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 一族の見知らぬ男の肩を借りながら、百夜は荒く呼吸を繰り返した。
 茜に刺された脇腹の傷がじくじくと痛み、額に脂汗がいくつも浮き出る。
 あの時、すんでのところで避けなければ、茜は迷わず百夜の心臓を刺していたはずだ。彼女の瞳に迷いはなかった。おそらくは火徳信司が命じたとおり、百夜の命を奪うことに何らの躊躇はなかった。
 連れて行かれた美沙の身が案じられた。危害は加えられないだろうと何度自分に言い聞かせても、安心などできなかった。
 なにかの弾みで、来羅が無意識に止めた美沙の「時」がふたたび動き出してしまったら……。そう考えると、取って返して屋敷に飛び込み、手当たり次第に力を使って美沙を取り戻したくてしかたがなかった。
 そのためには、どれだけ犠牲を払っても構わない。
 だがそれは、美沙のためなどではないことが百夜には分かっていた。
 来羅のためだ。
 来羅をこちら側につなぎとめる。ただそれだけのために、自分はあの少女を必要としているのだ。自分の勝手さに嫌気がさしながら、ともすると立ち止まりそうになる足を叱咤して走りつづける。足元に血が跳ね返った。
 百夜の隣を紅月が必死についてきていた。
 薬が抜けきらない体は重そうで、ときどき閉じそうになる瞳を乱暴にこすってなんとか意識を保っているような状態だった。
 歩道に上がるその小さな段差に、脇腹の傷がよじれた。百夜は唇をかみしめる。
「もう少しです。その建物を、左に。路地があります」
 もう少しです、と男はもう一度くり返した。彼の服も百夜の血に濡れている。
 背後で水の爆ぜる音が響いた。
 ちらりと振り返れば、霧生が間近に迫った数人の男を相手にしているところだった。暗くて、相手の正確な人数が分からない。それとも、傷のせいで百夜の視界が悪くなっているのか。
 霧生を一人残して、砂が駆け寄ってくる。
「あとは霧生が食い止める。あたしらは先に。もう少しなんだろ?」
 言いながら、彼女は百夜の体を男から引き取った。
「地下へ降りる通路があります。……霧生殿が入り次第、入り口を封鎖します」
「封鎖?」
「出入り口は何か所かあります。今から通る道は我々以外は使いませんから」
 男は路地を進み、二軒先の、ありがちな一軒家の施錠を外すと、土足のまま中に入り込んだ。家の中は、きちんと家具が配置されていたが、人が住んでいる気配はない。男は迷うことなく居間を通り抜け、小さな和室の押し入れを開ける。
 中は空だった。上下に分ける仕切りの下へ頭を突っ込むと、彼は持っていた電灯の明かりをつけ、素早く手を動かした。次の瞬間、乾いた木が落ちたような音がした。
「開きました。霧生殿はまだですか?」
 男は一度押し入れから体を出すと、戸を、今自分が体をいれていた側に寄せた。現れたもう一方の足元には、四角い穴が開いていた。
「もう来る。霧生、ここだ」
 薄く開けた窓から、紅月が路地に呼びかけた。
 男はそれを見届けてから砂に向き直る。
「では、先に下りてください。明かりはこれを。すぐ階段になっています。一分ほどで下につきます。そこで待っていてください」
「分かった。百夜、下りるよ」
