「天上の公務員〜跳躍の結末〜」
四章
冬の夜空を覆った雲は、街明かりを吸い上げ、薄いグレーに照り映えて見えた。
なんとなく赤みを帯びているような気がするのは、きっと路上を覆う自動車のテールランプのせいだ。深夜にもかかわらず路上に溢れかえる無数の車の群れが放つ赤い輝きが、大気の粒子一つ一つに拡散しているからだろう。
本来は闇の物であるはずの夜空の色彩さえ、自分たちの色に染め上げて、地上では膨大な数の人間と物語が蠢いている。同時進行的にいたるところで始まり、進行し、転換し、結末を迎えているに違いないのだった。もちろん実時間の今この瞬間も同じ事だが。
ぼんやりと空を見上げながらそんなことを考えていたオレは、見えない窓枠に突いていた頬杖を外して、数十メートル先を悠然と走る過去の物語の一つに視線を戻した。
独特の存在感を放つ黒い車が、特徴的なドーナツ型の4連テールランプを、夜の闇に浮かび上がらせている。
かつて、価格と馬力とパワーアップの容易なことで注目された国産最高峰スポーツカーの物だ。世代交代と経年変化で古びたとは言え、いまだに車にステータスを求める若者の間ではもてはやされる存在だった。
持ち主が金を掛けたのだろう、マフラーはノーマルから後付の社外品に交換され、バンパー下に大口径の排気口を覗かせているし、トランクの上にはレースカーから外してきた様な大げさなリヤウイングが取り付けられている。そして右テールランプの内脇に、Rを象った誇らしげな赤いエンブレム。
しかし、今目の前を走るその車は、いたずらに真価を見せつけることはせず、図太い排気音を控えめに響かせながら、交通の流れに沿ってゆったりと走行していた。
スモークの張られたリアウインドウのせいで確認は出来ないが、運転席に座っているのは守のはずだった。
バーからバイクで逃げ去った後、車で追いかけてきた追っ手を振り切り、守は手近のコンビニエンスストアに立ち寄った。車で乗り付けてくる客を物色し、めぼしい車に狙いを定めると、インヴィジブル・アームで買い物客のポケットからキーを抜き出したのだ。自分の車が勝手に走り出すのに驚いた持ち主が追いかけるのを尻目に環状線に飛び出した。
さすがに真冬の深夜にヘルメットも被らずにバイクで走り続けるのは自殺行為に等しいと悟ったのだろう。選んだ車種も、なぜわざわざ目立つ車をと思えるが、手配が廻って追っ手が付いたときに、振り切れるだけの実力のある車にしたのだろうと思い直した。
この時間になお交通量の多い環状線を、海側にある工業地帯目指してひたすら走り続ける。下手に目立つのを警戒してか、延々ゆっくりと息を潜めるように。
「あいつも必死だな」
変わらない状況に何度目かのため息を漏らして、何気なく口にした。守が車に乗り換えてから、小一時間が過ぎ去っていた。その間に、オレの中で沸き上がった怒りはゆっくりと勢いを失い、やがて退屈に取って代わられていた。
「オレ達はみんな必死だよ。別にあいつだけが特別じゃない」
それまでずっと黙っていたレプのいつもと違う固い声が、ディスクローズ中の聴覚に入り込んできた。路上の交通騒音に混じって、遠くくぐもってオレの耳に届く。
「あいつは急ぎすぎだ。よく考えもしないで簡単な罠にはまって、おまけに関係ないヤツまで巻き込みやがって」
返事をする間もなく、レプが先を続ける。いつになく厳しい言い様に少し驚いた。オレは、視線の先にスポーツカーの後ろ姿を据えたまま肯いた。
「守をかばうつもりはないよ。シークのことは気の毒だったと思ってる」
フォローのつもりで言い繕った。レプからの返事は帰ってこなかった。
「なんだよ、今度はレプが怒ってるのか?」
冗談めかして、レプがいるはずの運転席の辺りに視線を飛ばす。
「オレだってずっと怒ってるんだぜ?クロが先に真っ青になって黙り込むから、怒るに怒れなくなっただけだ。文句の一つも言わせてくれ」
