「天上の公務員〜跳躍の結末〜」
第三章
まぶたを開けると同時に、視界は暗闇に覆われた。
振り仰いで見上げれば、丘の稜線と思われる闇の切れ目に、駅の蛍光灯の白い光や、街灯、住宅のまばらな窓明かりが遠く目に入るが、人の生活を思わせるそれらとは切り離されたかのように、造成地は闇に呑み込まれている。
それでも、位置関係から目算し、目的の一角に目を落とすと、残り火が燻っているのが、わずかに見えた。辺りを照らし出すほどの勢いは無く、闇夜に所在を知らせる程度に燻り続けるそれは、見る間に力を失い、今にも消え尽きようとしている。
眺めるでもなく眺めながら、オレはその場に留まり、目標が姿を現すのを待った。いたずらに時間だけが過ぎ去って行く。
何も起こらずに数分が経った時、炎の揺らめきが、一瞬だけ、それまでよりも大きく燃え上がった。綺麗に整えられた宅地と、すぐ脇を通る河川との区切りのフェンスをぼんやりと照らし出し、唐突に消え失せる。
密度を増した闇が、再び視界を占めた瞬間、燻っていた残り火の代わりに、人の気配が発した。
少なくとも4,5人が、他人の家を土足で踏み荒らした靴音を、非常脱出口の鉄階段に響かせている。気配を消すどころではなく、隠密行動の訓練を施された組織構成員ではあり得ない、真逆を行く横柄な足音だった。
無遠慮に駆け上がって来た襲撃者達は、そのまま逃走に移ることはせず、地上に這い出したところで、一度立ち止まった。
「お前ら、退ってろ!」
集団の中から、リーダー然とした声が怒鳴る。大人と言うには程遠い、青臭さを感じさせる若い声だった。同じ様に若い声が、てんでに応じて、いくつもの後ずさりする足音が続いた。一瞬の静寂が周囲の空間を満たす。
「オラッ!」
リーダー然とした声が、気合いを発すると同時に、暗闇に満たされていた造成地は、非常脱出口を中心に明るい爆炎の光に照らし出される。次の瞬間、耳を聾する轟音を伴って、襲撃者たちが飛び出してきたばかりの非常脱出口から、火柱が立ち上った。
燃え盛りながら陥没して行く、脱出口周囲の地面に背を向けて、襲撃者たちは走り出した。バカにしたような奇声や嬌声を張り上げながら、オレのいる方へ駆けてくる。炎に照らし出された姿は、先生が言っていた通り、オレと同い年くらいの若い奴ばかりだった。
「ちょっと待ってくれ!」
オレの目前まで迫ったとき、集団の最後尾から声が挙がって、それ以外の全員が振り返った。一人だけ雰囲気の違う男が、手を挙げて制止を呼びかけている。守だった。
「なんだっ!?」
苛立ちを含んだ声を投げつけたリーダー格の男に、守は端末を掲げて見せた。
「これを捨てる。ちょっと待ってくれ」
言うが早いか、守はネックストラップを外し、右手に構えて振りかぶった。放り投げられた端末は、放物線を描いて、造成地の端を流れる川に消えた。
「行こう」
せいせいした顔で守が言うと、襲撃者の集団は再び走り出す。立ち尽くすオレに気がつくはずもなく、迫ってきて、そのままオレの体をすり抜けていく。
背後でバイクのエンジン音がいくつも立ち上がった。振り向くと、襲撃者たちを乗せ、次々に走り出す。
「やっぱり、そうか・・・・・・」
テールランプの尾を引いて遠ざかって行く、いくつもの背中を眺めながら、オレはひとり呟き、目を閉じてディスクローズを解除した。
まぶたを開けると同時に、視界は光に満たされた。
時間本来の太陽の光が、闇に慣れた目を射る。頭がくらくらするのに耐え、瞬きを繰り返して、冬の弱い日差しに目を慣らす。
振り仰いで見上げれば、丘の上に駅前の建物群が並び立ち、ひときわ大きい百貨店の屋上には観覧車がそそり立って、新興都市の景観に、観光地の彩りを添えている。
足下に目を戻すと、川沿いの造成地の一角に、工事用フェンスを組み合わせて、囲いがしてあった。非常脱出口は爆発で埋め戻されて、当分は使用不能だと言う話だ。10本はある内の一本だから、それほど影響はなさそうだが。
オレは腕時計で時間を確かめ、大通りへ繋がる道路に目をやった。待ち合わせまでまだ時間がある。造成地の入り口に置いた白い営業用バンの助手席側のドアを開け、乗り込む。運転席には誰も座っていない。護衛兼運転役の構成員と待ち合わせをしているのだ。後部座席の足下には、測量道具に偽装して、拳銃と弾丸も乗せてある。測量用具の入れ物に見せかけたオレンジ色の保護ケースを一瞥して、オレは助手席をリクライニングさせた。
先生と別れた後、エレベーター・ホールのソファーに陣取り、ディスクローズで得た結果と事態の推測、今後の行動方針をまとめて上げると、すぐに本部からの返事が戻ってきた。
指令内容は、「エスケイプ失踪現場の調査任務解除」と新たに「インヴィジブル・アームの追跡、及び、エスケイプ失踪の継続調査」で、これで正式に二人を捜す事が出来る様になった。
調査自体が他の構成員に回され、他任務に就かされる様なら、色々と手管を使って、独自に探す心積もりもあったのだが、この方がいらない苦労をしないで済む。
通常、構成員に下ってくる任務はその場限りのものであって、連続性はない。内容にしても「どこで何をしろ」と言った簡潔に過ぎる指令の仕方で、余計な情報は一切付加されない。
