物心ついたころには、隣に有本美沙がいた。
ほとんど家族と同じで、どちらかが地元を離れても、たとえば結婚しても、なんのわだかまりもなくお互いの人生に相手を置いておけると思っていた。美沙も同じなのが分かっていた。恋愛とは違ったし、姉や妹とも思えなかった。ではなんなのかと訊かれても、まだ答えは用意できていなかった。
これから先の人生で、彼女とそんな風に付き合っていくなかで、死ぬまでに答えを見つければいいと思っていた。
いや、答えなんて、べつに見つからなくたって構わなかった。
そんなものなくたって、いつまでも一緒にいるつもりだったのだ。隣にいるんだと思っていた。あの時まで。立花の家で、白い顔で眠っている美沙の顔を見るまで。
「……なんで、こんなん…………」
こんなこと、嘘なんだろう? 明日になったら、遅刻ギリギリに教室へ飛びこんだ自分に、頬杖つきながら、にやりと笑いかけるんだろう?
「なあ、有本、有本……。美沙……」
諦められない、失った日常を。たぶんそれは、美沙がちゃんと「死んで」ないからだ。
立花の家で、息もせずに眠りつづけている美沙の身体が、まだ完全には死んでないから。だから杉田は泣けもしない。帰ってこない美沙を心配して、彼女の両親が憔悴しきっているのを横目に見ながら、杉田は口を閉ざしているしかない。声を上げて泣くこともできない。
「祥ちゃん」
母親の呼ぶ声に顔を上げる。自室のドアが薄く開いていて、そこから母親が顔を出していた。
「祥ちゃん、お母さんちょっと……有本さんのところに行ってくるね。様子見てくる」
「うん……」
母親の顔を見ていられなくて、そっと目を伏せた。視界に入った自分の指先はだらりと垂れ下がっていて、全身から力が抜けているのがわかった。いつになったら、この身体に元のような力が戻ってくるのだろう。そんな日がいつか来るということが信じられない。いつか自分が心から笑えるようになるなんて、まったく信じられない。
美沙がいなくなるなんて。
「祥ちゃんも、心配だろうけど、ごはんちゃんと――」
不自然に途切れた母の声。視線を持ちあげて、杉田祥平は絶句した。
まっさきに自分の目を疑った。そして世界を疑った。
母親の姿が、目の前でざらりと粒子のように分解した。目の当たりにしてもにわかには信じられなかった。声も出せなかった。異常事態だと察知することもできず、だが身体は正確に恐怖を訴えて冷え始めていた。
――行かなくては。
次の瞬間それだけ思った。行かなくては、美沙のもとへ。ほとんど直感だけで杉田は立ち上がった。一歩踏み出したとき、足下から何かが崩れていくのが分かった。
身体が、心が、ほどけて、分解されて、還っていく。
――どこに?
答えは見つからない。考えるより前に杉田の身体はさらりと空気に溶けていった。
――どこに?
そうして杉田祥平は終焉を迎えた。
◆
兄だと言われても、実感が湧かなかった。たぶん、それは、彼が自分より年下の姿であるということよりも、それよりも。
彼がずっと脆く見えるせいだろう。
極限まで張りつめた糸にすこしでも触れれば、ぷつんと切れてなにもかも瓦解してしまいそうな、彼の脆さ。
思い返してみれば、たぶん自分は出逢った最初から、火照のガラス細工の心に気づいていた。気づいていて、わざと知らぬふりをしていたのだ。彼の心の糸になるべく触れないよう静かに笑って傍にいた、あの、たった数日間の穏やかな日常。
二度と戻ってこない。
自分の一等は来羅だと、そう覚悟したはずなのに、いざ火照を目の前にすると振るう拳にはわずかな迷いが生じた。対する火照に逡巡は見られない。百夜の右手に巻きつく焔にも、怯むことなく向かってくる。叩きつけられた拳は、彼の身体のわりに重かった。受けとめた左腕が赤黒く変色する。
火照に触れられると、生じた焔は一瞬で分解されて消滅してしまった。紅月が言っていたとおり、火照には能力が効かないのだ。そして純粋な格闘戦ならば、彼のほうに分があった。
向けられる昏い瞳には、一縷の情もない。
彼の「時」を止めているのは来羅の力なのだろう。能力が効かないのも、きっとそれが来羅の意思なのだろう。
だとしたら、百夜が火照と戦うことはきっと来羅に望まれていない。そして百夜が火照に勝つことは、もっと望まれていないだろう。彼女が待っているのは火照だ。二千年前から、いやもっと前、百夜と逢う前から、彼女が待っているのはたった一人、火照だけだ。
火照とおなじ時間を生きるために彼の時を止め、能力の効かない身体にしたのだ。記憶が消えても、彼女は火照を待っていた。
