お釈迦様の教え仏教って何ぁに?

お寺にはお参りするけれども、お釈迦様の教え「仏教」ってどんなものなのだろう?。みなさんこう考えたことありませんか。でも難しい解説は嫌だし・・・。そこで今回、「出来るだけ短く、そしてわかり易く仏教について教えてください。」と言うわがままなお願いを知り合いのお坊さんにお願いいたしましたところ、快くお引き受けくださいましたので、ここでみなさんにご紹介させていただきます。 

   お釈迦様の教え「仏教」

仏教を一言でいうと、この世界の真実が説かれた教えといえるでしょう。ですから、いわゆる一神教のように唯一絶対の神を崇めることもなければ、特定の教義のようなものもありません。

 順番に話を進めてみましょう。まず釈迦とは種族の名前で、正確にはシャーキャといいます。釈迦族出身の聖者という意味のシャーキャムニが釈迦牟尼(しゃかむに)と漢字で音写され、それが略されて釈迦、お釈迦さまと称されるようになりました。お釈迦さまの個人としての名はガウタマ・スィッダールタといいます。この人が覚り(さとり)を開いたことによって、ガウタマ・ブッダと呼ばれるようになります。「ブッダ」とは目覚めた人という意味を持ちます。仏教の「仏(ぶつ)」はブッダを仏陀と漢字音写したことに由来します。では「覚り」とはどういうことなのでしょうか。この世界には、このような世界に至らしめている理法があります。その理法そのものを、ありのままに理解することが「覚り」といえましょう。「覚る」ことは決して簡単なことではありませんが、絶対に不可能なことではありません。「信念と健康をもち、勤勉で偽りがなく、その上に智慧があれば、男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。これは人にはみな、覚るべき性質が備わっているからである。」ブッダはこのように語っています。事実2500年前のガウタマ・ブッダ在世のインドでは、多くの仏弟子たちが覚りを開き、すなわちブッダになっていたことが残された資料によって明らかなのです。もちろんそのことに男女の区別はありません。

 ではなぜ「覚る」ことが必要なのでしょうか。そもそもお釈迦さま、すなわちガウタマ・スィッダールタはこの世界の「苦」について深い思いを抱いていたのです。いわゆる生・老・病・死といわれる四つの苦しみです。人は生まれながらにしてさまざまな苦に脅かされています。どうしたらこれらの苦しみを克服できるのか。これが仏教のメインテーマなのです。同時にそれは当時のインドではきわめて大きな問題として、多くの宗教家や哲学者たちが取り組んでいた事柄なのです。まず第一に、この苦の問題が、今の人生だけで繰り広げられる事柄ではないということをお伝えしなけれぱなりません。つまり、人は生まれ変わり死にかわり(輪廻転生)する存在で、苦は今生だけではなく、再生すればそこでまた苦を味あわなければならない。それは未来永劫に続く果てしないものとしてとらえている点です。そこでこの苦の解決方法としては、苦の原因が何であるかを明らかに知り、理解し、苦の原因を作らないことです。それは苦の消滅という目標を持ち、それに至る道を修道することに心血が注がれます。具体的な例をあげれば、まず、正しいものの見方をするところから始まります。ここでいう正しいものの見方とは、さまざまな苦の本質を見極めること、ひいてはこの世界の本質を理解していくということになります。

 わたしたちはふだんの生活のなかでは、ことさら苦について深く考えることはありません。しかし、よく考えれば苦のない日常はありません。それが人生だよと片づけてしまうか、この苦はいかにすれば静まるのかと真剣に考えるかの違いでしょう。そのようにして苦を見つめ、苦の本質を理解し、新たな苦の芽を作らないことの積み重ねの結果、解脱といわれる境地、すなわち「覚り」が成就されます。このときその人は「ブッダ」=目覚めた人となり、輪廻転生の法則を受けない「涅槃(ねはん)」(サンスクリット語のニルヴァーナの音写語)に趣く切符を手にするのです。

 ブッダには来世がありません。苦の存在しない永遠の安らぎの境地、涅槃が待っているだけなのです。ただしブッダといえども、今生における残りの人生のなかでは、肉体に生ずる病の苦しみなどからは逃れることはできませんでした。それはたとえ覚りが成就したとしても、完全なる苦の消滅は今の人生が終了してからのことになってしまうのです。ここにいうなれば仏教の弱点があります。しかしながらそれは完全なる苦の消滅ということにおける場合で、実際に少しずつでも物事を正しく見ようという習慣だけでも進みますと、苦しみの数は減ってゆきます。日常の生活を送りながらも、自分を見つめ、自分の行動に心を配り、物事を少しでも掘り下げて考えるということが大切なのです。それらの積み重ねの結果が本当の意味での利益を生みます。よく世間で言われるところの「ご利益(りやく)」は、ともすれば目先の、あるいはエゴイスティックな利益を求めがちです。もちろん私たちが生きていく上でどうしても必要な願い事はあります。だからこそ自分がより良く生きていくための、言い換えれば自分をより良く活かすために必要なことは何なのかを考える必然性が生れてくるのではないでしょうか。ほんとうの自分を見いだし、そして自分の中にある真実の価値を発見していくことが、ブッダの教えの根幹といえるでしょう。

筆者の紹介
 駒 青壇さん
 1959年東京神田の生まれ
 20歳のときに臨死体験、21歳のときに冬山で遭難して生死の世界に関心を深める。
 23歳より梵字に興味を抱き、以後その研究と芸術的表現を追求。
 東京大崎にて梵字書道教室の講師を務める。
 真言宗善通寺派僧侶。
5月25日〜27日に東京・大崎で開かれた梵字書道展 駒青壇さんの作品、中央は不動明王



いかがでしたか。駒さんはお忙しい方なので次回がいつになるというお約束はできませんが、楽しみにお待ちいただければと思います。

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