tell a graphic lie
This document style is copy of h2o.



(2003.5.15)-1
 また少し忙しい。暖かくなって夜明けが早まったおかげで、一週間のうちの三四日を、空の白んでから眠りにつかなければならない日々というのは、やはり、そう面白いものでない。
 常に、周囲の人間との、埋めがたい仕事に対する温度差がある。彼らは、それに対してどのような感想を抱いているにしろ、またいないにしろ、仕事こそが自身の為すべきことの第一なのだ、それより他にはありえないのだ、という覚悟、もしくは諦めを有している。それは、当人の口から聞いたものでないだけ、より一層、直接的にぼくに違和感をもたらす。彼らは実際に仕事以外の時間を削るように常に仕向け、休日を潰すような予定を自ら組み、仕事をするのである。彼らは「休みたい」と半ば嬉しそうに(ぼくにはそう見える)言いながら、新たな仕事を次々と、自身で作り出して忙しがっている。それは、自身の自身に対する意識を意識しないで済むよう仕向けるために、そうしているのだとしか、ぼくには思えない。あの虚無の恐ろしい、「何のために」という問いかけから、無意識的に、しかし必死に逃げ廻っているようにしか、ぼくには見えない。彼らの願望やその他の精神の動きは、ぼくから見れば支離滅裂であり、不思議に思えてならないものだが、しかしそれが技術者一般の標準的な精神構造、即ち技術者の技術者たる所以であるので、従って、そこにある内はぼくの方が異端なのである。見れば見るほど、それは単なる事実としてぼくの裡に入ってくるので、ぼくはどこか悲しくなる。ぼくはまた、ここにあっても欠格しているようだ。「はじめの合意」の、できていないひとりなのである。
 けれども何より、書く時間が十分に取れないので困る。一文節、書き出すまでのあの間抜けな時間は、減ろうとするどころか却ってじわじわと増えて、どうでも自分は必要なものなのだと、今ではぼくに認めさせてしまいそうだ。考える、ということは、ぼくのいう書くことにあって、果して必要な行為だろうか。その一時のロジックで展開する事の軽薄と、違和感をぼくは拭いきれない。それならば、理由や出所は定かではないけれども、ある日、ふと書き出していたことの方が遥かに自然で、当然の、正しいことのように思える。また、見える。そこには直接に考えた事は一切入らないし、また入れることもできないので、ぼくはそう言うのである。そして、益々あの下らない時間が必要だと思えてくるのである。一行を書く十秒には、書かない一時間が必要である。というのを、受け入れ、そして信じなければならないような気がする。書く時間が十分に取れなくて、困る。
(2003.5.15)-2
鴉の声と街の息吹が静かに沸き立つ朝のしっとり濡れて
あるいは、
おもう人をおもうことなくまた眺める夜明けの音
(2003.5.17)-1
 相変わらず失恋、片恋の歌ばかりである。ひどいものである。"night" というタイトルを聴いたとき、なんとまあ、ひどい名前をつけるものだ、と微苦笑を禁じえなかったのだが、開いて聴いてみれば、これは確かに夜である。静かに深く沈み込んだ長い長い夜の、ただ中である。
 他でもない、小谷氏のことである。この水曜に新しいアルバムが出たのだ。今までのものよりも、より一層私的作品の色合いが濃くなった。記述が妙に具体的、かつ直接的になったのである。汎用性を持たせるための肝心のところを、ぼかさずに書くようになったのである。詩ごころ、というものは、すっかり影をひそめてしまったように思える。もしくは勘ちがいをし始めたように思える。けれども、その代わりに、長い夜にはまりこんだ一人の真面目くさった女の、ごくありふれた世間並みの幸福を夢想し、求め、苦闘する姿が、はっきりと浮んでくる。そして、その女は或る女というような曖昧な姿ではなく、確かに固有の名前を有している。輪郭が浮び、涙の根拠が浮び、感情の昂ぶりの理由が浮び、自身の力の限界が浮ぶ。その女は、確かに小谷美紗子という名前をしている。彼女はいま、人生のもっとも地味で、ありふれ、それ故に顧みられることのない夜の闇の中で、やはり他の多くの人間のするようなありふれた事をしている。この夜を明けさせるのだ。それの適うのは、自身の行為の一連の積み重ね、ただそれのみである。この夜にとっての、夜明けまでに進む時間というのは、そういう質のものである。そういったぼくらの生活の、その大体の、ありのままを見せられているようで、ぼくは聴いていても全く驚かないし、ほとんど何も感じない。けれども、ときどきふっと、曲の流れに全く関連なく、実に唐突に涙が昇ってきて、慌てることがある。それは、共振とか共鳴とか、そういう陳腐で幼稚な感覚なのだろうが、そういったものが、実際にはどれだけ必要か、ということを思う。ぼくらは正しく生きるだけではもの足りない。
 別にひとには薦めない。そういったものが必要なものだけが、自らの意思と欲求によって、それぞれに探しあてて、手に取ればいいのである。
(2003.5.17)-2
