「天上の公務員〜世界に嫌われた少女〜」




 貴美子




「ここに戻れば何か思い出せるかと思ったんだけどなぁ」
 思いつきが徒労で終わった事に、ちょっとがっかりして、空に向かって呟いた。
 寝そべって見上げると、冬場の空はとても遠い。下敷きにした枯れ草がふっと匂って、何か懐かしい気分になった。
 小さい頃に、良く嗅いだ匂いだ。男の子達と、近所をよく駆け回っている子供だったから。
 あの頃は良かったんだ。生きやすかったし、毎日楽しかった。
 だけど、当時に戻りたいとは思わない。ただ、家に帰りたい。今のあたしにとってはどちらも同じだ。帰ろうと思っても帰れない。
「今度はどこに行こうかなぁ・・・・・・」
 いつまでもごちゃごちゃ考えていてもしょうがない。空を眺めているのにも飽きて来て、少し周辺をうろつく事に決めた。立ち上がって、ジーンズにくっついた枯れ草をはたき落とす。
 土手の上に人が歩いているのを見つけた。
 茶色い薄手のコットン・ジャケットを羽織り、淡い花柄のスカートを履いた女の子だった。小柄でおしゃれでかわいい感じだ。見た目二十歳前後で、あたしと同い年かも知れない。
 うつむき加減にトボトボ歩いていて、なにか途方に暮れている様な感じだった。
 ホントは胸の高鳴りを感じた。だけど、すっかりひねくれていたあたしは、普通を装って声をかけた。
「こんにちはー」
 冷静に。落ち着いて見える様に。
 さりげなく右手を挙げた。
 期待は持たない事にしていた。どうせいつもと同じ事になるに決まってる。
「こんにちはぁ」
 目と耳を疑った。あり得ない事が起こったと思った。
 その子は、右手を挙げて嬉しそうにそのまま振り回した。
 あたしは呆気に取られた。我を忘れて駆け出していた。
「こんにちは!こんにちわぁ〜!!」
 壊れたみたいに何度も繰り返した。
 だって本当に嬉しかったんだよ。やっと話の出来る人に会えたんだから!
 その子から見たら取り乱して見えたのかも知れない。明らかに面食らっていたから。でも、お構いなしに彼女の前まで走っていった。
 以前だったら、息が上がってへたり込んでいただろうけど、今は違う。いろいろなところを散々歩き回って来たおかげで、昔とは比べ物にならないくらい体力も付いている。それでも、土手の傾斜を一気に登ったから、少しだけ息切れした。呼吸を整えて、あたしは聞いた。
「どこから来たの?」
 我ながら間抜けな第一声だったと思う。まるでヘタクソなナンパみたいだ。
「東京からだけど・・・」
 彼女は戸惑っていた。へんな奴に関わってしまったと思われていると感じて、急に怖くなって来た。このチャンスを逃したらもう誰にも出会えないしかもしれないし、その上あたしは口下手だから。
「あたしは・・・・・・あたしが見える人を捜して旅してるの。あなたはこの三年間でようやく巡り会えたあたしが見える人なんだ。お願いだから変に思わないで話を聞いて!」
 真剣さが伝わったのか、それとも逆らって妙な事になっても困ると思ったのか、彼女は一つ頷いた。
 なぜか、妙に納得気な表情を浮かべた。
「いいよ。でも、そんなに強く掴まれたら痛いよ」
 必死さのあまり彼女の肩をガッチリ掴んでいたのだった。言われるまで自分でも気が付いていなかった。
「ごめん」
 慌てて手を離した。
「気にしないでいいよ。どこかで座って話そうか」
 河原は公園として整備されていて、あちこちにベンチが備え付けられていた。その内の一つを選んで、あたし達は腰を下ろした。
 
 あたしは旅をしていた。
 いや、さ迷っていたと言った方がいいのかも知れない。旅と言うとそれをしている自分に酔っている様なニュアンスがあるし、そうでなくても帰る所がある場合を言うみたいだから。
 ただ単に家に帰れなくなって、やむなくあちこち巡っていたら、長い時間が過ぎていただけの話。
 元々、外出するのは好きじゃなかった。
 人混みが好きじゃなかったし、人と接する事自体が苦手だった。
 あたしが好んでいたのは、部屋で何をするでもなくウトウトまどろむ事や、一日中本を読んでその世界に深く沈み込んでいる事だった。お気に入りのカップでカフェオレを飲む一時や、青いペンで何気なく落書きしている時間だった。
 そんなあたしが、三年近くもさまよい歩いていたのには、深い深い理由がある。
 公園の見晴らしの良い場所にあるベンチに腰を下して、あたし達は名乗りあった。
 藤原貴美子
 久しぶりに声に出してみて、他人の名前を口にしている様な気持ちがした。
 名字はちょっと偉そうな感じがするし、下の名前は解釈すると「貴く美しい子」だ。
 あたしはどちらかと言うと根が暗くて地味な、貴さとは逆を行く種類の人間だし、美しいどころか不細工に属している。
 名前負けしていてコンプレックスを刺激される上に、どこか古臭い感じがしてはっきり言って嫌いだった。
 彼女の方は久保田雅美と名乗った。
 改めて眺めてみると、雅美は小柄で可愛らしいタイプの子だった。
 服装には気を使ってるけれど、派手さよりも清潔感を感じさせて嫌みがない。男女どちらにも容易に受け入れられそうな、優しげな雰囲気をまとっていた。
 持参していたポットから、プラスティックカップに飲み物を淹れて手渡してくれた。
「わたしは、勝海・・・・・・彼と旅行に来たんだけどはぐれちゃって探してたの。でも、歩き回ってたらどんどん人気のない方に来ちゃうし・・・・・・困ってたんだ」
 受け取ったカップから湯気が立ち上って、甘酸っぱい香りが漂う。
 中に入った赤い液体を啜ると、抑えた感じの酸味と甘みが口の中に広がった。ローズヒップティーだ。甘みがあるのはたぶん蜂蜜の味だろう。飲むとすぐに体が温まって来て、思わずため息が漏れた。
「ありがとう。それでさっきあたしが声を掛けたら、嬉しそうに返事してくれたんだ?」
「あはは、そんなに嬉しそうだった?」
 雅美は照れくさそうに笑った。屈託のない笑顔とはこういう事なんだろうな、と思った。
「すごく嬉しそうだったよ」
「うん・・・・・・まぁ、そうだね。ホントに困ってたからね。でも、わたしより貴美子の方がすごかったよ」
 ついさっきの自分自身の取り乱し振りを思い出して、今度はあたしが照れくさくなった。
「あ〜、それは・・・・・・その・・・・・・説明するよ」
「うん。三年ぶりに貴美子が見えるって、どういう事なのか気になるし」
 そうなんだ。あたしが雅美に語らなければいけないのは、そうなった人で無いと信じてくれないに違いない、荒唐無稽でバカげた話なんだ。あたしだって有り得ないと思う。
 どう切り出したものか考えを巡らせながら、あたしはもう一度ローズヒップティーを啜った。
 
