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 自分の体が、どんどん「大人」に近づいていくのを、来羅は正確に認識していた。
 背は伸びたし、痩せぎすだった手足にもちゃんと女性らしい肉がついてきた。
 神殿へ上がったころから伸ばしつづけている黒髪が、腰の位置にさしかかっていた。
 時間が全てを解決するだろうという自分の考えが、どうやら本当に正しいということを最近の来羅は実感している。
 彼女の力はますます強く、しかも自分の意識とはっきり同調するようになっていたし、火照のほうも今では一族に怖いものはないといった様子だ。全てが思いどおり自分たちの手中に収まるのは、時間の問題。

 来羅は十六となった自分の体を見下ろした。
 まだ肌寒い時期だというのに、巫女の習慣とはほんの少しも融通が利かないらしい。彼女は現在、沐浴中だった。
 神殿の裏手の、人気のない岩場につくられた沐浴場。山から流れてくる水がここを通って下方へ流れていく。溜められた池はそのためいつも身が千切れるほどの冷たさをともなっている。この時期、こんな冷たい水に肌着一枚でつかるなど、正気の沙汰とは思えない。
 何度もそう訴えたのに、神殿の者たちは「どの巫女様もやってきたことですから」の一点張り。来羅の震える体も、紫を越えてどす黒くさえ見える唇も、ガチガチ鳴り続ける歯の音も、考慮に入れることはない。
 来羅は、自分の力がこんな下らない習慣によって保たれているわけではないのを自覚していた。冷たい水につかるかつからないかで、神から授かったこの力は左右されたりしない。体調を悪くするだけだ。

 この「習慣」というやつが、来羅の最後の敵だった。
 神殿の者たちは来羅の「力」を畏れているくせに、巫女の「習慣」を彼女に守らせようとするときはかなり強気だ。
 この「習慣」を、ずたずたにしてやる「力」が欲しい。
 もう二度と、自分のすることに口出しさせないだけの力が欲しい。
 あと少し。もう少しだ。
 感覚が遠のいていく冷え切った体をかき抱きながら、来羅は小さく唱えた。歯の根が合わず、ガチガチと耳障りな音が頭に響く。
 彼女はぎゅっと口を引き結んだ。
 あと少し。
 火照が火の力を手に入れれば……そしたらきっと、自分たちは最強だ。
 決まった時間より早く沐浴場から体を引き上げる。来羅は体を拭こうとする女たちを払いのけ、神殿の廊下を突き進んだ。
 肌を切り裂く冷気など気にならない。
 火照と引き裂かれる苦痛に比べれば、こんなものは痛みのうちにも入らなかった。