たとえば、「慰めうた」というものがあるが、誰を慰めているのかといえば、これは小谷美紗子ただひとりであり、他人には何の役にもたたないものである。「せめてヒロインのように 慰めうたを唱いたい 瞼の奥でまた逢えると」惨めな夜の、ひとりの、ひとりのためのうたである。
(2003.5.17)-3
さて、なんだっけ?「なす、ピーマン、プチトマト、きゅうり、小松菜、カブ。これは苗。。。あんず、椿、これは苗木。隣の奥さんのコニファー、夫の姉の、オダマキ、フヨウ、フウセンカズラ。それから身元不明のブルウフラワア。ドーナツ屋のタイム、販促のセキチク、アスター。盗んできたヒマワリ。これらは種核。クレマチス、ナツヅタ、テイカズラ、レモンバーム、ペパーミント、コリアンダー、フェンネル、セラスチウムの苗、苗苗。もうまったく、わからない。。。それから、また種。タチアオイ、ナスタチウム、スノーミックスフラワー、コテージガーデンミックス。宿根草掛ける五。はい。トマト、メロン、サツマイモ、マルバマンネングサ、丸葉万年草であってる?チェリーセージ、これらは苗。つるなしインゲン、つるなしは品名でないのか、はい、ラディッシュ、カモミール、セージ、眼乱ボディ生む、すごい変換、普段どんなの書いてるかわかるな、、、メランボディウム、コスモス、キンギョソウ、るぴなす、ジキタリス、ニチニチソウ、ホウセンカ、ブルーサルビア。これらは種。大丈夫、どれがびんぼくさいかぼくには全然わかりません。それから、ハルジオン。ハルジオンは知っている。とても可愛くて、そうして強い花だ。ぼくらをぜんぜん必要としない。それは、棒きれを振り廻して草っぱらを歩く子供のぼくのよい獲物だった。茎がパリッとして萎れないけれども、それほど硬くないので、子供の振る棒切れの力でも容易くその花は飛んだ。ぼくは中が黄色く花びらが白いその花を、長いあいだそういう目で見ていた。それがきれいな花だと気づいたのは、随分と経って、高校生になってからだったように思う。切り開かれた裏山の端っこの忘れられたような空地の一面、とまではいかなかったけれど、半面ほどにびっしりと咲いていた。そのときはじめて、それがきれいだと気づいた、のだかどうかも、これもはっきりしないけれど、その光景はまだ憶えているし、そのときはもう確かにきれいだと思っていた。まあ、そんなことは、どうでもいい。あとは、ヤマブキと、ドウダンツツジ、これは苗木ね。
(2003.5.17)-4
随分、あるね。まあ、とりあえず、風呂入ってこよう。それから、ひとつずつ検索して調べてみます。母さんの風邪もよくなって、ぼく以上の食欲を示したことだし。なんだかよくわからないけれど、今日はいい日だ。そんな気がする。
(2003.5.17)-5
苧環はきれいだね。こういう影のある花は、好きよ。石竹は、なんだかいろいろと種類があるみたい。。。撫子とは、どう違うのかしら。ああ、撫子の一種なのね。中国撫子。蔓草と香草スパイス、ばっかね。。。立葵は種から育つんだ。詰めあわせ、山小屋のお庭用のお花の種つめあわせ、とはいわないらしい。マルバマンネングサって、雑草じゃねえのか?キンギョソウ、ルピナス、ジキタリス、ブルーサルビアあたりは、鈴生り型ですね。うーん、何という月並みな感想だ。それに当り前だけれど、半分くらいは見たことのあるような気がする。あ、もうだめだ。半分以上、名前と像が結びつかなくなってしまった。まあ、こんな写真でみるばっかりじゃあ、だめだろうね。
(2003.5.17)-6
曇り空も青く発光し、その色に染まる街並
句にならず。夜明けの刻一刻と表情を変える景色の表情を写し取るのは難しい。街灯の消えない街と、白む空との、あの静寂のコントラスト。産み落とされた一日の微かな鼓動と、かもしだされる沈黙の色。空いた道を通り抜ける一台のオートバイ。黙って歩く一人の人間。命は一日いちにち毎に必ず新しく作り直されるものだ、というような言葉を信じたくなる様な、そんな雰囲気。そういったものを十分に写し取るのは、それなりに難しい。勿論、こんな文字の羅列は何の用もたさないものだ。始発の飛行機はまだ飛んでいない。この街に眠って起きて、そうして暮している人間たちの、その一人ひとりの生活を、ぼくはほとんど知ることができない。しかし、ここにはやはり街というものがどうしても存在している。それを構成するひとりひとりが今日も目覚め、それぞれの生活をそれぞれに形づくるのである。まだ眠りから覚めない街を眺めていると、それがなんとも不思議な事のように思えてくる。たった今立ちこめている、この靄の先の景色と同じもののように思えてくる。誰も待つもののない信号機が、規則的に暫くの間、赤色を点燈して、また青に変る。何の変哲もない、静かな日曜の朝だ。けれども、それはやはり新しい朝なのだ。ぼくらにあっては、二度と起りえない、今日という一日のはじまりの、これがその瞬間なのだ。
(2003.5.17)-7
最後に、氏の一曲の、その詞を書き写させていただく。それによって、この先天的にも、後天的にも、どうにも気の毒な女である氏に、軽薄な同情のひとつでも喚起されるようであるならば、さいわい。
(悪い赤)
私の中であなたはPCに向う現代の王子様
想像を超える程 スレていない人だと思った
こんなヒーローがいたら良いのにと探していた人 そのものだった
赤いTシャツを着せたら 恥ずかしがりそうな