同じように冗談めかして、皮肉っぽい口調で返して来たがたぶん本気だろう。「真っ青になって黙り込む」と言うのは、オレの怒っているときの様子のことだ。端からはそう見えるらしい。
「ああ、それは悪いことをしたなぁ。心ゆくまで怒り狂ってくれ」
切り返すと、「なんかムカツク」とレプは笑った。
守の車は、相変わらず二車線道路をゆったりと走っている。なんの変化もない後ろ姿と、頭上を等間隔に通り過ぎていく街路灯の白い光を眺めていると、意識が呆然としてくる。シートを通して伝わって来る走行振動も拍車をかけていた。
「やっぱり、連絡来ないな」
レプがぼそりと呟く。不満を隠そうともしない。端末には防音シートを被せていないから、本部へ筒抜けなのも気にしていない。そう言う口調だった。
「さすがに今回は直通通信の許可が出るだろうと思ったけど、無駄だったかな」
オレも皮肉たっぷりに言ってやった。レプが忍び笑いを漏らすのが聞こえてくる。
情報の即時性が求められる任務では、端末のメールを使用しての通常通信ではなく、秘匿回線を使った本部への直接通信が許可される場合があるのだ。バーを出る前に本部への報告を上げてあったから、許可が出るならいい頃合いではあった。敵の姿を捕らえた以上、正体をはっきりさせておきたい。「任務遂行の為には、絶対に必要な情報だ」と、念入りに強調して情報提供を要請しておいたのだが・・・・・・。
「たかが電話で話すのに許可がいるってのもおかしな話だよなぁ。」
レプが、からかうような口調で続ける。普通に考えれば、大げさな情報漏洩対策ではあると、オレも思う。が、これ以上の同調はしない。それで何が変わるわけでもないからだ。
「本部は直通するほどのことでもないと思ってるんだろう。実際今すぐ状況が動くわけでもないからなぁ」
「・・・・・・確かに」
レプの返事と同時に、全身に緩やかな制動の減速感を感じた。立体交差を下っているところで、守の乗った車との車間距離が見る見る広がってゆく。車の群れが、前方に遠ざかって行くと、街灯の灯りの下にぽつんと取り残された。妙に心寂しくなる光景だった。
「合流で詰まってる。すぐ流れるからちょっと待て」
問う前にレプが教えてくれた。
「一回解くよ」
どっちにしろ、もう一度やり直さないとダメだ。そう判断して、ディスクローズを解除する。車外の景色が瞬く間に光を取り戻し、昼間の街並みが車窓の向こうに広がった。陽光に目を細める。運転席ではレプが、ディスクローズに入る前と変わりなくハンドルを握っていた。片側二車線の道路は車でごった返している。言った通り、合流車線から入ってくる車の群れが、走行車線の流れを停滞させていた。
合流してくる車との車間を測りながら緩やかに車を走らせていたレプが、一瞬ルームミラーを見上げ、視線を走らせた。
「なんだ?」
妙に思って聞くと、レプは「いや、まだいい」と首を振った。
車内に沈黙が降りる。二人とも黙り込んだまま、時間だけが無為に過ぎ去って行く。
交通量が増えて、流れのスピードはどんどん落ちてきていた。歩道を歩く通行人の数も、明らかに多くなっている。
「オレさー、シークのこと好きだったんだよね・・・・・・」
なにを考えたのか、レプが出し抜けに言い出した。吹っ切れた様な口調で、呟くように。
言われたことの意味が飲み込めず、コメント不能の顔を向け続ける。意識しているのかいないのか、意に介さないと言った風にレプは先を続けた。
「シークともスナイブとも仲良くして貰っててさ。だから、ずっと二人の醸し出す空気みたいなもんが好きなんだと思ってたんだ。なんて言うか、あの二人って絵になるからさ」
確かに構成員の中でも、シークとスナイブは美男美女のカップルとして有名だった。
「だけど違ったんだ、さっきシークの死体を見つけたとき、そう言うのじゃないなにかが終わった感じがしたんだ。まだ、始めてもいない物が」
