ヒロ君との旅

― 2014418日〜25日 ロス⇒グラ⇒モニュ⇒アンテ⇒ラス ―

2014425日(金)午後7時頃、一週間ぶりに家に帰ると我が家の紅花トキワマンサクは完全に散り、代わりにハナミズキが例年に増して満開だった。


 
紅花トキワマンサク(全盛時) ハナミズキ(帰国時)

でも、成田から家に着いて木戸を開けた時の感覚、風景がいつもと違う。いつもは一人、電車。今回は成田から4人、しかも横浜までリムジンバス。いつもほとんど9月後半、庭の伸び放題。今回は芝生の伸び方が出国前と変わらない。わずかに変わっていたのはトキマンとハナミズキだけ。


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プロローグ

2014418日(金)、ヨーコさん、ユキコさん、そしてタマエさんの女性3人と私とで成田からロサンゼルスへ向かい、ロス空港でヒロ君と2か月ぶりに再会した。前回会ったのは2月の13日。8日に降った大雪の後で、横浜の鶴見でも道路端の陽当たりの悪いところでは、積み上げられた雪が埃をかぶって残っていた。ヒロ君の実家から車で5分位の郊外レストラン「ガスト」で、4人で今回の旅のことを打ち合わせた時だった。もう一人の旅行参加者タマエさんはお母様の介護で来られなかった。ヒロ君は12月にも来日していて、3か月に2度、ロスでの再会を含めると実に5か月に3回会ったことになる。ロスからは七日間連続でずっと一緒だから、私にとって同期生でこんなに濃密にご一緒するのは初めてであった。

一方、ヒロ君にとっては若かりし頃オー君がロス滞在中に一緒に過ごした事があったし、しかも異国の地であったから、彼とはもっと濃密な付き合いであったと思う。

12月のヒロ君の来日目的は彼の奥さんの一つ違いの妹さんが大宮に入院されて、そのお見舞いを兼ねたものだったが、今回は残念ながら妹さんの急変、そしてご葬儀となってしまった。

今年の大雪は一度では終わらなかった。4人が打ち合わせをした翌日の2月14日(金)、またしても、そして前の週をさらに上回る大雪に見舞われた。ヒロ君たちはあの大雪の中を大宮までご葬儀に向かい大変な思いをされたと後から聞いた。


ヒロ君は高校の同期生でクラスも違うし、23年前から同級生のオー君から話は聞いていたものの、まったく面識はなかった。

マウスを写真に移動させて見てください。

もちろん、高校3年間は同じ学校に通っていたことは間違いない。ただ記憶がなかった。
ヒロ君は大学の卒業式を待たず、単身アメリカに渡った。不法入国に近かったろうと思う。何とか職を探しながら、偶然に知遇を得て、伴侶を得て、ロスに居を構えた。そんなヒロ君と会うきっかけは、私がクラスメイトに声を掛けて78年前から始めた母校のすぐ隣の三ッ池公園での花見会で、しばしばオー君から彼のことが話題になっていて、何となくそんなヒロ君の人生が気になっていたからだ。

いやヒロ君だけでなく高校卒業後シベリアからヨーロッパを経てロンドンで語学を習得し、アメリカへ渡ってロス滞在中はヒロ君と一緒に過ごしていたというオー君の人生にもドラマチックなものを感じていたからだったと思う。

201247日に恒例の花見会を行った翌週にオー君からヒロ君が来日するとの連絡が入り、彼が5組メンバーに連絡を取って歓迎会が行われたのが415<日)。その日私は中古車の下見に息子、家内の3人で御殿場に行き、その帰りに何とか間に合って5組の臨時クラス会の中に飛び入りのような形で入り込んだ。5組のメンバーの連絡役はヨーコさん。「私が連絡した女性みんなヒロ君のことを覚えていないのよ。全員欠席!私だけ。」

