tell a graphic lie
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(2003.7.4)-1
今週は、結局一度も更新しなかったね。

(2003.7.4)-2
一日、十時間から十二時間、フルパワーで働く平日が、ごくあたり前のことになってしまって、といっても、肉体的疲労は皆無の、完全な頭脳労働で、プログラマというのは、一日中自分の机に坐ってディスプレイを睨みながら、がりがりとコードを書き、メールを書き、テストを書き、テストを実行し、結果を確認し、頭をぐしゃぐしゃ掻き毟り、またコードを書き、、、という繰り返しで、帰りの電車ではきまって脳みそがオーバーヒートしていて、疲れきっているのに、微塵も眠気を感じず、部屋に戻ってベッドに倒れ込んではじめて、ようやくガスが抜けるのだろう、吸い込まれるような睡気が襲ってくる。その睡気には、色がない。でも、無色透明の睡気の先には夜の闇があるので、ぼくには黒く映る。

(2003.7.4)-3
そういう日々が、ぼくからいろんなものを少しずつ削り取ってゆく事はぼくも知っているけれども、それをぼくはもう嘆いたりはしない。かわりに、それはとても自然なことだ、と思う。大人になるとできるようになることよりも、できなくなることのほうがずっとずっと多い。たとえば、真夏の浜へ、みなで泳ぎに出たりなんかしたとき、子供たちは元気に泳ぎまわるけれども、大人はパラソルの下でそれを眺めているだけだ。これは一体どういうことだろうと思ったことが、子供の頃にあったような気がするけれど、何のことはない、それはそのまま、見たままのことだった。大人たちは、もうそれをすることができないのだ。ずっと昔に、大人はそれをする意思を失ってしまったのだ。それを喜ぶ感覚と共に。そして、それはとても自然な、ぼくらには避けがたいことで、だから、大人はお酒を飲んだりする。

(2003.7.4)-4
ぼくも、また、今ではもう大人なので、少なくとも、周囲の誰ひとりとして、ぼくを子供として取り扱ってくれない、という現状にあって、ぼくからいろいろなものがどんどんなくなってゆくのは、ごく自然なことだ。そして、そのなかでぼくらが懸命に守ってゆくべき、ぼくらの中にある、少なくとも、かつて一度は自身の裡に存在した、感覚なり、性質なり、感情の昂ぶりなり、執着なり、ものやひとを愛でることや、一般には所謂心のゆとりといった言葉で括られてしまっているような事象の、そのいくつかを、ぼくはここに挙げてみようとする。一ころのぼくはそういった、ぼくの裡から無くなってゆくものたちを、自分で捨ててしまおうと思って、実際に捨てていたので、もう残っているものは、同世代の者たちと較べて、極く僅かになっているから、いま残ったものたちを挙げてゆくのは、人よりもおそらく容易なはずだ。

(2003.7.4)-5
それを忘れるということと、捨てるということとは、現状においてそれを用いることの不能である点、つまり、海へ行っても泳がないという実際においては、まったく同じように映るけれども、やっぱりぜんぜん別のことだ。忘れたことは思い出せば戻る。それは、使わなくなって倉庫にしまわれた道具たちを、また引っ張り出してくることに似ている。でも、捨てたものは、そこへ採りに戻って、まだその場に転がっていることを確かめ、拾い上げるか、そうでなければ、再びどうかして手に入れなければ、戻ることはない。自分で背負って歩けるものだけで生きてゆくことは理想だ。でも、それを本当にするのなら、現代にあっては、ぼくは浮浪者にならなければならない。定住することを諦めなければならない。そして確かに、彼らほど「生きること」をしている者も、ここでは見かけない。そして、彼らがそれをしているということが、ぼくにはつらい。生きることというのは、最後まで残るもののひとつなのか。
(2003.7.4)-6
現在のぼくは、自分でも呆れ、多少憐れなほどに狭量な人間になっているので、折に触れてぼくは自分に向って聞いてみる。
「他にまだやりようはあったと思うかい」
「それを、このぼくがするということにあっては、このようなかたちになるのは止むを得ないことだと思う」

(2003.7.4)-7
----愚痴とか、他人の悪口とか、知ったような、わかったような話とか、そんなものでない、いい加減でないことだけを言おうとしたぼくは、一年に一度しか笑わない人間になった。