「火照!」
 暗闇の中、ぼんやりと浮かぶ人影を認めるなり、来羅は駆けだした。
 巫女服が足に纏いついて、人影まであと三歩というところで彼女はつまづく。が、少しも慌てなかった。目の前の少年が、必ず自分を支えてくれるということが分かっていた。
「……っと、危ないなあ。もう少し落ち着けよ、ミコサマ」
「落ち着いてなんか、いられない」
 抱き留めてくれた少年の胸にぎゅっと顔を押しつける。背中に回した両手に力をこめると、相手も同じように来羅を強く抱き締めてくれる。
 離れたくない。いつまでも、こうして、抱き締め合っていたかった。
 そうやって強く抱き締め合って、やがて一つのものになれればいいのに。そうすれば、だれも自分たちを引き離すことなどできないのだ。
「来羅……」
 火照のかすれた声が耳元をくすぐる。
 密やかな口づけが一つ、首筋に落とされた。
 いつからここで自分のことを待っていてくれたのだろう。彼の唇は冷えていて、わずかに上気した来羅の肌にかすかな痛みをもたらした。でも、本当に痛いのは、締めつけられるように痛むのは、この胸だ。
 いつだって、火照のことを考えると、来羅の胸は喜びと切なさとでぐちゃぐちゃにかき乱されてしまう。じっとなどしていられない。無闇やたらに暴れ出しそうになる自分を、なんとか抑えているのだ。
 その抑えが、火照の口づけで少し緩む。
 来羅はわずかに彼から体を離すと、下からその顔をのぞき込んだ。
「火照、火照……会いたかった」
「……たかが、一ヶ月ぶりだろ」
 火照が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 いつぞや、来羅が火照に言った台詞が脳裏に過ぎる。以前は、一ヶ月会えないことなどなんでもないと思っていた。それより前は何年も会えない日々がつづいたのだ。だけど今になってみると、どうしてそんなことが言えたのか自分が分からない。
 一ヶ月ものあいだ会えないなんて、考えただけで気が狂ってしまいそう。
「いじわる……」
 まだ笑っている火照を睨むと、来羅はそっと目を閉じて火照の頬に唇を寄せた。
 しかし次の瞬間、その顔を両手で包み込まれて思わず目を開ける。火照はもう笑ってはいなかった。
「お前に会えない一日は、俺にとって千日に値する」
「ほで――」
 なかば強引な仕草で引き寄せられ、唇が重なる。
 いつからだったろう。こんな風に親密に触れ合うことが当たり前になったのは。それは二人にとってあまりに自然な行為だったから、とくにきっかけなど覚えていなかった。溢れて零れだした想いが、相手に触れるという形で表れただけだった。
 でも、触れても触れても、その存在を確かめるために強く抱き締めても、気持ちがもう追いつかない。
 もっと多くを伝えたい。もっと多くを感じたい。
 火照の全てをこの身に感じたい。一つになりたい。離れたくない。
 彼が同じように思っていてくれるのを分かっている。感じている。気持ちは一つなのに、夜が明けるころにはまた離ればなれ。次にいつ会えるか分からない。
 離れたくない。
 ずっと二人で。二人きりで。世界に自分と火照だけになればいいのに。

 他のものなど、何一ついらない。

 次の瞬間の、火照の動きはごく自然だった。
 来羅はいささかの戸惑いもなく、その手の感触を感じ、目を瞑った。
 襟がさらりと肩をすべり落ちて、外気に触れた肌がその冷たさに震えた。白い胸元に、火照の唇が寄せられる。
 無防備な彼の首に来羅は腕を回した。直後、少女の体はふわりと抱え上げられ、火照の爪先で開けられた障子戸をくぐった。薄い障子に、淡い月光が透けていて、吐く息がわずかに白く染まったのが分かる。狭い部屋。天上だけが、やたらに高い。
 音もなく、固い板張りの床へ下ろされて、来羅は静かに顔を上げる。
 後ろ手に戸を閉めた火照の視線は、縛り付けられたように来羅から離れない。
 問うような仕草も、視線も、ましてや言葉など必要ではなかった。
 お互いが、まったく同じ気持ちを抱いていることが分かっていたから、これからしようとしていることになんの躊躇いもなかった。
 どちらからともなく手が伸ばされ、重なった。
 ――離れたくない。
 来羅の願いは、吐息に交じって吐き出され、火照の口づけに絡め取られる。
「俺も……」
 少年の掠れた声。
「時間が、止まればいいのに……」
 この瞬間を、この瞬間だけを切り取って、閉じ込めておきたい。誰の手も触れないような場所に、永遠に閉じ込めてしまいたかった。
 もう少し、あと少し。
 火照が力を得て、来羅の力がより強大になって、二人に逆らう者たちをことごとく排除して……。
 でも、その「少し」が、待てない。
「火照、火照、火照……あなたが欲しい。全部欲しい」
「俺も、おまえが、欲しい」