オレはレプの意図を読めず、ただ黙って聞いていた。
「それで、オレが好きだったのはシークだったんだって、やっと分かったんだよ」
ため息を一つついて、レプは話を締めくくった。意図なんてないのかも知れない。誰でもいいから自分の思っていることを聞いて欲しい、そんなときはオレにだってある。
レプの妙にさっぱりした横顔を眺めていると、後悔の念が頭をもたげてきた。
不動産の廃店舗を怒りにまかせて飛び出してきてしまった行動が、自分勝手以外の何者でもないことに気が付いてしまったからだ。ごめんと言って済ませていいとも思えないが、それ以外に言うべき言葉も見つからない。
「レプ、さっきは悪かった」
複雑な想いを抱えながら口にすると、本当に分かっているのか、レプは「あ?ああ、うん」と曖昧に肯いて、
「そんなことより」
話題を切り替える様に言う。
「クロはエスケイプのことどう思ってるんだよ?」
唐突な問いかけだった。
「なぁっ!?・・・・・・なんだよ突然に!」
今度こそ意表を突かれて、なぜかオレは慌ててしまっていた。
「どう思うもなにも・・・・・・それにこんなときにそんな話しなくても」
全身の血液が瞬間に沸騰する。舞い上がった頭で、話題を逸らそうとするが・・・・・・。
「ぷっ。オレはどう思うって聞いただけだぜ。なに慌ててるんだよ? そんな話ってどんな話だ?」
意地の悪いやつだ。会話の順序から言ったら、「恋愛感情があるのかないのか」そう言う質問だと思うに決まってる。オレは体全体でそっぽを向いた。それでも、誤解の無いように一応答える。
「・・・・・・妹分」
オレにとって朋美がどんな存在かなんて決まってる。長い間兄妹のように付き合って来たのだ。先生や施設の他の研究者、構成員からもそう言う風に扱われている。
「違うね。人に聞かれて『妹』なんて、手を出せない相手に寄せてる気持ちの、他人に対する言い訳であって、本心の訳がない」
レプはきっぱり否定した。思わず逸らした顔を向け直してしまう。
「言い切るなぁ」
内心「まずいなぁ」と思いながら、レプのペースに巻き込まれているのを感じていた。
レプは、仲間内で「人情派」として名が知れているのだ。別名「普段へらへらしてる熱血君」
「じゃ、例えば、一緒にいて全然楽しくない上になんの値打ちも感じられない世界一の不細工ちゃんが存在するとして、今みたいに聞かれて『妹』なんて言うか?言わないね。好意のない相手だったら答えは『他人』だろ」
またもや断言するレプ。
「なんか、めちゃくちゃ言ってないか?」
無駄と知りながら、抵抗するが・・・・・・。
「いいんだよ。とにかく、そんな訳がないんだ。それに、エスケイプにしたってインヴィジブルと逃げたのは何か訳あってのことだよ」
「なんでそう思うんだよ?」
オレが思う以外の理由があるなら、ぜひ教えて欲しいもんだった。
「何とも思ってないヤツに、プレゼントねだったりしないんだよ、ああ言う子は。それも自分の誕生日にだぜ?」
「時計が欲しかったんだろう」
「やだねぇ、女心の分からないヤツは。ほんと、そう言うところは抜けてるのな、クロは」
「・・・・・・」
気にしてるところをズバッと突かれて、返す言葉がなかった。
「腕時計が欲しかったにしろ、なんとも思ってないヤツに貰った物を、後生大事にいつもいつも身につけたりしないもんだ。それに、施設内に時計なんて腐るほどある。分かってやれよ。好きな男から貰った物を常に身に着けていたいって言う女心をさ。可愛いと思わないか?」
レプの言うことは分かる。だが・・・・・・。守と朋美が視線を絡ませ合っている情景が頭に浮かんだ。
「施設でディスクローズしたとき、守と朋美が目を合わせるのを見たんだ。・・・・・・あれは、普通のアイコンタクトじゃなかった。言ってることは分かるけど、事実は違ってる」
一瞬逡巡した後、絞り出す様な気持ちで告白した。窓の外に視線を逸らす。