 先に砂が穴に入った。押し入れに入るために屈まなくてはならなかったが、それが百夜には一苦労だった。片手で腹を抱きしめるようにしてきつく抱え込んだが、傷口はやはり悲鳴を上げた。階段は一人ずつしか降りられない狭さで、下に降りるまでは誰の力も借りるわけにはいかない。
 砂が百夜の足元を電灯で照らしている。それ以外に、光と言えるものはなにもなかった。百夜の足元だけが丸く暗闇から切り取られ、両側の冷たい壁も、そこをつたう自分の手も見えない。ただ、血の匂いだけが冷え切った空気の中に漂っている。
 やがて紅月と霧生が後につづき、最後に頭上で男が扉を閉める音がした。
 一分と言われたが、どうやら百夜のせいでたっぷり五分はかかっただろう。下にたどり着いた時には、壁に寄りかかりながら立つのがやっとだった。
「ここからまだ三十分ほどは歩かねばなりません。一度休みましょう。集合場所につけば、医療器具も医者もいるはずです。……いけますか?」
「大丈夫。足引っ張って、ごめん」
 地下はおそろしく寒かった。
 傷口を押さえた手が冷たい。温めようと息を吹きかけようとしたが、その手が震えてうまく動かなかった。
 暗闇の中で、誰かがその手を取った。
「……休まないほうがいい。俺が背負っていく」
「ごめん」
「どうということはない」
 霧生の返答に百夜はかすかに頷く。布の裂ける音が響き、続いて傷口がさらに覆われた。出しかけた声を百夜は喉の奥に押し込める。
「少し、我慢しろ」
「子どもじゃないんだから……、我慢するよ、これくらい」
 霧生が無言で笑った気配がしたが、背負われる瞬間に全身を激痛が駆け巡り、それどころではなかった。
「行こう」
 霧生の声とともに、周囲の空気が動く。足音が、空洞に反響して一つの音になる。
 霧生の規則正しい歩みに合わせて、脇腹の傷がずきずき痛んだ。だがしだいにその痛みにも慣れていき、百夜は重くなってくる瞼を開けているのに神経を傾けなければならなかった。
「寝るなよ」という霧生の言葉に、「死んじゃうからね」と頷いた。






 暗い。辺り全体が煤けたように暗い。
 だが塗りつぶされた暗闇ではなかった。目の前にかざした手は、おぼろげながら存在が見て取れる。
 だが、暗い。
 ざらざらした低い耳障りな雑音がそこら中にはびこって、さらされた肌を生ぬるく撫でさすっていく。
 鼓膜の奥がじくじくと痛みだし、耐え切れなくなって両手で耳を塞ごうとした瞬間だった。
 細く、透き通るような高い音が聞こえた気がして、耳を澄ました。
 耐え難い雑音が神経をずたずたに引き裂こうとしている。
 断続的に聞こえてくるその音は、殺意に満ちたあたりの音にかき消されながらもしだいにはっきり聞こえてきた。
 だれかが泣いているのだ。
 脆い泣き声を辿って暗闇をかき分け歩いた。押し戻そうとする空気をはねのけた先で、一人の少女がうずくまって泣いていた。
 どうして泣いているのか、と尋ねると、少女はこう答えた。
 私が私でなかったからだ、と。
 それははいったいどういう意味か、と重ねて尋ねると、少しの間をおいて、少女は顔を上げた。彼女は言う。私だと思っていたものは私ではなかった。元から私などというものはなかったのだ。他人のものを、勝手に奪って自分だと思っていただけなのだ。だからもう私は消えなくてはならない。
 消えなくてはいけないとはどういうことか、とまた尋ねると、少女はふたたび顔をうずめて、還るということだと弱々しい声で答えた。
 かえる? どこへ?