すべて 私の思い違いだったのに
まだあなたを好きなのはなぜだろう
何所に行っちゃったの 最初からいなかったの
本当にもういないの いなかったの

映画を見終わって 急に現実に引き戻されるように
私の知ってるあなたは いなかった
とっかえひっかえな秋風と 都会を歩くあなたは別人で
赤いTシャツを着ているあなたは 誰だっけ

赤色なんかあなたには似合わない
似合わない だってそうでしょ
おとなしい笑顔とぶつかっているわ
でも似合ってた 哀しい程 似合ってた

すべて 私の思い違いだったのに
まだあなたを好きなのはなぜだろう
たぶん私が思っていたあなたは
心の中にいるのよ いたのよ

(2003.5.20)-1
「自分を殺すのに、なぜその意思を他者に対して表示する必要があるのか」
これを書くこと自体が、その謎そのものだというのは、多少やり切れないものがある。このことはつまり、その回答をぼくは既に保有しており、問題は、それがわからないことなのではなく、その覚悟が自身にまだ無いことだ、ということを、端的に示している。問いというものは、明確に成立した時点で、回答が決定しているものをいうのだ。自己顕示という根深い因果について、ぼくの知っていることは、まだあまりに少ない。例えば、完璧な孤独を得るまでの、その道のりには、どうしても他人の関与が必要だという、どうやら普遍性を蔵している事実ひとつとってみても。
(2003.5.21)-1
馬鹿な話だって知ってるけど、わかってほしい。
(2003.5.21)-2
「なんで、わかってほしいんだろ?」
「たぶん、ぼくの方がずっとずっと弱いからだ。窒息するんだ」
「ひとりになればいいじゃないか」
「そうだよ。そんなの、当り前だ。でも、窒息するんだよ。暗いところで震えていれば、誰も気づかない」
「でも、声なら聞こえる。あしたの鳥は、やって来る」
「そう、声はきっと、届く」
「わかって、ほしいんだ」
「願いごとだ」