「さっき言った通り、ある日気が付くと誰もあたしの事が見えなくなってたんだ」
 まずは、一番の要点を話して反応を窺う。雅美の相づちを待って先を続けた。
「誰に話しかけても反応がないし、触っても蹴っ飛ばしても、不思議そうな顔をするだけで、まるであたしが居ないみたいにみんなが振る舞うから、最初はからかわれてるのかと思った。でも、知らない人があたしにそんな事をする理由がないし、みんながみんな演技しているようには見えなかった」
 雅美は真剣な表情を浮かべて話を聞いていた。
「なんでそんな事になったのか、原因に心当たりはないの。そうなって初めて気が付いたとき、あたしはこの河原に倒れていて、それまでの短い時間の記憶を無くしていたから」
「記憶喪失?」
「気が付いた直後も、自分が何者でそれまでどういう人生を送ってきたかの記憶はあったよ。どうして自分がそんなところに倒れている事になったのか、その部分の記憶だけがスッパリ無くなってたの。未だにそれだけは思い出せないんだ」
 突然、雅美は立ち上がった。「バカにしないで」そんな台詞が頭に浮かんで、あたしは身を固くした。腹を立てて、話を打ち切られるのかと思ったんだ。だけど、そうじゃなかった。
「それからの三年間はどうしてたの?」
 そういって振り向けた雅美の顔には、変わらない真剣さがあった。ただ、一瞬他の物が覗いた様な気がしたのは、気のせいだと思う。
「最初に・・・・・・家に戻って、手がかりになりそうな物を探して、・・・・・・それから、家族や友達の様子からなにか分からないか探ろうとしたけど無駄だったから、とにかくあたしの事が見える人を探そうと思って、いろいろなところを旅してたんだよ」
 なるべくわかりやすく伝わる様に考え考え言った。
「それで、今日ここへ戻って来てわたしに出会ったんだね。タイミングが良かったよ。ここはたまたま通りがかっただけだから」
 雅美は、腕組みをして考え込むようなポーズをとった。そうしていると、雅美のまとう空気がガラリと変わって、まるで昔の推理小説に出てくる名探偵の様な雰囲気を漂わせる。
 驚いた事に、雅美は信じてくれている様だった。それどころか親身になって話を聞いてくれていた。育ちがいいのか、そういう性格なのか、どっちにしろ雅美の素直さをうらやましく感じた。立場が逆だったら、絶対にあたしは信用しないだろうと思う。からかわれていると思って怒り出したかも知れない。
 三年間の先の見えない不安や、どこにぶつけていいのか分からない怒り、心の中に澱のように溜まった鬱憤が、とろけて流れ出すのを、あたしは感じていた。
「なくした記憶より前の事は覚えてるんだよね?その中に手がかりになりそうな物はなかったの?」
「最後に覚えてるのは、お母さんに怒られて、不貞寝した事。あたしの家は東京にあるんだけど、どうしてここに来たのかも覚えてないの」
 思い出したくもない最後の記憶。あまり人には言いたくない当時のあたしの日常に話が及びそうになって、ちょっとドキッとした。この河原は東京から遠く離れた観光が盛んな地方にある。
「そう・・・・・・じゃあ、もう一度家に戻って、周囲の人に聞いてみるしかないね」
「誰もあたしの事が見えないんだよ?話を聞こうにもどうしようもないし・・・・・・」
 あたしが言うと、雅美は腕組みを解いて、あたしに向き直った。
「三年間、話を出来る人を探してたって言ったよね?わたしはあなたと話が出来る。そういう人を見つけたらどうするつもりだったの?」
 そうだ。そういう人を見つけてあたしはどうするつもりだったんだろう。正直考えていたなかった。雅美なら、あたしと他の人との意思疎通の橋渡しが出来る。あたしが覚えてないあたしの事を、両親や友達に聞いてもらえば、何か手がかりを得る事が出来るかも知れない。それに、水を向けてくれたと言う事は、雅美はもうそのつもりでいてくれているという事だと思う。でも、それはあたしからお願いするべき事だった。
「お願い、雅美。一緒にあたしの家に行って、手がかりを掴む手伝いをして」
 雅美は、一つうなずいて即答した。
「いいよ。わたしの家も東京だから、一緒に帰って手がかりを探そう」
 思わず立ち上がって、雅美の手を取っていた。自分でも目が潤んでいるのが分かった。
「ありがとう。本当にありがとう」
 感謝の言葉が、こぼれ落ちた。
「気が早いよ、貴美子。まだ元に戻れるって決まったわけじゃいんだから。それに、わたしは勝海と旅行で来てるし、貴美子の姿は勝海には見えないと思うから、東京に戻るのは旅行をこなしてからだよ。それでもいい?」
 確かに雅美の言うとおりだった。あたしは何でも早合点して、一人で盛り上がってしまう。でも、これは大きな前進だった。
「構わないよ。ついでで構わない。雅美の彼・・・・・・勝海さんを探さないといけないね」
 あたしが言うと、雅美は驚いた様な顔をした。
「あ、そうだ。わたし、迷子だった」
 一つの事に集中すると、他が疎かになるタイプなのか、雅美は自分の状況をすっかり失念してしまっていたらしい。あたしは変にツボを刺激されて、自然と笑い出してしまっていた。
「なぁに、もぉー」
 自分でもおかしくなって来たのか、雅美も一緒に笑い出す。
 あたしは、これで元に戻れるかも知れないと思うと、自然にこぼれて来た涙を抑える事が出来が出来なかった。
 人は、感極まると、笑いながら泣く事もあるのだと知った。
 