という書き出しではじまる話を書けたらいいと思う。
(2003.7.5)-1
 昨日もまた書いているうちに結局眠ってしまって、あげることができなかった。フォークナー読み始めました。
 読みづらいですね。主体が頻繁に入れ替わるようです。二人の男が出ていたとして、「彼」という呼称がそのどちらにも用いられ、しかも比較的短いあいだにその入れ替えがおきる。そうすると「彼は相手にむかって、手を伸ばしながら、云々」というような文の、「相手」の指すものも頻繁に入れ替わらざるを得ない。"He told him slowly that ..." などという書き方がされているのではないでしょうか。
 というのは、まあテクニックのひとつだとして、まだよくわかりませんが、他にもいろいろと、ある種のぼかしのようなことをするのが、彼の小説の基本的な手法なんでしょうか。本体を直接に記述することなく、その像を浮かび上がらせる。輪郭とも違います。さらにもう一段外のものだ。周囲の事物や、その場の雰囲気、気配などを丹念につづることによって、却って描写のもれた部分を浮かび上がらせようとする。絵などでいえば、本体をマスキングし、他の画面をすべて塗りつぶして、白く残った部分が作品のメインであるというようなものでしょうか。実際は、もっと随分と複雑にできていますが、読んでいると、そんなような感じを受けます。
 すると、読み手としては、彼が何を書こうとして、その文を書いているのか、はっきりとわからないまま読み進めるしかない。それは作品全体の主題といったものに関してでもそうですし、また、もっとごく短い、一文自体が前の文脈とうまく接合しないように思える、ということに関しても言えます。だから、とても読みにくい。面白いと思います。大したものだとも、思います。
(2003.7.5)-2
文庫本の「短編集」は八つしか入っていなくて、「これら十三編」とは別もののようです。ぼくは一体に自選のものを好むことが多いので、「これら十三編」には興味があります。
(2003.7.5)-3
 ああ、そうだ。フォークナーの作品中には、説明的な文がひとつもないんだ。状況や心裡に対する解説も、作品のコンセプトに関する説明も、どこにもみあたらない。だから、太宰やモオパッサンなどに慣れたぼくには読みにくいのかもしれない。
 太宰は、そのあたりの説明を、作品中でくどくどすることにかけては、他の作家を凌駕するし、モオパッサンなどは、人物の表情や言動、環境にいちいちどう受けとると、その作品の主旨に添うのかということがきちんと書いてある(「彼の言葉に満足して」「当惑した表情で」「気が滅入っているらしかった」等々)、その上に、小説の構造ががっちりかたまっていて、それに合わせて読んでゆけばまず間違いがない。
 川端康成の小説でも、やはりそのあたりの記述はあるのだけれど、フォークナーのものにはそれが全然ない。あったことや、あったものが、そのままその通りに記述される。そして、それのみで小説が成っている。だから、やっぱり読みづらい。それは、ちょうど現実が、いま起きていることを、いま理解することが難しいということと同じだろうか。ぼくらはあらゆる出来事を、その意義から何からの全てを、起きた瞬間に理解しきることはできなくて、大抵あとになって、あれはこういうことだったのだ、など註釈をつけているけれども、フォークナーの小説も、そういう読み方を要求するもののように思える。
(2003.7.6)-1
 聖書も、読み始めているのです。ペエスは、やはり、そうとうに遅いものではありますが。今は、創世記の第八章です。八章というと、へえ、意外に進んでいるじゃあないか。ペエスは、遅い、なんて言っているけれど、やっぱり、わき目もふらずに貪り読んでいるじゃあないか。それをまた、聖書を貪り読むなんて気障なことだ、とか何とか、太宰ゆずりのみょうちきりんな美意識を思いだしたりなんかして、遅い、なんて言ったりして、それこそ、気障なことじゃないか。と、思われるかもしれませんが、それは違います。けれども、第八章という言葉だけからでは、そのような誤解を受けるのも尤もですので、第八章の頁数も合わせてお伝えします。ただいまの聖書の進捗状況は、第八章、九頁を読み終えたところであります。聖書は、毎日まいにち、少しずつ読むためでしょう、章が非常に細かく分かれていて、一章が一頁ほどになっているのです。