「もうしわけ…ございませんでした……」
うな垂れた少女の口から、力ない謝罪がこぼれ落ちる。
床についた両手が、体を支えきれずに小刻みに震えていた。
「確かに、あなたは私の命令を無視して先走ったわね、宇石」
「……はい」
圧倒的な力を持った女の声が部屋にこだました。宇石は、小さな体をますます縮めて、消えいりそうな声で返事をする。
「……無事でよかったわ」
「桜華様……」
女はゆっくりとかがんで宇石のほおに手を伸ばした。床に届くほどの長く黒い髪が、さらりと音をたてて肩を滑る。
「宇石、楽にしなさい。失った力は、じっとしていても戻っては来ない。どこかで手に入れて来なくてはならないわね」
「すみません……まさか、もうあんなに覚醒しているとは思っていなかったのです。油断……しました」
「それが分かっただけでも、成果はあったわ。さあ、もうお休みなさい。佐助、手を貸してあげて?」
呼ばれた少年が、すっと音もなく近寄って宇石の体を持ちあげた。少女の体はすでに木に戻りかけていた。固い体はなんの抵抗もなく少年に引っ張りあげられて、力を失くした腕がだらりと垂れ下がる。
痛みはないが、思うように体が動かないのは辛いだろう。これから先、足手まといになるしかないのだ。
「佐助、あなたも一馬を見たんでしょう?」
「見ました」
「何か気づいたことはなかった?」
宇石を肩に担いだ少年はなにか思い出すようにちょっと視線をずらしたあと、無表情のまま答えた。
「何も」
「そう。そろそろだと……思ったのだけれど……まあ、良いわ。ああ、それから桐谷のことだけど――」
その名前が出たとたん、大人しくしていた少女が渾身の力を振り絞って叫んだ。
「あいつ!! 恩知らずも良いとこだ! 桜華様にあれだけして頂いたって言うのに……やすやすと寝返ってッ! ぶっ殺してやるッ、あいつは、必ず僕が――」
「騒ぐな。残った力も飛んでいくぞ」
「……ッ、でも……」
腑に落ちない、とばかりに頬をふくらませた少女を見て、女はくすくすと楽しげな笑いをこぼした。笑みを浮かべたまま白く細い手を伸ばし、少女のふくらんだ頬をへこませる。
「桜華様っ!」
「彼がいつか裏切ることは、百も承知の上だった。そうでしょう? 宇石。私は一馬への憎しみを利用できるだけ利用しただけ。もとより彼は、一馬を破壊したあと我らを殺すつもりだった。彼が私を見る瞳を覚えてる?」
離れていく刹那、女の黒く長い髪が、宇石のほおをふわりと掠めた。
「憎悪を隠しもしない激しい瞳。ゾクゾクしたわ……ああ引きとめてしまったわね。さあ、お行きなさい」
佐助は一礼してから部屋をあとにした。静寂の中でも、彼の足音はほんの少しもしなかった。
女は一つかすかな溜め息をもらすと、ゆっくりそばの椅子へ腰をおろす。
桐谷が裏切るのは必然だった。が、もう少し利用価値があるとは思っていた。存外早く、誤解が解けてしまったのだけが計算外だった。だいたい、想い人を殺させた自分たちに桐谷が組するはずがないのだ。表面上仲間になったのは、一馬の居場所をつかむため、ただそれだけのためにここにいたに過ぎない。
それよりも、重大なのは人形師のほうだ。宇石には気の毒なことだったけれど、人形師の覚醒が早いことは嬉しい報せだった。
力の弱い人形師では話にならない。やっと手に入った真実も意味がなくなる。
「阿古屋依良……早く、早く辿りついておくれ、一族が求め続けた最上の人形師へ」
女はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶはまだ見ぬ少女。一族最後の人形師。
ここに辿りつくまでに、数多の犠牲を払い、永い時をかけた。もうすぐ、それが手に入る。
「それには……一馬、お前が邪魔だ」
生まれて来てこのかた、こんなに緊張した場面がほかに幾度あるだろう。