 無言で過ごす穏やかな時間が、あたし達の間に流れていた。
 ひとしきり笑い合った後、下手に動き回って彼を捜し回るより、探しに来るのを待った方がいいと言う事になったのだった。
 心地よい脱力感に身を任せて、夕暮れに照り映える川面のきらめきを眺めて過ごす。茜色に縁取られた灰色の雲が、少しずつ形を変えながら、上空を通り過ぎてゆく。腰掛け直したベンチは、少しずつ温度を下げて、冷たくなりつつあった。
「ねぇ」
 流れてゆく雲を飽きもせずに眺めていると、ちょっと退屈した感じの雅美の声が、あたしを呼んだ。すぐ隣に座っている雅美に顔を向ける。雅美はなにか思いついた様な表情をして、あたしを見ていた。
「ねぇ、これから一緒に行動する事になるんだから、お互いの事をもっと知っておいてもいいと思わない? 勝海が来るまで、なにか話をしようよ」
 それもそうだ。このまま、雅美の彼が現れるまで無言で過ごすのもおかしな話だと思った。
「いいよ。でも、なにを話そうか」
 そこまでは考えていなかったらしく、雅美は少し考えてから口を開いた。
「三年間、あっちこっち旅してたって言ったけど、どこを巡って来たの?」
「いろんなところへ行ったよ。北は北海道から南は沖縄まで、めぼしいところは全部。なにしろ誰にも見えないから、乗り物乗り放題で、好きに移動出来たからね」
「へぇ、わたし旅行好きだからそこはうらやましいな。でも、じゃあ、海外へは行かなかったの?」
「行ったよ。アメリカ、アジア、ヨーロッパ。人のいるところならどこでも行ったよ。あたしの事が見える人がいるとしたら日本人とは限らないって、日本を一通り回ってから気が付いてね」
「すごいね。どこでも行き放題だもんねぇ。わたし、海外なんて行った事ないよ」
「うん。それは不幸中の幸いと言うか、得した事だと思う。でもね、どこに行っても・・・・・・」
 あたしは、自分でも意識しないで、吐息を漏らしていた。
「ひとりなんだよ。つまらない」
 旅行と言うのは、誰かと一緒に行ったり、行き先で誰かと触れ合ったりするから楽しいのであって、帰るところもなく一人で彷徨うのは、孤独と不安を感じるばかりだ。見知らぬ土地を歩く高揚感も、絶景の与えてくれる安らぎも、異文化への興味も、正しく感じる事なんて出来なかった。たとえば、大都市で行き倒れても、誰もあたしに気が付いてはくれないんだから。
「なんか、余計な事聞いちゃったかな・・・・・・」
 雅美が、遠慮がちに聞くのに対して、首を振った。
「そう言うのじゃないよ。あちこち行って来たあたしの実感を言っただけ。やっぱり旅行は誰かと行くのがいいよ」
 あたしが黙ると雅美も黙って、また沈黙の時間が訪れた。ただ、さっきとは種類が違った。
「こうなる前は一人でいるのが好きだった」
 雅美はなにも言わず黙って聞いていた。
「以前のあたしは、他人が嫌いで、学校に行くのも嫌で自分の部屋にずっとこもってたんだよ」
「引きこもりだったの?とてもそうは見えないけど・・・・・・」
 雅美が少し驚いた顔をしてみせる。そうかも知れない。この三年間であたしは変わったと思う。
「高校に入ってすぐかな、ちょっとした事がきっかけでいじめに遭って、それから外に出られなくなった。もともと人と接するのが苦手だった事もあって、それはもう見事に人間嫌いになった。今と比べると自分でも信じられないくらい対人恐怖症が酷かったんだ」
 雅美がポットを指さして、「飲む?」と聞いてきて、あたしは頷いてローズヒップティーを受け取った。少し啜って喉を潤した。
「記憶が途切れる前の最後の記憶、お母さんに怒られて不貞寝したって言ったでしょ?それだって、引きこもってた事で怒られたんだ。あの頃は、家族だってどうせ他人事だってお母さんやお父さんを恨んでばかりいたよ。どうして誰も分かってくれないんだろうってそればかり考えて、周りの人どころかこの世界自体を恨んでた」
 今考えると、稚拙な考えをしていたと思う。
 こうなってから自分の足で歩いて、自分の目で見て回って世界の広さと自分の小ささを知った。他人に求めてばかりじゃ何も変わらなくて、自分が動かなければ世界は微笑んではくれないのだと思い知った。
「だからね、あたしが誰の目にも写らなくなったのは、世界を嫌いすぎて世界に嫌われたからだと思うんだ」
 昔、似たような感じの童話があった。いじめっ子の主人公が妖精の魔法で小さくされて、旅に出る。そして、渡り鳥の群れに混じっての長い長い旅の末に大切な事を学び、最後には家に帰る。
 あたしも、少年の様に家に帰れるだろうか。
「大変な思いしたんだね。でも、三年の経験のおかげか、今の貴美子はとても自信に満ちてる様に見えるよ」
 雅美はしんみりした表情を浮かべていた。
「そう?食べ物とか寝床とか、他にもいろいろ苦労したもん」
 先に希望の見える今なら、こういう台詞も笑顔と一緒に言える。あたしは、雅美に微笑んで見せた。
 雅美が小さな声でなにか答えたみたいだった。
 だけど、微かなつぶやきで小さくて聞き取りにくかったから、何を言ったのかまでは分からなかった。
「今、なんて言ったの?」
 なにか、会話の流れにそぐわない言葉だった様な気がして聞き返すと、雅美は笑みを浮かべて答えた。
「ううん、聞こえなかったならいいよ」
 雅美の笑顔に、違和感の元は見あたらなくて、空を振り仰いだ。
 夕暮れの茜色も深まって、昼の光を失くそうとしているところだった。最初の星が上っているのを見つけた。
 あたしは、雅美に褒められたせいかとても誇らしい気持ちになって、視線の先で煌めく一番星を眺め続けた。
 