それでも。
それでも、来羅を火照に渡すことはできない。少なくとも、もう一度、あの手をとってあの目を見てあの心に触れるまでは。それまでは彼女を見失うわけにはいかなかった。
だから百夜は拳を振り上げる。火照に向かって。
怜悧な漆黒の瞳を、真っ直ぐに見返して。
◆
噛み締めた歯のあいだ。舌の上。錆びた鉄の味がした。
血の味だ。もうずいぶん久しぶりの味だった。懐かしい、殺伐とした日常の味。口の中に溜まったそれを吐き出して、砂は口の端を持ちあげた。 こんな風に血を流したことなんて、この力を継いでからは初めてだった。
目の前には黒髪の女が、腹の立つ笑みを浮かべて立っていた。それで、自分もたぶん同じような顔をしているんだろうと分かる。女の白い頬は砂塵で汚れ、流れ落ちた黒髪は乱れていた。こめかみから流れた血が、細い顎をつたって落ちて、夕闇の地面に黒い染みをつくる。
砂の力で、あたりの地面は陥没し、抉れ、砕け散っていた。それだけしても、目の前の女はなんとか立って、砂の行く手を遮っている。妙な呪文かなにかをぶつぶつ呟いていたと思ったら、次の瞬間、放った攻撃が効力をなくした。あっさり片がつくと思っていたが、考えを改めねばなるまい。
力が使えないとなれば単純な接近戦をしかけるしかない。
面倒なことになったな、と唇を噛みしめた直後、女が唐突に間合いをつめてきた。
力を無効化できる術を持っているとはいえ、戦闘中に呪文を呟いている暇はそうそうないはずだ。隙を突くことはできる。
女の攻撃をかわしながら後退する。陥没した地面に足を取られ、慌てて力を使って自らの身体を支えた。その間にも相手の蹴りが飛んでくる。
「…………ちっ」
隙を突くことはできる。
だが、その隙を見つけるのにだいぶ時間がかかりそうだった。彼女は自分をここに足止めしたいだけだ。殺そうとまでは思っていない。おそらくそれが難しいのを知っている。時間が稼げればそれでいいと考えている。だから後のことなど考えずに、息もつかせず全力で攻撃を仕掛けてきている。
この様子では、もう一人の男を相手にしている霧生も苦戦しているはずだ。
百夜は来羅と会えただろうか。彼を行かせた紅月はどうしているだろう。
分解され、消えていく人影が視界の端にちらつく。これがあの子の答えなのだろうか。下した裁定の結果が、本当に「これ」なのだろうか。
もう一度会わなくては。会って、そして、なにも変えられなくてもいい。なにもできなくてもいいから、ただ世界の終わりに来羅の傍にいたかった。そうでなければ、なにもかもを捨てて二千年を飛び越えてきた意味がない。
◆
力を使っている砂には近づかない。
それは霧生が常々固く誓っていることだった。
こちらのことなどお構いなしで力を使うため、彼女の周りの足場は最低なことになる。側にいると巻き添えを被るから近寄らない。だから、彼女が今どうしているのかは分からなかった。路地を突き抜けていった先で、さっきまで大きな物音がしていた。それがある程度止んだということがなにを意味するのか。いつもなら、砂が相手をねじ伏せたのだと信じて疑わないが……。
飛んできた鉄パイプを避けたところで、絶妙の間合いで男が踏み込んできた。思わぬ角度からの攻撃に反応が遅れる。少しずつタイミングをずらしてくるその動きで、彼がずいぶん戦闘慣れしているのが分かった。
張ったはずの水防壁が、どういうわけか相手の拳が触れた瞬間弾け飛んだ。そのせいでできた隙を、男は見逃すことなく攻めてくる。
力は問題なく発動できる。が、彼はそれを無効化できる術を持っているらしい。火照が本当に百夜の兄ならば、裏で彼が動いていたのは明白だ。
紅月は以前、火照に能力が効かなかったと言っていた。百夜は自分と同じく火の力を使う人間に会ったと言っていた。火照の後援者であるらしい光陰家が、人工的な力を研究していたのだとしたら、この男が力を無効化できる術を持っていたとしても、おかしくはない。
力を人工的に発動させるよりは、無効化させるほうが幾分か易しいだろう。
なんにせよ、完全に能力を無効化できているわけではない。力は発動できるし、彼が打ち消すまでにはある程度の時間が必要らしい。焦らず、先を読めば依然としてこちらが有利だ。
分かっているが気持ちは勝手に焦ってしまう。一刻も早く来羅の元へ行かなくてはならないのに。先に行かせた紅月と百夜は無事だろうか。そう簡単に倒れる輩ではないけれども。
「よそ見してんじゃねえよ!」
「……っ」