「なんだ、好きなんじゃねぇか」
レプが、小声で呟くのが耳に入った。
「なんか言ったか」
「いや?なにも」
すっとぼけた物言いだった。
「・・・・・・仮にそうだとして、レプは何が言いたいんだよ」
「オレ達はこんな立場だからな。普通に暮らしてる人達より余計に自分の気持ちをしっかり掴んでおかないと、最後に大事な人を想うことも出来ないぞ。それは寂しいことだ」
オレは、ハッとしてレプに目を向けた。
この、金髪の大男が、こんなことを考えていたと言う事実に、半ば感動すら覚えていた。年の功か、もともと繊細な心を持っているのか、どっちにしろ意外だった。いつもへらへら正体不明なくせに。
最後に大事な人を想う・・・・・・・。死を常に意識する立場にいながら、まったく思いもしなかったことだ。想像力が欠けていると自分で思う。
見ると、レプはそれきり黙って、運転に集中すると決めたようだった。オレも中断してしまった仕事に戻ることにして、追跡を再開した。
レプの話が終わるまでに、車はだいぶ距離を走っていた。
その間に守の車が環状線を外れていないかと心配だったが、ディスクローズを再開すると杞憂に過ぎないことがすぐに分かった。心配とは裏腹に、守はずっと真っ直ぐ走っていた。
実時間との交通量の差は相変わらずで、ディスクローズを繰り返して、守が通った道筋を特定していくしかなかった。何度もドーナツ型四連テールランプとナンバープレートを捕捉しては、通り過ぎてゆくのを見送る。
そうしてしばらくすると状況に変化が現れた。守が環状線を外れたのだ。関東最大の工業地帯を掠る様に走る国道に乗り換え、少し走ると今度は裏通りを走り始めたのだった。ディスクローズの回数が飛躍的に伸び、オレの体力と集中力を削ぎ取っていく。
話し疲れたらしいレプは、時折飛ばすオレの指示に「あいよ」と答える以外は、黙々と運転を続けていたが、オレの疲労が蓄積して行くのを敏感に感じ取り、盛んに休憩を提案してきた。「まだ」「もう少し」と却下し続けて、なんとか守の通ったルートを辿ると、工業地帯を横切る産業道路に出た。このまま進めば、都県境を渡って県内に戻ると言うところで、頭上に現れた道路標示が目にとまった。青地に白文字で書かれた行き先表示は、この道の先に東京湾縦断道路の入り口に繋がる分岐があることを示していた。
バーを出てからの守の足取りを頭に呼び出す。県内に戻るだけなら、ここまで海側に来ることはないのだ。と、言うことは・・・・・・。
「レプ、アクアラインに向かってくれ」
「ああ、そうだろうな」
オレが言うと、レプも同じことを考えていたらしく、すぐに同意した。
「だけど、一回その辺流してからだ」
そう言い足す。
「なんで?」
「たぶん、尾行されてる」
オレは、もう何度目になるか分からないディスクローズを解除して、目を瞬かせながら後ろを振り返った。すかさずレプが止めに入る。
「見るなって。気付かれる」
「確認が出来ない」
「目立たないようにこっそり覗きな」
レプの言う通り、シートの背もたれからなるべくはみ出さない様にして背後を伺った。後ろには何台もの車が連なっている。
「何台目?」
「四台後ろの青いセダン。安い車使ってるな」
二台目、三台目の車を透かしみる。確かにレプの言うような車が走っている。フロントウィンドウに太陽光が反射しているのと距離があるせいで、乗っている者の姿までは分からなかった。それでも二人乗っているらしいことだけは確認した。
車は県境の橋を越えて、県側に達しようとしているところだった。
「いつから気が付いてた?」
「不動産屋を出てしばらくしてからかな・・・・・・?いたりいなかったりで確信が持てなかった」
かなり尾行に慣れた連中なのだろう。付かず離れずではなく、近づいたり離れたりを繰り返して、ここまで付けて来たのだ。
