SFジュブナイル







 

 「週末を死人とともに」




↓第九十九回 〔第六章 シーン4 その1 2007年10月11日(木)分〕↓




 床に撒いたオイルの帯は跨ぎ越せる程度の物のはずだったが、視認できなければ無限の川幅を持った大河と同じことだった。全力で当たってもこれで充分と言うことはない。飛ぶ直前に利かせた機転で、最大限踏み切ったまでは良かったが、着地の事にまで考えが及ばなかったのは、正直失敗だった。
 左足が床の感触を見失うと同時に訪れた上昇感が途切れ、すぐにやって来るだろう着地のショックに備えて両足を前方に蹴り出したものの、付き過ぎた勢いが元々無理な暗闇での着地タイミングの計算をさらに狂わせ、気が付いた時には無様に床に這いつくばっていた。頬を押し上げる冷たい感触に顔をしかめた後、張り付いた埃を手の甲で拭いながら身を起こす。ジャケットの下に装着したプロテクターのおかげか、ダメージらしいダメージは受けていないようだった。大事な場面でまた無様を晒した劣等感は押し殺し、なんとか顔を上げる。と、右手で誰かが身じろぎする気配を感じた。
「史郎? 大丈夫か」
 背後からの光で薄ぼんやりと判別出来るその姿は、さっきまでとはまるで別人の動きを示し、さっぱりとした「大丈夫です」の返答を伴って立ち上がった。
 触った感じでガラスケースと分かる遮蔽物から、目だけを覗かせ階段の様子を窺う。そこだけ闇を切り取った様な階段口は、もうもうと立ち込める消化剤に遮られてもまだ目に眩しい屋外からの光で、白く浮かびあがって見える。
 金髪達がフロアに飛び込んで来る気配はまだない。と言うより、つい数瞬前まで背中越しに届いていた混乱混じりの悲鳴や怒声、消化剤に咳き込みながら繰り出される罵り声、行き場を求めて発せられる物音などがピタリと止んで、階段口は緊張を強いる静寂に包まれている。
――なんで追って来ない。
 苛立ちながら、胸の内に吐き捨てる。その場で堪えているのか、一旦二階へ引き返したのか、どっちにしても罠に掛かってくれなければこっちは動きの取りようがない。
――つくづく思い通りに行かねぇなっ!
 言下に我が身を呪ってみても、それで事態が動くはずもない。苛々と歯噛みする時間が過ぎて行くだけだ。
 ふと気になって、階段口の左脇に目線を移す。逆光で闇が濃くなるばかりのそこには、沢村が待機しているはずだ。……そのはずだ。あれだけ事態が推移しても、階段口に飛び出して来なかった沢村の精神力には驚くし、感心…いやいっそ感嘆すら覚える。それは、沢村の中でおれの立てた稚拙なプランがまだ生きていて、状況は計画の遂行可能な範囲内にあると判断した証拠なのだろう。ただおれの中に、お互い呼び交わさず事前に決めた手筈だけを頼りに目的に向かってひたすら行動する、と言う経験があまりないため、本当にそこに沢村がいるのか、プラン通り進めていいのか不安を感じてしまう。
――大丈夫だよな?
 心中に呼びかけてみても、当然返事はない。いずれにしろ、どう転がすべきかは金髪達の出方ひとつなのだ。そう長い時間はかからないだろう。待つしかない。おれは再び階段口に意識を集中した。




