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 こんな世界、要らない。
 火照を抱き締める手に力を込めながら、少女はもう一度呟いた。
 言葉の響きを、口の中で転がしながら確かめるように。
 こんな世界要らない。欲しいのは、望んだ世界は、自分と火照が、ただ一緒にいられる世界だった。ただ一緒にいることを、当然のごとく肯定する世界だった。
 ただ二人で、ずっと二人でいたいだけなのに、それなのにどうして揃いも揃って周りの連中は自分たちの邪魔をするのだろう。理由はわかっているけれど、納得はできない。
 でもそんな辛い日々も今夜で終わり。今の自分なら、この世界を終わらせることができる。
 あの日、無力だった自分が諦めるしかなかった未来を、今なら手に入れることができる。望んだもの全てをこの手にする力がこの手にある。
「だけど、せめて、やさしく終わらせてあげましょう」
 歌うように言いながら、少女はすっと立ち上がった。路地裏は夜の静けさを取り戻していた。追ってきた男たちはもういない。排除できた自分の力に満足する。
 少女は弾け飛んだ男たちの肉片を踏みつけ、両手を広げた。
「こんな世界、もう要らない」
 言って、微笑んで。彼女がそうした瞬間、あたりの空気が変質した。臓腑が冷えるような嫌な感覚に眉をしかめ、火照は慌てて、楓と茨を見やる。
「来羅、こいつらは、新しい世界に連れて行く」
 踊るようなステップを踏んで振り返った少女が「どうして?」と小首を傾げる。その時初めて、火照の胸の内に恐怖が芽生えた。目の前のこの少女こそが、自分が追い求めつづけた「来羅」のはずだ。それなのに、ふつふつと違和感が湧いてくる。
「こいつらは……俺の仲間だ。二人くらい、いいだろう?」
「ふうん……。わたしは、火照だけがいればいいのに。火照は、違うのね」
「そんなことない。俺だって――」
「いいわ。べつに。しょうがないなあ……火照の頼みなら、きいてあげる」
 思わず、礼を言いそうになって呑み込んだ。
 さっきの自分の言葉が、懇願の響きを帯びているのは自覚していた。せっかく来羅が戻ってきたのに、もう何者にも怯える必要はないのに、やっと自分たちの世界を創れるはずなのに……この違和感はなんだろう。
「おい、大丈夫か?」
 背後から楓に声をかけられて、火照の肩がびくりと震えた。
 気遣うような茨の視線を頬に感じる。
 ――来羅が、一等大事だ。
 それは変えようのない事実だ。だけど、この二人も、とても大事だ。そのことを、どうやったら彼女に伝えられるだろう。
 来羅と自分の、お互いしかいない世界はたしかに心地良いものだったけれど、それだけでは生きていけないのを、火照はもう知ってしまっていた。知らないままでは、この気の遠くなるような長い年月を乗り越えることはできなかった。だけど来羅は、本当に火照しか要らないと言っている。今も変わらず、あの日の憎しみを抱えている。
 少しも衰えることのない、彼女の、世界への憎しみを目の当たりにして初めて気づく。自分の中の憎しみは、もうずいぶん時とともに薄れてしまっている。心のどこか、自分でも気がつかなかった部分で、火照は世界を許してしまっている。
 楓と茨を大事にすることは、来羅への裏切りだろうか。
 世界に対して、来羅と同じだけの憎しみを持っていないことは、裏切りだろうか。
 あの日、二千年前のあの日に一人残してしまった来羅に対する……。
「火照……」
 半ば呆然とした様子の茨の呟きに顔を上げる。気遣うように寄せられた眉、切れ長の瞳にいつもの強気な印象は残っていなかった。不安げに揺れる瞳に、「大丈夫だ」と頷き返した。が、そこにほんの少しも説得力がないことに、火照は自分で気づいている。
 両足に力を入れて立ち上がると、視界が揺れた。
 建物も、人も、ゆるやかに分解され、消えていく。