まず間違いなく、青いセダンは黒服の男の仲間の物だ。バーで待ち伏せしていたに違いない。連中は、後から能力を使って守を追う構成員を付けることで、守に行き着こうと考えた訳だ。
「この辺りで撒いておいた方がいいな。この先の交差点を曲がったら、行き先がばれる。一回通り過ぎよう」
東京湾縦断道路への分岐は交差点になっている。そこに入れば、工業地帯を別にして行き先は一つしかない。
「了解。通り過ぎたら、しっかり掴まってろよ」
言った通り、目標の交差点を通り過ぎると、レプは混雑した道を混雑したなりに急ぎだした。高速道路の高架下を走る三車線道路で、隣接した車線に隙を見つけては、車を滑り込ませる。それを何度も繰り返し、尾行との距離を稼いだ後、おもむろに交差点ではない路地に滑り込もうと右折する。強引に反対車線をまたぐと、目前まで迫っていた大型トラックが、激しくクラクションを鳴り響かせた。耳を塞ぎたくなるような大音量が、長い尾を引いて鼓膜を圧迫する。
「うぉーーーい!」
思わず上げた叫びも、自分の耳にさえ届かない。喉の振動がかろうじてそうと伝えてくるだけだ。
トラックの鼻っ面が、助手席の窓を後方に流れ去ると、クラクションも背後を通り過ぎ、車一台通るのがせいぜいと言った広さの脇道に滑り込んでいた。そこでピタリと停車する。
レプが身を乗り出すようにして背後を振り返った。倣って後ろを窺うと、尾行してきていた車がそのまま通りすぎて行くのが見えた。
「付いては来ないんだな」
付いて来させないような手段を取っておいて、レプが堂々と言った。
「あっさり諦めたか。プロだな」
必要以上に近づかない、気付かれたら身を引く。尾行の基本だ。オレ達に守の居場所へ案内させるのが目的だと言う証拠だった。
「これで終わりってことは無いだろうけどなぁ」
清々した口振りで言い、レプは車を発進させた。
平日の穏やかな昼下がり、町工場と住宅の入り交じる下町風情の町並みの中を、追われているとも思えないのろのろ運転で、レプは流して行った。
十字路に差し掛かる度に進路を変え、路地の先や後方に追っ手の姿が現れないか慎重に様子を窺う。すぐにバス通りらしい道路に差し掛かったが、跨ぐようにして向かいの路地に入った。
「撒けたのを確信したら戻るからさ、それまでクロは休んでろよ。疲れただろう?」
右手だけで器用にハンドルを操りながら、レプが言う。
内心、それどころじゃないと思う気持ちもあったが、実際にはレプの察した通り、気を抜いたら眠りこけてしまいそうなくらい疲労が蓄積していた。おまけに、心地よい走行振動がオレを眠りへと誘う。
「悪いな。ちょっと休むことにするよ」
レプの好意に甘えさせて貰うことにして、シートを倒し身を預けた。腕組みをして、目を閉じる。しばらくそうしてエンジンの振動と、緩やかな車の挙動を感じていると、急激に意識が朦朧として睡魔が覆い被さって来た。が、熟睡には到らず、覚醒状態と睡眠状態の狭間でたゆたう。長い時間が過ぎているのか、それとも過ぎていないのか、判然としない状態が続いた。
(……ごめんね……)
ふいに、か細く弱々しい感じの女の声が聞こえた。少し離れたところに、なにか申し訳なさそうな様子で朋美が立っていた。暗闇の中、そこだけぼんやり照らされた灯りの下に、取り残されたみたいに、ぽつんと。
ああ、朋美の声だ。
「バカだなぁ」
言いながら、思わず笑みが零れる。必死で探していたのに、なんだ、そんなところにいたのか。
「なんで朋美が謝るんだよ。なにも悪いことなんてしてないじゃないか」
重ねて言うのに、朋美は首を振った。
なにかされったけか? 少し考えて、施設から逃げ出したことを思い出す。ああ……オレとじゃなく、守と逃げたことなら仕方ない。だって朋美がそう望んだのなら、それはオレがとやかく言うことじゃないし……。
オレが思うことに、朋美は一々首を振った。
(じゃあ一体なにに対して謝ってるんだよ?)