 この一瞬を、永遠に。

 そう、願うように唱えた次の瞬間だった。
 火照が顔を上げるのと、障子戸が勢いよく開いたのはほとんど同時だった。
 流れ込んできた冷気と、人の気配に、来羅の心が瞬時に凍りつく。襟も合わさぬまま彼女は立ち上がり、火照の背中へ手を伸ばした。
「巫女から離れなさい」
 月明かりを背後に、表れたのは神殿の長だった。
 たるんだ頬にはいつも来羅に対する恐れだけが浮かんでいたのに、今は無表情だ。なんの感情も表さないで、彼女は火照を見据えていた。太ったその女の周りに見慣れた女たちが控えている。そればかりか、彼女たちの後ろに、神殿に入れないはずの男たちまで押し寄せている。
 火照の腕が、背中の来羅をかばうように伸ばされた。
「巫女から、離れなさい。火照」
「……嫌だ」
「そのお方は、おまえのような汚れた者が触れてはならぬ」
「なら、もう遅い。触れた後だ」
「……そなたは、自分のしていることが分かっていないのだ。巫女という存在がなくなれば、困るのはおまえたちのほうなのだぞ」
「俺は、一度だって、巫女の恩恵に預かったことなんてない。俺が触れることで、こいつが巫女でなくなるんなら好都合だ。おまえたちは新しい巫女でもなんでも探せばいいだろう。その代わりこいつは俺がもらう」
「そのような恐れ知らずの言葉をよくもまあ平気で吐けたものよ。我らがこうして豊かな暮らしをしていられるのは、全て巫女様の先見や占術のおかげだということを忘れたか。一族の誇りを忘れた愚か者め。……おまえの父親は立派な男だというのに、息子のおまえがこれでは……あの男も里で立場がなかろうよ」
 張り詰めた緊張の中、火照の歯が怒りでぎりりと噛み締められる。
 来羅は火照しか見ていないその女を睨んだ。来羅と目を合わそうとしないのは、彼女の巫女としての力を恐れているからだ。誰も、来羅を見ず、火照だけを相手にしている。まるで来羅はここにはいないというように、まるきり存在を無視されている。
 火照一人に罪をかぶせようとする里の者たちのその態度に、抑えきれない怒りがこみ上げてくる。彼女は一歩前へ出て、火照の横にぴたりと並んだ。
「下がりなさい」
 自分でも驚くほど、冷え切った声。
 火照以外の皆が一様に身を震わせたが、従う者はいなかった。相変わらず来羅を見ようともせず、部屋を取り囲んでいる。
「下がりなさい。こんなことを、許した覚えはないわ」
 来羅の鋭い声音に戸惑って長をうかがったのは、初めて巫女の声を耳にした里の男たちだった。神殿の女たちは震えてはいたが、一歩も動こうとはしなかった。
 長は、来羅の姿を見なければその力から逃れ得るとでもいうように、かたくなにこちらを見ようとはしない。来羅はまた一歩、前へ出た。火照の手がその細い腕を引く。
「下がりなさい。今さら、いったいなにを慌てているのかしら。これまでわたしたちのこと、見て見ぬ振りをしてきたというのに……」
「……だからです。我々は、今までの態度を悔いているのです。今までの怠慢を、甘さを、今夜悔い改めるのです。一族の総意です。あなたと火照を、もう会わせるわけには参りません。今まで、我々は神に仕える者としての責務をないがしろにしてきました。これからは――」
「黙れ!」
 叫んだのは火照だった。
 来羅の震える指先が、少年の肩に食い込む。
「おまえたちは、いつでもそうだ。勝手に決めて、勝手に行動して、俺たちの意志など無視して……自分たちの思い通りに事を運ぼうとする。……いいさ、勝手にやれよ。だけど、こいつは、渡さない。巫女なら新しい奴を、今までみたいにどっかから探してこいよ!」
「恐れ多いことをよくも……! 神の怒りに触れることになるぞ」
「神の意志なら……」
 来羅の声が部屋に響く。
「神の意志なら、だれよりもわたしが知っている。おまえこそ、よくも勝手に神の怒りを語ったな」
「……巫女様、巫女様、あなたは……まだ幼いのです。それゆえ、周りが見えなくなっているのです。今道を踏み外して、後悔するのはあなたなのですよ」
「それは、わたしが、決めること。おまえには関係ないわ。そこをどいて……下がりなさい!」
「できかねます」
 来羅がさらに言葉を重ねるより早く、長は男たちへ視線を飛ばした。
 火照が来羅の腕を取って後ろへ下がる。
「来ないで……」
 近づいてくる男たちに恐怖がこみ上げる。来ないで、と繰り返し呟く来羅の肩に、男の指先が届きそうになる。その太い腕を、火照が払いのけた。
「触るなっ」
「来ないで!! ……来ないでよ!」
 先ほどから、何度も何度も、そう強く願っているのに……神は応えない。力が顕れない。
 なぜ、と弱々しい声が喉を震わす。
 なぜ、今になって、よりによって今、自分に力を貸してくれないのだろう。一番必要としているときに、どうして力を使わせてくれないのだろう。
「裏切るの……? わたしを。ねえ、神様……」
 頭がうまく働かない。
 伸びてくる男の手を、払いのけることさえできない。
 なぜ?
 その問いかけが思考を占領する。
 なぜ?
 今まで、おとなしく、言うことを聞いてきたのに。
 望みはいつだって一つ、火照と一緒にいたい。ただそれだけなのに。
「来羅!!」
 火照の呼ぶ声で我に返った。
 さっきまですぐ隣にいたはずの彼が、今は遠い。男たちに取り囲まれてどんどん姿が遠ざかっていく。
「来羅!」
「火照!」
 叫んで、手を伸ばす。
 暴れる火照の足下に、幾人かが倒れている。
 彼が手を伸ばす。来羅は自分を羽交い締めにしている男の腕に爪を立てた。その拍子に、ほんの少し拘束が緩む。
「火照……っ」
 もう少し、あと少し。
 それなのに、届かない。
 指先が触れそうになるその直前、口元をなにかで覆われた。息を吸った瞬間に意識が遠ざかる。火照の顔が、ぼやけて滲む。
 ありったけ伸ばされた腕が、だらりと垂れた。
「来羅ああ!!!」
 答えたいのに、声が出ない。
 火照、火照、火照。
 もう少し、あと少し。
 離れたくない。
 この一瞬を、永遠に。
 他のものなど、何一ついらない。
 離れたくない。
 ずっと二人で。二人きりで。世界に自分と火照だけになればいいのに。
 一つになりたい。離れたくない。
 思考が混濁していく。
 離れたくない。
 さっきまで、この世界、わたしたちのものだったのに。
 目の前の光景が滲んでいく。
 黒一色に塗りつぶされる。
 火照。
 こぼれた落ちた涙一滴。男たちに踏みにじられる。
 火照。
 離れたくない……。