ただいま、エホバの神は、一週間がかりで世界を創造し、アダムとイヴの代も終わり、地上の生物は四十日続いた豪雨で陸地は凡て水のした、神さまの命を受けて箱舟に乗りこんだ、ノアとその家族、あらゆる種類の生きもののひとつがいたち、それだけが生き残って百五十日後、ようやくに再び顔を見せた陸に戻って、またはじめから繁殖繁栄をやり直すところであります。九頁でそれだけ進むのでありますから、これはなかなかのものです。まだ、イエスさまは、登場すらしておりません。先は、長そうです。文語は、難しいですが、聖書の文章は、ごく単純な文で成った、やさしいものですので、さほど苦労せずに、読み進めることができます。お話のだいたいを、知っているためでも、ありそうです。けれども、太宰などが抜き出している部分は、どうやら、聖書の文章のなかでも、相当によろしい箇所であるようで、聖書の文語文全体としては、リズムや、言い回しの簡潔さなどは、そんなにも、よくないもののようです。下種なことながら、少し、安心しました。
(2003.7.6)-2
フローベルの「紋切型辞典」はひどいものであります。がっくりであります。
 あ、アイスクリーム - 食べるときわめて危険。
から始まる日本語版も、どうかと思いますが、パラパラとペエジをめくっていっても、ろくなことが書いてありません。
 ほ、方法 - なんの役にもたたない。
とか、
 こ、幸福な - 幸福なひとのことを「頭に羊膜の一部をつけて生れたひと」と言うべし。それがどういう意味か分らないが、どうせ相手も知らない。(※日本語註、そういうひとは幸運に恵まれるという俗信があった)
とか、
 お、音楽 - 人びとの風俗を純化する。例は、「ラ・マルセイエーズ」。さまざまなことに思いを向けさせる。
フローベルの著書の日本語文庫に、「ポヴァリー夫人」と、この「紋切型辞典」しかないというのは、実に理解に苦しみます。せめて、「失敗園」くらいの気合を入れて書いて欲しいものです。名が、泣きます。
(2003.7.6)-3
駄文なら、誰だって、いくらでも書けるんだよ。
(2003.7.7)
曇天の七夕もひとの恋路はそっとしておくがよい
逢いたい人にあわない両手を見つめて汚いと思う
おもった人に夏草の色をとり出してあげる
夏ぐもりの早足で歩く細いからだを眺めている
ひとに見せるのに恥ずかしい心になった顔をもてあます
七夕の空に星の無いことも気づかないで零時
ひとに触れない、夜の、ひとに触れない
星降る夜も、ぼくはひとりで眠ったことしかない
それでも、おやすみと言おう
おやすみ
(2003.7.10)-1
 フォークナーの短編集を読み終えて、今は、カフカの短編集を読んでいる。この二人は全く異なるタイプの作家で、作品の数や質から、執筆のスタイルまで、どこにも似通ったところはないに違いないけれど、読み手側からの評価には共通するところがある。複雑だ、と思われているところだ。この、複雑だ、という評価を少し言い替えてみると、どうとでも取れる、とか、何を言っているのかよくわからない、とかということになるのだろうけれど、この、複雑さ、というものに関して、今日はちょっと。

(2003.7.10)-2
 カフカの複雑さというのは、哲学系の話に関連させられる事が多いようであることからわかるように、謂わば、単純な複雑さ、とでもいったようなもので、なぞなぞかなんかに近い、一見して謎めいている、ということがわかるものだ。哲学というのは学問になるくらいだから、そこにはある程度の明快さが必要となるもので、カフカの作品というのは、哲学のそういう性質によくマッチしていると思う。つまり、寓話とか、夢とか、そういう世間一般でも、それが複雑で謎めいている、ということは認知されているものを、彼は扱っている。複雑な問題、というのは、どんなに複雑なものであれ、少なくともそれが問題だ、ということはわかっているもので、その点に於いては、複雑であることはなく、確実な明快さがあるのである。カフカの複雑さというのは、そういう類のものだ。解きがいのある知恵の輪のような。
(2003.7.10)-3