おそらく、万が一構成員が警察やその他の機関、対立組織などに、逮捕、捕獲された際に組織の存在と情報の流出を最低限に防ぐための方策だろう。そのために、一人の構成員にまとまった情報を与えない方法を採っているのだと言うのが、オレ達の間での通説になっている。だからか、一つの作戦に大勢の構成員が、まるでつまみ食いのように関係することになり、全容については推測するしかない。
だが、何事にも例外はある。特定のスキルが必要とされる場合は、その限りではなかった。特に捜索任務ではそういう傾向が強く、そっち向きのディスクローズを持ったオレは、
初動から解決まで一貫して付き合わされる事も多い。今回の場合も、そういったケースに当てはまった。
現行で守の追跡に当たっている構成員との合流については、否定された。
個別調査に徹底させるつもりかと焦った。二人の構成員をそれぞれ別々に調査させることで、調査内容の正確性を高める方法を取ったのだとしたら、早くも朋美を庇い立てしようとするオレの考えを見透かされているのかもしれない。一瞬、肝を冷やされたが、そうではなかった。守の失踪発覚直後から、捜索の任務に当たっている構成員「シーク」が、明け方を待たずに連絡を絶っていると言うのだ。
考えてみれば、守、襲撃側の発火系能力者と、二人も攻撃タイプの能力者が組んでいる可能性のあるところへ、なぜ捜索タイプの「シーク」一人を送り込んだのか不思議だった。
明らかな判断ミスと思えるが、シークも無能ではない。捜索中に何かあれば、すぐに撤退、応援を呼ぶ冷静さを持っている。不測の自体が起こったと考えるのが妥当だった。
その思いは本部も一緒なのか、オレが任務に当たるに際して、施設備蓄の武器と車両の使用、そして護衛の同行を許可してきた。
護衛任務に割り当てられた構成員が到着するまでの間、やるだけの事をやっておこうと装備を借り出し、準備を整えた上で、ここへやってきたのだった。
守の逃亡を確認した以上、後は追うだけだ。この場でやるべき事がなくなり、暇を持て余したオレは、時間まで一眠りしようとまぶたを閉じた。
覚醒と睡眠の狭間を彷徨う時間を過ごし、眠りに引き込まれようとした間際、窓を叩く音がして、オレは眠りの底から引き戻された。
サイドウインドゥを挟んで、見慣れた金髪が、覗き込んでいた。
寝不足と言えば、レプも同じ事だった。
抹消任務のトリを飾ったレプリカは、非番の割には一睡もしていない顔をしていた。逆立てた金髪も心なしか張りがなく、色あせて見える。人殺しの後にぐっすり眠れるヤツもいないだろう。オレが手動式のサイドウインドウを下ろすと、醒めきらないオレの顔を見て少し忌々しそうな表情をしてみせた。
「サポートは気楽でいいよ」
苦笑いを浮かべて、皮肉を言った。
「そう言うなよ。こっちはあの後すぐに呼び出されて、眠ってないんだからさ」
「ありゃまぁ。それはご愁傷様」
少しも気の毒に思っていない口振りで言い置き、車を回り込んで運転席に乗り込んで来た。
「今回のオレの任務はクロの護衛だって?」
説明を求める顔をオレに向ける。クロと言うのはオレの呼び名だ。ディスクローズを略してクロ。レプやキャストは、オレの本名を知らない。本名で通すのは、通称「黒須クラス」のみの伝統なのだ。
「そう。インヴィジブルとエスケイプを探すのがオレの任務。そのオレを護衛するのがレプの任務」
続けて、本部に上げたのとそっくり同じ内容を、簡単に説明した。現状ではそれだけの情報を与えておけば事は足りるし、支給された車の中で全て話すのにはためらいを感じたからだった。
が、オレの口調から何を感じたのか、レプは曖昧に「ふぅん」と相づちを打ってから、胸ポケットにしまったオレの端末を指し示した。そうしておいて、自分のポケットから防音シートを引っぱり出して自分の端末を包む。
車内に盗聴器が仕掛けられてる可能性だってあるだろうに。内心苛立ちながら、首を振るオレに、「大丈夫」と唇を動かしてみせる。仕方なく、端末をシートで包むと、ポケットから小さな黒い機械を取り出してレプは言った。
「これが反応しない時は、大丈夫なんだよ」
携帯電話よりまだ小さい、飾り気のない黒い小さな箱の前面に、液晶画面がついていて、「NP」と表示されていた。「ノープロブレム」の略だろう。初めて見るそれに「なんだこれ?」と呟くと、「特製検知器だ」と、勝ち誇ったようにレプは答えた。
組織の持つオーバーテクノロジーの解析結果から生み出された物だろう、秋葉原やネットで見るのと違って、アンテナもなければ、大きさも従来の数分の一しかなかった。
「オレの所属施設、こう言うのの開発もやってるんだ。こっそり分けて貰ったのさ」
「それは便利だなぁ」
感心して見せると、大きな体を揺らして、レプは嬉しそうに笑った。レプの方が何歳か年上なのだが、こう言うところは、まるで子供の様に素直で羨ましいと思う。レプが強化された施設はオレ達の施設と違い、人体強化とともに技術方面も扱っているのだ。テレビで見るようなまどろっこしい方法を使わなくてもいい専用の検知器があっても当たり前、オレならそう思ってしまうところだった。