 さっきまで足下に転がっていた男たちの死体が、ばらばらに分解されて散っていく。その様がはっきり火照には見えた。
 これが来羅の用意した、やさしい世界の終わりなのか。編まれた世界の毛糸の一端を、指でつまんでそっと引っぱって解いていくような終わり方だった。
「ちょっと、君たち、こっちで騒ぎがあったって通報が――」
 薄暗い路地に響いた声が、不自然に途切れた。振り向いて、肌が粟立つ。
 そこにはもう胸元から下しか残っていなかった。残った警官の制服がざらりと解けて消えてしまうと、もう一人の人間がそこにいたということが信じられなかった。隣で楓が息を呑む気配がした。
「ねえ、火照!」
「……なに、来羅」
 声に力が入らない。来羅の声が場違いに明るい。
「月が綺麗ね」
 夜空を見上げていた少女は、不意に笑みを消した。「光が、邪魔だわ」
 彼女がそう呟いた途端、あたりの光が音もなくふっとかき消えた。月明かりだけになった世界に、目が眩む。
「ああ、ほら、あの日の月みたい。変わらず綺麗だわ。火照、来て」
 手を引かれて、歩きだす。繋いだ少女の手は思っていたより冷たかった。その手の温度が、以前と変わらないかが思い出せない。
 楓と茨が黙って後をついてくるけれど、来羅は彼ら二人の存在は全く無視している。というより、火照以外の存在には気づいていないかのようだ。
 月が綺麗に見える場所を探しているようで、来羅は眉を寄せてしばらく考え込んだ後、まだ消えずに残っている手近なビルの階段を上り始める。
「やっぱり、まだ邪魔なものが多いな。ごめんね火照。いっぺんには、さすがに世界は終わらせられないの。少しずつ解いていくから、そうだな、明け方まではかかるかな」
「ああ……」
 もっと何か言わなくてはと思うのに、相づちを打つので精一杯だった。この瞬間を待ち望んでいたはずなのに、いざ直面すると、来羅と自分の温度差を突きつけられるばかりなことに愕然とする。同じ想いで、二千年待ち続けたはずなのに。
 ビルの屋上から見下ろすと、見わたすかぎりの世界が、自分たちでも気づかずに静かにほどけていく様がよりはっきりと分かる。何もかもが存在ごと消えていくその光景に、なぜだか涙がこみ上げた。
 この涙は、裏切りの涙だ。
「ねえ火照、わたしたちの新しい世界は、どういうものにしようか」
 火照の手を握ったまま、鉄柵から身を乗り出すようにして来羅は言う。
「きれいで、やさしい世界がいいよね。わたしと火照が一緒に、のんびり過ごせるような。もう一度、最初からやり直して、もっと正しい世界にしたいな」
 そうだな、と乾いた唇で同意する。した、つもりだった。
 それが音になったのかどうかが分からない。なったとしても、来羅が自分の言葉を聞いてくれているのか分からなかった。今の来羅に火照の姿はきちんと映っているのだろうか。
 振り返った来羅の笑顔がふいにかき消える。表情を失くした顔で、彼女は薄く唇を開いた。
「どうして泣いてるの?」
 ねえ、火照。どうして泣いてるの。
 不思議そうな声音の中に、糾弾の色を感じ取って、火照の頬が凍りつく。
「来羅……」
 口の中がカラカラに乾いている。言葉がなにも出て来ない。この少女に向ける自分の視線が信じられない。こんな目で、この少女を見る日が来るなんて思ってもいなかった。自分たち二人の未来だけを望んで生きてきたのに、その未来がもう目の前にあるのに、どうして自分は立ち止まっているのだろう。自問の声をねじ伏せる。
 この先を、見たくない。待ち受けている何かから目を逸らしたかった。来羅にそれを知られてしまった。
 自分との約束を果たそうとしている彼女の手を、ためらうことなく握り返さなくてはいけなかったのに。
 少女がすっと目を細める。
 次の言葉を待つ、わずかの間、罪悪感と恐怖に心臓が小さく震えた。
 来羅が口を開き、音もなく息を吸った。その唇が言葉を紡ぐ一瞬前、夜の大気が突風に巻かれた。