 フォークナーの複雑さは、その点に於いて、カフカと決定的に異なる。彼の作品は、とにかく、よくわからない。何がわからないのかも、よくわからない。カフカと違って、ひとつひとつの文自体には、不思議なところはなく、むしろ端正で美文調の趣さえあるのだが、それが集合となった場合に、何もかも全くわからなくなる。一文一文が、その作品の中でどのような位置付けにあるのか、さっぱり理解できないにも関わらず、それが確かに必要な文であり、それを欠かすことが致命的である、というような色味を有している。だから、彼の作品を読んでいるときに、ぼくはしばしば一段落前から読み直して、イメージなり、意味なりを再構築しようと試みなければならなくなる。短編集の解説には、その収録作品のひとつひとつに、あらすじと尤もらしい主題が記してあって、それを読むとほっとするのだけれど、でも重要なことはその他にあるのではないか、と思ってしまう。なぜならば、その解説にあるようなことを言いたいのであれば、わざわざ彼の作品のように書く理由がないからだ。つまり、そういう風にわかりよく言ってしまったのでは、落ちてしまう何ものかが現に存在して、それこそがフォークナーの作品の致命的な部分なのではないのか。
(2003.7.10)-4
 悲しいときに、ただ、悲しい、と言うことや、書くことには、何の意味も無い。また、価値も無い。そして、なぜ悲しいのか、できるだけ詳しく説明することも、いつの間にか本来の目的である、悲しい、ということを伝えることから離れてしまう。悲しい、というのは、比較的単純なものだから、それでもまだ、どうにかなるような気にもなるけれど、そういった名前すらついていないものを表そうとし、更にそれを説明するのではなく、伝えることをしようとすると、これはひどく難しい。天才が要るようになってくる。天才そのものは、学問にならない。天才は、共有と完全に矛盾する。では、フォークナーがそういう天才だったか、というと、それもぼくにはよくわからない。ただ、彼のあまりに大胆な情報の切り落とし方や、配置法を見ていると、そんなことを思ってしまう。
(2003.7.10)-5
 カフカについては、もう特に言いたいことはない。下種なコメントとしては、村上春樹が好みそうだ、ということと、川上弘美の一部の作品は、カフカあたりの流れを組んでいるように思えて、ぼくはそういう色を出している彼女の作品はあまり好きではない、ということだ。ぼくは、謎めいた、というのが嫌いな人間で、単純なことならば、単純に言えばいいと思っているのである。この、単純な、というのも、結構難しいような気もするけれど、自明な、といえば、すっきりしてしまう。つまり、小細工がかっているのは、ぼくは好きでない。複雑さは、複雑に作るから複雑なのではなく、最も単純に記述しても、なお十分に複雑であるものに対して与えられていればいい。
(2003.7.10)-6
 だから、フォークナーの作品は、複雑だけれど、それを書いているフォークナーは、自身が今書きつつある小説を果してそのようにとらえていただろうか、ということがぼくには気にかかる。
(2003.7.11)-1
いま、朝。ここまで書いて眠ってしまった。あいかわらず中途半端だけれど、まあ、いいか。悲しいときに、ただ、悲しい、と言うことのできない人間はかわいそうなものだ。そして、それが作家という生きものの大半なのである。と、そういうことが書きたかったような気がする。もちろん、フォークナーの作品の複雑さの性質についても、わかる範囲で書きたかったのだけれど。こちらは、とても難しいものだし、それを書いたところで何になるわけでもないものだ。土日で、「バーベナの匂い」を写そうかと思う。そうすることが、こうして何かだらだらと書くことよりも随分いいことのはずだ。
(2003.7.14)-1
平穏。今から五時間眠って、また働きに出る。ただ、それだけだ。そういうふうに、できている。
(2003.7.15)-1
眠い。南武線の車両故障に出くわして、家に帰りつくのが三十分すこし遅れて、零時四十五分過ぎになってしまう。おかげで「八月の光」を、平日とは思えないほど読み進む。いまは、十八歳のクリスマスが養父を椅子で叩き殺したところを終えて、話は十五年後にまた戻ってきたところだ。クリスマスは腐っている。
(2003.7.15)-2
「腐っている」と書いたら、堪らなくなってきたので、もう眠ることにする。
(2003.7.17)-1
おかしいな。ぜんぜん夏にならない。「八月の光」は、三分の二を過ぎた。また、すこし、感想を書いてみたけれど、消した。それには、意味がなかった。全部写すか、ゼロか、そのどちらかしかあり得ない。