一際強くそう思うと、朋美はうつむいて繰り返した。
(……ごめんね……)
とたんに、暗闇を切り取ったような灯りごと朋美が遠ざかって行き、追いかけようと繰り出した右つま先が、なにか硬い物を蹴飛ばして激痛が走った。同時に目に入る、午後の光と目前に迫ったダッシュボード。安っぽい素材感をごまかすために施された、つや消し処理された表面が鼻先数センチのところにあった。無意識につま先をかばって、もう少しで頭をぶつけるところだったわけだ。
「なんだ。なにやってんだよ?」
慌てたレプの声が耳に飛び込んでくる。
「くぅ〜〜〜、なにやってるんだろうなぁ」
呻き声を上げながらオレがぼやくのに、レプは不思議そうな表情を浮かべたが、それ以上追求してくることはなかった。
「なんだか分からないけど、気をつけろよな」
苦笑混じりに言って、レプは運転に戻った。
先刻の話の後に、「エスケイプの夢を見た」などとオレが言えるわけもなく、つま先の痛みは治まって来つつあったが、堪える振りをし続けることにした。
車外に目を向けると、なにか閑散とした感じの場所を通る、片側二車線道路を走っていた。
道の両脇には割と幅の広い歩道があり、歩道の端には立ち入りを拒む背の高いフェンスが張られていた。時折、その切れ目切れ目に大手工業系、瓦斯系企業の守衛所のついた門が現れては、視界外へ消えて行く。フェンスよりもう少し奥の方に視線を飛ばすと、大きなパイプを複雑に組み合わせて作ったような建造物や、それほど背の高くないビル、倉庫群が、まばらに混在していた。
オレは、見える景色を記憶に照らし合わせた。
分岐点はとうに過ぎて、工業地帯を突っ切る道を走っているらしい。もうしばらく走ると、地をえぐるように掘られたトンネルをくぐって、島と名の付く埋め立て地に入る。そこで、東京湾縦断道路の入り口へと至るはずだった。
余計な高層建築物がないここから見上げる空は、とても広く感じる。とっくに中天を過ぎていくらか傾いた太陽は、どこか寂しげに見えた。
(……ごめんね……)
夢で聞いた朋美の声が、脳裏に浮かんだ。続いて、なにか申し訳なさそうな表情。
いったい何が「ごめんね」なのか……。つい、まじめに考えそうになって、我に返った。
夢は、自分の中の経験や願望が眠っている間に現れるものだ。眠っている間に会った朋美は、実際の朋美とは無関係。夢の中で謝っていたからって、現実に結び付けて考えるのは短絡的に過ぎる。それに朋美の「ごめんね」は口癖だ。
いつもおどおどびくびくしていた朋美はことあるごとに、いや、なにもなくても「ごめんね」を連呼していた。自分でトラブルに立ち向かって行くことが出来ず、逃げることしか考えられない。自分の胆力の不足に疑問を持つこともせず、施設に来たばかりの頃はひたすら怯えてばかりいた。
もっとも、その臆病さが潜在能力の高さと結びついて「世界初」と言われる「エスケイプ」が顕現したのだから否定ばかりも出来ない。が、今回はそれが仇になったと言える。それに……。そういう非力さ加減をオレは放っておけなかった。
そもそもは、施設の他の子供達に朋美が反感を買っていたのが、オレと兄妹扱いされる発端だった。
施設に来たときにはすでに「エスケイプ」は顕現されていて、研究者達にはダイヤモンドの原石に見えたようだ。おかげで朋美は、オレも含めた他の子供達の様に、厳しい基礎訓練や技術習得はことごとく免除されて、他の子供達からは妬みと迫害の対象になった。