 雅美
 
 今夜、最初の星を見つけた貴美子は、なにか晴れ晴れとした顔をして夕空を見上げていた。
 彼女の横顔を眺めながら、ひっそりと安堵の吐息を漏らした。
 話を聞き終わって、わたしはうっかり口を滑らせてしまった。でも、聞こえなかったみたいだから、まぁ良かった。
 わたしはこう言ったんだ。
「もっと早く自分に自信が持てれば良かったのにね」と。
 危なかった。聞き咎められたら、最悪のタイミングで、黙っていた事を話さなければいけないところだった。でも、いつまでも隠している訳にもいかない。どうやって気が付かせてあげればいいだろう。
 子供の頃から、わたしには普通の人には見えないものが見えた。
 最初に、自分は他の人と違うと気が付いたのは、ある男の子との出会いがきっかけだった。
 当時、まだ小学四年生だったわたしは、父に見切りをつけた母に連れられて、オンボロの木造アパートに住んでいた。母はわたしを育てるために昼夜問わず働いていたから、家事一切は私の仕事だった。
 おかげで、学校が終わってから友達と遊びに行ったりしても途中で切り上げて帰る事が多くて、なんとなく他の子からは一歩距離を開けられていた様に思う。そのせいか、わたしの性格なのか、放課後は一人で部屋にいる事が多かった。
 ある日の放課後、いつも通り買い物を済ませてからアパートに戻ると、隣の部屋の前に同い年くらいの男の子が座っているのを見かけた。
 もう秋も深まり出したというのに半袖シャツに半ズボンと言う出で立ちで、背中に黒いランドセルを背負って、冷たいコンクリートの床に膝を抱えて座り込んでいるのだ。
 わたしが、目の前を通っても、通りの方をじっと見つめたまま動かず、全く意に介していない様子だった。その時は、誰か待っているのかなと思った程度で、部屋に戻った。
 次の日も、男の子は隣の部屋の前にいた。前の日とそっくり同じ出で立ち、そっくり同じ体勢で座り込んでいた。
 さすがに気になって声を掛けたけど、返事はすぐには帰って来なかった。わたしの声が耳に届いていないかの様に、男の子はじっと通りの方を見つめ続けた。
 苛立ちの混じった問いかけを何度か繰り返した後、ようやく男の子は首だけをわたしの方に向け、「お母さんが帰って来るのを待ってるの」と言った。それきり、また通りに顔を向けて動かなくなった。
 わたしの中では、お母さんが帰ってくるまで家に上げてあげる心づもりもあったのだけど、男の子の態度が気に入らなくてそのまま放って帰る事にした。
 その夜、仕事から帰ってきた母が「なにか臭うわね」と言い出して、隣近所からアパートの管理人まで引っ張り出しての大騒ぎになった。
 臭いの元は隣の部屋だった。
 わたしは部屋で待たされていたから見ていないけど、押し入れから隣に住んでいた母子の子供の方が遺体で発見されたのだと母に聞かされた。
 涼しくなった時期とは言っても、まだ日中は暑い日もあって、遺体は目も当てられない有様になっていたようだった。
 その日は、夜遅くまで刑事や鑑識官や、沢山の人が隣の部屋に押しかけた。
 翌日、その男の子はいなくなっていた。
 それきり姿を見なくなって、どうしたのかは知らない。でも、あの男の子が、隣の部屋から無惨な姿で発見された子だと言うのは、なぜか確信があった。
 それ以来、わたしは死んだ人の姿を見る事が多くなった。
 ある時は電柱や建物の陰に、ある時は生きている通行人のすぐ後ろに、彼らの姿は容易に見つける事が出来た。
 何度か、行きがかり上関わってしまって、この世への未練を断ち切る手助けをした事もある。中には、自分が死んでしまったのに気が付けずに、ふつうに生活を続けている者もいた。
 貴美子は、わたしの経験上、間違いなくそういったケースだった。
 たぶん、三年前にこの河原で意識を取り戻した時には、もう死んでいたんだと思う。
 元に戻れるという希望を持たせてしまった分、事実を告げるのが難しくなって、わたしもどうしたらいいか分からなくなってしまった。
 いきなり現実を突きつけるのはショックが大きい。かと言って長引けば、事実を知ったときの彼女の絶望も深くなる。あるいは、一緒に東京に戻って、手がかりを探す内に自分で気が付くチャンスがあるかも知れない・・・・・・。
「雅美」
 わたしを呼ぶ貴美子の声に、現実に引き戻されて、私はハッとした。
「なに?」
 貴美子は、いつの間にベンチを離れたのか、少し離れた芝生の上に立ってわたしの方を見ていた。
「勝海さん、遅いねぇ」
 ああ、また勝海の事を忘れていた。一つの事を考え出すと他に気が回らなくなってしまう。わたしの悪い癖だった。
「うん。いったいどこを探してるのかね」
 勝海は、割と男前で優しい反面、少し要領の悪いところがある。きっと今頃検討違いのところをうろうろしているに違いない。わたしもあまり人の事は言えないけど。
「日も暮れちゃうよ。真っ暗になる前にこっちから探しに行った方がいいんじゃない?」
 私が物思いに耽っている間に、辺りはだいぶ薄暗くなって来ていた。貴美子の言う通りにした方がいいだろうと思った。
「そうだね。それじゃ、ちょっと駅の方でも行ってみようか」
 貴美子は、わたしが答えるより先に駆け寄って来ていた。
「そうしよう」
 言いながら、脇をすり抜けて土手を駆け上がっていく。
 はつらつとした貴美子の後ろ姿を目で追いかけながら、後ろめたさを感じてため息をついた。ポットを入れたバッグを肩に掛けて、ベンチから立ち上がる。
「雅美!」
 土手の上から貴美子の呼ぶ声が河原に響き渡る。
「はいはい、今行くよ」
 土手の上を見ると、貴美子のシルエットの横にスーツ姿の男性が見えた。
「この人が勝海さん?」
 遠目にだって分かる。貴美子の横にいるのは勝海じゃなかった。
 旅行に来るのにスーツを着る人もいないだろう。
「ちが・・・・・・」
 否定しようとしたら、男の人に遮られた。
「雅美!探したぞ」
 わたしは、出かかった言葉を飲み込んで、その場から動けなくなった。
 
