の動作がスローモーションのように心に刻まれて離れない。
だから金平は気づいてしまう。
阿古屋依良の視線が、ここにはいない誰かを追っているということに。
以前ならただひたすら前だけを見つめていた彼女の視線が、最近はふわふわとして定まっていない。なにかを追ってさまよっている。
隣りにいる。たしかに隣りにいるのに、彼女の想いの飛ぶさきに、自分の姿が見えることはない。
「阿古屋っ!」
弾かれたように振り向く彼女の瞳が、まっすぐ金平を見つめてくる。阿古屋依良は人と話すとき、必ず相手の目を真っすぐ見るのだ。
「あいつ、なんなの? ほら、まえに体育祭来てたやつ」
そこであからさまに、本当にあからさまに彼女は視線を宙に泳がせた。「留学生で、ホームステイさせているって言わなかったっけ」と小さな声が言う。
「まっすぐ家に帰らないのは、そいつのせい?」
「……違う」
「ならなんで――」
「なんでもないの! あいつは関係ないの!!」
怒鳴り声が、下校途中の学生たちを振り返らせる。
しばらくうつむいていた彼女が、一歩足を踏み出す。
その時、どうしようもない「衝動」が、金平自身も驚くほどの力強さで細い腕を引きとめた。少女は反射的に手を引こうとしたが、金平はそれを許さなかった。
「好きだ」
たった一言。
長いあいだ――二年と十一ヶ月――胸の奥に閉じ込めていた一言が、自然に口から飛び出していた。次の瞬間、少女は薄く口を開けたまま硬直した。
そんな彼女を見ていられず、少年がさきに沈黙を破る。
「答えは、分かってるから」
力なく呟いて金平は少女の手を放す……が、逆にその手をつかまれる。阿古屋依良の、力強い視線と目が合った。
「私の答えを、あんたが勝手に決めないで」
ぞわりとするほど強い口調。まるで炎が燃えるような、さながら大地に根を張る巨木のように。
「……あんたのことは、金平、友達以上には見られない」
「うん」
「でも、私、友達のあんたを失う気はまったくないから」
「うん」
残酷で、強烈な言葉だ。
なかば怒られているような図に、金平は小さく笑う。
どんな時でも、彼女は彼女だった。これからさき、どんなことがあっても、彼女は彼女であって欲しい。いつか母親になっても、よぼよぼのおばあさんになっても、最後に死ぬときでさえ。
だから――……
「阿古屋、悩んでることがあるなら、逃げないで」
「なんのことよ」
「最近、阿古屋はなんか変だ。探してる、いつも、あいつを」
「探してなんかない!」
「認めろよ!!」
思わず怒鳴り返した金平に、阿古屋依良は驚いて目を見開いた。
そういえば、女の子に怒鳴ったのはこれが初めてだった。「女」に怒鳴ったことならある。母親と姉にだけど。
「認めろよ、阿古屋。阿古屋は最近ずっとあいつのこと探してる。絶対そうだ」
「あんたなんて、あいつに一度っきゃ会ってないじゃない。それで、なにが分かるっていうの」
「分かるよ。分かるんだ。あいつのことなんて本当どうでもいいけど、阿古屋より、俺は阿古屋のことよく見てきたんだ」
分かりたくないけど、分かってしまうんだから仕方がない。
阿古屋依良はしばらく虚空を眺めたあと、かすかに苦笑して言った。
「あんた、お人よしにも程があるわ。……私だったら、好きなやつに、そんな忠言なんかしてやんない。相手が自分の気持ちに気づく前に、力ずくで自分に振り向かせるわ。あんたは、お人よしすぎる」
なるほど、そういう見解もあるのかと金平は人事のように笑った。そんなやり方、自分はおそらく一生できない。
「……帰るわ、家に」
「うん」
阿古屋依良は歩き出す。後ろ姿にもうなんの迷いもなかった。その姿に、ただひたすら憧れて、惹かれていた。
そんな瞳で自分のことを見て欲しいと願ったはずなのに、結局ほかの男へ向かせる後押しをしてしまったんだとしたら、たしかに自分はお人よしで「フェミニスト」なのだろう。
「金平!」
ぼんやりしていた少年の意識が浮上する。少しさきで、少女が笑う。
「ありがとう!」
ああ、もう。
ああもう本当によかった。
彼女が、彼女らしくいてくれさえすれば。
もう振り返らず去っていく少女の後ろ姿を見送る。一般的には実に見送りがいのない去り姿だが、金平にとっては最高だ。
「後ろ姿」というのが、残念だけれど。
「あんたも物好きねえ」
突然耳のすぐ横で声がした。
「佐々木!?」
「傷心パーティー、するなら付き合うけど?」
「しねえよ、そんなもん! それよりお前いつから――」
「『阿古屋っ、もう帰んの?』からかな」
「最初からかよ!!」
まあまあ、となだめる佐々木葵に、金平は脱力を感じてため息をついた。
「かっこ悪いとこばっか見られてる……」
「……あんたは、かっこよかったわよ」
彼女らしくない台詞だった。少女は寂しく笑う。
「私より、断然かっこいいわ」
「佐々木?」
「だから、あの子に憧れるんだわ。どうしようもなく。私たち」