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 全部全部、滅んでしまえばいい。
 呪われてしまえばいい。

 後から後から、呪詛の言葉が溢れてくる。どす黒く染まった心から喉を伝って口から迸るその声は、呪いの色に満ちていた。
 覚醒したとき、来羅がいたのは神殿の大広間だった。
 出入り口が一つしかない、いつも来羅が儀礼を行う広間。扉の内側にかけられた閂は取り去った。しかし、外側からも閂はかけられている。当然の話だ。さっきから、どんなに叩いてもびくともしない。来羅の力を恐れてか広間には他に人間はいなかった。
 夢うつつの中で聞いたこと。火照がもうすぐ殺されるということ。
 目が覚めて考えたこと。もし火照が本当に殺されたら、自分も一緒に死のうということ。
 だけど、だから、それまでは諦めずにいようと思った。持てる力のすべてを使って、火照を助けようと思った。なのに、やはりほんの少しも自由になる力はない。あれほど容易に、自分の思考と同調して発揮できたはずの力が、今はもうどんなに叫んでも応えてくれやしなかった。
 そして力がないのなら、来羅は非力でちっぽけな存在でしかない。
 錠のおろされた広間から、一歩外に出ることさえ叶わない。
「……なにもかも、なにもかも……人も神も、わたしも、呪われてしまえばいい」
 望んだ未来が、手に入らないのならば。
「力を……貸してよ……ねえ神さま」
 巫女になど、本当はなりたくなかった。ただの普通の女として育って、火照と出会いたかった。願いはそれだけだったのに。
「あんたなんかの声が聞こえるせいで! あんたのせいで! わたしは、自分の幸せを掴めない。それなのに……本当に必要なときに応えてくれないなんて……ふざけないで! ふざけないでよ!!」
 高みからこちらを見下ろして、喚いている自分の姿をあざ笑っているのだろうか。歴代の巫女に声を聞かせてきたのも、来羅に不思議な力を使わせたのも、すべては神にとっては面白半分の暇潰しでしかなかったのではないだろうか。
 血を吐くような叫びも願いも、何一つ届いてはおらず、もし届いていても笑って見下ろしているのではないだろうか。
 そんな暗い疑念がたちまち体中を覆い尽くしていった。
「応えなさいよ……」
 面白半分でも暇潰しでも構わない。それでも構わないから力が欲しい。一度与えておいてから奪うなんて納得ができない。
「応えなさいよ、ねえ……応えてよ」
 だだっ広い広間の中央に立って天井を見上げた。古ぼけた天井の向こうにあるはずの夜空に向かって、もう一度言った。
「応えて。応えて応えて応えて! 応えなさいよ! 卑怯者! 応えてよ!! 応え――……」
 叫びは途中で不自然に途切れた。
 体中に走った衝撃がそれ以上の言葉を許さなかった。
「……あ……っ」
 足の力が抜けて、がくりと床に膝をつく。目は大きく見開かれ、見えないはずの夜空を見上げていた。

 ――応えた。

 なにかが上から降ってきた気がした。
 目に見えないなにかが、望んだものが。

 ――ああ、だけど。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。
 降りてきたなにかが、来羅の思考を踏みつけ、圧迫し、ねじ伏せる。
 直前まで、なにを必死に訴えていたのか、だれを救いたかったのか、なんのために力を欲していたのか思い出すことができなくなる。
「ほでり……」
 掠れた声で呟いた名前の持ち主は、いったいだれだったか。
 ひどく大事な人のように思ったけれど。
 その人のことを考えると、いつでも心がかき乱れて、苦しくて、切なくて、この世で唯一、愛しいと……。

 ――ああ、だけど火照、わたしたち、出会わなければ……こんなに苦しまなくてすんだのに。

 大きく見開かれた少女の瞳から、溢れた涙が一粒こぼれ落ちた。
 もうなにも思い出すことはできなかった。
 がらんどうの心の中、最後に残った「かなしい」という感情も、やがてかすんで消えていった。

 少女の全身から力が抜け、床に崩れ落ちる。
 開いた黒い瞳にはなんの感情も浮かんではいなかった。
 望みどおり、願いに応えて「降りてきた」その存在は、なぜ自分がここにいるのかも分からないまま、ただじっと暗闇を見つめていた。