(2003.7.17)-2
喋れることには、まだ減りようがある。
(2003.7.18)-1
無駄口というのは、決して無くなりはしないのだ。喋るというのは、ぼくらの持つ行為のうちで最もなし易いもののひとつで、それはほとんど常に他の行動に先行し、それを未然に描写し、しばしば実際のその内容を圧倒する。ふつう、ぼくらは喋ること以外の行為を、それについて喋ることなしではじめることすらほとんどできない。
(2003.7.18)-2
不言実行というのは、あれは美徳だそうだが、しょせんは喩えだ。それの表すように、行うことと、言うこととを対立させてみるのは意味がない。喋るということは、確かに行為のひとつであり、あまりに他の行為よりも行われる頻度や、それによって煩わされる機会が多いので、この言葉のように、ついそれを行うことから分離させて考えてみたくなるが、けれどもそれは、確かに喩えでしかない。現実にはやはり、有言実行にかぎるのであり、不言実行というのは、これから自身が為すところを精確に前もって描写するという、言葉の本来の目的に合致した言葉のみを口から発せよということであって、つまりは、言行一致を忠実に為せ、といっているに過ぎない。その範囲内においてのみ、喋ることは行為として有益なのだ、といいきかせているに過ぎない。
(2003.7.18)-3
ある冊子のなかに、「自己実現」という言葉を見いだしたことは、ぼくを失笑させた。ぼくはまだそれに失笑するようだ。確信が足りないようだ。
(2003.7.18)-4
「ぼくは今では、あなたのことをただ一点においてすっかり信用しているんですよ。あなたはぼくの役には立たない、というただ一点においてね」
「その逆はぼくが言うべきことではないはずです」
「世の中にはやはりあらゆる種類の役割を担った人間がいるものだと思います。それは、人ひとりの欲望や願望よりもずっと大きな構造をしていて、さいごに行きつくべき場所というのは、常に、汝、ただ汝の為すところをなせ、というであると思います。それは父と母から、自身の生れ落ちる場所のほかに、顔や体の色かたちを受け継ぐのとおなじ現象だと思います」
「だから、その意味においては、少なくとも今ぼくがあなたに言ったことは当っていると思います。そして、それで十分だ、とも思っています」
「ぼくは、あの、なんとかやってゆく、という言葉を信じていないのです。逆境にあっても笑っていられる人というのは、理想としておもわれることの多いように思いますが、けれども、ぼくは最近こうも思うのです。なぜ笑わなければならないのか。このことは、こういいかえてもいいように思います。なぜそのことをあなたに話さなければならないのか、と」
「だって、あなたはぼくの役にたたないんですよ」

(2003.7.18)-5
しゃべることを辞めたあとから書きはじめられる言葉こそがほんものなのだ。
(2003.7.18)-6
生きることとは、事実そのままにいい表せば、それは賭けることだ。
(2003.7.18)-7
バベルの塔は建たなかったのだ。人類すべての希望と欲望と善意との最大限の先鋭化の結果として開始された事業は、許されざるものだったのだ。
「また曰ひけるは、いざ街と塔とを建て、その塔の頂を天にいたらしめんと画して我ら名を揚げて全地のおもてに散ることを免れん、と。エホバ降臨(くだ)りてかの人々の建つる街と塔とを見たまへり。エホバ曰ひたまひけるは、視よ、民は一つにして皆一つの言葉を用ふ。いま既にこれを為し始めたり。されば凡てその為さんと図ることは禁止(とど)め得ざれざるべし」
(2003.7.19)-1
「バーベナの匂い」とりあえず、終わりまで。あとは、もう一度読み直して、誤字脱字を取ることをしなければならぬ。「八月の光」も読了。クリスマスは、捕縛されて以後は第三者として描かれ、その死の際しての記述は実に簡素なものとなっている。彼は弾丸を数発体内に撃ちこまれて虫の息のところに、情婦を殺したという罪状のためにそのモノを切り取られ、そこから血をだくだくと噴き、垂れ流しながら死ぬのだが、そのことについての重大な記述は既に済んでしまったのであって、あらためて記述することは、その実際の描写だけである、といったふうにしてそれは語られ、主な関心はハイタワーの回想の方へと向けられる。ハイタワーは、小説中唯一といってよいほど無駄に思索的な言いわけをする人物で、つまり、フォークナー自身ではないかと思われる存在である。
