貴方が私を裏切ってること知ってるの。
何故知ってるかですって?
だって、私も貴方を裏切ってるから……。



「欠けたグラス」



戸籍も、住民登録も、免許証や、例えばレンタルカードに至るまで――
彼女の存在を証明出来るものなんて、この世に何一つ無い。
彼女に世間に通用する名前は無い。
あるのは、最低限個々を識別するためにあるコードネームだけ。
「ジン ―JIN―」
それが彼女に与えられたただ一つの存在証明。

何故こんな場所に居たのか、彼女にそれ以前の記憶は無い。
正確には「消された」と言う方が正しいだろう。
ここに居る者たちに記憶などと言う、センチメンタリズムを湧き起こさせるようなものは要らない。
必要なのは、人を躊躇無く殺せる感情の無い心。
ここはいわゆる「暗殺部隊」と言われるところで、この組織に名前などは付いていない。
意図的というより、必要ないから付いていないだけだろうと彼女は思う。
何故なら、ここのことを説明するような状況に置かれることはまず無いから。
万が一そんな状況に置かれたとしても、常に携帯している毒を飲み込むことで言う必要は無くなる。

   カシャンッ!!!

「え?」
自分でも間の抜けた声だと思った。
そうだった、ここは彼の借りてるマンションの一室だ。
あの無機質の空間じゃない……。
「木暮サン!!大丈夫!?ほら、ぼーっとしながら洗い物なんてするから。」
言われて足元を見ると、透明のガラスが砕けて散らばっていた。
「あ、悪い……。ちょっと考え事してた。」
彼女が破片を集めようとした手を、慌ててつかむと彼は言った。
「いいよいいよ、後で俺がやる。怪我でもされたら嫌だもん。んで、どう思う?」
「え、何が?」
「木暮サン、俺の話本当に何にも聞いてなかったの?最近、全然上の空だよなーっ。」
そう言う彼の顔に、言葉とは裏腹な優しい笑みが浮かんでいるのを見て、彼女「木暮陽子」は安心した。
「岸辺、『全然上の空』なんて言う言葉使いは日本語にない。日本人としてどうかと思うぞ。」
「はいはい。木暮サンは細かいなぁ。んなことばっか言ってるとストレス溜まるよ、ストレス。」
降参といった口調で「岸辺恭介」は答える。
「だからね、俺ら付き合ってるわけじゃん?ちょっとはデートとかしたりしようよ。俺、良いところ知ってるしさ、ね?」
「良いところねぇ………。この前も同じ事言って、心霊スポットに連れてったのはどこの誰だっけ?」
「う……。いや、あれはさ。ジョークだよ、ジョーク。今度のは本当の本当に良いところ!ね?行こうよ。」
「……ふん。今度失敗したらただじゃおかないからな。」
「OK!……へへ。」
―本当に嬉しそうに笑うんだな。
つられてこちらも笑いたくなるような……そんな笑顔。

次の瞬間、さっきまで地図と向かい合ってた恭介の顔が目前に迫った。
「…………っ。」
一瞬思考が停止してから、すぐにそれは恋人達の行為であることに気づく。
軽く、触れ合うだけの口付けを交わし、二人の目が合う。
「何で、急に……。」
「……あんまり可愛く笑うもんだから…つい、ね。ごめん。」
陽子はその時になってやっと自分も笑っていた事に気づいた。
―作った笑顔じゃない。今のは自然に……。
   不思議だ。顔の筋肉が、まだ「笑う」行為を忘れていなかったなんて。
「別に……。」
言ってから、素っ気無い返事だったと少し焦って恭介を見やる。
視線が絡み合い、微妙な間が開いた後、また少しささやかな口付けを交わす。


「……楽しみなんだ、本当は。」
唐突に紡がれた言葉を理解しようと、恭介の動作が一瞬止まる。
「え?」
自分の顔が、耳までが真っ赤に染まって行くのが分かる。
「だからっ……その…デ、デート……が。」
語尾の方は聞き取れないほど小さい声だった。
「あっ、で、でも心霊スポットとかはもう………っ!」
陽子は自分を抱きしめた恭介の背中に手を回そうか、逡巡した。
―回せば良いじゃないか。これは任務だ。
   ―――違う。任務でなくても…私は……。

「好きだ。」
「………。」
「木暮サンが好きだよ、俺は。」
「………そんなの…知ってる。」

恭介は背中に陽子の震えた冷たい手が、触れるのを感じた。

欠けたグラスの破片が、二人の姿を薄くぼんやりと映していた。






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