恐らくヒロ君はそんなに目立つタイプの人ではなかったのだろう。非常におとなしい、物静かな青年に見えた。同じ同期生というのに。少なくとも決して単身アメリカにわたるような人には見えなかった。集まった7人の内、5人は5組。私とオー君が4組。今回アメリカへ同行したのも私以外は全員5組。不思議なものだが、これが同じ学校で多感な時を過ごした良き縁でもある。一目会って、私は彼にその物静かな雰囲気の中に隠されている何か燃え上がるものを感じ、ますますそれが何だか知りたいと思った。
それが彼との最初の出会いだった。

 

そして1年前2013年4月13日(土)、もう桜が散った後、京急鶴見駅近くの美食苑のお花見会(花はないので単なる飲み会)。本当にヒロ君は来てくれた。この時は10人参加。(7人が4組、3人は5組) 推察するに、60代半ばを超える年代になると故郷の友が懐かしくなるはずで、オー君の誘いに迷うことなく決めたのだろう。私はその席でみんなに「来年はロスで花見をしよう。」と提案した。
ロスへ行こうと思った直接の動機は彼の人生に興味を持ったことだが、かなわなかった自分の思いとも重ね合わせていたからだろう。それに、わざわざロスから来てくれた感謝の気持ちと、そのお礼の意味もあった。

 

私たちは全員67歳、私以外は全員同級の高校同期生男女5人という不思議な組み合わせだ。同年代で同じ高校に通ったのだけれども、私にとって他の4人は、ついこの10年前までは全く記憶にない。それが一緒に一週間も旅をするようになれるのは、時代と空間を共に過ごした母校での良き縁であろう。それでも、たとえすぐに気心は通じても、時々物の見方や感じ方などの男女違いを感じさせることはある。そういえば社会心理学者の島田一男氏が日経新聞の連載「女類学入門」の中で、「人類と一口にいうが、男と女を同類として論じるべきではない。男類と女類に分けて論じなければならない。」という提起で書かれていたのを思い出した。(読んだのは私が学生時代のことで確かではない。) 今回『なるほどその通り。』と思うこともしばしばあったが、『男類と女類は明らかに違うのはわかるが、女類として一緒に論じるのはこれまた無理があるかなあ?』と思ったりもした。男類と女類の違い、女類の中でもいろいろな個性があって、それを素直に受け入れよう。そんな気持ちにさせる広大な景色。不思議な、そして今までにない種類の楽しい旅だった。

 ロスへの旅の最初のテーマは「ロスで花見を」であったが「桜」はとっくに散っていた。でも青紫の「ジャカランダ」が見事で、ユキコさんは何度も花の名前を思い出しては復唱していた。

この年代になると新しいことを記憶するのは容易ではない。それは異常なことではなく極めて正常なことなのだ。「正常なる老い。」である。悲しんだり恥じたりする必要は全くない。

今回、同級生20人近くに声を掛けたのだが、それぞれいろいろな事情があり、結局参加したのは5人。行きたいと思いつつも参加できなかった事情の一番は「介護」。この年代になると親をはじめ介護が切実な問題である。参加したメンバーにも妹さんに介護をお願いしたとか、3月に身内が亡くなったとかがあった。

そういう自分も、介護の問題こそなかったが、専務理事をしていたNPO法人内のトラブルが続いていたり、2月に腕の痺れからパソコンや車の運転が出来なくなりして、行かれるかどうか深刻に悩んだりした。しかし提案者が辞退することがあっては絶対にならない、と心に決めリハビリ(筋トレ)に励んだ結果、4月になると痛みは少なくなり、出発する頃には完全に治った。NPO内のトラブルは帰国後も続いているが、外国への旅は気分転換になり、新たな人生に向けて再出発する良いけじめとなった。

とまあ、こんないきさつと出会いがあって5人の旅は始まった。




418<金)

 

 無事JAL62便は着陸し、入国審査。

これが結構楽しい。短い会話ながらその国の政治状況、管理官の人柄、異国人に対する態度、などが垣間見える。

1990年代の頃、毎年のように9月敬老の日と秋分の日を挟んでスコットランドに行っていたが、ヒースロー空港で女性入国審査官に「どこへ行くのか?」と聞かれ胸を張って「スコットランド」と答えたら「スコットランドはイギリスでしょ。」と言われ「ノー。スコットランドはスコットランド。別の国。」と論争になった。『ここで我を張って彼女の機嫌を損ねても良いことはない。』と割り切って話題を変えた。イングランドとスコットランドは仲が悪い。それもそのはず、連合王国といってイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは別の国だから。・・・