(2003.5.23)-1
フランクス将軍が軍を辞める。以前、米国の次世代戦闘機の開発ドキュメンタリを観たことがあるが、そのメンバは、自身がその全精力を傾けて産みだそうとしている代物が、血と破壊と恐怖とにのみ、その存在理由を有するものであることは全く失念して、ただよいものを作り出す喜びを生き甲斐にしてその生活を送っているのをみて、世の中にはなんとまあ仕合せな連中もいるものだと、つくづく感じたのであるが、彼もまたそれに近い。極言すれば、彼の実直さと勤勉さと良心とは、総ていかに効率的に人殺しをするかという、ただその一点にのみ向けられているのだったが、彼にはその自覚があったとは思えない。彼はただ、自身の職務を忠実に為そうとしていただけなのである。そして、彼らのその姿勢は全く、正しい。なぜなら、この世界に戦争とか、人殺しとか、抑圧とか、制圧とかは、間違いなく必要な仕事だからだ。それは人ひとりの善意の全てを傾ける仕事として足るものがある。だから、彼は誉められていいし、自身の為した仕事について、無邪気な誇りを持っていいのである。武士道というものについて、少し思うところが最近ある。
(2003.5.25)-1
渋谷に出て、久しぶりに洋服を買う。引越しの際に洋服を整理したら、薄手の着物が無くなってしまっていたのだ。薄手のパンツ二本。やっぱり痩せたらしい。ウエスト31inch。32か33だと思っていたのだけれど。裾の丈を直す必要がないことだけが、脚の長いことの唯一の利点だ。それから、Tシャツ二枚。もう時期を少し過ぎてしまったのだけれど、そのせいか思いのほか品揃えが良くて、秋用にと、ジャケットを一着。ようやく買えた。茶色のMが渋谷店にはなかったので、取り寄せになる。これで来週も、また渋谷に行かなければならなくなった。あと、スウェット一枚。これも秋冬用。スニーカーは買えず。見もしなかった。あとは、家の鍵やらiPodやら何やら可やら、日々の小物を投げこむための陶の鉢、ひとつ。一万円くらい。敷物三枚。自転車のベル、ライト。タイヤに空気を入れるノズルを仏式を英式に変えるアダプタ。日本の一般的なのは英式。タイヤが細いので、こまめに空気を入れてあげないと、パンクしやすいらしい。面倒。あとは文庫本。読むよりはやく溜まる。「死の家の記録」ドストエフスキイ。小林秀雄「ドストエフスキイの生活」を読んだので。カラマアゾフの兄弟までたどり着くのいつになるやら。「完本 文語文」「『室内』40年」山本夏彦。文語文礼賛に期待。「この人の閾(いき)」「アウトブリード」保坂和志。レジでレシートを見てから気づいたのだけれど、アウトブリードの方は、930円もする。文学ノートのような内容なのに、今日買った中では一番高い。本の値段の間抜け。「グレート・ギャッツビー」「短編集」フィツジェラルド。ジャケ買い。それから、「サンクチュアリ」フォークナー。目に入ったので。買ったけど、いつ読むのかはわからない。まだ「赤と黒」も読んでないし、「存在と時間」という大物も本棚の奥にはある。
(2003.5.27)-1
たとえ同じときに同じ場所に在ったとしても、躰の向きがちがえば、ちがうものが見えるんだ。半歩進むたびに、それを確認しなければならない。
(2003.5.28)-1
フィツジェラルド、意外とよい。といっても、まだ「短編集」のはじめのひとつ、「氷の宮殿」を読んだだけだけれど。勿論、太宰には劣るのだけれど。何より、そこに観念も思想もないことが、今のぼくには心地よかったのだ。衰退期の南部の若い女を扱ったその物語を織り成すものは、彼女の主観的な視線と感覚だけであり、辛うじてそこにつけ加え得るのは、作者たるフィツジェラルドの、凝っているけれども若々しい彼女の主観の描写だ。小説を一本仕上げるその土台には、明確な思想とある程度の厚さを持った観念の層が必要なのだ、という前世紀の半ばまでに搾り尽くされ、現代ではその名残すら殆ど見つけることの適わぬ方法論を奉じて、進めるのは正直いってつらいし、馬鹿馬鹿しい心もちなんだ。かといって、娯楽性や夢を与えるなんていう、センスのいる作業もできないぼくには、こういう作品は大いに力づけられるね。

(2003.5.28)-2
現代に残っている思想といえば、単体となってしまった今となっては思想とも呼べない、功利主義というやつだけだし、その表出となれば見るも無惨で、刹那的娯楽と有言実行礼賛が空まで覆っているという有様だ。それはあまりに健康的な、ほとんど間抜けづらした、単相の世界で、ここでは誰も不幸に押し潰されたまま生き続けようとしない。そんなのは実に馬鹿げた生き方で、今の世界にあっては、そこに一分の美しさも認めることができない。信仰は、方便の極く浅い意味での言い替えに過ぎないのに、それすら必要としていない人間が過半数どころか、八割九割を占めている。目覚めてから、眠りにつくまで、一秒たりとも生存についての思考をせずとも何十年も先までの生存、ほとんど無価値と言っていいほどの、極めて消極的な意味での生存が保証されている。百人集れば、百人が同じ価値観のもとで議論をするから、サッカー大会のようなわかりやすい熱狂しか認められない。誰もサッカーボールを抱えて自分のゴールへ飛び込もうとはしないのだ。そんなことをしたら、どうなるか。試しにやってみればいい。なかったことにされる。お手上げだよ。