 男の人は、右手を一振りするとわたしに向かって土手を駆け下りて来た。
 わたしの前にたどり着くと、両手を膝に突いて息を整え始めた。
 眼鏡を掛けた優しげな風貌の額に汗が滲んで、前髪の後れ毛が張り付いていた。少し長めの髪が、残光に照らされて茶色く見える。
 細い、つや消し金のフレームに囲まれた目が私を見上げて、荒い息を漏らしながら言った。
「大変なもの見つけちゃってさ、・・・・・・警察呼んだりしてて、・・・・・・探すの遅くなったんだ。待たせてごめんよ」
 訳が分からなかった。目の前にいる男性は間違いなく勝海ではないのに、勝海のように振る舞っていたから。だけど、醸し出す雰囲気には覚えがあるような気がした。
「この人が、勝海さん?優しそうな人だねぇー」
 混乱して無言で立ちつくしている私をよそに、貴美子も土手を駆け下りて来て呑気な事を言い始めた。
「大変な物ってなんだろう」
 貴美子の言葉にまったく気が付かない素振りで、男の人はくの字に屈めていた上半身を起こした。細身で割と長身の体に、皺のついたグレーのスーツが少し野暮ったく見えた。
 覚えがある、と思った。
 目の前にいる本人にではなく、同じような空気を纏った人達に。
 彼らはどこにでもいる。
 街でも、田舎でも、人の営みのあるところではどこでも見かけた。特に、死期の近づいた者や死んで間のない者、死んでなお現世にしがみつく者、自分が死んだのに気が付かない者達の周囲では時々見かける。
 死神、と呼ばれるのを彼らは嫌った。そう呼ばれると必ず訂正してこう言うのだ。
「天上の公務員。そう呼んで頂いた方がより実態に近いかと」と。
 目の前にいるのがそうだとしたら、用があるのは私じゃなくて貴美子のはずだった。
 私の内心の思いに気が付いているのかいないのか、男の人は先を続けるために口を開いた。
「雅美を探してもうちょっと上流の方をうろついてたら、白骨死体見つけちゃったんだよ。もう、びっくりしてさぁ」
 男の人は、一反言葉を切って私と目を合わせた。意志の籠もった視線を投げかけてくる。「話を合わせて欲しい」私はそう受け取った。
 つまりこういう事だろう。
 彼は貴美子を迎えに来た。でも、貴美子は自分が死んでいるのに気が付いていない。連れて行くには、貴美子に気が付かせる必要がある。どこかから私たちを見ていた天上の公務員は、私に霊能があるのを見抜いて、貴美子を連れて行くための片棒を担がせようとしている。勝海に成り代わって、川上で見つかった死体の話をするのはなぜなのか、そこまでは咄嗟の事ですぐにはピンと来なかったけど。
 私はとりあえず、話がどういう風に進むのか様子を見る事にした。
 だけど、口をつく言葉からは力が抜けていたと思う。
「それは・・・・・・大変だったね・・・・・・」
「いや参ったよ。警察に通報したらなかなか帰してくれなくってさ・・・・・・、結局こんな時間になっちまった。ほんとごめん」
「それじゃしょうがないもんね・・・・・・気にしないでいいよ」
「待たせて悪かった」
 男の人はいったん話を切った。これで話は終わりなのか、何をしたいのか、わたしが分かりかねているとまた口を開く。
「・・・・・・かわいそうにな。流れが淀んだところに三年も沈んでたみたいだ。水草に絡まれて浮かんで来られなかったらしいよ」
 話の流れを白骨死体の方へ戻すつもりらしい。それが、きっと貴美子の死体なんだろうと思った。
「警察の人が言ってたけど学生証が残ってて、身元の確認はすぐに出来たみたいだよ」
 男の人がさらに言葉を続けた。
 学生証。身元。二つのキーワードが頭の中で急激に意味を持った。
 貴美子に自分の死を自覚させるなら、その白骨死体が貴美子の物だと言う事を聞かせるのがてっとり早い。
 今この場で、発見されたと言う白骨死体の名前を告げるつもりだ。わたしが同調すればすぐにそれは達成される。
 わたしの様子に違和感を感じたのか、貴美子が不思議そうな表情を浮かべてわたしを見ていた。