 元いた場所へ。どこまでも広く、無限に広く、そして寂しいところ。
 言うなり、彼女はふたたび泣き出した。
 思わずその頼りない肩を抱き寄せようとして手を伸ばすが、触れたとたん、彼女の体は音もなく崩れ、細かな粒子になり、闇に溶けていってしまった。
 だがすすり泣きだけがまだ聞こえる。
 思い出したくなかったと言って泣いている。
 大丈夫だと伝えたかった。
 自分がついていると伝えたかった。
 それなのに、声は出した端から雑音にとって喰われて、ほんの少し先にも届かなかった。
 闇が体を圧迫する。
 吸い込んだ空気もまた闇に染まっている。肺が正常な空気を求めているのが分かる。
 気が付くと落下していた。
 どこまでも。地面などない。落ちていくのだ。永遠に。泣き声が遠ざかる。落下する。届かない。

 もう二度と離さないと、そう誓ったのに。






 自身の乱れた呼吸によって、百夜は弾かれるようにして目を覚ました。
 反射的に起こしそうになった体が、額に置かれた冷たい手によって押し返される。顔から表情を取り去った水寺誠が、百夜の頭をふたたび寝かせた。
「傷に障る。まだ起き上がってはいけません」
「……起きていていいんですか?」
「私の傷は、かすり傷です」
 深く息を吸い、百夜は長い時間をかけてその息を吐き出した。強張っていた体からゆるゆると力が抜けていくのが分かった。誠の手が額から離れる。
 百夜は視線を巡らし、彼の体を観察した。見たところ、無理して腰かけているようには思えなかった。
「すみませんでした。私の、不注意のせいで、あなたに怪我を負わせました。あの少女をさらわれたのも、私のせいです」
 一瞬、どの少女のことを言われたのか分からなかった。
 夢の残滓が、泣いていた少女の姿を思い起こさせたが、もちろん誠が言っているのは有本美沙のことだ。
「いえ、僕の……判断がまずかったんです。あなたが無事でよかった」
 脇腹に痛みはなかった。麻酔が効いているのか。どちらにせよ、起き上がる気力は今はない。
 視線を反対に向けると、すぐそこで紅月が壁にもたれかかったまま寝ているのが目に入った。一見するとただ目をつぶっているだけのようだが、今の会話で目を覚まさないところをみると、彼の体にはまだ薬の影響が残っているのだろう。俯いた顔には疲労の色が滲んでいた。
「横になるよう勧めたのですが、もうきいてくれませんでした」
 室内は明るかった。
 意識が途切れたのはいつだったか。霧生の背中から降りる瞬間の記憶は、どうにか薄ぼんやりと持っている。が、そのあとのことは思い出せなかった。
 真っ暗で冷たいあの地下通路の映像が、どうしてもこの明るく温かい室内につながらない。ここは本当に地下なのか。窓がないことだけがかろうじてそれを裏付けている。
 天井の蛍光灯はまぶしいほどだ。部屋は怪我人一人を収容するにしては少し広かった。百夜の足の向こうに見える扉は鉄製で、ぴたりと閉じられ廊下はのぞけない。
 本当にここは地下だろうかともう一度自問自答したが、窓がないのに加えて、どうやら壁は岩盤を削ってなだらかにしただけらしいのが見て取れた。やはりここは地下なのだ。
「ここは、風間さんの御祖父の代から建設が始まったんですよ」
 百夜の様子を見て、誠がそっと口を開いた。
「もともとは、来るべき裁定の日に備え、核にも対応できる避難施設を建造したかったようです。もし、裁定が下り、世界が滅びるということになったら、ここに避難するつもりだったようですが……果たしてそれで災厄から免れ得るのかどうか……」
 誠はそう言ってかすかに苦笑した。椅子の背もたれにゆっくり体重を預けていく彼は、視線をどこか遠くに据えている。