 ――おまえは神様に愛された子なの。

 だれかがそう言っていた。
 ――だから、神様の言葉を聞くことができるのよ。
 囁きながら、優しく優しく女は頭をなでてくれる。
 神様の声なんか、聞こえない。聞こえたことなど一度もない。そう答えると、女はよりいっそう丁寧な仕草で頭をなで、ほつれた髪をほぐしてくれた。
 ――今はまだ聞こえないかもしれないけれど、言うことをよく聞いて、良い子にしていれば聞こえるようになるのよ。
 特別、神様の声を聞きたいとは思わなかったけれど、その女があまりに優しく、とろけるような声で囁くので、ああそれは良いことなのだと素直に感じた。
 神様の声を自分が聞けるようになれば、みんな喜ぶだろうか。
 このひとは、喜んでくれるだろうか。
 そう思って訊いてみると、女は「もちろん」と微笑んだ。
 ならば、良い子にしていよう。なんでも言うことを聞いて、大きくなって、神様の声を聞けるようになったら……。
「そしたら、うれしい? お母さん」
「もちろん、とても嬉しいわ。だから良い子にしているのよ」
 分かった、と頷いて顔を上げたときには、母親はもうこちらを見ていなかった。近寄ってきた見知らぬ女といくつか言葉を交わしたあと、一度だけこちらに笑顔を見せて歩き去っていった。
 それ以来、母親の姿を見たことはない。
 噂では、里を出て行って新しい家族と暮らしているらしい。あれだけたくさんの銭をもらったのだから、さぞかし裕福な暮らしをしているだろうと、女たちが話しているのを聞いたのが最後だった。