 脳裏に、さっき希望に満ちた顔で話していた貴美子の顔が浮かんだ。わたしが持たせた希望だ。それを裏切る事になるかも知れないと思うと、気が咎めた。
 胸の辺りが締め付けられる様で落ち着かない。
 だけど・・・・・・。
 このまま放っておけば、貴美子は永遠にこのまま・・・・・・今知らせなくてもいずれは気が付いて深く傷つく事になる。だったらなるべく早いほうがいい。
「どこの人だったの?」
「東京の高校の子だって。出てきた学生証は三年前の物だから、今生きてたら二十歳前後くらいだろうね」
「ふーん・・・・・・」
 相づちを打ちながら、次の台詞を考える。ここから名前を出す方向に導くにはどうしたらいいのか・・・・・・。学生証には何が書いてある?
「どこの学校の子?」
 わたしの問いに男の人が答えた。口にしたのは、わたしが住んでいる場所にほど近い女子校の名前だった。
 だったら地元の友達も何人か通っていた。
「そこ、家に近いよ。まさか知ってる人じゃないよねぇ」
 名前、名前だ。ここで白骨死体の名前を出させれば、貴美子に真実が伝わる。
 私は男の人の目を見返した。意を決して口を開く。
「な・・・・・・」
 でも、うまく言葉が出て来なかった。
 本当にこんな方法でいいんだろうか・・・・・・、そんな思いが沸いて来て、気持ちが萎えてしまったからだった。
 男の人の目が先を促していた。でも、続ける事が出来なかった。
 バツが悪くなって目を逸らしてしまった。
「警察の人が名前言ってたんだよなぁ・・・・・・なんて言ってたかな・・・・・・」
 踏み切れなかったわたしの後を引き取った男の人の言葉だった。思わず顔を上げた。
 淡々としゃべり続ける様子からは、内心を伺う事は出来ない。
 視線を感じて貴美子に振り返ると、少し離れたところで、不安を滲ませた表情で立っていた。
 男の人の言葉の中に、自分との符号を見つけて気が付きつつある様だった。やっぱり駄目だと思った。
「やめて!」
 わたしは思わず叫んだ。
「確か・・・・・・」
 まるで聞こえないみたいに男の人は先を続ける。
「やめてってば!!」
 焦燥感に駆られたわたしは、強く言い募っていた。
 両手で男の人の腕を掴んで力一杯揺すった。ビクともしなかった。
 こうなるともう会話にすらなっていない。でも、男の人にとっては、ここまで来たら形なんかどうでもいいんだろう。
 わたしが、精一杯叫びながら、渾身の力を込めて揺すり続ける中、混乱した様子の貴美子の声が聞こえた。
「いったいどういう事!?その人なにを言ってるの!!」
 最後の方はほとんど叫び声だった。わたしも絶叫していた。
 男の人の声は、何事もないみたいに、朗々と河原に響き渡った。
「名前は・・・・・・藤原・・・・・・貴美子だったな」
 言ってしまった。
 それまでの騒ぎが嘘のように、辺りを静寂が包み込んだ。
 それでもわたしは男の人を揺さぶり続けた。ただし、それまでとは違って、腕に力が入ってなかったと思う。
「なにこれ?その人、本当に雅美の彼なの?一体なんなの?雅美、説明してよ」」
 困惑と怒りの混じり合った声音で貴美子が言った。
「わたし・・・・・・」
「あたしは本当に死んでるの?雅美は最初から知ってたの?その人とグルになってあたしを騙してたって事?」
「貴美子、違うの。聞いて。お願い・・・・・・」
「どう違うのよ!もう雅美なんか信じられない!!」
 貴美子の言葉は鋭い棘になって、わたしの心に突き刺さった。
 わたしが追いすがろうと走り寄ると、貴美子は踵を返して駆けだした。
「ウソ!あたしは死んでなんかいない!!」
 悲痛な叫びを残して、川の上流の方へとぐんぐん遠ざかってゆく。
「貴美子!!待って!」
 わたしはすぐに貴美子の後を追った。
 だけど、少し走ったところで、転がっていた石に足を取られて転んでしまった。
「いったいなぁ、もう!」
 地面に打った膝をさすりながら顔を上げると、貴美子の後ろ姿はどんどん小さくなって、すぐに見えなくなった。
 人の気配がして、すぐ後ろで立ち止まった。
 わたしは、怒鳴り出しそうな気持ちを抑えて振り返った。
 