「隆さんの代になって、この施設の存在は桜さんと私に明かされました。彼はここを、有事の際の避難施設にしたのです。彼としては、自らの手の内を明かすことで、我々二人を自分の側に引き込みたかったんでしょうが……元より、桜さんも私も、火徳信司に手を貸すつもりはありませんでした。あの人は、もうずいぶん前から……狂ってしまっている」
「つまり、あなた方は、こうなるということを、予想していたってわけでしょうか」
 間が空いた。思案するような、あるいは一呼吸するための、ささいな間だった。
「ええ、ならなければいいと思いながら……しかし、やはりなるだろうという確かな予想は、我々の中にありました」
 扉の向こう、いくつかの足音が入り乱れるようにして近づいてきた。
 ひときわ大きな足音が不意に止まり、次の瞬間扉が勢いよく内側に開いた。
「邪魔するよ」
 入ってきたのは土方桜で、その後ろから遅れて風間隆がつづく。砂と霧生が入室したところで、さっきまで広かった部屋がとたんに狭苦しく感じられた。
 起こそうとした百夜の体を乱暴に押し戻して、桜は背もたれのない小さな椅子を引き寄せる。
「起きる必要はない。寝ていたって話はできるんだからね」
「心配していると……素直に言ったらどうなんだ?」
「隆、人の言葉を勝手に曲解するな」
 意味ありげな笑いを浮かべる風間隆に、桜はきつい視線を投げつける。その目がそのまま横へ動いて、壁にもたれかかっている紅月を捉えた。
「まだ起きられないのかい? 意地でも目を開けそうなやつなのに」
「ほんの少しでも意識があれば、ね。つまり、一歩間違えば死んでもおかしくない量の薬を盛られたということでしょう」
 誠がそっと口を挟む。
 その三人の慣れたやり取りに、砂が目を細めた。
「ずいぶん仲がよろしいようで」
「よくない。誠はともかく、少なくともこの狸親父とはね」
 間髪入れずに返って来た桜の返答にも、隆は声を立てず笑うだけだ。その様子を嫌そうに見やって、桜は砂に視線を移した。
「仲は良くないが、協力する必要があったんだよ。火徳信司のせいでね」
「教えておいてくれればよかったんだ。そうすれば……もう少しましな対応ができた」
 対する砂の視線には、どこか咎めるような色が滲んでいた。
 こんなときにいつも彼女を制止する霧生が何も言わず隣に立っているということは、彼もまた砂と同じ意見なのだろう。二人分の視線を受け取っても、桜はまったく怯まない。
「あんたたちには話せなかった。……あたしらは火徳信司を危険視していたけれど、同時に……同時に、裁定者のことも信じていなかったからだ」
 百夜は思わず体を起こしかけた。
 裁定者。それは来羅のことだ。
 砂の表情がほんの少し動いたが、彼女は相変わらず自らの当主である桜をじっと見つめつづけていた。
 桜は長い黒髪を後ろへ払い、立ち上がる。
「あたしらは裁定者のことを信じていなかった。危険視していた。だから、彼女を第一に考えているだろうあんたたちに何もかもを話すわけにはいかなかった。……あたしらが裁定者の敵に回れば、あんたたちがどちらの側につくかは、一目瞭然だった」
「あの子を裁定者なんかに祀り上げたのは、あんたたち一族の人間だ」
「それは二千年以上前の一族であって、あたしらじゃない」
 砂と桜の間にぴりぴりとした空気が立ち込める。一歩前に出ようとした砂の腕を、霧生が掴んで止めた。
 風間隆が静かに口を開いた。
「……桜、座れ。あとは私が説明する」
「偉そうにあたしに命令するな」
 眉間にしわを寄せたまま、それでも桜は風間に言われたとおり元の椅子に腰かけた。砂からそらした視線が、一時、百夜と交わった。その目が不意に苦しそうに歪み、彼女は慌てて俯いた。
「言葉は乱暴だが、桜の言ったことは真実だ。我々は、裁定者を信じていなかった」
 いきり立つ砂を制して、今度は霧生が口を開く。
「信じていなかったとはどういうことでしょうか。裁定者という存在自体を? それともその力を? もしくは来羅の人格を?」
 隆は一度息を吐き出してから、視線を宙に浮かせて話し出した。