「それはともかく、なにを隠してるんだ?」
レプは悪気のない、軽い口調で聞いてきた。オフレコにしておきたい話なんて、大概が組織に対する背信行為につながるか、それその物の内容に決まっているのに、まるっきり緊張感がない。気楽に過ぎる態度が気に障って、「ちょっと真剣に聞けよ」と口から出かかった言葉を、レプには裏切られた事がないと思いついて呑み込んだ。どんな時も屈託がないのは性格だし、後ろ暗い組織の中にあっては、むしろ長所だ。いちいち気にしても仕方がない。本部に伏せた事柄を、手短に説明して聞かせた。
話の間、でかいガタイに似合わない糸目をさらに細めて、「うんうん」と大人しく相づちを打っていたレプは、最後まで聞くと合点の行かなそうな表情を浮かべた。
「あの二人が一緒に逃げたのか?」
疑問を率直に口にし、思案するように腕を組む。外野から眺めても、二人の組み合わせは奇妙に映ると言うことだ。
「そう言うこと」
認めたくない現実を突きつけられた苦みを噛みしめ、オレは答えた。
「あの二人がねぇ。・・・・・・なんか納得行かないなぁ」
「オレもそう思うよ。だけど事実は事実だ」
「そうか?ディスクローズだって心の中まで覗けるわけじゃないだろ?インヴィジブルはともかくさ、エスケイプの方は何か理由があるんじゃないか?例えば、インヴィジブルに脅されてるとか。それなら腑に落ちるんだけどな」
本当にそうなら何も考えることはない。見つけだして助けてやりさえすればいい。だが、実験室でのディスクローズ中に見た、視線を絡ませている二人の姿が脳裏に浮かんできて、レプの意見を否定する。あの時に見た朋美の目は脅されての物じゃない。信頼、協力、そんな言葉だけでは説明出来ない、もっと深い感情・・・・・・。恋愛感情と言う言葉が浮かんで、胸を騒がせる。
「だけどあれは・・・・・・」
思わず漏らしてしまった反論を途中で気がついて言い淀むと「あれって?」とレプが聞き返してきた。
「いや、なんでもない。とにかく、運転の方頼むよ」
沸き上がった感情を悟られない様に、出来るだけ平静を装ってごまかす。レプは、一瞬沈黙してオレに探る視線をよこしたが、それ以上は何も言わなかった。
「了解。お喋りしすぎたな。そろそろ始めよう」
レプはキーを捻り、エンジンを始動した。安っぽいエンジン音が、静寂を追い出して車内を満たす。
「大通りに出てくれ。そこから追跡する」
「任せとけ」
それだけ言うと、レプはシフトレバーをドライブ・レンジに入れて、車をゆっくりと走らせ始める。オレは、緩やかな走行振動に身を任せて目を閉じ、ディスクローズを発動するための精神集中に没入していった。
平日の深夜の県道は、走る車の姿もほとんど無く、先行するバイク群は、爆音をまき散らしながらいいペースで疾走していた。集団の中に始終蛇行している車両もあって、思わず「お前ら、逃走中だろうが!!」と吐き捨てると、遠くで「なんだ?」と驚くレプの声が聞こえてくる。ディスクローズ中の視覚は完全に過去の映像に捕らわれてしまうが、聴覚の方は辛うじて、実時間の音も拾うことが出来る。ひどく遠くから、くぐもった音が伝わって来る程度でしかないが。
「なんでもない」と答えると、やはり遠くから「そっか?」とレプの声が帰ってきた。
先行のバイク群との距離は、近すぎず遠すぎず、車三代分の距離を保っている。このままのペースを維持する事が出来れば、さほど苦労することなく襲撃者たちのアジトに辿り着く事が出来るはずだ。
オレは、一心地着いた気分で、見えないシートの背もたれに身を預けた。
車に乗ったままディスクローズしていると、当時そこに存在しなかった物は当然視界に入らず、実際には乗っている車も、隣で運転しているレプの姿も見えないために、生身で地表スレスレを飛んでいる様な視界に、とても心許ない気分になってしまうからだ。
「今度はいいな」
オレが呟くと、「そううまくも行かないみたいだ」とレプが返事をよこした。
とたんに、バイク群との距離が開き出して、体を前方に引っ張られる様な感覚を感じる。何を言う間もなく、完全に路上に停止していた。背後に沸き上がったエンジン音が、急激に近づいて来て、あっと言う間に耳を塞ぐほどに大きくなる。
次の瞬間、眼前にフロントガラス、ルームミラー、見知らぬドライバーの頭、シートのヘッドレスト、リヤシートのヘッドレスト、リヤガラス、特大リヤウイングと、一瞬の内に次々現れて、轟音と共に遠ざかって行った。
オレは、背筋を這い上がって来る物に、身震いしながら目を閉じ、ディスクローズを解除した。もうすぐ頂点に差し掛かろうかと言う太陽が、真冬にしては強い日差しを投げかけてくる。
「止まるなら止まるって言えよ!」
掴みかかる勢いで怒鳴ると、レプはなぜ怒られているのか分からないとでも言いたげな、きょとんとした表情をした。
「あ、クロ。涙目になってるぞ?」
すっとぼけた物言いに、瞬間に頭に血が上ってしまっていた。
「轢かれたの。今オレは、車に轢かれたの!!停まる時は言ってくれって、あれほど言ってるじゃんかっ!!」
「あ・・・そりゃぁ悪かった」
素直に言われると、それ以上言い募ることも出来ず、オレは再びシートに身を沈めた。
