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 ああ、とため息をこぼし机に突っ伏した少女は、ふたたび勢いよく顔をあげてわしゃわしゃと黒い髪をかき乱した。
 胸のあたりにくすぶった嫌な思いがどうしても消えてくれない。
 おおかたの悩みは、彼女の人生経験において一晩寝ればすっきり解消されてきたのだ。今さらべつの方法を探せと言われても無理な相談である。
「一喜一憂ね。最近のあんたは」
「……うるさい葵」
「きのう友情を確かめ合った友に言う言葉がそれ?」
「放っといてちょうだい。原因はわかってるのよ。けど解消するための手段に躊躇しているだけなの」
 となりで葵がクスリと笑みをこぼしたのが気配で知れた。すっかりわかっていると言わんばかりのその態度にムッとするが、本当のことなのでなんの反論もできやしない。
 昨夜、帰宅してからというもの、このムカつきの根源であるあの青年とは必要最低限のことしか話していない。依良と一馬の必要最低限とはすなわち、「うん」だの「ああ」だのだいたいニ文字でこと足りる程度しかない。
 一馬が葵のために作ってくれたものにたいして、まだ依良は「ありがとう」さえ言えていないのだ。
 思い出していまいちど盛大なため息がもれる。
「わかってんのよ、あれは失言だったって。でも謝るってことは、『あんたのことはどうでもいい』って言ったことにたいして謝るわけだから、ってことはつまり、遠まわしに『あんたのことがどうでもいいわけじゃない』って言うことになるわけじゃない」
「それでなにか問題でも?」
「そんな恥ずかしいことが改まって言えるかっていうのよ」
「意識のしすぎでしょ」
「んなこと言ってもこっ恥ずかしいこの気持ちがどうなるわけでもないわけよ」
 本当に、いまさらだ。
 今までさんざん暴言は吐き、吐かれてきたというのに、いまさらたった一言にこだわって悶々としている。それが、納得いかないのだ。
 依良はちらりと目だけ動かし、友人の手元を盗み見た。
 葵の手には小さなきんちゃく袋が握られている。きんちゃく袋は依良がタンスから引っ張り出してきたごく普通のものだが、中身は他人が見たら気味悪がるようなしろものだった。
 依良の髪と、文字がびっしり書かれた木片。木片にかたく結ばれた黒髪に、どういう意味と効果があるのか依良はまったく知らなかった。ただ、一晩中なにか作業をしていた一馬の気配だけは覚えている。
 「ありがとう」は、言うべき一言だった。
「ま、とにかく、わたしから一馬くんへ伝言。『ご好意感謝。大事にします、ありがとう』って伝えておいて。ついでになんて書いてあるのかもきいてくれると嬉しいわ」
「そんなこと自分で言ってよ。どうせ近くにいるんだし、あんたが呼んだら来るんじゃない?」
「伝言という口実でもってきっかけ作りをしてあげてる友人の好意に気づきなさいよ」
「……きっかけなんていらない、気づきたくない」
「これからずっと気まずいままよりずーっと良いと思うけど」
「説教なんて聞きたくない」
 朝のチャイムの鳴るなかで、葵が「はいはい」と答えるのが聞こえた気がした。




 下校してから家に着くまでまったくと言っていいほど、というより素人の依良にとってはまったくもって一馬の気配は感じられなかった。
 家に着いて自分の部屋へ足を踏み入れてからも、彼がそばにいるというような感覚はみじんもない。
 まさか傷ついて本当にいなくなってしまったのではないだろうか。そんな不安が頭をもたげてくる。
 そうして思い返してみると、一馬は案外依良に気をつかっていたのかもしれないという気がしてきた。今まで、姿が見えなくて心細くなったことも、逆に始終そばにいられて迷惑に思ったことも考えてみれば一度もなかった。
 彼は実にちょうどいい具合に依良のそばにいた気がする。
 しおらしい考えに行き着いてしまったことにまた腹が立って、依良はぶんぶんと頭を振った。
「ああもう! ……こんなのわたしのがらじゃないのよ。……一馬ッ、一馬!!」
 叫ぶと同時に天井がぎしぎしと揺れる。ほどなくしてベランダの窓の上から一馬が顔をおろした。
「どうした!?」
「……なんてとこにいるのよ」
「うるせえよ、……どうしたんだよ」
 どうした、と、問う声に漂っていた緊迫さが、どういうわけか無性に切なくなる。なぜ不安に思ったりしたのだろう。そばにいないかも知れないなどと。
 じわりと滲んだ涙をあわててぬぐってから、依良はわざとぶっきらぼうに言った。
「葵が、……なんだっけ、『ご好意感謝』で、『ありがとう、大事にします』だって」
「なんだ、そんなことか。妙な声で呼ぶな、勘違いするだろうが」
 くるりと身をひるがえしてベランダに着地した一馬が部屋に入ってくる。反射的に依良が一歩後ずさった。
「そ、それからっ……あれ、なにが書いてあるのかって」
 一馬が軽く片眉をあげた。漆黒の瞳がちらりと依良をとらえる。
「ああ、あれは敵の人形の力をお前の髪に導くためのたんなる呪言だ。俺の体を使ってるから多少は力があるが」
「あんたの体って……あの木、あんたの体!?」
「だから何度も言っただろうが、人間のように見えても、俺は木組みの人形なんだって――」
「そんなの分かってるわよ! あんた自分の体になんてことしてんのよ!」
「木片の一つや二つ失ったとこでどうということもないんだよ」
「でも――」
「俺のことなんてどうでもいいだろうが」
「どうでもよくないって言ってんでしょ!」
 言い放った言葉に依良自信びっくりしていた。開いた口がふさがらない。
 一馬の、黒い瞳は感情が読めない。じっと見つめてくる視線に耐えきれず依良は視線をさまよわせた。
「あー……あれよ? あんたにどうにかなられちゃ困るからよ? わたし一人じゃ、あいつらどうにもできないし」
 言葉がむなしく漂った。
 沈黙に我慢できなかった頭がゆるゆると持ち上がる。そして、とらえたものに、依良は息を呑んだ。
 いつもの嫌味な笑いでもなく、不敵な笑みでもなく、ほんのすこし寂しそうな笑顔は、窓から吹き込んできた冷たい風にさらわれてあっという間に消えてしまった。
 硬直している依良の前で、一馬はきびすを返し背を向ける。
「心配しなくても、全部終わるまではお前のそばにいてやるさ」
 一馬は言うなり、止める間もなく屋根の上へ姿を消す。
 残された言葉が、依良の心をちくちく突き刺す。

 十一月の風は正直言ってひどく冷たく寒かったが、その日少女は窓を開けて寝ずにはいられなかった。
 天井が、時折りきしりと音を立てた気がした。






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