この話は、自分で体験した逸話も多く、書き始めたら切りがないので別の機会にして、若い係官(中国系?)に「目的は?」と聞かれ、素直に「To see Cherry Blossom」と言ったら「それは日本だろう。」睨まれた。それからは気まずい雰囲気。アメリカは9.11以降変わった。

 預けた荷物を受け取って出口に向かう。ヒロ君の姿が見えない。そのうち4人が揃ったところでヒロ君登場。レンタカーの手配に手間取ったらしい。

駐車場に行き、車を探すが見つからない。やっと見つけてトランクを開けようとするが、ピー・ピーと警告音はするがなおも開かない。「トヨタでしたよねえ?」という私の言葉に気が付いて「ああそうか。」。ドアを開けようとしていたのは日産車だった。出だしから彼のジョークかと思ったが、私と違って滅多にジョークを飛ばすタイプではない。演技にしては迫真過ぎるものがあり、これには皆でこけた。

私も国際免許を取っており、交代で運転する予定だったが、レンタカー会社に名前を登録しなければならなかったのにその時間がなく、おまけにレンカーカー会社のオフィスがラスベガスまで見つからなかった。そのため私が運転したのは行程五日目のラスベガスからロスまでの1日だけであった。

 まず、ルート66のエンドの標識のあるサンタモニカへ、その次は急坂を上りハリウッド。一先ず駐車場を探し、カメラを持ってアカデミー賞授賞式が行われるドルビー・シアター(旧コダック・シアター)を目指す。通りは観光客が一杯。通りにはスパイダーマンやバットマン、海賊、スターウォーズなどのキャラクターがうようよ。「キャー」というような声がしたと思ったら、ヨーコさんがトランスフォーマーに頭をなでられた。

 悔やまれるのは、せっかく日本から持って行った能面(私の顔の)を車中に置いてきてしまったことだ。2011年夏、演劇の街として世界的に有名なスコットランドのエディンバラ。街の随所でパントマイムや仮装、パフォーマンスをやっているフェスティバル真っ最中に、兄が作ってくれた能面をかぶって歩き、街行く人から一緒に写真を撮ってくれと頼まれたりして街の雰囲気にすっかり溶け込んでいたあの楽しさをまた味わいたいと思ったのに。


でも、ハリウッドとエディンバラではどこか雰囲気が違っていたからだと思う。あえてお面を取りに戻らなかったのは。

その違いを今思い返すと、エディンバラは街全体が中世のような雰囲気があり、街全体が盛り上がっていた。街を歩く観光客もどこかゆったりしていて皆が余裕を楽しんでいる感じで歩行者も主役だ。ハリウッドはどこか人工的な雰囲気で安っぽいし子供っぽい。盛り上がっているのはほんの一角で、主役は演者だけ。せかせかして時間に追われているような雰囲気を感じさせた。要するに、素人がお面を被って歩くような場所には思えず、いまひとつこちらの気分が乗り切れなかったためだろう。

 授賞式の行われる劇場のすぐ近く、紅茶の専門店で遅い昼食。アメリカは紅茶よりもコーヒーと思っていたので意外な気がした。昼食後劇場のあるビルの階段を上がってハリウッドの看板を望遠カメラ越しに撮ったりした。

Irvineに戻り韓国人経営の中華料理屋で夕食。旅の始まりとヒロ君との再会のけじめとしてbeerを頼んだがアルコール類は一切置いていないと。あー。

La Quinta Innに宿泊。





4

419日(土)

 

 早朝にホテルを出た。運転席にヒロ君、隣に私、後ろに女性二人、最後部に一人。

真ん中の席の間に昨晩買い込んでおいた朝食や飲み物を積み込んだ。Irvineからロサンゼルスを抜けてR15に入り、車中で朝食となった。そして⇒R15BarstowR40WilliamsR64R180⇒と順調に走り、グランドキャニオンが近づくにつれ雲行きが怪しくなって来て、ゲート付近で記念撮影をする頃には傘をさすことになった。