要するにいじめられていたわけだが、朋美に取って幸いなことにオレはいじめの先頭に立っていたヤツと反りが合わなかった。そいつは戦闘向きの能力を持っていたが、施設で対能力者戦の技能も叩き込まれていたから、どうと言うこともなくぶっ飛ばすことが出来た。
オレにとっては、そいつを叩きのめすための口実くらいでしかなかったが、その日から実験や訓練で無理なとき以外、朋美はオレの後をついて歩くようになった。だから、朋美は妹分なのだ。そのはずだ……。
普段はへらへらしていて掴み所のない、レプのような男に面と向かって言われると、当たり前の様に思っていたことへの自信が揺らいでくる。朋美が守と逃げたことに対して感じているのは……夢の中では調子の良いことを言ったが、やっぱり嫉妬なのだろう……。
オレは、つま先を押さえるのをやめて、冷え切ったコーヒーを啜った。甘みの強すぎる液体が、口端に残ってベタベタする。飲み下したとたんに、首からぶら下げた端末が着信音を奏で、オレとレプを少なからず驚かせてみせた。
「なんだ? 呼び出しか? 本部が情報提供する気になったかね」
レプが、期待混じり、皮肉混じりの声を上げるのを尻目に、端末を手にして確認すると本部からではないとすぐに分かった。
「残念。キャストからだ」
二つ折りの端末を開いて通話ボタンを押す。オレが口を開く間もなくキャストの声が飛び出してきた。
「二人とも無事?今どこにいるの!」
成長期にもかかわらず声変わりをまったくしない、キャストの甲高い声がオレの鼓膜を激しく揺らした。
「キャスト、もう少し小さい声で喋ってくれ」
苛立ち混じりの声音でオレは応じた。端末を左手に持ち替えて、右手で右耳を押さえる。
「……無事なんでしょ? 今どこ……」
今度は少々抑えすぎた声量で、囁くようにキャストは言った。首筋に息を吹きかけられたときの様な、寒気が背中を駆け上って来る感覚を想像してしまって、思わず身震いする。
「オマエは普通に喋れないのか?」
オレが思わず声を荒げると、キャストはあっさり話題を逸らした。
「このまま追跡を続けると、大変なことになるよ」
ぴんと来たオレは、それまでの戯れを中断して話しに乗ることにした。ブロードキャストで、オレ達の近未来を垣間見たのに違いない。
「いったい何が起こる?」
「このままだと二人とも殺されるわ」
「・・・・・・」
「眠ってたらヴィジョンが降りてきたのよ。どこだか分からない古い建物の中で、インヴィジブルを入れて三人とも倒れているのが見えたの。それも血まみれで」
古い建物、三人とも、血まみれと要点を記憶に焼き付け先を促す。
「それで慌てて連絡くれたのか。サンキュ」
「そうよ。感謝しなさいよね。ディナーもんよっ」
「またそれかよ。オマエのディナーは高いんだよ」
「見料じゃない。命に比べたら安いもんでしょ」
「あー、分かった分かった。帰ったらな。……それで、どうしたら回避できるんだ?」
「引き返すのよ。今すぐに」
オレは、呆れてため息を一つ漏らした。オレ達構成員にはありえない選択だった。
キャストの長い長い黒髪と、勝ち気な瞳が思い出される。
十五歳にしても子供じみた体型と、整ってはいるがやはり幼い顔立ち。それに見合う物事をあまり深く考えない性格。とにかく生意気で口の減らない女。キャストにおいての思春期とは、もっぱら第二次反抗期の意味合いが強いと言うのが、他の構成員達との間での了解事項だった。