 ――おまえは神様に愛された子なの。

 神様に愛されなくたって、構わない。
 あなたが、愛してくれたのなら。

 ……他にはなにも、いらなかったの。

 来羅はゆっくり目を開けた。
 暗い。黒い。目を開けたはずなのに、あたりは真っ暗でなにも見えやしなかった。
 意識は次第にはっきりしてきたが、体はほんの少しも動いてはくれない。指先一つ、自分の思うとおりには動かせない。
 すぐ傍で、だれかがなにか話している。
 くすり、という単語をその会話の中に聞き取って、心が冷えた。ああそうだ。この甘い匂いは、あの香の匂いだ。火照に、あまり吸わないほうがいいと言われたあの香の匂い。
 火照。
 火照はどこだろう。傍にいない。さっきまで、すぐ隣にいたのに。
 呼ぼうとして、自分の声が出ないことに気づいた。
 くすりをもっと。女の声がする。くすりをもっと。めが、さめそうだ。
 目なら覚めている。
 だけど体が動かない。思考もうまくまとまらない。火照がいない。
 香の匂いが、さらに密度を増して来羅の体を包み込んだ。辛うじて自由になっていた眼球さえ、動きが鈍くなりやがて言うことを聞いてくれなくなる。
 神様。
 まぶたがどんどん重くなる。思考が再びかすんでいく。
 神様。
 体はもう動かない。心も眠りにつこうとしている。
 神様。
 必死に起きようとしているのに、次の瞬間なぜそうまでして起きなくてはいけないのか分からなくなる。
 神様。
 ――神様、わたしを見離したんですか。
 少女の意識はその直後、深い眠りに引きずり込まれていった。









 たった一つ、望んでいたことはなんだっただろう。

「少なくとも……『これ』じゃない」

 口に出して言ったとたん、苦い思いがこみ上げてきた。喉元までせり上がってきたそれに、火照は眉を歪める。
 放り込まれた石牢はどこもかしこも冷たく、壁に預けた背は冷え切っていた。だけど、それ以上に心が冷えている。周りの人間に対して彼は最早なにも望んではいなかったが、それでも、いささかの配慮もなく殴られた後頭部や、気絶したあと自分に対して行われた暴行に対して、憤りを抱かずにはいられなかった。
 慣れているはずだ。
 自分はそんな悪意には慣れているはずだった。
 この里で、火照に笑いかけてくれる存在は来羅と生まれたての弟だけだ。
 一緒にいて、気を抜くことができるのは、目を閉じて隣にいられるのはその二人だけだ。
 他の者たちの前で少しでも油断すれば、次の瞬間なにが起こるか分からない。
 もう一度、自分自身にその事実を言い聞かせてから、火照は立ち上がった。この暗くて冷たい石牢でぼんやりしている暇はないのだ。ぼんやりしていたら、きっと、自分は、殺される。
 殴られ、夢うつつの状態だった火照の上で交わされた会話を総合すると、その未来が浮かび上がる。
 たいして驚きはしなかった。当然の判断だろうと火照も思う。代わりの巫女がいない現状で、里の人間が来羅を失う危険を冒すはずがない。火照が今まで生かされていたのは、将来有力な火の力の使い手となるだろうと目されたからで、巫女である来羅の機嫌を取るためで……要するに、すべては「巫女」のためなのだ。当の巫女の害になるなら、来羅が泣こうが喚こうが火照は殺されるしかないのだ。
 殺されたって、構わない。来羅を失うならば。
 だから、来羅を完全に失うまでは、死ぬわけにはいかない。

