「朝が嫌いなみっつの理由」




 朝、なんかっ、大っ嫌いだ。
 句読点の置き方が、いかに嫌いか物語っていると思う。実際には発音しにくい。朝、の後で一回息を吸うより、朝なんか、と続けてしまった方がスムーズだ。それでも、一回息を吸う労力を浪費してまでも表現したいくらいに、嫌い、なのだ。
 
 朝が嫌いなみっつの理由。
 
 ひとつ。朝起きるのが苦手だから。
 これは、ほとんど全人類に当てはまるだろう。早起きが得意なヤツはたぶん宇宙人だ。迫害してもいいと思う。
 
 ふたつ。通学途中で事故にあったから。
 朝の交通渋滞の最中、必死に学校へ向かう俺のスクーターの前に、右折車両が突如立ち塞がったのだ。フルブレーキングも虚しく哀れスクーターは全損。俺は五メートルほど空を飛んだが、奇跡的に打撲傷程度でほぼ無傷と言ってもいい。
 が、事故負担割合が2:8だと。
 現場検証をした警官は、「右折車両の直進妨害」と言っていたのに、道交法上の善悪は保険会社には関係ないのだそうだ。しかも、俺のスクーターは大学の先輩に譲って貰った愛すべきポンコツだった。全損とはいえ、査定額は年式分さっ引かれて計算される。そこからこっちの負担の二割が減額されて、補償額八千円。チーン、ご臨終デス。この額でどうやって代わりの足を用意しろと? 保険会社も右折車両の運転手も滅んでしまえ。
 っていうか、これは事故が嫌いな理由だ。話が逸れた。すまん。
 
 みっつ。つーか、ふたつめ? どっちでもいいや。結果、島袋あずさと一緒に通学することになってしまったから。
 島袋というのは、中学時代有名だったガリ勉女だ。母親が近隣で有名な教育ママで、言いなりに育ってしまった島袋は、大学生になった今でも垢抜けないガリ勉女だ。高校は別の学校に通っていたが、大学に行ったらまた一緒になってしまった。なんで俺と一緒の三流大学などに通う事になってしまったのかは知らない。親の情熱に反比例して娘の出来は悪かったのか。もしくは、端からは伺い知れない親子の確執があったのかも知れない。
 ともあれ、朝、家を出ると、そこに島袋あずさがいる。それは、まぁいい。誰であれ、退屈な通学時間を共有できるのは悪い事じゃない。俺だって男だ。可愛い……と言うほどじゃなくとも女と一緒に歩くのはやぶさかじゃない。が、喋らないんだ、この女が。おかげで毎日気詰まりな朝を迎えている。
 
 徒歩通学初日から数日間は、一緒と言うより同じ経路を別々に通学したといった方が近い。俺が家を出ると合わせた様に、後ろからやってくるのだ。島袋家とうちは近所で、位置的に島袋家の方が離れている。そして、彼女の通学路上にうちがあるのだった。あ、別に合わせてる訳じゃないのか。そういえば、スクーター通学してる時からそうだった。
 うちから学校まで、島袋が俺の後を一定の距離を保って付いてくる。そういう三日間が過ぎて四日目に赤信号で並んだ。青に変わった瞬間、同時に歩き出そうとしているのを意識して、顔を向けると目が合った。お互い立ち止まって無言で立ちつくした。
 知らない仲ではないし、同じクラスになったこともある。普通に話せばいいのだが、それにはそれまでの付き合いが無さ過ぎたし、以前に言葉を交わしてからの空白が長すぎた。無言に負けたのは俺の方だ。簡潔にひとこと、「一緒に行く?」 学校の方を指差すと、島袋あずさはうなずいた。学校まで無言で歩く時間が過ぎた。正直、これっきりにして欲しいと思ったが、翌日から家を出ると島袋が待っている様になった。
 