 逆巻く髪に一瞬視界を閉ざされる。かざした手の下で薄く目を開け、視界の隅に捉えた人物に瞠目する。
「来羅!」
 迷いなど何一つない声が少女を呼んだ。
 声のした方をのろりと見やった彼女の、青白い顔に変化はない。
 見なくても分かっていた。その声がだれのものか、火照には分かっていた。おそらく風の能力でここまで運ばれてきたのだろう。屋上の鉄柵を乗り越えて立っていたのは、ああ何の因果なのだろう、遠い過去に捨ててきたはずの、弟。
 もう二度と会うことはないと思っていたのに。どこか別の、自分の知らない場所で、幸せに生きて、死んだのだとずっと思っていた。あの日、来羅と彼の再会を目にするまでは。
 それが、二千年も経った今になって、どうして……。
「百夜……」
 呟いた名前が虚空に上る。この世で二番目に愛していたはずの弟が、今、自分に対峙する者として、自分よりも成長した姿となって目の前に立っている。
 青年の姿をした弟が、険しい目をこちらに向けた。その目の色を見たときに分かった。彼はもう決めたのだ。最も優先するべきものを決めて、自分と敵対することを決めたのだ。
「火照、来羅を返して欲しい」
「もともとお前のものじゃない」
「あなたのものでもないでしょう。……兄さん」
 不意に放たれた言葉に息を呑む。相変わらず口の中は乾いていて、次の言葉を発するのに、一度唾を飲みこまなくてはいけなかった。楓と茨も声をなくしている。
「知ってたのか」
 かすれた声で呟くと、今度は向こうが怯んだようだった。
「……本当に? 火照が、いなくなった俺の兄さんなの? ……思いだしたんだ。ほんの、ついさっきだ。なんで――」
「なんで、生きているのか? 成長しないのか? 来羅を連れて行ったのか? 得体の知れない力を持っているのか?」
 百夜の疑問を正確に受けとって、火照は笑った。力のない笑いだった。
 おそらく、百夜たちは火照や巫女に関して、ある程度の記憶を封じられていたに違いない。そうでなければ、百夜はともかく、土と水の力を継承したあの二人が火照のことを覚えていないはずはない。火照という名前にしたって珍しいし、彼ら二人が幼いころに自分は何度か顔を合わせている。彼らは成長したが、火照は十六の年のままだ。顔を覚えていてもおかしくなかった。
 それなのに、彼らは火照が何者なのか、全く思い至らなかった。
 記憶を封じたのだとすれば、やったのは来羅に他ならない。
「おまえたちは、根本から間違ってるんだよ。二千年前に、全ては変化したんだ」
 来羅と自分をきっかけにして、巫女のありようも、一族の体制も、何もかも変わったのだ。
 冷たい表情で百夜を見つめている来羅の肩を、そっと引きよせた。百夜の顔が強ばる。
「来羅はもともと、普通の女の子だったんだよ」
 母親に、金のために売られた可哀相でちっぽけな女の子だった。つまらなさそうに毎日を生きていた、ごくごく普通の女の子だった。火照は、知っている。巫女ではなかったころの来羅を、ただの女の子だったころの来羅を知っている。
「俺と同い年で、十六の年まで一緒に成長した、ただの女の子だ」
「……来羅は…………」
 揺らいだ百夜の表情で、やはり彼がその事実をしらないことを確信する。彼らのねつ造された記憶では、来羅は一族の歴史が始まるその時からのただ一人の巫女なのだ。元々はただの、世界各地に存在する、神と人とを繋ぐ神がかりの巫女という存在だったということを知らないのだ。
「彼女が年を取らなくなったのは、俺と別れたときからだ。それまでは、ごく普通に年を重ねていたんだ。それまでは……」
 それまでは、自分と彼女は愛しあっていた。
 血の海となった神殿の中央で、何か別の存在に身体を乗っ取られる前までは。
「来羅!」
 途切れた言葉の先を待たず、百夜はもう一度、少女の名を呼んだ。呼びかけに応える声はない。その声に含まれる切実さには全く気づかぬ様子で、いっそ冷たいとも思える表情のまま少女はじっと青年を見つめていた。
