掟を破ったアダムとイヴは楽園を追放された。
アダムをそそのかしたイヴは子を産む辛さを与えられた。
―じゃぁ、あたしは何を与えられるのかしら?
「殺して頂戴」
「標的に近づきすぎるな。」
これが今回の任務に赴くときに、私に与えられた忠告。
この任務は、一人前の組織のメンバーであると私が認められる為に用意されたもの。
こんなに大きな事を任されるのは初めてなのだ。
「組織の事を嗅ぎ回っている奴がいる。接触して、どこまで知ったか、どの機関と繋がっているのか調べろ。
事の詳細がお前の力だけで分からなかったら、後はこちらで調べる。」
「調べられたら?」
「もう用は無い、殺せ。」
「分かりました。」
よくもあっさりと返答出来たものだ。
何の逡巡もなく、何の未練もなく。今思うと不思議でしょうがない。
同じ大学の、同じ学科で「偶然」出会って、その後しばらくして彼が言った。
「木暮サン、俺と付き合わない?」
ごく当たり前のような自然とこうなる事が決まっていたかの様な口調だった。
それは出会って2週間目のこと。
断る理由なんか無い。その方が自分の任務も割りと早く片付くだろう。
「良いよ。」
それだけ答えた。
あれから4ヶ月。本当はもうあらかた調べ終わっていた。
「岸辺恭介」のバックにいる人物も分かった。単独捜査なのかも、どこまで掴んでいるのかも。
バックの人物は予想はついてたものの、やはり「園川武雄」だった。
それなりの権力者で、裏では結構汚いこともやっている。
一番大事なのは、園川は陽子の組織のトップである「唐沢十郎」と敵対しているということ。
多分組織の尻尾をつかんで公表し、唐沢の立場を危うくさせるのが狙いだろう。
組織は闇で活動してるが、その創始者である唐沢は表の舞台で権力を握っている。
陽子が今いる部隊は「暗殺部隊」だが、他にもいくつか部隊が組まれている。
そのどれも、唐沢が権力を握り続けるために結成されたもので、
唐沢が財政界や政府内で優位に立つ為に、人を殺したりもすれば、逆に助けたりもする。
ただ表立って活動しているのは「救援部隊」だけであり、他の「工作部隊」や「暗殺部隊」はもちろん陰の部隊だ。
園川はどういう経緯か、唐沢の裏での行為に感づいたのだろう。
今回の任務は、それに気づいた園川に対する脅しや警告の意味も含んでいる。
どうしてそんなに大きな役が私に回ってきたのか分からない。
誰か違う人だったら良かったのに……。
もう猶予はない。私は彼を殺さなきゃならない。
迷っている時間はない。選ぶ道も……無い。
彼がデートに誘ったのは、都会から5時間くらい車を走らせ所にある県立の総合公園だった。
「よく来るのか?」
助手席に座っていた陽子が、恭介に尋ねる。
「いや、初めて。写真観て、綺麗だなって思ったから……嫌だった?」
「ううん。公園は好きだ。」
「…………良かった。」
ちらっと恭介を盗み見ると、いつもの軽い雰囲気が今は跡形も無かった。
妙に張り詰めている空気を肌で感じながら、陽子は視線を窓の外に移す。
多分二人で出かけるのはこれで最後になる。
きっと恭介も同じ事を考えてるのではないだろうかと陽子は思った。
彼だってぐずぐずしてはいられないだろう。
私から情報を引き出したら、後は彼の後ろについてる奴らに私を引き渡さなくてはならない。
きっとこの公園でそれが行われる。
陽子は太もものホルスターに入れられた冷たい鉄の塊に、短いスカートの上からそっと触れた。
それで恭介の命を奪わなくてはならない。
「着いたよ、木暮サン。」
いつの間にか公園の敷地内に車が入っていた。
車は駐車場には停めないらしい。そこはかなり公園の内部で、あまり人気もない。
「ありがとう。」
助手席の外に回ってドアを開けてくれた恭介にぽつりとお礼を言うと、公園の敷地に足を下ろした。
「このまま少し散歩しようか。」
「迷うなよ?」
「信用ないなぁ。大丈夫だって、これでも方向感覚には自信あるんだから。」
二人を包んでいた重苦しい空気が少し軽くなった気がした。
「木暮サン。」
「何?」
もう30分くらい二人で黙々と歩き続けている。
途中で他の人とはすれ違わなかった。
「木暮サン、俺、木暮サンのこと好きだよ。」
「何だよ、急に。」