 男の人が前屈みの姿勢で、右手を差し出して来た。
 わたしは、その手を払って自分で立ち上がった。服に付いた土をはたき落とす。
「難しい役割を突然振ってしまって、申し訳ありませんでした。あなたなら状況を正確に理解して頂けると思いましたので」
 男の人は、淡々とした口調で言った。落ち着いた様子が返って気に障った。
「やめてって言ったのに!」
「すみません」
 わたしの荒げた声にも動じず、男の人は同じ調子で謝罪の言葉を口にした。
「彼女に気が付いて頂くには、ああ言った手しかなかったんです。直に私が事実を告げたのでは、まず信じて頂けませんから」
 突然現れた見知らぬ人に「あなたはもう死んでいるんです」と言われて、信じられる人がいるとはわたしも思わない。それとなく知らせる方が、聞く方に取っても受け入れやすいはずだ。
 男の人に手を貸す事に決めたのに、途中で気が変わったのはわたしだし、貴美子が自分で気が付いてくれる事を期待もしていた。
 燃え盛っていた怒りの炎は、急激に勢いを弱めた。
「・・・・・・もういいよ。分かってるから」
 わたしは、男の人に背を向けて、貴美子が走り去った方向へ目を向けた。
 すっかり日も暮れ、夜の闇が濃くなって来ていて、河原を見通す事は出来なかった。
「貴美子はなんで死んだの?」
 希望を胸に夜空を見上げる貴美子の横顔が浮かんで来て、わたしは背後にいる男の人に質問を投げかけていた。
「死の前の晩、彼女は母親にひどく叱られて家出したんです。そして、この河原の上流で野宿しようとして川に落ちました」
 野宿というのがなにか貴美子らしい気がして、自然と唇が綻んでしまっていた。
 不謹慎な気もしたけど、どうせこの暗闇じゃ分からないだろうからそのままにした。
「貴美子を三年も放っておいたのはなぜ? すぐに事実を教えてあげれば、もっと傷つけないで済んだかも知れないのに」
 すぐに教えていれば、自分の状況を曲解して変に希望を持ったりしなかっただろうと思う。
「私の担当では無かったので聞いた話なんですが、担当者も接触はしたんだそうですよ。でも、彼女、思いこみが激しいと言うか・・・・・・頑固なところがあって、まともに取り合って貰えなかったんだそうです。そのうちに彼女が日本中を放浪するようになって、とても彼女だけを追いかける訳にはいかなくなった。果ては世界中ですからね。後回しに・・・・・・と言う事らしいです。面目ありません」
 「世界を嫌いすぎて、世界に嫌われちゃったんだと思う」と言ったときの貴美子の不安と希望が入り交じった表情が頭に浮かんで、わたしはまた笑みを浮かべていた。言われて見れば確かに変わった子だったと思う。
 いくら嫌ったって、世界は誰も嫌ったりなんかしない。その腕の中ですべてを包み込んで見守るだけだ。逃げ出すのはいつも人間の方・・・・・・。
「貴美子の行き先は分かってるの?」
「ええ、今警察が遺骨を川底から引き上げています。照明車まで持ち込んで捜索していますから、彼女にもすぐにそれと分かるでしょう」
 言われて見ればずっと上流の岸辺で、夜間工事でもしてるみたいに白い光が光っているのが、辛うじて見えた。
 男の人が語った話のほとんどは本当の事だと言う事だ。勝海のふりをしたのと、偶然死体を見つけたと言う事以外は。
「貴美子が今日ここに戻ってきたのは偶然だったの?」
「はい。彼女の意志です。そこまでは干渉出来ませんから。・・・・・・ただ、分かってはいました」
 わたしは耳を疑った。天上の公務員は未来を見通す事が出来るとでも言うのか。
「それは予測出来たっていう意味?」
「いいえ、はっきり分かっていました」
 やっぱりそう言う事なのだろう。それくらいの事が出来ても不思議じゃない。
「じゃあ、わたしがここに来る事も?」
「はい。・・・・・・ただどういう成り行きになるかは分かりませんでした。あなたに霊能があるとは知りませんでしたし・・・・・・。現れたあなたに『視えている』事が分かってからは、あなた方が接触するで彼女が気付いてくれる事を期待はしてましたが・・・・・・」
「なのに、わたしは彼女に協力する事を約束してしまった。それで勝海に成り代わって貴美子に事実を伝えようとした訳ね」
「はい、その通りです」
「わたしみたいなのが、あなた達の存在を知っているのは分かっているでしょう?迎えに来てるのを知らせてくれたら、もっと傷つけないで済む方法を考えられたのに・・・・・・」
「それは・・・・・・」
 男の人はなぜか口ごもった。そう出来ない理由があるだろうか? 返事はすぐには帰って来なさそうだった。
「これから貴美子を迎えに行くんでしょう? わたしも一緒に連れて行ってよ」
 わたしは切り上げて別の事を言った。上流にかろうじて見える光源を指差す。わたしの足で歩いて行くには遠い。
 こうなった以上、せめて貴美子に追いついて謝りたかった。
 会ってすぐに事実を話さなかった事、知らないふりで話を聞いていた事、分かっていて希望を持たせてしまった事を、ちゃんと謝りたいと思った。
「いいえ、私は行きません」
 意外な答えが返って来て驚いた。
「担当の者が向こうで待ち受けているんです。もう接触しているんじゃないでしょうか」
 当然、目の前にいる天上の公務員が貴美子を迎えに行くのだと思っていた。
 だったら、今を逃すと二度と貴美子には会えない事になる。
「そう。じゃあ歩いていくわ」
 なおさら急がなければ。
「間に合いませんよ。それにそう急ぐ事もありません」
 わたしが背を向けて一歩を踏み出そうとすると、男の人は言った。
「なにを言ってるの?」
 どういう意味か分かりかねて、わたしはまた振り向いた。
 男の人は、それまでとまったく変わらない佇まいでそこに立っていた。
「・・・・・・やはりお忘れなんですね」
「・・・・・・?」
 微かに感じていた違和感が、どんどん大きくなって行くのを感じていた。
 どうしてわたしがここに来る事を知っていたのか。
 事前に接触出来なかった理由はなんなのか。
 一人の人間を迎えに二人の公務員が来ているのはどうしてなのか。
 どうして急ぐ必要がないのか。
 わたしがなにを忘れていると言うのか・・・・・・。
 取るに足らないと思っていたいくつものなぜとどうしてが密度を増してわたしに迫って来る。彼の言葉の裏にある簡単には飲み下せない何かが、不安感に疑問の針を突き立てていた。
 このままこうしていてはいけない!
 直感が激しく警告を発する。
「なに?なんなの?・・・・・・もうわたしに用はないでしょ!?」
 自分でも気が付かないうちに後退りしていた。
 早くここを離れなくちゃ!
 それに・・・・・・そうだ。また勝海の事を忘れていた。
「わたし・・・・・・わたし、勝海を探さなくちゃ!」
 言い捨てて踵を返したわたしの次の一歩は、だけど地面を蹴る事は出来なかった。男の人が腕を掴んで制止したからだ。勢いを殺された反動でよろけた。
「待ってください。勝海さんはここには来ないし、あなたを探してもいません」
 わたしは逆上して怒鳴っていた。
「勝海はわたしを探してるわよ!! 馬鹿な事言わないで!!」
 駄目だ。この男の人の言う事を聞いちゃ駄目だ!!
 さらに勢いを増した危機感が最大限の警報を打ち鳴らしていた。
 全身の血がもの凄い勢いで体中を駆けめぐる。体が熱くなってぬるい汗が頬を伝わった。
「放してよっ!!」
 ありったけの力で掴まれた腕を振りまわす。
「あなたは自殺されたんですよ! 高速道路を走る車に飛び込んで!!」
 頭を思いっきり殴られたような衝撃を感じた。
 嘘だ!絶対嘘だ!!
 理性は精一杯の抵抗を続けるが、同時にいくつもの光景が脳裏にフラッシュバックして次々蘇って来た。無意識に封じ込めていた記憶の本流が、理解を伴って帰って来ていた。
 世界が揺らめいて、わたしはその場に崩れ落ちた。

