なにかがぶつかる乾いた音に、佐々木葵はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
頭が重く、思考は霞がかって淀んでいる。はじめにとらえたのは灰色のコンクリートで、見た瞬間に体中にざわざわと寒気が走る。
冷たいコンクリートの上に横たわっている自分を自覚して、葵は上体を起こそうと身をよじった。だが同時にきつく巻かれた縄が肌に食い込み、小さなうめき声が意図せず漏れた。
「ああ、起きた?」
無邪気な声が辺りの壁に反響する。
声の主が立ち上がるのと同時に、簡素な電話機が床に落ちて異様に大きな音を立てた。自分が目を覚ますきっかけになったのは受話器を置く音だろう。どこに連絡したのか予想して、葵は軽く舌打ちした。
「元気がイイのはあの女と一緒だね」
この声に騙されたのだ。
本能ではなんとなく危険だと、異質だと気づいていたのに、この声とこの姿に自分は騙されのこのこと道案内をしたあげく気絶させられてこんな所に寝そべっている。
動かぬ体をそのままに、今の状況を確認するべく首だけを無理やり動かす。
だだっ広い空間にはただ灰色の壁とほこりがあるだけで、ほかには何も感じられなかった。
天井には細長い蛍光灯がジジジと音を立てながら明滅を繰り返している。大きなガラス窓の外はまるでそこも壁だというように真っ黒だ。相当長い時間寝ていたらしかった。昨晩、ゲームで夜更かししたせいだろう。
廃ビルだとしか思えない中に自分は縛られ横たわり、あの少女は角材の上にちょこんと座って自分を見下ろしている。
一体なにがどうなっているというのか。
よく分からなかったが取りあえず、葵の瞳は少女の足元に落ちている小さなガラス片をとらえてしばたいた。
千歳はかつてないほどの必死さで足を動かしていた。
妹が心配なのはもちろん、背後にぴたりとついてくる男が怖いせいもあった。
残された書置きに記された工場はもうずっと前に倒産した工場で、よく遊びに行っては母親に叱られた場所だった。もっとも、この辺りの子どもたちは一度は足を踏み入れたはずだ。
位置は分かっている。最短距離も知っている。
なのに、今日はずっと遠い気がした。いつまで走っても辿りつけない気さえしてくる。
「遅い」
あえぐ千歳の後ろから、無情な声が上がった。
「んなこと言っても……っ!」
こんな時にしゃべらせないで欲しい。乱れた呼吸が肺に痛い。
「乗れ」
「え、」
言われた言葉を理解する余裕はなかった。青年は有無を言わさず千歳を抱えると地を蹴った。
「そういえば自己紹介もまだだったね。僕は『うじゃく』。宇宙の『宇』に『石』で宇石。君のご先祖サマが生みの親だよ。改めてお礼を言おうか」
「葵はどこ」
一気に駆け込んできた依良のほおにはほつれた黒い髪が張りついていた。大きく肩を上下させながら彼女は問う。
なんの前置きもない言葉に、宇石と名乗った少女は軽く眉をひそめる。まるで興ざめだとでも言うように溜め息をついて、次に目を開けたときには愉快そうな色は全く残っていなかった。
「無事に返して欲しくば、僕と一緒に来てもらうよ。僕の主は本当に良い人だ。君も絶対気にいる」
「……あんたみたいな部下を使う主、気に入るわけがない」
選択肢はなかった。一つしか道はなかった。
依良の瞳が辺りをくまなく見渡している。が、求める少女の姿は見つからない。
「ヒドい言いようだね。僕って結構性格良いほうだと思うけど?」
「どこが――……ッ」
言い返した依良の腕に、冷たく細い少女の手が絡む。背中にぞわりと冷気が走った。
「君の意見は聞いてない。一緒に来てもらう」
「本当、どこが性格良いのか聞かせてもらいたいわ」