(2003.7.19)-2
ぼくは意味の中にしか生きることができないのか。
「少しずつ矛盾していることを、君はいつも数限りなく繋げていって、しまいには喋りはじめにいったこととあらゆる点において対立することを言っている」
「意志のみが重要なんだ。ぼくが君らのように、ひとのことを尊く思ったり、同情を感じたりするには、何よりもまず、自分の意志というものをきり拓いてみることをしなければならない。」
「ぼくにはそれら凡てが、すべて事実として、そのありのままの、例えばゴビ砂漠の大砂丘の位置が一年で、その谷間の落ち窪んでいたところがちょうど頂天となり、反対に、一年前には頂天だった位置が、いまや最も窪んでいるということと何の違いもなく映るんだよ。そんなことを知っていても、また知らなくても、そこに住んでいる蠍はまったく気にかけないだろうし、実際、彼のよじ登らなければならない高さというのはまったく変らないのさ」
「君が昨日泣いていたときにも、ぼくは確かに胸を絞めつけられるような感覚を味わったのだけれど、それも、適当な強さの風があれば凧が上がるように、ぼくの心はこれに絞めつけられるようにできているのだから、いま絞めつけられるのだな、という風に思っただけで、君を抱いたりしたのだけれど、それはごく簡単で義務的な気持からだった。そうすれば君の気持に多少なりとも「済む」部分があるのだと知っていたからそうしたんだ。君はいつもそういう風にしてぼくを利用するし、そうされることで、ぼくは君から離れずにいられるのだと、ぼくは知っているのだからね」
(2003.7.19)-3
Charaの「夜明け前」を、音量を絞って聴くことが、この頃の部屋での音楽の聴き方だ。基本的に、これ一枚で十分である(あとは、小谷美紗子「眠りの歌」「光の穴」があれば足りる)。けれども、仕事中に同じアルバムを聴くとなんだか不愉快になるのである。テンポが合わないのだ。そして、Charaの生活と、現在のぼくのそれとの間に越えがたい、人間の在りかたにおける不和を感ずる。今のCharaの音楽は、そういうものなしで聴けるほどやさしいものではなくなってしまっていて、それはある意味欠点ですらあるのかも知れないのだが、核心に迫っているものというのは、みなそういう気色を有しているものだ。彼女は成功し、ぼくは失敗しやぶれる。ぼくらはあらゆる次元のあらゆる値をうめるように在らねばならない。ぼくが醜くて何ひとつ言葉を持たないのは、そういう観点からして適ったことなのだ、という意識は、これはいいわけや慰めとおなじものなのだろうか。けれども、観たまえ。このような暗き道を経た人間の育て上げた大輪のラフレシアの大きさや色や匂いを。
(2003.7.23)-1
雨降り、肌寒い。今日は九時すぎから十一時すぎまで。さすがにつらい。大量の雑用のような仕事がふってわいてきた。新人がやってきたので、それのおもりもしなければならない。メインのスケジュールは、もちろん順調に遅れが堆積している。ああ、おいしいコーヒーが飲みたいよう。
(2003.7.23)-2
句もわかず。寝るよりほかなし。
(2003.7.25)-1
濃い靄の夜明けである。まだ始発の飛行機は飛ばないだろうが、ぼんやり曇ってそこまでは見とおせない。その朝のうす暗く淡い青をながめながら、シンプルライフというものについてかすかに思う。この言葉は自給自足やら、晴耕雨読やらと同じで、浮世離れした響きがあるように思うが、響きだけである。実際は、都会の最も中心に日々を過ごす者たちの生活を指す方が正確であろう。なぜなら、晴耕雨読の者と比して、彼らはそれを選択しているわけではないのだ。意思によって、自らのその生活を中断することすら、彼らにはありえない。彼らは確かに、目に見えず、適当な言葉によってもあらわされることのない何ものかに対しての奴隷であり、したがって、自身それと気づくゆとりすらないほどに、彼らの生活は単純なのである。人は常に何かをしていなければならないものだ、というのはその一部を記述しているように思われるが、それだけでは十分ではなさそうである。
(2003.7.26)-1