「もっとペース保ってくれよぅ・・・・・」
「そりゃ無理だわ。車が多すぎる」
言われて車外に目を向けると、片側一車線の道路は、赤信号のせいもあって詰まっていた。耳障りな排気音を立てて、傍らをスクーターが通り過ぎて行く。確かに高速で移動する対象を追うには、骨が折れそうだった。深夜と昼間では交通状況が違いすぎるのだ。
「やっぱりさ、バイクで追った方が良かったんじゃないか?」
「いやだ。タンデムシートでディスクローズは怖すぎる。ヘルメットのせいで指示も届きにくいし」
以前に試してみたことがあった。バイクとライダーの姿が見えないタンデムシートほど恐ろしい物はない。捕まるべきタンデムグリップも、踏ん張るべきシートもタンデムステップも黙視できず、普通に乗っているだけでも怖いのに、その上足を踏み外して投げ出されてしまったのだ。幸い、スピードも出ておらず、後続車両も無く、大事に至ることは無かったが、二度とディスクローズする時は二人乗りはしないと決めたのだった。
「じゃあ、夜中とか、同じ様な交通事情の時間帯にやるとかさ」
「ダメだ。それじゃ、インヴィジブルに辿り着くまで時間が掛かり過ぎる。手遅れじゃあ意味がないんだ。このまま進んで、分岐や交差点でディスクローズする。その繰り返しでなんとかなるだろう?」
「オレはいいけど、クロが疲れるだろ?もう出発してから四回目だぜ?ディスクローズ解除するの」
レプは心配げに、オレの顔を覗き込んだ。
オレ達がやっているのは、追跡任務の時にオレがよく使う方法、実験室でやったように、一つところで過去を見るのを「検証ディスクローズ」とでも名付けるならば、対して「追跡ディスクローズ」とでも言うようなものだった。
ディスクローズを発動したまま、過去の対象の足取りをそっくり追いかける。当然過去の光景、過去の音を聞きながら実時間を歩き回るのは不可能に近く、車移動で追跡する場合にのみ使える方法だった。そして、レプの言うように、非常に消耗するやり方でもあった。
発動した後、ずっとディスクローズし続ける分には、安定さえしてしまえばそれほどでも無いが、短時間に発動と解除を繰り返すのは、余計にエネルギーを使う作業なのだ。
例えば、バスがアイドリング・ストップと称して信号待ちでエンジンを停止すると、かえって始動でより大きく燃料を消費し、よりCO2を排出してしまうと言われる事があるのと似ている。
「疲れたとか言ってる場合じゃないからな。何度でもやるさ」
正直に言えば大見得切った気分だったが、他に方法はないのだ。
「テクニックじゃ、渋滞はどうにも出来ないからなぁ、クロにがんばって貰うしかないな」
レプが、申し訳なさそうに言うのに、オレは躊躇せずに言い切った。
「任せとけ」
こうなったらオレの気力勝負だった。信号が青になると同時に、レプがアクセルを踏み、車はゆるゆると走り始める。
大したスピードが出るわけもなく、停まったり走ったりを繰り返す。オレは、頭の中に道路地図を呼び出し、レプに指示を出す。
「次の次の、国道と交差してる信号、方向見定めるから、もし進んでもゆっくり行ってくれよ」
「あいよ」
言ったとおり、レプは信号前でちんたら車を走らせ、オレはディスクローズして方向を見定めた。守たちは、国道を首都へ向けて右折していた。
国道へ入ると、交通量が多いなりに道幅が広く、思っていたよりディスクローズを繰り返さなくても良くなった。
しばらくの間、安定した状態で追跡を続行し、気がつくと、県と都の境の川を渡っていた。
面倒だったのはその後だ。
都内に入ると、バイクの集団は急に国道を外れ、裏道ばかりを通るようになったのだ。それも同じ場所を何度も巡り、たどたどしい事この上ない。大方、尾行を警戒して、素人なりに知恵を絞ったのだろうが、ディスクローズで尾行する分には、面倒臭いだけで、大した影響はなかった。
「かわいいもんだ」
レプはつまらなそうに呟いて、狭い道を駆け足で走ることに専念した。
そうして30分ほどが過ぎた頃、結局渡った橋の近くに戻って、とある店の前でバイクの集団は停車した。
「終点だ。停めてくれ」
ディスクローズを解除しつつ言うと、レプは「はいよ」と返して、車を道の端に寄せた。
実時間の視界が戻ってくると、オレは予想外の光景に絶句した。
朝、食事を採りながら見たニュース画面に映し出されていた光景が、そのままそこにあったからだ。
真っ昼間だと言うのに、人気も車通りも少ない寂れた裏通りだった。歩道もない道の端を歩き、元店舗だった場所の前に立つ。
道路側のガラス張りだったと思われる外壁は、根こそぎ剥ぎ取られて跡形もない。ところどころに散らばった、砕けたガラスの粒が、名残りを留めるのみだった。
それなりの広さがある店内は通りから奥まで、一目で見通せる。壁も床も天井も、無惨に焼けこげ、どういう内装の店だったのか、想像するにも材料が無さ過ぎるが、店の奥に焼け残ったカウンターだけが、飲食店だった事を示していた。それ以外は警察が検証したときに、すっかり整理されてしまったのだろう、椅子やテーブルの類は見あたらなかった。
「綺麗にぶっ壊したもんだ・・・・・・」