「よお、火照」
「…………」

 決意を新たにしたところで、不愉快な男の声が聞こえてきた。
 火照は目だけを動かして、古い木柵の向こうの男を見やった。火照より頭二つ分ほどは背が高く、体格もいい。幼い頃から、ことあるごとに火照に言いがかりをつけてきては取り巻き連中と一緒になって殴ってきた男だった。もちろん火照も毎度やり返したが、いかんせん体格が違いすぎる。
 ここ二、三年は道で出会っても睨み合うくらいで済んでいたが、どうやら相手の方は鬱憤が溜まっていたらしい。神殿で取り押さえられたとき、必要以上に殴られた。今もうずく腹の痛みは、この男に殴られたせいに違いない。
「おまえ、もうすぐ死ぬぜ」
 男はそう言って口の端をつり上げた。愉快で仕方がないといった様子で。
 その濁った目が、火照の顔に浮かぶはずの恐怖を探している。
「……殺される、の間違いじゃないのか」
 低く言い返すと、相手は白けたように鼻を鳴らして笑みを消した。
「さすが! 巫女様に手を出す不届き者は、言うことが違うねえ。巫女様も、よりによってなんでこんな奴を――」
「黙れ。おまえみたいな奴が、来羅を語るな。下衆が」
「……火照、おまえ自分の立場が分かってないみたいだな」
「分かってるさ。神のものである巫女に手を出して、もうすぐ殺される普通の人間だ。いつ殺される? 今夜か? 明日、日の出を待ってからか? どっちにしろ、殺されるまではこの柵が俺を守ってくれるわけだ。おまえみたいな下衆野郎から」
 案の定、柵の向こうの男は一瞬で怒りを爆発させた。
 柵の間から伸びてきた太い手を避けて、火照は一歩後ろへ下がる。
「汚い手をこっちに近づけるな。臭いんだよおまえ。卑怯者の臭いがする。最後くらい、静かに過ごさせろよ。おまえの顔見るくらいなら死んだほうがいくらかましだ」
「火照――――――ッ!!」
 血管が切れないのがおかしいと思えるほど、男の顔はどす黒く染まっていた。火照がまた一歩後退した直後、柵が勢いよく内側に開き、壁に当たって音を立てた。
「あーあ、なにやってんだよ……九郎」
「黙りやがれ!!」
 拳を握って迫ってくる男に、火照は相対した。
 腕力で劣る自分が相手のどこを狙うべきか、火照は理解していた。
 今まで一度もそこを狙ってみようとは……ただの一度も考えたことはなかった。それなのに今はなんの躊躇いもなく右手を構えることができた。振り下ろされた相手の拳を避けて懐に入り込むと、人差し指と中指を、まっすぐ見開かれた瞳につきだした。
 ずぶりと、柔らかい感触が指先から伝わってくる。生暖かい。
 絶叫が石牢に響き渡った。
 九郎の目から指を引き抜くと、火照は開かれた柵から外へ飛び出した。涙の混じった叫びが、いや、もう泣き声にしか聞こえない九郎の声が背中から火照を追いかけてくる。見張りは彼以外にいないらしい。だが騒ぎはすぐに聞きつけられる。石牢は里の外れに位置しているが、静かな夜だ、風に乗って九郎の叫びはだれかに届くに違いない。
 火照は駆けた。せめて今夜が朔日ならば、闇に紛れることもできたろうに。空に浮かんだ白い月が憎らしい。
 途中何度も物陰に隠れ、やっと辿り着いたのは自分が生まれた家だった。里の中でも比較的大きな部類に入る家だ。四角く開いた明かり取りの窓からは、淡い光が漏れていた。まだ家人は眠っていないらしい。
 父と母は、いったい今夜の出来事をどういう風に聞いたろうか。
 父はきっと息子の自分を恥に思っていることだろう。もとから火照には、火の力を継ぐ以外になんの期待もしていなかった彼だけれど、それでも、身内の人間の不祥事によって今後里に居辛くなるはずだ。そのことを考えると火照も気が重くなる。なにより、弟の百夜が心残りだった。
 一言だけ、謝っていこうか。許してもらえるとは思わないが。
 そう考えて顔を出しかけたとき、窓からかすかな声が聞こえた。か細く頼りない女の声は義母のものだった。