少し強く吹いている風のせいか、今日の空は冬の日のように澄んでいる。羽田の滑走路の黒灰色がここからでもわかる。航空機は向って右の方、南の方から着陸し、北向きに飛び立ってゆく。日によって、この向きが変るので少し不思議に感じていたのだが、ブリリアントな色をした空を父と眺めている際に、そのことを話してみたら、「風に向って飛び立つんだ」と教えてくれる。たしかに、今は北の、東京の方から風が強く吹いてきている。なるほど、と納得して、「今日はいい日だったみたいだね」と呟き、東京の方を見やれば、東京タワーが細く立っているのもはっきりと見えた。その赤白の姿は、強い空の色の中では色あせて至極貧相に見える。「やあ、細いなあ」とぼくは呟き、煙草を灰皿に投げ入れる。父の方をふり返って見ると、既に顔を引っ込めていた。ぼくは一本で満足して、代わりに大きく風を吸い込む。別にうまくはない。航空機が旋回している。電車が二筋、川にかかった橋梁の上を滑っている。風に乗って、ピアノの音が響いてくる。ぼくは考えたり、何か思ったりすることを止めて、それらを見ている。
(2003.7.26)-2
ほんとうに、今日は空がきれいだ。季節が進むにつれて、空を見ることも少なくなっていたのだが、今日のはいい。冬の透きとおるのとはまた違って、濃く深い青が地面を覆っている感じがはっきりとある。ことに日暮れ直後の深い藍色には、久しぶりに目を奪われた。所詮は、都会の空なのだろうけれども、空はそらだ。ぼくらの日々吸い込む息で、思いで埋まった、ぼくらの空だ。
(2003.7.26)-3
カフカ「変身」。カフカに対する見方が変わる。ぼくはしばらく持ち歩くことだろう。百頁にわたってこれを書きつづけるというのは、とても難しいのだ。確かに、「ほとんど細部にいたるまで不完全だ」という本人の弁のとおり、前半と後半の境目での(その間に、おそらく出張があったのだ)、妹の主人公に対する扱いの変化の様子をもう少し詳しく書き、それを以て後半を前半と同じ程度に充実させ、百五十頁ほどにまでしたのならば、更によかったであろう。しかし、百頁つづけたということだけで、文句なく佳作である。
(2003.7.27)-1
軍人がストをすると叛乱になる。物騒でいかんね。もう少しあたまを冷しておやんなさい。
(2003.7.27)-2
どうも調子がわるいので、日記を書いておしまいにしよう。

(2003.7.27)-3
昨日にひき続いて、今日も空がずいぶんときれいで、気温もちょうどいいぐあい、ベランダからの眺望は、東京の高層ビルの、その一本一本の色かたちまでわかるほどで、反対がわには、横浜ベイブリッジやら、名前は忘れてしまったのだけれど、もう一本のつり橋などがくっきりと見え、飽きない。昨日と違うところは、羽田を離着陸する航空機たちの進行方向で、昨日は南から入って、北へ向けて出ていったのだが、今日は、北方向、東京上空から着陸し、東京湾の出口へ向けて三十度以上の傾斜で飛び立ってゆく。あいかわらず遅くに起きて朝食を済ませ、「やあ、今日もきれいだ」とぼくはベランダに出て、煙草を吸いながら、午後の明るい街並を眺める。

(2003.7.27)-4
やあ、長いな。はしょろう。明日からまた仕事だ。
(2003.7.27)-5
ベランダから眺めることのできる街並をくまなく見ていると、東京方面の比較的近い位置と思わしきあたりに、緑のベルトがあることに気づく。父に尋ねると「おそらく池上本門寺ではないかと思う。けれども、それにしては大きすぎるので不思議に思っている」というので、暇のついでにちりんちりんで行ってみることにする。「ガス橋を渡って行けばすぐだ」と父はいうのだが、あの辺りはとてもごちゃごちゃとしていて、寄り道わき道ばかりするぼくはすぐに迷うとわかっていたので行き着けるか心配だったけれども、東急大井町線と池上線を越えて、今回はさして迷わずにたどり着くことができた。
(2003.7.27)-6
で、緑地帯がとても広そうに見えたわけだけれど、池上本門寺のあるあたりは、ちょうど多摩川河川敷の低地から、東京の地面の高さにあがる境目のところで、そのちょっとした(10mか20mくらいある)崖とでもいうような段差の端のところに本門寺があり、敷地内のその傾斜部分は、他所のように住居やら何やら、建物で覆われていないので、こちらから見るととても広くて平たい土地のように見えたのでした。本門寺の境内では、今日はなにやらライブが行われていて、いつもの雰囲気ではなかったように思われましたが、とりあえず煙草をくわえたまま賽銭を投げて手を合わせてきました。
(2003.7.27)-7