廃屋と言う響きが相応しい風景を前にしたレプのつぶやきに、ニュースでみた情報を頭の中に呼び出し、オレは説明するでもなく、口にしていた。
「ガス爆発でオーナーを含めた、店にいた全員が死亡。確認された人数は6人。残された遺体に外傷があるため、事件と事故の両面で調査中。朝のニュースで流れてた。まさか、行き先がその現場だとは思いもしなかったけどな・・・・・・」
オレは、立ち入りを拒む黄色いテープをくぐって、店内に足を踏み入れた。焼け跡特有の異様な臭いが鼻をついて、顔をしかめる。レプも後について店内に入ってきたが、やはり同じように顔をしかめて、手で鼻を覆っていた。
「まさかこいう事になってるとはね。・・・・・・だけど、人数が合ってないな。インヴィジブルとエスケイプまで勘定に入れたら8人いなくちゃいけないはずなのに」
「8引く2。普通に考えたら、足りない二人が犯人か・・・。エスケイプがここで合流したと考えれば。」
オレは、奥に焼け残っているカウンターの中に足を踏み入れた。内側は比較的綺麗に焼け残っている。本来あったはずの物は全て撤去されているが、ガス台が置かれていたはずの空間の奥に、無傷のガス栓が残っていた。ガス爆発なら、爆心はこの周辺になるはずだ。
「だけど、この爆発跡は、施設を襲ってきた奴の仕業だと思うんだけどな。インヴィジブルにも、エスケイプにもこんな事は出来ないし。ガス爆発にしては、破壊力が大きすぎるだろう」
言葉を続けるレプを手招きで呼び寄せて、ガス栓を手で示す。「やっぱそうだろ?」と言って、レプは腕組みをする。
「自爆したのでなければ、・・・・・・・ここで戦闘になって、反撃時に自滅したか・・・。だとしたら、相手は誰だ?」
オレは言いながら、カウンターに手を突いて、店内を見通した。道を挟んで真っ正面に立つビルの一階店舗部分に、「テナント募集」のプラスチック看板を見つけた。
「インヴィジブルには、そうする意味はないんじゃないか?あいつの立場なら、一番怖いのは最後に現れるソウル・イーターなんだから」
その名前を聞いて、頭の中で渦巻いていた思考が、一本、筋道を持った。
「そうだ、それだ。そもそもソウル・イーターをなんとか出来る確信がなければ、インヴィジブルは逃亡を計画したりはしないはずなんだ。あいつの性格を考えれば」
「ってことは・・・・・・」
考えが追いついてこないのか、レプは途中で言葉を途切れさせる。オレは、先を続けた。
「ソウル・イーターをどうにか出来る力はインヴィジブルには無い。オレは、あいつのバックに、よっぽどの力を持った人間か組織が関わってると思ってる」
「噂だけじゃなく、ほんとにソウルイーターをなんとか出来るヤツがいるって事か?」
「・・・・・そう考えれば、辻褄は合う」
この、偶然にしては、随分と都合のいい事故が、果たして誰にとって都合がいいのかと考えると、やはり守にバックがついていたとしか思えない。そして・・・・・・。
「ここのヤツらは、裏切られたってことか」
同じ事を思いついたらしい。レプがぼそりと言う。
「もともと捨て駒だったのかも知れない」
ガス爆発なんかであるわけが無い。守の背後にいる者・・・・・・あるいは者たちの目的がなんであれ、証拠を隠滅しようとするはずで、襲撃者たちは利用された上に処分されたと考えるのが妥当に思える。守の死体が無かったと言うことは、背後にいる者、あるいは者達と合流したのか・・・・・・。だとしたら、朋美も?
もし、シークがここに辿り着いていれば、ここで起こった事の全てを見ている可能性がある。もっとも、ここまで連絡が無い以上、生きているとは思えないが、シークが潜んでいた場所を特定出来れば、ディスクローズして、シークの身の上に起こったことを知ることは出来る。そして、それは、敵の正体を知ることにもつながるはず。
慎重な性格のシークは、外から店内をうかがう事を考えているはずだった。
オレは、店の真っ正面に見える、「テナント募集」のプラスチック看板を指さした。
空き店舗は、シャッターは付けていないらしく、ガラス張りの店先に中からカーテンが掛けられて、外からの好奇の視線を遮断している。元は不動産屋だったらしく、風雨にさらされてすっかり色あせた看板が掛かったままになっていた。
「シークがここに来たなら、どこかから監視したはずだ。あそこなら、見通しがいいと思う」
「絶好のロケーションだな」
「オレは、ここでディスクローズして、実際のところ何が起こったのか、裏付けを取る。レプは、シークを探してやってくれよ」
「任せとけ」
そう言って、レプは向かいのテナントに向かった。入り口のガラス戸を触り、裏手に回ることにしたらしく、通りを歩いて、オレの視界から外れて行った。
オレは、カウンター脇に場所を決め、目を閉じた。精神を研ぎ澄まし、頭の中でスイッチの入る、馴染んだ感覚がやってきた後、ゆっくりと目を開ける。過ぎ去った時間が、再びやってきた。
視覚と同時に聴覚も切り替わり、一瞬の静寂の訪れの後、大音量の音楽が耳を圧する。
脳を揺さぶられるような衝撃に、思わず顔をしかめるが、すぐに耳が慣れて落ち着いた。