「実際、世界の裁定とはいったいどういうことか、君たちは説明できるか? 仮に、彼女が裁定を下し、この世界を滅ぼす方を選んだとして、世界の終焉はいったいどういう形で訪れるというのか、誰も知らない。彼女の力が本物なのは、あの有本美沙という少女の時が止まったこと、君たちが現代に飛んできたことで証明された。だが、それだけだ。あの来羅という少女が、世界の裁定を下すなどという大それた存在であると、いったい誰が決めたんだ? あんな少女一人に、どうして世界の是非を問わねばならない? そもそも、そんな力が本当に彼女にあるのか?」
 わずかな微笑さえ浮かべながら風間隆は小首をかしげる。
「でも、あなた方はあるかどうか分からない来羅の力を懼れている」
「そう、懼れている。私の祖父も恐れていた。だからこんな仰々しい地下施設をつくったんだ。そして私も、やはり懼れている。我々が疑っていることはいくつかある。彼女に本当にそんな力があるのかどうか。それから、これはもう裏切られたが、その力を使うつもりがないという言葉。そして裁定者という存在そのもの」
「二つ目は、まだ裏切られたかどうかは分からない。……裁定者だという存在そのものを疑っているということですか」
「そうだ。彼女が裁定者だと、いったい誰が決めたんだ?」
「それは……」
 霧生の言葉が行先を失くす。
 彼らにとっては当然の事実であり、疑う必要性のなかったことであるだけに、改めて問いかけられると何と答えていいか分からないのだ。
 風間隆はその動揺を横目で確認しつつ、相変わらず冷静につづけた。
「我々は、手を尽くして調べたんだよ。自分たちが所蔵していた古い書物、品物、散逸してしまったものも手を尽くして……。分かったのは、君たちがここへ、現代へ飛ばされた二千年前、ある時期を境にそれ以前の記録の一切が残っていないことだけだ」
「どういうことです」
「つまり、二千年前、君たちはあの少女に一度別れを告げたろう。その時点からおよそ二十年ほど前、おそらく故意に、彼女に関する記録の一切は処分されているということだ。神殿の日誌はもちろん、個人の手記も、裁定者に関する記録は何もかも」
 二十年という数字を、百夜は口の中で繰り返した。
 まだ彼が生まれて間もないころだ。何を思い出すこともできず、百夜は砂と霧生へ視線を転じた。二十年前ならば、彼らは六歳だ。
「こちらも逆に尋ねたい。二十年前、何か特別なことは起こらなかったのか。心当たりはないか。もし何か知っている者がいるとすれば、それは君たちか、あるいはあの裁定者の少女のほかにはあり得ない」
 矛先を向けられた砂と霧生は目に見えて青ざめていた。思わず自分が怪我人であることも忘れて、百夜は駆け寄って支えてやらねばならない気になったが、顔こそ血の気を失っているものの二人とも瞳はしっかりとしていた。
 その表情は、「何か隠している」表情にはどうしても見えなかった。むしろ何か言いたいのに、言うべき言葉が見つからないといった雰囲気で、もどかしさが漂ったものだった。
「六歳だ……」
 不意に霧生が呟いた。
 そう、二千と二十年前、彼らはまだ六歳だった。もう、六歳だった。
 物心ついていておかしくない年齢だ。何か特別なことが起これば、それを記憶していておかしくない年齢。だが彼らは、風間隆の問いに否定も肯定もできかねているようだった。常ならざらぬ二人の様子に百夜の心も揺れた。不意に湧いて出てきた正体不明の焦燥感が、わけもなく彼を不安にさせた。彼らが六つの頃、百夜は生まれてまだ二年だ。
 何か忘れている。
 そんな気がしてならなかった。
 たった一つ、何か重要な鍵となるべきものを、失くしたことにさえ気づいていないような……。
 思い出そうとすればするほど、脳の奥に警告が響きわたる。思い出すな、と誰かが、いや自分自身が叫んでいる。