↓第百回 〔第六章 シーン4 その2 2007年10月18日(木)分〕↓




 空気よりも重いだろう消化剤は、いつまでも階段に立ち込めてはいなかった様だ。目を戻した時には既に向こうを見通せるくらいには晴れ、道を挟んだ向かいに建つ雑居ビルの虚ろな窓、雨垂れの跡が目立つ壁面が覗き始めていた。
 一瞬、静寂が途切れた。再度耳を澄ませても二度目はないらしい。何も聞こえない。それでも、凪いだ水面にさざ波が立つ様に、不確かな疑念が体中に広がって行く。細心の注意を払って、なおかつ消し切れなかった微かな衣擦れの音。察知した異変をそう直感し、階段口に向けたままの目を凝らす。なんの変化も見付られず、そのまま待ち続ける。そのまま数秒間が経過し、思い過ごしだったかと諦めかけた時、階段口の下部、最上段をかするように、何か黒い物が顔を出し、すぐに引っ込んだ。
 ――来た。
 案外冷静な脳みそで見た物を受け入れる。消化剤のせいで真っ黒とはいかないが、あれは人の頭。黒髪の乗った頭頂部だった。金髪達は、兵士よろしく階段を這って進んで来た事になる。
 そこまで密かに接近しておいて、まさか大声を上げながら暗闇に突っ込んで来てくれるはずもない。が、それでは、またプランから外れてしまう。乱闘になれば、どう考えてもこっちの分が悪い。絶対に避けたい。ここは、なんとしてもプラン通りに進めなければ。
 そこまで考えを進めて、周囲の闇に目を凝らす。薄ぼんやりとしか見えないが、ここには真新しいバイク用品が……言い換えれば投げ付けるに手頃な大きさの物がひしめいているのだった。
「史郎」
 小声で、付近にいるはずの史郎に呼びかける。
「はい」
 ごく間近、やや左後方から返事が来た。おれは、体ごと史郎の方を向いた。
「連中、もうシャッターの前まで忍び寄って来てる。今からおれが挑発して罠に飛び込ませるから、お前は階段の右脇辺りまで移動しとけ。連中が罠にかかったら沢村が下の階に向かうだろうから、一緒に降りるんだ」
 一息に伝えて、シャッター脇を差し示すジェスチャーをする。史郎は、少しの間逡巡した後、口を開いた。
「あいつらの注意を引くなら、僕も一緒の方が良くないですか? もしもの時にはふたりいた方がなんとかなり易いと…」
 最後まで言わせず、おれは口を挟む。
「もしもの時に、ひとりの方が対応し易いんだ。頼むから言う通りにしてくれ。な?」
「分かりました……」
 そうは言ったものの史郎の答えは不満げだった。不承不承、と言った声音が闇に吸い込まれる様に消えていく。史郎にすれば、興奮して不用意に飛び出した失敗の埋め合わせがしたいのかも知れない。が、おれにはそうさせてやるだけの余裕はない。
「小野田さん、本当に気をつけてくださいね」
「分かった」
 心配そうな史郎の声に応えると、朧気な姿と気配はすぐに離れて行った。




↓第百一回 〔第六章 シーン4 その3 2007年10月18日(木)分〕↓




 階段口に目を戻す。状況に変化はない。おれは手近な棚に手を伸ばし、触れた物を掴んだ。固いが滑らかな手触りを感じながら、それが何かは確かめないまま階段口に向かって放り投げる。放物線を描いて飛んでいったそれは、階段口に達した所でヘルメットである事をおれに告げ、階下に姿を消した。
 予想した通りの肉を打つ鈍い音が上がり、呻き声も上がった。手を伸ばして触れる物を、片っ端から投げつけることにした。
「おい、それで上手く隠れてるつもりか? さっきからずーっとそうしてるが、こっちは最初からお見通しなんだよ。くだらねぇ嘘吐きやがって、そんなにおれを殺したいなら勝負してやる! こっち来やがれ!」
 手と口を同時に動かし、早く来いと心中に念じる。ヘルメット、ゴーグル、ジャケット、バッグ、あらゆる物を放り投げるが、まだ動きはない。
 次の投擲物を求めて手を伸ばす。掴んだ物の質が変わった事を感じつつ、そのままの勢いで放り投げる。極端に重い、曲がりのある太いパイプの様な物だ。おれの手を離れたそれは、床の上を重い音を響かせながら飛び跳ね、階段口に達した所で、バイクに必ず付いているマフラー、それもエンジンからリヤタイヤの横までの長さの排気管だった事をおれに知らせた。
「おい! 危ないぞ、それ!」
 とっさに口を吐いた言葉がそれで、自分で投げておいてまるで馬鹿にしているみたいだと思った。相手にしても同じ様に感じたらしい。マフラーが姿を消した後、四人の内の誰かの声が響いた。
「ちっくしょう! もう我慢出来ねえ」
 言うが早いか、階段口にボウガンを構えた人影が立ち上がるのが見えた。同時に、「ちょっと待てって」の声も立ち上り、「うるせえ!」 と、最初に叫んだのと同じ声に遮られる。短いやり取りが交わされる間に、おれは手近な遮蔽物の影に飛び込んだ。空気を切り裂く発射音を聞くと同時に、少し離れた所にあるケースのガラスが、音を立てて砕けていた。
「ばぁか。どこ狙ってんだ」
 言いつつ、今度は顔を出さないまま、手近な物を投げ付けた。それが着地する音を聞く前に、敵が走り込んで来る靴音がフロアに響いた。
――よし来たっ!
 思わず叫びそうになって、慌てて口をつぐむ。
 入り乱れる複数の足音と、連中の発する罵りの響き方が、微妙に変化した。フロア内に踏み込んで来た事を感じ取り、おれは物陰から飛び出した。
「オラッ、こっちだニブチン!」
 連中の真っ正面で大袈裟に手を振り回し、派手に挑発してやる。階段口からの逆光の中を、怒りに駆られた複数の影が踊った。
「てめぇ、この野郎っ!」
「待て、落ち着けって!」
 黒い影達は一瞬の間にも大きさを増し、どんどん近づいて来る。