 一度血に染まった手は、二度と元には戻らない。
 その血をたとえ綺麗に洗い流したとしても、その罪はなかったことにはならない。

 ならば、一度も二度も同じことだ。

 そう思ったから、だから火照は九郎の血のついた手でもう一人殺した。
 自分も来羅もこの窮状から救い出すにはそれしか手はないと考えたからだった。
 目の前に転がっている骸から、赤黒い血溜まりが床を這って近づいてくる。先ほどまで饒舌に動いていた口からはもうなんの音も発せられない。
 辺りは業火に包まれていた。
 死んだ男が使った力のせいで。
 火照の左腕はひどい火傷を負って、力なくだらりと下げられている。
 早くこの場から逃げなければ、自分もこの火に巻かれて死んでしまう。
 そう、死んでしまう。
 火の力を持つ目の前の男を殺したのだから、その力は火照に移ったはずなのに。それなのに、周りの炎は火照の意志などまったく無関係にどんどん広がっていく。
 焔は使い手であるはずの火照に牙を剥いている。
 使い手であるはずだった。そうでなければならなかった。一族中がそう考えていた。火照自身そうなることを疑っていなかった。だからこそその名に「火」を冠することを許されたのに。
 自分じゃない。
 つぎの火の力の者は自分じゃない。
 その証拠に、むき出しの肌が熱に焼かれ悲鳴を上げている。
 火照は呆然としたまま、一歩後ずさった。
「嘘だ……」
 どこかで、この力さえ手に入ればなんとかなると思っていた。
 そんな甘い考えを抱いていた。
 いざとなれば里中焼き払ったって構わないと。自分と来羅と、百夜をつれて逃げて、逃げて、どこかだれも知らない土地で自分たちだけで静かに暮らせれば……。
 そんな甘い幻想が、今目の前で真っ赤な炎に焼かれて炭になっていく。
 一瞬、このままこの身も焼かれてしまえばいいかと考え、すぐさまその考えを打ち消した。
 来羅が待っている。
 来羅が、自分の来るのを必ず待っている。
「行かなけりゃ……」
 火照は落ちてきた屋根の梁を反射的に避けた。舞い上がった火の粉が頬に触れ、その突き刺すような痛みが少年の足を動かせた。
 行かなくてはならない。来羅の元へ。
 無茶でもなんでも、次の瞬間殺されることになっても、もう一度来羅に会って、そしてできることなら二人で逃げるのだ。
 火の手は駆けだした火照を追いかけてきたが、彼はそれを振り切って神殿へ急いだ。里は突然の火事に慌てふためいている。遠くで警鐘が鳴っていた。いつもなら寝静まっている時間帯だが、自分たちの騒ぎのせいでまだ起きている者が多かったのだろう。対応が早い。
 建ち並んだ家々から幾人もの人が飛び出してくる。
 火照に気づく者はいない。
 暗闇の中、燃え上がる炎に照らされて皆の顔が赤い。
 だれも火照には気づかない。
 火事のときに、火照の身を案じてくれる人間は来羅だけだ。
 人混みに逆らって辿り着いた神殿も騒ぎに包まれていた。だがそんなことはもう少しも気にならない。いつものように塀を跳び越え、土足のまま外殿へ踏み込んだ。廊下を折れ曲がったところで、向こうから走ってくる男と目が合う。男が声を上げようと口を開きかけた瞬間、火照はためらわずに拳を振るった。相手の首が鈍い音を立てて、奇妙な方向へねじ曲がる。
 力をなくしたその体を跳び越えて突き進む。
 来羅がどこにいるか、なぜか火照にはいつだって分かるのだ。
 離ればなれになって会うことが叶わなくなったときも、会おうと思えばいつだって、火照は来羅が神殿のどこにいるかなんとなく分かっていた。
 まっすぐに目指したのは内殿の大広間だった。
 途中で出会った人間は全員叩きのめしてきた。相手が死んだかどうかももう確認さえしなかった。少しも心が動かない。手の甲から伝わる嫌な感触に、ほんの少しも心が動かない。
 もうなにもかも、どうでもよかった。
 来羅がいれば。
 彼女がいれば、この世界は火照にとってまだ意味があった。
 大広間の前にいた男二人を殴り倒して、彼は勢いよく扉を押し開いた。
 広間の中心に探し求めた少女の姿を確認して、後ろ手に閉めた扉に閂をかけた。
「来羅、遅くなって悪かった」
 声をかけ、近寄って、そこで初めて彼女の様子がおかしいことに気づいて、火照はあと一歩の距離を残して立ち止まった。座り込んだ来羅の瞳はぼんやりと見開かれたまま火照を映している。
「来羅……?」
 呼びかけに、鈍い反応が返ってくる。
「……来羅? また、あの薬か? 嗅がされたのか? しっかりしろ! 逃げるんだよ来羅!」
 火照は膝を落として少女に詰め寄った。
 揺さぶった肩は彼にされるがまま。開かれた黒い瞳が、なにも見ていないのを唐突に理解して、少年は弾かれたように後ずさった。

