生麦駅の跨線橋を渡って山側に歩くと正面に辨財天堂が見えてきます。辨財天堂は江戸時代には当初、現在の国道1号線を越えた東寺尾の寺領にありました。それを伝えるものとして、通りを海側へ歩き、踏切を渡り、国道15号線を越え、突き当ると旧東海道があります。戦前まではこの角に石造の辨財天の道標が立っていました。その道標に「是れより十二丁」「寛延二歳」(1749)と字刻され、距離と年代が印されています。お寺までは四丁~五丁ですので、この道標はまだ境内に移される前のものであることが分かります。道標はその近くの生麦神明社の入口に二つに折れた状態ですが据えられており歴史を物語っています。
文政8年(1825)に境内地へ移転されました。当山の辨財天は琵琶ではなく剣を保持しているところが特徴的です。この御像は、「近江国竹生嶋天女と同木にて弘法大師作」と言われ、極彩色仕上げです。辨財天の縁起本として文化6(1809)年4月、第33世 冲譽義觀上人が漢文で書き記した巻物の記録があり、また別に一巻、追記されたと思われる記録者不詳の和文一巻の計二巻が残されています。
御利益として、技芸上達、商売繁昌そして縁起由来から病苦災難厄除の神として、特に東海道を行き交う花柳界や商人達の信仰を篤く集め、賑わいを見せていたと言われています。
平成23年(2011)正月に鶴見七福神が誕生し、特に正月は鶴見七福神愛護会の案内もあり、今までに増して毎年多くの参拝者が訪れています。
抑 當山に安置し奉る福壽辨財天の靈像は近江国竹生島の辨財天と同木にて御丈六寸七分、弘法大師の御作なりと古来より云傳えられる。
この辨財天は辨公の公家、小林某という者、世に奉持し、しばしば靈験あり。就中今を去る318年(※1)の昔、元禄14(西暦1701)年の春、隣村寺尾村の熊澤氏の一男、病久しく薬石効なく危篤に陥りこゝに近親のもの、辨財天の靈端を聞傳え最後の救護を祈るに、あら不思議かな病者たちどころに回復に及べり。
これを傳聞せる賓客遠近より雲集所願満足の輩、この靈像を民家に安置するは恐れ多しと翌年15年の秋、旧二ッ池西の丘に神祠を營むに至れり。是れ安養寺25世即譽辨我上人の時のことなり。
然るに星霜重ね御堂破損に及ぶれば33世冲譽義觀上人の文化6(1809)年に至り、堂宇の荘厳を加へ、越えて文政8(1825)年靈地を今の地に改め4月8日棟上げをなせり。旧地附近に神久保辨財天坂の地名存するはその由縁による。
辨財天は元来、印度サラスバテー河音を象徴したもので、主として音樂を司り、又招福の神として知られている。この辨財天に緒人祈らば病苦災難悪神の障害を除き子孫長久、商売繁盛の利益を得くこと夢ゆめ疑う事なかるべし。ここに福壽辨財天の来由を述べ、唯々随喜感銘し奉る。
※1 経過年数は令和2(2020)年に合わせ編集