「倉持くーん」
 学食にやたらと明るい声が響き渡る。たぬきうどんを啜る手を止めて振り向くと、同じ学科の荒井さやかが駆け寄って来ていた。
 色白八頭身の美人で、肩より長い茶髪にウェーブをかけている。割と派手目な顔つきをしていて、おまけに陽気で屈託がないから誰からも好かれ安い。学科でも一二を争う人気の女子だ。島袋のどこを気に入ったのか、もうひとり皆本かなめを含めてだいたいいつも三人で一緒にいる。そういえば三人とも名前がひら仮名だ。テーブルを回り込んで向かいの席に座った。
「最近あずさと一緒に来てるんだって?」
 たぬきうどんを吹き出しそうになった。慌てて堪える。ちょっとこぼしたかも知れない。胸を叩きながら、うどんと汁を飲み下した。
「汚いなぁー、大丈夫?」
「それ、誰に聞いた?」
「え? あずさからだけど?」
「島袋が俺の事を話したわけ?」
「そうだよー。毎日一緒に登校してるんでしょ?」
「いや、まぁ、その通りだけど……」
 毎日無言で一緒に登校するだけの、俺のなにを話せるというんだろう。なにか? 実は、島袋には虚言癖でもあって、俺についてあることないこと話しまくってでもいる訳か?
「喜んでるよ、あずさ」
「はぁ」
 意味が分からない。返す言葉もない。この居心地の悪さはなんだ。
「これからもあずさの事、よろしく頼むね」
 荒井は真摯な面持ちで、ちょこんと頭を下げた。
「ちょっと待った。俺が島袋の事をお願いされる意味が分からない」
「どういう事?」
 荒井は訝しげな表情を浮かべた。
「確かに、一緒に学校に来てはいるけど、それだって行きがかり上だけで、別に付き合ってるとか、仲がいいとかでそうしてる訳じゃないぞ。だいたい島袋は、ただ黙って歩いてるだけで、初っぱなからほとんど話しもしてないんだぜ? 正直、意味が分からない」
 だいたいこの通りだ。言えば言うほど怒ってもいいような気がしてきた。間違った事は言っていない。荒井は最初、戸惑っている様だったが、やがて何か合点が行ったのか、左掌に右拳を打ち付けた。なにか思いついたジェスチャーだろうが、今時これをやるヤツはあまり見ない。見かけによらず古風なヤツだ。
「あずさからなにも聞いてないの?」
「なにも。全然口も利いていない」
「あぁ……」
 今度こそ納得行ったらしい、あんぐりと口を開けてそのまま動かなくなった。
「荒井?」
「あ、ごめんごめん。ちょっとびっくりしちゃった」
 びっくりしたのはこっちの方だ。どんどん冷めていくうどんを思いながら、とりあえず話が先だろうと考えた俺は偉いと思う。
「荒井さ、その口振りだとなにか知ってるんだろう? 知ってるなら教えてくれよ」
 荒井は少し考える素振りを見せて、首を横に振った。
「あずさが話してないなら、あたしからはなにも言えないよ。ごめん。分かって」
 両手の平を頭の前で合わせて、拝むような格好をする。今時これをやるヤツはあまり見ない。見かけによらず古風なヤツだ。
「うーん」
「そのうち分かると思うからさ、長い目で見てやってよ、頼むね」
 そう言い残して荒井は去っていった。長身で細身、出るところはちゃんと出ている後ろ姿は、颯爽としていて格好良かった。どうせだったら、おまえがうちの前で待っていてくれ、とは言わなかった。
 
 翌日、いつものように家を出ると、いつものように島袋あずさが待っていた。
 白いブラウスとブルージーンズ、肩にトートバッグをかけて立つ姿は、いつも通りどこまでも地味だ。いつもと同じく歩き出すと、やっぱりいつものように無言で付いてくる。一緒に登校するようになってから、もう三週間が過ぎている。こうまで無言だと口が利けないのかと思ってしまうが、荒井達とは普通に喋っているようだからそれはない。荒井は「喜んでいる」と言ってはいたが、そんな素振りも感じられない。俺の感覚では、話が出来るのに話さない、と言うことになる。それはつまり、口を利きたくないからじゃないのか? 普通。
「島袋さぁ」
 それなりに意を決して振り向いた。島袋も立ち止まって向き合う形になる。
「こういうのって、なんかおかしくないか? なんとなく行きがかり上一緒に登校するようになっちゃったけどさ、止めるに止められなくなっちゃったとかで続けてるだけだったら、無理に一緒に行かなくてもいいんじゃねぇ?」
 島袋は無言で立ちつくしている。表情からは、その気持ちは伺えなかった。顔を上げ、なにか言おうとして、また口を閉じた。
 なにか言いたいことがあるんだろうけど始業まで時間も無いし、第一、自分の言いたいこともちゃんと言えないヤツは好きじゃないんだ、俺は。
 だんだんイライラしてきて、俺から口を切った。
「とにかくさ、明日からもう待ってなくていいから」
 はっきりきっぱり言い切った。中途半端な事を言って、また明日も待っていたら凄く気まずい。
 島袋は、一瞬ひどく悲しそうな表情を浮かべた。そしてすぐに俯いた。
 俺は、その場を離れるために歩き出した。心苦しい。もの凄くひどい事をしている気がしてきて、歩きながら何度も振り返る。
「……ごめんなさい」
 島袋の濡れた声が追いかけてきて、罪悪感は加速した。
「ああ……、いや、別に……。講義に遅れるぞ、島袋も早く来いよな」
 ダッシュでその場を離れた。まるで逃げ出すようだったろうと思う。
 
