(1)紫丁香






 さっき目を覚ましたこの人は、きれいな一重まぶたでした。




 聖域の招集を無視し続けるムウ様に、ときどきちょっかいを出しに来る奴等がいます。ムウ様によれば「山に籠って何をしているのか、様子を窺いに来ている。」のだそうです。
 真っ黒くて粘っこくて鳥肌が立つような嫌な気配が、だんだん山を登って来る。悪意。敵意。とても様子を見に来ているだけとは思えない、明らかな殺意。下にいるうちはまだいいけれど、近付くにつれておいらは胸がザワザワしてきます。当のムウ様は「また来たか。」とため息をつくだけで、特に身構える素振りはありません。
 それは単独のこともあるし複数でやって来ることもあって、どちらの場合も必ず、墓場の辺りに差し掛かると歩みが止まります。霧に邪魔されて思うように進めずイラついているのがおいらにも伝わり、もともといい形をしていない小宇宙が更に醜く歪み出して、こっちまで胸がザワザワします。
 こういう力を持っていると、些細なことにも気分を乱されやすいのです。感じたくないことまで感じてしまうし、力を持たない人に比べると断然損をしていると思います。まあ、便利なことも多いんだけど。
 …なんて、ちょっと強がってみた。本当に大変なのはそんなことじゃないんだ。
 もうずっと昔から、おいら達の血筋は、気味悪がられたり迫害されたり。何も悪いことをしなくても、ただ力を持っているというだけで処刑されていた時代があったとも聞きます。
 ムウ様がいつも話してくれる。持って生まれたこの力と上手に付き合い、世の中で幸せに暮らす方法は、必ずあるのだと。但しそれは自分で見付けるしかないのだと。
「だからお前も探してごらん。決して悲しむことではないのだよ。」
ムウ様も嫌な思いをいっぱいしてきたのかもしれません。
 そのうち気配は遠のいてゆきます。諦めて引き返すか、そうでなければ、深い霧を越えられないまま谷底へ転落してしまうんだ。落ちたらきっと死んじゃうんだろうな。ムウ様は「お気の毒に。」なんて他人事みたいに同情します。
 中には墓場を通り抜けてこっち側へ辿り着く奴もいるけれど、ムウ様はどこ吹く風。人差し指1本で涼しい顔して追っ払ってしまう。帰れ帰れと念を送るとね、本当に相手は帰っちゃうんだ。
 最近、おいらもお手伝いしている。岩を動かしたり、体を浮き上がらせてやったり。それだけで驚いて腰を抜かすような腑抜けばかり。そんな調子でよく人の命を狙いに来られたものだと呆れてしまう。だけど正直痛快です。こっちは敵につられて気が立っているし、少し脅かすつもりだったのが、もっと懲らしめてやりたくなる。
 聖域に逃げ帰って、ジャミールのサイコキネシス遣いがどんなに恐ろしいか報告すればいい。二度と手出しに来られないように。虐げられた前世の血が騒ぐ。普通の人間に見せつけてやれ。我々を怒らせるとどうなるのか。
 この間、敵の1人に岩をぶつけたとき、ムウ様はちょっと厳しい調子で
「そういうことをしてはいけない!」
と大きな声を出しました。おいらはびっくりしました。
 力を制御することはとても大事だといつも教えられているから、やりすぎてしまった自覚は確かにありました。だけど人殺しが目的で奇襲してくるような奴等に、手加減してやる必要なんてあるんだろうか?いつまでもふて腐れ続けるおいらにムウ様は言いました。
「私が襲われるように見えたのか?」
おいらは思ったまま答えました。
「見えません。だってムウ様強いもん。あいつら弱いし。」
「ああ。もしかしたら、貴鬼より弱いかもしれないね。」
そうだ。取っ組み合いをしたら、体が小さい分きっとおいらが負けるけど。あれでも抑えていたほうなんだから、本気を出せば岩を当てるどころじゃない。地面に叩きつけることだって出来るし、火だって…。
「うん、おいらのほうが絶対強い。皆弱虫だよ。超能力が怖いんだ。」
「自分より弱い者を痛めつける必要はあると思うか。」
その会話はそれきり続きませんでした。ぐうの音も出なかった。
 いつだったかムウ様はこうおっしゃったことがあります。
「あの者達は、単に偵察を指示されて来ているだけなのだよ。確実に私を誅殺したいのなら、黄金聖闘士を差し向けるはずだ。」
おいらは信じられない思いで聞き返しました。
「『殺せ』と命令された訳でもないのに、どうして?」
ムウ様は苦笑いしながら教えてくれました。
「名を揚げたいのだ。仮に私の首を持ち帰れば…その後、いろいろと有利になるから。今の聖域はそういう場所だ。」
 おいらは悲しくなりました。欲のために人の命を奪おうとするなんて。そしてその対象としてのムウ様。ムウ様が聖域を嫌う理由はよく知らない。でもこんな話を聞くと、呼び出しの手紙を開封せずに燃やしたくなるのも当然だという気がしてくるのです。
 昨日この人が来たときも、おいらはてっきり聖域の手先だと思いました。修復依頼に来る聖闘士なんて、おいらが弟子入りした当時は年に何人かいたけれど、今じゃここに来るのは怪しいチンピラばかり。
「ムウ様、また誰か…変な奴が来たみたい。墓場を通過しようとしています。」
今思えば、ムウ様はもう全部お見通しだったんだ。当たり前だよね。気付かないはずないよね。
「あ、すぐそこまで来てる。よーし、おいらが追っ払ってやる!」
自分で言うのも何だけど、こういうときおいらはとっても勇ましい気持ちになります。正義のために。ムウ様のために。そして、力を活かせる状況を逃すまいと心がはやります。
「貴鬼…本当に嫌な気配だと感じるか?」
だからムウ様にそう念を押されても、深く確かめもせずおいらは楼上へ飛んでしまったのです。
 ちょっと立ち止まって感覚を凝らせば、それが少しも歪んだところのないきれいな小宇宙だと見抜けたはずなんだ。澄んだ小宇宙が山の空気と違和感なく溶け合い、そのせいで墓場を通り抜けて館の前に来るまで気が付かなかったのだと、おいらにもわかったはずなんだ。
 おいらは力を放出したくてムズムズしていました。見張り台から人間の姿を確認したら後はもうどうでもよくなり、その人影が聖衣を背負っている点には注目などしませんでした。
 岩を降らせて脅かしてやりました。驚いて逃げ出すだろうと思いました。けれどこの人は怯むことなく立ち上がった。積もった岩を打ち砕き、楼の下層階に拳を繰り出し、逆にこっちが慌てる破目となった。すごい小宇宙だった。強かった。強いのに決して攻撃的ではなくて、あれっと思った。
 そしてようやくおいらはこの人が、聖衣の修復を頼みに来た本物の「女神の聖闘士」なんだとわかったのです。