サウスゲートではヒロ君が「シニア5人」と言って料金を払おうとすると「今日はフリーです。」ですと。何とラッキー。次いでヤバパイポイントに到着。ここは1999年に当時中学1年の息子と一緒に夕日を見た場所で思い出深い。一緒に来たのは何年だったかを調べるために私のホームページを久々に見たところ、宿泊したのはブライト・エンジェルのマズウィック・ロッジだった。今回は正確にはBright Angels Lodge and Cabins だが、多分同じ系列だろう。前回は一戸建てのロッジでもっと広かったように思う。

15年前の1999年夏、夕食に出るのが少し遅れ、どこのレストランも満員でずいぶん並んだ、やっと食べ終わって外に出たら真っ暗。出入り口のステップを降りようとすると、足元にハリネズミのような小動物がかすかに見えた。二人で暗がりの中を歩き出すと何やらうごめく動物が。

馬には小さく、犬にしては大きすぎる。暗闇と先ほどの小動物とで二人は既に恐怖心にとらわれていた。「ひょっとしてコ、コヨーテ・・・。」とつぶやいた途端・・・。(続きはホームページの息子の日記が詳しい。http://home.netyou.jp/kk/ohsawa/

 そんな記憶が残っていたので、今回はホテルに着くなりレストランの予約をした。

420日(日) 

起きたのは早朝4時半頃だったと思う。日の出を見たくて外に出た。寒い。部屋に戻ってこの時のためにだけ持ってきたカシミアのセーターを着る。同じ目的の観光客がいるが、さすがアメリカ、日本ほどのごった返すような人数ではない。やがて全員が揃ってゆったりと散歩。ヨーコさんが走ってきて「ああ息が切れた。」と言っていたがここは標高約2250mm。無理もない。

さあ出発。Here we go. グランドキャニオンの景色を惜しむように、ゆっくりとナバホポイントなど別のポイントにも立ち寄り、たっぷりと時間を取って景色を眺める。昨日と違って雨上がりのきれいに晴れ上がった景色はとても新鮮だ。

 

この頃になるとそれぞれの持ち味を生かして、秀逸な洒落やジョークが飛び交うようになって来た。ヤバパイポイントを「やばいポイント」「よぼパイポイント」「よぼよぼポイント」・・・など。さすがに「でか××ポイント」は遠慮があった、かな?

受けないジョークには後部座席から「首絞めたろか?」とか「スカーフ」とかの声が飛んできた。I will kill you. というのは素晴らしいギャグだったが、これはユキコさんの旧姓とkill you を掛けたものだが、分からない人は分からないで良い。

このギャグ(スカーフ)はその後車中でずっと続くことになった。

グランドキャニオンは標高が高いが、前日は少しずつ少しずつの登りになっていたので気がつかなかった。今日は別のルートを通ったためか急坂が続く。R64R89R160KayentaR163⇒など、うんざりするほど同じような、でも少しずつすこしずつ変化してゆく景色を見ながら、モニュメントバレーに近づく。

川端康成の「トンネルを出たらそこは雪国だった。」ではないがR163に入ったら急に景色が変わった。砂漠の中に巨大な岩、岩、岩が現れてきた。

そして、いつの日からか脳裏に焼き付いているあのモニュメントバレーの巨岩群が現実となって近づいて来た。いや我々が近づいているのだが、感覚としてはイメージ、幻がどんどん現実になって来る、そんなデジャーブーのような感じだった。

私の第二の故郷であるスコットランドを旅していた時、バグパイプの音が聞こえて来て、横にいた日本人のおばさまが「あ!この笛の音。これこれ!ずっと前に聴いたことがあるわ。懐かしい。きっと私の祖先はコットランド生まれなのかも。」と言っていたのを思い出した。

