(2003.6.15)-9
「たまに「文学は身を削って書くものだ」というような言い方をする人がいるけれど、ぼくの場合、長い小説を書くことは健康にいい。百枚くらいだとある期間を事前に想定して、そのあいだを息を詰めると仕上がる感じだけれど、長くなると息を詰めてはいられない。むしろ逆に呼吸を整えて、一日三枚から五枚、それ以上書けるときでも翌日にまわし、心と体が同じテンポを持続させることを心掛ける。
去年の四月から八月にかけて『残響』という百五十枚の小説を書いたが、あのときは息を詰めすぎてまわりの空間が少し歪んでしまったような気がしたし、体の調子も具体的にけっこう悪くなった。冬にうちの一番若い猫がウィルス性の白血病を発病して死んだのだが、『残響』を書いたときの空間の歪みが影響したと、ぼくはどこかで本気で考えている。
こんなことを考えるのもまた、小説を書くことを「たいそうなこと」と考えていることのバリエーションの一つだとは思うけれど、とにかく、ぼくは小説を書くのに、息を詰めるようなことはもうしない。ぼくは小説を書くのに、何か他のことを犠牲にしてもいいとか、犠牲にせざるをえない、などということは考えない。
こういうぼくの小説観や文学観を「なまぬるい」と思う人もたくさんいるだろうけれど、他のことを犠牲にしてもいいとか犠牲にせざるをえないとか、そんな理屈は都合がよすぎる。というか、頭を使っていない。『残響』は小説としての達成にはとても満足しているが、書いた態度としてはものすごく後悔している。オリンピックや世界陸上の短距離選手のピーク年齢が、ここ数年で飛躍的に伸びているが、あれはスポーツ生理学とメンタルトレーニングの成果で、「息を詰める」とか「身を削る」とか「何かを犠牲にする」とかしないから、ピークの年齢が伸びた。ぼくは、書くときの自分の「生理」と「心裡」をもっとよく知りたい。」
保坂和志「『季節の記憶』の記憶とそれ以降」より抜粋
(2003.6.15)-10
ぼくは、彼の予想しているとおりの思いを持っていて、「文学は身を削って書くものだ」と思っているし、「なまぬるい」とも思う。そして、それは理屈ではないとも思っている。それは理屈ではなくて、実際なのだ。それ以外にやりようはない。だから、空間を歪ませてやるのは、ぼくにあってはまったく正しい、と思っている。
ゴッホの絵は彼の早世と無関係なものではない。ゴッホはゴッホであったが故にゴッホの絵を描いたのだ。それは理屈でもなんでもない。実際に耳を削がなければ、「耳のない自画像」は描けない。狂気がなければ、あのようなタッチの絵にはならない。そうでなければ、彼の描いたようにものが「見える」ことはないのだ。絵を描くことや小説を書くことは、スポーツよりもだいぶその人自身にへばりついている。そのように生活していなければ、そのようにはできあがらない。
つけ加えなければならないことがある。それは、ゴッホもまた、保坂和志の書くようなものは書けないのである。保坂和志もまた、彼の書くものを彼が書くがために、このようなことを言うのである。「そんな理屈は都合がよすぎる」というのは、「なまぬるい」というのと、ほとんど変りない。彼の書くものは、確かに「身を削って」は書けない。これも実際の話だ。
何度も、こういうことを言うぼくはまるで馬鹿だが、仕方がない。言い続けなれば、忘れてしまう。止めてしまう。文学に何ができるか、文学で何をするのか、そういう問いに、ぼくはどうにか応えようとする。また実際にやってみせようとする。それには、まずそこに「賭け」なければならない。すべてのよい仕事は、そこに「賭けた」ときにはじまる。「賭ける」ということの形態は、仕事によって異なる。保坂和志もゴッホも共に自身の仕事に「賭けて」いるが、その形はふたりのあいだでは非常に異なる。全く正反対のことを言っていても、それぞれ自身の為すべき仕事に賭けているという一点に於いては共通する。ぼくはそこに理屈をつけようとは思わない。人間はそういうふうにできている。それ以上は、役に立たない。聖域だと思う。
(2003.6.15)-11
さて、ふたつめの問いに移ろう。ひとつめの問いがきちんと片づかなかったので、覚束ないが、彼にとっての小説というものについて、ぼくなりの解釈を、きれはしを並べながら少しずつ書いてみることにする。
保坂和志は、文学なり、小説なりを、自然科学的学問の一系統とみなすことから出発しており、彼の文学についてのコメントはあくまでその範疇に文学が留まることを目的とし、その内で方向性を模索しているものだということ、端的にいえば、文学は座興に非ず、ということをまず確認して、ぼくもそれにできるだけついていってみようと思う。つまり、とりあえず、山本夏彦のいう「なに、何でもないのだ」というのは、却下して、ただ保坂和志のことをみてみるということだ。それは、