突然耳に飛び込んできたせいで、余計に大きく感じただけで、実際にはそれほどの音量ではないようだった。音楽を聞く趣味はないから、誰のなんという曲かは分からないが、やたらと重低音の効いた、やかましい洋楽なのはオレにも分かった。
「うるせぇな」
ひとりごちて、店の中を観察する。視界は青い光に沈んでいた。
見るからに雰囲気重視の照明は、深海を起想させる。デザインした者も、実用的でないのは百も承知らしく、天上付近の壁のところどころに設置されたスポットライトが、テーブルやカウンターの要所要所に白い光を投げかけていた。
床は、一面に白黒のパネルを交互に張り合わせたチェック柄で、それなりの広さのある店内には、カウンターの他に4,5人用の黒い丸テーブルが二つ、右側の壁際にダーツマシンが一台据えられてあって、さらに道路側の入り口付近には、アメリカンバイクが二台と、引き出し式の赤い工具入れやジャッキなどの道具類が置かれている。
入り口のガラスドアには、看板代わりのカッティング・シートで、「バイク&ダーツバー」の文字が張られてある。どうやらバイク屋も兼ねたバーらしい。裏路地の立地といい、中途半端な兼業ぶりといい、あまり商売をする気の無い、金持ちが趣味でやっている店といった印象がした。まだ、襲撃者達の姿はなく、マスターらしい人物と二人の客が、カウンターを挟んで雑談に興じていた。
「ほんっとに!ホントーっに使えないんですよ、ウチの部長!マスター聞いてますぅ?」
息巻いているのは、スーツ姿の客の内の一人だ。二人とも二十代中盤くらいか、いい塩梅に酔っぱらっていると見えて、呂律が怪しくなっている。
「聞いてる聞いてる。アレでしょ、いつも話に出るハゲ部長」
答えたマスターは三十代後半くらいの、色黒でガタイのいい、いかにも水商売といった雰囲気の男だった。
「そうなんですよ!あのハゲ!!言ってる事とやってる事がまるっきり噛み合ってないんです!上に立つ人がアレじゃ困る」
「まぁ、落ち着けよ。あんまり、その話ばっかりしてもマスターだって困るだろう?」 「そんなこと無いよ。大丈夫」
「そーだよ!間違ってるもんを間違ってるって言ってなーにが悪い!!」
「まったくぅ」
その時、バイクの排気音が聞こえてきた。徐々に大きくなった複数の排気音は、通常よりも遙かに大きい爆音になって、店の前で停止した。
「なんだなんだ?」
酔客の一人が、振り返ると、入り口のガラス戸が開いて、柄の悪そうな一団が入って来た。
今まで上司の愚痴を息巻いていたサラリーマンは、入ってきた連中の雰囲気に気圧されたのか、息を呑んで、気まずそうに振り向けた顔を戻した。
先客に気遣う素振りもなく、ドカドカと靴音を響かせて入ってきたのは、守を先頭にした襲撃者達だった。明かりの下で改めてみる彼らは思った通りの若さで、無法者予備軍の匂いを、周囲にまき散らしていた。カウンターのすぐ後ろのテーブル席に、身を投げ出すように音を立てて、次々と腰を下ろしていく。
中の一人が守の肩を抱いて誘導し、一つだけ空いているカウンター席に座らせた。
「あんたはここだ。逃げられると困るからな」
言い捨てて、守の肩を一つ叩き、仲間が陣取った席の一つに座った。店内に裏口のような物はなく、入り口方面を塞いでしまえば、逃げ場はない。守に逃げる理由はないのだから、念のための措置なのだろうが、それをわざわざ口にすることはなかった。間近にきな臭い言葉を耳にしたサラリーマン二人とマスターは、それまでとは打って代わって固くなった顔を見合わせた。
「マスター!生5つ!!」
周囲を意に介さない襲撃者達の注文の声に、年の功か、落ち着いた様子で「今すぐ」と答えて生ビールを注ぎだしたマスターを尻目に、酔いもすっかり醒めた面もちのサラリーマン二人は、勘定をカウンターに置いて、「それじゃ、マスター。オレ達帰るから」と言い残し、そそくさと店を出ていってしまった。
テーブルにビールが置かれると、襲撃者達は祝杯を挙げ、口々に勝手な事を言い始めた。
守は、座らされたカウンター席に大人しく収まって、戻ってきたマスターになにやら注文して、出てきた飲み物を気怠げにすすっている。行動を起こす気はなさそうで、黙って襲撃者達の会話に耳を傾けていた。
「気分良かったなぁ!施設の連中の顔ったらなかったぜ!」
「オレにかかればあんなもんよ!」
太鼓持ち然とした童顔の男が言うと、リーダーらしい長身の男が笑いながら応じる。
「マサがいてくれれば、ちょろいもんだ!!」
「これで一人100万も入るんだから、マサ様々だよなぁ」
「ツケ払ってもしばらく遊んで暮らせるぜ」
他の者たちも同調して、リーダーらしい男を持ち上げる言葉を並べた。傍目に見れば、多少悪そうな若者達が、楽しそうに談笑している風景だ。和やかな空気が場に流れているように見えるかもしれないが、実状を知っている身としては、一線を越えてしまったアウトローの最後の晩餐としか見えなかった。
どうやら、他の者たちに担がれてリーダーぶっているのが、発火能力者で首謀者らしい。
こいつが全ての首謀者だと考えるには無理があるから、やはり背後に何者かが潜んでいるのだろう。
それにしても、あれだけの爆発力を持つ発火能力者を、組織が取り込んでいないのは珍しい事だった。たまたま、構成員に発見されていなかっただけなのか、それとも候補には上がった物の、問題が有りと判断されて取り込まれずにいたのか・・・。