まあ、ちょっとミーハーかもしれないがそんなところか。

1999年に、グランドキャン、ラスベガスは来たことがあったが、モニュメントバレーは初めてで、自分にとってはここが最大の念願ポイントだった。期待にたがわなかった。

 さっそくホテルにチェックインして、ヒロ君の運転で広大な敷地の中のデコボコなんてもんじゃないオフロードを、そして最後は登り切れなくて3回目にやっと脱出できたタフな砂道を回った時はもうすっかり大満足。「いつ死んでもいい―。」とまでは言わないが。

みんな頭の中の日本スイッチがすっかり切れて、完全に頭の中が空っぽ状態。出るのはため息ばかり。頭の中が空っぽになると人間素直になれる。素直に何でも受け入れることが出来るようだ。だから5人は(程度の差はあれ)さらに素直になって行った。宿泊はモニュメントバレーを目の前に望むナバホ族が経営する The View Hotel。 雄大な形式を見ながらホテルのレストランで夕食。そして念願のスケッチ。

空っぽになった頭の中に、体全体に太古から続く地球の歴史の重みが満たされてゆく。

そして満天の星空、と行きたかったところだが残念ながら曇って来てはっきりしなかった。それでも大熊座はしっかりと確認できた。

やがて、満たされた心とともにヒロ君と私は贅沢な眠りに入った。

421日(月)

 

 もう何曜日だか、何日だかなどどうでもよくなって来た。それでも夜明けは来る。

薄暗いうちに目が覚めて静かにテラスで日の出を待つ。少しずつ少しずつ暗さが取れ、黒い世界から色彩の世界に入り、その色彩も紫から少しずつ黄色味から赤みへと変化してゆく。その都度シャッターを切る。しっかりと目に留めてスケッチを始める。

今朝は散歩なしの朝食。早々に食べ終わってレストランからバルコニーへ出てスケッチに固形水彩で色付けをする。

スケッチ2枚(共に部屋から)
 

今日の行程は長いので支度をして出発。昨日来た道を戻ってPageを目指す。相変わらず快適な道が続いたが、Pageまで峠を越えてもうすぐというところで通行止め・迂回の案内。

車を止めると案内の人が寄って来て、「あそこに見える峠が道路崩壊のため来た道を引き返して新しい道を行くか、ここから左折して山道を通るかどちらか。」とのこと。前者を選べば引き返す分時間としてはロスだがPage、アンテロープに行かれる。後者は近道だが当初の目的地には行かれない。」後者を選び途中まで引き返し別の道を行く。約2時間のロス。

Pageの町に入ってアンテロープ・キャニオン・ツアーの案内所を尋ねるべく、モービル・ガスステーション跡地を利用したコンビニ風の建物に入るとそこが案内所だった。もちろんシニア料金で申込み、待ち時間を利用して、私はドル小切手を紙幣に交換するべく銀行に。他の4人はス―パーへ昼食を探しに行く。

最初の銀行では交換できないと言われ、すぐ近く(と言っても10分位歩いた。)の銀行を紹介され無事に交換完了。中に入ると他に客はいなく、行員が一斉に「ハロー」「ハーイ」と声を掛けてくる。入った途端に心が軽くなった。そのうち「質問しても良いですか?」と言われ、『ひょっとしてまた怪しまれて色々聞かれるのかな?』と思ったりしたが、その女性はニコニコしながら「日本人ですか?」「はい。そうです」「私が日本に行くとしたらにビザは必要ですか?」。一瞬『はっ?』と思ったが、尋問ではなく個人的な質問なのだと分かってほっとした。「恐らくいらないと思いますよ。日本からUSAへはESTAOKでした。」 こうなると会話が弾むが、皆を待たせてはいけないので切り上げて合流する。スーパーで寿司などを買い、店の前の椅子に座って昼食。

 荷台に長椅子を載せたトラックが数台、それぞれにツアー客の名前を呼んで乗せて出発。客が集まったトラックから順次アンテロープ・キャニオン・ツアーへ Go

我々のガイドはナバホ族の大男。トラックの後部を閉めるときに「日本人だね。コンニチハ。サバク ジャンプ ジャンプ。タノシイネ。」とほぼ日本語も完璧。国道をしばらく走って、いよいよ砂漠へ入って行く。これがまた良く弾む。

