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（２）薰衣草 単語を発するだけでも辛そうだったのがだんだん長く話せるようになってきたと、報告をする貴鬼の表情は明るい。久し振りに外部の人間と接触するのが嬉しくてたまらない様子で、付き添いの仕事を喜んでこなしている。 貴鬼がこの人外境に来て４年。やはり人が恋しいのだろうか。それもなるべく年の近い…。私とはひと回り違うのだし、師である以上は気後れもあろう。なにかと窮屈な思いをさせているのかもしれない。 「貴鬼、悪いけど水をくれないか。」 久し振りに聞く声だ。意識が戻ったと知らせを受けた後も私の作業はずっと続いていたし、合間に様子を見に来ても彼はいつも眠りの中にいて、言葉を交わすことはなかった。 目覚める度にまず水を欲しがると貴鬼は言っていた。だから私は、こちらを背に横たわり、起きているかどうかはっきりしなかった彼が、たった今まで眠っていたのだと知ることが出来る。 吸い飲みを口もとへ差し出してやる。ぼんやりとした視線を壁に向けたまま、くわえやすい角度を探そうとする首の動きは未だ力無く、わずかに開く唇は乾燥して白い。 少し体を起こしたほうが飲みやすいかと思い、横になった肩の下に手を入れたとき、紫龍は顔を仰向けた。 「あ…！すみません。」 貴鬼ではなくて驚いたらしい。 「いいです、自分で…」 寝返りもままならないほど弱っているのに、何を言い出すのやら。 しかし上体を抱え起こした私は、そのあまりの軽さに、彼の言葉が形式的な遠慮ではなかったと知り驚くことになる。 「寄り掛かっていいのですよ。楽にしなさい。」 私がそう言って初めて、紫龍は体の力を抜く。それも一度にではなく、徐々にだ。死ぬか生きるかの瀬戸際を越えてから幾らも時間が経たない人間が、支える者に負担をかけまいと気を遣い、挙句の果てにこんなことを言う。 「すみません。あの、重くないですか？」 信じられない。面白い…。こういう人間は初めてだ。 聖衣を蘇生させるには聖闘士の血が必要だと告げると、大抵誰でも顔を曇らせる。戦闘以外で血を流したりエネルギーを消耗するのを嫌う聖闘士は多く、あまつさえこの場合、死を覚悟せねばならぬほど大量の血液を要するのだ。修復依頼者は単独で来る。本人以外に血液提供者はいない。ほかに方法はないのかとしつこく食い下がる者もいるが、ここで決心出来なければその先も聖闘士を続けることは考え直したほうがいいと私は思うから、最後の手段は誰にも明かすつもりはない。命を大事にすることは恥ではない。 その点この紫龍は、見事なまでに潔く、呆れるほど性急に、自ら手刀で手首を切った。死んだ聖衣を２体も持ち込むのが異例なら、２体分の血液を供給しようとする聖闘士など聞いたこともない。個人的な好奇心が湧いた。よほどの自信家か無鉄砲。しかし彼はそのどちらでもなかった。 「今日からこの薬です。」 乾いた唇に丸薬を近付けると、紫龍は一瞬ためらう表情を見せた。貴鬼の小さな手ではなくて勝手が違うのだろうか。それとも新しい薬と聞き、用心しているのか。 口が控えめに開けられる。指が触れないよう舌の上に１粒置いてやる。唇が閉じられる。吸い飲みの吸い口を向ける。カチッと前歯が当たる。飲み下す緩やかな震動が、容器を通して伝わる。 そして私は予想通りの質問を受ける。 「聖衣は直りましたか。」 同じことを貴鬼に何度も尋ねたそうだ。 「順調ですが、まだ少し時間がかかります。」 あの子も幾度となく同じように答えている。 「どうかなるべく早く…急ぐのです。お願いします。」 一刻も早く修復を頼むとやって来た、あの日と同じ顔になる。 出血が進み意識が薄らぐ中で、紫龍は私に訴えた。ペガサスのほうは友人の聖衣なのだと。自分はかつてその友人に命を救われ、非常に恩を感じている。だからここで失血死したとしても本望だ。しかし死んでは聖衣を持ち帰ることが出来ない。彼は今か今かと新生聖衣を待っている。どうか修復が終わり次第届けてやってくれ。そして伝えて欲しい、紫龍は喜んで死んだのだと。お前が気に病む必要は全くないのだと。 非情かもしれないが私は、一種の清々しさを覚えながらこの訴えを聞いていた。義に散る美学もあるのだと、新しい発見をした思いで、紫龍が気を失ってゆく様を見届けた。 「修復は、技術だけ施しても駄目なのですよ。聖衣自身の回復を待たなければ。あの２体の聖衣は単に壊れていただけではない…言わば死んだ状態だったのだから、それだけ時間が必要なのです。」 今再びベッドに身を横たえ私の説明に聞き入る目は、真摯であり必死。 「わかりました…よろしくお願いします。」 急かす言葉が喉元で渦巻いているだろうに、何と聞き分けの良いこと。生来の人柄か、老師のご指導の賜か。 手首の包帯をほどく。ガーゼの下から生々しい傷口が現れる。 「こちらも順調ですね。もう出血の心配はないでしょう。」 