(サンデイパアク)
日曜の公園
午後のひざし
夢の音色をきく
ブルウベリイとシナモングリインにただよう
妖精のくにの子守唄
昨日の夜は
いろんなものがあんまりありすぎて
あんまりひどくて
動けなかった
でもまだいい
今はみんな薄れて消える
通りの人ごみに混じってゆく
そばに来るあなたとか
わらい掛けるあなたとか
そういう
終わりのない夢をみたい
きょうの日がすべて
わたしはそういう類の女の子
でも、それでいいと思っている
それでわたしは私になる
あなたのいないときはとくに
だきしめるだれかが必要になるって
どうしたら平気になれるかって
ちゃんとわたしは知っている
となりにいるあなたとか
細くささやくあなたとか
そういう
終わりのない夢をみたい
心臓のひとりの鼓動をかんじるときに
わたしはうたい わたしはさけぶ
理由なんてあるわけもない
「わたしはあなたのことを求めていました あれは、求めていたのです」
生活はいつのまにか、迷宮にさそいこまれるけれど
まいにち、まいばん、あなたはわたしのなかにいる
まいにち、まいばん、よろこびもいたみもまだ
記憶のメロディはなり止まない
あなたはときの果てまでわたしとくらす
そういう
日曜の公園の夢
YEN TOWN BAND "Sunday Park" (Lyric by FUMIKO YOSHII)
(2003.6.19)-1
おとつい訳して、そのときはくそだと思ったからあげなかったのだが、いま見てみたら、さっぱりわからない。構成が分裂しているようにも思うのだけれど、もとの詞がそうなっているので、如何ともしがたい。曲の詞というのは、そういうものなのかもしれない。とにかく、ことばのとりかたの良し悪しから、なにから、ぜんぶ、わからない。ただ、"Sunday Park" 自体は佳作である。それにはちがいない。
(2003.6.20)-1
昨日は太宰の命日であったようである。日づけにはあんまり意味はないが、流れた月日には意味があるように思える。太宰には「風の便り」という文学論の作品があるが、これは保坂和志のそれのように、つついてやろうというような気は少しも起らない。太宰は作中、その存命中にあって既に、自身は十九世紀の作家であり、古い、というようなことを言っているのだが、それを死後半世紀たってから奉じようとしているぼくは、反動とすら呼ばれる資格のない、ただの無邪気な時代遅れでしかなく、却って大声で馬鹿のひとつおぼえを叫びつづける。「ぼくらは間違っている」
(2003.6.21)-1
「ウォーターボーイズ」を見る。単純な映画である。話は練れてないし、演技も大根ばかりの、大味なものである。登場人物のひとりとして、実在していそうな者はない。だれも皆、じつに適当な描かれかたをしている。けれども、それは重大なことではない。この映画は、画がいいのである。とどのつまり、この映画はそれだけのもので、それでいいある。そこには、高校という環境の有する独特の色味がじつによく表現されている。校舎の壁面も、わたり廊下も、グランドのボールネット越しの空の色も、ぼくの記憶を呼び覚ますのに十分なものだった。練れてない筋書きも、無個性なまでに典型化された人物も、不特定多数の観衆のひとりひとりに、自身の高校時代を思い起こさせ、あそこに在った色や空気や、時間の速度といったものを胸によみがえらせるには、かえって好都合にはたらいたようである。たった九十分弱という時間の裡にそれ以上のものを容れてしまわない。この映画の成功の所以は、ひとえにそのあたりのさじ加減にあるようである。ぼくらがあの時期を愛することがあるとすれば、それはこの映画のうちにあらわれているもののためであり、過敏な自意識の彷徨や、幼稚な恋愛の真似事のためでは決してないのである。CMによると、この続編がテレビドラマであるそうだが、ざんねんなことには、引き継ぐのはこの映画のそういった良さではなく、男のシンクロナイズドスイミングという多少めずらしげな気色の題材のようで、したがって、眼を覆わんばかりの駄作になることは、どうも今から保証されているようである。こんな、素人の部外者でもわかるようなことを敢えてしなければならぬ、ドラマ制作者のおかれた境涯に一種の憐憫をもよおさざるをえない。
(2003.6.22)-1
久しぶりに自転車に乗ってみると、タイヤの空気がずいぶんと少なくなっていて、そのために車輪が横すべりする。しばらく走ってからそのことに気づいたので、そこで引き返して空気入れを買って帰る。
(2003.6.22)-2
また、何のために、というのを忘れしまっていて、首をかしげている。組んでいた手が解かれてしまったような感じで、こうなると、話しかけられても、笑って応えることができない。そうした普通のやりとりが、ぼくにはもう自然なことではなくなっていて、それをするのにぼくは多少の意識を要するのだが、こういうときは、その意識に対して疑問符が附けられてしまう。無感情というのに少し近くて、意見や賛同を求められても、ぼくにはそれが何のためにあるのか、何のことだかわからないので、どうしていいのかわからない。なんで、話しをする必要があるのか、なんで、関わりを持つ必要があるのか、なんで、感情を持つ必要があるのか、そのあたりがさっぱりわからなくなっている。人形のような顔になって、ぼんやりしている。なんで、ぼくは今日も生きて、生活を続けなければならないのだろう。解しかねるが、これもどうでもいいような気がする。
(2003.6.23)-1
「故園」はかなしい。とてもとてもかなしい。