もういや、という位デコボコ道(道はない)を走って洞窟の入り口に着く。「みんな集まって。」とインストラクション。「中は狭い。帰りの人も通る。だから右側を歩くように。撮影ポイントで止まるから勝手に前に行かないこと。フラッシュは焚いてはいけない。サア イクヨ。ミギ アルイテ。」 完全に我々を意識している。これ以後半分はニホンゴ。」 感心したのは、注意事項にもかかわらずフラッシュをたく人がいると、一人ひとりカメラを取って設定を直していたことだ。色々なメーカー・機種があるのに。

狭い洞窟を立ち止まり、立ち止まり、説明そしてカメラを手に取って撮影までしてくれる。洞窟の出口=折り返し点、では首にかけたインディアン・パイプを吹いてくれて、一緒に写真撮影に入ってくれた。そしてまた来た洞窟を戻った。



帰りは来た時以上にスピードを上げてデコボコ道を疾走だ。「わ〜。」とか「キャー。」「ぎゃー。」の連続。うっかりしゃべると舌を噛みそうになる。だんだんコツを覚えて来て、馬に乗るように(よく考えたら馬に乗った記憶は高校時代の阿蘇のふもとだけ。しかも馬は歩いただけで、走った馬には乗ったことがない。)体の力を抜いて馬に、いや車の振動に預けてしまえば良いことに気が付いた。跳ね上がる時は、それ以上に跳ね上がって。遠回りしただけのことは充分あった。ありがとうヒロ君。

 さて、昼食後の大変荒っぽい腹ごなしも終わって今晩の宿泊地ラスベガスへ向かう。R89R9⇒と通って、ザイオン国立公園を抜けて⇒R15⇒へ。すっかり暗くなる頃レッドロブスターで夕食。そしてまた夜道をラスベガスへと下る。

やがてラスベガスの灯が見えてきた。下り道がずっと続くので街が良く見える。とてつもなく広い。さらに今も広がっているという。

市内に入りMGMホテル2330着。このホテルは15年前に息子と泊まったが、その時はもっと華やいだ雰囲気があったように思う。

チェックイン後私以外はホテルフラミンゴを目指して夜のラスベガスツアーへ 繰り出した。ここまでドライバーは長澤さん一人。長時間お疲れ様でした。


422日(火)

 

 昨晩は午前1時頃だったのではないだろうか、ヒロ君達が帰って来たのは。

私はしばらくTVを見たりしてベッドで少しうとうとしていたようだったが、ドアが開いた音で目が覚めたものの何時だったかはっきりしない。

それにもかかわらず7時半頃だったろうか、ヒロ君はそっと音を立てないように着替えていた。「あれ? もう起きたのですか? 昨晩遅く、いや今朝早くかな? 帰って来たのに。眠くいないですか?」「今日も長距離だし、皆が起きる前にガソリンを入れておこうと思って。」

この辺がヒロ君の優しさ、親切さだ。それは今回の旅の間一貫していた。

「だったらレンタカーオフィスに先に行って私の国際免許証を登録しましょう。運転しますよ。」 と二人で先にチェックアウトする。レンタカーオフィスはすぐに見つかった。

さっそくここから私がドライバー。市内を抜けてR15を南下する。

ここからの道はヒロ君の言う通りの道を運転したのでよく覚えていない。目的地はかつてヒロ君が訪れたことのある一面のポピー畑。それを探して思い出しながらひたすらドライブ。途中砂漠の真ん中に大きな飛行機がならんでいたが空軍基地だとか。インデペンデンス・デーの映画のような風景だった。

何回か迷って何とか目的地を見つけて園内を散歩。ガラガラヘビに注意、などという看板もある。

初めての右側通行だったがそれほど難しくはなかった。特にハイウェイはみんな高速運転に慣れているので車線変更もスムーズ。ただし、どうしても車線の右側に寄ってしまう。右ハンドルの癖が出てしまうのだ。何より勘違いしやすいのが左折。つい日本と同じ感覚で反対車線に入ってしまう。「車は右!」とヒロ君が声を掛けてくれるが右折は間違えないのだが、車が来ない時などの左折はつい日本と同じに曲がってしまう。