 聖衣を蘇らせるために大量の血を流した後、ずっと眠り続けていたこの人は、ガーゼで口もとを覆われると大きく息を吸って目を覚ましました。
 目を覚ましたと言うよりも、ほんの数秒間目を開けただけと言ったほうが正しいかもしれません。多分意識はなかったと思う。
「そう…戻っておいで…。」
またすぐ眠りに落ちてゆくこの人の魂に呼びかけながら、ムウ様は、さっき煎じた草の汁で黄色く染まったガーゼを嗅がせます。
「戻っておいで…紫龍…。」
弱々しいけれど規則的だった息が苦しげに乱れて、薬草の苦みを深く吸い込んでゆきます。だけどまぶたは再び開きそうにありません。
 黄色い液の入ったお椀とガーゼがおいらに差し出されました。
「私は作業室に入る。変化があれば呼びなさい。」
そろそろ昨夜から血を与え続けていた聖衣の状態が安定する頃。これから長い作業が始まるのです。久し振りにムウ様が修復をします。ここまで破損の激しい聖衣を見る機会は滅多になく、ムウ様がどのように作業を進めるのかおいらはすごく興味があります。
「後で見に行ってもいいですか?」
「彼が目を覚ましてからね。」
「でも…この人…助かるんですか?」
おいらは助からないんじゃないかと思う。深く傷付けた両手首から体中の半分近い血液が失われ、すぐにムウ様の力で止血は施されたけれど、またいつ傷口が開いて出血するかわからない。それに昨日はあんなに力強く張りのあった小宇宙が、小さく縮んで今にも消滅しそうです。
 ムウ様はこの人の手首に巻いた包帯に血が染み出していないか確認すると、明かりを少し絞ってから、静かに、でもはっきりと言いました。
「生きて帰す。聖衣も彼も。」
だからしっかり付き添っているように、とおいらに申し渡し、作業室へ移動しようとしたムウ様は、飛ぶ寸前、何かを思い出した様子で振り返りました。そしてじっとこの人の顔を見た後こう言ったのでした。
「まだ…私が聖闘士だと知らせてはいけないよ。」
返事をしかけたとき、もうムウ様の姿は消えていました。
 薬草の黄色い汁にガーゼの端を浸し、おいらはこの人の鼻に近付けます。また目を覚ますかな。もう、永遠に眠ったままなのかな。
「戻っておいで…戻っておいで…。」
ムウ様がそうしたように、おいらも声に出して魂を呼んでみます。
 昨日ムウ様とやり取りをする脇で、おいらはこの人を観察していました。顔立ちも背格好も、話すときの表情も、そのときは覚えたつもりだった。
 ところが今この冷たい体を前にして、おいらは思い出すことが出来ないのです。この人がどんな声だったか、どんなふうにしゃべったのか。動作はゆっくりだったのか、荒々しかったのか。温かい血が通う皮膚の色さえも、今となってはよく思い出せないのです。
 この人のスッとした一重まぶたや黒い瞳も、昨日見ているはずなのに。さっき一瞬目を開けたとき、まるで初めて知るものであるかのようにおいらは眺めていました。
 そして、生きていたこの人の姿はおいらの記憶に何も残らないのだろうかと、寂しい気持ちになったのです。











 20040909




 (2)へつづく





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