 唐突に、「思い出したくなかった」と言って泣いていた、夢の中の少女を思い出した。
 真っ暗な暗闇で泣いていたあの女の子は、来羅だ。

「隆さん、少し、急ぎすぎでは……」
 そこでやんわり水寺誠が口を挟んだ。
「屋敷で、事が一段落ついたらお話しすると言っていたことを、今ここで伝えたいと思います」
 そう言って、彼は心持ち姿勢を正す。
「分かっていることは少ないんです。裁定者に関しては、ほとんど何も分かっていません。ではなぜ屋敷に来羅さんが滞在していたときに、いろいろ尋ねておかなかったのかと思われるかも知れませんが、理由としては……我々が個人的に来羅さんに接触しているのを、火徳信司に知られることを避けたかったためと、来羅さんの胸の内を測り兼ねたためです。ただ、彼女を連れ去ったという火照という少年。彼のことに関しては、少々調べがついています」
 ほでり、という名を聞いた瞬間、百夜の心がざわついた。
 暴れ出した鼓動を鎮めるために、彼は何度か深呼吸を繰り返した。全身にじわりと嫌な汗が浮かんだのが自分で分かった。
「彼は光陰と名乗っていましたが、その一族と血のつながりは認められませんでした。光陰家と直接血縁関係があるのは、あの男女……光陰楓、茨と名乗っている二人組ですが、本家との折り合いは良くないようです。ほとんど彼ら三人は単独行動をしています。……あなた方が、彼らに来羅さんを連れ去られたと言った直後に、光陰家を探らせましたが、どうもそのような動きは見られませんでした。つまり、火照という少年と光陰家は一枚岩ではないということではないか、と。あとの報告は、待つ必要があります。それと……」
 いったん言葉を切って、誠は懐から一枚の紙切れを取り出した。
 それは相当古い写真だった端が黄ばんでいる。。
「光陰家は明治末期に始まった、歴史の浅い家柄です。この写真は、その頃撮られたと思われるもの……」
 百夜は眼前に差し出された写真を受け取った。古ぼけて色あせた写真には不機嫌そうな横顔の少年が写っていた。
 指の先から血の気が失せる。かすかな震えを抑えようとして、百夜は写真を持った手に力を込めた。
「火照……でも、嘘だ……こんな」
 嘘だ、とくり返す百夜の手から、砂が半ばひったくるようにして写真を取った。その彼女の顔も蒼白だ。
 頭が痛い。割れるようだった。
 その痛みに引き出されるようにして、麻酔が忘れさせていた脇腹の傷がふたたび痛みだした。全身がばらばらになるような錯覚に襲われ、百夜は体を無理やりに起こした。今度は誠も桜も止めなかった。止められなかったのだろう。切迫した気配が彼を取り巻いていた。
 濡れた前髪が額に張りつく。顕わになった上半身にはやはり汗が浮かんでおり、腹に幾重にもまかれた包帯が濡れていた。
「彼は、火照だ……火照、ほでり?」
 口に出せば出すほど、その名は意味を失っていくようだった。
 それでも彼は執拗に繰り返し呟いた。もはやその名にほとんど意味がなくなってしまった頃、息を吸ったときにできた空白の瞬間、彼は自分が忘れていたものの正体に気づいた。そして慄いた。
 あまりに重大なことを、忘れていたことも忘れていたその事実に、驚き、言葉を失った。
 誠はそんな百夜の様子に気づかぬまま、「そろそろ体に障ります」と告げ、部屋を後にした。桜がそれにつづき、風間隆が最後に扉をくぐった。出しなに、何か思い出したらすぐに伝えて欲しいと言い残して、彼の足音は廊下の先に消えていった。
 部屋はふたたび静まり返った。
 百夜は体を起こしたまま、眠りつづける紅月をちらりと見やった。
 立ち尽くした砂と霧生を見た。
 たっぷり時間をかけて彼らを視界に収めたあと、百夜はしだいに落ち着きを取り戻し、指先の震えが完全に止まったのを確認してから口を開いた。
「砂、霧生……僕の、兄さんの名前……覚えてる?」
「そりゃ……もちろん覚えて…………」
 答えかけた砂の言葉が途切れる。