陽子の手が太ももの鉄の塊に、無意識に触れた。
「…………ここから真っ直ぐ行った所の突き当りを左に行って少し進むと、小さい噴水があるんだ。
その広場の右側は崖になってて、そんなに急じゃない。で、崖の下は―。」
「岸辺?」
「崖の下は公道になってるんだ。その公道を挟んで公園とは逆のほうに雑木林があってね、
カバーが被せてあるけど、バイクが一台置いてある―。」
「おい、岸辺。」
「キーは挿したままだ。燃料も満タンになってる。」
「岸辺、ちょっと待て。何なんだよ!」
陽子は岸辺の前に回りこんで、彼の顔を正面から見据えた。
恭介は苦しげに笑って見せる。
陽子の肩を両手でしっかり抱え、俯いてから言った。
「逃げて。」
「な……んで。」
「この公園……もう分かってると思うけど、奴らとの待ち合わせ場所なんだ。
俺、ここで木暮サンを引き渡す気だったんだよ。」
「……………。」
「多分もうこの公園は包囲されてる。でも今俺が言ったトコからなら――木暮サンなら逃げ切れる。」
相変わらず恭介は顔を上げない。
「……なぁ、岸辺。騙してたのはお前だけじゃぁ無いんだぞ。私だって、今日お前を殺す気だったんだ。」
手を掛けられた両肩の痛みは、そのまま恭介の痛みである事に陽子は気付いていた。
「分かってる。」
「………一緒に逃げよう。」
恭介が力なく微笑んだ。いままで見たどんな笑顔とも違う、悲しい笑顔だった。
「ごめん。」
「何で?大丈夫だって。あんたを組織に引渡しゃしないよ。二人で……。」
「俺、発信機が埋め込まれてる。一緒に居たら木暮サンまで捕まっちゃうよ、それは困る。」
初耳だった。言いながら恭介が指し示した首の辺りを見ると、確かに手術痕のようなものがあった。
それが妙に痛々しくて陽子は無意識に手を伸ばしかける。
「……あ…でも、私は………。」
「木暮サン、時間がないんだ。もうすぐ、俺が言った道も塞がれる。奴ら必死なんだ、組織の解明に。
捕まったら何されるか分からない。それは俺が嫌なんだよ。逃げてって言うのは俺のわがままなんだ。
お願いだよ。………俺のために逃げてくれ。」
「じゃぁ、私のわがままも聞けよ。……諦めないで、一緒に逃げよう。」
二人の視線が空中で繋がる。
数秒間、どちらも鋭い視線をぶつけ合う。その視線自体がそれぞれの譲れない主張。
先に恭介の視線がずれて、頭が陽子の肩にもたれかかった。
「ありがと。」
そう言う恭介の体を陽子はぎゅっと抱きしめた。
先を急ぐ恭介の背中を見つめながら、陽子は銃を構えなおす。
妙な気配が、確かに背後に感じられる。
噴水の脇の崖を駆け下りてる途中、背後から銃声が聞こえた。
「進んで!!」
先を行く恭介にそう言うと、陽子はチラッと後ろを振り返り自分の9mmオートで応戦した。
ガゥンッ!!
正確に相手の左胸を貫く。
思ったより音が大きく響いた気がするのは気のせいじゃないだろう。
今更ながら、何故サイレンサーをつけてなかったのか後悔した。
サイレンサーをつけなかったのは、彼を殺した後の自分の身の保身を全く考えていなかった証拠だろう。
相手の死を素早く確認すると、斜面を蹴って公道に着地する。
反対側の茂みから大型のバイクに乗って恭介が姿を現した。
崖の上の方から男の声があがり、続いて銃声が響いたかと思うと左頬に鋭い痛みが走った。
構わず恭介の後ろに跨る。
「つかまって!」
陽子が恭介の腰に手を回すのと同時に、バイクが急発進した。
後ろに引っ張られる力を感じながら振り返った陽子は、左手を恭介の腰に回したまま右手で9mmオートを響かせる。
男のうめく声がバイクのエンジン音にかき消された。
再び陽子の両手が恭介の腰に巻かれる。
「驚いた?嫌いになった? 私、たった今人殺しをした手で貴方を抱きしめてる・・・。」
物凄い速さで進んでいくバイクの音に、半ばかき消されながら陽子が言った。
「俺も同じだ。…好きだよ、木暮サン。」
「…………うん。分かってるよ、そんなの。」
本当は何もかも分かってるの。
多分逃げ切れないだろうって言うことも。
どちらかが死ぬだろうって事も。
ごめんなさい、わがまま言って。
ねぇ、もしその時が来たら………殺して頂戴。
←「欠けたグラス」 TOP↑ 「ピストル」→