「……他に方法はないのか?」
「ない。組織の方へはあたしから上申してあげるから大丈夫よ」
キャストは自信満々でそう言った。ディスクローズとレプリカ。ふたつセットで天秤にかけても、エスケイプの希少性には敵わない。そんなことで意向を変える組織じゃないのは明らかだった。キャストは未だに組織を軽く見ている伏がある。
「ブロードキャストは未来の可能性を視る能力だろ? 絶対にそうなるって決まった訳じゃないんじゃないか?」
「そうよ。それでも、ヴィジョンが降ってくるってことは、実現する可能性の高い未来だってこと。あたしが覗いたんじゃなくて、ビジョンの方からやって来たんだから」
その違いに実感は持てないが、言っていることは分かった。大変危険な状況だと言うことだ。だが、だからと言って命令以外での撤退は、オレ達の選択肢にはない。行くも地獄、帰るも地獄。行き着くところは同じだった。キャストも同じ立場にいるのだが……。
「キャスト・・・・・・ここで引き返せば、オレ達は逃れても守は殺されるかも知れない。そうなるとエスケイプを探す手がかりがなくなるって事になるんだよ」
横紙破りのキャストの考えをどう正すか、考え考え話をした。小さな子供を諭している気分だ。が……。
「いいじゃない、そんなの。もともと覚悟の上で逃げ出したんだから。そんな人を助けるためにクロが命賭けることないわよ」
一瞬で頭に血が上っていた。言いたいことを言いたいように言うのがキャストだと、分かってはいるのだが。
「そう言うこと言うんじゃねーよ! 仲間だろうが!」
端末をレプに押しつけ、なんの責任もない空を睨んだ。運転席で会話するレプの声が車室内を漂う。
「どした?・・・・・・ああ・・・・・・マジで? ・・・・・・うん・・・・・・うん・・・・・・でもそれじゃ単に任務失敗・・・・・・他になんかないのか? ・・・・・・そうか・・・・・・あ〜それはクロに聞いてみなよ・・・・・・うん・・・・・・今替わる」
レプがオレの目の前に端末を差し出した。まだ全然落ち着かないのにこんなに早く戻ってくるとは。
「もしもし?」
仕方なくもう一度出ると、再び鼓膜を揺るがすキャストの大声が耳に飛び込んできた。
「なによ!自分の命よりエスケイプが大事なの!」
とっさに耳から端末を引き離すと、電話口の向こうでまだなにか喚いている声が流れ続けていた。
「デカイ声出すんじゃねぇ!」
左手に電話を持ち替え、負けじと言い返す。
「答えなさいよ!」
キャストの問いに、一瞬答えに詰まる自分を発見していた。
「オレは・・・・・・」
なぜか、後が続かない。
「分かったわ。だったら好きにするといい!」
無言を肯定と受け取ったらしいキャストの喚く声が耳を打って、断ち切るように電話が切れた。
「なんで怒ってるんだ?あいつは」
通話が切れる瞬間のキャストの声は、わずかに震えていた様な気がする。
「ほんと鈍いなぁ、クロは」
レプは、面白い物でも見た後みたいに笑っていた。
「どういう意味だよ」
「自分で考えな。・・・・・・それより、どうするんだ?」
「どうするもなにも……」
分かってるだろうの意味を込めてレプに視線を送る。どうもこうもない。
「だよな。どっちにしても先行きは一緒だ。覚悟して行くとするか」
道はトンネルを目前にして緩やかに下り始めていた。
訳もなく、ここを過ぎたら引き返せない、そんな気がした。
(2006年2月)