「…………おまえ、だれだ?」

 馬鹿げた問いがこぼれ落ちる。
 馬鹿げた問いだ。
 答えは分かっている。彼女は来羅だ。たった一人、世界と引き替えにしても構わないと思える存在だ。
 それなのに、そう自分に言い聞かせようとするほどに、目の前の少女が自分の知っている「来羅」ではないと本能が必死に訴えてくる。
 だれだ、ともう一度無意識に呟いた声はひどく掠れていた。
 だがその問いに、少女は初めて一つ瞬きをし、ゆっくり顔を上げた。艶やかな黒い髪は暗闇の中でさらに黒く、さらりと揺れて白い頬にかかった。
「わ、たし……?」
 姿形はたしかに求めて止まない少女なのに、手を伸ばすことができなかった。
 「彼女」ではない。火照が求めていたのは「彼女」ではない。
「どうして……。おまえ、だれだよ。なんで……嘘だろ?」
 こみ上げた涙が頬を伝っていく。
 止めようがなかった。
「来羅を返せよ!! 俺の来羅を……来羅! 答えろ来羅! もういいんだ、逃げよう! 二人で……約束しただろう!!」
 約束した。
 ここを捨ててどこかへ行くときは、一緒に行こうと。
 火照はもう一度、少女の肩に手を触れた。
「あなた……」
「俺は、俺は……火照だよ。分からないのか?」
「ほでり……ほでり……?」
「そうだよ。火照だよ。迎えにきたんだ……おまえを」
「わたし……を?」
 そうだよ、と答えて微笑んだ瞬間、広間の扉が大きく揺れた。
 扉の外に喧噪が迫っていた。もう時間がなかった。火照が逃げ出したことも、ここに来るまでに何人もの人間を手にかけたことも、すべて知られているに違いない。
 今度こそ、朝を待つことなく自分は殺されるだろう。
 火照はぼんやりしている少女の頬をそっと両手で包み込んだ。来羅なのに、来羅ではないその存在は、ただされるがままに火照を見上げている。とても、連れて逃げられる状態ではなかった。
「なあ、あんた……名前は?」
 気づいたらそう尋ねていた。答えを期待して、たった一つの答えを期待して尋ねていた。
「…………」
 少女はかすかに唇を動かしたが、それは音にはならない。
「名前、自分の名前……分かるだろう?」
 黒い瞳が揺れる。
 願うように、頬を包む両手に力を込めた。
「……ら、らいら……」
「……来羅、そうか……」
 こみ上げた嗚咽を必死に呑み込む。大丈夫だ。きっといつか「来羅」は帰ってくる。戻ってくる。そう自分に言い聞かせて立ち上がろうとした。
 が、弱々しい力がその手を引く。
「ほでり……あなた……」
「そうだよ。……思い出したのか?」
 期待を込めて見下ろした火照は、次の瞬間全身に痺れを感じて床に崩れ落ちた。
「……っ、あ――」
 体中の血が沸騰し、内蔵を食い漁っているかのような激痛だった。
 息もできず、声もでなかった。
 霞んだ視界。
 自分を見下ろす少女は無表情。
 痛みが鈍くなり始めたとき、火照は自分の体のなにかが確実に変わったのを感じていた。なにが変わったのかは分からないが、元のそれとはなにかが、決定的になにかが変化していた。
 その変化を施したはずの少女は相変わらず眉一つ動かさず、冷たい床に座りつづけ虚空を見つめていた。
 立ち上がったときには痛みは綺麗さっぱり消えていた。
 さっきの激痛が嘘のように。自分の変化を把握しきれないまま、少年は口を開いた。
「俺、行くよ……」
 先ほどから、扉は断続的に揺れている。
 木が軋む音から察するに、もう保つまい。
「ごめん、今は一緒に連れて行けない。けど、必ず迎えに来るから……迎えに来る。必ず。約束だ」
 乱れた少女の前髪を右手でかき上げ、そっと額に口付けを落とした。
 木が割れる音。
 扉が開く。
 雪崩れ込んでくる男たち。その怒声。
 火照は振り返った。
 最初に蹴り飛ばした男の手から槍を奪った。
 そして、容赦なくそれを振るった。
 血が飛び散る。返り血が頬を、手を、染めていく。
 流れる涙は、贖罪ではなかった。
 この涙はもっと、罪深いものだ。
 洗い流せないほどの罪。



 翌朝、輝く朝日に照らされて、神殿は血の海と屍の山を浮かび上がらせた。
 巫女は一人、その赤い海の中央に座し、白い服は真紅に染まっていたという。
 夜中に立ち上がった火の手は里の半分を呑み込み、朝になってやっと鎮火した。
 こうして神々の使いとうたわれた一族の里は壊滅状態に陥った。
 彼らにとって喜ばしかったことは、火の力の使い手が一族の手の中に残ったということ。
 そして、巫女が彼らの望みどおりの姿を取り戻したということだった。
 さらに、以前に増して、より明確に、より多くの託宣を里にもたらし始めた巫女は、時の流れを無視してその姿を保ちつづけたという。
 二十年後、里から姿を消すまでは。






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