 応じない彼女に安堵する気持ちと、裏腹な不安が入り交じり、火照はどうすることもできなかった。百夜の声を遮ることも、少女の手をとってこちらを振り向かせることも。
 冷たい少女の瞳に見つめられても、百夜は怯まなかった。あたりの世界がてんでに分解されている異常な状況で、彼は少女しか眼中にないようだった。
「来羅、戻って来て欲しい。僕を……僕や紅月や砂や霧生を選んで欲しい。僕たちの生きてるこの世界を選んで欲しい。……どうしても選べないというのなら、どうしても、この世界が要らないというのなら、僕たちは、世界ではなくきみを選ぶ。きみが自分のことを人でないというのなら、僕たちも人ではないものになってきみの傍にいよう」
 火照は傍らの少女の気配に耳を澄ませる。こわばった身体は、どうしてもそちらを向くことができなかった。必死の面持ちで言葉を紡ぐ、自分よりも大人の弟から目を逸らせなかった。
「きみが好きだ。僕は、きみが好きだよ、来羅。二千年前のあの時から、はじめて逢ったあの時から、僕はきみが好きだ。僕の一等はきみだよ」
 ――でも、実際に「二千年の間」彼女を求めつづけ、気が狂いそうになるのを持ちこたえてきたのは自分だ。
 火照はそう思ったが、口には出せなかった。
 少なからず、その想いが変容しているのを自覚せずにはいられなかったからだ。だけど、その想いがなかったら、自分はとうに狂っていた。年を重ねることも死ぬこともできず、長い間の放浪生活に狂わずにいられたのは、来羅と交わした約束があったからだ。
 百夜は、来羅がいまだに無反応なのに不安を覚えたらしい。眉を寄せ、こちらへ歩いてくる。背後で楓と茨が身じろぎしたのがわかったが、火照は動かなかった。今の来羅に百夜がなにを言ったところで無駄だ。
 なぜならこの来羅は、百夜の知っている来羅ではない。
 だから少女に手を伸ばす百夜の手を、黙って見ていることができた。
「あのとき、真っ先にきみを選べなくてごめん。ねえ、来羅――」
「触らないで」
 ぞっとするような冷たい声が響いた。
 空中で静止した百夜の手の、震えた指先に触れそうになるところまで、来羅は踏みだす。上目遣いに挑発するような笑みを浮かべた彼女は、先日までの茫洋とした来羅ではなかった。蠱惑的な曲線を描く唇は、しかし、火照の知っている来羅とも違う。
 それならば、この少女はいったい何者なのだろう。
 怯んだ百夜の表情に、少女はますます笑みを深くした。
「触らないで。もう諦めて。あなたの知っているあの子は、もういないわ。諦めて、この世界と一緒に消えて」
「来羅……」
 こぼれた呟きを鼻で笑う。
「もともと、この躰はわたしのものよ。わたしだけのものなの。それを勝手に乗っ取って、勝手に生きて、勝手に恋を――」
 声が途切れる。
 悠然と微笑んでいた少女の口元が、凍った。
 ぐにゃりと歪んだ眉の下、黒い瞳が大きく見開かれる。
「あ……」
 揺れる瞳が潤んで、血の気を失くした頬に雫がこぼれた。両手で頭を抱え、よろめく少女の躰に手を差しのべた。が、火照の手は百夜同様、彼女の細い手に弾かれる。
 鉄柵に縋りつき躰を支えた少女は顔をあげた。
 その顔は、もうさっきまでの彼女ではなかった。不安に怯えた、可哀相な一人の女の子だった。
 愕然とした表情で、目の前の青年を見つめていた。
「百夜……」
 か細い声がその名を呼ぶ。
「来羅」
 再び伸ばされた百夜の両手は、少女の周りの空気に弾かれた。同時に、世界が共鳴したように、大気全体が大きく震える。
 まるで怯えた小動物のような震え方だった。
「やめて……。やめてやめてやめてやめてっ! これは……、これはわたしの躰。わたしの心。わたしだけの……!」
 悲痛に叫んだ声がすぐに掠れる。
「わたしのものよ……」
 わたしのものよ、と泣きながら崩れ落ちた少女を、火照は抱きとめた。
「来羅……」
 自分の声も掠れている。細い首筋に手を回して、そっと引きよせようとした。