 みるみるうちに固まった彼女の隣で、霧生も同じ反応を示していた。
 そうだ。火照という名は、百夜の腹違いの兄の名と同じだった。
「馬鹿な……」
 霧生の呟きが砂の心を代弁する。
 百夜はなぜ今まで自分がそのことを忘れていたのか、忘れていられたのか、分からなかった。自分に兄がいたことはしっかりと覚えていた。名前も覚えているつもりだった。だが、言ってみろと迫られたら、自分はきっと答えられなかったに違いない。
 今の今まで、自分の兄の名前をすっかり記憶から消し去っていただなんて。
 こんな芸当ができるのはだれか。
 思い当たる人物が一人しかいなくて、百夜は戸惑った。
「どうして……あいつがこんなことをしたのか、分からなくて、おまえら焦ってる」
 不意に掠れた声が響いた。紅月の声だった。彼は目を開けて、どこか遠くを見ていた。
「起きたの?」
「ずっと起きてた。少なくとも頭は起きてた。話はだいたい飲み込めた。……目が、開かなかっただけだ」
 少年は言って、立ち上がろうとした。が、よろけた足がそれを失敗させ、仕方なくもう一度座り込む。
「どっちでも、いいじゃないか」
 紅月の、伏せられた瞳を百夜も砂も霧生も見つめていた。
「来羅が、なに考えていても。意図的に俺たちの記憶を変えたのだとしても……そうでなくても、どっちだって、もう構うもんか」
 口調はやけっぱちのようだったが、含められた思いは決してそんな投げやりなものではなく、真摯な思いだった。
「なあ、おまえもそうだろ? 百夜」
 見上げる少年に、百夜は真っ直ぐ視線を返す。いつの間にか動揺はどこか遠くへ行ってしまっていた。
「僕は、もう一度、会いたい」
 ベッドの上で彼は答えた。
「もう一度、会いたい。来羅に。あの時、伝えられなかったことを、伝えたい。今度こそ」
 それでも君を愛している、と。
 何度でも何度でも何度でも。
 彼女が否定するたびに何度だって叫んでやる。血を吐くまで叫べというならそうしてやる。
 それでも、来羅がこの世界を終わらそうというのなら、最後の最後まで彼女の隣でその様子を見届ける。世界が終焉を迎える様を、その鎌を振り下ろす彼女を、ずっと見つづけてやる。
 それが二千年前に彼女と交わした約束だった。
 裁定の時、傍にいる、と。どんな決断を彼女が下そうとも。

 自分がすべきことを百夜が再確認していると、それまで黙っていた砂がかすかに鼻を鳴らした。
「とにかく、もう一度どんな手段を使ってでも、会わなきゃならないってことだね。……いいよ、後のことはそれから考えよう。だけどね、あたしだって、あの子が何者だろうと構わないんだ」
 砂は睨むように百夜と紅月を見下ろした。
 あえていうなら、仲間はずれにされてふてくされている子どものような怒りをたたえていた。
「あの子が何者でも構わない。だってこの世界に、あんたたちとあの子以外の未練なんてないんだからさ。全部、二千年前に置いてきたんだ。そうだろう?」
 砂は霧生を振り返った。
 彼は無言で頷き返す。
「あたしが知りたいのは、もし、あの子があたしらの記憶に手を入れたっていうなら……それは、どうしてなのか。紅月はどっちでもいいっていうけど、あたしはやっぱり気になるよ。あたしらに知られちゃ困ることがあったのかい? あの、火照のことで? ……あいつが、百夜の兄貴と同一人物かも知れないってこと?」
 砂にあってはかなり珍しく、言葉は問いの形を取りつづけていた。自分の発言に自信がないのが、そこにはっきり現れていた。
 百夜の兄が、今現在において少年の姿でいることは、不可能ではなかった。
 美沙の時を止めたように、来羅が火照の時を止めたのだとすれば、それは可能だ。もしくは百夜たちと同じように時を越えて来たのだと考えてもいい。
