若い頃に母から何通かの手紙をもらったが、いつも「よくよく気をつけなさい」「よくよく注意しなさい」
と書いてあった。一作目の題名は難産であったが、母の言葉を引用することにした。
200ページほどになったが自分のプリンターでコピーし、書店からブックキットを買ってきて6冊の
限定本を作成し兄弟と娘に配布、甥や姪も呼んでくれて割合好評。
以下は「はじめに」と「あとがき」の紹介です。
はじめに
謹啓、仲秋の候 皆様にはますますご清祥のこととお喜び申し上げます さて私 儀このたび9月30日をもちまして 松下電器産業株式会社を定年退職いたしまし た
退職の挨拶状を作成しお世話になった人たちに郵送し終わってホッとしてから早くも1ヶ月以上たってしまった。退職後の1ヶ月は、会社関係の私のための感謝会というか送別会が8回ほどありあっという間に過ぎた。
十一月以降の手帳のスケジュール欄は真っ白になってしまい、やはり一抹の寂しさを感じざるを得ない。妻の手帳を真似てその日に使ったお金を記入してみたが空欄はどうしても埋まらない。現役中もスケジュール表が埋まっていないと落ち着かなかったことを思い出す、これはきっと会社に長い間従事した習性であろう。
さて、会社には有難いことに人生の一つの区切りをつけるために 定年という制度があり、第二の人生への仕切りなおしの歳だと思う。仕事は国内、海外でいろいろの種類を、いろいろの形で随分やったので、この際あえて「頑張らない」をキーワードにすることを大分前から考えていた、素直に言葉だけを取ると怠け者みたいだが、実はそうではなく、むしろ自然体で生きていこうという意識の象徴である。これからは今まで出来なかったことを楽しくやり、仕事とは違った充実感のある日々にしたいと云うことである。
今までも人生の節は何度もあり、そのたびに私は何か思い出になることをと考えたものだった。
高校卒業した時、あと家に居るのも残り少ないという気持ちから、そりで田んぼに肥やしを運ぶ兄の手伝いを一生懸命やった。卒業し就職前の充実感と家のために何か役に立ちたいという気持ちだったように思う。20歳になった時、単独で谷川岳の沢登りをした、ザイル、ヘルメット、ハーケンなどを買い込み谷川岳のふもとに立ったときの気分を今でも覚えている。私の山行きをいつも心配し、反対して私を説得する母の顔を想いだす。松下に入社しての30周年には和子(妻)と海外旅行に出かけた、シンガポール、マレーシアに行き現地の知人たちとも懇親でき楽しい9日間であった。
今回は遂に定年退職。これはほんとに大きな人生の区切りである。旅行するのもいいが、やは
思案した末ある雑誌で、自分の行き方を再評価するために今自分史がブームということを知った
過去を書きながら未来を開くということらしい。また自分史には3つの楽しみがあるとのことである。つまり、「書こうと決心したときの心のときめき」「書いているときの作家気分」「出来上がったときの達成感」である。また、文章を書くとおのずと頭を使うので、ボケ防止にも効果があるらしい。これは極めて現実的な利点であるが今の私には少し早いようである。
決して波乱万丈の人生ではないが波乱万丈だけが値打ちのあるものではないだろう、普通の人生も
そうと決まれば次はどのように書こうかである。雑誌のアドバイスによると参考のために小説やエッセイは沢山読んだほうがよいが自分史だけは読まないほうが良いとある。読むとどうしても既成のものに引っ張られて「枠」にとらわれてしまうらしい。たしかに、書き方は書き手の自由であるはずである。
現在60歳、生まれてから結婚までが29年、結婚31周年、ちょうど半分づつになる。今回は前編として結婚までの自分、そして私を暖かく指導してくれた家族について書いてみようと思う。倉庫の古いダンボールの中から、随分長いこと忘れていた私が受け取った手紙と気の向いたときに書きとどめた大学ノートのメモが見つかった.
過去の事をいろいろ作文するよりは、この古いダンボールのなかの書物を時系列に記すことにより前半の自分史らしきものがまとまり、そのほうがむしろ現実味があって面白いのではないかと考えた。
どのようなものになるかは今の時点では分からないが、とにかくパソコンのキーを打ちながら徐々に分かってくることであろう。
あとがき
まえがきを書き始めたのが十二月上旬、パソコンのキーをほぼ打ち終わったのが二月上旬、其の後写真挿入と各年度の最後に「今思い出すと・・」を追加した。
手紙は一部手を加えた部分もあるが、できるだけ原文を忠実に入力したつもりである。各位におかれてはもし不具合の部分が多少あっても四十年〜三十年前の昔話という事でご容赦願いたい。
作成してみて分かった事は自分史というよりリアルな家族史になったことである。故郷を離れていた私が知らないもっと沢山の事(喜怒哀楽)があると思うが、私がもらった手紙を通して十年間(昭和三十五〜四十五年)の歴史の一部がまとまったような気がする。
毎年春がきて、夏になり、秋の穫り入れが終わり、寒い冬を迎える。 盆には帰ってきなさい、正月帰るのを楽しみに待っている、と云う昔から変らぬ自然の営みの繰り返しの中で、人が生まれ、成長し、色々の出来事に遭遇し、そして又希望を持って明日に向かって生きていく姿を実感した。少し残念なのは私の書いた手紙が皆無のため当時どんな事を家族に伝えていたかが定かでないが、其れがあれば更に自分史が見えてきたと思う。
パソコンに入力していて驚いた事はその手紙の多さである。当時はまだ電話が現在ほど便利ではなかったためであろう。現在は電話で茶の間に一緒に居るごとく会話ができるために、手紙を書くことがほとんど無くなってしまった。その点私が受け取った手紙の数々は今や私の貴重な宝物である。パソコンに入力する前の少し変色した自筆の年代物を見るにつけ、この思いは更に強くなる。
昭和三十五年頃は春とはいっても現在のような消雪パイプは考えも及ばなかった時代で、三月二十四日 深い雪道を歩いて島から六日町に向かう時、雪の中の点になるほど遠くなるまで家族が見送ってくれた事、六日町駅まで見送ってくれた気丈の母が、汽車が走り去った後にそっと涙を拭いたこと(姉談)など、十八の春 故郷を出発した時を懐かしく思い出す。私の受け取った手紙はこの直ぐ一週間後から始まる。
全編を通じ強く思うことは、両親、兄姉をはじめ故郷の皆がいかに私に戒めと励まし、心からの指導をしてくれたかと云うことである。そこには本音があり心がこもっており、家族、身内の絆を感じざるを得ない。今更ながら頭が下がり心から感謝する次第である。本誌のタイトルは少し難産したがこのような気持ちを表現したつもりである。
さて冒頭に書いたように自分史の前編として二十九才まで、つまり結婚するまでの手紙と極たまに書いた日記を中心にまとめてみたが、一言でいうと幸せで恵まれていたと言える。一つ母が早く逝ってしまったことを除いて・・ 。 其の後の三十年の歴史、今度は妻と子供を含めた歴史がありこれは今進行中でもあるが、これは又その内その気になった折に考えることにしよう。