とにかく走って、走ってロスを目指す。交通量の多いロス市内の道もスムーズに走って夕方Irvine着。18日に行ったときに水道の故障のため臨時閉店だったシーフード料理店にて夕食。

久しぶりのLa Quinta Inn

423日(水)

 

 明日は午後1時過ぎに出国なので、今日は帰国前の最後の休日。ロス市内・郊外を主に海岸沿いにドライブ。西海岸の暖かい日差しをたっぷりとのんびりと浴びながら豪邸見学となった。「百聞は1写真に如かず。」ここは文よりも写真で。

マウスを近づけると

昼食はどこで食べたか忘れてしまったが、必死に思い出して…。海岸を見下ろす丘の上の公園の横に停めた車の中だった。

いよいよレンタカーを返しに行く時間となり、ヒロ君邸(写真下段右)に寄る。ヒロ君の奥様がお茶を勧めてくれて素敵なお庭でしばし歓談。妹さんを亡くされた悲しみで沈み込んでいらしたと伺っていたので、この出会いが少しでも元気になられるきっかけになればと願いながら。

 さて、奥様との別れを惜しみながらヒロ君の車と2台でレンタカーオフィスに向かう。

これで3000Km強走った車ともお別れ。最後の晩餐は奥様お勧めの日本食、といっても海外に良くある超高級日本食レストランではなく、うどん、天ぷら、かつ丼など懐かしい庶民的な店で、それが嬉しい。今回の旅は食費がかからなかった。

まずアルコールを飲まない。私も遠慮して飲まない。(飲みにくい) そこで初日にスーパーでジャックダニエルを一瓶買ってホテルでヒロ君と飲むことになったが、彼もあまり飲む方ではない。酒を飲まないということはいきなり食事。これって家内の家系の法事と同じ。それまでは法事というと皆でお酒を飲んで、というものだと思っていたが、家内の父が亡くなった時の法事であいさつの後皆一斉にご飯を食べだしたのでびっくり。義父の弟さんが気を遣てくれて二人でビ−ルを飲んだが落ち着かない。

食費がかからなかったもう一つの訳はみんな小食。だから太っている人は誰もいない。ヒロ君などは筋肉質そのもの。

食べ終って、お店の前のテーブルで旅行中の清算。出納係はヨーコさんが担当してくれた。大役お疲れ様でした。

清算も終わってスーパミサワで買い物。ここはかつてヤオハンの経営だったが、本体倒産後現地の人たちが買い取って再建したとかで、紀伊国屋だの資生堂だのも出店していた。入り口には立派な兜が飾ってあった。そうか来週は5月、お節句か。

ホテルに着いて、チェックインして最後の晩をカラオケに繰り出す。他に客はいない。

日本人のおじさんが応対してくれた。2時間ほど歌い終わって誰かが「出身はどちらですか?」と聞いたら怪訝そうな顔をして「えっ? アメリカです。」 こちらでは、日本人の顔をして日本語をしゃべっていても日本人とは限らないのだ。日系人というのが正しいのだろう。国って何だ? 日本人の定義って何だ?

 

424日(木)

 

 いよいよこの旅も終わりに近づいている。8時にヒロ君が迎えに来てくれた。今度はレンタカーではなく彼の車だ。ロス市内に入り、空港へ。チェックインしていよいよお別れ。ゲート付近で振り返りもう一度手を振る。

 

425日(金)⇒冒頭へ

 

最後に、今回一番参加を希望していたオー君とN君が、残念ながら事情で参加できなくなり、とても心残りだった。二人も同じ思いだったのか、二日目後半あたりからどうも後ろの座席に私たち以外に人が乗っているような気がして、肩が妙に重たかった。

二人への報告として、本文を書き終わってやっと肩の荷が下りたような気がする。

 

「ヒロ君との旅」・・・終わり


 


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