「でもさ・・・」
中の一人が呟くように、場の雰囲気に水を差した。気弱なのか、一人だけ浮かない顔をしている小太りの男だった。
「あいつら、警察に通報してたら面倒な事にならないかな・・・」
ちょっとは普通の神経が残ってるヤツもいるのかと、妙な感心をしかけたが、なにを今更と言う思いが浮かんで来て、内心勘に触った。アウトローならアウトローに徹するがいい。それが出来ないなら、話を持ちかけられた時に断るべきだったんだ。
「出来ねぇんだよ」
小太りの男にマサが、諭すように言いかぶせる。扱いは心得ているのだろう。こういうヤツには、優しく接した方がうまく扱えると言うことか。
「いいか?ヒロ。元々あいつら自身が犯罪者の集まりなんだからよ、オレ達が思う存分暴れたところで、あいつらは警察に通報したり出来ねぇんだよ。なにも気にすることなんかねぇんだ。お前は金の使い道でも考えてりゃいいんだよ」
嘘臭い笑顔を浮かべたマサの言葉に、少しだけ考える素振りを見せたヒロは、すぐに「そうだね」とマサに笑顔を返した。デブな上に頭も鈍いらしい。
「それはともかくさぁー、金はまだ来ねぇのかなぁ?」
童顔の男が、話の終わりを見越して口を挟んだ。
「もうじきだ。もうすぐここに、依頼人が来るだろ。そいつと交換に500万置いて行くさ。それまで、ゆっくりしてればいいんだよ」
マサが童顔の男に返した言葉に、全員が「それもそうか」と思ったらしく、口々にビールのお代わりを注文した。
「マスター!大金が入るんだ!ジャンジャン持ってきてくれよ!!」
誰かが大声で言った。渋い顔で「今すぐ」と答えたマスターが、新しいジョッキにビールを注ぎ始める。そうしながら、カウンターで身じろぎ一つせずに聞き耳を立てている守を一瞥した。
釣られて視線を送ると、守の表情には、素人の杜撰な考えを嘲笑う表情が浮かんでいた。
「警察に通報されるならまだマシだよ」とでも考えているのだろう。確かに普通なら、警察どころか、組織自体に追われて悲惨な最期を迎えるところだ。100万で割に合う話じゃない。
テーブルにビールが届く前に、入り口のガラスドアが開いて、男が一人入ってきた。店内にいる全員の目が、男に注がれる。
全身皮の黒ずくめで、夜だと言うのに薄く色の付いたサングラスを掛けている。2メートル近い長身で、ブロンドの長髪をオールバックにした白人男性だった。左手に小振りなアタッシェケースを持っている。
思わず、「おいー、外人かよ・・・」と漏らした言葉を呑み込んで、オレはさらに成り行きを見守り続けた。
「遅かったな」
男の姿を認めたマサが立ち上がり、これまでとは違った緊張を宿した目を向ける。男はそれには答えず、店内の面々を見回した後、守に目を留めた。
「インヴィジブル・アームはアナタか?」
どこで身につけたのか、淀みない流暢な日本語が飛び出して来て驚かされた。守が「そうだ」と返事を返して立ち上がる。反応して、マサが二人の間を遮るように割って入った。
「無視すんな!こいつを渡すのは、金を受け取ってからだ。早くそれをよこせよ」
男は、面食らうこともなく、入り口に近いテーブルの上にアタッシュケースを置いた。丁寧に蓋を開いてから、回転させて中身を見せる。少し隙間が空いているようだが、500万ならこんな物か。そう思えるくらいの札束の詰められていた。引き寄せられるように、マサ以外の若者達が、札束に群がってゆく。
マサだけは動かず、腕組みをしたまま様子を窺っていた。顎をしゃくって、守に行くように促す。守は、一歩踏み出した足で「エスケイプの方はどうなった?」と男に問いかけた。
「心配ない。部下が迎えに行っているはずだ」
「そうか、オレも早いところ連れていってくれ。安全なところで落ち着きたい」
「それは出来ない」
男の言葉に、守が足を止めた。マサも、状況の変化を俊敏に察知して、怪訝な表情を浮かべた。
「用があるのはエスケイプだけだ。全員ここで死んで貰う」
ようやく異常に気が付いたらしく、金に群がっていた若者達も手を止めて男を見た。
その瞬間、「ヒュンッ」とか細い音が、鳴り続けていた洋楽に混じって聞こえた。
アッタッシュケースの前に陣取っていた四人が、一斉に血しぶきを吹き上げて宙を舞った。
残された下半身が、切り離された順番に後を追って倒れて込んで行く。どす黒い血溜まりが床に広がった。
最初に動いたのは黒服の男だった。普通ではあり得ないほどに速い。間髪入れず、マサの目前まで一気に駆け寄り、右手を腹に沈めた。
「がっ、あぁぁぁぁ!」
マサの悲鳴が響き渡り、ようやく事態を飲み込めたマスターが、目を見開きながら電話に手を伸ばす。同時に、マサの背中から突き出した鋭い切っ先が、「ヒュルッ」と言う空気を切り裂く音を伴って形を変え、鞭のごとく伸びてマスターの額に吸い込まれていった。マスターが、カウンター内部に置かれた物を巻き込んで、派手な物音と共に倒れ込む。凶器は、役目を果たすと今度は縮んで、マサの背中に吸い込まれて行く。男が右手を引き抜くと同時にマサが床に倒れ込む。肘まで血濡れた男の手には、しかし何も握られてはいなかった。