「あなたは・・・・・・」
 男の人の声が降ってきて、わたしは呆然と顔を上げた。
「楢原勝海という男性に騙されていたんです。彼は妻子がある事を隠してあなたとも付き合っていた。だが、心底惚れ込んでいたあなたはその事を知って・・・・・・」
「もういいわ・・・・・・思い出したからやめて。聞きたくない」
 わたしは勝海を信じ切っていた。
 頭の中に、勝海の人の良さそうな笑顔が浮かぶ。その裏に秘められた事実にわたしはまったく気が付く事が出来なかった。わたしの惨敗だ。勝ちとか負けとか、そう言う付き合いはして来なかったつもりだけど、事実は違った。わたしには真実の愛だったけど、勝海にはただの遊びだった。そう言う事。今は認めるしかない。
 男の人の説明を遮ってわたしは嗚咽した。喉が引きつっておかしな泣き声が啜り漏れてしまったと思う。
 子供の頃から他人と違ったせいか、わたしは他人に愛された実感がない。
 母はもちろん愛してくれたと思うけど、一人でわたしを育てる為に働き詰めで、時間が無さ過ぎた。
 人生で一番多感な時期に、誰とも心を通じ合わせる事が出来ずに孤独だった。孤独なまま一年に一つずつ歳を取り、二十歳になっていた。
 だから、わたしは人間がつく嘘に敏感なつもりだった。大きな間違いだった。人と心を交わらせると言う経験が不足していたために、思いこみに落ち込んでいたのだ。
 そこに勝海が現れて、わたしは恋に落ちた。
 幸せな二年間だったと思う。少し歳の離れたカップルだったけど、そんな事は問題にもならなかったし、愛されている実感があったから。わたしの人生で一番幸せな時期だった。
 今回の旅行を持ちかけて来たのは勝海の方だ。今になって思えばその時から様子おかしかった。妙に落ち着きがなかったし、どこか上の空だった。
 彼にとっては、出かける前からわたしとの関係に決着を付けるための旅行だったのだろう。
 チェックインした宿ですべてを明かし、「もう会えない」と告げられた。「この旅行で最後だ」と。わたしは何も考えられなくなって、旅行中従順に過ごした。
 帰り際、「東京には一人で帰りたい」と告げたわたしの意見を汲んで、勝海は一人で帰って行った。
 働かない頭と整理の付かない気持ちを引きずって、わたしはこの辺りをさ迷った。気が付くと高速道路沿いの小道を歩いていた。高速バスのバス停への入り口から中に入り、そして・・・・・・。
 自分でもなぜそんな事をしたのかは分からない。魔が差したとしか言いようがなかった。
 最後に覚えているのは、もの凄い勢いで迫って来る大型トラックのヘッドライトの光芒と鳴り響くスキール音、バス停でバスを待っていた乗客達の悲鳴や怒声、そしてそれまで経験した事がないほどの衝撃・・・・・・。
「私はあなたを迎えに来たんです。一緒に行きましょう」
 男の人が言った。
 まとまらない頭で頷いた。
 わたしの人生は終わったのだ。そう思うと自然と涙が溢れて来た。
 勝海の事は、嘘みたいにどうでも良くなっていた。
 ひどい男だと思うし許せるわけじゃない。だけど、世の中にはそんな男いくらもいるし、そんな話はいくらでも聞く。そんな男に引っかかって、自殺してしまった自分の行動の方が恥ずかしかったのだ。勝海のために断ち切ってしまった自分の人生をただただ悼む気持ちだった。
 ふいに、母の顔が思い浮かんだ。勢いを弱め始めていた涙が、また溢れた。
 母を一人で置いて来てしまった。
 悔やんでも悔やみ切れない程の後悔が、胸をきりきり締め付けた。。
「アンタが結婚したらワタシは好きにやらせて貰うからね、早く収まるところに収まって孫の顔の一つも見せてちょうだいよ」
 何かに付けて、口にしていた台詞だ。
 「わたしまだハタチだよ」と言っても、「今の内からせっついておかないとね」と譲らなかった。
 わたしの成長と共に皺が少しずつ増えて行った母の、「ワタシは苦労なんてしていない」とでも言いたげな気丈な顔が、娘の死を知ってどんな風になっているか、想像するとまた胸が締め付けられてしまった。
「ごめんなさい、お母さん・・・・・・ごめんなさい、ごめんなさ・・・・・・」
 他に言う事はなかった。わたしはごめんなさいを繰り返しながら、泣き続けた。
 男の人は傍らでずっと待ってくれていた。
「落ち着かれましたか?」
 泣き疲れて、放心状態になったわたしにハンカチを手渡してくれた。
 それを受け取って頬を拭った。返すかどうするか迷っていると、「差し上げます」と言ってくれた。
「わたし、自殺したのよ。それでも連れて行ってくれるの?」
 わたしは、男の人に聞いた。自殺者は成仏出来ない。どこかで聞いた事があったから。
「ああ、そう言う迷信がありますね。自殺された方は未練が強くて天上に行きたがらないんですよ。望まれれば我々は拒んではいません」
 言いながら右手を差し出した男の人のスーツは、いつの間にか喪服に替わっていた。
 左手には、どこから出したのか長い柄の付いた大きな鎌が握られている。
 わたしは手を取って立ち上がった。
「それは?」
「死神の大鎌です。これで現世との縁を断ち切ります。それをしてからで無いと天上にお連れする事が出来ないんです」
 鎌を右手に持ち替えながら答える。
「貴美子には天国で会える?」
「ええ。彼女が迎えを受け入れていれば会えると思います」
 貴美子には死ぬ気は無かった。貴美子じゃない。世界を嫌ったのはわたしの方だ。世界に嫌われたと思って自分から逃げ出した。貴美子にとても恥ずかしかった。
「天上の公務員さん、あなたの名前は?」
 わたしは、まだ男の人の名前を聞いていなかった事を思い出して聞いた。
「キルマと申します」
「日本人・・・・・・だよね?」
「コードネームとでも言うんでしょうか。仕事の名前です」
「そう・・・・・・。じゃあキルマ、早く連れて行って」
「かしこまりました」
 キルマは重そうに見える大鎌を片手で構えた。まるでハタキでも操るような気安さで、私の前の何も無い空間にゆっくりかざした。
 ぶつん。
 何かを断ち切るような太い音が、確かに聞こえた。
 とたんに体が軽くなって、ふわりと浮かび上がる。キルマが差し出した手を取ると、ゆっくり上昇して行った。
 地面がどんどん遠ざかって行き、夜陰に紛れて黒一色に塗りつぶされた。
 ふと顔を上げると、星をまばらに振りまいた様な市街地の夜景が、眼下に広がっていた。
「綺麗ね」
「都市部と違って地味ですが、その分静かに人の営みが伝わって来ます」
 呟いたわたしの言葉に、キルマが答えた。
 その通りだと思った。
 華やかさ、煌びやかさに欠けても、一つ一つが生活の重みを感じさせて力強い。わたしがいなくなっても、ずっと続いて行く命の営みの証しだ。わたしの居場所はもうないけれど、ずっとずっと続いて行って欲しい。何か祈るような気持ちがこみ上げて来て、叫ばずにいられなかった。
「さようなら!」
 お母さん、ごめんなさい。わたしがいなくなっても、いつまでも元気で。
 徐々に遠ざかって行く街明かりに向かって、わたしはもう一度叫んだ。
「さようなら!!」
 

 (2005年12月4日脱稿)
 



   

    





                         






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