「やっぱり、あんなこと、するべきじゃなかったのではないかしら」
「今さら、なにを言う」
 鋭い声は父のもの。火照はついぞ、彼の口から柔らかい声を聞いたことがない。
「だって、怖いわ」
「……一族揃って、そうやって怯えてみせるから、あいつはつけ上がったんだ」
「だって……知られたら、仕返しに来やしないかしら」
「馬鹿を言え。明日の朝には殺されるというのに、どうやって仕返しに来られる」
「だって……」
 だって、と女はもう一度繰り返してからすっかり口をつぐんでしまった。
 しばらく沈黙がつづいたが、耐えきれなくなったのか男が苛立たしげに鼻を鳴らした。
「我らは神に仕える一族だ。それが揃いも揃って……あんな子ども一人に……情けない」
「そうは言ってもあなた、あなただって、躊躇なさったではありませんか」
「なにをだ」
「あの子が夜中に出て行ったのを、神殿の方にお伝えするのをですよ。それは仕返しを恐れてのことではなかったんですの?」
「違う! ……あいつは俺の息子だぞ。まだ子どもだ。俺が恐れるわけがなかろう。躊躇などしていない。躊躇するくらいならば、端っからあいつの動向など探ろうとは思わない」
「そうですか……しかし、どっちにしろ、明日になれば解決することですし」
「……どっちにしろとはなんだ。俺は恐れていないと言っているだろう」
「はいはい」
 ぶつぶつと文句を言う男の声と、軽い調子であしらう女の声が重なり合い、すぐにそれは気安い談笑に転じていった。
 火照はそっと壁から体を離し、静かに裏口へと向かう。閉ざされた木戸を静かに慎重に開くと、そろりと中へ足を踏み入れた。
 百夜が寝かされているのは奥の間だった。足音を立てぬようゆっくりそこへ向かうと、穏やかに寝息を立てている赤子の枕元に腰を下ろした。
「百夜……」
 かすれた声で呼びかけて、そっとその頬に手を伸ばす。が、指先が触れる直前で彼は動きを止めた。
 爪の間にまでこびりついた赤黒いものは、九郎の固まった血だ。
 こんな手では、触れない。
 こんな汚れた手で、こんな綺麗な頬には触れない。
 この世の祝福を一身に受けたような寝顔。今夜この里で起こったことなど何一つ知らない、穏やかで安らかな表情。父母に当然のごとく愛されている、柔らかい頬。
 またあの苦い思いが喉元にせり上がってきて、突き動かされるようにして火照は逆の手を百夜の首に伸ばした。片手で握れるほど細い首だ。ぽきりと折れてしまいそうなほど。
 なにも知らずに、愛されている弟。もう二つになるこの小さな弟が死んだら、彼らはいったいどんな反応を示すだろうか。少なくとも、あんな調子で笑い合ってはいられまい。
 冷たい指先が柔らかな首に触れたときだった。
 百夜がぱちりと目を開け、声を出さずに笑った。
 火照の左手が弾かれたように細い首から離れ、宙にはりつく。百夜は相変わらず微笑みながら、そんな火照の動きを目で追い、着物の下の手をもどかしげに動かしていた。
「百夜、百夜…………悪かった」
 ばたばた動くその手を左手でそっと握って、温かい頬に口づけを落とす。
 いつの間にか溢れた涙がこぼれ落ちた。
「百夜、世界で二番目に、おまえを愛してる」
 なにも知らなくていい。この弟だけは。
 なにも知らず、みんなに愛されて、穏やかに過ごせばいい。たった二歳の自分の弟。
「おまえと来羅だけを、愛してる」
 握った小さな手に、いつの間にか握り返されていた。その小さな手からそっと自分の手を引き抜いた。
「さよならだ、百夜」
 くるりと背を向けると、火照はもうふり返らなかった。裏戸を閉め、冷たい空気を切り裂くようにして駆けた。
 目指す場所は、決まっていた。






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