消毒薬の瓶を傾けて直接傷に垂らすと、しみるのだろう、紫龍は顔をしかめた。 「…あなたが血を止めて下さったと、貴鬼から聞きました。ありがとうございました。」 それでも礼を述べる声には辛さを滲ませない。 「止血は出来ても、傷を塞ぐことまでは出来なくてね…。」 受け答えしながら、何故だか私は申し訳ない気持ちになった。 再出血しそうにないので緩めに巻き直す。細い手首である。年齢のわりに身長もあるし、よく鍛錬しているとわかる体だけれど、戦うには少々細い。もっとも、これからどう発育していくかわからない。貴鬼の腕輪もすぐに小さくなる。子供は日々成長するものだし、その速度は予測出来ない。 「老師をご存知ですか。」 包帯の端を縛り終えたとき、しばらく黙り込んでいた紫龍は私に問いかけてきた。 「知っていますよ。随分お世話になりました。」 そう答えると安堵するかのように表情が和んだ。今までかっちりとした輪郭を保ち閉じていた「気」がほころび出す。 「五老峰へいらしたことは？」 「昔、何度か。あなたが弟子入りする前でしょう。小さい女の子とふたりで住んでいらしたから。」 貧血状態で生彩を欠いた紫龍の目が、途端にパッと輝く。私の話に頷きながら笑みを浮かべる。師と面識があると聞いただけで、こうも急速に打ち解けるものだろうか。緩やかにほどけた心が、親しさを湛えてこちらへ近寄る。 しかし、老師と私が懇意にしているとあまり思い込ませないほうがいい。今聖域で、我々が世の安寧を脅かす共謀者として警戒の対象にされている現実を彼は知らない。女神と教皇を巡る一連の争いに遠からず巻き込まれる自らの運命を、この少年は予感さえしていない。 それでいいのだ。まだ知らせる必要はない。だから私はとぼけて聞いてみる。 「彼女は老師のお孫さん？」 「いいえ。赤ん坊のとき捨てられていたのを、老師に救われたのだそうです。」 それからだった。何か枷でも外れたかのように紫龍は話し始めた。さっき飲ませた薬には、わずかに興奮作用がある。 「俺もそうなのです。身寄りがなくて…８歳で老師に弟子入りするまで、ずっと孤児として日本で育ちました。」 初耳だ。私と私の師の関係と同じく、彼もまた老師の縁者なのだと思っていた。 「今一緒に戦っている仲間達も、親がいないのです。ただ、俺と違って全員、肉親の記憶を持っている。正直言って羨んだことも…でも老師は本当の家族のように接して下さったから…」 まくし立てつつも、ときどき口が回らなくなって言い直す。 「北京へ連れて行ってもらいました。紫禁城も見たし、雍和宮も行ったし、それから長城へ…」 きっと普段は饒舌な子ではないのだろうと思った。 拡散し始めた身の上話に適当な相槌を打ちながら、私は考えていた。肉親を覚えていないのは必ずしも不幸だろうか。人はよく、血の繋がった親に育てられることこそが幸福な生涯の基礎を築く必須条件であるかのように言うけれど、果たしてそれは真理だろうか。 私は両親の顔を覚えている。断ち切りたくて仕方がないのに、父と母は時折夢の中に現れ、忘れることを許してくれない。 「紫龍。疲れてしまうからもう休んだほうがいい。」 まだしゃべり足りない気配ではあったが、紫龍は素直に話を中断し、眠り飴を放り込もうとする私の指を認識すると躊躇せずに口を開けた。 愛された記憶が全くない訳ではない。幼い頃、昼寝の前にいつも母から与えられた甘い眠り飴。 「ゆっくり…ゆっくり溶かしなさい。噛まないで。」 口の中を転がり、歯にぶつかってカラカラと鳴る。 「ゆっくりしてはいられません。早く帰らなければ。待っている人がいるのです。」 明瞭な口調を保っているが、もう辻褄が合わなくなってきている。味も外見も菓子のようでありながら、この薬の効きは速い。穏やかに確実に意識を乱してゆく。 長い間ろくに他人と向き合ってこなかったのは、貴鬼だけではなく私も同じだ。慣れない距離感を珍しがって、無邪気にはしゃげる貴鬼はいい。 「早く帰りたければ、まず体力を取り戻さなくてはね。」 眠らせようとするのは彼の疲労を思ってのことばかりではない。湧き上がる幼少時の思い出を払拭したがっている、私個人の勝手な都合だ。 入眠が近いのだろう。まぶたの重そうな紫龍から、少し間延びした調子で問われた。 「あなたのこと…何とお呼びすれば良いのでしょう？」 危うく「アリエスでもいいし」と言うところだった。 「『ムウ』と名前で呼んで下さい。」 ムウ…ひとつ呟いて、遅い瞬きをする。少しの間沈黙した後、眠たげな声が返って来る。 「貴鬼は…『ムウ様』と呼んでいるでしょう？…俺も、そうしたほうが…」 「呼び捨てで結構ですよ。あの子は私の弟子だからそう呼ぶだけです。」 そんなことが気になるのか。思考が鈍り、妙な点にこだわりたくなっているのか。 「『ムウ』…ですね…わかりま…し…」 声が途切れた。眠ったな…そう思って顔を覗き込んだとき、目を閉じたままで紫龍は言った。 「苗字がム…」 面白い子なのかもしれない。 20041104 （３）へつづく |