↓第百二回 〔第六章 シーン4 その4 2007年10月18日(木)分〕↓




 「うわっ?」
 そろそろ、と思った所で頓狂な声が上がり、逆光の中から影が消えた。受け身もなにも無く床に叩き付けられる音が連続し、フロアは痛みを堪える呻きに満たされた。
 階段口の左右から新たな影が飛び出す。階段を下って行くのが、沢村と史郎の背中である事を確認してから、後を追うため、おれは右手に向かって走り出した。
 手探りと階段口からの光の加減を利用し、ガラスケースやハンガーを避けて出口へ向かう。左に二回曲がってシャッター前に辿り着き、背後を警戒しつつ後ろ向きにシャッターをくぐる。まだ連中は立ち上がっておらず、順光に照らされた中に、一番手前にいる少年が、立ち上がろうと試みているのが見えた。
「ちょっ、待って。待ってくれ」
 そいつが、おれに気付いて弱々しく言った。金髪ではない、撃たれたヤツでもない。金髪の後ろにいたふたりの内のひとりだ。オイルまみれの掌を突き出した。攻撃の意志なし、と、意志表示のようだった。が。
「やなこった」
 捨て台詞を吐いて、おれは踵を返した。
 踊り場の大窓からの光に目を細めながら、階段を一気に下って行く。ぶちまけた消化剤は、階段だけでなく窓や壁、そこら中に隙間なくへばりつき、薄いピンク色に染め上げている。
 予定の、バイクのエンジン音はまだ聞こえない。シャッターが開く音もだ。
――ふたりとも、なにもたもたしてんだ?
 心中に呟き、踊り場を折れる。階段を降り切った二階フロアの入り口に、立ち尽くす史郎の後ろ姿が見えた。傍らにふたつ、バックパックが放り出されている。沢村が預かっていた、史郎とおれの荷物だ。踊り場からは、階段と同じ傾きで下がっている天井が視界を遮って、史郎の正面になにがあるのかまでは分からなかった。胸騒ぎを感じながら、階段を降りて行く。二階フロアに下り立つまでも無く、状況は理解出来た。
 史郎の真正面に、沢村が立っていた。緊張の面持ちで、こちらをじっと見詰めている。おれと目が合うと、済まなそうな表情を浮かべて、微かに首を竦めて見せた。
「動くんじゃねぇよ!」
 沢村の背後に立つ金髪が、高めの声で凄んだ。仲間達と違い涼しい顔をして、沢村の後頭部にボウガンを突き付けていた。
 三階フロアに踏み入って来たのが四人だと、勝手に思い込んでいた自分の短絡さに怒りが込み上げ、無意識に噛みしめていた奥歯がギリッと音を立てる。要は、おれの様子からか、金髪の中で警戒を促す何かが働き、三人の仲間――ミスを犯した者を撃ち、そいつまで乗り込ませた挙げ句、自分だけが安全な位置を確保している事を考えると手下か――だけを突入させた訳だ。恐ろしく勘がいい奴だと驚く反面、冷酷さを感じ取り背筋が冷たくなった。このまま事が進めば確実に殺される。もうひとつ、現実味に乏しかった可能性が、急激に重みを伴って身に迫って来ていた。