それから、寺の崖の上から、ぼくの住む多摩川方面を見やりましたが、だらだらとひとの住むところが続いてばかりで、あまりよい眺めではありませんでした。東京の内から外を見るよりも、東京の外から東京を見るほうが随分楽しいもののように思われます。
(2003.7.27)-8
はい、おしまい。じゃあ、またあした。おやすみなさい。
(2003.7.28)-1
フォークナーについて、何かひとことでも書ければと思ったのだけれど、ぼくは頭が悪いねえ。
(2003.7.29)-1
 あたり前だと思っていることを、新しい意識であるかのように記述するようになりはじめれば、まともなものが書けるようになるだろうと思う。「人間の数だけある人間のステロタイプ」という一見矛盾するものを構築する事業を開始するのだ。そして、それはやはり、ぼくが普通の人間にはなれないのだ、という命題に対する確たる証拠を提示することから始まるに違いない。
「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。」
 これを、自身の欲求によって書くようになったのならば、ぼくの書くものもまともに見れる微かな手がかりをそこに見いだすことだろう。信じたまえ。ぼくは意味と価値の内に呼吸し、孤独に拠って立つ。そして、その成就は、最も概念的な自殺、という実際の行為によってのみ、なし得る。
(2003.7.30)-1
ことしはじめてのみんみん蝉を聴く。ぼくはまだ長袖を着て生活している。夏日をまだ三日とみないような気がする。そして、そのうちの一日が来るたびに、ぼくは夏が始まったと書いていたような気がする。なな月もはや過ぎる。ぼくはたしか、いま二十四歳だったように思うけれど、やっぱり何も書けていない。太宰の紙袋はもう随分と厚くなっているはずだ。太宰に、こんど手紙を書いてみようか。
(2003.7.30)-2
「拝啓、二十世紀の旗手どの。もう八月になろうとしていますが、今年はいっこうに陽が照らず、私などは未だに袖の長い着物をきて街を歩いております。こんなのも、やっぱりきちがい天気というのでしょうか。あなたがつね日ごろ、畏怖にも似た心もちで眺めやっております、サラリイマンというものに私がなって、もう丸二年と数ヶ月が過ぎてしまったようです。死にぞこなってからも、いちねんが経ったようです。けれども、あなたのように、ひとさまに見せられるものは、私にはひとつもありません。ただ一日いちにち、恥ずかしく笑いながら、くるくる廻って暮しているのが、私の全部です。そして、その一日いちにちが、嘘ばかりなのです。ほんとうのことは、何ひとつありません。ですから、周囲の人びと、みんなを軽蔑しています。同じように、ひとからも軽蔑されているようです。私には、何ひとつ確かなものがないのだから、それは、当然だとも思います。けれども、ひとを軽蔑するというのは、実にやりきれないものです。腐った果物を食むようです。大きな毒です。私がいったい何をしたというのか。ぜんぜん答えられないのです。おかげで、私はひとことも喋ることができません。やはりどうでも、笑うよりほかはないようです。あなたの最もきらいな、卑劣な、あのいやらしい乞食の笑いです。お金が、もらえるのです。仕方がないじゃないか。賽銭ドロよりは、マシですよ。など、ひどい眼つきして言っていることも、あるようです。云々
(2003.7.31)-1
まともなものを書くために足りないものが、まだあった。きわめて物理的なものだ。そして、ぼくが太宰と比較して発想が貧弱で、どうあってもぼくには太宰の書くようには書くことができないのだ、と立証するためにはどうしても必要なものだ。
「太宰と同じだけの時間を、書こうと努めることに費やさなければ、どうして太宰とおなじものが書けるというのだ」
笑いごとではない。時間というのは、才能や境遇、環境といったものよりも遥かに人間全部に対して平等に附加されているもので(それはよく、経験という言葉であらわされる)、ふたりの人間の時間以外のものを比較するのであれば、人生におけるある期日とある期間において同じだけの量を対象に対して費やすことを保証しなければ、とてもではないが正確な結果は得られない。太宰の方の結果は、もう出てしまっている。彼が一日八時間書いてあの紙袋の中身を作り上げたのならば、ぼくはどうすればいいのか。


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