耳慣れた涼しい声。
振りかえる暇はなかった。ゴンという重く固い音とともに、宇石の体が地面に叩きつけられる。彼女の腹には鉄の廃材が食い込んでいた。
それが飛んできたほう、別の部屋へ続く暗闇から佐々木葵が姿を現す。疲れた様子で壁に寄りかかった彼女と依良の視線が空中でぶつかる。
駆け寄ろうと踏み出しかけた依良より早く、宇石がむくりと体を起こした。常人なら起き上がれないほどの痛みだったはずだ。葵の目が驚きに見開いた。
「――……、おのれ」
怒りに燃えるような目。依良の体に戦慄が走る。
殺されてしまう。
思うより先に動いていた。
葵めがけて飛び出しかけた宇石の体に、無我夢中で依良は組みついた。
「離……せぇぇッ!!!」
力ずくでしがみつく依良の腕に、宇石の鋭い爪が食いこむ。
痛みなど感じなかった。離すものかと思った。
初めて、『力』が欲しいと切実に願った。
『力が欲しいか』
いつか聴いた、女の声が耳に響いた。
『力が欲しいか。さらなる危険を招くことになろうとも』
「危険なんてもう死ぬほど味わってるわよ! くれるもんなら、ごちゃごちゃ言ってないでさっさとちょうだいよ!!」
くすりと女に笑われた気がしたが、それに怒っている余裕などありはしなかった。渾身の力をこめた手から、宇石の木組みの体が抜け出そうとしている。
「葵ッ、逃げて!!」
動けないでいた葵に向けて依良は叫ぶ。でも、叫びながらも分かっていた。
佐々木葵は、この状況で逃げてくれるほど物分りの良い女じゃない。げんに彼女は手近にあった鉄パイプに手を伸ばしている。全然逃げてくれる様子じゃない。
力が欲しい。
思った刹那、抱えこんだ少女の体から怒涛のような光があふれ出した。
光の奔流は絡みあいながら一つになって依良の体に吸い込まれてゆく。とっさに振り払おうとして依良は身をよじった。その拍子に宇石は拘束を逃れ飛び出す。が、一歩を踏み出すことも出来ずに地に崩れ落ちた。
「………なっ、に…」
頭だけをなんとか持ち上げた宇石の瞳は驚愕の色をあらわにしていた。
そうしているあいだにも彼女の体からは白い光がとめどなく立ち上っていて。いく分勢いを失くした光が、依良と少女を繋いでいる。
「なんなのよ……」
「お前、そこまで……覚醒していたのか…」
あえぐように呟いた宇石は、ふらふらになりながら身を起こした。這いつくばるような姿勢のまま依良を睨んだ彼女は、ゆっくり窓際へ下がってゆく。
止めることはできなかった。ただ葵と二人、動けずにいた。
「逃がすかよ」
呆然と立ち尽くしていた二人の耳に、低く鋭い声が届く。
依良の横を風のように駆け抜けて一馬が宇石へ躍りかかった。
あと少しで届くところだった一馬の手に、次の瞬間一本の黒い鉄の棒のようなものが突き立つ。一瞬出来た一馬の隙。その隙をぬって宇石は窓を破って外へ出る。
すかさず追おうとした一馬はさらに幾本ものクナイを受けて立ち止まらざるを得なかった。最後に飛んできた一本を無造作に振りはらう。
窓の外、外灯の光が届くか届かないかの薄暗闇の中、一人の少年が屋根の上に立っていた。彼の片腕には人形のように動かない宇石が抱えられている。もう片方の手に握られたクナイが、近づこうとする一馬を威嚇する。
そのまま時が流れてゆく錯覚に陥ったが、次に依良が瞬きしたときにはすでに彼らの姿は消えていた。
ふと思い出したように、依良は自分の体を見下ろした。
白い光の残滓が見えたような気がしたが、そこにはただいつも通りの自分の手や足があるだけで。さっきまでの光の奔流が嘘のように、再び辺りは静まり返っている。
この時はまだ、彼女は自らの中に生まれた「力」を自覚してはいなかった。