 島袋は三限まで姿を現さなかった。
 四限目にやって来て、荒井達と二言三言言葉を交わしただけで、後はずっと俯いていた。
 荒井が、なにか言いたそうに時折こっちを見たが、なにか言って来たりはしなかった。
 こういうのはちゃんとしておいた方がいいに決まってるんだ。お互いの為に。
 
 「ただいま」
 バイトが引けてからうちに帰るとちょうど晩飯が出来たところだった。
 お袋はテレビ+晩酌を始めていて、こうなるともうなにもしないので、自分で米をよそってテーブルに置く。
 おかずは揚げ物だ。アジフライと一口カツとちくわと大根。大根は普通揚げないそうだ。これが普通だと思っていた。どうやら違うらしい。でも普通に食べる。ソースはキャベツも含めてどっぷりと漬かるくらいかけるのがいい。アジフライを頬張りながら、物思いに落ちていく。
 朝、島袋に言いたいことを言って清々したはずだった。なのに、そのことばかり考えてしまう。講義の最中は、まぁ原因がだいたい前方にいるのだから仕方もないけど、バイト中もずっとだ。これで良かったのか。本当にこれで良かったのだろうか。
「毎日よく来てるねぇ」
 一口カツに取りかかると、TVに顔を向けたままお袋が話しかけてきた。
「んぁ?」
「島袋あずさちゃん」
「は? なんだ、知ってんの?」
「当たり前でしょ、ご近所なんだから」
「違うって」
「ああ、ゴミ出しの時とか、玄関掃いてる時にね」
「なに? 話すんの?」
「するわよ。ちゃんと挨拶出来る子だよね、あの子。あんた達、付き合ってるの?」
「違う」
「向こうはあんたの事好きみたいだけどね」
「なんで」
「この前、聞いたもん。可愛いねぇ、顔真っ赤にしちゃってさぁ。母さん、あの子ならうまくやれそうよ」
「バカ言うな」
 そんな事聞くな、このバカ母親が。ちくわを頬張りながら、心の中で怒りの声をあげる。
 つーか、島袋は俺とだけ口を利かないって事か? なんだそりゃ。バカにされてるのか? なんか、嵌められてるのか? いやいや、まてまて、島袋が俺のことを好きだ? だとしたら毎朝迎えに来るのは分かる。分からないのは、それなのに口を利かない事だ。なんで、俺とだけ口を利かない?
「あの子も一時はどうなることかと思ったけど、良かったよねぇ、良くなって」
「ちょっと待て、なんだよそれ」
「なに、あんた知らないの? ご近所なのに」
「しらねぇよ、なんだよ?」
「あの子、一時期口が利けなくなっちゃってたのよ。あそこのお母さん、凄い教育ママだったでしょ。それが引き金になっちゃったのかねぇ。よくは知らないけど心の病気になっちゃったんだってさ。今はだいぶ良くなって普通に話せるみたいだけど、まだ知らない人とかだと無理みたいね」
 えーと、なんだ? 心の病気? 口が利けなかった? 知らない人だと話せない?
 お袋と話し始めてから得たキーワードが、頭の中で点滅する。毎日無言で付いてくるだけの女。いまいち意味が分からなかった島袋と言う人間の輪郭が、少しはっきりしてきた気がした。
 それは、こういう事か。物理的に喉から声が出なくなるのとは違い、言いたいことが頭の中にあるのに心の中でブレーキがかかって、言葉に出来なくなってしまう。だとしたら、「よく知らない相手」と俺は島袋の中でイコールだ。「気になる相手」とは、俺だってうまく話せる自信はない。島袋だったら余計そうだろう。
 毎日俺と一緒に登校しながら、島袋の心の中はどうだっただろう。普通だってなにを話そう、変な事を言ってないだろうか、自分はどういう風に見えてるだろう、一瞬一瞬に気になることは山ほどある。一言も口を利かない自分がどう見えているか、気にならないわけはない。
 俺が島袋に言った言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
 島袋の濡れた声が蘇って、思わず立ち上がっていた。
「なんで早く言わねぇんだよ」
「だからなんで知らないのよ、あんたは」
「出かけてくる」
「ちょっと、どこ行くのっ」
 お袋の声は聞こえないふりをして、玄関を飛び出した。島袋家の位置はだいたいのところまでしか知らないけど、まぁなんとかなるはずだ。
 