すんでで避けたはずなのに、相手はさらに踏み込んできた。その指先が正確に霧生の喉元目がけて伸びてくる。
水防壁を瞬時に何重にも張り巡らせる。いくつかが破られたが、いくつかが相手の手を止めた。だが息をつく暇もなく、横合いから蹴りが飛んできた。防御が間に合わず、その重たい蹴りをまともに横腹に受けた。
噛みしめた歯の間から呻き声がもれる。地面に叩きつけられる直前に、水の層で衝撃を和らげた。
そのまま、水で身体を弾く。さっきまでいた場所に蹴りが落ちて、水しぶきが上がった。
――殺す気で。
身体の周りを、いくつもの水壁が取り巻いていく。
――殺す気で、いかなくては。
殺される。
右手に、透明な水が蛇のように絡みつく。
距離を取って、霧生は言った。
「もう一度言う。下がれ。おまえの命にまで用はない」
薄い水壁の向こうで、男が笑った。
「俺は、おまえの命に用がある」
「……なら、しかたないな」
気づいたら、自分の頬にも同じような笑みが浮かんでいた。砂じゃあるまいし……、そう考えた自分にまた笑う。
次の瞬間、霧生の顔から表情が消えた。水が弾け飛び、同時に、身体が弾丸のように飛び出した。
男が構える。
霧生は迷わず拳を繰り出した。
◆
その姿を見た瞬間、思わず安堵で微笑みそうになった。いや、実際に笑ったのかもしれない。
まったく場違いな表情だったのは自覚していた。
たとえ、こんな最悪な状況だろうと、
たとえ、彼女の身体が的の手の中にあっても、
もう一度眼前にその姿が現れたことだけで、なにもかもに感謝したい気分だった。祈るべき神など、もうほとんど瓦解していたけれど。
「ありもと……」
紅月は呟いた。
有本美沙を肩に担ぎ上げている男は、黒い着物を羽織っていた。その男の行く手に、紅月は無言で立ちふさがる。男の後ろから遅れて現れたのは、案の定、火徳信司と茜だった。
この非常事態において、有本美沙を彼らが手放さなかったということはつまり、それだけ彼らが、その少女を重要視しているということだ。裏を返せば、有本美沙以外に来羅に対する切り札がないということだった。
情けないことに、紅月も同意見だ。今の来羅に、他にどんな言葉が、だれの言葉が届くのか、もうわからない。全部彼女は捨てていった。
火徳信司は紅月を見とめるなり、顔を歪めてなんとか笑みを形作った。その表情で、今の状況が彼にとっても望ましくなく、また意図したことでもないのが分かった。
思えば、彼の思惑どおりにいったことなど何一つなかったのだ。一族内で孤立して、強行に事を進めてきたにしては、何一つ、彼の思いどおりにはならなかった。
狂ってしまう一歩手前のような男の表情に、一瞬同情しそうになって、紅月はそんな自分に苦笑した。
「有本を、かえしてくれ」
存外に静かな声が出た。
美沙を抱えている男が、火徳信司にうかがうような視線を送る。
「従うと思うのか」
「従うとか、従わないとか、もうそんな話じゃないだろう。周りを見てみろよ。そんな状況じゃないだろ、もう。全部消えてく世界で争っても無意味だ。……有本をかえしてくれ。俺が来羅に会わせる」
会わせたからといって、なにがどうなるのかなんて分からないけれど。でも、来羅に世界を捨てさせたのは、美沙の死だ。もし美沙が生き返る可能性があるのなら、その希望が残されているのなら、来羅を止めることができるかも知れない。
「あんたじゃ、有本を抱えててもなにもできない。今の来羅になに言っても無駄だ。あんたの知ってる来羅じゃない。だから、俺に――」
「信司様、だめですよ」
紅月の言葉に、火徳信司が迷いを見せた時だった。それまで黙っていた茜が、冷たい口調でそう言った。
「だめですよ」
もう一度言われて、火徳の顔から迷いが消えた。さっきまでの焦燥も消えて、屋敷で見せていたあの傲慢な笑みが頬に張りついた。
「こいつは私が使う。私が、うまく使ってやる」
酷薄に笑うその顔には狂気が浮かんでいて、紅月は「ああしまった」と、後悔する。
ああ、しまった。火徳信司じゃなかった。警戒すべきは、危険だったのは、悪意の発信者は、火徳信司ではなくて、この女だった。火徳信司の一歩後ろに控え、色を失くした唇を薄く開いて、温度のない言葉を吐く女、茜。
思えば、火徳信司が有本美沙のことを把握しているのはおかしかったのだ。有本美沙が、来羅の大事な人間だと、来羅のそばに近寄りもしなかった彼が、知っているはずがないのだ。身の回りの世話を引受け、自分たちのそばで黙って立ち働いていた茜が、火徳信司に伝えたに違いない。
本当の毒蛇は、彼の耳に黒い言葉を囁くこの女だ。