「火照」
「来羅、だいじょうぶか」
「火照……、さようなら」
 瞬間、腕の中の感触がかき消えた。
 頬に触れていた柔らかい髪も、首筋にかかった吐息も、胸に感じた震える鼓動も、全てが一瞬のうちにほどけて消えた。
「来羅!!」
 消えてしまった。たったいままで、目の前にいたのに。腕の中にいたのに。
 泣いていた。それなのに。
「来羅!」
 呼ぶ声に応えはない。世界は黙って崩壊を続けている。泣いている彼女を、独りでどこかへ行かせてしまった。探さなくては、そう思う火照の横で、同じように百夜が動いた。
 背を向ける青年の腕を引きとめる。
「おまえは、行かせない」
「僕は行く」
 振り返った百夜の視線に、後悔する。
 もっと早くに気がつくべきだった。
 もっと早くに、そうするべきだった。
 来羅と百夜が再会したその日に、百夜があの「百夜」だとわかった日に。殺すべきだった、百夜を。弟を。
 来羅を選ぶのならば。何があってもあの少女を選ぶと、そう決めていたのだったら。

 ――ああ、きっと最初から、自分は間違っていた。

 引きとめた百夜の腕に力を込める。
「おまえを来羅には、二度と会わせない」
 もう駄目だ。次に会わせたらきっと、彼女は「そちら」に引きずられてしまう。
 ようやくわかった。全てわかった。
 二千年前、彼女になにが起こったのか。愛した少女の変貌と、その理由。
 そして思う。心底から火照は思った。
 ――こんな世界、壊れてしまえばいい。
 崩壊してゆく世界に薄く笑う。
 掴んだ腕をほどいても、百夜はその場に立っていた。残る未練の一切を切り捨てる。血を分けた自分のたった一人の弟は、二千年前のあの日に置いてきたのだ。ここに今立っているのは、来羅を奪おうとする敵に他ならない。
 火照は右手を握りしめる。
 迷いなく、握った拳を百夜に振り向けた。





 自分という存在が薄く引きのばされて、大気に希薄に溶け込んでいるのを感じる。
 躰という物質はいとも簡単に消失してしまった。たぶん、わたしにとっては取るに足らないものだったのだろう。そう来羅は思った。
 だって、創ろうと思えばすぐに創り出せるのだから。人一人の躰を分解し、再構築するのなんて簡単だ。まるごと世界一つをそうすることに比べたら。
 だけど「自分」とはなんだろう。
 躰という物質に何の意味があるのだろう。
 ――火照のためだ。
 声がする。火照のためだ。火照と愛しあうために、あの躰が必要だったのだ。
 強く強くそう思うのに、どこかでか細い声が「違う」と言っていた。二つの意思が衝突し、粉々に砕け、曖昧に一つに混濁していく。
 ――百夜が好き。
 彼に惹かれている。泣きながら訴える声があったかと思えば、すぐにもう一方から、それをねじ伏せようとする声が上がる。
 躰のみならず、精神さえばらばらに分解されそうだ。それを必死にかき集めて、なんとか「自分」を保とうとしていた。だけど、もうわからない。もうわからない。保ちたい「自分」がいったい何なのか、もうわからない。
 いや、本当は全部わかっている。全部、思いだした。
「自分」がどんな存在だったのか、二千年前になにがあったのか。相反する二つの声の意味するところを、全部思い出してしまった。
 ――わたしは、裁定者などではなかった。
 拠り所だった自分の存在価値が、いま、きれいに跡形もなく消えていく。
 眼下に広がる、壊れていく世界を見ながら、少女の意識は声もなく泣いた。自分の涙が世界を震わせているのを感じる。
 終わっていく世界に涙を流したのではなかった。
 この涙は、自分のために流した、利己的な涙だった。
 裁定者などいなかった。そもそもの初めから、全ては間違っていた。
 もう一度、最初からはじめよう。選択肢はもはや、それ以外に考えられなかった。






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