争いのない世の中は






 聖域から届いた木箱には厳重に封が施されていた。幾つもの関所を通過した証に、異なる言語の連絡票が何枚も貼られている。
 粘着力の強いテープをムウは小刀でこじる。シャカが淡々と呟く。
「なるほど。この中に、女装用具一式が入っている訳か。」
ムウも小刀を動かしながら淡々と応じる。
「『女装』ではなく、聖衣が到着するまでの補助的装具だ……よし、開いた。」




 ムウは注意深く木箱を開けた。かすかな聖域の匂いとともに、黒い布が現れる。頭から手の甲、足首まで覆える大きな布である。それを取り出すと、下には、珊瑚、琥珀、トルコ石、縞めのう…じゃらりと音がしそうな、石を連ねた装身具が裸のまま散らばり、またその下に黒い布が1枚、更に下には小物を納めた紙箱が3つ、隙間を空けずにぴっちりと詰められていた。
 「いや、君の言う通り…女装なのだな、実際…。」
紙箱から出てきたサンダルは華奢な造りで、その高く細い踵をひと目見るなりムウはため息をつく。
「観念したまえ。ここでは髪の長い男も髭のない男も認められぬ。無駄な衝突を回避し、安全を確保するためにも、我々は女性の扮装をするべきなのだ。」
蛇と野葡萄が絡み合うモザイクの天井画の下、シャカの声は涼しく響く。
「…楽しそうだな。」
「何も楽しんでなどいない。聖域の指示に従うまでだ。」




 手首に腕輪をはめようとしたムウは、金具が固いと言って顔をしかめる。
 シャカは身に纏う布を広げる。何の変哲もない真っ黒な布切れかと思いきや、漆黒の絹糸と黒曜石のビーズで細密な文様が刺繍され、横糸を抜いて作った房飾りに両端を囲まれた、手の込んだ方形布である。ふたりともそれを頭から被り、髪も体の線も、聖闘士らしい身のこなしも、染み付いた血の匂いもしっかりと覆い隠す。
 ムウは外の様子を窺う。
「人通りが多くなってきた。出るには好都合だ。」
シャカは、揉み革の袋が入った箱の底に小さな陶器が転がるのを見つける。拾い上げて蓋を取ると、果たしてそれは口紅であった。
「美しい色ではないか。」
柔らかな練り紅を薬指ですくい、鼻先に近付けて目を細める仕草に、ムウが苦笑する。
「やれやれ。化粧までしなければならないのか。」




 「鏡がないからはみ出しそうだ。」
そう言って、小さくためらうシャカの指先。
「塗ってやる。」
ムウも黒衣の中から指を伸ばし、わずかな量の紅色をすくい取る。
 採光窓から射す細い陽の下、ムウはシャカの唇に点々と紅を置き、小指の先で、撫でるように慎重に色を引いた。
「少し、濃いな…。」
出来ばえを凝視する翡翠の瞳が、深く被いた布の奥からゆっくりと近付き、シャカの青玉の半眼は長い睫毛を落とす。紅い色を移し取るように繰り返し押し付けられるその触感が去り、再びまぶたを持ち上げたシャカは、淡く染まったムウの唇から乾いた言葉がこぼれ落ちるのを見る。
「争いのない世の中など来ないのだろうか…?」
シャカは珍しくからかうような口調で答える。
「来ないよ。来ないとも。何を言っているのだ?」
そして笑い声さえ立てるシャカの美女然としたその風貌を、ムウはまじまじと、不思議そうに見つめるのだった。
「そんなに…おかしなことを言ったかな?」
「言った。争いのない世の中など嘘だ。」




 戸口でしばらく人の流れを読んでから、ムウとシャカは、次の地点まで別々に進む結論を出した。この地の婦人の多くは小柄であり、長身の娘が連れ立って歩けば、いやが上にも目立ってしまうからだ。
 「先に行く。…また会えることを祈って!」
シャカはそう言い残し、軽やかな足捌きで路上に躍り出た。長い裾は土埃を巻き上げて翻り、サンダルの紐に取り付けられた真鍮の鈴は、チリチリチリと細かい音を立てた。
 「必ず会おう。待っていてくれ!」
女の身なりをしていることも忘れ、ムウは後ろから叫ぶ。道の中央で立ち止まったシャカは、振り向いて大きく頷いた後、彩られた唇を綻ばせ、それを塞ぐように人差し指を立てた。ほどなく市場へ向かう女達の黒い衣の波が押し寄せ、シャカの姿はだんだんとその中に紛れ、鮮やかな口紅も埋もれて見えなくなっていった。











 20071214






 そして「天上の孔雀」へと続いたり…





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