↓第百三回 〔第六章 シーン4 その5 2007年10月19日(金)分〕↓




 おれと目が合った金髪は、不敵に頬を吊り上げて見せた。相当嬉しいらしい。先刻対峙した時とは違って被っていた化けの皮が霧散し、目の中に感じ取った狡猾さが表出していた。凄味さえ感じさせる嫌らしい笑みを浮かべ、おれをじっとり見据えている。身動きしないのは、おれが階段を下り切るのを待っているからだろう。
 金髪の発する無言の圧力を感じつつ、一歩、また一歩と歩を進める。階段を踏みしめる度に脂汗が肌を濡らし、即座に温度を失って行く。顔にべったりと張り付いた汗が不愉快だが、沢村に突きつけられたボウガンを目にすると、手で拭う事もままならない。心臓の鼓動が激しさを増して、全身に響き渡るようだった。
 正面、数メートル先に沢村が、その背後、腕をまっすぐに伸ばして手にしたボウガンの先端がやっと届くような距離を置いて、金髪が立っている。おれは、最後の一段を下り史郎の傍らに立った。金髪が、ボウガンを構えたまま余裕の足取りで、沢村の左横へ移動した。そして、視線を床に落として俯いた。
 なにか、すすり泣きの様な声を耳にした気がした。微かな声音で、耳にしていても意識するまでにわずかながら時間が必要だった。そして、声の主が金髪だと分かるまでにもう一瞬。すすり泣きなどではなく、忍び笑いだと分かるまでにさらに一瞬かかった。金髪の肩が震えているのに気が付くと、同時に忍び笑いが哄笑に変わる。金髪が俯けていた顔を上げた。不愉快な高笑いが、二階フロアに響き渡った。
「アンタ、なんつったっけぇ。お、お、……小野田サン! そうだよね! 残念だったねぇ、アンタ、あんなに頑張ったのにさぁ! やっとアイツらやり過ごして、さぁ、後は逃げるだけだと思ったのにねぇ! 四人で乗り込んで来たと思ったんでしょ? あまいあまい、アンタ態度に出てるんだよ。なんか企んでるのバレバレ。気持ちがシャッターの向こうに行っちゃってるんだもん。分かるよ、そりゃぁ分かるっつーの。あ、いっとくけど、アンタの仕掛けた血のヤツ、オレが引っかかったんじゃないから。ありゃ、まっつんがわりーんだよ。あんまりくだらねぇことするから、オレ、どーしよーかと思っちゃったよ。あんなのひっかかんのはバカだよ、バカ。勝ったとか思うんじゃねーよ? 小野田サン? アンタ、オレに負けたんだよ、分かってるぅ?」
 金髪は顎を突き出し、胸を反らし気味の体勢から、おれに右手人差し指を突きつけて見せた。肘は曲げたまま上から突き下ろす様なやり方で、大げさに広げた左腕と相まって、音楽番組でたまに見かけるラッパーの様な仕草だった。人を見下す笑い顔とは対照的に、目の奥の部分にはプライドを傷付けられた忿怨が垣間見え、おれに向けられた嘲りに怒りを感じるより先に、まずは呆然としてしまった。なんだ、こいつ? それが率直な感想だった。




↓第百四回 〔第六章 シーン4 その6 2007年10月23日(火)分〕↓




「えぇ? なんとか言えよ。おい、オマエだよオマエ」
 どう反応した物かすぐには思いつかず、無言のままのおれに金髪が言う。口調といい、表情といい、まるで安手の映画やドラマに登場する悪役の様だ。しかも、演技過剰の大根役者。思わず意地の悪い笑みを浮かべそうになるが、沢村に突き付けられたボウガンの放つ物騒に、無言でそのまま呑み下した。下手な態度を取れば、すぐに取り返しのつかない事態に陥ってしまいそうな危うさを、金髪から感じ取ったからだった。それは狂気という言葉に近いものかも知れない。
「ハッ、怖くて口も利けないって? まぁ、いーや。もう下手クソな抵抗するんじゃねぇぞ」
 尚無言でいると、また金髪が言った。ボウガンの先端を揺らす。三階から、手下達が下りて来るのを待っているのは、明らかだった。連中が下りてきたら、逃げ出すチャンスはほとんど無いと考えて間違いないだろう。額に浮かんだ脂汗のしずくが、流れ落ちて頬を伝わった。
「ちょろ! なにやっってんだよ。早く下りてこいよっ」
 金髪が上階に向かって怒鳴った。
「ちょっと待ってくれ、まっつんが……」
 シャッターを潜るとき、おれに呼びかけてきた声が答える。金髪に撃たれた奴が、おれの仕掛けた罠で怪我を悪化させたのかも知れないと思いつき、少々胸が痛んだ。
「そんなのいいから早く来いってんだよ!」
「……分かった」
 不満げな声がそう言う。が、すぐに動き出す気配は伝わって来なかった。フロアに無音の時間が下りて来る。と、沢村がおれをじっと見つめていた。おれが目を合わせると、待ちかねた様子で目線だけを下に落とす。あくまで体は動かさず、目の動きだけで何かを訴えようとしているのだった。
 沢村の目は右下の方に向けられている。丁度、ボディーアーマーの右脇腹辺りが、左に比べて膨らんでいるように見える。スタンガンを、その位置でベルトに挟んででもいるのだろう。再び上げられた沢村の目にこちらも目で問いかけると、沢村は両まぶたをゆっくりと閉じ、また開いた。肯定の合図の様だった。
 金髪と沢村の位置関係ならば、一歩踏み込めばボウガンはまるっきり役に立たず、スタンガンを使えば一撃で金髪を気絶させることが出来る。……出来るはずだが、理屈は理屈、実際にはどうなるか分からず、伴う危険の大きさを考えると容易にゴーサインを出す訳には行かなかった。
 だが、金髪が再び階上に向かって怒鳴り、その返事が苛立ち混じりの反発を匂わせる物で、結果、階段を挟んでの言い合いに発展し出した時には、ここを逃せば後はない、全力でフォローすると決めて了承した旨の合図を送っていた。
 沢村は、もう一度まぶたを閉じると、開いた瞬間に行動を開始した。




