「悔いのない人生」とは程遠いオレの人生が、どうかこの先あの人を苦しめませんように。
 思い出すのはどうか、笑顔だけでありますように。



あなたの証明 〜7「何処までも」〜




 混濁した意識の波のなかを力づくでかき分けながら、萩野章吾は奥へ奥へと下りてゆく。
 押し返そうとする弱々しい力を感じながらも、そんなものにかまってられる時間は彼には残されてはいなかった。
 執拗に絡みついて行く手を阻もうとする闇色の糸たち。それらを無造作にぶち切っていくと前方にかすかに灯る光が見える。
 あと少し。あと少しだというのに絡まった糸が邪魔して届かない。
「おいっ……おい!!」
 仕方なく声を張り上げる。
 呼びかけに、しかし光は少しの反応も返さない。
 自分を無視するその態度に萩野はムッとなった。
「おい、バカ祐!! 起きろよ祐っ。いつまで寝てんだよこの弱虫! 逃げてりゃ解決するとでも思ってんのかよ。起きろよバカ!!」
 あえぐ喉から魂がどんどん流れ出している気がした。時間がない。もう、声を出すのがやっとだった。
「起きろよ……、お前」
 ずるりと膝が崩れ落ちる。糸にすがり付いた手に力が入らない。
 頼りない光が、一瞬まばたきしたような気がした。
「お前、先輩これ以上泣かせたら……化けて出てやるからな! 一生つきまとってやるぞ! ……だから、起きろよ祐」
 瞬間、光があたりを埋め尽くす。
 一面に根を張っていた糸がぼろぼろと崩れた。
 糸をつかんでいた萩野が支えをなくして倒れる。その体を、そっと誰かが抱きとめた。
「………祐」
 仰ぎ見ると、懐かしい顔がそこにあった。どうしようもなく涙がこぼれ落ちる。
「悪かったよ、祐。死んで、ごめん。……謝るから、お前は起きろよ」
「……章吾、謝るのは僕だ。謝るのは、僕だ」
 違う、と言いたかったがもう声を発する力は残されていなかった。
 松岡祐は見ているこちらが情けなくなるくらい、ぐしゃぐしゃに顔をゆがめて言う。
「怖かったんだ。このままずっと、僕は章吾を支えていけるのか、とたんに怖くなったんだ。……手を、放さなければ良かった」
 さきに手を放したのは自分のほうだ。
 信じられなかったのは自分のほうだ。
 言いたいことが、たくさんあった。やりたいことが、まだ山ほどあった。
 でも、伸ばした手がはしから闇に溶けて消えていく。まるで糸をほどくように、萩野の体は少しずつほどけていった。
 唐突に理解した。
 この世界に戻ってきたのは、死んだはずの自分が祐の体を借りて戻ってきたのは、復讐のためでも心残りを消すためでもない。
 松岡祐を赦すためだったのだ。
 そのためにもう一度、死んだはずの自分は戻ってきたのだ。
 だったら、まだ言うべきことがあるはずじゃないのか。
 萩野は最後の力をふりしぼって口を開いた。
「………祐、大好きだ。大好きだよ、祐」
 なんだかこれじゃ、告白みたいだ。と、笑いがこぼれた。
「お前を、ゆるすよ。起きてくれなきゃ……恨むかんな」
「章吾、……言ってることが、めちゃくちゃだよ」
「うるせえよ」
 笑った萩野の意識が呑まれていく。
 ほどけた萩野の体が白い糸になって上っていく。祐は無意識にそれをつかんだ。ふわりと体が持ち上がる。闇のなかを上へ上へと糸が導く。

「ありがとう、章吾」

 糸が、応えるように揺れた気がした。







「――……う、祐、祐ッ!!」

 かすかに頬が動いた気がして、恵は必死で弟の体をゆすった。冷たかった肌が、しだいにぬくもりを取り戻してゆく。
「……ん…」
 松岡祐の口から音がこぼれる。
 ほそく目が開き、眩しそうに彼はニ、三度まばたきをくり返した。
「………ゆ、祐……?」
 こんな問いかけはおかしいと思いながらも、恵は確かめずにはいられなかった。
 強く握った手が、頼りなく握りかえされた。
「章吾……行っちゃったよ……」
 ぼそりと落とされる乾いたつぶやき。
 わかっていた。
 わかっていたけれど、やっぱり哀しい。やっぱり、哀しい。
「僕、目覚める価値なんてなかったかもしれないのに……章吾が、あのまま、僕の体……使ってくれても――」
「……っんの、大バカ者!!」
 口と同時に思わず手も出ていた。バシン、と見事な平手が祐のほおに飛ぶ。
 祐は完全に覚醒した様子で、むくりと体を起こした。
「今度……今度そんなこと言ったらゆるさないから」
「……ごめん」
 神妙にうなずく彼はすっきりした表情をしていた。もしかしたら、ただ殴って欲しいだけだったのかもしれないな、と恵は思った。
 顔を上げた祐が恵の顔を見たとたん青くなる。
 具合が悪いのか、と慌ててたずねた恵の言葉に彼はふるふると首を振った。
「泣かないでよ、恵ちゃん。恵ちゃんに泣かれると……章吾に怒られる」
「なにそれ」
「泣かせたら、化けて出てくるって言ってた」
「なにそれ……、人のことばっかり」
 言ってから、また涙があふれてくる。
 祐が肩をそっと抱く。もたれかかるようにしながら、恵は言った。

「私たち絶対忘れないの、萩野クンのこと。彼が確かに生きたってこと、私たちは絶対忘れちゃいけないの。消させやしないわ、萩野クンが、生きてきた『証し』は……」

 いつの間にかスコールのような雨はやんで、さっきまでの曇天が嘘のように空は青々と輝いていた。
 雲間から差しこむ白い光が、誰もいない校庭にぽつぽつと光の水玉をつくっている。

「忘れないわ」

 もう一度、確かめるように恵は言うと、弟の手をとって歩き出す。
 からりと晴れたこの空が、萩野の答えだったら良いとなんとなく思った。






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