男が振り返るまでの間に、出入り口に辿り着いた守は、振り返らないままドアを開け放って、外に飛び出していった。男は、すぐに追跡の足を踏み出したが、そこから動くことは出来なかった。マサが、最後の力を振り絞って、男の右足にしがみついていたからだ。
「待てこの野郎!オレ達を騙しやがったなぁ!」
「金はキチンと払っただろう?」
男は薄笑みを浮かべて言い放った。右足を蹴り上げて、簡単にマサを蹴り飛ばした。
店外でバイクの爆音が沸き上がって、スキール音を上げながら、一気に遠ざかって行く。
「うぅ・・・こんな力持ってても、さっぱり金にはならねぇなぁ・・・」
壁に叩きつけられたマサが、呻きと共に漏らす。誰に話しかけているのか、虚ろな目はすでに目の前の現実を見てはいないようだった。
「金・・・が、入ったら・・・迎え・・・に・・・だったの・・・に・・・」
だが、男はマサの最後の呟きさえかき消すように、立て続けに蹴りつけた。
「オマエのせいで、逃げられてしまった!逃げられてしまったじゃないか!!」
偏執的な金切り声を上げながら、何度も何度も、右足を叩き込む。肉を叩く音が、執拗に響いた。いつまでも続きそうな蹴りの応酬は、しかし突然止められた。途切れかけた意識を取り戻し、マサが右足にしがみついたのだ。
「なめる・・・なよ!・・・お前も・・・ここで死ね!」
マサが右手を突き出す。同時に掌を向けた空間が揺らめいて、その次には視界を紅蓮の炎に覆われた。オレは目を閉じて、ディスクローズを解除した。焼け落ちた店内の光景が戻って来た。
「要するに、最初から利用されてたわけだ・・・」
感想をひとりごちて、息をついた。守も、マサ達も朋美を得るために利用されたわけだ。と、言うことは、朋美は無事でいる可能性が高い。だが、あの外人は何者だ?エスケイプを欲しがる海外の・・・組織が存在するのか?どちらにしろ、朋美を助け出すには相手の正体を知る必要があるし、そのための手がかりは、やはり守が握っている可能性が高い。引き続き、ディスクローズを使って守の追跡を続ける。そうと決めたところで、向かいの空き店舗から、レプがしかめ面で手招きしているのが目に入った。
寄せられた眉を見て、ピンと来た。オレは急いで空き店舗に走った。
元不動産の空き店舗の内部は、カーテンで締め切られて薄暗く、入るとすぐに異臭が鼻を突いた。澱んだ空気に混じって濃厚に立ち込めているのは、強烈な血の匂いだった。
営業していた当時そのまま、事務机から資料棚、応接用ソファーや小型のTVまで、手つかずで放置された店内の奥に衝立で仕切られた部分があり、鼻を抑えたレプがそこを指さす。
置き去られたガラクタを避けつつ近づき、衝立の向こうを覗き込む。
壁際にロッカーが据えられていた。一枚だけ開いた扉の足下に、半ば乾いた黒い血溜まりが張り付いている。そして、ロッカーの内壁に寄りかかるようにして座り込んだ女の死体。
「シーク・・・」
予想していた事とは言え、オレは絶句していた。
腹から下を血で染められ、恨めしそうに天上を見上げる目は瞳孔が開きっていた。ぽっかりと開けられた口腔は、魂が抜けてしまった後の、虚ろな穴その物と見えた。
オレは近づいて、シークの腹部を検分した。腹の中心に人間の掌大の穴が背中まで貫通している。間違いなく黒服の男の仕業だろう。獲物その物は見えなかったが、傷の受け方がマサの場合とほぼ同じだった。
「・・・男勝りだけど、いい女だった・・・。スナイブになんて言うかな・・・」
いつの間にか、後ろに立っていたレプが呟くように言う。スナイブと言うのは、シークと親しくしていた構成員の名前だ。オレは会ったことがないが、レプは付き合いがあるのだろう。
「もう本部には連絡入れたのか?」
レプのつぶやきはやり過ごして、必要な事を確かめる声を返した。残された者に掛ける言葉なんて、オレだって持ち合わせちゃいない。
「ああ。じきに回収班が来るだろ」
「じゃあ行こう」
言い捨てるような言い方になってしまったのを後悔したが、フォローするような心境じゃなかった。構わずに歩き出した。
「ここはディスクローズしないのか?」
「向こうで敵の姿を見た。守が生き残ってる。追いかけるぞ」
踏み出す足に、力が籠もってしまっているのが自分でも分かる。が、どうしようもなかった。先に車に乗り込んで待っていると、すぐにレプが追いかけて来た。
「一人で先に行くなよ。・・・なんだ、怒ってるのか?」
オレの方を覗き込んだレプに、表情を見せたくなくて、顔を背けた。
「・・・なんでもない」
それだけ答えるのがやっとだった。体の奥底から沸き上がってくる怒りを抑えることが難しかったからだ。仲間や巻き込んだ者を、まるでゴミの様に始末した敵に対しての憎しみもそうだが、散々手を血で汚して来ておきながら、命を命と思わない敵に怒りを感じている自分自身の身勝手にも、怒りを感じていたのだ。
だが、矛盾した己の内面と向き合っている時間はない。渦巻く感情には、死の現場の空気に当てられたのだと言う理由で蓋をして、先を急ぐことに決めた。
殺人の瞬間を視る事が出来る能力なんて、持つもんじゃない。
(2005年9月脱稿)