↓第百五回 〔第六章 シーン4 その7 2007年10月24日(水)分〕↓




 左足を真横に踏み出し、同時に上半身を前に屈ませる。右手はボディーアーマーをずらしてスタンガンを握り、そこから前屈した上半身と一緒につま先が向いた方向へ振り出す。瞬間の事だ。おれは、先を見届ける前に、金髪に向かって突進を開始した。
「あっ!」
 事態を呑み込めていない史郎の声が背後に聞こえたが、意識の外に閉め出す。
 ボウガンの下に上手く入り込んだ沢村は、金髪へ向けて右手を突き出していた。その手に握られたスタンガンは、おもちゃのようなカタカタ言う作動音とバチバチ電気の爆ぜる音を伴って、電極間に発生した高圧の青い火花を見せつけた。沢村の右手の動きに連動して、まっすぐ金髪に吸い込まれるような、断続的な青い軌跡を描く。
 対する金髪は、目の端で異変を察知したのか、階上に向けて放っていた威嚇の言葉を中断し、沢村に視線を振り向けた。その一瞬で事態を理解したらしく、バックステップで回避を試みる。
 おれが一歩、二歩と踏み出す最中にも、駒送りの様に状況は確実に進展して行く。沢村の突き出したスタンガンは、金髪のいた空間を的確に捕らえた。が、その時には金髪はもうそこにはおらず、代わりにもう半歩の空間が横たわっている。左足で踏み込んで右腕を突き出した体勢からは即座にもう半歩が踏み出せず、沢村は一瞬動きを止めた。隙を逃さず、さらに飛び退いた金髪は、直後にはボウガンを撃てるだけの距離を開いて沢村に向けていた。
――マズイ!
 おれは頭の中で叫んだ。最悪の想像図が脳裏で結実し、ゾッとする。全身の毛穴が開いていくのを実感しながら、ふたりとの距離を永遠ほど遠く感じる一瞬を過ごす。
 沢村は、身体の伸びきった体勢から腰を落とし、身を屈め、もう二歩前進した。実にへろへろと勢いのない前進で、ボウガンの先端が沢村から外れることはなかった。が、それでも沢村はお構いなしに腕を突き出し、手探りでもするかのようにスタンガンを振り回した。
 予想した追撃の予想外の手ぬるさに対する戸惑い、だろうか、金髪は迷い気味に沢村に照準を合わせ続けるが、引き金を絞ることはしない。呆気に取られていると言う表現が正しいのかも知れなかった。とにかく、その数瞬緩んだ空気が引き起こした事には違いない。沢村が苦し紛れに振り回したスタンガンが、たまたまボウガンにぶつかった。
 一際大きく火花が爆ぜる音が発生し、何かを引きちぎる様な破壊音が続いた後、ボウガンが床に投げ出された。弦だった物が切れ、だらしなく二本の尾を引く。金髪は武器を失った事になる。絶対に外せないチャンスだった。事態の好転に力を得たおれは、踏み出す足にひときわ力を込めた。お互い素手なら、金髪との体格差から利はこっちにある。
 ふたりに目を戻すと、沢村がさらに前進する背中と、金髪が空になった右手を踊らせながら後退する姿が目に入った。その右手が弧を描いて、沢村の右手に吸い込まれていく。
 スタンガンが弾かれ、宙を舞った。金髪の右手が、沢村の右手をひっつかみ、右上方に引っ張り上げる。沢村は足をもつれさせながら、小柄な身体を反転させられ、身体の前面をこちらに向けながら金髪の胸にすっぽり収まる形になった。いつの間にどこから出したのか、金髪の左手に握られた小振りなナイフが沢村の喉元に突き付けられた。
「止まれ、この野郎!」
 金髪が、この世の憎悪を全てかき集めて来た様な恫喝を吐いた。おれは、飛び掛かろうとしていた勢いを殺し、その場に立ち止まった。
 離れた場所から、スタンガンがなにかにぶつかって壊れる安っぽい音が届いた。
☆続く〔次回更新は未定です〕☆