「強運の被害者」
その日、とあるバーのマスターは始めて来る客の一人に見覚えがあるのに気が付いた。
ここで見るのは始めてだが、どこかで見たことのある男。いや、それどころか良く知っている顏のような気がした。その男は何か嫌な事でもあったのか、一人飲み続け、閉店時間が来る頃にはすっかり酔いつぶれてしまっていた。
店を閉めてからもいくら起こしても起きないその男にうんざりしたマスターは、諦めて自分のために酒を作り煙草に火をつけた。男の隣りの椅子に腰掛け、ヒマな時に読む事にしている文庫本を読み耽った。
煙草を4本吸い、あまり厚く無い文庫本を半分ほど読み進めたところで、男が目を覚ました。
頭を巡らし周囲を見まわす。マスターに気が付くと神妙な面持ちで言った。
「深酒して寝入ってしまったようだ。申し訳無い」
深々と頭を下げる。
マスターは男の言葉遣いと態度から高い地位にある人間である事を察した。それでいつもより丁寧に接する事にした。
「構いませんよ。こういう商売をしていると割と良くある事ですから。お気になさらないで下さい」
カウンターを内側に回って男の前にお冷を差し出した。
男は受け取ったお冷を美味そうに飲み干した。
「本当に申し訳無い。」
男は、懐から財布を取り出すと代金を多めに払おうとしたが、マスターは断わった。
「その代わりまたいらしてください。お待ちしてますから」
マスターは、満面の笑みを浮かべながら、先刻から気になっている疑問を口にしてみようと思った。
「あの……失礼ですが、どこかでお見かけしたような気がするのですが……」
男は、得心した表情で名を名乗った。その名前には聞き覚えがあった。と言うよりも、今や日本国民で知らないものは無いはずの名前だった。マスターは納得した。
その日に当選した総理大臣の名前だったのだ。ニュースでさんざん報道されているのだから、知らない方がおかしい。どおりで見覚えがあるはずだと、マスターは思った。
だが、総裁選が終わって当選した当日の夜だと言うのに、総理大臣が街のバーで酔いつぶれているとはどう言う事だろう。
聞き難い疑問に口篭もっていると、総理大臣は聞き取れるか取れないかの小声でいった。
「最後の夜くらい自分の好きにしたかったんだ……」
マスターはどう言う意味か図りかねた。総理大臣ともなると自分のために使える時間などまったく無いものなのだろうか。自由な時間を楽しめる最後の夜、そう言う意味かもしれない。
「総理ともなられると、自由になる時間なんてほとんど無いんでしょうね」
男はマスターを見て微笑んだ。
「そう言う意味じゃあないんだ。……そうだな、アンタにも謝らねばならんな……聞いてくれるかな?私が総理大臣にならざるおえなかった不幸の物語を」
マスターは断然話しに興味を掻き立てられた。総理大臣として選ばれたのだから大変な幸運に恵まれていると言っても良い筈ではないか?それを目の前の男は不幸と言ったのだ。それに、自分にまで謝らねばならない事とは一体なんだろう。今回の総裁選には、もしかしたらとんでもないスキャンダルが隠されているのかも知れない。
いつもならとっくに家に帰って寝入っている時間だったが、ここで話しを打ち切ってしまうには惜しく思われた。
「聞かせていただきます」
マスターは、総裁の前に新しい酒の満たされたグラスを差し出した。
昔から特にツキに恵まれている方ではなかった。かと言って特別不幸と言うわけでもなく、要するにごく平凡な普通の若者だったと言う。特別な家庭に生まれたわけでもなく、特別な教育を受けたわけでもない。本来なら、総理大臣に等なるべき人間ではない、と男は断わった。
そんな平凡な男が今や総理大臣として世に知られている理由は、本人によると「原因不明の幸運」によるものだと言う。それは何の前触れもなく始まった。
初めは小さな幸運が続いただけだったので、男はそれが不幸の始まりであるとは気付かなかった。小さな幸運とは、それまで勝った事のなかったギャンブルで勝ち続けたとか、突然昇進しただとか、事故を起こした電車に乗り遅れただとか、そんなような事だった。
急に運が開けて来たと思ったが、それだけならば幸運を幸運として受け入れ、幸せな気持ちで人生を過ごせたに違いない。
それが実は不幸であると気が付いたのは、随分と時間が経ってからの事であった。
きっかけは、男がそれまで勤めていた会社の役員に納まった時の事だ。
それまでそのポストに就いていた人物が不慮の事故で亡くなって、急遽男が後釜に抜擢された。その知らせを受けた時、男は自宅にいて妻とくつろいでいた。妻は記念日好きな女で、その日付けとなぜか時刻までも記憶していた。その時は二人して大喜びして終わったのだが、翌日の朝刊に大事故のニュースが報じられていた。新聞を読んだ妻は、「あらやだ、この事故、昨日の電話が来た時刻に起こっているわ」と、言ったと言う。
そのセリフを聞いた事によって、男は良い知らせが入るたびになんとなくその時刻を覚えておく様になった。それによって、しばらく後にある事実に気がついたのである。
自分に良い事が起こるたびにどこかで悪い事が起こるのだ。
そして、時が経つにつれ男の身に起こる良い出来事と、どこかで必ず起こる悪い出来事が比例してどんどん大きくなってくるのだった。
男は恐ろしくなった。このまま、良い事が起こり続ければいつか本当に大変な事になってしまう。
追い詰められた男は自殺を図った。それも何度も。そして最後には諦めた。
男が死のうとするたびに幸運に助けられ、その度にまたどこかで悪い事が起こったからだ。
そして運の成すがままに任せて成功を繰り返すうちに、ついに総理大臣にまで上り詰めてしまったのだった。
話し終わると総理大臣は、酒を煽った。
マスターは、信じられない気持で一杯だった。
こんな荒唐無稽な話しがあるわけがない。だが、仮に本当の話しだとして、男が総裁となった今日、いったい何が起こったと言うのだろう?
開店から閉店までの間、マスターは店に閉じこもる事になるためTVやラジオと言った情報媒体とは無縁だ。仮に何かが起こったとして営業中のマスターの耳には入らない。マスターは男に尋ねた。
「それで、今日は何が起こったのですか?」
「それは……」
男は口篭もった。
「自分の目で確かめて欲しい。ここを出ればすぐに分かるはずだから」
そして、ひとしきり詫びを述べると男は出ていった。
マスターは、すぐに片づけを済まして店を出た。
店を出ると、深夜だと言うのに街道沿いの歩道の所々に人々がたむろしていた。
皆一様に空を見上げている。表情は虚ろで、絶望を貼りつかせていた。
彼らに習って夜空を見上げるとこれまでに見た事もないような大きな流れ星が見えた。
「あれは……」
マスターが呟くと、すぐ近くに立っていた中年女性が教えてくれた。
「さっき、臨時ニュースで報道してたんだよ。今日の夕方、ある小惑星が地球の引力に引かれて突然動き出したんだ。アレが落ちた時人類の歴史は終わるんだ……」
(1999年8月脱稿)
SFジュブナイル