阿古屋依良は自分でも信じられないほど静かに葵の言葉を待っていた。
家に帰る道すがら、十六歳になって、一馬と出会い今までに起こったことをかいつまんで説明したあと、葵は立ち止まってじっとなにか考えているようだった。
彼女の兄はさきに家に帰っている。帰宅した母親が心配しないようにするためだ。今日のことは、彼は誰にも話す気はないようだった。
「それで全部?」
いつもと変わらない葵の声に、依良は黙ってうなずいた。
「なら、話は早いわ。一馬くんだっけ? 私が自分自身を守れるようなものなにかないの?」
利用されるのはご免だわ、とつぶやいた葵の口元に笑みが浮かぶ。
一馬はしばらくしてから答えた。
「お前次第だ、阿古屋依良」
「……私、自分で言うのも腹が立つけど、全然強くない」
「確かにてんで弱っちくて話になんないけどな、潜在的な力があるのは事実だ」
「あんたはいつもいつも一言多いのよ」
「お前の体の一部があれば、俺がなんとかできる。無駄に永遠を生きちゃいない」
無視されたことに腹を立てながらも、依良は軽くうなずいた。
「髪でも良いの? それとも、もっと――」
「髪でいい」
なら、話は簡単だった。大事な親友のためなら、髪なんて全部やってもかまわない。今すぐこの場で切ろうとした依良を、一馬がぞんざいな手つきで押しとどめた。
「帰ってからでいい。こんなとこでやられても迷惑だ」
「でも……」
「今日はもう襲ってくるわけない。というかしばらく手出しはしてこない」
「なんでそんなこと分かるの」
「連中にとって不測の事態が起こったからだ。嬉しい不測の事態だろうがな。……お前の力は思ったより早く目覚めた。だから連中はしばらく様子を見るはずだ。下手に手を出して、あのガキ同様にやられたら話しにならない」
行くぞ、と言って一馬はぐんぐん先へ進んでいく。慌てて依良もそのあとを追った。
葵に異論はないようで驚くほど呆気なく家の前で別れると、残された二人のあいだには妙な沈黙が漂う。さきに歩き始めたのは一馬だった。
「……よかったな」
「――え?」
不意につぶやかれた言葉は、ぼんやりしていた依良の心に届くより早く、薄闇の中に音もなくまぎれてしまう。二度言うつもりはないらしく、問い返す依良に一馬は振り返らなかった。
「お前はなかなか人を見る目がある」
「はあ? あんた急になに言って――」
「だから俺の素晴らしさもそのうち分かる」
「はっ、誰があんたの素晴らしさなんて……始めから無いもの見つけられるわけないでしょ」
「それはお前の目が悪いんだ」
「さっき『見る目がある』って言ったばっかじゃない!」
「じゃあ間違えた」
売り言葉に買い言葉とはよく言ったものだと思う。売られた言葉を買わずにはいられない少女は、自分のことながらどうにも制御できないこの口がたまに憎らしくなる。
一馬が、本当に言いたかったことはなんだったのだろう。彼も、照れ隠しでそのあとの言葉を繋げたのだったとしたら、もしかしたら落ち込んでいた自分を励ましてくれていたのではないか。違う違うと思いながらも、心のどこかで彼のことを信じてしまう自分がいるのも本当で、柄にもなく悶々と考え込む自分に腹が立った。
だから、逆に言葉が鋭くなる。
「あんたのことなんてどーだっていいのよ! それよりもさっさと帰ってさっさと私の髪でもなんでも使って葵のことをなんとかしてよ!」
言ってから、しまったと思った。
前からこんなこと言っていた気もする。けれど、「しまった」と思ってしまった瞬間に、負い目を感じてしまっている。いつもなら、間髪いれず返ってくる彼の憎まれ口がいつまでたっても返ってこない。
ビクビクしている依良の耳が、「そうだな」とつぶやく一馬の声をとらえた。
悪かったわよ、の一言が、どうしても口から出てこなかった。