「とんだ悪女だまったく……」
左足を引き下げて、腰を落とす。
もう、なにを言っても無駄だとわかった。茜は動じない。
この距離を、どうやって詰められるだろう。有本を傷つけずに。下手に動けば、次の瞬間茜がどうするのか検討がつかなかった。彼女の目的がまったく読めない。
でも、ここで有本を取り返さないと……。
救いといえば、相手も彼女を手荒には扱わないだろうということ。「時」が止まっているせいで、有本の身体には外からの力が作用しないということ。
「あーあ、ほんっと、貧乏くじだぜ……」
全部終わったら、来羅になにかごちそうさせよう。味覚音痴の彼女がつくる、あの変な料理の味が今は懐かしい。
紅月の握った拳に空気が収斂していく。唇を噛みしめ、彼は地面を強く蹴った。
◆
裁定者などではなかった。
全部全部、下らない妄想、偽り、嘘だった。
そんなことに今さら気づいても、もうどうすることもできなかった。
裁定者として、審判の日のために生きてきたのだ。そのための自分だった。全て、虚妄。
「来羅」という名前も、今となってはもう名乗ることさえできない。来羅という名は、この身体の本当の持ち主のもので、かつて火照を愛して、ひたすら彼とともに在ることを望んでいた少女の名だ。
「わたし」は、その女の子の悲痛な声に引き寄せられて降りてきた。
思いだした。
そして彼女の身体を乗っ取ったのだ。そのときから今まで、なんの疑問も抱かずにのうのうと生きてきた。勝手に乗っ取った他人の身体で。
わたしはただの概念に過ぎない。人間が神とか霊とか呼んでいる、実体を持たないただの概念だ。呼びかけに応じて様々な人間たちの前に力を顕わした。一族たちにも力の一部を使わせてきた。
それなのに、呼び寄せられて少女の身体に降りた瞬間、わたしは自分が何者だったのか無責任にも忘れてしまった。混濁した意識のなかで、周囲の人間たちに「巫女」だと、「裁定者」だと言われ奉られて、自分はそういう存在なのだと思いこんだ。
思いこむことで、この世界に惨めに留まることを選んだのだ。自分には使命があるのだと思いこんで。
「あの子」は火照を愛していた。
だけど今の「わたし」は百夜を愛しいと感じている。だって初めてわたしに呼びかけてくれた人だもの。
なんとなく、覚えている。最初に百夜が呼びかけてくれたときのこと。
――はじめまして。巫女さま、名は、なんとお呼びすればよろしいですか?
――らいら……、いい名前ですね。
あのときわたしは生まれたのだ。自分が何者かもわからないまま。
神霊でありながら、人に惹かれた。彼に惹かれた。その結果が、これ。
記憶も意識も「あの子」と「わたし」のふたりぶんが混ざり合って溶け合って、もう二度と、元の「来羅」には戻れない。この身体をあの子に返すことはもうできない。火照だけを愛することも、もうできない。
火照が愛して、火照だけを愛していたあの女の子はもう死んでしまった。二千年前に死んでいたのだ。
ただ、残っていた来羅としての意思が、力の一部を火照に与えて、彼の時を止めたのだろう。またいつか彼に会えるように。おなじ時を生きられるように。
でも無駄だった。火照が愛した少女は死んで、百夜を愛した少女も変容してしまった。
何者でもなくなってしまったわたしが、世界に溶けて、元の神霊の類に戻ろうとしている。人間の営みに長いあいだ触れすぎて、神霊としても中途半端なこの存在。
思考はとめどなくゆらゆら揺れて、行ったり来たりしていた。過去も現在も、いくつかの未来さえ、ごちゃまぜに去来してわたしの存在を塗りつぶしていく。
実体はとうになくしていた。
大気に揺らめく概念のまま、世界がほどけていく様を眺めていた。火照と百夜が、戦わなくていいはずのふたりが戦っている。
火照はたぶん、来羅を手に入れるために、協力関係だった光陰家を裏切ったのだ。
少なからず一族の血を継いでいる者たちは、分解に時間がかかるのだろう。周りの人間たちは消失しているのに、まだ彼らだけは身体を残していた。そのせいで無駄な血が流れている。どうせみんな、消えるのに。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
だれになにを謝っているのかわからないけれど。謝罪の言葉に思考が埋め尽くされてゆく。
哀しいばかり。
哀しいばかりの世界だった。
だからまた一からやり直して、今度こそやさしい世界をつくろう。
全部愛している。愛しているから、ここで終わらせよう。
愛しているから、だから、この世界にとびきりやさしい終焉を。