 とは言え、親の家に住んでいるだけの立場で近所の事なんて、はっきり言って良く分からない。地形は分かる。道路がどう走ってどう繋がっているのかも分かる。分からないのは、どこに誰が住んでいるかだ。逆に分かるのは、せいぜい自分の家を含めたワンブロック周辺と、地元の友人が住んでいる家だけだ。被扶養者バンザイ。
 確かこの辺、と、思う辺りをうろついてみても、島袋の表札がかかった家は見当たらなかった。それでもしつこく探していると、通りかかった親子連れに胡散臭げに見られてしまって、居心地の悪い気分になる。ここは一旦親子連れが通り過ぎるまで退却だ。そう決めてその場を離れる事にする。
「倉持くん?」
 背後から呼びかけられて振り向くと、そこに島袋あずさがいた。
「島袋……」
「あずさ?」
 一緒にいる人物が島袋に呼びかける。声から察するに女性で、中年。母親だろう。
「倉持さんの……」
 島袋が母親に言う。
「あぁ、孝史くん? こんばんは」
 思っていたより柔らかな声がして、意外な気がした。暗くてよく見えないが、子供の時に見たのと違って、優しげな感じの中年女性だった。本当は元からこうだったのか、島袋のことで苦労を重ねてこうなったのか。たぶん、後者だろう。
「こんばんは、あずささんに話したい事があるんです」
 そう言って、母親と島袋両方の反応を待った。母親に「悪いけど」とでも言われれば引き下がるしかない。
「先に帰ってて。すぐに戻るから」
 島袋が言うと、少々訝しげな感じを残しながらも、母親は帰って行った。俺が探していた辺りより、もう少し奥まで歩いていってから姿が見えなくなった。多少見当違いなところを探していたわけだ。
 島袋と二人で向き合うと、いつもの朝と同じ沈黙が訪れた。いつもと違って真っ暗で、お互いの顔さえはっきりとは見えやしないのに。
「わたし……」
 先に口を開いたのは島袋だった。そのまま言葉が途切れて、また沈黙が訪れる。
 いや、いいんだ。別になにも言わなくて。俺が話をしに来たんだしさ。頭の中では言葉が沸き上がって来る気がするのに、実際には一言も口にすることが出来ない。。
 言うべきことと言ってはいけないことが、脳裏で伯仲して言葉が出てこない。きっと、お袋に聞いた様なことは口にするべきではないんだろうし、適当なことや的はずれなことを言うべきでもない。島袋の気持ちがちょっとだけ分かる様な気がした。
「俺さぁ……」
 会話って、相手があって始めて成り立つ物だ。キャッチボールがそれに当たるとしたら、朝、俺がしたのは壁当てと同じで、一方的に投げただけのことだろう。島袋が取れるかどうかは関係ないピッチングだ。相手が取れるかどうか、ちゃんと考えて投げるのがキャッチボールの投げ方だとしたら、今俺がするべきなのはそれだ。
「俺さ、朝はああ言ったけど、今は後悔してる。イマイチ自分でも整理付いてないんだけど……あー、自分でなにが言いたいのか良く分からん」
 結局グダグダになってしまって、ボリボリと頭を掻く。島袋が、小さく吹き出した。しばらくクスクス笑い続ける。俺も釣られて笑ってしまう。これじゃ、なにをしに来たのか良く分からない。
 笑いが収まったのか、島袋がまた沈黙する。でも、なんとなくそれまでとは質が違う気がして、力が抜けた。なんか、いいこと言おうとして訳が分からなくなっていたのかも知れない。
「朝はああ言ったけど、今は後悔してる。嫌じゃなかったら、明日も一緒に学校いかねぇ?」
 さっきと同じことを言って、要点だけを続けた。それで十分だったらしい。島袋も余計な事は言わず、満面の笑みというヤツを浮かべて、小さく頷いたからだ。
「それじゃ、また明日」
「うん、明日」
 期待していなかった返事が小さく返ってきて、俺はなぜか浮き浮きしながら、うちへの道を引き返した。島袋の笑顔は、予想に反して可愛かった。
 
 翌日、いつものように家を出ると、いつものように島袋あずさが待っていた。
 白いブラウスとブルージーンズ、肩にトートバッグをかけて立つ姿は、いつも通りどこまでも地味だ。
「おはよう」
 いつもと違って、俺が顔を出すと小さな挨拶が飛んできた。
「おうっ……おはよう」
 一瞬戸惑ってしまうが、この方がやっぱり気分がいい。ほんとは俺から挨拶するつもりでいたんだけど、それはまぁどうでもいいや。
 いつもと同じように歩き出すと、島袋はやっぱりいつものように無言で付いてきた。
 空はどこまでも晴れ渡っていて、空気はどこまでも澄み切っている、気がする。
 昨日、帰ってからいろいろ考えた。島袋が話せないなら俺が話せばいいじゃん、とも考えた。でも、俺もそれほど話し好きじゃないし、得意でもない。だったら、その場その場で自然に過ごせばいいんじゃないだろうか。
 島袋はリラックスした感じで、俺の後に付いてくる。俺もなんとなく晴れ渡った気分でいつもの通学路を歩く。
 朝というヤツが、それほど嫌いじゃなくなっているのに気が付いた。




(2006年10月脱稿 11月アップ)




   

    






                        






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