ああ、君。今ここに書いたものは全て「あらゆる時代的に普遍的に存在する「現代」に関する浅薄な否定的見解」というものだ。そこのところを忘れないで居てくれたまえ。それは何の言葉も持たない少年が「現代は生きにくい」とぼやいている姿よりも、狡猾で醜悪なものだ。なぜなら、その口の減らない老猿は、その皮膚の沁みやひび割れを身に刻みつけたのは、自身の攻撃するところの現代に浸かることによってのみなのだからね。それが聞えて来る場所というのは、きまって場末の酒場のカウンターなのだからね。ひと一人も理解せず、幸福にもできずに、酔った赤い顔で罵っているのだからね。

な、わかるだろ。なかったことにされてしまうんだ。
(2003.5.30)-1
風がだんだんと強くなる。日本上空の衛星写真いっぱいに、解けた帯のようにだらしなくぶちまけられた、少し気の早すぎる白い雨雲を観て、不思議な気がした。いちねん、経ってしまった。何にも作らずに。(実際の経過時間、九ヶ月に較べて、という程度での)もう少しで出来上がるはずのそれも、何か作った、と言い得るような代物になったかどうか、未だによくわからない。表題も、決まらない。何を書いたのか、自分でもよくわかっていないからだ。またはじめから読み返してみると、なんだか恐ろしく薄っぺらいもののように思われるけれども(読み返すたびに、毎回評価がまるで違う。これでいいのだと思うこともあれば、反対に、とてもやりきれなくなることもある)、さしあたってのぼくの力というのは、おそらくこの程度のなのだろうというのは、いちばん尤もらしい他人事の見解のようにみえるので、おそらくこれが妥当なところなのだろうと思っている。梅雨の前にやって来た、このだらしない容姿の台風は、もう今年の四つ目になるそうだ。
(2003.5.30)-2
今日、ふと気づいたら、景色が夏色に変っていた。路傍に咲くハルジオンは植え込みの低い山茶花よりも背を高く伸ばして、その先端に、十ほどのあの小さな白い花をつけていた。見あげれば雲は白く輝り返っているし、青々とした木立の葉の色と影との眩しいコントラストも、そこにはもうあった。ぼくはいつの間にか自分が単衣の日々になっていることを思い出して苦笑した。見なくても、いきてゆけるのだ。ぼくは堪らない気持になった。実際、それは堪らなかったよ。立ちどまりそうになるほどにね。引き返して、篭ろうかと真剣に考えるほどにね。
(2003.5.30)-3
ないものに憧れるのは、当然じゃあないか。それに対して、一種の劣等感を持つのも、また当然じゃあないか。
「あたしが愛するように、あなたも愛してちょうだい」
そんな言い方、できるもんか。
「あたしがあなたを愛するのは、あなたがあたしを決して愛さないからよ。あたし、あなたといると、あなたと喋っていると、あたしの全て、身体から心から、行動から、感情から、それからもちろん欲情も、ぜんぶ意味のないもののように思えてくるわ。だから、あなたがやさしい言葉をかけてくれても、全然それを信じられないのよ。あなたが我慢できないほどの嘘つきの軽薄な男で、ただこの場を取り繕うためにそれを言っているのだとしか思えなくて、いつもいつも堪らなくなって、泣き出しそうになるわ。あなたがあたしにかける、どんな言葉も信じられなくなるわ。ねえ、あなたはあたしを愛せるかしら。あなたを信じない、あたしを愛せるのかしら。あたしがあなたを愛していたら、あなたはあたしを愛せないんじゃあないかしら。それがほんとうなんじゃないかしら」

(2003.5.30)-4
台風のきれっぱしの雲が薄く空一面を覆っているけれど、一箇所、晴れた日であればちょうど、日の出の太陽が上昇する線上に、水平に薄く雲の切れ間が入って、そこだけがオレンジ色に眩しく輝いている。ちょうど今、そこを太陽が通過しているのだ。太陽が放つ光量は。陽の照らぬ日にも、間違いなく太陽は頭上にあるのだということは。
(2003.5.31)
また読み返した。これは何でもない、ただの日記だ。ぼくがでっちあげたひとりの都会に暮す人間の、その一日の日記だ。それ以上にはなりえない。ということは、ただの日記をぼくは九ヶ月以上もかかって書いていたわけだ。だから表題も「台風の日」の他になりそうにない。あと最後、ちょこっとどうでもいい、わかったようなことを書いてできあがりだ。長かったな。これでようやく次へいける。九ヶ月前から、次は何を書こうか、考えるのをやめていたから、きっとしばらくは、そういったことに関しては呆然としていなければならないだろう。その間に、「葉」を作ってしまえばいい。ぼくの「葉」は「双葉」程度のものになりそうだ。


< >












kiyoto@ze.netyou.jp