 百夜は必死に兄にまつわる記憶を呼び起こそうとした。幼い頃に消息不明になった兄について、なにか少しでも情報がないかと必死に思い出そうとしたが、不自然なほど彼に関する記憶は存在しなかった。
 どんな人間だったのか、なぜいなくなったのか、なにも思い出せない。幼い自分がそれほどまでに異母兄に対して無関心だったはずがないと、百夜は確信していた。だから、この情報のなさは不自然だ。
「砂と霧生は、なにか覚えてないの?」
 覚えていない、と砂は首を振りかけて、顔をゆがめた。
「……怖かった」
「え?」
「あの人は……優秀で、強くて……一族中に、恐れられていた」
 決して弱みを見せることを良しとしない砂が、絞り出すような声で呟いた。
「会ったのはたった一回だけだ。だけど噂だけは色々聞いた。どれも良くない噂だった。……あの頃、来羅は神殿の奥にいて、誰とも会わなかった。……来羅は……巫女は、今までにない大いなる力を持っているって噂されてて……」
「今まで?」
 紅月が独り言のように繰り返す。
「今まで?」
 砂はそれをまったく同じように呟いた。
 戸惑いが混じったその言葉に紅月は首を傾げる。
「今までって、おまえが自分で言ったんだろ? 昔も今も、巫女は来羅だろ? あいつは年を取らないんだから。……大昔から、あいつは巫女として存在していたって」
「ああ、そうだね……」
「そうだったか?」
 唐突に霧生が口を挟んだ。
 その問いが今度こそ砂を動揺させた。たしかだと思っていた記憶がまた綻び始める気配を百夜は感じていた。
 砂は振り切るように何度か頭を振って、乱れた前髪をかき上げた。顔を上げた時には冷静さを取り戻していた。
「巫女の姿はひた隠しにされてた。巫女は世俗と関わらない。力を与えられた者と、神殿の者としか会わない。それが決まりだった……なのに、火照は会ってた。いつか火照に会ったら言ってやろうと思ってたんだ。なんでお前だけ、って……だけど、いざ心の準備もなく出くわしたら、なにも言えなかった」
 砂はそこで息を吐いた。たまっていた暗い思いを吐き出したような、重い溜め息だった。
「怖かったんだ、火照が。……偶然出くわしたとき、喧嘩したのか知らないけれど、体中傷だらけで、殺気が凄くて、手には血がついてた。あいつの腰くらいの背しかなかったあたしは、怖くて、動けなくて、そんなあたしの頭に軽く手を載せて、無言で一瞬撫でて……。俯いてた顔を上げた時には、もう火照はいなくなってた……」
「俺たちは、ほとんど同時に力を継いだけれど、いつか火の力を継ぐだろう火照と仲間になるのが怖かった」
 押し黙った砂の後を霧生が引き継いだ。
「里の人間たちはみんなそろって火照を怖がっていた。だれも火照を止められなかった」
 立ちこめた沈黙の中で、居心地悪そうに紅月が身じろぎした。
 それでも、と彼は小さく呟いて、意志のこもった瞳を持ち上げて百夜を見た。
「それでも……相手がおまえの兄貴でも、俺は容赦しない」
 百夜はその決意のこもった視線をまっすぐ受け止める。
 紅月がそうしたように、自分の中にある取り決めを口に出して確認した。

「僕ももう決めた。僕の一等は、来羅だ」






 誰もいなくなり、明かりさえ消し去った真っ暗闇の四角い空間で、百夜はじっと天井があるはずの場所を見つめていた。
 焦点はどんどんぼやけ、視点は遙か遠くに離れていった。
 もし、火照が「火照」ならば、彼は百夜のことを「百夜」だと知っていたのだろうか。
 少なくとも、火照が待っていたのは来羅だった。
 愛していたのは来羅だった。
 たった一人、彼女だけを待っていると……彼はそう言っていた。
 もし、火照が「火照」ならば、自分たち兄弟はそろって同じ人を欲している。
「…………僕の、一等は、来羅だ」
 百夜はもう一度、今度は自分のためだけに言葉を放った。






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